うわさ話の値段
もし夢を手に入れたなら
たとえすべてを失ったとしても
その代償は払うだろう
事前にその費用を計算する者はいないけれど
―― Rush "Bravado"
1.情報が通貨になったとしたら
高校時代、フィリップ・K・ディックやレイ・ブラッドベリなどのSF小説をしきりに読みふけった時期がある。そうなると、自分も何か書いてみたくなるもので、暇さえあれば、ああでもないこうでもないと頭の中でさまざまな「近未来」を空想していたものだった。
ひとつ思いついたのが、「情報」が通貨の代わりになる社会である。
個々人が入手するさまざまな情報を、それを査定してくれる場所に持っていけば、情報のランクに応じて物品と交換してくれる。隣のネコが子猫を産んだ、という情報はほとんど何とも交換できないが、そのネコが血統書付きで、飼い主が繁殖目的で育てていたのに、ついうっかり目を離した隙に家出して、戻ったときにはもうお腹が大きくなっていた、子ネコの模様から見ると相手は……となると、価値が出てくるし、さらに、気をつけていたその家の奥さんが、うっかり目を離したのは、実はそのあいだに……という情報になると、いっそうその情報価値は高くなる。隣家が芸能人となると、ネコの出産というだけでもステーキ用の肉がもらえるし、そのネコの出産にまつわる裏話となると、どんどん値段はつり上がる。それがスキャンダルに結びつこうものなら、最高級ランク、クルーザーあたりと交換してもらえる。
当然そうした「情報」に高い価値の置かれる社会であるから、人々の情報の取り扱いは慎重をきわめる。たとえネコの出産程度でも、人はなるべく隠そうとする。それでも洩れ出す情報に、高い値がつくのである。
そうしたなか、どうかした拍子に国家機密を知ってしまった主人公、命をねらわれることになり、ピンチにつぐピンチなのだが、最後にそれを新聞社に無事持っていく。それでめでたしめでたし、となるのだ。
最後の「新聞社」のくだりは、スティーヴン・キングの『ファイア・スターター』そのままだ(笑)。
そこまで考えたのだが、国家機密をどうするか、一般人である主人公がどうしてそんな国家機密を知ってしまうのか、さらには「情報の査定」というのは、いったいだれがするのか、などと、考えてもそこから先はいっこうに具体化せず、結局は頭の中でひねるだけで終わってしまった。
ただ、そのころから「情報」は価値がある、というか、情報は一種の力となりうると考えていたのだ。
そうした時期を過ぎ、やがてSFもほとんど読まなくなってしまったころ、あらためて情報の持つ力のようなことを考えたことがあった。身近に、ふとしたことから「上」の人間の不行跡を知った人物が現れたのである。その不行跡というのは、良識的には多少問題になるようなことではあっても、刑法的な罪にあたるような性質のものではない。だが、その人物、ここでは仮にAとしよう、Aはそれを知るやいなや、「大変! 大変!」と仲間内にふれまわり、いったいどうしたらいいものだろう、と喧々囂々、大騒ぎになったのだった。
Aを中心に、こういう不行跡はわたしたち全体の問題だ、倫理的に許せることではない、と、舌鋒鋭く主張する数人がいた。Aたちは、その出来事をどうするか決めるまで、わたしたちに絶対口外しないように強く求めた。つまり、その情報を「秘密」の状態に保っておこうとしたのである。
だが、もちろん彼らはいつまでもわたしたちの間だけの「秘密」にしておくつもりはなかった。一番効果的なやりかたで、つまり、わたしが昔考えたSFの世界流に言えば、どこが、そしてどうやったら一番価値のあるものと交換してくれるか、と考えていたのである。
こういう書き方が公平ではないのはわかっている。もちろん彼らを駆り立てていたのは、「本来なら一同に範を示すはずの「上」にある人間が、このような不行跡をなしている」ことに対する道義上の怒りだったのだろう。
だがわたしは、とうていそれだけではないように思っていた。言ってみればその人のプライヴァシーに属するようなことがらにずかずかと踏み込んでいって、不正だの倫理だのと言いながら、実際には、ふだんなら自分の「上」にいる人間の生殺与奪を自分たちが握っていることの力の感覚を、舌なめずりせんばかりに楽しんでいるように思えてならなかったのである。
上層部に訴えて、しかるべき処置をしてもらおう、だがそのときに、自分たちが訴えたことが件の人物にわかって、自分たちへの評価となって返ってくるようなことは避けたい。となると、密告の手紙を書くのが一番ローリスクハイリターンではないか、という、わたしの目から見るとひどくおぞましい意見が、危うく通りかけた。まあいろいろ経緯があって、そうはならなかったのだが、わたしの知らないところで、実際に何らかの行動に出た人間もいたのかもしれない。
ともかくそれ以降、その「上」の人間に対して、わたしたちが知る限りでは処分のようなものはなかったし、その人物の行動にも目立った変化はなかった。つまり、その情報が、ごく狭い範囲を超えて影響力を持つことはなかったのである。おそらく彼らはさぞ失望したことだろうが、品性の卑しいわたしは、しばらくいい気味だと思っていた。
この出来事を通して、わたしはふたたび情報の持つ「力」ということを考えるようになった。どうしてある種の情報は価値を生んだり、力の感覚をもたらしたりするのだろう。そうしてまた、Aが「価値ある情報」と考えた出来事を、わたしは不快に思ったのだろう。ここではそういうことを考えてみたい。
2.大いに噂されるのは?
