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聴いた、観た、買った 〜Rock に精進 編



2007-6-12:キース・ムーンのキュートな音〜《 Who's Next 》を聴く

Who's Next
The Who
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最近The Who の《Who's Next》をよく聴いてます。
ニール・パートの影響を受けたドラマーにキース・ムーンの名前が挙がっているのを見て、You Tubeでとりあえず見てみたんですが、驚いた。なんでこんなにキュートな音を出すんだろうって。

それから、図書館で《Who's Next》を借りてきて、繰りかえし聴いています。
高校時代、たぶん一度か二度、聴いたことがあるはずなんですが、よくわからなかったんだと思うんです。
なんというか、その独特な感じ、リリカルで繊細なんだけど、いっぽうでちょっとケルトっぽい音をミクスチュアさせた感じ。このケルトっぽい音は、もちろん一曲目のヴァイオリンのメロディのことを直接的には指してるんですが、だけどヴァン・モリソンにも通じるような、部分的に借りただけじゃなくて、全体を流れてるニュアンスもある。作りとしてはこの時代独特の、雑然とした、ソフィスティケイトされてない感じはあるんですけれど。

そうして、このアルバムの40%くらいを決めているのが、キース・ムーンの、とにかくかわいい、もうかわいいかわいい、ってふるいつきたくなるようなチャーミングな音です。この音が出せるのはこの人しかいない、って感じです。いったいどうしたらこんな魅力的な音が出せるんだろう、って。
ザ・フーの音は、やっぱりキース・ムーン抜きにはありえない。

ニール・パートはダカダカダカダカと叩くとき、四拍目の「カ」に、装飾音符がつきますよね。そこばっかりじゃなくて、ときどき裏の拍の最後にタララって感じで軽く入れる。この音は、キース・ムーンから来てるんですね。キース・ムーンのこの装飾音は、なんというか、いたずらっ子みたいな、やんちゃな、でもおっそろしく正確な音だ。すっごい真剣な遊び、って感じ。ただ、この人はムラがあったろう、と思います。

だけど、ニール・パートの音は、それを限りなく正確に、硬い、揺るぎのない域に高めていっている。百回叩いたら、百回、同じ音が出せるように作り上げていっている。「硬い」といっても、弾力と豊かな質感があって、確かな、独特の響きを出して、向こうに広がっていく感じを持たせているんですが、それでもあきらかにキース・ムーンを聴いて、そこから作り出していった音だ。
おまけに、ニールさんのすごいところは、音、変わっていってますよね。まぎれもなく、音が成熟していっている。

Oceansizeのドラムの人も、ときどき、キース・ムーンに似た音を出すような気がします。この人は装飾音符はつけないんだけど、軽めに叩いたときのすごくいい音の質感がキース・ムーンに近い。まだ途上って感じですが。

Porcupine Tree のドラムは、Oceansizeのドラムを聴いたあとで聴くと、ちょっと辛いように思います。以前は「硬質の音」と思ってました。いまは「浅い音」と思います。この浅さがちょっと辛い。ベースの人、ギターの人、キーボードの人、それぞれにわたしは好きなんですが、このドラムは、ちょっと、です。

いいアルバムです。確かにあの時代のアルバムではある。いまの文脈で聴こうと思ったら、やっぱりつらいです。時代と関係ない曲ではないから。だけど、キース・ムーンのキュートな音だけは時代と関係ない。
そうなんですよね。ある種の音は古びないんです。そんな音です。この人、成熟できっこないのはわかるんだけど、でも、やっぱり年を取らせたかったなあ、という気もします。世界一、かわいいおじいちゃんになったかもしれないのに。



2007-1-18:Rush! Rush!! Rush!!! 〜《 Moving Pictures 》を聴く

ラッシュのアルバムは4枚目です。三週間ほど、朝な夕な、聴いてます。

ニール・パート(ピアート、って書いた方がいいんでしょうか。だけどピアートという表記だって、かならずしも Peart に対応しているわけではないのだから、とりあえず、従来の表記にしたがって、パートと書きます)に関しては、「日付のある歌詞カード "Losing It" by RUSH」でずいぶん書いたので、ここではライフソンのこと。

ラッシュって、それぞれに「自分のリズム」を持ってますよね。ベースのゲディ・リーはうねるような、じっくりと持ちこたえる腰の強いリズム、もちろんドラムのニール・パートは、精密機械をしのぐ、「これぞリズム」といいたくなるようなリズム、そうしてギターのライフソンは軽くて湿度の低い、なんというか、からっ風みたいなリズムです。おそらくこの人は陽気で、音はちっとも大ざっぱじゃない、緻密で繊細な音も出すのだけれど、音楽のこととか好きなことはとことん凝っても、それ以外ではあまり細かいことを言わない、聞きたがらない人なんだろうなあ、って感じがする。複雑なニール・パートと、おっそろしく繊細なゲディ・リーには、どうしてもアレックス・ライフソンが必要だ、って感じ、よくぞこの三人が集まった、って感じです。
で、このアルバムではそのライフソンのカッティング・ギターが聴けます。

とくに〈XYZ〉なんて曲は、わたしの好きな(その1)ユニゾン(その2)変拍子(その3)カッティング・ギター、と三つの要素がそろい踏みで、一瞬、わたしのために作ってくれたのかなあ、なんて思っちゃうほど。
この曲は、“ダー、ダ、ダ、ダー|ダー、ダ、ダー、ダー|ダー、ダー、ダ、ダ”という変拍子(3/8→7/16→3/8)のリズムを基底にして、これを4拍子に変奏したベースとギターのユニゾンのリフ(とってもキャッチーな二小節)がさまざまにヴァリエーションを作っていく、という構成になっています。それをベースが地面を作り、ドラムが空間を作り、ギターが吹き抜けていく風になって演奏するものだから、何か三人でやっているとは信じられない、広さと奥行きと爽快感がある。

カッティング・ギターといえば、わたしはジョン・フルシアンテのリズムがものすごく好きで、あの人のリズムは沸き立つみたい、泡がポコポコ浮かびあがってくるようなリズムだと思うんです。だからレッド・ホット・チリ・ペッパーズじゃなくて、フルシアンテのリズムを聴いている。

もちろんカッティング・ギターの音を教えてくれたのは、U2 のエッジです。メロディがリズムを刻むというのは、こういうことなんだ、って、わたしはエッジのギターで知りました。ただ、固い、切り落としていくこのリズムは、たしかに「エッジが効いた」、シャープなものですが、むしろ彼のリズムの感覚自体はごくオーソドックスなもので、とくに個性は感じません。

