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声に出して読むということ



1.声の記憶

まずはささやかな記憶から。

小さい頃、毎晩寝る前に母が本を読んでくれた。その習慣は、かなり大きくなるまで続き、絵本が『ドリトル先生航海記』や『ノンちゃん雲に乗る』になり、やがて詩になっていった。

寝る前の一編の詩。
母が持って来ていたのは、文学全集の「日本の詩歌」の巻で、高村光太郎から始まっていた。
当然のことながら何を読むかの選択権は母にしかなく、子どもに理解できるかなどはおかまいなしに、結局は自分が好きなものを読んでいたような気がする。朔太郎はずいぶん読んでくれたけれど、光太郎で読むのは「智恵子抄」だけ、これはよくない、誰それはつまらない、と、勝手なことを言っていた。なかでも西脇順三郎が好きだったようで、意味などまったくわからなかったが、不思議なことばの響きに、母を間に挟んで弟とふたり、笑い転げた記憶がある。後に記号論の本を読んでいるときに、「シンボルはさびしい」ということばが不意に浮かんできて、なんだろう、なんだろう、と記憶を探っていくと、このとき読んでもらった順三郎の詩の一節だった。

そのころのわたしが好きだったのは、宮沢賢治の『永訣の朝』。詩というよりも、物語のように聞いていたのだと思う。死んでいくトシがかわいそうで、聞きながらふとんをかぶって泣いた。
詩のなかにでてくる「あめゆじゅとてちてけんじゃ」というリフレインは、いまでも祈りのことばのようにわたしの胸の内に響いている。
岩手の冬、土地に生きるひとが雪と氷のなかで発する「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は、どのような響きを持つのだろうか。
わたしが聞いたそのことばには、普段は聞くことのできない、母が育った山陽の、乾いた土と穏やかな冬の陽のにおいがした。

また別の記憶。
高校の倫理の授業だった。ある日、一枚のプリントをもらった。一面、漢字ばかり、横にひらがなでルビが打ってある。仏教の回で、「お釈迦さんの思想をコンパクトにまとめたもの」として、般若心経のプリントをもらったのだった。簡単に語句の説明があったあと、それまでだるそうにほおづえをついて喋っていた高齢の先生が、居住まいを正して読み始めた。読経ではなく、臍下丹田に力をこめた、一音一音を前に押し出すような、聞いている側も、前へ、前へと押し出されていくような、非常に力強い朗読だった。そうして最後に、それまでとはまったくちがう、不思議な音を聞いた。
「ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ばじそわか」
これまで聞いたどんな朗読とも、あるいは、音楽ともちがう、自分の奥底にすうっと落ちていくような、同時に、自分がもっと大きな、はるか遠くのものと響き合うような、不思議な音だった。その感覚を忘れたくなくて、家へ帰ってもその先生の真似をして、繰り返し繰り返し読んだ。自分の口から出る音には、力強さも不思議さもなかったけれど、読んでいると、そうして、自分の声を耳で聞いていると、自然と心が澄んでいく感じがした。

声に出して読む、というのは、どういうことなのだろう。
黙読と、音読ではどうちがうのだろう。
そのことについて、考えてみたい。


その2.音読か黙読か

質問:あなたはいつごろから黙読を始めましたか?

そう、誰しも初めは音読から入る。
小さな子どもは繰り返し読んでもらううち、絵本の内容をすっかり覚えてしまい、字も読めないうちから本を「読み」始める。だが、それはたんにものまねをしているにすぎない。

そのうち、この「お話」をつなぎとめている「もの」に意識が向かい始める。
紙に印刷された、絵とはちがうもの。等間隔で並ぶ、曲がったり、丸まったりしている不思議な記号。そうして字を覚え始め、こんどは一字一字拾いながら読んでいく。
やがて、一字一字から、まとまった固まりとして拾い上げることができるようになると、読み方も格段に進歩する。でも、まだまだ読むときは声に出している。

