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It don't mean a thing (If It Ain't Got That Rock)

――ロックしなけりゃ意味がない――






 音楽というものを聴かない日々を、八年半ほど過ごした。

 聴かないといっても、耳を塞いでいたわけではなく、たまに無性に聴きたくなったCDを、ほこりをかぶったラックから取り出して、デッキにのせる程度のことはしていたのだ。 買ったときには結構な値段を払ったスピーカーも、日常的に使うことがなくなったために音の出は悪く、ときどきてっぺんをたたいてやらなければならなかった。

 代わりに普段活躍したのは、とあるビンゴ大会で引き当てたCDラジカセだ。音こそ良くないものの、持ち運びには便利で、皿洗いやアイロンかけ、風呂掃除といった気の滅入るような作業をするときにはもってこいだった。

 こうした単純労働は、決して好きではないものの、ことのほかキライというわけではない。生活を回していくための必要な義務として、受け入れもし、必要に応じてこなしていっている。ただひとたび作業にとりかかると、頭のほうはいまやっていることから離れていく。そうして自分の意志とは無関係に、過去に起こった現在の自分には手の出しようもないことを、次から次へと思い出す。そうして現在の光に当てなおし、そのときにはどうしようもなかったのだということを、もういちど確認しないではいられない。
 単純作業を始めると、一緒にこうしたはなはだ非生産的な思考を開始するという、まったく困った傾向がわたしにはあるのだった。

 こういうことをしていると、それこそアイロンをかけ終わるころには、すっかりどうしようもない気分に陥って、そこから気持ちを立て直すのがひと苦労、ということになってしまう。まったくリアルな記憶再生能力を持っているというのは、なかなかに痛し痒しなのである。

 そういうとき、Pet Shop BoysやR.E.M.の"Out Of Time"は効いた。ところどころで一緒に歌いながら作業をしていれば、過去の亡霊につきまとわれることもなく、気分も盛り上がった。

 音を鳴らして、気分を昂揚させる。音楽を聴くのではない。眠気覚ましにコーヒーを飲むようなものだ。まさか自分がそんなふうに音楽を「使用」するようになろうとは、夢にも思わなかった。

 昔は音楽を聴くときは、ひたすらに聴いていた。ほかの一切を遮断し、耳から入っていく音のひとつひとつに集中し、自分の身の深いところに落としていく。それがそこにとどまり、記憶にとどめ、もういちど聴いたり、頭の中で反芻させたりしながら、自分のなかに息づくのを待つ。
 それがわたしの聴き方のはずだった。

 だが、それにはおそろしく集中力が必要だったし、体力だって要った。何よりも、一定の間「何もしない時間」を作り出すことが不可欠だった。

 聴かなくなってしまったのは、ひとえに生活が激変したからだ。とにかく自分の時間、本を読み、ノートを作り、ひとつ文章を書きつける時間を見つけるのに、血眼にならなければならなかった。何もしなければ、そのまま日が過ぎてしまう。崖っぷちにぶらさがって岩肌に爪を立て、なんとかしてそこから落ちまいと抗うかのように、三分あれば本を広げ、十分あればさらに辞書を開き、十五分あれば紙と鉛筆を出してメモを取った。

 音楽を聴こうと思えば、その間、一切のことを中断させなければならない。一時間もそんな時間を捻出するなど、とんでもない贅沢だったし、もとより思いつくことさえなかったのだった。

 漕ぐことをやめれば、そのまま倒れてしまうしかない自転車のような日々が少しずつ変わっていったのは、三年ぐらい前からだろうか。やはり経済的なゆとりが、多少なりともできたことは大きかったし、否応なく拘束される時間が次第に減っていった、ということもあるのだろう。

 それでも音楽を聴こうというところまでは、気持ちは回らなかった。張りつめた気持ちがゆるんで、あたりを見回すことができるようになっただけで、そこから何かがしたい、という欲求など出てこないという状態が、そこからさらに三年ほど続いたことになる。
 聴けるようになるまで、八年半かかった、というのは、かかり過ぎのような気がしないでもない。けれどもわたしは、ある状態からもうひとつの状態へと移ることができるようになるまで、ほかのひとより少し余分に時間がかかるような気がする。


