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John Cheeverの短編“The Enormous Radio”の翻訳をお送りします。舞台はアメリカの1940年代。人々の娯楽の中心が、まだラジオだったころの話です。原文は

で読むことができます。


とんでもないラジオ

ジョン・チーヴァー

ラジオ

 ジムとアイリーンのウェストコット夫妻は、収入といい、その地位を得るための奮闘具合といい、社会的評価といい、大学の同窓会報に載っている統計表のまずは平均値にあたるような夫婦である。小さな子供がふたり、結婚して九年、ニューヨークの高級住宅地サットン・プレイスにほど近いアパートメントの十二階に住み、年平均10,3回、芝居を観に出かけ、いつかは郊外のウェストチェスターに家を持ちたいと考えている。

アイリーン・ウェストコットは、人当たりが良く、決して美人とはいえないまでも、ふんわりとした茶色い髪と皺一本ない広くなめらかな額のもちぬし、寒い時期にはミンクに見えるように染めたイタチの毛皮のコートを着る。ジム・ウェストコットはお世辞にも若く見えるとはいえないが、少なくとも老け込んだ印象はない。白髪混じりの髪を短く刈り込み、プレッピー・スクールでかつて同級生が着ていたような服を着て、物腰はきまじめで熱っぽく、人が良さそうなところは多分に意図的である。夫妻が友人や同窓生、隣人とただひとつ異なる点は、ふたりともクラシック音楽が趣味であることだ。ふたりは足繁く演奏会に通い――他人に言うことはめったになかったが――、ラジオで音楽を聴きながら長い時間を過ごした。

 ふたりの持っているラジオは年代物で扱いにくく、いつ調子が悪くなるか見当もつかない、もはや修理のしようもないような代物だった。ふたりともラジオのメカニズムについては皆目見当もつかず――身の回りのほかの電化製品についても同様だったが――、調子が悪くなると、いつもジムがラジオのキャビネットの横を叩く。ときにはそれでうまくいくこともあった。ある日曜日の午後、シューベルトの四重奏曲の真っ最中に、音がすうっと小さくなって、やがて完全に聞こえなくなった。ジムが何度叩いてもうんともすんともいわない。シューベルトはそれっきり、永久に消滅してしまったのだった。ジムは妻に、新しいラジオを買ってやるからな、と約束し、月曜日に仕事から帰ってくると、買ったぞ、と告げた。どんなラジオだとも説明はしなかったが、届いたらきっとたまげるぞ、と言うのだった。

 翌日の午後、勝手口からラジオが運ばれてきた。メイドと雑役夫の手を借りながら、木枠を外し、リビングに持っていく。ゴムの木でできた巨大なキャビネットの形の醜さに、たちまちアイリーンはショックを受けた。アイリーンには自慢のリビングで、家具を選ぶのも色を決めるのも、服を買うのと同じくらい念入りに選んできたのだが、この新しいラジオは、自分の大切なもののなかに立ちはだかる暴力的な侵入者のようだ。おまけに計器パネルにいくつもならんだダイヤルやスイッチの数にも面食らわされてしまい、ひとつずつ確かめてからやっとプラグを壁のコンセントに差し込んで、ラジオをつけることができた。

 まがまがしい緑色の光にダイアルが照らしだされると、ピアノ五重奏曲の音色が遠くのほうから聞こえてきた。遠くのほう、と思ったのはほんのつかのま、力の限り増幅された音の洪水が、光よりも速くアイリーンをねじ伏せて、部屋一杯を満たし、テーブルの上に置いてあった瀬戸焼きの置物を床に叩きおとした。飛んでいってボリュームを落とす。醜いゴムの木のキャビネットに蛇のように潜む、凶暴なエネルギーが不気味に思えた。そこにちょうど子供たちが学校から帰ってきたので、公園に連れて行ってやることにした。アイリーンがもういちどラジオのところに行ったのは、午後も遅くなってからだった。

