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「文学を読む」ことについていまさらながら考えてみる


1.本は読まなければいけないのだろうか

その昔とある質問サイトにこんな質問が出ていたことがある。議論と見なされて削除されてしまって、いまはもう影も形もないのだけれど、簡単に要約すれば
「文学なんて役に立たないものを、なんで読まなきゃならないの?」
ということだった。
例によって、説教ありーの、体験談ありーの、いろんな回答が寄せられてはいたけれど、この、ある種FAQとも言えるべき質問に、だれもこう問い返した人はいなかった。
「なんで読まなきゃならないとあなたは思ってるの?」

そうなのだ。
わたしはスキーというものをやったことがなくて(寒いのがキライなのだ。あんな寒いところで鼻水を垂らすことが楽しいなんて正気の沙汰ではない、と思っている)、おそらくこれからもやらないと思うけれど、「スキーなんて雪国に住んでるわけでもない人間が、なんでやらなきゃいけないの?」なんていう質問を、人に向かってしてみようとは思わない。やりたくなければやらなかったらいい。それだけの話だ。

だが、文学にたいするこうした質問、あるいはちょっと知恵のつき始めた中学生くらいがよくする「学校の勉強なんて役にたたないのに、なんでやらなきゃならないの?」という質問は、実は自分がやりたくない、という意思表明なのである。そう意思表明したいんだけど、なんだかそうすると肩身が狭いような気がする、コンセンサスを得られそうもない。
ことばを換えれば、世間には文学を読まなければならない(勉強をしなければならない)という規範があるようだけど、それってどうよ、と規範の根拠を求めているわけである。

規範とまではいかないにせよ、確かに「本は読むべきだ」という暗黙の了解事項はあるのかもしれない。そのなかでも、文学だ。文学だよ、なんだかずいぶん立派そうじゃありませんか。
これを歴史的に見てみると……、なんて始めると、また大変なことになるので、ここではしません。ただ、ほんとに読んだ方がいいの? 読むとどういいの? ということは、いちど考えておいた方がいいような気がする。

学生の頃、家庭教師のアルバイト先で、そこの家のお母さんに「ウチの子、本、読まないんです」と相談されたことがある。「別に読みたくなきゃ読まないでいいんじゃないですか」(あ、結論、書いちゃった)、と答えるわたしに、「だって、本、読む子は文章題とか有利っていうじゃないですか」と言われたときは、思わず「はぁ?」と聞き返してしまったものだった(あー、こういう態度は嫌われてたんだろうなぁ。まだ青かったなぁ……)。

ともかくここからわかるのは、ここんちのお母さんが本を楽しんで読む習慣のない人で、実際に読んで楽しいと思ったこともない、ということだ。自分が読みもしないものを、子どもに読ませようというのもなんだかな、だし、本=文章題に有利、っていうのはねぇ……。ずいぶん汎用性のない根拠を持ち出してきたもんだ。

まぁ結論も書いちゃったことだし、言ってしまうと、そんな規範なんか実際にあるわけではないし、当然のことながら、なんの根拠もない。こうした「暗黙的な社会の了解ごと」を、ひとつひとつ「ほんとうにそうなのか」と考えていくことは、すごく大切だと思うし、おもしろいことだ。だけど、いまここで書こうと思ってるのは、そういうこととはちょっとちがう。だから、ここでは、「本は読みたい人だけが読めばいい」ということにして、先へ進める。

本を読むことは、義務なんかじゃない。
逆に、読むことができる人だけが、その楽しみを味わうことができる特権なのだ。
どうだ、うらやましいだろう……、じゃなくて。

ここで指摘しておきたいのは、「読む」というのは、スキーや鉛筆を削ることと同様、一種のスキルである、ということなのだ。もちろん読むことを愉しむことができる人は、読む習慣がない人に較べて、すでにある程度のスキルを持っていることは言うまでもない。
それでも、小説は理屈ではない、いいと感じることができればそれで十分、解釈や分析など必要ない、というのはほんとうだろうか。ああ、おもしろかった。良かった。感動した。じゃ、つぎ、で、ほんとうにいいんだろうか。