ライフソンのカッティング・ギターは、スポットライトが当たっている音。ぱっとそっちを見ずにはおれないような華やかな。たぶん、どうやってやろう、とか考えたことがないから、こんな音が出せるんだろうなあ、って思います。こんな人もいるんだよなあ、かなわないなあ、みたいな。それがからっ風になって吹き抜けていくんだなあ。いったいどうしてこれを好きにならずにいられましょう、って感じです。

これは YouTube のライブ映像なんかを見てもそうなんですが、12の力がある三人が、4くらいで軽く、楽しみながらやっている印象が強い。音の遊びがここにはあるなあ、なんて思います。ラッシュって、よく難解だって書いてあるけど、どのアルバムにもこの「遊び」の要素、ユーモアがあると思うんですけどね。音楽の世界に長くいた人たちだからこその余裕、一種の「軽み」というか。このユーモラスな音を聞き逃しちゃもったいない。



2006-10-23:幸せな、ひたすらに幸せなアルバム 《Dream Theater Offical Bootleg: THE NUMBER OF THE BEAST》を聴く

フッフッフッ(不敵な笑い、と受けとってください)。

買いましたよ。
いや、高かったです、つか、一緒に本も買っちゃったから懐が痛んだ、とも言えるのですが。

Tadah!

Official Bootleg って論理矛盾のような気もしますが"The Number of the Beast by Dream Theater" です!!

いや、何か書こうかと思ったら、魂抜かれて、一枚全部また聴いちゃいました(笑)。 つくづく、楽しそうな人っていうのは、まわりを幸せにするんだな、って思いました。

"canned music" って言葉がありますよね。いまはあんまりこんないい方はしないけれど、レコードができて間がない頃、まだまだライブ演奏が中心だった頃に、レコードのことを「缶詰めにされた音楽」と呼んだ。
それからずいぶん時は流れて、いまやライブは一種の贅沢(っていうか、わたしにとって、ってことですけれど)、"canned music" を繰りかえし聴くのが、「ふつうの聴き方」です。

でもね、やっぱりそれって転倒してるんだ、ってこれ聴いて思いました。

繰りかえし聴かれ、こののち、百年も二百年も残っていくことを前提として、練り上げられ、完成され、ひとつひとつの音にあらゆるものをこめようとしたのが、そうした"canned music"だとしたら、音ではなくフレーズ、フレーズではなく曲全体として演奏されるのがライブなんだ。音そのものは一瞬で消えてしまうけれど、消えることによって、つぎの音が生まれ、フレーズが流れ去っていくことで、つぎのフレーズが出現し、聞き手の中で「曲」として形になっていくのだ、って。そうして、その場にいる聴衆との「呼吸」が合ったときの感じ、聴衆の喜びが伝わることによって、演奏する側の喜びが増幅される、みたいなものが、ライブにはあるんだな、って。

たぶん、どんなに名演奏といわれるものでも、「実況録音」として、そうでないものと比較してみれば、そうでない、スタジオ録音の方が完成度はたぶん高いのだと思うんです。
だけど、ライブ演奏には喜びがあります。畑で収穫したばかりの野菜に包丁を入れたときに、ふわっとたちのぼってくる、いのち、としかいいようのない匂いがあると思うんですが、それに近いものがある。行かなくちゃ、って思いました。つくづく、その場にいなかったのが悔しかったです。

とくに、これ、自分たちのオリジナルではないでしょう?
ものすごく真剣な遊びって感じがします。ただ、好きで好きでたまらない曲を演奏する喜び。これをやったころの思い出。同じようにやろうとして、苦労に苦労を重ねたけれど、いまはこんなにも自由にできる、っていう喜び。まねして、まねして、まねして、を続けたのちに、いつのまにか自分の音になっている。ほんと、ここには喜びがあります。
やっぱり、テクニックのぶんだけ、積み重ねた月日のぶんだけ、人は自由になるんだって。
おそらく、この人たちにしかわからない楽しさがあるんだろうな、って思います。だれかがリードして、そのだれかに合わせて、っていうんじゃなくて、それぞれが好きなようにやってるのに、それがピタッと一致する、なんて、奇跡みたいなことが、ごくあたりまえに起こってる。なんだかすごいな、って。
だから、聴いてると幸せになる。

何か、ライブ録音を聴くっていうのも「Official Bootleg」という言葉と同じような、どこか矛盾があるような気がするんですが、それにしても、これ、買って良かったなって思います。

たぶん、同じドリーム・シアターのアルバムでも、これより、"Awake" とか"Metropolis Part 2" の方をきっと回数としたらずっと聴くと思うんですね。やっぱりIron Maiden 、とっても好きだけど、曲が単純だし、ミドルネームが我田引水のワタクシといたしましては(笑)ついこういういい方をしちゃうんですけれど、空白の部分、わかんない部分がないっていうのは、やっぱりどれだけ“イイ!”って思っても、どうしても、通り過ぎてしまう(ときどき思い返したように戻りもしますが)音楽なんです。

そうして、これはあくまでDTが好きだから、聴いてしまうアルバムなんだろうと思います。でも、それでこんなに幸せな気持ちになれるんだったら、十分だなって思います。 ほんとうに、楽しんでいる人っていうのは、それだけでまわりを幸せにするんだな、って。



2006-9-25:複雑な人の単純な音〜《How to Dismantle an Atomic Bomb》

はてさて、このあいだ "How to Dismantle an Atomic Bomb" を聴きました。

うーん、それはそれはいろんなことを思いました。それぐらい U2 好きなんだ、ってあらためて思った。

まず思ったのは、ボノってすごく複雑な人でしょ、って同意を求めるのもヘンな話なんですが(笑)、ここらへん、わかってくれる人でなきゃ話が進まない。昔、ボノは複雑な人だから、って言ったら「知ってるのか」と鼻で嗤われたことがありますから。

だって、ねえ、複雑な人ですもんねえ。
そうして、その複雑さは、たとえばブルース・ディッキンソンも複雑な人だと思うけれど、彼の複雑さは Iron Maiden というバンドにとって、別に抜きがたい要素ではない。もちろん独特な色合いを加えてはいますが。だけど、U2 にとってのボノの複雑さっていうのは、エッジのカッティング・ギターと同じくらい、重要な要素ですもんね。これに気がつかない人は、U2 聴いても、何もわかんないだろう、って、それくらい思っちゃいます。

思うのはね、単純な人、複雑な人があらかじめいるわけじゃない。
複雑な人、っていうのは、やはり言語化能力に長けていて、自分のさまざまな局面にともなってさまざまに反応する心情というものを言葉によってすくいあげ、認識することができる人だって思うんです。認識作用は、言語化だから。だから、複雑な人っていうのは、まず、ある程度、内省的で、自分の感情に意識的で、そうして言語化してストックしていく人なんだと思います(順番はもちろんこの通りではありませんが)。

