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聴いた、観た、買った 〜Jazz を聴くお稽古 編

2007-7-3:《The Lie Lay Land》はポストモダンのサーカス

The Lie Lay Land
world’s end girlfriend
B0007G8CZ2


"world’s end girlfriend"を聴くのは初めてです。これまで、まったく名前さえ聞いたことのないグループでした。そうして、《The Lie Lay Land》を聴いて、最初に思ったのは、ものすごく怖い、ということでした。

正直、"We Are The Massacre" 一回しか聴いてません。あんまり怖くて、よく音楽を聴いて鳥肌がたつ、という表現がありますが、そんな生やさしいものではありません。怖くて怖くて、わたしは実際に身体がガタガタ震えました。一度聴いたら、もういい、っていう感じ、だからいつも一曲目、二曲目をスキップして、三曲目から聴いています。

これまでわたしが一番怖いと思った曲は、クリムゾンの"Thrak" なんですが、それとは別に、モーツァルトの「アヴェ・ベルヌ・コルプス」もやっぱりちがう意味で怖い、と思っています。"Thrak" は怖い音を意図的に目指してる。それに対して、なんというか、「アヴェ」は人間の音楽じゃない、みたいな。ちがう世界から来る音が音楽になった、という感じ、まばゆい白色光(目を焼きそうな)を見ている感じ。
この曲は、その両方の怖さの要素を感じました。

音楽というのは、実は言葉でずいぶん中和されてるんだな、と思います。
感覚に言葉を介在させずダイレクトに届くぶん、よけいに衝撃を受けました。
"We Are The Massacre"は、Oceansizeの"Music for a Nurse" と一緒で、パッフェルベルのカノンが底にありますよね、Oceansize はこのミニマルな要素を異様な緊張感に高めていったけれど、"We Are The Massacre" はそんなもんじゃありません。子供の笑い声がやがて悲鳴に、そうして、人の身体を刺して、肉を、内臓をかき回す音に変わっていく、それが単純なメジャーコードと、単純なだけに美しい旋律にのっていくんですから。こんなもの、作っちゃいけません。人に聴かせるもんじゃない。若くておそらく経験も少ない彼が(これはあくまでひとりの頭の中から生まれたものだ)何を思ってこんなものを作ったのか、作った彼自身、よくわかっていないような気もするけれど。
わたしは人間の残酷さなら知っています。教えてもらわなくていい。こういうかたちで聴かせてもらわなくていい。だから、わたしはこれは聴きません。

一曲目も合わせて飛ばすのは、このバンド、ホーンセクションが実にヘタでしょ、最後の"Unspoiled Monster" なんかも高校生のブラスバンドがやってるみたいだ。だからまあいいや、って(笑)。

ギターとドラムと、ストリングス、というかヴァイオリンとチェロはうまい。とくにドラムのしなやかで軽い疾走感、軽いんだけど湿度があって、竹とかそんな質感を思わせる、まぎれもなく日本人の音、とても良質の音を出す人です。ギターもいい(ギターが作曲者かしら?)、この人、大変な才能がある感じ、一種、水際だった音です。ベースもいい。にもかかわらず、信じられないくらい、トランペットもサックスもヘタだ(笑)。これは意図してやってるのかもしれませんが。ただ、このバランスの悪さが、不安定な感じの、良い効果を産んでいるのも事実です。
わたしがポストモダン建築を思いだしてしまうのは、もしかしたらこのホーンセクションのバランスの悪さからかもしれません。

このアルバムの白眉は、"Give me shadow,put on my crown." だと思います。
どんなメロディも、いまのわたしたちにとっては「すでに聴いたことのあるメロディ」でしかない。その「聴いたことのある」「どこか懐かしい」メロディをもうひとつ作るのではなくて、寄せ集めて、別の文脈に置いて、緊張感と、宙づりにされた感じと、神経に障るノイズをミクスチュアすることで、ひとつの球体(なかは空洞)を描いてみせた。