八分休符

 その人に会ったのは、ちょうどそんなときだったのだ。
 その人が自分のなかでどのような意味を持つのか、どのように位置づけていったら良いのか、いまのわたしにはまだよくわからない。それでも自分にとっては、その人との出会いは、とんでもなく大きなできごとだったのはまちがいない。会ったのを機に、わたしのなかのいくぶんかが決定的に変わってしまい、そうして、その人の一部が自分のなかに根を下ろし、会えなくなってしまったいまでも、深いところで生き続けているような気がする。とにかくそんな種類の出会いだったし、そうした人だったのだと思う。

 最初に会ったとき、音楽の話をした。そのとき、自分が話す内容をほとんど持ち合わせていないことに気がついた。このとき初めて自分が空白のときを過ごしていたことがわかったのだ。音楽を聴くことのない日々。聴くことすら思いつかない、聴いていないことにさえ気がつかない日々。実際にわたしはそうした時間を過ごしていたのだと。

 だからといって、その空白を埋めようと、すぐに積極的に動いたわけではない。最初に紹介してもらったピアニストは、どういうわけか手に入らず、かといってamazonで買おうという気にもならず、ただ日を過ごしていたのだ。

 ある日、図書館でふっと教えてもらったバンド名を思い出して、検索にかけてみた。
"Dream Theater"
貸し出し可能な一枚を借りてみた。
"Images and Words"
ヘビメタらしい、コテコテのジャケットがおかしかった。

 家に帰ってデッキにディスクをのせて、いきなり、ぶっ飛んだ。なんなんだ、この音は!

 それまで、リズムの正確さ、というのは、限りなく瞬間的な音、まさにその瞬間にヒットする、限りなく点に近い音だと思っていた。たとえば、YesのBill Brufordのように。
 けれどもそのドラムの音は、わたしが知っていたどんな音ともちがっていた。単に正確だとか、キレがいい、などという単純な音ではない。限りなく重く、そのくせ限りなく自由自在な、聴いたことのない音だった。

 それからベースの音が飛び込んできた。リズムを刻む音は、硬質であるにもかかわらず、鋭角ではない、どちらかといえば温もりのある音だった。これも、わたしの知らない性質の音だ。とにかくめちゃくちゃカッコイイのだけれど、スタイリッシュというのともちがった。

 つぎにギターの音を聴いた。ああ、この人は、小さいときからギターが好きで、好きで好きで、ギターばっかり弾いてて、いまだに好きなんだろうな、と思わせるような、あまりにも自然に身についたテクニックが、自然にあふれだしてくるような、聴いているこちらまで豊かな気持ち、つぎは何を聴かせてくれるんだろう、と楽しくなってくるような気持ちがしてくる音だった。

 いきなりそんなふうに個々の音が聴こえてくるのも初めての経験だったけれど、めまぐるしく拍子が変わるユニゾンの部分も、寸分の乱れもない。ユニゾンがこんなにスリリングなものだということを、わたしはそのとき初めて知った。聴いていて、自然と胸がドキドキしてくるというのも、初めての経験だった。

 その日から、わたしはせっせとこのCDを聴くようになる。聴けば聴くほど、いろんな音がわかって、おもしろさが増した。

 もちろんその間、ほかの音楽を聴かなかったわけではない。自分が昔から何度となく聴いた、YesやPink Froyd、Led Zeppelin も聴いた。でも、そうした音楽は、どこか閉じてしまった環のなかの音、というような感じがした。Dream Theaterを聴いているときの、これから何かが始まるような楽しい感じ、胸踊る感じが、そこにはなかった。

 それからDream Theaterのアルバムを飛び飛びではあるけれど、何枚か聴いた。無条件に最初から最後まで好きになってしまうものもあれば、部分的に、ここからここにかけて、鳥肌がたつくらい好き、というのもあるし、つい、スキップしたくなる曲もあった。

 そうしてこの間、やっと最新作に追いついた。

 彼らが十年以上かけた道のりを、三ヶ月ほどで全速力で追いかけていったのだ。
 驚いたのは、最初に聴いたアルバムと、技術的にまったく違うことだった。あれほどすごい、と思ったのに、いまはさらにすごいのだ。

