開いた窓
「まもなく伯母も降りてまいりますわ、ナトル様」
ひどく落ち着いた雰囲気の15歳の少女が言った。「それまでわたくしがお相手をつとめさせていただきますわ」
フラムトン・ナトルは、やがて来る伯母さんに対して失礼にあたらないよう、しばらくはこの姪のご機嫌を損ねないために、何か適当なことでも言っておこうと考えていた。内心ではこれまでにも増して、つぎからつぎへと見も知らぬ他人を形ばかり訪問することで、神経衰弱がどれだけ回復するのだろうか、という疑問がふくらんでいたのだが。
「わたしにはどうなるかわかってます」田舎の別荘に移る準備をしていたフラムトンに、姉はこう言ったのだった。「田舎に引っ込んでしまって、生きている人間なんかとは一切話さなくなるんだわ。ふさぎこんで、神経の方もどんどん参ってしまうのよ。とにかく、そこに住んでいる知り合いみんなに紹介状を書いてあげるから。なかにはすごくいい人だっていましたよ」
これからその紹介状を渡す予定のサプルトン夫人は、すごくいい人の部類に属しているのだろうか、とフラムトンは考えていた。
「このあたりには、お知り合いがおおぜいいらっしゃいますの?」黙ったまま、腹のさぐりあいをするのはもうたくさん、と判断したらしい姪がたずねてきた。
「ひとりもいません。四年ほど前、姉がここの牧師館に滞在していたことがあったんです。それで、このあたりにいらっしゃる方々に紹介状を書いてくれたんです」
最後の言葉にはっきりと、いらないことをしてくれた、という思いをこめて、フラムトンはそう言った。
「あら、だったら伯母のこと、あまりよくご存じじゃないのね?」落ち着いた娘はいきおいこんで聞いてきた。
「お名前とご住所しか」
サプルトン夫人が結婚しているのか、それとも未亡人なのかもわからなかった。なんとなく、この部屋には男性の存在を感じさせるものがあるようには思ったが。
「ちょうど三年前、大変な悲劇が伯母を襲ったんです。お姉さまがここを引き払われたあと」
「大変な悲劇ですって?」こんな平和な田舎に大変な悲劇とは、ひどく場違いのような気がした。
「どうして十月の午後だというのに、あそこの窓を開けっぱなしにしているんだろう、って、おそらく不思議に思ってらっしゃるのでしょうね」姪は、芝生に向かって開いている大きなフランス窓を示した。
「この時季にしては暖かいですからね」とフラムトンは答えた。「でも、あの窓がなにかご不幸と関係がおありなんですか」
「ちょうど三年前の今日、あの窓を通って、伯父と、伯母の弟ふたりが狩に出かけたのです。そのまま三人は戻ってきませんでした。荒れ地を横切って、お気に入りだったタシギの猟場へ向かっている途中、沼地の柔らかくなっていたところに呑み込まれてしまったのです。あの年の夏は、雨ばかりだったでしょう、だからいつもの年ならなんともなかったところが、前触れもなしに崩れてしまったんです。三人の亡骸は、とうとう出てきませんでした。そのためにこまったことになったんです」
ここまでくると、娘の口調からは、例の落ち着き払った声音が消え、ためらいがちになった。
「気の毒な伯母は、いつか三人が帰ってくる、三人といっしょにいなくなった小さな茶色いスパニエル犬を連れて帰ってくる、そうして、いつもそうしていたように、あの窓を通って家の中に入ってくる、って、ずっと信じているんです。それで、毎晩毎晩、真っ暗になるまで、あの窓を開けっぱなしにしておくんです。