ほかにも"the owl of windward"のギターの奥行きを感じさせるトレモロとか、シンセサイザーの響きとか、「禿げ山の一夜」ならぬ夜の森で一夜を過ごす音は印象的だし(ここのサックス、そんなに悪くないんですよね。やっぱりあれはわざとかな)、"Garden in the Ceiling"のギターの音もすごくいい(だけどこれはフルートもサックスもペットもすごいヘタ。うーん、わざとだろうか。昔のサーカスみたいなキッチュな雰囲気を出すために?)。You Tube で聴いたときはなんでサーカスかちっともわからなかったけれど、"Scorpious Circus"も、確かにポストモダンのサーカスだ。
"Black Hole Bird"の四分過ぎたあとぐらいからのドラムは、このアルバムのマイ・フェイヴァリットです。

このところ日々聴いているOceansize と通じるものはあります。だけど、Oceansize はポップミュージックをまだ信頼しているし、愛してる。だけど、この人(作曲者)は何も信頼していない。おそらくこの人は出自は古典音楽の人だと思います。ポップミュージックも山のように聴いて、現代音楽の勉強もしている。だけど、この人は自分が創りだすものは、何かまったく新しいものだ、と思っているような気がする。人間に与える一番強い衝撃が「恐怖」だから、あえてそれを前面に押し出して、聴く者を根底から揺さぶって(すでに聴く者が持っているメロディをなぞらえるのではなしに)どこかへ強引に連れていこうとするような。

若いんだな、と思いました。
こんなふうに感じるのは、もしかしたらわたしが歳を取ったせいかもしれません。

いろいろ文句も言ってるんですが、それは、それほどわたしがこのアルバムから強い衝撃を受けたということです。根底から強く揺さぶられた。 ガタガタ震えるほど。おりにふれ、聴くことになるアルバム、わたしの世界を広げてくれるアルバムとなりました。

2006-9-23:ティモンズのモダンなピアノ 〜《サン・ジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ》vol1.-3 を聴く

ボビー・ティモンズのピアノの音を聴いていると、そして、彼が作った曲を聴いていると、わたしはいつも「モダン」という言葉の持つ懐かしい響きを思います。
あの"Mornin'"の冒頭の、「お洒落」という言葉が、いまみたいに決して「表面」のことだけを指すものではなかったころの「お洒落さ」、思わずニヤッと笑っちゃいたくなるようなピアノソロ、ほんとうは何かの拍子に生みだされるはずの「粋」みたいなものを追い求めてたら、結局は堕落するしかなくなっちゃうんだろうな、みたいな、軽妙洒脱のギリギリの線をいってる"So Tired" のピアノソロも、過去に戻って、「いま」を遠くに見ているようなそんな不思議な感じがします。

このジャズ・メッセンジャーズのアルバムも聴くようになって二十年近くがたちますが、不思議なことに、昔はあんまりティモンズのピアノ、聴いてなかった。
もちろん、夢中になったのはリー・モーガン、うっとりするくらい、カッコイイから。
純粋に音の明度だけいったら、この人くらい明度の高い、夾雑物のないトランペットの音をわたしはほかに知りません。って、あんまりホーンは知らないんですけど(笑)。
だけど、いまは、ティモンズ、聴いちゃう。何か、たとえ一時代的な、その風景のなかでしか生きられないような音でも、その風景とともによみがえることができるのだ、と思う。

昔の映画って、どうしてもストーリーに没入できませんよね。髪型とか、服装とか、後ろを走っている車だとか、そういうものに、つい、目が行ってしまう。そういうものを見ながら、「あの時代」というのを追体験している。ティモンズのピアノを聴いていると、同じようなことを思います。たとえばモンクのどの時代のアルバムを聴いたって、全然そんなことを思わないのに。それはおそらくティモンズの資質だということなんでしょうね。

2006-1-31:《At Montreux》 と《Inner Voyage》

Discovery: Live at Montreux
Discovery: Live at Montreux
Gonzalo Rubalcaba
Inner Voyage
Inner Voyage
Gonzalo Rubalcaba

ついこの間、アマゾンで "Discovery: Live at Montreux" を買ったんだけど、届いてから毎日、駅へ行くときも、電車の中でも、昼ご飯を食べてる間も、家へ帰って雑用をしている間も、寝る前のちょっとの時間も、聞いて、聞いて、聞き倒すくらい聞きました。