「わずか六冊かそこらの本をよく知っているだけで、ひとはどんな学者にもなれるものです」

いまから百年以上前に、フロベールは彼の愛人への手紙の中でそう語っている、と、ウラジーミル・ナボコフは『ヨーロッパ文学講義』(野島秀勝訳 TBSブリタニカ)の冒頭で紹介している。

ちょっと六冊だけじゃいやだけど、実はそれくらい、一冊の本をすみずみまで読む、ナボコフのことばを借りれば「思いやり深く、けっして急ぐことなく丁寧に、詳細に扱う」ことが必要なのではないか、そうして、それができるようになるためには、「読み」のスキルを高めていくことが必要なのではないか、ということなのである。

この『ヨーロッパ文学講義』で、まずナボコフは、「良き読者」になるためには、どうあるべきか、つぎの中から答えを四つ選べ、としている。

  1. 読者は読書クラブに属するべきである。
  2. 読者はその性別にしたがって、男主人公ないし女主人公と一体にならなければならない。
  3. 読者は社会・経済的観念に注意を集中すべきである。
  4. 読者は筋や会話のある物語のほうを、ないものより好むべきである。
  5. 読者は小説を映画で観ておくべきである。
  6. 読者は作家の卵でなければならない。
  7. 読者は想像力をもたなければならない。
  8. 読者は記憶力をもたねばならない。
  9. 読者は辞書をもたなければならない。
  10. 読者はなんらかの芸術的センスをもっていなければならない。

 あなたはどれを選びますか?


2.読むことは 簡単なことじゃない

ナボコフが定義した「良き読者」とは、想像力と記憶力と辞書と、それからなんらかの芸術的センスをもったひとのことである。7.8.9.10.を選んだみなさん、おめでとうございます。ナボコフ先生も、さぞお喜びのことと思います。ただ、え〜、そんなに単純なことでいいの〜、と腹の立つ人もいるかもしれない。

ともかく、「良き読者」というのは、特殊な能力を保持しているひとではなくて、だれでもその資質は備えている、ということだ。

ナボコフは言う。
芸術作品というものは、新しい世界の創造である、と。
したがって、まずしなければならないのは、その世界を、なにかまったく新しいものに対する態度で接し、できるだけ綿密に研究することだ、と。
けれどもそれは、わたしたちがなんのスキルも持たず、徒手空拳でできるほど簡単なことではない。

こんな経験はないだろうか。
本を読んで、何かよくわからない、どういうことなんだろう、と思いつつ、それについて書かれたすぐれた評論を読む。すると、それまで漠然としか見えてこなかった細部まで、くっきりと浮かび上がって見えてくるような思いがしたことが。
あるいは、読み返してみると、以前読んだときには気がつかなかった細かい点が、大きな筋とつながって、より一層立体的に見えてくる、自分の内側に届いてくる感じ、あるいは自分がその作品の内部に入っていける感じを味わったことが。

わたしが言いたい「読みのスキルを上げていく」というのはこういうことなのである。
一回目より二回目、二回目より三回目、最初はそこにあることさえ気がつかなかった部分に気がつき、それからより細かいところまではっきりと見えてくるということなのだ。

ならばどうしたらそれができるようになるのか。

例の質問サイトでも、勉強法を聞く質問はよく出てくるし、そういう質問にはたいてい回答がどっさりつく。
けれど、タタミの上での水練、ということばがあるように、泳ぎ方について書かれた本をどれだけ読んだところで、泳げるようになるわけではない。水に入って、顔をつけて、足を水底から離して、ときには水を飲んでゲボゲボしたり、耳に水を入れたりしながら、なんとか手足を掻くことを覚えていく以外に、方法はない。
そうしながら初めて、ここはこうしたほうがいい、ということが自分なりにわかってくるだろうし、アドヴァイスが役に立つこともあるだろう。つまり、スキルをあげていく、とは、泳ぐことにほかならないのだ。ただしこのとき、漫然と泳ぐのではなく、スキルを高める、という目的意識が必要になるが。
つまりスキルを高めるというのはどういうことか、というと、さまざまな方法を試行錯誤しながら、自分にぴったりあったやりかたを見つけていくという、そのプロセスにほかならないのだ。

ところでさきほど、評論を読むことについて、少し書いた。
確かに良い評論は、読解の助けになる。
ああ、よくわかった、胸のもやもやが晴れた、と思う。
そうしてもういちど、本を読み返してみる。
その部分をそうやって読んでいくと、ここはどうなるんだろう、という新たな疑問が生まれてくるではないか!
こんどは別の評論を読んでみる。まったくちがう観点から、そのことについてふれられている。
また新たな疑問が生まれる。
いつまでたっても、自分の知らない大事なことがこの作品のそこかしこに転がっているではないか! これではいつまでたっても、一冊の本を完全に理解することなんてできやしない!