人間の感情というのはだれだっておっそろしく複雑で微妙なものだと思う。
けれども、それに気がついているか、単純に、おおざっぱにとらえてそれで事足りているか、それが複雑な人と単純な人のちがいだ、っていうふうに、わたしは思います。

でね、複雑な人っていうのは、自分をもうひとつ、信じてないところがあると思うんです。
たとえば、ある種の思想信条があるとするでしょ、もちろん複雑な人は単純に正しい、なんて思いこむことはできない。それを闇雲に正しいと思うんじゃなくて、いろんなものを勉強したり、読んだり、ときに比較対照したり、歴史的に跡づけていったりしながら、これはほかのものより「正しい」と結論に至ったとする。
だけど、そう思っている自分を信じ切れない。
信じている自分を、どこか信じてるふりをしてるんじゃないか、とか、信じたがっているんじゃないか、とか、それは自分の一部を他者に委ねようとしているんじゃないか、とか、それは自分にとって正しいことなんだろうか、とか、他人にそう見られたいからそうやってるだけなんじゃないだろうか、とか、それはそれはいろんなことを同時に考えている。 もちろん、その人にとって、その思想信条は大切なんです。大切だから、信じたい、と思う。だけど、信じている自分を、どうしても信じられない。

単純な人が、簡単に自分を預けちゃって、それに身を委ねられるのと、えらくちがう。なまじ言語化能力に優れているばっかりに、自分のなかの微妙な色合いの気持ちまで、相当なところまで把握しちゃってるから。
他人はそこまで細かくわかるわけじゃないから、信じることもできるんです。だけど、自分は信じてない。おそらく、それが複雑な人間だろう、って、わたしは思います。

でね、ボノ、どこまで自分がやってることを信じてるんだろう、って思うんです。
自分がやろうとしてることの正しさは信じてると思う。
だけど、それに携わっている自分がどうしても信じ切れない。だから、あんなふうにつぎからつぎへと行動していってるんじゃないか。そんなふうに行動していけば、いつか自分がほんとうに信じられるんじゃないかって。あの行動力というのは、思想信条とちがうところから出てきているんじゃないのだろうか。

政治的な活動ばっかりじゃなくて、音楽のほうでもそんな感じがします。
どれだけ受け容れられても、自分を信じられない苛立ちみたいなものをやっぱり感じます。一時期みたいに、何でも受け容れる周りに対して一種の悪意さえ持っていた感じはないですけど。

音のほうでは、わたし、あんまりよくわかんないんですが、誰ですかね、やっぱりエッジ? 音楽的に極端に引き出しをたくさん持ってるの。
ものすごくいろんな音楽を聴いていて、そうして、ストックを続けながら、自分の音、U2 の音を作っていってる人がいる。少なくともボノじゃない。だけど、だれかまではわからない。おそらくエッジじゃないかな、とは思うんだけど。ボノがどんな球を出しても、かならずがしっと受けとめてくれる、それで、そこからラストパスを出してくれる。だから、そこを通過すると、どんな曲でも U2 になっちゃう、そんなパス出しの名手がいる感じです。
だから、ボノも安心して自分の一部をすっかり預けてる感じがする。

"How to Dismantle an Atomic Bomb"は、すごく好きです。
わたしは昔から U2 はダンス・ミュージックをやってる、って思ってました。
つまりね、ダンス・ミュージックは、人を立ち上がらせ、踊りたい気分にさせる。一種のアジテーションの要素がなくちゃならないと思う。U2の曲の根本にはこの「アジテーション」があります。もちろん歌詞の政治的な側面のほうが注目されてはいるけれど、その主張も、むしろ言っていることの内容というよりは、さあ立って一緒に踊ろうぜ、のヴァリエーションのような気がするんです。
"Vertigo" っていうのは、まさに、そういう“煽り”の曲だと思った。ああ、この“煽り”が帰ってきたなあ、って。
"City Of Blinding Lights" は、初めて聴いたときは、泣きましたよ(ええ、わたしは複雑な人が出す単純な音にヨワいんです)。だって、あんまり U2 の音がするから。
ああ、U2だ、わたしはこの人たちと一緒に歩いてきたんだ、って。



2006-8-14:コロラドのブルドッグは月に吠える〜《Bump Ahead》

このあいだから頭の中で、♪Wouldn't it be nice if we were older, とブライアン・ウィルソンが歌っているので、〈Pet Sounds〉を図書館に行って借りてきました。
押入にしまいこんであるカセットテープの中にあるのはわかってたんですが、いまは再生の手段がないので(笑)。

だけど、そんな隅々までよく知っているアルバムばかりじゃなくて、何か新しいのが聞きたいな、と思って、なんとなく近くにあった〈Bump Ahead〉もいっしょに借りてきました。
Mr.Bigって例の"To Be With You"しか知らなくて、アメリカのよくあるバンド、なんていうんだろ、アコースティックというよりカントリー色の強い、たとえば"Hootie & the Blowfish"みたいな感じのバンドだと思ってたんです(Hootieはわたしがバイトしていたころ、アメリカ人講師に好きな人がいて、よくテープを貸してくれてました。わたしは日本人では相当早くにHootieを聞いた人間だと思っています、って、これはあんまり自慢にならないか。だけど、ぼけーと聞くのには結構いいんですが)。
まぁ"To Be With You"はカントリーっていうより、白いゴスペルみたいですが。 ともかく、一度聞いてみようと前から思ってたんですが、要するに、そんなに期待してなかったってことです。

で、"Colorado Bulldog"、イイ(・∀・)! じゃありませんか!!

特に、冒頭の、イヌが吠えてるところ、じゃなくて、ベースがウッドベースみたいな音を出してるところ。特に、ベースは全編すんげえカッコイイんですが、でも特にここがスキです。この人、やっぱりジャズのベーシストではない、独特の、弾むような、ではない、なんていうんだろう、一種アスリートを思わせるような、陸上の短距離走者みたいなリズム感があって、その人がこんなふうな音を出す、そこがすごく魅力的です。

なのに、なのに、これ一曲じゃないですか。

うーん、ほかのも、まぁ、悪くないです。歌もうまいしね。ふつうのバンドと思ったら、許す、っていうか、かなり好きになれるかもしれない。少なくとも、ボン・ジョヴィなんかとくらべると、断然好きになれると思う。
だけどなぁ、こんな曲が書けて演奏できる人たちがやる曲じゃないんじゃない? みたいに、これはどうしても思ってしまいます。一曲目にあんなの聞かされると、あとはもう、オマケにしか思えない。