わたしの場合、音読から黙読に切り替えたときのことを、非常によく覚えている。母から「目で読んでごらん」と言われたのだ。そのほうが速く読めるし、たくさん読めるよ、と。(わたしはこの時の記憶から、かなり長いこと、耳で聞く「もくどく」ということばに「目読」という字を当てはめて理解していた)。
すでに物語の魔力に取り憑かれていたわたしは、それに飛びついた。「ことば」だの「表現」だのはさておいて、なによりも、それからどうなるか、が一刻も早く知りたくて、「速くたくさん」読める黙読は、願ってもない方法だった。そのときからわたしの読書は黙読が中心になる。

つまりここでわかるのは、本は黙読するのが「あたりまえ」ではないということなのだ。むしろ、音読があたりまえ、黙読というのは後天的に獲得される技術としてあるのではないか。

では、つぎの質問。
歴史的に考えて、人間はいつごろから黙読するようになったと思いますか?

これに関しては、柳沼重剛の『西洋古典こぼればなし』(岩波同時代ライブラリー)の「音読か黙読か」に、非常におもしろい考察がされているので、興味のある方にはぜひそちらをお読みいただきたいのだけれど、ここでも簡単にふれておく。

黙読が行われたことを示す最古の証拠、とされるのは、397年から401年に渡って、アウグスティヌスによって書かれた『告白』の一節による。

かれ(※アウグスティヌスの師アンブロシウス)が書を読んでいたとき、その眼は紙面の上を馳せ、心は意味をさぐっていたが、声も立てず、舌も動かさなかった。……かれはいつもそのように黙読していて、そうしていないのを見たことは一度もなかった。 (『告白』服部英次郎訳 岩波文庫)

このあと、アンブロシウスはどうしてそういう読み方をしているのだろう、とアウグスティヌスが理由を考える記述が続くのだが、つまり、このことからわかるのは、四世紀後半に黙読する人間がいた、ということ、そして、それはその理由を考えなければならないほど奇妙なことだった、ということがわかる。

それ以前にも、この場合は黙読しているのではないか、という推論の裏付けになる記述はなくはないのだが、それが手紙であったりして、「本の黙読」を決定づける根拠にはなっていない。ともあれ古代では、音読があたりまえ、黙読の習慣は一般にはなかったのだ。

西洋の古代では、音読があたりまえだった、と想像できる根拠はほかにもある。
中世のある時期(9−10世紀)までは、

  1. 文字はすべて大文字で小文字はなかった。
  2. 句読点も発明されていなかったために使われなかった。
  3. 語と語の分かち書きもされていなかった。

仮に英語をその要領で書いてみよう。先日翻訳してみた『閉ざされたドア』の冒頭である。

HUBERTGRANICEPACINGTHELENGTHOFHISPLEASANTLAMPLITLIBRARYPAUSED TOCOMPAREHISWATCHWITHTHECLOCKONTHECHIMNEYPIECETHREEMINUTESTOEIGHT

原文はこれ。

Hubert Granice, pacing the length of his pleasant lamp-lit library, paused to compare his watch with the clock on the chimney-piece.
Three minutes to eight.

こうやってみると、大文字と小文字、カンマとピリオドが入ることで、文章はどれだけ読みやすくなっているかよくわかると思う。
つまり、最初のような文を読むときは、単語の切れ目に注意しながら、また、声に出して句の切れ目の位置を確認しながら読むことになる。つまり、声に出すことによって、自分の頭の中に句読点を打つ、ということなのである。

では、逆に考えてみよう。
なぜ古代ギリシャではそのように読みにくい形で表記がなされたのだろうか。読みにくさを解消するための工夫がなされなかったのだろうか。

柳沼はプラトンの『パイドロス』を引きながら、こう説明する。

書かれた言葉というものは、「生命をもち、魂をもった言葉の影にすぎない」(276a)とか、書くということは、知ったことを「むなしく水の中に書きこむことだ」(276c)とか……プラトンにとっては、音読・黙読どころか、語る、または聞く、あるいは対話をすることだけが真の理解に達する道であり、書かれた言葉は、語られた言葉を思い出させるための記録・符丁にすぎない。