そうなのだ。
わたしたちがどれだけスキルをあげていったところで、その作品を完全に理解することはできない。
ひとつわかったら、わからないことがふたつ、いや、十個ぐらい出てくる。
なんだ、これじゃキリがないじゃないか。いつまでたっても、わからないことばかりだなんて。
Se a vida e, That's the way life is. それが人生というもんです(by Pet Shop Boys)。
人生のほとんどのことは、わからないもの。
けれどその問いは、以前と決して同じものではないし、わたしたちが立っているところも同じ場所ではない。
理解というのは、結局はそういうことなのだとわたしは思っている。

せんに、ある方からご専門になさっておられる本が「わからない」という話をうかがった。
その一方で、「そんなもの、むずかしいっていうけど簡単だった」みたいな言い方を耳にすることもある。 どちらが深い理解といえるだろうか。「わからない」と「簡単」。
実はなにもわかっていないから、簡単なのではないか。
むずかしい、わからない、というのは、問題を立てつつ掘り下げていき、なおかつさらに新たな問題が生まれてくる、ということなのではないのか。

もちろん、読み飛ばせば十分な本もたくさんある。
そのなかから、真に再読に耐えうる本を見つけだす嗅覚を高めていくことも、読みのスキルの一環としてあるだろう。
丁寧に読んでいくこと、細部をゆるがせにしない読み方で、読み、考え、問題を立て、もういちど本にもどっていく。そうしながら、わたしたちは、新たな世界を創り上げていっているのだ。
つまり読む、ということは、同時に、創造的なことでもある。

 文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年がすぐうしろを一匹の大きな灰色の狼に追われて、ネアンデルタールの谷間から飛び出してきた日に生まれたのではない。文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかいなかったという、その日に生まれたのである。……途轍もなく丈高い草の影にいる狼と、途轍もないホラ話に出てくる狼とのあいだには、ちらちらと光ゆらめく仲介者がいるのだ。この仲介者、このプリズムこそ、文学芸術にほかならない。
 文学は作り物である。小説は虚構である。物語を実話と呼ぶのは、芸術にとっても、真実にとっても侮辱だ。すべての偉大な作家は、偉大な詐欺師だ、が、そんなことをいえば、かの最たるぺてん師〈自然〉にしても違いはない。〈自然〉はつねに欺く。繁殖のための単純な惑わしから、蝶や鳥たちに見られる途方もなく凝った保護色の奇術に至るまで、〈自然〉のなかには、魔法と詐術の見事な体系が存在する。小説の作家はただ〈自然〉の導きにしたがっているだけなのである。  ここでちょっと、狼がきたと叫んだ、森林地帯の、小さな、頭のおかしい、われらが少年のもとに戻れば、こんなふうにいっていいだろう――芸術の魔法が、少年が苦労して発明した狼の影、彼の狼の夢のなかにはあった。だからこそ、少年の詐術が生んだ物語は、いい物語になったのだと。彼がついに滅びたとき、彼にまつわる物語は、キャンプファイアを囲んだ暗闇のなかで、いい教訓として伝えられた。が、彼は小さな魔法使いだったのだ。彼は発明家だったのである。

なんと、うっとりするような文章! どこまでも、どこまでも書き写していたい……。


3.文学か、そうでないか

ところでナボコフは「一流の文学」と「二流の文学」を峻別していた。

先にあげたように、一流の芸術作品が、新しい世界の創造であるとするのに対し、二流の作家は、世界を創り上げることなどは念頭にはない。既定の事物の世界から、可能な限り甘い汁を絞り出そうとするだけだ。
創り上げるのではなく、約束事のいくつかを組み合わせ、読者の前に繰り広げて見せてくれる。それはそれでおもしろい。というのも
「二流の読者というものは、自分と同じ考えが心地よい衣裳をまとって変装しているのを見て、快く思うものだからである」。