「かわいそうな伯母さん、あのひとはよくわたしにも三人がでかけたとき、どんなようすだったか話してくれるんです。伯父は白い雨合羽を腕にかけ、ロニーっていう下の弟は、『バーティ、どうしておまえは跳ねるんだ』という歌を歌ってたんですって。っていうのも、その歌は神経に障る、って伯母が怒るので、よけいにふざけて歌ってたんだそうです。今日みたいに静かで穏やかな夕方には、ときどき、三人があの窓から入ってくるような気がして、わたし、思わず、ゾッとしてしまうことがあるんです」
娘はかすかに身を震わせて、話を切った。そこに伯母のほうが、ごめんなさい、遅くなってしまって……としきりに謝りながら、せかせかと部屋に入ってきたので、フラムトンはほっとした。
「ヴェラはちゃんとお相手ができましたかしら」
「大変楽しかったですよ」
「窓を開いたままにしていること、どうかお気になさらないでくださいましね」サプルトン夫人は明るい声でそう言った。「主人と弟たちが、まもなく狩から戻って参りますの。いつもあの窓から入ってくるんですのよ。今日はタシギを撃ちに沼地へ行ったようですから、きっとあの人たちはここの絨毯を泥だらけにしてしまうんでしょうね。男性の方ってみなさんそうしたものでいらっしゃいますわよね」
サプルトン夫人は、狩のことや、獲物になる鳥があまりいないこと、この冬のカモ猟がどうなりそうかなど、楽しそうにぺちゃくちゃとしゃべり続けた。フラムトンからすれば、その何もかもが気持ち悪くて仕方がない。なんとか会話をすこしでも幽霊じみたものから引き離そうとしてはみたものの、あまりうまくいったとは言い難かった。気がつけば、夫人はフラムトンにはおざなりな意識をときおり向けるだけ、彼を通り越して、開いた窓とその先の芝生の方ばかり見ている。よりにもよって、こんな悲劇が起こった日に来合わせるとは、なんと間が悪い話なのであろうか。
「ぼくを診た医者はひとり残らず、完全な休養を取り、興奮を避けて、激しい運動のいっさいを控えるように、というのですよ」とフラムトンは話した。赤の他人やゆきずりの相手は、他人の病気やその原因、治療について、根ほり葉ほり聞きたがる、という誤解があまねく世間には行き渡っているけれど、フラムトンもせっせとその勘違いを実践していたのである。
「それが食餌療法のこととなると、まったく統一的な見解というものはないのですから」
「そうなんですの」サプルトン夫人は、出かけたあくびをやっとかみ殺してそれだけ言った。突然、夫人の顔は、なにごとかに注意を引かれて、ぱっと輝いた――フラムトンのことばにではない。
「やっと帰って来たわ!」大きな声でそう言った。「ちょうどお茶に間に合ったわ。目のあたりまで泥まみれじゃありませんんか!」
フラムトンは、微かに身を震わせると、お気の毒なことです、事情は察していますよ、という表情を浮かべて、姪のほうを向いた。ところが娘は開いた窓の向こうを、恐怖を浮かべた目を見開いて、呆然と見つめている。フラムトンは背筋の凍るような、なんとも名状しがたい怖ろしさを感じ、椅子にすわったまま振り返ってそちらに目をやった。
徐々に暮れていく薄闇のなかを、三つの影が、芝生を横切って窓のほうに近づいてきた。みな、小脇に銃を抱え、なかのひとりは白い雨合羽を肩にかけている。そのあとについてくるのは、疲れたようすのスパニエル犬だ。一行はしめやかに近づいてくる。突然、夕闇をついて、若々しいだみ声が歌うのが聞こえてきた。
“ほら、バーティ、おまえはなんで跳ねるんだ?”