たとえば楽譜を想像すると、わかりやすいかもしれない。演奏者にとって、楽譜はあくまでも、曲の「記録」であり「符丁」である。正確にさえ書かれていれば、演奏者以外が読めなくても、いっこうに問題ではない。当時の本とは、いまで言う楽譜のようなものだったのだ。

ところが「書かれた文章」が、書き手の話を聞くことができなかった場合はどうなるだろう。
詩人や哲学者が自分の作品を語って聞かせる、それが音読のそもそもの始まりであった。やがて聴き手の輪は拡がっていく。日常的に聞くことができないため、その「記録」を手元に置いておきたい、と思う人が出てくる。さらに、著者の話を直接聞いたことがない、「読む」ことによって作品に初めてふれる人が出てくる。

句読点を含む表記法は、西洋にあっては一種の革命だった。その表記法がおこったのは、六世紀、アイルランドである(参考文献:M. B. Parkes, "Pause and Effect: An Introduction to the History of Punctuation in the West")。
アイルランドは、ローマを中心とする当時のキリスト教圏で、いわば最果てに位置する。そこでは書かれた言語(ラテン語)を、生まれてから一度も耳にしたことさえない人も多かった。そこでの書物は「語られた言葉の記録・符丁」ではありえず、文字は音をともなわない、独立した伝達の道具となったのである。そうした文書の意味を理解していくために、句読点は必要不可欠であったし、黙読せざるをえない。キリスト教の辺境の地でおこった表記の革命は、こうしてヨーロッパ全体に広まっていくのである。

だが、黙読が読書の中心になっていくのは、もう少し時代が下るのを待たなければならない。
音読から黙読へと移り変わるのはいつの時代からなのだろうか。

では、最後の質問。
西洋で、音読から黙読へと切り替わった大きなきっかけはなんだと思いますか。


その3.音読から黙読へ

まずは質問の答を考えてみよう。

「音読から黙読へと切り替わった大きなきっかけ? それはグーテンベルグの活版印刷でしょう」
そう思うでしょう?(いや、わたしがそう思っただけなんだけど) ところがどうもそうではないらしいのだ。

以下は前田愛『近代読者の成立』(岩波現代文庫)を典拠とする。

デイヴィッド・リースマンは"The Oral Tradition, The Written Word and the Screen Image"のなかでこう述べている。

じつにグーテンベルグが出た後でさえ、現代の読書の方式が一般化するまでには長い時を要した。書物は独りで読まれる時ですら、声をあげて朗読された。そのことは文字が発音通りに自分勝手に綴られた(ジョンソン博士の辞書が正字法を統一するまでは)ことにも示されている。印刷された行をななめに、頭を梭(※機織りのときに横糸を通すもの)のように素早く動かしながら、黙ったままで脚光を浴びない内密な読み方をすることを学んだのは――これはいかにも彼等然としている――清教徒である。

このようにリースマンは、十八世紀に入ってから、ピューリタニズムのもとに「内面的な読書の方式」が生まれた、としている。

事実、今日わたしたちが読んでいるような散文の小説が登場するのは、十八世紀を待たなければならない。それ以前の文学の中心は、上演を前提とする戯曲であり、朗読を前提とする詩だった。十七世紀までの読書と言えば、「声に出して読むこと」だったのである。ピューリタニズムの影響が、実際どの程度あったものかは定かではないけれど、活版印刷の発明から約三世紀の間は、印刷物はしだいに広範に普及するようになりつつも、未だ人々はサロンや家庭内で、朗読し、その声に耳を傾け、また、ひとりで読むときも声を出していた。

では、日本の場合どうだったのだろうか。
まず、柳田国男は音読を口承文芸の伝統を引くもの、とする。

……以前の人は声を出して本を読みました。それで一人が読むと他の多くの者が面白く聞き、平がなさへ読めぬ者までが、一同に今いふ文学を味ふことが出来ました。是は文字の教育が普及せぬ以前、人が暗誦をして口から耳へ承け継いで居た名残りと私たちは見て居ります。(『女性生活史』引用は『近代読者の成立』からの孫引用)