 メイドが子供たちに夕食を食べさせ、風呂の世話をしている間、アイリーンはラジオをつけて音量を絞り、かねてからのお気に入りであるモーツァルトの五重奏曲を聴こうと腰を下ろした。新しいラジオは、古いものよりはるかに音質が澄んでいる。音質こそ何よりも大切なのであって、キャビネットなんてソファの後ろに隠してしまえばいい。だが、こうしてアイリーンとラジオの間で和平が成立したのもつかの間、雑音が混ざり始めた。火がついた爆弾の導火線のようなジリジリという音が、弦の奏でる響きに加わる。なんだか音楽の向こうから、不気味な海の音が聞こえてくるみたい。アイリーンはダイヤルやスイッチをことごとく試してみたが、雑音はいっこうに弱まらない。がっかりし、途方に暮れて腰を下ろしたが、それでもなんとかメロディの流れだけでも追いかけようとした。

リビングの奥をアパートのエレベーター・シャフトが通っているのだが、そこをエレベーターが昇ったり降りたりする音で、電波障害の正体がわかった。エレベーターのケーブルがぶうんと唸る音やドアが開閉するときの音が、ラジオのスピーカーからも聞こえてくるのだ。ひとたび、ラジオ波は電流の影響を受けやすいものなのだ、と思い当たってみると、モーツァルトのなかから、電話のベルが鳴る音や、ダイヤルを回す音、掃除機の呻く音などを聞き取ることができるようになった。もっと注意して聞けば、呼び鈴も、エレベーターのベルも、電気カミソリも、ウェアリング製ミキサーも聞き分けられる。そうした音が、自分の部屋を取り囲むアパートのさまざまな場所から拾い集められ、スピーカーを通じて聞こえてくるのだ。この高性能かつ醜い機械は、騒音に対してまで見当違いの感度の良さを発揮する、これはもう自分には手に負えない、そう思ったアイリーンは、スイッチを切って、子供部屋へ様子を見に行った。

 その晩、帰宅したジム・ウェストコットも、自信たっぷりにラジオのところへおもむくと、いろいろなボタンをいじってみた。そうしてアイリーンと同様の成り行きとなったのだった。ジムが選んだ局では男が何かしゃべっていたが、遙か彼方から聞こえていたはずの声は、一瞬のうちに大音声となって突撃してきて部屋全体を揺るがした。ボリュームを絞って声を小さくする。一、二分後に、こんどは例の干渉音が聞こえ出した。電話のベルやドアベルの音、エレベーターの扉がきしる音や料理器具が唸る音が混ざり合って入ってくる。音の正体も、アイリーンが聞いた早い時間のものとは異なっていた。電気カミソリのプラグは抜いてあり、掃除機はクロゼットの中、日の落ちた街を満たすリズムの変化は電波の音にも反映されていた。ジムもツマミをいじったが、雑音を取り除くことはできなかったために、スイッチを切ると、朝になったらこいつを売りつけた連中を電話でどやしつけてやるからな、と妻に向かって言った。

 翌日の午後、外で食事をすませたアイリーンがアパートに戻ってみると、メイドが、修理の人が来て、ラジオを直して帰られました、と告げた。帽子も毛皮のコートも取らずにリビングに向かい、さっそくスイッチを入れてみた。スピーカーから《ミズーリ・ワルツ》のレコードが流れてくる。昔、毎年夏を過ごした場所で聴いた音楽、ときどき湖をわたって聞こえてきた旧型蓄音機の、貧相で音の荒れた音色を思い出す。どうしてそんなレコードをかけるのか知りたくてワルツが終わるまで待ったのだが、説明はなかった。音楽が終わると静まりかえり、やがてもういちど同じ傷だらけのレコードが繰り返された。ダイアルを回すと、カフカス地方の民族音楽が飛びこんできた――土の上をはだしで踏みならす音や、飾りのコインがじゃらじゃら鳴る音――、その向こうにベルが鳴る音や、声がいくつも入り交じる音も聞こえた。やがて子供たちが学校から帰ってきて、アイリーンもラジオを消して、子供部屋に行った。

 その晩、家に帰ってきたジムはひどく疲れており、風呂に入って着替えをすませ、アイリーンのいるリビングにやってきたのはそのあとだった。ラジオをつけたとき、ちょうどメイドが、夕食のご用意ができました、と告げたので、ラジオはつけっぱなしのままアイリーンと一緒に食卓に着いた。

