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褒められること、叱られること

I haven’t got much time to waste,it’s time to make my way
I’m not afraid of what I’ll face, but I’m afraid to stay
I’m going down my own road and I can make it alone
I'll work and I'll fight, Till I find a place of my own
Are you ready to jump?
わたしには無駄にしていい時間なんてない、だからもう始めなきゃ
立ち向かっていくことは怖くない、怖いのは、いまのままでいること
わたしは自分の道を行くし、ひとりだってかまわない
わたしはがんばるし、闘うつもりよ。自分の居場所が見つかるまで
あなたにジャンプする用意はできてる?

―― Madonna "Jump"

褒められて叱られて


1.「褒められて伸びる」の反対は?


以前あるアンケートを見ていたら、「あなたは褒められて伸びるタイプか、批判されてがんばるタイプか」という質問項目があった。

そういえば、数年前から「わたしは褒められて伸びるタイプなんです」という言い方を急に耳にするようになった。それを聞くたびに、“「わたしは褒められて伸びるタイプ」だから、がんばった自分を褒めてほしい”、つまりは“自分の努力を、がんばった自分を認めてほしい”という意味だろうと思っていたのだが、どうもそうではなかったようだ。

たとえ自分の書いた答案や仕事の出来が芳しいものでなくても、“「褒められて伸びるタイプ」だから、良いところを探して褒めて、悪いところの批判はしないでくださいね”という意味だったか、と気がついた。

その物言いのムシの良さはさておいて(笑)、「褒められて伸びる」ことと「批判されてがんばる」ことはほんとうに対義関係にあるのだろうか。
「褒められて伸びる」の反対は、「褒められるとすぐにいい気になってダメになる」
「批判されてがんばる」の反対は、「ちょっと批判されるとすぐにくじけてしまう」
ではあるまいか。

「褒められて伸びる」力を持っている人なら、「批判されてもがんばる」だろうし、
「褒められるとすぐにいい気になってダメになる」程度の人は、おそらくは「ちょっと批判されるとすぐにくじけてしまう」はずだ。
となると、なぜ本来なら対立関係にはないふたつの文章が、ここでは対置させられているのだろうか。

察するに、このアンケートが対象としているのは、教えや指導を受ける側のようだ。ところがアンケートの作成者が忘れていることがひとつある。教えや指導を受ける側というのは、現状、何かができていないのだ。それができるようになるために、つまり現状から脱却するために、教えや指導を受けている、という大前提だ。すでに何かが十全にできているのであれば、褒められる必要も批判される必要もない、つまりは指導そのものを受ける必要はないのだから。

教えられている側は、何よりも、いまの自分のどこがダメなのかわかっていない(だからうまくいかない)。となると、教える側・指導する側が最初にやることは、「どこがダメなのか」の指摘で、それをして初めて、つぎのステップ「その状態を改善するにはいったいどうしたらよいのか」に進んでいけるのだ。「批判」や「ダメ出し」はその第一ステップにほかならない。

結局、教えられる側は、自分のダメなところ、できないところに向き合わなければどうしようもない。先生や指導者が仮に優しい言葉遣いをしてくれたとしても、できない箇所・ダメな箇所の指摘は、おもしろくないし、つらいことだし、屈辱を感じるし、自分が情けなくなって落ち込みたくもなるだろう。だが、できない自分をつきつけられることは、何かを学ぼうとすれば避けては通れない。どこまでいっても、ここから先はできてない、ここから先へはいまのままでは進めない、という関門はついてまわる。逆にいえば、「できる」状態というのは、「ある一線を越えては行けないけれど、そこまでならできる」という見極めがつけられる、ということでもある。

ところが「わたしは褒められて伸びるタイプなんです」という発言は、あらかじめ相手からの批判やダメ出しや叱責を封じようとすることにほかならない。悪いところの指摘なんてしないでください、良いところだけ指摘して、褒めて気分良くしてください、そうしてくれればがんばることもできるんです、と言いたいのだろう。