フラムトンはステッキと帽子をひっつかんだ。玄関の扉にも、小石が敷き詰められた小道や表門にも目もくれず、一目散に逃げ出したのだ。やってきた自転車が危うくぶつかりそうになって、何とか避けようと生け垣に突っ込んだ。
「いま帰ったよ」白い雨合羽をかけた男が、窓から入ってきてそう言った。「すっかり泥まみれになってしまったが、だいたい乾いたようだ。ここに入ろうとしたときに飛び出していったのは、誰なんだい?」
「なんだかおかしなかたでしたわ、ナトルさんとかおっしゃるの」サプルトン夫人は説明した。「ご自分の病気のことしかお話しにならないの。あなたが帰ってらしたっていうのに、挨拶もしない、失礼します、とも言わないまま飛び出していくなんて。なんだか幽霊にでも遭ったみたい」
「たぶんそのスパニエルのせいよ」と、そしらぬ顔で姪は言った。「犬がおっかないんですって。せんにガンジス河の河岸にあるどこかの墓地で、野犬の群れに襲われたらしいわ。そのとき、掘ったばっかりのお墓のなかで、一晩、過ごさなきゃならなかったんですって。頭のすぐ上で、犬が唸ったり、歯を剥いたり、泡を吹いたりしてたんだそうよ。だれだってそんな目に遭ったら、犬には神経を尖らせると思うわ」
とっさに物語を思いつくのが、この娘の特技だった。
The End
ハツカネズミ
幼時より中年にいたるまでセオドリック・ヴォラーを育てた甘い母親は、なによりも、自分が「薄汚い世間の現実」と呼ぶものから、息子を庇うことだけを心にかけていた。その母親が亡くなって、相も変わらず現実的で、セオドリックの目には不必要なまでに薄汚く映る世間に、たったひとり残されたのだった。
そうした気性と育ちかたをした人間は、ただ汽車に乗って旅行するというだけでも、ちょっとしたことで苛立ったり、気分を害したりを繰り返す。だから九月の朝、二等車の客室に落ち着いたときも、セオドリックは自分がいらだち、なにがなしの不安を覚えているのに気がついていた。
それまで田舎の牧師館に滞在していたのである。牧師館の人々は、確かに粗暴な振る舞いをするわけでも、酒を飲んで騒ぐわけでもなかったが、家内の切り盛りに対する監督はだらしなく、この先、大変なことになりかねないとさえ思わせるものだった。
セオドリックが駅まで乗って行くことになっている馬車の準備もできていなかった。出発間際になって、必要なものを整えてくれるはずの下男さえ、姿がどこにも見えない。緊急事態ということで、セオドリックは牧師の娘とともにポニーに馬具をとりつけなければならなくなり、口にこそ出さなかったが内心ひどく憤りながら、「厩」と呼ばれている薄暗い納屋を手探りする羽目になったのだった。そこは確かに厩にふさわしい臭気のたちこめるところだった。ただし、あちこちハツカネズミくさいのを除けば、の話ではあるが。
ハツカネズミが怖いわけではなかったが、世間につきものの薄汚い生きものではある、神の摂理がほんのすこしでも働いていたならば、とうの昔に存在せずともいささかの問題も生じないとみなされ、はびこることもなかったろうに、と思うのだった。
汽車が駅をすべりだしても、セオドリックの過敏な神経には、自分がかすかに厩の臭気を漂わせ、普段ならしっかりブラシがかかっているはずの上着にも、カビの生えた藁くずが一、二片、くっついているような気がしてならなかった。幸いにも客室には相客がひとりだけ、セオドリックと同じ年代の女性で、他人の観察よりは、眠っていたいようだ。汽車は一時間ほど後、終点まで停車の予定はないし、旧型の車両は通路から行き来ができないため、セオドリックが半分占有している客室に、これ以上乗客が侵入してくることもなさそうだった。