テクニックがある人が、そのテクを全開にせずに押さえて弾いたっていうのは、すごくよくわかるんです。アコースティックギターの音なんかでも、すごくそういう音がする。シンプルな曲ほど、弦楽器は音の精度が要求されるんだな、なんて、改めて思いましたもの。けれど、それは、「何かのために」が必要だと思うんですよね、でも、そこがよくわからない。なんていうか、音だけを聞かせるための曲、っていうには、何か、メロディラインとか、安易だ。自分たちがこれをやらなきゃいけない、みたいな、切実さがない。それだったら、いっそ、オレたちはこんなすごいことができるんだゼイ、ってやってくれたほうが爽快感だけでもある。
コーラスまでうまいっていうのも、なんか、すごいんですが。
だけど、アルバムとしては、うーん、なんか、そこまではすごくない(笑)。
一曲目で、あ、どこか知らないところに連れてってくれるのかな、と思ったら、どこにも行けなかった恨みがあるのかもしれないんですが。

なんでなんだろうなぁ。やっぱり、バンドっていろんなもののバランスがむずかしいんだなぁ、ってあらためて思います。

で、そのコーラスの元祖のThe Beach Boysですが。
わたしはThe Beach Boysは、もちろん有名な曲のいくつかは耳にしていたのだけれど、ボブ・グリーンのコラムで読んだのが最初です。ボブ・グリーンはエルヴィス・プレスリーとビーチボーイズが大好きで、コラムに繰りかえし出てくる。
おもしろいことに、たいてい、グリーンが話をする相手は(たとえばバスケットボールプレイヤーのマイケル・ジョーダン)は、もうビーチボーイズのことなんてあまり知らないわけです。で、あのサーフィンの音楽をやってた人? みたいなリアクションを取る。
それに対してグリーンが説明するわけです。
ブライアン・ウィルソンは父親からの虐待を受けて片耳が聞こえなかった。だから、水に近寄ることもしなかった。
やはりそういう脈絡からThe Beach Boysの曲に入っていくと、どうしても過剰な意味づけをしながら聞くことになってしまう。そんなふうな聞き方をするのに、また〈Pet Sounds〉は、妙に向いたアルバムでもある。
だから、これは一時期、ずいぶん聞きました。

ただ、いまのわたしは、音楽をあんまりそんなふうな「物語」に当てはめたくない、みたいな気持がするんですね。
バックグラウンドを調べて、その人が置かれたコンテクストを理解して、その全体の流れの中で聞く、みたいな、文学ではあたりまえにやっていることを、ちょっとやりたくない、みたいな気分がある。〈Pet Sounds〉もそんなふうに聞きたくない、みたいな。

こんなふうにセミの声と明るい夏の朝の日差しのなかで聞くWouldn't it be nice はやっぱりキュートで、「遠いアメリカ」、エメラルドの都の音がする、なんて思います。



2006-8-21:Bigだけれどfabulousではない《Mr.Big》

Mr.Bigのファーストアルバム、〈Mr.Big〉、聴きました。
うーん、うーん、うーん、"Colorado Bulldog"のセンを期待しなきゃ、悪くないアルバムだと思うんですね。
"Addicted to that Rush"なんて聴いててワクワクしちゃったし(思わずニコニコしちゃいましたよ)、"Take a Walk"のフル・ストップで止まるところなんかも好きだ。
ライブで異様に高いレベルでコーラスやってるのは、ほとんど感動しました(これ、ゴスペル隊みたいなバッキング・コーラス専門の人がいるわけじゃないですよね?)。

とくにわたしはベースが好きなんですけど、ギターにしても、ふたりとも音がすごく純度の高い、澄んだ音を出してる。わたしは基本的に早弾きには感心しないんですが(だってあんなもん、練習すりゃだれだってできるじゃん、って、少しずつ練習で早くしていったわたしはつい思っちゃうから)この音の良さはちょっと感動するものがあります。
あとドラムのなんともいえないみずみずしいリズムもいい。なんていうんだろ、すごくしなやかで繊細な音がします。この音も好きだ。

わたしはもっとブルーズのテイストを期待していたので、ちょっとガッカリしちゃったんですが、そんなにウッドベースの音を聞きたきゃトム・ウェイツ聴いてろ、ってことになっちゃうんでしょうか。
だけど、"Colorado Bulldog"は確かに何かあると思ったんだけど、それがないです。たとえウッド・ベースみたいな音が聞こえなくてもいいんです。なんなんだろうな。よくわからない。ある曲の演奏ににひきつけられて、別の曲にはひきつけられない、っていうの。ごく微妙な差異なんでしょうが。
このアルバム、悪口言っちゃってますが、たぶんかなり聴くと思うんです。ただ、聴くたびに、なんでなんだろう、って思っちゃうんでしょうね。

スタイルが完成されたもののなかで、何か新しいことをやっていこうとするのは、こんなにもむずかしいことなのか、みたいな感じがします。
たとえば〈Pet Sounds〉みたいに、ヘタクソにメチャクチャに思うままやったみたいな自由で放埒で、だからこその切実さみたいなものがない。
そうなんだ、何か切実じゃないんだ、このバンド。だからわたしが好きになる要素ってけっこうあると思うのに、そこまでひきつけられない。

なんかむずかしいなぁ。
テクニックの問題も単純じゃないですね。テクニックがあれば、それだけ自由に、思い通りの音楽が可能なはずなのに。
Wikipediaを見たら、本国ではあんまり人気がなかった、みたいに書いてありました。だけど日本では、高度なテクニックを持つ職人的バンドとして、けっこう人気があったんですね(全然知らなかった……)。
それにしてもドリルを使う演奏って、どこでどう使ってるのかなんとなく想像はつくけれど、一度見てみたいものだと思います。ええ、わたしは早弾きにはちっとも感動しないんですが。

何か、あの"Wild World"、頭に残っちゃってしょうがありません。ふっと鼻歌になって出て来ちゃいます。ああいう安直な歌、キライなんですけどね。
だけど、ギターの音があんまりいいから、つい、クセになっちゃって。マンドリンっぽい音まで出すのは、いくらできるからっていってもやりすぎだと思うけれど。



2006-6-14:Porcupine Tree の《Deadwing》を聴く

"Deadwing" の日々です。二枚目はまだ聴いてません。

これ、コンセプトアルバムですよね?
もちろん自分で買ったアルバムだから、ライナーノーツはついているのですが、何か、ちょっと見ただけで読む気がしなくなって、だからいまだにスティーヴン・ウィルソン以外のメンバーの名前も知らないし、生まれたのが'67年、とあって、あれ、見かけより年が上なんだ、と思っただけです。

