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日付のある歌詞カード 〜"Run to the Hills"


♪ 四半世紀近くたっても古びない音に出会う 〜 "Run to the Hills"


アイアン・メイデンなんて聴いたこともなかった。
1980年代から1990年代にかけてのヘヴィ・メタルムーヴメントの中心的なバンドである、といろんなものに書いてあるのだけれど、わたしはそのころ何を聴いていたのだろう?
まず、これだけは確かだ。
「ヘビメタ」ではなかった。断じて、なかった。
ヘヴィ・メタルなんて、1992年にAC/DCの〈バック・イン・ブラック〉を聞くまで、聞いたこともなかった。

エディー

そのころのわたしにとって、「ヘビメタ」というのは、曲よりもなによりも、長い髪のシンガーとギタリストが、ふたり並んで歌舞伎の連獅子のように(笑)髪振り乱す、というイメージだった。なんとなく、頭の悪そうな音楽をやっている人たちだ、という、根強い偏見があったのだ。
そのころレコード屋に行って、こんなジャケットを見たとしても、絶対に聞いてみようとは思わなかったはずだ。だって、あまりにも「バカっぽい」ではないか。
十代の女の子にとって、ソフィスティケーションというのは、非常に重要な徳目なのである。

そうして、2005年になって、遅ればせながらドリーム・シアターに会って、たちまち恋に落ちた。

知らないことならば、知っていけばいい。知ろうと思えば、ひとつひとつ積み重ねていけばいい。
けれど、偏見を克服しようと思ったら、自分の人生観の一部をひっくり返さなければならないのだ。しかも、無知は恥ずかしいけれど、偏見は持っていて、実は、楽しい。楽しいからこそ、たとえ薄々、偏見だということに気がついていても容易には手放せないのである。

ところが恋に落ちる、というのは、それまでの自分の人生観・世界観が根こそぎにされることだ。それまでの日常に何かが付け加わる、なんていうことではないのである。偏見のひとつやふたつ、簡単に吹き飛んでしまう(逆に言うと、偏見がそのまま残っちゃうような状態は、恋とはいえないんじゃないだろうか)。
ドリーム・シアターを聴いて、ヘヴィ・メタルの音、というのがどれほど自分を腰椎のあたりから揺さぶっていくものか、ドラムの重量感のある音というのが、そうしてテクニックというのが、どれだけ聴いていて楽しいものか、さらにいえば自分の「ヘビメタ観」がいかに偏見に染めあげられていたものだったのかを知ったのである。

それから、いろいろなバンドを聞いてみた。
この感じは、もしかしたら、それまで日本の文学ばかりを読んでいたところに、海外の、それも古典ではない、同時代の文学を読み始めたころの感じに近いのかもしれない。毎週のように、アップダイクを知り、ピンチョンを知り、デリーロを知り、バーセルミを知っていったころ。
わたしはそんなふうにして、アイアン・メイデンに会ったのだ。
アイアン・メイデンに恋しちゃったわけではないけれど、気の合う友だちを見つけた、といったところ。ヘヴィ・メタルのいろんな面を教えてくれるし、わたしの音の世界も拡がった。ベンベンという不思議な音のベースと一緒に。


Run to the Hills ――丘まで走れ――

海の彼方から白人がやってきた
われらに悲しみと窮境をもたらし
われらの部族を殲滅し、掟をふみにじった
われらの獲物さえ、欲望を満たすためだけに屠った

わが同胞は激しく戦い、白人を叩きつぶした
大平原に打って出たわれらは、敵を壊滅させた
だが、のちにさらなる大群が押し寄せ、クリー族だけでは太刀打ちできなかったのだ
ああ、われらが自由になる日は、またふたたび訪れるのか

不毛の大地を土煙をあげて駆けてくる
大平原を全速力でやってくる
インディアンどもはやつらの巣穴に追い立ててやれ
獣を狩るインディアンのように狩り立ててやれ
勝手放題できるように皆殺しだ、後ろから刺し殺せ
女も子供も臆病者もひとり残らず