ところが汽車がやっといつもの速さになったかならないかというころ、眠っている女性といっしょにいるのが自分だけではないことを、いやだろうがどうだろうが認めないわけにはいかなかった。いや、服さえも、ひとりきりでまとっているわけではないのだ。皮膚のうえをもぞもぞとはいまわる、歓迎されざる極めて不快な存在が知覚されたのである。姿こそ現れないが、この身を苛むのは、どうやらポニーに馬具をつけているうちに、この隠れ家に飛び込んだ迷いネズミであるらしい。こっそり足踏みしたり、体を揺すったり、むやみやたらにつまんでみたりしたのだが、侵入者を除去することはかなわないまま。どうやらこいつのモットーは、確かに「より高く!」というものらしかった。服の合法的占有者はクッションにもたれて、共同所有の状態に終止符を打つ方策を速やかにたてなければ、と頭をひねった。
これから一時間のあいだずっと、ホームレスのネズミども(もはやセオドリックの頭のなかでは、侵入者の数は少なくとも二倍には膨れ上がっていた)を受け容れる宿泊施設というおぞましい境遇を我慢するなど論外である。そうはいっても、苦痛を和らげるためには、着ているものの一部を脱いでしまうこと以外に抜本的な解決はないのだが、ご婦人の前で服を脱ぐなど、たとえまっとうな目的があるにせよ、想像するだけで耐え難いほどの恥ずかしさを覚え、真っ赤になってしまう。女性の前では、透かし織りの靴下がのぞくことにさえがまんができないのだ。だが、今この婦人はあきらかにぐっすりと眠り込んでいる。
いっぽう、ネズミときたら諸国遍歴の道程を、わずか数分間に繰り上げてすませようとしているらしい。輪廻説にいくばくかでも真実があるのなら、この特筆すべきネズミは、前世は山岳会の一員だったにちがいない。ときどき夢中になりすぎて、足を踏み外して1センチほど滑り落ちる。すると、怖がるのか、おそらくはこっちのほうだろうが、腹を立てるかして、噛みつくのだ。
セオドリックは人生最大の大胆な行為に出ることを余儀なくされた。砂糖大根のように真っ赤になって、眠り込んでいる相客のようすを必死の思いでうかがいながら、すばやく音がしないように、備え付けのひざかけを客室の両端の網棚にひっかけた。かくして客室を仕切るには十分のカーテンができあがったのである。
この間に合わせの狭苦しい脱衣所で、セオドリックは疾風怒濤の勢いで、自分の身体の一部とハツカネズミの全身を、ツイードとウール綾織りの外皮から引き剥がした。解き放たれたハツカネズミが勢いよく床に飛び降りたちょうどそのとき、ひざかけも両端ともが外れ、心臓が止まるようなバサッという音を立てて落ちたのだ。ほとんど同時に、眠っていた女性が目を開けた。
ハツカネズミよりも素早くひざかけに飛びつくと、セオドリックは無防備の身体をすっぽりとそのなかに入れ、顎の位置までひっぱりあげると、そのまま客室の反対側の隅にがっくりと崩折れた。血は体内を荒れ狂い、首とこめかみの静脈はドキドキと脈打つ。セオドリックは相客が通話装置のコードを引っ張るのを、固唾を飲んで待った。ところがその女性は、妙な格好でくるまっているこちらを、無言のまま見つめるだけだ。いったいどこまで見られてしまったんだろう。なんにせよ、自分の現在のていたらくを、どんな思いで見ているんだろう。
「風邪を引いてしまったようなんです」せっぱつまったセオドリックは思い切ってそう言ってみた。
「それはお気の毒ですこと。ちょうど窓を開けていただけないかと思っていたところだったんです」
「マラリヤじゃないかと思うんですが」そう言うと、かすかに歯をガチガチいわせてみせる。実際、自分がほんとうのことを言っていると証明したいという気持ちと同じくらい、おびえてもいたのだ。
「スーツケースのなかにブランデーがすこしありますわ。よろしければ、おろしていただけませんこと?」
「と……とんでもない、いえ、そんなことしていただかなくていいんですよ」セオドリックは必死で言い張った。
「熱帯のほうで感染なさったんでしょうね」
熱帯とのつきあいといえば、セイロンにいる伯父から毎年送られてくる紅茶一箱に限られていたセオドリックは、マラリヤにまで避けられたような気がしてしまう。すこしずつ小出しに、ほんとうの事情を打ち明けてみようか。
「ネズミはお嫌いですか?」いよいよ赤くなりながら、思い切ってそう言った。