だから、もしかしたらコンセプトアルバムだってどこかに書いてあるのかもしれないんだけど。ともかく以下はわたしの解釈です。

このアルバム全体に出てくる you は、「あなた」を意味する you であり、同時に神でもあるわけです。
"deadwing" のwing は、もちろん天使の羽のことで、根底に傷ついた天使、瀕死の天使のイメージがある。主人公は、はっきりとはしない、けれどもおそらくは死の不安にさいなまれている。そうしてジョン・バニヤンの『天路歴程』のごとくに旅に出るんです。
ところがこの主人公はその旅を電車で行くわけです。そうして、電車に乗ってたらエピファニーを月の光のなかに見て、神を感じて、どこでもない場所に行き着いて、そこで女性に会う。で、そこから何か美しいものが始まるのかどうかよくわかんないでいたら、愛を感じた、みたいな流れになってるんじゃないか、とわたしは思ったんですが。またヘンなことを言ってるかしら? ともかくそこに、通奏低音みたいに「父と母の記憶」のイメージが織り込まれている。これはどこかで「前世の記憶」みたいなものをイメージさせようとしてるのかもしれない。

曲のつなぎ目に「背景音」が入っていますよね。かならずしも何の音かよくわかってるわけではないのだけれど、そういうのも、全体がひとつのテーマを持っていることを示しているのではないか、と思いました。

相変わらず、詩型は整ってるし、韻を踏んだり、例の掛詞、縁語、メタファーと巧みな作りです。わたしはこの人の詞が好き。

ジョニ・ミッチェルやエイミー・マンみたいに一種の私小説ふうな、読んでおもしろい詞を作る人はいるんです。わたしはエイミー・マンの〈ゴースト・ワールド〉っていう曲の歌詞が昔、とっても好きだった。地方都市に住む女の子が高校卒業を前に、進路に悩む歌なんですね。大学は手が届かない。地元で仕事を見つけなきゃならない。そうでなきゃここを出ていくか。思い惑いながら、ただぶらぶらしてるんです。だれか頭がいい人が、どうしたらいいか教えてくれないだろうか、って。十代の女の子のなんともいえない気分をすごく的確に表してる。

ブルース・ディッキンソンもうまい(し、おっそろしくいろんな詩を知っていて、わたしもよくはわからないんだけど、コールリッジだけじゃなくて、たぶん、いろんな引用が散りばめられてるはずです。きっとディッキンソン、教養がある人なんだろうなぁ)。だけど、音楽にのせる歌詞として、いろんな制約があるなかで、スティーヴン・ウィルソンみたいにメタファーに富んだ、しかも整った詩を作るのは、すごいなぁ、と思います。

ジョン・レノンなんて、曖昧さと深遠さを取り違えてるのがずいぶんあるような気がする。それがうまくいっちゃったもんだから、ビート詩の流れを汲む70年代の意味不明歌詞がどっさり出てきた(ってまとめちゃいけないのかもしれないけれど)。R.E.M.もその延長上にあって「何か言ってそうで何も言ってない」んじゃないか、とわたしは密かに思ってるんですが。
だけど、スティーヴン・ウィルソンはかならずしもうまくいってないこともあっても、曖昧さは避けようとしてる。よくわかんない"Gravity Eyelids" なんかでも、やっぱりそんなふうに思うんです。

だけど、悲しいことに、詞は詩として完成されるほどに、日本語にはならなくなっちゃう。エイミー・マンみたいに、ああ、この感じわかる、みたいな、共感することができる部分が少なくなっちゃう。詩は、意味だけ伝えても、何にもならないですから。
だけど、やっぱり訳しちゃう。好きだから。たぶん、わたしは、自分で日本語をあてはめることで、自分のものにしたい、という強い思いがあるのかもしれません。

だけど、〈In Absentia〉からずいぶん声が変わりましたね。声がふるえることもなくなったし。すごく喉を鍛えたって感じがする。エコライザーをかけるのが好きなのは相変わらずみたいですけど(笑)。



2006-6-15:アメリカの神と"Deadwing"

何年か前に(もうかなり前です。パール・ジャムが賞を取って出てこなかったのを覚えてる)アメリカン・ミュージック・アウォードをたまたま見てたんです。

そしたら、出てくる人、出てくる人、みんな神を讃える(笑)。
ちょっとキモチワルイくらい、判でついたように、両親に感謝して、神様にお礼を言う。

わたしは壇上に上がった受賞者みんなが勝手に好きなことを言うアカデミー賞の授賞式しか知らなかったので、ものすごく異様な印象を受けました。
ああ、この国(アメリカ)って、こんなところなんだ、って。

よくありますよね、ニューヨーカーはアメリカ人じゃない、みたいな言い方。
わたしたちは、というか、少なくともわたしは、やはり作家やコラムニストを通してしかアメリカ人を知らない。ミュージシャンや俳優を知っていても、その人たちがたとえばどういうことを日常的に言ったり、考えたりしてるかまではわからない。それでも、映画や音楽を通じて、間接的には知っている。

だけど、アメリカ人って、日本人みたいに金太郎飴じゃないから、階層というのがものすごく分化していて、階層によって、見るもの、聴くもの、家や住むところ、車、それこそ購読する新聞・雑誌や飲むビールの銘柄まで決まってくるようなところがありますよね。

だから、わたしが知っているのも、そのごくごく一部にしか過ぎないんだ、って、いつも思います。

そういうなかで、とりあえず、「神を讃える」という一点で、黒人・白人・男性・女性・民族的なバックグラウンド・出身階層、そういったものを抜きに、まとまっちゃうのかな、と。とりあえず「神」に感謝しておけば、どこからも文句は出ない、みたいな。
ユダヤ系の人はなんて言うんだろう、って、そればっかりが気になってたのだけれど、結局よくわかんなかった。

何が言いたいかっていうと、アメリカ人にとっての「宗教」って、なんかよくわからないけれど、一種異様なものを感じます。特に作家にはユダヤ系が多いせいもあるのかもしれないけれど、あんまり宗教をむき出しにしない人が多いから、ふだん、本なんかを読んで、感じることもないのですが、そういうのを見るとちょっとびっくりしました。

もちろんグラミーとアメリカン・ミュージック・アウォードのちがいとか、いろんな要素もあるのだろうけれど。いまはどうなんだろうな。

だけど、おそらくスティーヴン・ウィルソンのこのアルバムの鍵概念である(と、わたしは勝手にコンセプトアルバムと決めちゃったわけですが)「神」っていうのは、アメリカ人がやたらと口にする「神」とはちがうんじゃないか、と思います。
そもそも彼はイギリス人だし、イギリス人、それも英国教会の信者として生まれたイギリス人というのは、もっと神に対して、微妙な距離感(笑)を持っているような印象を受けます。むしろ、「神」というのは、きわめて私的な領域に属することがらで、あまり人前で口にするようなことではない、みたいな。

詩のなかでは、女性(もしかしたら男性かもしれないですけれど)への愛と神を感じることとダブらせているような部分もあるし、汎神的な部分も感じもある。だけど、羽根とか、光輪とか、啓示とか、イメージはあくまでもキリスト教のそれですが。