 ジムはジムで、疲れすぎていて愛想良く振る舞うことも苦痛らしく、料理にも興味を引かれなかったアイリーンは、やがて意識がさまよい始め、しばらくキャンドルにこびりついている磨き粉に気を取られ、やがてほかの部屋から聞こえてくる音楽に注意は向いた。ショパンのプレリュードが流れ始めて数分後、驚いたことに、いきなり男の声が割って入った。「いいかげんにしてくれよ、キャシー」とその声が言った。「おれが家に帰ってくると、なんだっていつもピアノを弾かなきゃならないんだ」音楽は唐突に終わった。「いましか弾けないのよ」女が答えた。「一日中会社にいたんだもの」「それはこっちだって同じだ」男の声がアップライト・ピアノについてなにやら口汚くののしると、バタン、とドアを閉める音がした。情熱的でもの悲しい音楽がふたたび始まった。

「いまの、聞いた?」アイリーンがたずねた。

「何を?」ジムはデザートを食べながら言った。

「ラジオよ。音楽の最中に、男の人が何か言ってたでしょ? 汚い言葉遣いで」

「たぶんドラマだろう」

「ドラマなんかじゃないわ」

 ふたりは食卓を立つと、コーヒーを持ってリビングに戻った。アイリーンは、ほかの局に変えてみて、と頼んだ。ジムがツマミを回す。「おれの靴下止めを知らないか?」男の声がした。「あたしのボタン、留めてよ」女の声が答える。「おれの靴下止めは?」「あたしのボタンを留めちゃってよ、そしたら探してあげるから」ジムはちがう局に変えた。「灰皿にリンゴの芯を捨てるのをやめてもらえないだろうか」男の声がした。「臭いがいやなんだ」

「変だな」ジムが言った。

「でしょ?」

ジムはもういちどつまみを回した。「“コロマンデル海岸に、初物カボチャが実る場所”」イギリス訛りの女の声がした。「“森のまんなかに、ヨンギー・ボンギー・ボーが住んでいた。二つの古い椅子と、半分になったロウソク、取っ手のとれた古いカップ……”」

「なんてこと!」アイリーンが大声を出した。「スウィニーの乳母さんだわ」

「“ヨンギー・ボンギー・ボーがこの世で持っている物は、これで全部”」

「ラジオを消して」アイリーンが言った。「たぶん向こうにもこっちの声が聞こえてるはずよ」ジムはスイッチを切った。「あれはミス・アームストロングよ、スウィニーの乳母さん。小さい子に絵本を読んでやってるところなのよ。17のB。ミス・アームストロングとは公園で話したばかり。あの声ならよく知ってるもの。このアパートのほかの人たちの声が聞こえているんだわ」

「そんなことはあり得ない」ジムが言った。

「それでも、あれはスウィニーの乳母さんだもの」アイリーンは興奮していた。「声をよく知ってるんだから。向こうにはこっちの声が聞こえてるのかしら」

ジムはスイッチを入れた。最初は遠くから、それから、近くへ近くへ、まるで風に運ばれてくるように、まぎれもないスウィニーの乳母のアクセントが聞こえてきた。「“レディ・ジングリィ、レディ・ジングリィ、かぼちゃが実るところに座っている。こっちへ来て嫁になってはくれんかね? ヨンギー・ボンギー・ボーはそう言った……”」

ジムはラジオに顔を近づけ、スピーカーに向かって大きな声で「もしもし」と言った。

「“ひとりで暮らすのはあきあきだ、この海岸は荒れ果てるし、石ころだらけ、いまの暮らしはうんざりだ。こっちへ来てお嫁さんになってくれりゃ、おれの生活も落ち着くのに……”」

「向こうには聞こえてないみたいね。ほかの局も聞いてみましょう」

 ジムが別の局に合わせると、リビングにカクテル・パーディの度はずれた喧噪があふれた。誰かがピアノを弾きながら“ザ・ホイッフェンプーフ・ソング”を歌っていて、興奮した楽しげな声がピアノの音を飾っている。「サンドイッチをもっと食べてよ」と甲高い女の声がした。どっと笑う声や皿か何かが床に落ちて割れる音が響く。

「フラーさんのお宅だと思うわ、11-Eの。フラーさんのお宅ではお昼からパーティらしいから。酒屋で会ったのよ。これってすごいわね? ほかにも聞いてみましょう。18-Cの人たちが入らないかしら」