「そんなにうんとじゃなかったら。でも、どうしてそんなことを?」
「ほんのいましがたまで、服のなかを一匹、はいまわっていたのです」答えている声は、自分のものとは思えない。「これほど気持ちのわるいことはありませんよ」
「そうでしょうね、とくにぴったりしたお召し物ですとね」その女性は注意深そうなくちぶりでそう言った。「でも、ネズミってヘンなところに落ち着いてしまうんですのよ」
「眠っていらっしゃる間に、追い出してしまおうと思ったんです」それからごくりと唾を飲み込んで、言い足した。「追い出してる途中で、こ……こんなことになってしまって」
「まさかちっぽけなネズミいっぴき追い出したくらいで、風邪なんて引きゃしません」その断定的な、無遠慮な言い方は、セオドリックの勘に障った。
どう考えてもこの女性は、セオドリックの苦境に前からそれとなく気がついていて、彼がどぎまぎしているのをおもしろがっているらしい。体中の血がいちどきに顔に流れ込んだのではないかというほど真っ赤になって、ハツカネズミの大群よりももっとひどい、耐え難い屈辱の苦しみが、セオドリックの魂をかけめぐる。だが、よくよく考えるうちに、恥ずかしさはまぎれもない恐怖へと変化していった。
汽車は刻一刻と、大勢の人でにぎわう終着駅に近づいていく。そこでは何ダースもの詮索好きな目が、この客室の反対側からぼんやりとこちらを見つめる一対の目に取って替わるのだ。一縷の望みはかすかにあったが、それも数分のうちに決断しなくてはならない。相客がうまいぐあいにまた居眠りでもしてくれたら。だが、数分が過ぎ、そのチャンスも費えた。ときおりそちらをうかがってみたが、目はぱっちりと、まばたきひとつするようすがない。
「もうすぐ終点ですわね」やがてその女性が言った。
すでにセオドリックも、小さな醜い家屋の群れが繰り返し現れるのを見て、旅路の終わりが近いことを知り、恐怖が募ってゆくのを感じていたところだったのだ。その女性のことばが引き金となった。追われる獣が巣穴から飛び出して、ほんの一瞬だけでも安全な場所を求めて死に物狂いで駆け込むように、ひざかけをはねのけると、脱ぎ捨てた服を無我夢中で身につけた。殺風景な郊外の駅が、窓の外をいくつも通り過ぎていく。胸が締めつけられ、心臓は早鐘を打ち、客室の一方からは氷のような静けさが漂ってくるが、そちらに目を向けることができない。服を身につけ、ほとんど放心状態になって座席に腰を下ろしたころ、汽車は終着駅に向けて減速していった。そのとき女性が口を開いた。
「もし差し支えないようでしたら、馬車のところまで連れていってもらえるよう、赤帽を呼んでいただけませんか? ご気分が優れないのにお手を煩わせて申しわけないのですが、目が見えないものですから、駅というのはたいそう不自由なもので」
The End
スレドニ・ヴァシター
コンラディンは十歳だったが、医者の見るところ、あと五年は持つまい、と思われた。つやつやした肌色の、間延びしたようなこの医者は、ほとんど無能と言ってもよかったのだが、デ・ロップ夫人だけはたいそうありがたがっていた。もっとも夫人ときたら、なんだってありがたがるのだが。デ・ロップ夫人は、コンラディンの従姉妹かつ後見人で、コンラディンからすれば、世界の五分の三、必要ではあるが、不愉快で現実的な部分の象徴だった。残りの五分の二は、つねに五分の三の部分と対立するもの、つまり自分自身と自分の空想の世界である。いずれそのうち、ぼくはこの必要なことどもの支配に屈してしまうのだろう。病気や、甘ったるい束縛や、果てしなく続く退屈といったものに。ひとりになるととたんに活発になる想像力がなかったら、はるか昔に参ってしまっていたにちがいない。