でもなあ、と思うのである。悪いところが一箇所もないのなら、もうそれは放っておいてもいいのだ。批判の必要ない段階というのは、すなわち教えも指導も必要のない、教えや指導からの卒業を意味する。教わる必要がなくなった、というのは、自分が自分に対してダメ出しができるようになる、というだけの話なのである。そこまで行くには実際大変なのだけれど。

誰かに教わるということは、できないところ、ダメなところ、おかしな考え方をしているところ、筋道を見失っているところ、自分に欠けているところ、劣っているところ、考えの及ばないところ、気がついていないところ、知識のないところを指摘してもらい、理解の至らない箇所を理解し、誤っている箇所を改める、ということなのである。

もちろん教える側は、よくできている箇所や、よく考えられている箇所も指摘するかもしれない。教えられる側はそれを「褒めている!」とうれしくなるのかもしれないのだが、実際には「できていないところ」と「できているところ」の区別をするためにやっているだけに過ぎない。たまたまできたところを、そのやり方で正しい、と相手に認識させるために「ここはよくできている」と指摘するのである。

つまり、「褒める」も「批判する」も、同じことを別の角度からやっているだけで、対義関係ではなく同義関係にあるのだ。ところが、ヘタに褒めると、ウカウカと喜んでしまって、肝心の「できていないところ」を見落とすという危険はついてまわる。未だ全体を見渡すことができない状態にいる教わっている側は、そんな見極めなどつきはしないのだから。いきおい、教える側は「ここはできてない」「ここも」「ここも」と指摘する羽目になるし、教えられる側は「ここはできてるのに……」とふくれっつらをすることになる。

批判されたくない、悪く言われたくない、欠点を指摘されたくない、それは誰だって同じだ。けれど、できないことができるようになったときの喜びは、どんな褒め言葉よりうれしいはずだ。褒め言葉は良い気分にしてくれるだけだが、叱る、批判する、ダメ出しする、そうした耳に痛い言葉は、自分をそこへ導いてくれるものなのだ。教える側としてはそのことを言いたい。声を大にして言いたい(笑)。
だが、教えられる側は、なかなかわかってくれない。この断絶は、いったいどこから来るものなのだろう。


2.あなたのため


確かなことは、人を教えるという経験は、ものごとの見方をまるで変える、ということだ。まずはわたしの経験から話していこう。

十代の終わりに小学生や中学生に勉強を教えるようになって、最初に考えたのは、何かで注意したあと、「これはあなたのためを思って言っている」と言わない、ということだった。

それに付随して、仮に注意して相手が聞き入れず、その結果失敗したとしても、「そうなると思っていた(わかっていた)」と決して言うまいと考えた。「あなたのため」も、「そうなると思ってた」も、共に自分が言われて、深い憤りをもって、胸に刻んできた言葉だったのだ。

何がほんとうにわたしのためになるのか、いったいどうして他人にわかるというのだろう。わたしが間違っているから注意する、それで十分じゃないか。先生という責任においてそう言っているのだから、そんなおためごかしを口にする必要なんてまったくないじゃないか。教えられる側にいたわたしは、いつもそう思っていた。しかも失敗した結果によって、わたしは十分屈辱を味わっているのである。そこへ「そうなると最初から思っていた」と追い打ちをかけるなんて、意趣返しでしかないだろう。

教える側に回ったら、絶対にそんなことを言う先生にはなるまい、と、固く、固く決意したのである。

ところが、である。
実際に教える側に回ってみると、そう言いたくなる局面は確実にあるのだ。
注意すると、とたんにふくれっつらになる教え子たちに、何とか自分の言うことに従わせようと、なだめたりすかしたり。「ここまではよくわかっている」と途中まで認めておいて、「でもね…」とわかっていないところを指摘しようとしても、「よくわかっている」と褒めたことに気をよくして、あとは聞いちゃなかったりすることも少なくなかった。

だから厳しめに指摘すると、こんどは腹を立てたり泣いたりする。そんなとき、「あなたのためを思って言ってるんだよ」と喉元まで言葉が出かかる。「何がほんとうにわたしのためになるのか、他人にどうしてわかるだろう」なんて大仰なものではないのだ。そのやり方では答えまでたどりつけない、だからこうしなさい、と言っているだけなのに、なんでそれを聞いてくれない……と泣きたいのはこっちなのだ。