 ふたりはその晩、カナダの鮭釣りをめぐる長談義、ブリッジ、フロリダ沖のシーアイランドで二週間ほど過ごしたらしい人の8ミリ映写会、預金残高を超過してお金を引き出したことをめぐっての激しい夫婦げんかを盗み聞きした。すっかり夜も更けたころ、ふたりはやっとラジオを切ると、大笑いしすぎて疲れ果てた身をベッドに横たえた。夜の間に息子のお水が飲みたい、という声に呼ばれ、アイリーンは子供部屋にコップの水を持っていってやった。早朝というにも早すぎる時間だった。界隈の灯りは消え、子供部屋の窓からはひとけのない通りが見えた。

アイリーンはリビングに行ってラジオをつけてみた。かすかに咳き込む音と苦しげなうめき声、それに続いて男の声がした。「大丈夫かい?」「ええ」弱々しい声が答える。「大丈夫だと思うわ」それに続く声には、なんともいえない感情がこもっていた。「でもね、チャーリー、もう自分が自分じゃないみたい。自分が前みたいに感じられるのも、一週間のうちで十五分か二十分ぐらいなんだもの。よそのお医者さんには罹ろうとは思わない。だってもうお医者さんからの請求も、怖ろしい額になってるでしょ。だけど、ほんとうに、もう自分の身体が自分のものじゃないみたいなの、チャーリー。もう前みたいには感じられない」このふたりはもう若くないわ、とアイリーンは思った。たぶん、声からすると中年ぐらい。抑制した調子がいっそうわびしげな会話を聞きながら、ベッドルームの窓から忍びこむ風に身を震わせ、アイリーンはベッドに戻った。



 翌朝アイリーンは家族の朝食を作り――メイドは地下の自分の部屋から十時になるまで上がってこない――、娘の髪を三つ編みにしてやり、子供たちや夫がエレベーターに乗るのをドアのところで見送った。それからリビングへ行ってラジオをつけた。「学校なんか行くのやだ」子供がわめいている。「学校なんかきらいだ。行きたくないよ。大っきらいだ」「行かなくちゃだめ」腹立たしげな女の声が答えた。「あの学校に行かせるために八百ドルもかかったんだから、どれほどいやだろうが、行ってもらいます」ダイヤルを回して次に聞こえてきたのは、あのすりきれた《ミズーリ・ワルツ》のレコードだった。

アイリーンはツマミを調節しながら、あちこち内輪の朝食の席に忍びこんでいった。そこで繰り広げられる消化不良のさまや睦み合い、底なしの虚栄心、信仰心や絶望を、こっそりと聞いた。アイリーンの生活は、外から見るのと同じ、単純で世間からは隔てられたものだったから、その朝スピーカーから聞こえてきたそのものずばりの、時にはすさまじい言葉には、肝を潰し、すっかり動揺してしまった。ひたすら耳を傾けているうちに、メイドがやってきた。アイリーンはあわててラジオを切った、というのも、こうした行為は人目をはばかるものだと直感的に理解していたからである。

 その日アイリーンは友だちと一緒にお昼を食べる約束をしており、正午過ぎに部屋を出た。降りてきたエレベーターにはすでにたくさんの女性が乗っていた。アイリーンは端正で取り澄ましたいくつもの顔や毛皮、帽子の飾りの花をまじまじと見た。どの人がシーアイランド諸島に行った人なんだろう? と考える。銀行預金を赤字にしたのはどの人? エレベーターは十階で止まり、二匹のスカイ・テリアを連れた女性が乗ってきた。髪を高く結い上げており、ミンクのケープをまとっている。そうして《ミズーリ・ワルツ》をハミングしていた。

 アイリーンはランチでマーティニを二杯飲み、友だちの顔をうかがいながら、この人の秘密はなんだろう、と考えた。ランチのあとはショッピングに出かけるつもりだったのだが、アイリーンは口実を作って家に戻った。メイドには、じゃましないでね、と言っておいてから、リビングに入ってドアを閉め、ラジオのスイッチを入れた。午後の間に聞いたのは、叔母さんをもてなしている女性のとぎれがちな会話、ランチ・パーティの仰々しい幕切れや、カクテル・パーティにやってくる客について、女中に言い含めている女主人の声だった。「白髪じゃない人にはどの人にも一番上等のスコッチを勧めちゃダメよ。それからいいわね、レバー・ペーストを片づけられるようなら、温かい料理を出す前にして。あ、そうそう五ドル貸してくれない? エレベーター・ボーイにチップ、あげなくちゃ」