 丘まで走れ、命のために走るんだ
 丘まで走れ、生きるために走るんだ

青い軍服を着たやつらが不毛の大地にあふれる
楽しみのために狩り、殺戮を重ねる
「良いインディアンは、膝を屈したインディアンだけ」
ウィスキー漬けにしてゴールドをとりあげる
若者は奴隷となり、老人は殺される

 丘まで走れ、命のために走るんだ
 丘まで走れ、生きるために走るんだ


(※原詞は
http://www.lyricsdomain.com/9/iron_maiden/run_to_the_hills.html

この曲は珍しくオリジナルとは異なるタイトルがついている。〈誇り高き戦い〉というのがそれだ。わたしは最初に聞いたときはこれはアメリカインディアンが主語の歌なのだろうと思った。この邦題をつけた人もそう思ったのではないか?

曲そのものは、とーーーっても好きなんだけど、白人である彼らが、インディアンになりかわってその心情を歌っちゃっていいんだろうか、と正直思った。

たぶん、ルース・レンデルのウェクスフォード警部シリーズのなかのひとつ(おそらく『惨劇のベール』だと思う)に、アウシュビッツでの体験を書いている人物が出てきたのを記憶している。彼女は、収容所の悲惨な経験を綴っているのだが、それを読むウェクスフォードは、感銘を受けない。なぜだろう、どれも全部すでに知っていることのような気がするのだろう? 実は、彼女は収容されていた側ではなく、ナチスの側だったのだ。

これは極端な例だ。
フィクションを作ろうとするなら、自分が何になったってかまわない。自分とは似ても似つかぬ絶世の美女になったってかまわないし、それどころか、クロマニヨン人になっても、猫になってもかまわない。アイアン・メイデンの同じアルバムにも、これまた名曲である、いままさに死刑台に向かおうとする死刑囚の心情を歌ったものがあって、想像のおもむくまま、何になったってかまわないはずなのだ。

けれど、白人が、白人に同胞を虐殺されていくインディアンの心情を歌う。
あるいは、収容所の職員だった人間が、ユダヤ人を主人公とするフィクションを書く。
あるいは、日本人が、在日コリアを主人公とするフィクションを書く。

なにか、うまく言えないけれど、違和感を覚えるのだ。いくら創作だからといって、曲の歌詞だといって、作る側が、自分自身の抱えるバックグラウンドというものを、無視していいものなのだろうか。もちろん、書いていってかまわない。けれども、書くのだとしたら、抑圧の歴史を抱えた自分が、どうそれをとらえるか、という点をふまえておかなければいけないのではないのか。自分のもんだいとして引き受け、どういうふうに考えていくか、その点の問い返しが、不可欠なんじゃないのだろうか。たとえ世代がちがうとしても、自分がそういうこととは直接には無関係だとしても。
もちろんこれは単なるわたしの問題意識でしかないのだけれど。

そう思って、よくよく歌詞を聴いてみた。
冒頭のミドルテンポの部分のみ、"We" が出てくる。アップテンポになってから主語が出てこないからわかりにくいのだけれど、どうも5連目から判断するに、主語は南軍の兵士のような感じだ。
"Women and children and cowards attack" というところなど、わかりにくいのだけれど、ここではbackとattackで韻を踏ませるための倒置と取ることにした(ここらへん、ちょっと苦しいけど――スティーヴ・ハリスはウィリアム・バトラー・イエイツではないので、やはり詩形を整えるためにはいろいろ苦労した痕跡がうかがえる。脚韻はきれいに踏んである。どうでもいいけどアイアン・メイデンにはイギリスの詩人コールリッジの有名な『老水夫行』("The Rime Of The Ancient Mariner")を踏まえた"Rime Of The Ancient Mariner" という曲があって、その両者を比較しながら見ると、これまた楽しい)。