苦し紛れに「あなたができない子だから言ってるんじゃないんだよ、やればできるってわかってるから、こうやってみなさいって言ってるの」と言ったこともある。もうこうなれば「あなたのためを思って……」まであと一歩である。

教科書をマーカーできれいに彩ることに、やたら熱心な子がいた。マーカーの色なんてどうでもいいから、線を引くより、そこに何が書いてあるかを覚えなさい、と言っても、言うことを聞かない。緑のマーカーに合うのは何色だろう、と考え込んだりしている。

あっという間に定期試験の日がやってくる。確かに教科書もノートも絵本と見まごうばかりに色とりどりで美しいが、案の定、頭にはちっとも入ってない。マーカーなんてどうでもいい、線の色を考える暇があったら、問題をひとつ解きなさい、と怒ってみても、自分のやり方を改めない。当然試験はひどい点数だ。「だからあれほど言ったでしょ!?」と言いたい衝動をぐっとこらえたこともある(言ったかもしれない)。

教える側から見れば、わたしも同じだったのだ。そういうことをやっていればどうなるか、通り過ぎた人間からは火を見るより明らかなのに、「何がわかるっていうのよ」と聞く耳を持たなかった。「あなたのため」という言葉に潜む欺瞞性を見つけた気がして、得意になっていたのだ。……ああ、バカだ。

だが、教える側は、自分が教えている子に「できる」ようになってほしいのだ。「あなたのため」はおためごかしなどではない。教える側だって評価される。「できない子」を「できる子」にすることができるのが良い教師なのだから、良い教師と評価されるために、「あなたのため」にどうしたらいいのか、知恵を絞って考えているのだ。

少なくとも、何が「あなたのため」なのか、教える側にはわかっている。多くの場合、そんな複雑な話をしているわけではない。たかだか問題の解き方だったり、勉強のやり方だったり、極めて限定されたことなのだから。

かつてのわたしは、なんと傲慢で、何もわかっていない生徒だったのだろう。わたしは深く深く後悔した。

そのときはっきりと理解したことがある。教えられる側というのは、自分がいま何を言われているか、何を教わっているか、決して完全には理解できないのだ。何を批判されているか、何を褒められているかも、完全にはわかっていないのだ。

それを一部分は丸飲みし、一部分はわからなさを保留しながら、何とかつぎの段階に進む。そうやって初めて、自分が何を習ったかが見えてくる。さらにそこから自分があとから来る人を教えられるぐらい力がついたところで、教える側にまわる。そのとき初めて、自分が教わったこと、言われたことが十全に理解できるのだ。

ここから言えるのは、教える側がどこに問題があるのか、具体的に見えているのに対し、教えられる側は、それを指摘されても漠然としかわからない、ということだ。その結果、教える側が言っているのは具体的なことなのに、教えられる側は、「褒められた!」「叱られた……」という印象しか受け取れない。だからこそ、具体的なやり方の問題点を指摘されているにもかかわらず、「何がほんとうにわたしのためになるのか、いったいどうして他人にわかるというのだろう」という的はずれな不満を持つ、ということが起こるのだ。「わたしって褒められて伸びるタイプなのに」も、同じく的はずれな不満なのである。


3.褒めた方がいいの?