 日も翳るころには、やりとりもいっそう激しいものになってきた。アイリーンが座っている場所からは、遮るもののないイースト・リバーの上空が見える。空には何百もの雲が浮かんでいた。まるで南風が冬をこなごなにして北へ吹き散らそうとするかのように。ラジオからは、カクテル・パーティにやってきた客の声や、学校や会社から帰ってきた子供たちや勤め人の声。

「今朝、バスルームの床に大きなダイヤが落ちてたの」女が言った。「昨夜、ダンストンの奥さんがしてたブレスレットから落ちたやつだと思う」「売っぱらっちゃおう」男の声がする。「マディソン街の宝石店に持っていって売ろうぜ。ダンストンの嫁さんは気がつきゃしないさ。二、三百ドルほど手に入るってわけだ……」

「“オレンジ、レモン、セント・クレメントの鐘が鳴る”」スウィニーの乳母が歌っている。「“ハーフペンス、ファージングス、セント・マーティンの鐘。いつになったら金返す? オールド・マーティンの鐘が鳴る……”」

「こいつは帽子なんかじゃない」大声の女の背後では、カクテル・パーティのざわめきが聞こえる。「こいつは帽子なんかじゃない、恋愛だ、ってウォルター・フローレル(※ブロードウェイ・ミュージカルのデザイナー)は言ったのよ。帽子なんかじゃない、恋愛そのものだ、って」それから同じ女が声を潜める。「だれかと話してよ、お願いだから、ね? だれかと話して。あなたがそんなふうにぶすっとして突ったってるとこ、見つかったら、招待リストからはずされちゃう。あたし、パーティが大好きなのに」

ウェストコット夫妻は、その晩、よそで食事をすることになっていたために、ジムが帰ったときには、アイリーンは着替えをしていた。どことなく沈んだ、上の空のアイリーンにジムは一杯持っていってやった。一緒に食事をする友人は近くに住んでいたから、ふたりはぶらぶら歩いていった。空は広く、暮れるにはまだ間がある。記憶がかきたてられ誘惑に身を任せたくなるような、すばらしい春の宵だった。風が手や頬を軽くなぶる。街角では救世軍が《喜ばしきイエス》を演奏していた。アイリーンは夫の腕を引いて立ち止まると、しばらく耳を傾けた。

「あの人たちってほんとにいい人ね? とっても善良な顔をしてるもの。わたしたちがおつきあいしてる人たちより、きっとずっと立派な人なのね」

財布から札を一枚引き抜いて歩み寄り、タンバリンの中に落とした。戻ってきたアイリーンの顔には、ジムがこれまで見たことのない、晴れ晴れとした、それでいて悲しげな表情が浮かんでいた。その晩のディナー・パーティの席上でも、アイリーンのふるまいは、ジムの目にも奇妙なものに映った。招いてくれた奥さんが話している途中でも、ぶしつけに遮ってみたり、食卓の向かいに座った人の顔をじろじろと見たりして、子供がしようものなら母親としてお仕置きでもしかねないような態度だった。

 パーティから帰る途中でもまだ暖かく、アイリーンは春の星を見上げる。

「“あの小さな蝋燭がこんな遠くまで光を投げてよこす! 善いおこないはこの汚れた世界に光を与えるのです”」アイリーンは『ヴェニスの商人』を暗唱した。

その夜、ジムが寝入るのを待ってから、アイリーンはリビングへ行って、ラジオをつけた。



 あくる日、ジムは六時ごろに帰ってきた。メイドのエマが迎え入れてくれ、ジムが帽子を取りコートを脱いでいるところへアイリーンが玄関ホールへ飛びこんできた。顔は涙で濡れ、髪を振り乱している。

「コートは脱がないで。16-Cへ行って。オズボーンさんが奥さんを殴ってるの。四時からずっとケンカしてたんだけど、とうとう殴り出しちゃったの。行って、止めてあげて」