デ・ロップ夫人は、たとえどんなに正直になる瞬間が訪れようと、自分がコンラディンを嫌っていることは、決して認めようとしなかっただろう。ただし、「あの子に良かれと思って」コンラディンのすることを妨げることが自分の義務であると漠然と感じてはいるらしく、そのつとめだけは面倒だとは思わないらしかった。コンラディンは心の底から夫人を憎んでいたが、完璧にしらを切りとおすことができた。自分が考え出したひとりだけのささやかな楽しみも、夫人がいい顔はすまいと思うとよけいにうれしくなってくる。この想像の王国には夫人など入れてはやらない……不潔なやつなんか。入り口さえ見つけられるものか。
生気のない、気が滅入りそうな庭にいても、庭に面したいくつもの窓のどれかがいまにも開いて、「そんなことしちゃいけませんよ」とか「あんなこともダメですよ」と注意が飛んできたり、「お薬を飲む時間ですよ」と呼び戻されたりしそうで、ちっとも楽しくはなかった。ほんの二、三本しかないくだものの木は、大事にされ、コンラディンがもぐことは固く禁じられていた。不毛の地にやっと花をつけた珍しい植物かなにかのように。だが、くだものを買い取ってやろう、と言ってくれそうな果物屋など、たとえ一年間の収穫全部を10シリングでいいから、と言ったにしても、見つかりそうにはなかった。
ほの暗い植え込みの陰、だれもが忘れてしまった一角に、いまは使われていない、かなり大きな物置があった。そこがコンラディンの隠れ家、遊び場にもなれば大聖堂にもなる、さまざまな顔を合わせ持つ場所なのである。コンラディンはそこに空想のともだちをたくさん住まわせていた。昔話から一部を借りたもの、自分の頭のなかで作りだされたもの、それだけでなく、血肉を備えた二匹の生き物もいた。
一方の隅には毛がくしゃくしゃのウーダン種のメンドリが一羽いて、コンラディンはほかに持って行き場のない愛情を、ひたすらにこの雌鳥に注いでいた。また、ずっと奥の暗がりには、大きな檻があった。ふたつに仕切られた檻の一方は、前面に目の詰まった鉄格子がはめてある。そこは大きなケナガイタチの住処だった。なじみの肉屋の見習い小僧が、コンラディンが長いことかけて密かに貯めた小銭と引き替えに、檻ごと、こっそりと持ち込んだのである。コンラディンはしなやかで鋭い牙を持つこの獣がおそろしくてたまらなかったが、かけがえのない宝物でもあった。
物置にイタチがいることは、秘密であると同時にこの上ない喜びでもあり、細心の注意を払って「あの女」――コンラディンはひそかに従姉妹のことをそう呼んでいた――は遠ざけておかなければならなかった。ある日、まったく自分だけの思いつきで、このイタチにすばらしい名前をつけてやった。そして、そのときからこの獣は神となり、信仰の対象となったのである。「あの女」は信心深く、週に一度近所の教会にせっせと通い、コンラディンも連れて行くのだが、教会の礼拝など彼にとっては信念に反する、まったくなじめないものだった。
毎週木曜日、薄暗く黴くさい、静かな物置のなかで、コンラディンは、偉大なるケナガイタチ、スレドニ・ヴァシター様がおわします木の檻にぬかずいて、神秘的で凝った儀式を行うのだった。赤い花が咲く季節はその花を、そして冬には深紅の苺を神殿に供える。スレドニ・ヴァシターは、荒ぶる神であり、「あの女」が信じる神とは正反対、コンラディンの見方によると、まったく逆の方向、はるか隔たったところにいるのだった。
重要な祝祭日にはナツメグの粉を檻の前に撒く。このささげものの大切な点は、ナツメグは盗まれたものでなければならないことだった。祝祭日は定期的なものではなく、たいていは何か祝い事が持ち上がるたびに定められた。デ・ロップ夫人が三日間、激しい歯痛に悩まされたときは、コンラディンも三日通じてお祝いをし、スレドニ・ヴァシターの力によって歯痛が起こったのだ、と自分でも半ば信じかけたくらいだった。歯痛がもう一日続いたら、ナツメグはすっかりなくなってしまっていただろう。
メンドリをスレドニ・ヴァシターの礼拝に参加させたことは一度もない。ずっと前にコンラディンはこのメンドリが「アナバプティスト」だと決めつけていたのだ。アナバプティストが何のことだかちっともわからなかったけれど、ともかく荒々しい、もったいぶってはいないものにちがいない、と決めていた。デ・ロップ夫人という生きた見本があったから、コンラディンはあらゆるもったいぶったものを嫌いぬいていたのだ。