なんていうんだろう、もう恋に落ちちゃって、どうしようもない、に近い感じ。

何を見てもルバルカバって、「超絶技巧」とか書いてあって、これまでちょっと不満でした。うまいのはわかってるから、もうちょっとマシなこと書いてよ、みたいに。
だけど、これを聞いたら、そう書かずにはいられない、っていうのが、よくわかった。

技術っていうのは、ここまで人を魅了するんですね。
圧倒的な技術を前にしたら、もうそれに賛嘆の声をあげるしかない。もう、好きになるしかない。

ただね、この人は、ピアノの「音」を持ってる人だと思うんです。

ピアノっていうのは、とりあえず音を出すことに苦労はいらない楽器です。だからわりと「音」を作るまえに、「音楽」の演奏になっちゃう場合が多い。っていうか、ルバルカバを聞く前は、あんまりこんなことを考えたこともなかったんですが。考えてみれば、そんな気がする。

"Diz"を聞き、"Inner Voyge"を聞き、三枚通して聞いて、はっきり思ったんですが、この人は、技術よりも音楽よりも前に、おそらくは意識的に「自分の音」のイメージがあって、それに向けて音を作っていった人のような気がするんです。そうして、いまも核にあるのが、「音」なんだと思う。

この「音」っていうのは、「音楽」じゃない。だから、なんというか、言語化を拒む部分がある。だからうまく言うのがむずかしいのだけれど、そういう部分があって、そのうえに「音楽」とか「技術」みたいなものがあると思った。

だから"Diz"はとっても好きなんだけど、"Inner Voyge"の方は、もちろんあれだけ生き生きとしたピアニシモを演奏できるのは、ほんと、この人しかいない、とも思うんだけど、何か、そっちの方へ行っちゃうのかな、みたいな、つまり、「リリシズム」みたいな、音楽の領域、もっと言っちゃうと、わかりやすい解釈の領域に行っちゃうのかな、みたいなところがあるなー、って思ったんです。何か、そんな方には行ってほしくないぞ、みたいな。

もしかしたら、また変なことを言っているのかもしれません。
ああだこうだ、って、たいしていろんな人を聞いてるわけじゃないんですけどね。

これを聞いてみたら、この人を聞いてみたら、っていうのがあったら、また教えてください。

2005-10-28:初めてのルバルカバ 《Diz》を聴く

Diz
Diz
Gonzalo Rubalcaba

とにかく音を聞いた瞬間、ルバルカバの手のイメージが浮かんだ。肉厚の、大きな手だ。指のほうではなく、てのひらのほう。

ピアニストというのは、もちろんギタリストでも、ヴァイオリニストでもそうなんだけど、手によって音が全然変わってくる。キース・ジャレットなんかのつよい、よくしなる指が連想される音もあるし、モンクだとわたしは固い関節をイメージしてしまう(この固い関節から繰り出されるぽろぽろという音が、なんだかよくわからないけれどその音の向こうに拡がりを感じさせて、わたしはとってもすきなんだけど)。ルバルカバの場合、その音から感じるのはふっくらとした手だった。もちろん現物はどうだかよくわからない、単に音からくる印象に過ぎないのだけれど。とにかく、肉厚で柔らかくて暖かい、さわってみたくなるような、もう少し言ってしまえば、頬に当ててみたくなるような手だ。

指がどれだけ速く鍵盤を駆け抜けても、ひとつぶずつ(音が確かにそう聞こえる)際だっている音は、非常に澄んでいて、しかも柔らかく、暖かい(ときに、熱い)。柔らかさ暖かさと透明感はなかなか共存しにくいのだけれど(たとえばビル・エヴァンスの音は大変にクリアだけれど、冷たい)、ルバルカバの複雑な音は、さまざまな相半する要素を含んでいる。これは大きな、肉厚のてのひらからしか絶対に出てこない音だ、と思った。