事実、明治十年代から二十年代にかけての下町中流家庭は、日常的にこのような光景が見られた。

夕食後奥蔵前の大火鉢のある一室に、家中の女・子供・女中が集って、行燈で影絵を写したり、きしやごはじきをしたり、縫物をしたりして団欒のいっときを過す、祖母がその音頭をとり、ときには修身談を聞かせる、そういう雰囲気のなかで草双紙が読まれたという。(『近代読者の成立』)

このことは当時の識字率とも関係があった。明治時代の識字率を知る手がかりになるものとして、前田は明治二十一年の石川県の壮丁(成人男子)の調査をあげている。4583人中、自主的に読むことのできる能力を備えるものが1869人、約41%。明治五年の新学制を通過して成年に達した世代がこのような率を示している。女性の場合、就学率が男子の半分にも満たなかったことを考えると、さらに低かったであろうことは想像に難くない。
読みものへの関心と読みたいという欲求を抱えた潜在的な読者が、ひとりの読み手を囲んで耳を傾ける。家族が一室に集まって、団欒のひととき、読み物を楽しむ。江戸後期の草双紙などの戯作文学、明治に入ってからの小新聞のつづきもの、講談の速記などは、こうやって声に出して読まれ、耳で聴かれるものだったのである。

だが、そうした物語の「伝達」手段としての朗読のほかに、日本にはもうひとつの朗読の伝統があったことを前田は指摘する。
江戸時代、士族や地方豪族の子どもは、早ければ五歳、遅くとも十歳前後には漢籍(四書五経などの儒学書)の素読を始める習わしがあった。明治に入っても、この伝統はしばらく続いていく。
素読というのは、意味などはさておき、とにかく声を出して読むことである。先生の後について、ひたすら音読をしていく。

漢籍の素読はことばのひびきとリズムとを反復復誦する操作を通じて、日常のことばとは次元を異にする精神のことば――漢語の形式を幼い魂に刻印する学習課程である。意味の理解は達せられなくても文章のひびきとリズムの型は、殆ど生理と化して体得される。やや長じてからの講読や輪読によって供給される知識が形式を充足するのである。そして素読の訓練を経てほぼ等質の文章感覚と思考形式とを培養された青年たちは、出身地・出身階層の差異を超えて、同じ知的選良(エリート)に属する者同士の連帯感情を通わせ合うことが可能になる。しかも漢語の響きと律動に対する感受能力の共有を前提に、漢詩文の朗読・朗吟という行為が、あたかも方言の使用が同じ地域社会に生息するもの同士の親近感を強化するように、この連帯感情を増幅する作用を示すのである。

明治初期には家族内部でのコミュニケーションとしての「朗読」、そして学士たちの、文章のリズムを実感するために音吐朗々と誦する「朗読」、日本にはこの二種類の「朗読」があったのである。

ところがこの伝統は、明治五年に施行された新しい学制とその下での新しい教育、識字率の向上、また印刷技術の進歩などさまざまな要因が相まって、次第に失われていく。

こうして読書は西洋でも日本でも音読から黙読へ、という流れをたどってきたことがわかった。
そのうえで前田のいう「ことばのひびきとリズム」ということに注目してみたい。ことばのひびきとリズムを感じとる、ということは、音読でしかできない、黙読では決してできないことである。音読から黙読へと移行することで、失った最大のものは、これではないだろうか。
だが、「ことばのひびきとリズム」を体得する、というのは、いったいどういうことなのだろう。


その4.ことばがひびく、リズムを感じる

お嬢:月も朧に白魚の、篝(かがり)もかすむ春の空。冷たい風もほろ酔ひに、心持ちよくうか/\と、浮かれ烏(がらす)のただ一羽。塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹の滴(しづく)か濡れ手で泡。思い掛けなく手に入(い)る百両。
 ――ト、懐の財布を出し、につこりと思入。この時、上手にて、
厄払:御厄払ひませう、厄落とし/\。
お嬢:ほんに今夜は節分(としこし)か。西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落とし。豆沢山に一文(いちもん)の、銭と違つた金包み。こいつァ春から、縁起がいいわへ。