 リビングのラジオからは、悲鳴や罵り声、どさっという音が聞こえてくる。

「こんなものを聞いちゃいかん」そういうと、大股でリビングに入っていき、スイッチを切った。「見苦しいぞ。窓から部屋の中をのぞき見してるのと一緒じゃないか。こんなものを聞かなきゃならんわけがいったいどこにあるっていうんだ。消してしまえばいい」

「だけど、ほんとにひどいんですもの。ぞっとする」アイリーンはすすり泣いていた。「一日中聞いてたわ。もうほんと、やりきれない」

「おいおい、そんなにやりきれないんだったら、なんで聞くんだ? 君が聞いて楽しかろうと思ってこいつを買ったんだぞ。大枚はたいたんだ。君のためによかれと思ってやったことなのに。喜ばせようと思って買ったんだ」

「お願い、お願いよ、後生だから、けんかはやめましょう」アイリーンは苦しげにそういうと、夫の肩に顔を埋めた。「みんな一日中、けんかばかり。誰もかれもがけんかしてるのよ。みんなお金のことを心配してる。ハッチンソンさんの奥さんのお母さんは、フロリダでガンで死にかけてるのに、お金が足りなくて、メイヨー・クリニックに入院させられないんですって。少なくともハッチンソンさんの方は、そんなお金はないって言ってる。このアパートには、雑役夫と寝てる女の人がいるの――あの気味が悪い人と。胸が悪くなりそう。メルヴィルさんの奥さんは心臓病、ヘンドリックスさんは四月いっぱいで失業するから、奥さんはそのことでひどいことを言ってるし、《ミズーリ・ワルツ》をかけてる女は娼婦なの――ええ、娼婦なのよ。エレベーター・ボーイは結核だし、オズボーンさんは奥さんを殴ってる」アイリーンは泣きじゃくり、身を震わせ、流れ落ちる涙を手のひらでぬぐった。

「なぜ聞かなきゃならない? そんないやな思いをしてまでなんだって聞いてるんだ?」

「もうやめて。お願いだからよして」アイリーンは泣いていた。「世間ってほんとうにひどい、あさましくて怖ろしいものなんだわ。でも、わたしたちはそんなふうじゃなかったわよね、あなた? そうでしょ? わたちたちはいつだって良い人間だった、ちゃんとしてたし、お互いを思いやってきたわよね? 子供だってふたりともかわいいわ。うちの子は下品なんかじゃない、そうでしょ? ね?」夫の首に腕を回してしがみついて頬を寄せた。「わたしたち、幸せよね? 幸せでしょ? ね?」

「あたりまえじゃないか。ウチはうまくいってる」ジムはうんざりしたようにそう答えた。面倒くさいという思いが次第に耐えがたくなっていた。「幸せに決まってるだろう。明日にはあの忌々しいラジオも修理に出すか、引き取らせるかするから」妻の柔らかな髪を撫でてやりながらつぶやいた。「バカだな」

「わたしのこと、愛してくれてるわね? それに、わたしたちはひどいことを言ったり、お金のことで気をもんだり、嘘ついたりしないわよね?」

「ああ、しない」とジムは答えた。


 翌朝、修理の男がラジオを直しに来た。おそるおそるつけてみたアイリーンは、カリフォルニア・ワインのコマーシャルにつづいてベートーヴェンの第九、シラーの《歓喜の歌》のレコードが流れてきたのでホッとした。そのまま一日中つけていてもスピーカーからはもう何も聞こえてこなかった。

 スペイン組曲が流れているとき、ジムが帰ってきた。「もう悪いところはないな?」顔色が悪いようだわ、とアイリーンは思った。ふたりでカクテルを飲み、オペラ《イル・トロバトーレ》のなかの“アンヴィル・コーラス”を聴きながら夕食を取った。そのつぎは、ドビュッシーの《海》が聞こえてくる。

「ラジオの代金を今日払ってきた」ジムが言った。「四百ドルもかかったぞ。こうなったらせいぜい楽しんでくれなけりゃ」

「もちろんよ。わたし、そうするつもりよ」

「四百ドルっていうのは、ぼくからすれば不相応なぐらいの大金なんだ。君の喜ぶ顔が見たくて買ったんだからな。今年はもうこれ以上贅沢する余裕なんかないんだ。ところで君はドレスの請求書をまだ払ってなかったんだな。化粧台の上に何枚もあった」妻の顔を真正面に見据えた。「なんでもう払ったなんて言ったんだ? どうして嘘なんかつくんだ」