とにかく、"Deadwing" 凝った作りの曲が多くて、聴いていておもしろいです。

自分のことと較べちゃいけませんが(笑)、わたしも文章を書くとき、あっちこっちからいろんなものを引っぱってくる。そうやって、「テクスト」を作っていくわけです。でね、しばらく経ってから見ると、ヘンな言い方なんですが、自分の書いたものの意味が、だんだんわかってくるんです。

つまり、書いているときには必ずしもわかっていない部分が、もうちょっといろんな本を読んだり、理解が進んだりしているぶん、ああ、これはこういうことなんだ、みたいに。

スティーヴン・ウィルソンの音は、どこまでいっても「ほんとうにわかってやってるんだろうか」って感じなんですが、それも一緒かな、とも思います。

いまの自分っていうのは、単純に、これまで自分が読んだり聴いたりしたものの寄せ集めなんです。それをもとに、何かを産みだしたとしても、その時点ではやっぱりまだ寄せ集めなの。だけど、時間を経てふりかえると、その「意味」みたいなのが見えてくる。そうやって、つぎの「寄せ集め」に進んでいく(笑)。

これはみんなに当てはまることじゃないような気がします。
たとえば、ドリームシアターの、おそらくは、拍子の変更を示す二重線だらけの譜面というのは、むしろ、もっと完成された、っていうか、自分たちが何をしているか、十分にわかってるような一種の「ゆとり」(と、ここまで突き詰めた、という一種の「すごみ」)みたいなものがあるように思う。おっとろしいことをやってるのに、すごく安定した音でしょ。

だけど、カーナビのついていない車に乗ってるみたいな、しかもきわめて方向感覚のあやしいわたしは、自分が何をやっているのか、やってるときでさえわかっていない。「ほんとにわかってやってるんだろうか」っていうのは、わたしに当てはめれば、わかってないんです(笑)。スティーヴン・ウィルソンの、すごく複雑な、いろんなところに細かい仕掛けがいっぱいあるようなあの音も、必ずしもわかってないんじゃないかな。だけど、時間を置いて、ああ、そういうことを自分はやってたのか、みたいに、わかってくるものがあって、そこでつぎに進む、そういう人なんじゃないでしょうか、って、これ、あまりにも自分から敷衍しすぎですね(笑)。



2006-6-03:カヴァーの楽しみ 《Change of Seasons》を聴く

ドリーム・シアターの《チェンジ・オブ・シーズンズ》を聴きました。

もちろん、タイトル曲もおもしろいんだけど(これ、DVDのアンコールでやってる曲でしたよね?)、なんてったってカヴァーがもう、最高です。おいしい、おいしい、って言いながら食べる料理みたい。もうお皿に残ったソースまで、パンでこそいじゃいたい(笑)。イヌだったら、お皿、なめてるところです。

いきなりエルトン・ジョンが出てきたのには笑っちゃいましたが、演奏の重厚さが曲のグレードを三段階くらいあげてるし、ラブリエさん、こういう曲うまいんだ、って思いました。とにかくエルトン・ジョン、震えるくらい嬉しくなっちゃうか、井戸に身を投げたくなるか、どっちかだろうな、って。
あ、あの人、いまはそこまで音楽に執着はないか。

もう、カバーのメドレー、演奏がよくてよくて、ずーっとずーっと聴いていたいくらいでした。ただね、ラブリエさんの "In the Fresh"は、ちがうよなー、って思った。
"Achilles Last Stand"は許す。だけど、これはそれなりにまとめて、「うまく」歌ってるだけに、許し難いものを感じてしまいました。演奏がいいだけに、何か、アタマ来た。

なんていうのだろう。カヴァーって、自分の曲を演奏したり、歌ったりする以上に、その人の「生地」みたいなものが見えちゃうところってありますよね。
うまく言えないんだけど、ラブリエさんという人の「つまらなさ」を感じてしまったんです。あんなにいい声なのに。ライブであそこまで歌える力量のある人なのに。

だけど、ポートノイ、良かったです。
カヴァーであるだけに、何か、逆に、彼の「オリジナリティ」みたいなものを強く感じてしまった。彼がこれまで営々と作り上げてきたもの。音楽が大好きな男の子が、先行する人の曲を、心の底から愛しながら、アオムシが葉っぱを噛むように、自分の内にとりこんできた音。
盗作か、インターテクスチュアリティか、っていうのも、結局そういうところにあるんじゃないか、なんて。

あと、マイオングのベース、ほんっっっと、いいです。特に、ツェップの“アキレス…”のベースのリズム。
マイオングのリズムって独特の柔らかさがある。柔らかな堅さっていうんだろうか。剥きだしにした堅さではない、金属の堅さとは全然ちがう。温かさもある。
これ、なんだろう、なんだろう、と考えて、ずいぶんたってから気がつきました。「手」なんです。だれかの手を握ったときに感じる、あの感じ。人の肌だから、柔らかい、温かい、だけど、その向こうに確かな手応えがある。マイオングのリズムは「手」なんだ、って思いました。すごく良かった。

このアルバム、ほんと、いいなぁ、って思います。だけど、いいときって、結局はマヌケな物言いしかできませんよね。良かった、楽しかった、聴いて嬉しかった。 悪口言うときの方が、ずっとラクだわ(笑)。



2006-7-09:ラブリエさん

ひとつ、気がついたんです。

ラブリエさんの発音が上品だ、って、前からわたしは思ってました。Dream Theaterを初めて聴いたとき、"Pull Me Under" が流れてきて、最初に思ったのは、なんでこんなに「ええとこのボン」の発音でこの人は歌うんだ? ということでした。

DVDでみんなしゃべってるんだけど、ポートノイにしてもペトルーシにしても、東部の大学生みたいなしゃべりかたです。学生らしく適度に崩れてるんだけど、もともとはいかにもきちんとした家の子、っていう感じ(公認会計士とか、企業の管理職とか、先生とかの子みたいな)。だけどラブリエさん、微妙にそれともちがう。もっと凝った発音なんです。普通にしゃべってても。なんでそうなんだろうな、どこがちがうんだろうな、ってずっと思ってました。

で、昨日電車の中で本を読みながらi-podでPink Floydの"The Wall"を聴いてたんですが、ハッと気がついた。 ラブリエさんの"In the Flesh"、違和感があるのは、発音だ!