(今尾 哲也『三人吉三廓初買 新潮日本古典集成』新潮社)

これは歌舞伎のなかでも「大川端の場」として知られるもっとも有名な場面、そうしてこのせりふは江戸末期から、今日よりほんの二、三世代前ぐらいまで、知らない人はないというほど、人口に膾炙されたものである。由来が何であるかは知らなくても「こいつァ春から…」という部分だけでも知っている人はいまも多いにちがいない。
作者は幕末から明治にかけて、江戸歌舞伎最後の狂言作者である河竹黙阿弥。生涯に三百五十本もの作品を書いた黙阿弥自身、この『三人吉三廓初買』を「会心の作」としている。

ためしに「お嬢」のせりふを声に出して読んでみてほしい。七五調の、なんともいえない口調の良さは、なんの背景知識がなくてもそれだけで楽しむことができる。そう、このせりふはことばがひびいているし、リズムがあるのだ。
渡辺保は『黙阿弥の明治維新』(新潮社)のなかで、このせりふの魅力の秘密を三つの点から解き明かしている。

 第一に、そのうたわれている景色のよさである。早春の朧月夜に、川面に点々とうかぶ隅田川名物の白魚舟の篝火。川端を急ぐ人影。そういう絵が詩になっている。単にそれは一幅の絵だというわけではない。……世界の聴覚化だというところが大事なのである。……八百屋お七の姿をしたお嬢吉三は、このせりふの直前に、可憐な女からおそろしい盗賊の姿になる。この二つの世界――八百屋お七の世界と現実のお譲吉三の世界との危うい破れ目を縫うためにこそ、この耳に快いせりふがあらわれるのである。……
 第二に、この名せりふは、ごくリアルな手順から生まれてくることに注意しなければならない。これは現在、実際に上演されている舞台を見てもよくわからない。たとえば、現在は、お譲吉三が、おとせから金を奪って、太郎右衛門から庚申丸の刀を奪うと、いきなり、「月も朧に」になる。……しかし黙阿弥の書いたのは、そうではなかった。……黙阿弥は、実にリアルなのである。そのリアルさを周到に描いておいて、おもむろに七五調にいろどられた世界があらわれる。……このことは同時に、この非現実的な言葉のつくる世界が、きわめて現実的な世界と表裏一体のものだということである。お譲吉三の名せりふは、この二つの世界をつなぐものであり、その二つの一体感をつよめるために存在しているのである。……
 そして、第三に、この名せりふが七五調で書かれていることに注目しなければならない。……それはだれでも体験することだろうが、このせりふを聞き、読んでいるうちに、人はそのリズムにのって、いつか意味もイメージさえも感じなくなって、ただひたすらリズムだけを感じるようになってしまう。そうなれば、そこにあるのは、そのようなリズムに身をまかせている人間の身体そのものだけである。詩の空洞化は、同時に詩を口ずさむものとしての身体の復権を意味しているのである。

ことばによって、イメージが浮かび上がる。わたしたちはそのイメージを耳から聴く。徹底してリアルだからこそ、幻想的なイメージ。けれども、いったん浮かび上がったイメージも、ことばのひびきとリズムを感じるているうちに、次第にぼやけ、霞んでいく。残るのは読んでいる声と自分の身体だけ。そのうち身体がふわりと浮き上がっていきそうだ……。

音読には身体が密接に関わってくるようだ。その観点から、もう少し考えてみよう。


その5.頭でわかる、身体でわかる

読むことについての優れて実践的な指導者に、竹内敏晴がいる。彼の『ことばとからだの戦後史』(ちくま学芸文庫)という本のなかで、「こえによってよむ」とはどういうことかが考察されている。

まず竹内は、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』を援用しつつ、ことばには二種類がある、という。
ひとつは、情報伝達のためのことば。
そうしてもうひとつは、情念、イメージ、思索などが、からだの奥からわずかに姿を現して、「ことば」の形に「なる」瞬間の「今生まれ出ることば」。