 最新作を聴いていると、技術というものには無限の段階があるのだということを、思い知らされずにはいられない。

 昔、デッサンを習っていたことがある。来る日も来る日もアグリッパやマルスの頭を描きながら、気がついた。
 一本の線があるのだ。デッサン全体が生き返るような、一本の線が。それを見つけることができたら、無限に引ける白い紙のなかに、その一本だけの線を引くことができたら、凡庸なデッサンが命を持つ。その線を手探りするかのように、何本も何本も線を引いた。

 いつも思ったものだ。本当に才能がある人というのは、こうした線を、手探りすることなく最初から引けるのだろうと。
 けれども、そのうちに自分のデッサンも、始めたころに比べると、それなりに上達していることに気がつく。最初のころやっと探り当てたと思った線を、ふつうに引けるようになっている自分がいる。
 それでも、やはり「一本の線」があるのだ。全体を生き返らせる決定的な線が。その線を求めて、やはり手探りしている。

 もしかしたら、どれだけ才能がある人でも、一本一本の線が限りなく洗練されているにしても、それでもやはりデッサンを生き返らせる「一本の線」を手探りしているのかもしれない、と思った。無限に引ける白い紙のなかの、ただ一本だけの線。

 Dream Theaterの新作 "octavarium" を聴いていると、そんなことを思い出す。
 人間は、おそらく、どこまでいっても「完璧」には到達できない。どこまでいっても、「一本の線」はなくならない。
 それでも、決して到達できない「完璧」へと向かおうとする過程の中で、独創的な技術というものが生まれるのだ、と。

 音楽の演奏というのは、ひとつの世界を現出させていくことなのだと思う。独創性というのは、技術の向上を目指すたゆみのない訓練のなかから、奇跡のように生まれ出るこの新しい世界のことなのだろう、と。

 わたしが聴き始めたころには、Beatlesはもちろん、Yesも、Pink Froydも、Led Zeppelinも「終わって」いた。実質的に解散していなかろうが、ときおりリ・ユニオン的にコンサートを開こうが、もはやそこからは何も新しいものが生まれようとしないところだった。

 '90年代の半ばぐらいだったろうか。R.E.M.のCDの帯に”ぼくらにはR.E.M.がある”というコピーが書いてあったのを覚えている。
 このコピーが言わんとすることは、'70年代に生まれ、本格的に聴くようになったのが'80年代の半ばを過ぎていたわたしたちの世代、祭りの後どころか、祭りがあったことを百科事典で知るような世代の人間にとって、ある種の実感のようなものではないか。
 何もかも終わってしまった。もしかしたらロックそのものも終わってしまったのかもしれないけれど、それでもぼくらにはまだR.E.M.が残っている。おそらくそれは、そういう意味だったのだろう。

 R.E.M.もいつのまにかどこかに行ってしまった(行ってないのかな?)けれど、それでもまだ、ロック・ミュージックそのものが終わったわけではない、と思うのだ。

 Dream Theaterは、まだまだ心を深く揺り動かしてくれるし、わたしが知らないだけで、そんなバンドはほかにもあるのかもしれない。"octavarium"は、もしかしたら三年先には聴くこともなくなっているかもしれないけれど、いまは毎日聴いていて、楽しい。ここから先に、何かが生まれていくのではないか、と思わせてくれるものがある。ただただ、なんてうまいんだろう、と思いながら毎日聴きながら、ああ、これが同じ時代を生きるということなんだ、と思うのである。

 わたしはリアルタイムのBeatlesも知らないし、ウッドストックも、そのあとの世代も知らない。けれども、Dream Theaterを聴いていると、同時代を生きる、というのがどんなものか、漠然と、わかってくるような気がする。

 まだまだ大丈夫。ロックしなけりゃ意味がない。やっぱりわたしはそう思う。

四分休符

Music, in performance, is a type of sculpture. The air in the performance is sculpted into something.

(Frank Zappa "The Real Frank Zappa Book")

演奏中の音楽は、ある種の彫刻に似ている。音楽が鳴っているときの空気は、像が彫り込まれたされた石や木のようなものだ。(私訳)





初出 August.26,2005 改訂 August.31,2005

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