"So ya, Thought ya" って、歌詞そのものが、かなり崩れた英語でしょ、でロジャー・ウォーターズ(なんでウォーターズって言わないで、この人のことはいつもフルネームで呼んじゃうんだろう? そんなことありません? フレディはマーキュリーともフレディ・マーキュリーとも呼ばないでフレディってファーストネームで呼んじゃうし、ジョン・ボーナムはボンゾ、って愛称で呼んじゃう。ジョン・ボン・ジョヴィは、ボン・ジョヴィのジョン、って清水の次郎長みたいな呼び方になっちゃう(笑)。呼び方には微妙にその人に対する心的距離がが反映されているのかもしれません。わたしがラブリエさんって呼んでしまうのは、最初にDream Theater のヴォーカルを「ラブリエさん」という呼ばれ方で聞いてしまい、カモの子が初めて見たものを母と思うがごとく、わたしの脳裏にはそう刷り込まれてしまったからなんですが、もちろん「ラブリエさん」と呼びたくなるような雰囲気を彼が醸し出している側面も否めません)も思いっきり訛った英語で歌っている。

ところがラブリエさんはそれをきれいな発声で発音してるんです。"ya"の音なんか、まったくつぶれないで、逆に響かせてる。
だから、耳に入ってきたときに、ものすごい違和感がある。

ラブリエさんの発音は、母音を響かせるところにポイントがあるんです。
アルバム《Awake》に所収されている "Scarred" の出だし "To rise, to fall, to hurt, to hate" なんて、"t"の歌い出しから母音へとつなぎながら響かせていく発声が、ゾクゾクするほど美しい。
だからシャウトする曲より響かせていく曲のほうが、あの人の発音のよさが味わえます。ラブリエさんのうまさ、というのは、ことばの響かせ方にあるといってもいいのかもしれない。

ところが"In the Flesh"みたいに、きれいに歌っちゃいけない歌は、違和感がある。もひとつ言っちゃえば、Journeyの"Lovin, Touchin, Squeezin" みたいに内容のまったくない歌をあんなふうに歌うと、これって演歌? みたいに思っちゃう。

そう考えていくと、あの発音も、elaborateなものではないか。発声を学ぶように、発音も学び直してる。ラブリエさんはあきらかに声楽をやった人の発声をしてますから、古典音楽を習ったどこかのプロセスで、発音もたたき直したんでしょう。ふだんあんなふうにしゃべるのかまではわかんないけれど、DVDでしゃべってるときも、MetIIのオープニングのナレーションみたいなしゃべり方をしてました。だけど、あれはナチュラルなものではないだろうと思うんです。おそらく後天的に身につけた発音なんだって。
だけど、あれでふだんもしゃべってたら、まわりはウザイって思うかもしれません。

ただ、それだけの話なんですけど(笑)。
だけど、ラブリエさんのポイントは、発音です(笑)。
言い切っちゃいます。
ブルース・ディッキンソンのポイントが世界を解釈する力に裏打ちされた「表現力」にあるみたいに、ニール・テナントのポイントが重力からも過去からもジェンダーからも切り離された「浮遊感」にあるみたいに、ロジャー・ウォーターズのポイントが「酷薄さ」(同時にそれは自分にも向けられた)にあるみたいに、ラブリエさんのポイントは、「発音」です。
って、わたし、人をおもいっきり類型化してるじゃん(笑)。



2006-3-28:Dream Theater《Metropolis 2000》のDVDを観たゾ!

《Metropolis 2000:Scenes From A New York》のDVDを見ました。

映像というか、編集段階がとにかくダサい(よくわからない画像処理の場面がときどきあります)し、こういうショウというより黙々と演奏するタイプのライブでも、やっぱりカメラワークっていうものがあるんだなあと逆の意味で納得するような(笑)、洗練されていない映像のぶん、Dream Theaterのエッセンスみたいなものがダイレクトに伝わってきて、ああ、この人たちっていうのは、こんな人なんだ、ってよくわかるように思えました。

っていうのはね、いい意味で、垢抜けない人たちだ、って思った。

着ている格好・髪型含めて、みんなすごく垢抜けない(笑)。
だけど、これってすごく重要なポイントだと思ったんです。

つまり、洗練されるためには、意識が自分自身に向かって行かなきゃなりませんよね。 自分に関心をもって、洗練された自分のイメージを持ち、それに向けて自分を作り出していくというプロセスが必要です。
だけど、この人たちの垢抜けなさ、というのは、グランジが一種のポーズ、裏返しの自分の演出であるのに対して、まったくノンシャランな垢抜けなさなんです。え? そんなことより、もっと肝心なことがあるだろうが! みたいな。
自分たちが、どういうふうに見えるか、というのを、ほとんど気に留めていない。
ほんとうに、音楽が好きで、技術の向上、楽曲の質の向上に何よりも関心があるんだ、って思った。そういうところが、ああ、いいな、って。

こんなところでマドンナを持ち出すのも変な話なんですけれど、マドンナの場合は、歌よりもダンスよりも、自分の描くイメージを売ろうとしているのだと思うのです。そのイメージに沿って、自分を鍛え上げていく。音も、ダンスも、ファッションも、あくまでそのイメージの下に統括されています。あそこまで強力に自分自身を作り上げていく、というモチベーションを維持できる人はそうはいないけれど、そうして、それはそれで一種の偉大な創造ではあるのだろうけれど、音楽とは何の関係もないものだ。

あらゆるパフォーマンスが観客の存在を前提としている以上、「自分がどう見られるか」という意識は当然出てきます。
ただ、Dream Theater の場合、それを上回る、というか、はるかにそれより大きなモチベーションがある。
つまり、自分たちの音楽を聴かせたい、ということです。
音や演奏そのものには、ずいぶんケレン、聴いて驚け! みたいな要素がふんだんに散りばめられています。それでもそれが単なるこけおどしじゃないのも、その向こうにものすごく手堅いテクニックがあるから。そこに至るまでの営々たる積み重ねがあるから。
だからどんな派手な音を出したとしても、手堅い、地に足が着いた、確かな感じがある。

やっぱり技術の向上をめざそうと思ったら、手あかのついた言葉ですが、「忘我」っていう言葉がありますよね、そういうところへいかなくちゃだめだ。自分にとらわれてたら、結局は何もできない。そんなふうに思いました。

ルーデスは、弾き方を見て思ったんですが、この人、もっともっと技術があると思うんです。手首の使い方がわたしがピアノを教わった先生と同じで、とっても懐かしかった。クラシック畑出身っていうのが、よくわかりました。シューマンなんて弾かせたら、うまいだろうと思います。
シンセサイザーっていうのは、鍵盤を弾く以外にも忙しいのかな、よくわからないのですが、ともかくその隠し持つテクニックをまだまだ聴かせてほしいものです。実際、ギターとのユニゾン、しびれました。

散漫に書いちゃうんですが、ラブリエさんも実際たいしたもんだと思いました。
アルバム一枚、歌い切っちゃうんだもの。すごいです。さすがに最後の方はばててたけど。

あとはバック・コーラスではゴスペルの歌い手の実力というのを目の当たりにした、というか、ほんと、ゴスペルシンガー、おそるべし、です。ハミングで、ギターに負けない声量を出しちゃう。ゴスペル・シンガーにとっては「歌がうまい」とか「声量がある」とかなんて、ごく当たり前、口にする必要もないものなのかもしれません。日本で「ゴスペル」と称するものをやろうとしている人たちは、自分たちがどれほど恐ろしいものを相手にしているのか、気がついているんだろうか、と、ちょっと思ったりもしました。