そのうち、コンラディンが物置に夢中になっていることは、デ・ロップ夫人の知るところとなった。
「どんな天気の日だって、あんなところでぶらぶらしているのだもの、あの子には良くないわ」
そう決心するが早いか、朝食の席で、昨夜のうちにメンドリは引き取ってもらいましたからね、と言い渡したのだった。夫人は近眼の目でコンラディンをねめつけ、怒ったり悲しんだりしてわっと泣き出すのを待ちかまえた。そうすれば、さっそくものごとの道理と教訓を説いて、びしびし叱ってやらなくちゃ、とてぐすね引いていたのだ。
ところがコンラディンは無言だった。言うべきことなど何もないのだ。青ざめ、強ばった表情を見て、さすがに夫人も多少なりとも気が咎めたらしく、午後のお茶の時間には、食卓にトースト、普段なら「コンラディンに良くない」という理由で禁じていたトーストが出されていた。トーストは「手間がかかる」という、中流階級の女性の目からすると許し難い欠陥を持つがゆえに、食卓に上らなかったのだが。
「トーストは好きだったはずじゃなかったの」
手を出さないコンラディンに、デ・ロップ夫人は傷つけられたように言った。
「ときと場合によるよ」とコンラディンは答えた。
その日の夕方、コンラディンは檻に棲む神にまったく新しい礼拝を編み出した。いつもは賛美の詠唱をささげていたのだが、今日は願い事をしたのである。
「スレドニ・ヴァシター、どうかぼくの願いをひとつだけ叶えてください」
願いごとの中味は言わなかった。神であるスレドニ・ヴァシターなら、わかってくれているに相違ない。すすりなきをじっとこらえて、メンドリがいなくなって空っぽになった一隅に目を凝らしたあと、コンラディンは憎むべき世界に戻ったのだった。
それから毎晩、寝室の心落ち着く暗闇のなかで、あるいは夕方の物置の薄暗がりのなかで、コンラディンの悲痛な祈りは続いた。
「スレドニ・ヴァシター、どうかぼくの願いをひとつだけ叶えてください」
コンラディンが物置に行くのをやめようとしないことに気がついたデ・ロップ夫人は、ある日もっとよく調べようとそこに行った。
「錠がかかっている檻のなかに、あなた、何を飼っているの。おおかたモルモットかなんかでしょう。だけどそのうち全部片付けてしまいますからね」
コンラディンは押し黙って答えなかったが、「あの女」はコンラディンの寝室を徹底的に捜し回って、とうとう注意深く隠しておいた鍵を見つけ、すぐさまその成果を確かめに物置へ降りていったのだった。
寒い午後で、コンラディンは家でじっとしているように言いつけられた。ダイニング・ルームの一番端の窓から、途切れた植え込みの向こう側に、物置の扉がうまいぐあいに見通せる。コンラディンはそこに陣取った。
「あの女」が入って行くのが見えた。コンラディンは想像する。「あの女」が聖なる檻の戸を開けて、近眼の目を凝らし、神のおわします積もったわらの床をのぞきこんでいるところを。気短かな「あの女」のことだから、おそらくわらをつついたりするだろう。コンラディンは必死の思いで最後の祈りを唱えた。だけど、ぼくがこうやって祈っているのは、ほんとは信じてなんかいないからだ――コンラディンはそのことを知っていた。「あの女」がいまにも、むかつくような「ほくそ笑み」を浮かべて出てくるにちがいない。一時間か、二時間もしたら、庭師が、偉大なる神を、いや、そうなるともはや神ではなく、ただの檻のなかの茶色いイタチを持っていってしまうのだろう。そうやって勝ち誇ってみせるように、これからもいつだって勝ち誇り、ぼくは「あの女」にまとわりつかれ、「あの女」の好き放題にされ、バカにされ、そうしてだんだん弱ってしまい、医者の言ったとおりになっていくのだろう。コンラディンは敗北にうちひしがれ、悔しく惨めな気持ちを抱えたまま、危機に瀕する神のために、昂然と大きな声で詠唱を始めた。