おそらくは、冒頭の部分がインディアンの嘆き、そうして、三連目、五連目は、インディアンを殺戮していく白人の描写、そうして、サビの"Run to the hills, run for your lives" は、作った人間の祈りではないか、と解釈して、訳してみた。正確なところはスティーヴ・ハリスに聞いてみるしかないのだけれど。

そう考えると、無理なく"Run to the hills, run for your lives" という部分に入っていける。殺戮から逃げてほしい、どうか、生き延びてほしい。その心情なら、共有できる。 そういう主旨の訳なので、もしかしたらずいぶん主観的な訳になってるかもしれません。

ただ、こんなふうに思う。
この歌を聴くだれもが、無理なくインディアンの側に感情移入し、丘まで走れ、生き延びろ、と思うことができる。それだけでなく、ここに描かれるインディアンは、美しい。「誇り高き」という邦題をつけたくなるのもわかるくらい、単なる疾走感ばかりでなく、一種、威厳のある音がする。

虐げられる存在を、かわいそうに、気の毒に、描くやり方がある。なんとかわいそうなのだろう、と、見るもの、聞くものの涙をふりしぼらせるような描き方。
けれども、それはちがうのではないだろうか。そういう描き方は、虐げられる側が、弱い存在だから、つまり、劣った存在だから虐げられるのだ、弱いからといって、虐げてはこんなにかわいそうなんですよ、と言っているのと同じだ。
けれど、歴史を見ても明らかなように、敗れる側、虐げられる側が劣っていたからそうなってしまったわけではない。敗れ去っていく側の威厳や誇りを描くことは、それだけでひとつのメッセージなのだ。

ブルース・ディッキンソンの歌声からは、丘に立ち、平原を見下ろすインディアンの威厳と誇りが聞こえてくる。ディッキンソンは、確かにそういうものを表現しようとしている。

もうひとつ書いておきたいのは、この曲のリズムは、疾走する馬のリズムだ、ということ。
ドラムが刻むのはギャロップのリズム。
ダッダカ ダッダカ ダッダカ のなかの、宙を浮く部分。
ちょうど馬が後ろ脚を蹴ったあとに、身体が浮くような、そんな感じがする。

ベースが全編通して、平原を駆け抜ける馬の脚の響きを奏でる。
ほんとうに、この曲をじっと座って聞ける人なんているんだろうか? できれば馬に乗って(乗ったことないけど)、それがムリなら走り出すか、せめて頭でもふらずにはおれない。身体が風を感じるのだ。
これ、ライブで聞くと、すごいだろうな。

ティーン・エイジャーのころは、古典音楽を習うことから音楽の世界に入っていった人間にありがちなことなんだけれど、単純な構成の曲をバカにしていた。一度聞けば覚えてしまうメロディーライン、わかりやすいベースのリフ、短くてやたら派手なギターソロ、単純なリズム、そうしたものは、ちょっといいな、と思うことがあっても、真剣に聞くものではない、と、どこかで思っていた。「ヘビメタ」なんて、しょせん、そんな音楽じゃないか、と。ピンク・フロイドの深さなんて、望むべくもない、というふうに。

いまは、シンプルな曲と浅い曲のちがいが、たぶん、わかるようになったのだ、と思う(願わくばそうであらんことを)。シンプルなメロディーラインであっても、深い曲というものはある。たとえ変拍子をとらなくても、全編、疾走感だけで駆け抜けていくようなリズムであっても、それが単純というわけではないのだ。
そうした意味で、「ソフィスティケーション」の意味が、十代の頃とは変わってきたのだろうと思う。この曲は、いろんな意味で、十分ソフィスティケートされている。

とはいえ〈エディー〉(※アイアン・メイデンのジャケットの多くに、このゾンビのエディーが登場している)が好きになれないのは、いまも同じなんだけれど。

初出 April.07 2006 改訂 May.02 2006

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