この音の複雑さは、ルバルカバの音楽の複雑さにも相通じるものがあって、もちろん圧倒的なテクニックもあるし、そのテクニックからくる、なんとも言えない自由さもあり、聞いていて心地よい、楽しい、解放感もあるのだけれど、それだけでは言い尽くせない、一種の難解さ、みたいなものがあるような気がする。あるところまで行って、ふっと理解を拒むようなところ。簡単にわかっちゃダメ、みたいなところ。

だって、"チュニジアの夜"なんてすごいもの。わたしはアート・ブレイキーのを持ってるけれど、あんな楽しい曲がここまで知的な、一種、ソリッドな曲になってるとは夢にも思わなかった。まぁロン・カーターもそういう音を出してるんだけど。なにしろピアニッシモで終わってしまうのだもの。

とにかくこの人の複雑さはすごくおもしろいし、しばらく気合いを入れて聞こうかな、とも思う。これは"憧憬"も聴かなくては。ところで"Inner voyage"と"憧憬"は同じアルバムなんでしょうか?

ただ問題は、朝もはよから聞く音楽じゃないんだよね。夜はブログ書き終えたら、もう眠くなってるし、なかなか時間をひねり出すのがむずかしい……。

2006-06-04:ルバルカバとブレイキーの〈チュニジアの夜〉

まだ、カバー曲について、考えています。
なんでカバーって、その人のある種の部分、生地みたいなものを垣間見せるんだろう。

やっぱり、カバーっていうことで、あっと息を呑むような経験をしたのは、ルバルカバの〈チュニジアの夜〉です。まぁ正確にいうと、こういうのはカバーとは言わないのかもしれないけれど。

だけど、〈チュニジア〉っていうと、だれもが思い浮かべるのはあの、アート・ブレイキーとジャズメッセンジャーのあの三枚のアルバムのうちの一枚でしょ? ウェイン・ショーターのサックスの音であり、リー・モーガンのトランペットであり、もちろんブレイキーのドラムであり(これ、ウッドブロック叩いてるの、だれなんでしょう? 微妙にクセのあるリズムですよね)、スリリングでありながら、あの異様な熱さであり、聴いてると血がざわざわする感じだ。

これが、ロン・カーターのベースから始まってくルバルカバの方は、もう、この緊張感はどうだ、って感じですよね。もちろんこんなにピアニシモのうまいピアニストはそんなにいないんだけど、それだけじゃなくて、ふっと音がとまる瞬間っていうのが、すごい。ブレイキーの〈チュニジア〉が、血をざわつかせて、人を踊り出させる音だとしたら、ルバルカバの〈チュニジア〉って、同じように血をざわつかせるんだけど、それは固唾を呑ませ、ひとつの音も聞き漏らすまいとするようなざわつかせかたです。曲が終わって、ああ、自分がいままで息を止めて聴いていたんだ、って、初めて気がつくような感じ。

もちろん、このちがいというのは、ジャズそのものが変わっていったってこともあるんだろうけれど、もうなんというか、曲の解釈というか、音楽の質そのものが、ブレイキーとルバルカバじゃ全然ちがう、っていうのが、異様にはっきりとわかります。

ああ、そうか。だからなんですね。

同じ曲を別のプレイヤーが演奏することによって、わたしたちはよりはっきりと、具体的に「比較」ができる。だからこそ、それぞれのプレイヤーのちがいが際立ってくるわけですね。
当然、カバー曲をする人は、そのオリジナルを十分に聞き込んでいるわけです。そうして、その人のうちにおろし、こんどはその人のフィルターを通して、送り手になっていく。つまりカバー曲というのは、ひとりの聴き手としてのその人と、その音楽のプレイヤーとしてのその人の両方がいるわけで、その人に関する「情報」が多くなっていくのも当然だ。そうやって、オリジナルのプレーヤーと比較しつつ、つまり「差異」のうちに、そのプレーヤーの資質なり、表現なり、音楽観なりを聴きとることができるわけです。

ふたりのプレイヤーの資質的な差、技術の差、解釈の差、音楽そのもののとらえ方の差、それを比較対照することによって、よりはっきりと理解できる。

ルバルカバのチュニジア、すごいです。青をどんどん濃くしていって、闇の寸前までいった、そんな色が音の向こうにひろがっています。



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