キッチュ、とわたしの頭の中にはインプットされているので松尾貴史と書くとイマイチしっくり来ないのだが、そのキッチュ、というか松尾貴史の『業界用語のウソ知識』の「宗教」という項目には、こう説明書きがしてある。
【宗教】
芸能人が関わったときのみ、犯罪のように扱われてしまう活動、または団体。「カツラ・植毛」「ホモ・レズ」に並んで、本人のいないところでは、大いに噂される題材の一つ。
(松尾貴史『業界用語のウソ知識』小学館文庫)
芸能人ばかりではない。一般人であっても、宗教、「カツラ・植毛」「異性関係」(同性関係というのは、ちまたではそんなにあちこちに転がっている話ではないので、噂されるのはこちらのほうだ)の三つが大きな柱と言えるかもしれない。
それも、あの人は熱心なクリスチャンで、毎週日曜日になると教会に通っているとか、DSで般若心経を写経しているというたぐいの宗教ではない。いわゆる「新興宗教」というやつである。新興宗教の信者という「情報」はなぜか価値のある情報として、声を一段落として「だってあの人は××だもの」「ええっ、そうなの?」となって、わたしたちのあいだをかけめぐる。
わたしたちはどこで線引きしているのだろう。
ある種の信者は別に秘密でもなんでもなく、別の信者は秘密になってしまう。言葉を換えれば、彼が信者であるという情報は、その宗教によって価値は一様ではないのだ。
秘密にはならない方の信者に対しては、いまのような時代に信仰を持っている人として、わたしたちの多くは、そこはかとない畏敬の念を抱くのに対し、声を潜めて噂する信者の宗教は、キッチュの定義ではないが、どこか「犯罪のように扱」ってしまう。
こう書くと、現実にそうした宗教が、ツボを法外な価格で売ったり、オウム真理教のように地下鉄でサリンガスを撒いたりしたではないか、現実に犯罪行為を犯しているではないか、と言われそうだ。けれども、事件を起こす前から、わたしは駅前で選挙活動をやっている彼らを、そういう目で見ていたし、最近になるまで団体の正式名称さえ知らなかった、「ほんとうの幸せは何だと思いますか」とクリップボードを持ってキャンパスに立っている、地味でまじめそうな女子学生にさえ、そういう目を向けていた。「あの人は××なんだって」という情報は、本人がそれにまつわる活動を実際には何一つしていなくても、みんなが知っていた。あるいは、芸能人の誰かが特定の宗教の信者であることが、わたしたちにどこまで直接的な害を及ぼすのか、わたしにはよくわからない。
その人物が信仰を持っているからではない。教義を批判できるほど、その内容を知っているわけでもない。そもそも自分自身、信仰を持つことをどう考えて良いのかもよくわかっていない。なのに特定の宗教の信者であるというだけで、どうして「大いに噂される」のだろう。その情報がどうして価値を持つのだろう。
3.情報価値のある話
わたしたちは「情報価値」というのは、その内容によって決まるものだと思っている。もちろん「掃除をするときの重曹の使い方のコツ」というのは、重曹で掃除をしようと考えているたい人には有意義な情報であるが、掃除にマイペットを使う人や、掃除してくれる人を雇う資力のある人や、そもそも掃除をしない人にはなんら価値のある情報ではない。つまり、わたしにとって「価値」ある情報も、かならずしもほかの人にとって価値があるとは限らない。逆に言うと、その人がどんな情報に価値を置くかは、その人がどんな人であるかを物語る目安でもある。
ところがある種の情報は、内容より先に価値が決まっている。別に読者が「特ダネ」と認定したから、その記事が「特ダネ」の価値を持つわけではないように。「スクープ」は、あらかじめ「スクープ」として、「秘密」は「秘密」として、わたしたちのもとに届けられるのだ。