最初の「褒められて伸びる」という言い方に返ってみよう。これ自身は、はなはだ漠然とした言葉である。「褒める」は具体的な何かの行為に関する評価であるにもかかわらず、ここでは何についてかが限定されていないし、さらに「伸びる」がいったい何を指しているのかも定かではない。漠然とした印象に過ぎない。

けれども、褒める側、叱る側からしてみれば、具体的な行為に関して褒めたり叱ったりしているのだ。教える側からすれば、場面や相手によって「褒める」ことと「叱る」ことを使い分けているだけで(その使い分けがうまくいかないことも多いのだが)、漠然と「褒め」たり「叱」ったりしてはいない。仮に、「大丈夫、あなたならできるよ」という漠然とした言い方になっていても、教える側は具体的な根拠があるのだ。もちろん、無責任にハッパをかけているだけのこともあるけれど。

そうして、多くの人は経験を積むことによって、教えられるばかりの側から教える側へとシフトしていく。学校で学年が上がり、仕事を任され、子供を育てることを通じて、誰もが「教えること」を経験していくことになるのだ。そうしていくうちに、「教える」―「教えられる」ということが、漠然とした印象から具体的な行為へと、その人のなかで確かなものになっていくのだ。

だから、「わたしは褒められて伸びるタイプなんです」というのは、まだ、教え、教えられるということがどういうことなのか、まるでわかっていないことの表明にほかならず、そんなコドモは「あんたもそのうちわかってくるよ」と放っておくしかない……のかもしれない。

だが、どういうわけか「褒める育児」だの「本校のモットーは“褒める教育”です」だの、「良い先生は褒め上手」などという抽象的で曖昧な物言いが大手を振ってまかりとおっている。まあ、スローガンというのはこうしたもの、と言ってしまえばいいのかもしれない。かのオバマ大統領だって、大統領になる前は“Yes, We can." と言っていれば良かったのだから。だが、そうした物言いを額面通り受けとって「褒めることは良いこと」「叱ることは良くないこと」という価値判断が生じるのは、いかがなものだろうか。

「褒める」ことは良いことだ、と主張する人は、褒めることによって、教えられる側のやる気を引き出すことができる、と考えるからだろう。逆に、叱ってばかりだと教えられる側もやる気を失ってしまう、と。例のあれだ。「ブタもおだてりゃ木に登る」というのの言い方を、多少変えているわけだ。受ける印象はずいぶんちがうが。

「褒める育児」を主張する人に対しては、あんたは子供をブタ扱いしてるのか? と言ってやるだけで十分なような気もするが、ここではもう少しその「やる気」ということに関して考えてみたい。


4.「やる気」ってどんな木?


わたしたちは日常的に「なーんかやる気が起こらないんだよね」というふうに「やる気」という言葉をあまり深く考えることもなく使う。ちょうど、脳から「やる気」が身体のすみずみまで行き渡って初めて、行動が起こせるかのように。

だが、ちょっと待ってほしい。お腹が空いたから何か食べようと思う。「やる気」を出して、冷蔵庫に何かないか確かめてみよう……という使い方はしない。小さい子が階段で足を踏み外した。あっ、危ない。「やる気」を出して、手を差し伸べなくては……という使い方もしない。コンサートでいい演奏を聴いた。感動した。「やる気」を出して拍手しよう……という使い方もしない。お腹が空いたことも、危機に際して体が動くことも、反射的な行為だ。コンサートで夢中になって拍手するのは、今まで聴いていた音楽に突き動かされてのことだ。

同様に、受験が目の前に迫っている受験生が勉強しているのも「やる気」が出てきたからではない。だが、試験などまだ先の話、定期試験まで日数もある。勉強しなくてはならないのだが、もうひとつ「やる気」が起こらない。こういうとき初めて「やる気」という言葉が登場する。

つまり、「やる気」は行動を起こさせるものではない。そうではなくて、何かをしたい、という意思はあっても、それが行動に結びつかないとき、その結びつかない理由を説明するために持ち出されるものなのである。

実際には、何かをしたいという気持ちがあっても、行動に結びつかないのは、さまざまな理由がある。単に、時間に猶予があっていまはまだせっぱ詰まってない、というだけのこともあるが、やり方がわからない、どこから手をつけてよいのか見当がつかない、ある程度まで進んできたけれど、急に先が見えてこなくなってしまった……などという、明らかに困った情況のこともある。実は「やる気がない」という言葉で漠然と言い表されているのは、具体的にはさまざまな理由から、わたしたちが行動不能に陥っている状態なのである。