けれども一流の作品、新たに創り上げられた世界に対しては、読者は「想像力」をもって臨まなければならない。

この想像力にも、二種類があるというのだ。

ひとつは、個人的性格の想像力。これをナボコフは厳しく戒める。
だれかを思い出す、とか、言ったことのある場所、過去の一部を思い出させてくれる、そして何よりも最悪なのが、登場人物と一体になったような気持ちになること。
「このような低い想像力は、わたしが読者に使ってもらいたくないものである」

では、どうした想像力を使うべきなのか。

だが、わたしがいわんとしていることは、読者は自分の想像力を抑える時と場所を心得なければいけないということ、そうするためには、作者が自分の心の自由にしたがって提示している特定の世界を明確に把握しようと努める必要があるということだ。われわれは物事をこの目で見、この耳で聞き、作者の描いた人物たちの部屋や衣服や振る舞いを、まざまざと目にしなければならない。『マンスフィールド荘園』の女主人公ファニー・プライスの目の色や、彼女の寒い小さな部屋の家具調度のことは、なおざりにできぬ大事なのである。
 ひとの気質は十人十色である。読者がもち、あるいはこれから育まねばならぬ最上の気質はなにかといわれれば、ただちに答えられる、それは芸術的な気質と科学的気質が結合したものだと。……
小説の質を試すのにいい処方箋は、結局のところ、詩の正確さと科学の直感とを結び合わせることだ。芸術の魔法にどっぷりと身を浸すために、賢明な読者は天才の作品を心や頭で読まず、背筋で読む。たとえ読むあいだ、少々超然とし、少々私心を離れていなくてはならないとしても、秘密を告げるあのぞくぞくとした感覚が立ち現れるのは、まさにこの背筋においてなのである。かくして、官能的でかつ知的でもある喜びを感じながら、わたしたちは芸術家がトランプ札で城を築くのを見まもり、そのカードのお城が美しい鋼とガラスの城に変貌してゆくさまを見つめる。

 

けれども、ナボコフほどの読みの達人でないと、どうしてもこういうことが気になってしまう。

どこからどこまでが一流で、どこからが二流なの?

『ハワーズ・エンド』が好きなんだけど、好きになっても大丈夫? もしかして、これは文学的な価値から見たら、二流?

ウィリアム・フォークナー、マルグリット・デュラス、ドナルド・バーセルミ、イタロ・カルヴィーノ、ホルへ・ルイス・ボルヘス、ミラン・クンデラ、ディヴィッド・ロッジ、カミロ・ホセ・セラ、このなかで読まなければいけないのは、だれとだれ? 読まなくても大丈夫なのは?

漱石の評論って、それだけで図書館のワンコーナー占めるくらいあるけど、読まなきゃいけないのは、どれとどれ? 気にしなくていいのはどれ?

文学と文学じゃないただの「小説」って、どうちがうの? そもそも文学っていったい何なの?


***

これは文学だろうか。

便器の中にもぐる、おれを見ろ、
とんでもねぇ愚かなこと!
小便するものがいませんように、
ヒャー ヒャー キャホホ

実はこれはトマス・ピンチョンの『重力の虹』(越川/植野/佐伯/幡山訳 国書刊行会)の一節なのだが、これは

E=mc2だって? 正解だよ、アルバート君。でも計算の過程も書きたまえ。

(ケンブリッジ大学の落書きより マーカス・チャウン『僕らは星のかけら』糸川洋訳 無名舎)

と、どうちがうのだろう。

まえに別のところでもふれたけれど

私たちは輪になって踊り、想像してみる。
でも、「秘密」はまんなかにすわって、知っている。

これは、『秘密はすわる』というロバート・フロストの二行詩だ。
けれども作者名もタイトルもなしで、この文章だけを見たとき、どう思うだろう。
これはどうだろうか。

青いテレビの光のなかで
わたしはアニメのコースターの裏に
カナダの地図を描いた。
そしてその上に、あなたの顔を二回、描き込んだ。

(Joni Mitchell "A Case of You" アルバム"Blue"所収)

さらに、これは?