よく「犬が人間に噛みついても記事にはならないが、人間が犬に噛みついたら記事になる」と言うが、単にそれがめずらしいからというだけで、情報価値があることにはならない。試しにやってみてください。犬に噛みついた写真を記事にしてください、と新聞社に送っても、絶対に記事にしてもらえないから(ただしその判断は別の観点からくだされるような気がするが)。それと同じで、どんなにめずらしい出来事でも、ただ、めずらしい、というだけでは、一切情報価値は認めてもらえない。
ところでこの「秘密」を聞いたら、どうして人にしゃべりたくなるのだろう。
それは、自分はほかの人が知らないことを知っている、ということを、ほかの人に知ってほしいからだ。
「わたしはあなたが知らないことを知っている」ということは、「わたし」を「あなた」より優位に置く。だが、自分一人優越感に浸っているだけではわたしたちは満たされない。「あなた」に認めてほしい。だから、「わたしはあなたが知らないことを知っている」と相手に告げずにはいられない。
「わたしね、あの人の秘密を知ってるの」
相手の驚いたような顔。この顔が見たかった。
「何? 何? 教えて!」
だが、このとき、相手が聞きたがっている情報でなければ、なんだ、そんなことか、ということになる。自分の優位を認めてもらえる情報は、「わたし」に価値ある情報ではなく、「あなた」が聞きたい情報でなければならないのである。
わたしたちは、自分ではない「他の人」が聞きたい話を「価値ある情報」、もしくは「秘密」として認定しているのだ。単に人が知らない情報を知っているだけではなく、おそらく知りたがるであろう情報をわたしたちは求めるようになる。
だが、相手が何を求めているかを読むのは、明日の天気を予報するよりむずかしいような気がする……。
だがほんとうにそうなのだろうか。
逆に、聞き手としての自分のことを考えてみよう。わたしたちは自分ひとりが蚊帳の外に置かれたくはない。みんなが知っていることは知っておきたい。だから情報に遅れまいと、新聞や雑誌、ニュースサイトに目を走らせ、人のうわさ話に耳を傾ける。
わたしたちが知りたい情報は、実は「みんなが知っている情報」なのである。「みんな」がやがて知ることになる、けれど、いまはまだ「みんな」は知らない情報。
そうやって送り出されるのが「特ダネ」「スクープ」「ゴシップ」なのである。このような情報は、「価値のあるもの」として流通することになっている。だから、それをひとあし先に手に入れた「わたし」は、安心して「ねえねえ、この話、知ってる?」と送り出すことができるのだ。聞き手も、ほんとうに自分にとって価値があるか、とか、自分はそのことを知りたいのかということは脇に置いて、目を輝かせて聞き入るのである。自分がつぎにその情報の送り手になるために。
さて、ところで「わたし」がうちあけた秘密を、「あなた」は驚きの目で聞いてくれた。賞賛するようなまなざしも贈ってくれた。ところがこれを打ちあけた瞬間、秘密は共有されて「わたし」の優位性は消滅する。だから、この優越感を味わうためには、つぎなる標的を探し、もういちど「わたしね、あの人の秘密を知ってるの」と言うことになる。かくして秘密は万人の知るところとなり、その役目を終えてしまう。キングの『ファイア・スターター』で最後に主人公が新聞社に駆け込むのも、新聞で報道してもらって、国家機密という情報をあまねく人の知るところのものとして、機密としての価値を無化させることによって、自分を救おうとするのだった。
その情報をもとに、何かを考えたり、知識を得たり、それを生かして何かを作ったりするような情報がある。そういう情報は、ほかの人が知りたがろうが興味がなかろうが関係ない。わたしにだけ価値のある情報だ。もちろんそれを知りたがる人が、自分以外にも出てきてくれればうれしいし、情報を共有することは楽しい。それでも、その情報が、ある時期をきっかけに、瞬く間に価値を失うことはないし、その情報を持っていることが、自分自身を貶めるようなものではない。