「心配させたくなかったから」そう言うと水を飲んだ。「今月分から払えばいいって思ってたのよ。先月はソファのカバーを新しくしたし、パーティもあったし」

「アイリーン、君もいいかげん、ぼくが渡す金でもう少し賢くやりくりすることを覚えてくれなけりゃ。今年は去年ほど余裕があるわけじゃないんだ。今日、ミッチェルと真剣に討議したんだ。購買意欲が落ちている。新製品のプロモーションにかかりっきりになってはいるんだが、そういうことの効果が現れてくるまでには時間がかかる。ぼくが若くなることはないんだ。もう三十七だ。来年には白髪になってるだろう。やろうと思ったこともろくすっぽできてないうちにな。おまけにこれから何か良くなりそうな見通しのひとつもありゃしない」

「わかってるわ、あなた」

「切り詰めていかなきゃな。子供のことだって考えなけりゃ。洗いざらい言ってしまうが、金のことは相当に厳しいんだ。これから先どうなるか、まったくわかったもんじゃない。だれだってそうだ。もしぼくに何かあったら、確かに保険はあるが、きょうび、そんなもんではとてもじゃないがやっていけない。こうやって必死になって働いているのも、君や子供たちにちゃんとした暮らしをさせてやりたいからなんだぞ」それからこう吐き捨てた。「まったく精魂傾けて、日々若さをすり減らして働いた結果が、そんなものに消えていくんだからな。毛皮のコートだろ、ラジオだろ、ソファ・カバーだろ、それからなんだ?」

「お願い、ジム。どうかやめてちょうだい。聞こえるわ」

「だれが聞くっていうんだ? エマには聞こえやしないさ」

「ラジオよ」

「勘弁してくれよ!」ジムは大きな声になった。「そのおどおどした顔を見てたら気分が悪くなる。ラジオが一体どうしたっていうんだ。だれも聞いてなんかいない。第一、聞いてたらどうだっていうんだ。かまやしない」

 アイリーンは食卓を立ってリビングに移った。あとを追ったジムは、ドアのところで怒鳴り続けた。

「急に聖人づらか? 一夜明けたら尼さんか? 君のおふくろさんの遺言状の検認もまだ始まらないうちに、宝石を盗んだくせに。妹には1セントだってやりゃしなかったよな、あれは妹に行くはずの金もあったんじゃなかったのか? グレイスにだって必要なときがあったのに。グレイス・ホーランドの生活を惨めなものにしたのは、君なんだぞ。信心深そうな善人づらで子供だって堕しに行ったよな。あんまりあっさりしてるんでたまげたぜ。旅行鞄を用意してナッサウ山脈にでも行くような顔で、おなかの子を殺させに行ったんだからな。もう少し君が分別を働かせてくれてたらな、まったく、どうしてもっと頭を働かせられなかったんだ?」

 辱められ、吐き気を催しそうになりながら、アイリーンは醜いキャビネットを前に立ちつくしていた。スイッチに手をかけてはいたが、音楽や声を消す前に、この機械がわたしに優しく話しかけてくれないかしら、あのスウィニーの乳母さんの声だけでも聞こえてこないかしら、と思った。ジムは相変わらず戸口でわめいている。ラジオからは、洗練され、我関せずの声が聞こえてくる。「今朝早く、東京で列車事故があり、29人が亡くなりました。バッファロー近郊でカトリック系病院付属の盲学校から出火しましたが、修道女らの働きで鎮火されました。現在の気温は摂氏8度、湿度89パーセントです」


The End


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初出 March 18-24 2006 改訂 March 26 2006




お化け屋敷の鏡

ジムとアイリーンには顔がない。
冒頭の

ジムとアイリーンのウェストコット夫妻は、収入といい、その地位を得るための奮闘具合といい、社会的評価といい、大学の同窓会報に載っている統計表のまずは平均値にあたるような夫婦である。小さな子供がふたり、結婚して九年、ニューヨークの高級住宅地サットン・プレイスにほど近いアパートメントの十二階に住み、年平均10,3回、芝居を観に出かけ、いつかは郊外のウェストチェスターに家を持ちたいと考えている。