社会生活の中で、人は前者を獲得しなくては生きてゆけない。だが、それは操作することはできるが、それによって人は生きるという感じを持つことはできない。後者が生まれ出る瞬間、人は生きることを体感する。それは常に私たちのからだの内に、あるいは世界に満ちて待ちかまえている。近づいてくる。だがそれを把えるのは、というより把えたと自覚することは、いかに難しいか。この作業に障害を賭けたものを人は詩人と呼ぶ。が、無自覚の中に子どもは原則として常にこの世界にいるのだ。そして敢えて言えば、ことばに障害を持つものが、その全身をかけて発する一語もまたつねにこの種のことばであり、それ故に、社会的流通不能であることも多いのである。
 だとすれば、たとえば、詩を、声に発して「よむ」ということは、一度生まれ出た、しかしそのまま凝固されて文章化し印刷され、ものと化した「ことば」を、再び「今、生まれ出る」姿そのものに甦えらせる作業だ、と言いうるだろう。それは情報伝達のための音操作という技術では跳びこえることの不可能な次元に立っている。

ことばには二種類ある、という竹内の指摘は、わたしたちも実感しているのではないか。
たとえば
「ロバート・フロストは二十世紀前半のアメリカの詩人である。彼は『秘密はすわる』という有名な二行詩を書いた」
という文章と
「わたしたちは輪になって踊り、想像する。
でも、『秘密』はまんなかにすわって、知っている」
という文章を較べてみる。

最初の文章はフロストについての情報である。わたしたちはその意味をそのまま受け取ればよい。
だがつぎの文章を読んだだけでは、意味を受け取ることができない。「踊る」もわかる。「想像する」もわかる。「すわる」もわかるし、「知っている」もわかる。「わたしたち」も、「秘密」もわかる、つまり、語としてわからないことばはひとつもないけれど、それでも何を言っているのかわからない。

だが、あるときこんな経験をする。会議に出る。表面的には活発に意見が交換されているけれど、実はもう決まっていることがそれとなく感じられる。なんでそういうことになっているのだろう、どこらへんでこの話は決まったんだろう、ばくぜんとそういうことを考えているときに、ふっとこの詩を思い出す。ああ、あの詩はこういうことだったんだ。
詩が解釈できるようになったわけではない。けれど、自分は確かにあの詩が「わかった」と思う。どういうふうにわかった、と説明することはできないけれど、詩が深く自分のなかに入ってきて、自分が世界を見る見方を少しだけ変えた、と思う。これももちろん「わかる」ということだ。

ことばが二種類あるのなら、わたしたちのわかりかたもまた二種類あるのだ。
わたしたちがことばを身体化しつつ理解していくメカニズムを説き明かした『ことばと身体』(尼ヶ崎彬 勁草書房 )という本があるのだが、そのなかでこのような指摘がある。
わたしたちが「知った」と思うとき、知識は正確か不正確か、というだけである。
けれども「わかった」と思うとき、その理解は深いか浅いかである。
『秘密はすわる』を書いたのが、アメリカの詩人ロバート・フロストであることを知ったときは「頭に入った」と言い、『秘密はすわる』がわかった、と思ったときは、「腑に落ちる」「呑み込む」という言い方をする。
わたしたちはこのように、「理解する」ということを身体化してとらえているのだ。

少し視点を変えてみよう。
友だちと会って話をしている、とする。
そのとき、情報のやりとりは、会って話をすることの眼目ではない、というか、情報のやりとりが眼目の関係を「友だち」とは呼ばない。
ことばを聞く。けれどもそれは情報を交換するのではなく、ことばの向こうにある「相手」を理解しようとする行為である。

尼ヶ崎はこういう場合の聞き手が相手のことばを理解するとは、「自分の心身によって相手の心身をなぞることにほかならない」とし、ウィリアム・コンドンの「相互シンクロニー」という現象を紹介している。
向かい合って話す話し手と聞き手の動きは、まるで鏡に向かい合うように同期する、というのである。
わたしたちは話相手の身体の動きを自らの身体でなぞる。意識しての行動ではない。コミュニケーションの流れのなかで、わたしたちの身体は、自然に呼応していくのである。
あたかもダンスをするように。