だが、人と人のあいだを動いていくことだけに価値のあるような情報、それ自体としては何の価値もないが「みんなが知りたいはず」というだけの情報は、みんなが知ってしまい、もはや人から人のあいだを動かなくなってしまうと、一挙に価値を失う。一度価値を失った情報が、またふたたび浮かび上がることはない。そうしてまたつぎの情報に取って変わられる。
ここで立ち止まって考えてみてほしい。「特ダネ」「スクープ」「ゴシップ」を、あなたはほんとうに知りたいんだろうか。それはあなたの知識や生活を豊かにする? あなたの日々の楽しみを増すことにつながっていく? 単にそれは「みんなが知っているから」「みんなが聞きたがるような話だから」知りたいのではないのだろうか。
もちろん、それが短い「祭り」だとわかっていても、ほんの一時、みんなと一緒にワイワイ騒げれば、それもまた楽しいのかもしれない。そういう楽しみもときにはいいだろう。けれどそれは打ち上げ花火のようなはかないものだ。少なくともそのことはわきまえておいた方がいい。そうしてもうひとつ。ある日突然祭りが終わるだけではない、風向きが変わって、情報の伝播に一役買った人間が、責められることになるかもしれない。
先にあげた「上」の人間の不行跡、というAの情報を聞いたとき、わたしの感じた嫌悪感というのはなによりも、わたしが知りたくもない情報を、「あなたも知りたいでしょう?」とばかりに手渡されたことにあったのだ。つまり「そういうことは立ち入るべきではない」と考えている自分を、「そういうゴシップを知りたい人間」と分類されたことに腹を立てたわけだ。考えてみればわたしもえらく小さい人間だ。
まあ、そういう天の邪鬼はさておいて、Aは狭い範囲の人間から、さらに情報が広がっていくことを求めた。自分の送り出した情報が、あまねく行き渡って、やがて「死んで」しまうのではなく、それをさらに生き続けさせるために、さらにその情報が具体的な効力を発揮するのを見たいと思った。
この行動は、とりたててめずらしいものではない。反対運動の多くは、こういう形式をとるだろう。けれどもその伝播に関わる人間が、ただ情報を右から左に動かすだけだとすれば、いつかは情報はその価値を失う。運動がそれと共に「死んで」しまわないためには、そのプロセスのなかで情報の伝播に携わった人間が、それを自分の価値としていく道筋を作ることができるかどうかにかかっているはずだ。
受けとった情報をどうするか。それはわたしたちにかかっている。逆に言えば、短命で軽い情報をあふれさせるか、いくつかの情報をつなぎあわせたり、組み合わせたりしながら、そこに自分なりの価値をつけ加えて送り出すことができるのか。
情報は確かにある時点では、何ものかと交換できるかもしれない。現実に、ある種の情報はそうやって取引されてもいる。あるいは「隣人のネコが子ネコを産んだ」情報と、「芸能人Pのネコが子ネコを産んだ」という情報の価値は比較できるかもしれない。この差異が価値を生むことにもつながっていく。だがその情報は、古くなり、情況の変化と共に価値を失う。そしてまた、ゴシップにもスクープにも興味がない人間にとっては、交換価値を発揮しない。
やはり情報を通貨とするには、安定度が低すぎる、ということだろうか。SFとしては悪くないアイデアだと思ったのだが、実際に使うためには、やはりちょっと無理かもしれない。だが、おそらくそんな社会などあり得ない、貨幣がない社会は、これまでSFの舞台としてずいぶん登場してきたのだ。使うにはかなり厄介そうだが、情報が通貨の役目を果たす社会だって、出てきてもいいような気がする。どなたかこのアイデアをもとに作品化するつもりはありませんか? そういう方は、ぜひ、ご連絡ください。アイデアの使用料に関しては、応相談、ということで。