時は 流れない。
それは 積み重なる。

(かなり昔のサントリー・リザーブのコピー。微妙にちがってるかもしれない)

これは?

こんやは二時間も待ったに
なんで来てくれなんだのか
おれはほんまにつらい
あんまりつらいから
関西線にとびこんで死にたいわ

(阪田寛夫「葉月」部分 詩集『わたしの動物園』)

どこからどこまでが詩で、どこから詩ではなくなるのだろうか。
わたしにはその境界がわからない。

そもそも線を引くことにどれほどの意味があるのだろう、と思うのだ。
わたしの読みのスキルがたいしたものではないせいなのかもしれないのだけれど、一流と二流、文学と非文学に線を引いてもしかたがないような気がする。

たしかに、これはいい、と思うものもある。これはゴミだ、と思うものもある。
けれど文学ではないとわかっているのだけれど、わたしは横溝正史の『悪魔が来たりて笛を吹く』のなかで金田一耕助が船に乗って、瀬戸内の小島を訪れるシーンがどうしようもなく好きで、ときどき読み返さずにはおれなくなる(それも全編を、おまけにクソ忙しいときに限って)のである。もー、好きなものは好きなんだから、ほっといてちょうだい、なのである。

西田幾多郎が谷崎潤一郎の小説を表して、「人生いかに生きるべきかを描いてないからつまらない」と言ったという話を昔聞いたことがある。……無意味な発言とは思わないが、それがなければ文学ではないというのは困る。危険でさえある。こういうことが透けて見える作品、つまり、これは何々を問題にした作品というようなことがはっきりと分かる作品にしか価値を認めないという態度は、どんな文章に出会っても内容にばかり気をとられて文章には目が留まらず、筆者の意図、あるいは問題意識というものは容易に読み取れるはずだど期待し、それらしきものをつかんだと思えばそれで安心し、もう文章などは忘れてしまっている。つまり読み捨てにするという態度であり、それは文章に対する人間の態度を浅薄にし、ということはおのずから人間そのものを浅薄にするからである。

(柳沼重剛『西洋古典こぼればなし』岩波同時代ライブラリー)

柳沼の意見は、基本的にそのとおりだと思う。
また、西田だったら確かにそう言ったかもしれないなー、と思うし、おそらく谷崎を読んだことなんてなかっただろうし、読もうとさえ思わなかったかもしれない。けれども、そう言った西田は、浅薄な人間とはほど遠いし、哲学の著作が難解であるのはともかく、随筆はおどろくほど透明度の高い文章である。そうした人物が、文章を読み捨てにしたとは思えない。

つまり、何が言いたいかというと、文学か、文学でないか、読むべきか、読まなくていいのか、それを決めるのは、そのひとなのだ、ということ。西田は西田なりの尺度があった。そうして、その選択も、意志決定も、結局はトータルなそのひとの現れなのだ、ということ。
つまり、ここまで来ると、何を読むか、どう読むか、ということは、ほかのあらゆる行動と同様に、そのひとから離れてはあり得ない、ということになってくる。大袈裟な言い方をしてしまえば、そのひとの在り方と決して無関係ではないのだ。

一流、二流を峻別したナボコフは、おそらく夥しい量の本を読みつつ、自分の尺度を鍛え上げていったのだ。
『ヨーロッパ文学講義』も『ロシア文学講義』も、『マンスフィールド・パーク』や『ボヴァリー夫人』、『アンナ・カレーニン』などを、ナボコフというすばらしい導き手に手を引かれつつ読むための本であって(ムチャクチャ手に入りにくいけれど)、そうした作品に「一流」というお墨付きを与えるためにあるわけじゃない。

また、一流の文学書を読んでいれば、それだけでスキルが身につく、というものでもないだろう。
一流も二流も、文学も非文学も、ゴミも肥やしも、手当たり次第読んで、読み飛ばしたり、再読したり、わかんねーぞー、作者の頭が悪いのか、こっちの頭が悪いのか、悪いのはどっちだ〜、と呪いの声をあげながら、評論も読みつつ、元の本に戻っていき、それを繰り返し、そうして少しずつ理解を深め、読みのスキルを高めていく。