つまり、わたしたちはコミュニケーションというと、ことばを用いて情報をやりとりすることだと思いがちである。ところが実際にはことばというのは、表面にあらわれたほんの一部にすぎず、心身の全体的な活動なのである。ことばのやりとりを通じて、相手の身体をなぞり、その意味を身体で理解しているのだ。

もういちど竹内のことばに戻ってみる。
多くの場合、わたしたちを取り囲んでいるのは、情報としてのことばである。けれども、わたしたちは決してその処理だけを目指しているのではない。
そのことばをみずからのうちに取り込みつつ、情報の向こう側にある発し手の身体をなぞり、取り込んだことばを身体化しようとしている。「理解」とは、そういう一切合切を含めたプロセスなのである。

声に出して読む、とくに詩のような「今生まれ出ることば」、情報とは本質的に性質を異にすることばを声に出して読むことは、受け手であるわたしたちの身体をくっきりと浮かび上がらせ、身体を通じての深い理解する、ということなのである。詩人によって生み出されたことばが印刷されていったん「死」に、ふたたびわたしたちが声に出すことで、息を吹き返す、そうしてそのことばは、わたしたちの身体に受肉されたのである。


その6.詩を読む

谷川俊太郎の詩に「みみをすます」というものがある。

みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます

みみをすます
いつから
つづいてきたともしれぬ
ひとびとの
あしおとに
みみをすます
……

先にあげた竹内は、これが授業の研究会で扱われた様子を紹介する。ほとんどの教師たちが

みみをすます
きのうのあまだれにみみをすます

と読んだとする。

それに対して、作者の谷川俊太郎は、

みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます

と読んだという。
この読み方はどうちがうのだろうか。

竹内は、教師たちの読み方では、二行目は一行目「みみをすます」の説明にしかならず、また最後の「みみをすます」は単なる繰り返しになってしまう、という。
その読み方は意味を伝えようとするもの、つまり、語の意味を解釈してあるパターンにまとめてしまい、情報伝達の処理がなされてしまったその結果を受け渡そうとする読み方なのである。
「感じとる」と主張している人からが、結局はその人の抒情的なり人生論的な解釈を「読む」「感じとる」ことを強いているにすぎない。
しかも、さらにこまったことに、そうしている当人たちが、まったく無自覚にそのような読み方をしているのだ。

それに対し、谷川は、詩を書いたそのままに、息の流れを切り、一行一行を独立して読んだ。

みみをすます

ここで聞き手は自分に向かって差し出された声を受け取る。

きのうの

ここで、聞き手の身体は、「今」から「きのう」へと引き戻される。

あまだれに

選ばれた事象に、聞き手は向かう。

みみをすます

この四行目は、第一行とはまったく次元の異なる発語になっている。
竹内は言う。一行一行のことばに出会う時に、目覚めてくる驚きが、詩をよむ、ということではないか、と。

詩をよむ、とは、解釈をよみ上げるのではない。感情をうたうことでもない。ことばをよむ、のであり、一つ一つの音にふれて、おのれのからだの内なるものが、広がり、動き、呼びさまされてくること、それに向かいあい、問い直し、受け取るプロセスにおいて、新しいおのれに出あうこと、世界に出あうことに他ならないのである。(『ことばとからだの戦後史』)


その7.自分の声に出会う

慣習化は仕事を、衣服を、家具を、妻を、そして戦争の恐怖を蝕む。……そして芸術は、人が生の感触を取り戻すために存在する。それは人にさまざまな事物をあるがままに、堅いものを「堅いもの」として感じさせるために存在する。芸術の目的は、事物を知識としてではなく、感触として伝えることにある。

(ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』せりか書房)