確かに、一生懸命練習している人を目の当たりにして「やる気」がわき、自分も練習を始めた、ということもある。だが、これは「やる気」が自分を練習に向かわせたというより、がんばっている人の姿が自分の中に引き起こした感動から生じた行為といえよう。人に刺激されて練習を始めたとしても、そこから先の筋道を見失えば、またわたしたちは「やる気」を失ってしまう。

わたしたちは、外部のさまざまなことに刺激されて、心が動く。そこから何かをしてみたいと思う。そこで、これまで知っているやり方をそれに当てはめて、実際にやってみる。ところが、かならず「知っているやり方」ではどうにもならないところに逢着する。そこで打開策が見つからなくなって、さらにその状態が続いて見つかりそうな気もしなくなったとき、「やる気」が失せるのだ。

そう考えていけば、「やる気」を起こさせるということは、指導する側がつぎに進むべき適切な方向性を提示してやることにほかならない。

たとえば「プロ」と呼ばれる人が、「やる気が出ない」状態に陥らないことを見ても、これは明かだろう。プロはいつもやる気があるのではなく、技術や理解がある程度進んでつぎにどこへ向かえばいいかわからなくなったとしても、そこから自分で脱出できる、だから「プロ」なのである。

同様に、経験が進めば進むほど、わたしたちは自分で「何とかすること」を求められる。「やる気」が云々されるのも、せいぜいが大学生と入社一年目くらいの新入社員までだろう。「やる気」が出なくても、すなわち、自分がつぎに何をやればいいかわからない段階に達したとしても、経験を重ねた人は、それを自分で打開することが求められるのだ。

漠然と「褒める」ことは刺激になるかもしれない。あるいは逆に厳しい言葉で「叱る」ことが刺激になるかもしれない。だが、そのことと、行き詰まった状態を打開することの間には、何の関係もない。現実には、どれだけおだてたところでブタは木には登らない。


5.両方の立場に身を置く


おそらく誰もが歳を重ね、経験を重ねて、教えられる側から教える側へ、指導する側、育てる側へと重心を移していく。そうすることで、それまでの自分がいた「生徒」という枠組みの外に出て、その「生徒」という枠組みを外から眺めることができるようになる。言葉を変えれば、当時はただ、これはこういうことだ、とだけ考えていたことを、さらに大きな文脈に置いて、全体の中でそれはほかのこととどのような関係を持っているか、それを成り立たせるためにはどのような条件が必要なのか、ということが見えてきた、ともいえる。

それでも、どれだけ経験を重ねても変わらないのは学ぶことだ。学ぶことによって、漠然とした印象を、具体的な言葉へと組み立てていく。現実の中にある論理を明らかにしていく。そうやって、現実に起こるさまざまな問題を対処していく力を養っていくのだ。経験を重ねるということはそういうことだし、だからこそ、人を指導することができる。

教えられる側にいる人はまだ、よくわからないかもしれない。けれども、褒められようが、叱られようが、批判されようが、そんなことは些末なことだ。問題は自分がどこまでできて、どこからができないかを見きわめ、できる領域を広げていくことだ。

だが、そんな具体的な指摘を含まない、漠然としたものなら、褒め言葉だろうが批判だろうが、そんなものは無視してかまわない。教える立場になくても、そんな力もなくても、そういうことを言いたがる人はいるものだから。その褒め言葉や批判が、具体的なものか、印象批評に留まったものなのか、見きわめていってほしい。

漱石は、芥川宛の書簡の中で、こう言った。

あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。

(大正五年八月二十四日 芥川龍之介宛書簡)

「褒める」でもなく、「批判する」でもない、ただ深く心にしみる言葉である。そうしておそらく芥川も深く感銘を受けたにちがいない。だが、あれほど聡明だった芥川なのに、彼自身は、こんな書簡をもらっても、その言葉を十全に実践するところまではいかなかった。自分のある限界まで達し、その枠組みを作りかえていくことが求められたときに、それをすることはできなかった。教えを実践することがどれほどむずかしいことか、改めて思い知る例である。
だが、それでも――。






初出July.1-3, 2009 改訂May.13 2010

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