それでも、なにを読んだらいいのだろう。つぎは一体何を?
そういう不安はつきまとう。
わたしたちはもはや真っ暗ななか、遠くの月明かりだけをたよりに道を歩いていけるようにはできていない。

だから、導き手を探す。
本について、書かれたものを読む。読むことについて、書かれたものを読む。
先導者を探す。
それも、自分の気持ちをなぞってくれるようなものではなく、ナボコフのことばを借りると「自分と同じ考えが心地よい衣裳をまとって変装している」文章を探すのではなく、逆に、自分が揺らいでしまうような、あぁ、しまった、そういう読み方もあったのか、と思わせてくれるような。

そうやって読んでいけば、かならずめぐり逢える。

自分が決定的に変わってしまうような本。
その本を読んだあとでは、世界もちがったふうに見えてくるような本。
もう、以前の自分には戻れない。前のように、世界やものごとを見ることはもうできない。
そんな本に会える。
そうして、それは一回だけではない。数は多くはないけれど、かならず何度か訪れる。

だから、どれだけ読んだことがない本があっても、焦らなくてかまわない。
少なくとも、わたしはそう思う。
Se a vida e, That's the way life is.

生といふは、たとへば人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかひ、われかぢをとれり、われさををさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。この正当恁麼時を功夫参学すべし。この正当恁麼時は、舟の世界にあらざることなし。天も水も岸も、みな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。このゆゑに、生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。舟にのれるには、身心依正、ともに舟の機関なり。尽大地・尽虚空、ともに舟の機関なり。生なるわれ、われなる生、それかくのごとし。

(道元「全機」『正法眼蔵』)

 生というのは、例えば、人が舟に乗った時のようなものである。この舟は、自分が帆を使い、自分が舵を取り、自分が棹を差すけれども、舟が自分を載せているのであって、舟のほかに自分というものは無いのである。自分が舟に乗って、この舟をも舟ならしめるのだ。この正当恁麼時(まさに、そのような時)の在り方を努力して追究し参学すべきである。この正当恁麼時は、舟が世界そのものなのであって、世界でないということはないのだ。天も水も岸も、みな舟の機能となっているのであって、まったく舟でない様態と同じではない。
 そんなわけで、生は、自分が現出させるのであり、自分を生の自分ならしめるのである。舟に乗っている場合には、身も心も、環境世界も本人自身も、ともに舟の働きである。大地の全体も虚空の全体も、ともに舟の働きである。生である自分、自分である生、それはこのようなものにほかならないのだ。

(森本和夫『正法眼蔵読解4』ちくま学芸文庫)

何度も読み返すことを書いておきながら、全巻を通読したわけでもない、ごく部分的に読み、しかもろくすっぽ理解もしていない本をあげるのはおおいに気が引けるのだけれど、わたしは、思想とも仏教とも無関係にこの部分を読んだ。

一艘の小舟に乗って、川を下っている自分がいる。川底に棹が触れるのを感じ、舟の揺れと、風と、流れていく空を感じる。舟が自分であり、自分が舟であり、空であり、流れていく岸の風景であり、水である感覚。まさに、なにもかもが一体となった感覚。この世界を出現させているのが、ほかならない自分である、ということ、また自分をここに出現させているのは、世界であるということ。そうして「生なるわれ、われなる生、それかくのごとし」という。

わかった、とか、気に入った、とか、心に滲みた、なんてことばじゃ全然足りない、そう、自分の奥深くが震え、揺らぎ、わたしの震えが伝わって、本そのものが共振するのを感じ(それがたとえ思いこみに過ぎなくても)、そうして自分自身が変わってしまい、もはやこの本がない世界になんて生きていたくない、と思うほどに変わってしまったのである。ついさっきまではこんな一節がこの世界にあることさえ知らなかったのに。知らなくても平気だったのに。

それが文学であろうがなかろうが、そんなことはたいしたことじゃない。
そんなめぐり逢いの可能性がある、というのに、ほかに理由がひつようだろうか。






初出March.2-4, 2005、改訂March.5, 2005



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