現代のわたしたちは、速く、たくさん読むために、黙読がすっかり中心になってしまった。たとえ文学作品を読んでいるときでさえ、ストーリーを追っていく、つまり、情報を受け取るのに夢中になってはいないだろうか。
標準的な散文を読むときは、音に耳をすましたりしない。新聞を読んだり、雑誌を読んだりするときは、それでもいい。けれども、ことばを等しく「情報」として扱ってはならない。そうしてはならない種類のことばが、世界にはいくつもある。

竹内敏晴の『日本語のレッスン』(講談社現代新書)は、声に出して読むことをすっかり忘れてしまっているわたしたちに、具体的なレッスンを施してくれる本である。

まず、この本では「自分の声に出会う」ことから始める。 「自分の声」は知っている、と思っている。けれども、竹内はそうではない、という。

ああ、これが自分の声だ、と納得した時、自分が現れる。これが自分だ、と発見するということは、自分をそう見ている自分もそこにしかと立っているということで、ふだんの自分が仮構のものだった、固まった役割を演じていたのだと、霧がはれたように見える。世界が変わってしまう。目が開く。比喩ではない。実際に相手の顔が、周りの世界の隅々が、くっきりと、初めてのように見えて来るのだ。深ぶかと息をすると、自分の存在感が変わる。世界のまん中に自分が立っていると気づくと言ってもいいか。自分がこの世に落ち着くのだ。自分の声に出会うということは、自分が自分であることの原点である。

声に出して読む、ということは、自分が表現する主体となる、ということだ。内的に理解する、感じとることを越えて、さらに、声によって、他者と共有する存在しないものを創り出すことだ、と竹内は言う。
たとえ目の前に聞き手がいなくても、声に出して読むことは可能だ。
ひとは祈るとき、かならず声に出す。祈りの対象を呼び出し、自分の声を届けるために。なにもない空間に、祈りの対象を生み出す、といっても良いかもしれない。
ことばが「もの」を殺すのだとしたら(※「ことばで読む、ことばを読む」参照)それを「もの」としてではなく、別のやり方で生き返らせることが、声に出して読む、ということなのかもしれない。

本を読み始めた人間は、最初はみんな音読をしていた。わたしたちは豊かな音読の歴史を持っているのだ。さまざまな理由はあるけれど、いまのわたしたちはひたすら情報を消化し、処理するために黙読をむしろ強いられているのかもしれない。そうしているうちに、自分の声や身体をどこかに置き忘れたまま。
けれども文学は、シクロフスキーの言うように「生の感触を取り戻す」ために存在しているのだ。

何千年かたった。地上にはひとが増え、もはやひと以外の動物を養うほどの植物を栽培する余地がなくなってしまった。地上には、ひとと、ひとのための諸施設、住宅とか道路とか食料生産施設などしかなくなった。海中には食用のための魚が泳いではいたが、もはや空中には一羽のとりもみられなかった。「とり」は伝説の生きものとなった。
 ある日、すべてを知る機械にひとがたずねた。
「とりとは何か?」
 機械は答えた。
「鳥とは以下の遺伝子的特徴をもつ生物である。即ち……」
 ひとは伝説を思いだして、問いかたを変えた。
「とりは飛ぶというのは本当か?」
「鳥のあるものは空中を飛翔し、あるものは水中を泳ぎ、あるものは地上を高速で走行する」
 ひとは感動した。言い伝えは本当だったのだ。空飛ぶ生きものは実在したのだ。
「それはすごい! じゃ、とりはこの世でいちばんすばらしいからだを持った生きものなんだ」
「すばらしい? どうして? 鳥のあるものは二階から落とせば死に、あるものは水につければ死に、あるものは地上を幼児よりも遅くしか走れないのだよ」
 すべてを知る機械は肉体をもたないことを思いだし、ひとは問答をやめて外に出た。そして空に向かって全身の筋肉を揺るがして叫んだ。
「とり!」
   ひとはからだが風を割って進んでいるのを感じた。(『ことばと身体』)


 あなたの「とり!」は風を切りますか?






初出Feb.11-17,2005、改訂Feb.22, 2005



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