ただね、ポートノイとペトルーシのバック・コーラスはいただけない。
地声でがなるのはちょっと困ります。ポートノイ、楽しそうに歌ってるんですけどね。音、外れてるよ、って(笑)。タイコ叩いてると、聞こえないのかなあ。ラブリエさんも、内心、困ってるかもしれない。

2800円で買えたDVDですが、なかなか良い買い物をいたしました。
蓄財精神は、未だ涵養できておりません。



2006-4-20:ライブについて思ったことなど

もうずいぶんライブなんて見に行ってませんが、Iron Maidenのライブ音源の曲を聴いたり、Dream TheaterのライブDVDを見たりしていると、つくづく音楽はライブだ、と思ってしまいます。

変なことを言うようなんですが、CDを聞いていれば、もちろんいろんな音が聞こえてくるわけです。繰りかえし聴くことで、ふつうなら聞き逃してしまうような細かな音まで聞こえるようになってくる。そうなると、曲の奥行きもずいぶん増すし、聴いていく側の理解も深まっていく。それでも、どこまでいってもそれは、目をつぶって、口に運ばれた食べ物を味わっていくようなものなのかもしれません。

味のプロフェッショナルなら、これはどこそこの海で獲れたナントカの部位はどこそこで、使われている醤油はどこのなんという銘柄の何年もので(笑)、なんて、目をつぶって味わっているのかもしれない。料理全体を味わったり、食べて楽しんだりするのではなく。CDをじっと聞いて、この音は……って考えるのは、そんなふうな聴き方をしてるのと同じなんじゃないか。

そういうのって、蘊蓄を傾けたい人にはいいかもしれないけれど、でもそれは料理を楽しむこととは本質的にちがうように、音楽の楽しみとはいいがたいのかもしれません。

本来なら一回きりの、場というものの要素のものすごく縛られる、踊りであり、劇であり、音楽であり、というものは、すべての瞬間において、完璧、ということはありえないわけです。調子が悪いときがあったり、たとえ調子がよくても、音を外したり、間違えたり、といったことは不可避的にあるでしょう。そういう意味で、スタジオ録音されたCDとは、根本的にちがうものとしてある。そうして、ライブの欠点をあげつらうことは、それこそ目をつぶって料理を味わい、この塩はどこやらの塩ではなく、精製塩を使ってるじゃないか、みたいにケチをつけるのに近いのかもしれない。

塩味も、料理全体の中で味わうものであるように、ポートノイはこんなふうにスティックを持つんだ、こうやって音を止めるんだ、ってわかる。そういうこと全部を含めて(ついでに着るもののセンスがおっそろしく悪いっていうところまで含めて(笑)←アメリカ人ってごく少数の例外を除くと、センス悪いですよね)、ポートノイの音なんですよね。

もうひとつ、anticipation ということもある。
あ、ここでルーデスのキーボードが入る、って思って、そっちを見る。待っているところに聞こえてくる音、というのは、ちがう。わたしの内側に、音の期待、みたいなものがあるわけです。ライブ映像はもちろんカメラマンやディレクターの眼が入りますが(かえってカメラワークが洗練されてないぶん、素のD-TがわかるMetropolisの方が好きだったりするんですが)、ギターが一歩前へ踏み出して、ソロが始まるってわかるところとか、そういうのはやっぱり眼でみなきゃわからない。ライブの良さはそういうところにあるんじゃないか、みたいに思います。

何か、ただの思いつきなんですが。
D-TのライブDVDを見て、そんなふうに思いました。



2006-3-23:Iron Maiden 初体験

つい最近、Iron Maidenを知りました。
これまで名前くらいは聞いたことがあったかもしれませんが、ほとんど意識に留めることもありませんでした。
もしかしたら、あのバカっぽいジャケット(!)を無意識のうちに視線のなかに入れないようにしていたのかもしれません。

図書館で"Best of The Beast"っていう二枚組のCDを借りてきたんです。
聞いてすぐ、あ、これはベースを聴かなきゃいけないバンドだ、と思いました(
「いっしょにゴハン」の最後に、唐突にベースラインの話が出てくるのは、ちょうどこのCDを聴いていたからです。なんてわっかりやすいワタシ…)。輪郭線の強い、ぐいぐい引っぱっていくんだけど、不思議な音がする。なんだろう。よくわかんないです、この不思議な音。

ただ、ボーカルはピッチが低いなぁ、と思いました。声を張るところはまだマシなんですが、落とすと相当に低い。もう音程が外れているか、外れていないか、のギリギリの線です。この人、音感悪いわ、って。こういうのは、もうテクニックでどうなるもんでもないし、なんでこんな人に歌わせてるんだろう、って不思議でした。

ところが途中からビックリしました。だって、まったくちがう、すんごいうまい人が歌ってるんだもの。ただこの人もピッチは低めです。外れてはない。だけどギリギリ許容範囲の曲もあります("Fear of the Dark" とか。歌の表現力のたくみさで、あまりそれも目立ちませんが)。前の人が、借りてきたネコみたいで、どこかオドオドと歌ってるのに、完全に自分のものにしてる。

で、後半、またボーカルが変わってるのに気がつきました。
なんていうか、すごいパンクっぽい感じの歌い方の人。声につやっていうものがまったくないんだけど、あと滑舌も悪いんだけど(英語で滑舌、っていうのもヘンですが、子音の発音がはっきりしない)これはこれで悪くない。だけど、この人もピッチ、低いです。三人ともピッチが低いっていうのがおかしい。リーダー(ベースの人ですよね?)はボーカルはピッチが低めなのが好みなのかもしれない。だけどバラードは、結構聴いててつらかったです。"Phantom of The Opera"なんかは、相当好きなんですが。

録音の状態や、バンドの音の練れ具合(ヘンな日本語)から、年代をさかのぼっていってるのはわかるんですが、断然、まんなかの人がいい。
例によって図書館のCDは、ライナーノートがついてませんから(不心得者がもってっちゃうんです)、調べてみました。
この人いいなぁ、って思ったのが、ブルース・ディッキンソンだってわかりました。で、この人のあとに、最初の音程の低い人が来たのかって。確かに声の質は似てるんですが、音感が悪いのはどうしようもない。なんでそんなことになったんだろう、って不思議に思いました。

ベストのなかでは、二枚目の "Where Eagles Dare"と"The Trooper"がフェイバリットです。ドラムの三連符がいい。しばらく楽しめるなあ、なんて思います。



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