この部分の「10,3回」には、このふたりが、第二次世界大戦後の世界に冠たるアメリカの、アッパーミドルクラスの「平均値」であることが、象徴的に示されている。
だからこれは、ジョージとミルドレッド、ヘンリーとジョアンナでもいっこうにかまわないのだ。

おそらくハーバードを卒業し、ニューヨークの高級アパートに暮らし、ゆくゆくは郊外に居を構える。端から見れば前途洋々たるふたりだが、家の中に「侵入」してきたラジオによって、徐々に彼ら自身の内側が暴露されていく。

盗み聞きに夢中になるアイリーン。
ジムは必死で築いてきた現在の生活をこれからも維持できるのか、不安に苛まれ、若さを失っていくことに怯え、自分があえてそこに留めておいたはずの妻の無能ぶりに、いまさらながら腹を立てる。
そうしてふたりが現在の生活が維持できているのも、過去にしでかしたさまざまなことと無縁ではない。

端から見れば、非の打ちどころもないアッパーミドルクラスの不安と、内に潜む影の部分を描いたこの作品が、チーヴァーの代表作となったのも不思議はない。

その一方で、こんなふうにも思うのだ。
この作品は1947年のアメリカの作品だけれど、それから六十年を隔て、遠く離れた日本に住む自分も、このアイリーンやジムとどれほどちがっているのだろうか、と。

ついこの間、「地下鉄サリン事件十一周年」という記事を、ずいぶん見た。あの事件はもちろん衝撃的だったけれど、それと同じくらい驚いたのは、その報道に対する世間の反応だった。ワイドショーとまったく同じ暴露番組が「報道」として組まれ、連日連夜放送される。芸能人のスキャンダルなら見向きもしないような人々までもが、「ホーリーネーム」を持った幹部たちの人間関係を嬉々として噂していた。

そのとき、思ったのだ。みんな、スキャンダルが好きなのだ、と。

だが、そんなふうに感じている自分はどうなのだろう。オウムに関しては、駅前で踊っている頃から嫌悪しか感じなかったから、一連の報道にも、ずいぶん距離を置いていた。それでも、たとえば二葉亭四迷が娼家で出会った最初の奥さんの行方を知りたいと思う、これは興味本位ではないのか? たまたまオウムは興味がなかっただけで、自分の興味がある人の私生活は、知りたいと思わないのか? それは興味本位とは無縁のものなのか。

スキャンダルがおもしろいのは、それが一種のステレオタイプ化だからだ。金銭関係、恋愛関係、そうした文脈で捉えると、どんな人でもいくつかのステレオタイプに簡単に押し込めることができる。

人は、おおざっぱにとらえた方がわかりやすい。レッテルを貼ってしまえば、悪口も批判も簡単だし、楽しくもある。わかった気になれば、怖くなくなるし、自分の方が優位に立てる。支配できる。
他人の内側を「知りたい」と思うその底には、そうした気持ちがあるのではないか。

お化け屋敷には、たいてい、出口付近に鏡がある。暗い中、近寄ってくる人影をおそるおそるのぞいてみれば、自分だった、という趣向だ。

盗み聞きするチャンスを手に入れ、夢中になってそれを聞き、逆に翻弄され、無意識のうちに仕舞いこんでいた過去を暴かれる。アイリーンの姿は、このわたしを映し出すお化け屋敷の鏡のようだ。


1940年代に登場したジョン・チーヴァーは、もうひとりのジョン、ジョン・アップダイクと並び称されるアメリカを代表する短編作家である。

1912年生まれ、長編小説もいくつか発表されているが、短編の名手としての評価が高く、なかでもこの"Enormous Radio" は代表作とされる。チーヴァーが繰りかえし描いていったのは、一見安定し、幸福そうな白人中流階級が、精神的には極限状態にあり、やがて破綻に追いこまれていく世界である。

1982年没。生涯に百二十編あまりの短編小説を書いた。

なお、この作品は『非常識なラジオ』というタイトルで鳴海四郎によって翻訳されたものが、『ニュー・ヨーカー短編集 II 』(早川書房)に所収されている。



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初出 March 18-24 2006 改訂 March 26 2006





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