スレドニ・ヴァシターは進む
胸の思いは血のたぎるごとく、歯はきらめく白
停戦をこいねがう敵に 与えられるのは 死
スレドニ・ヴァシター、美しきもの
不意にコンラディンは歌うのをやめて、ガラス窓に額を寄せた。半開きの物置の扉は、もう何十分もそのままになっている。いつしかずいぶん時間が過ぎていたのだ。数羽のムクドリの群れが、芝生を走ったり飛び回ったりしていた。コンラディンはムクドリを何度も何度も数えたが、片方の目はゆらゆらと揺れる扉から決して離さなかった。
不機嫌な顔つきのメイドが入ってきて、テーブルに夕食を用意し始めたが、コンラディンは立ったまま、じっと外を見守っていた。希望が胸にじわじわと兆してきて、さきほどまでの、打ちのめされても恨めしげにじっと耐えることしか知らなかった瞳に、勝利の色が浮かんでいた。ひっそりと、内心天にものぼるような心地で、もういちど勝利と狼藉の凱歌をうたいはじめた。
やがて見守っていたコンラディンは報いられたのである。扉から、体の長い、丈の低い、黄褐色のけものが姿を現したのだ。顎から喉にかけてはべっとりとどす黒く濡れたまま、傾きかけた日の光に目をしばたかせている。コンラディンは崩れるように跪いた。大きなケナガイタチは、庭のはずれを流れる小川に行って、しばらく水を飲んでいたが、板の橋を渡って、藪のなかに消えていった。それがスレドニ・ヴァシターを見た最後だった。
「お夕食の支度ができたんですけど」仏頂面のメイドが言った。「奥様はどこへいらっしゃったんですか」
「ちょっと前に物置へ行ったよ」
お茶の用意ができた、とメイドが女主人を呼びに行ったあと、コンラディンは食器棚の引き出しからトースト用のフォークを探し出し、自分のためにパンを一枚、焼き始めた。パンを焼いてからバターをたっぷり塗って、ゆっくり楽しみながら食べる。そうしているあいだもコンラディンは、ダイニング・ルームのドアの外が慌ただしくなったり、かと思うと急に静かになったりするのに耳を傾けた。メイドが愚かしい大声で悲鳴をあげている。台所の方から、どうしたんだ、何かあったの、と聞く声がする。バタバタと走り回る音、外へ助けを求めて飛び出す音、それからしばらくの静寂ののちに、怯えたようなすすり泣きが始まり、重い荷物を家の中に引き入れるような音がした。
「いったいかわいそうなあの子にはだれが話すっていうの? とてもじゃないけどわたしにはできないわ!」
悲鳴のような声がそう言った。みながその相談をしているあいだ、コンラディンはもう一枚、自分のためにトーストを作った。
The End
サキの楽しみ
サキの短編から、「開いた窓」「ハツカネズミ」「スレドニ・ヴァシター」の三つを訳してみた。「あざやかな結末」「滑稽なもの」「不気味なもの」からひとつずつ選んだつもりである。
なかでも断然有名なのは「開いた窓」だろう。
わたしがサキの名を知ったのも、高校一年のときの教科書だか副読本だかに載っていたこの作品を読んだのがきっかけだった。それまでにも『最後の一葉』などのO.ヘンリーの短編や『宝島』や『八十日間世界一周』のリライト版など、さまざまなものを辞書を引き引き読まされたのだが、ただの一度もおもしろいと思ったことがなかった。ところがこの最後のオチの鮮やかさだけは、たとえそうやって読んだにせよ、損なわれることもなく、「あっ」と思わされ、そのあとニヤリとさせられた。以降、サキの短編集の翻訳を探しては読むようになった。
さて、サキの短編には「話し上手」が何人か登場する。「開いた窓」のヴェラもそうだし、そのままタイトルになっている作品もある。おもしろいことに、彼らはみな残酷なのだ。別にひどいことを言ったり、傷つけるようなことを言ったりするわけではないのだが、「話し上手」のおもしろい話を聞いた人びとは、たいていそのあとでひどい目に遭う。だがそれを当然予期し、そうなっていくのを目の当たりにしながらも、話し上手たちは素知らぬ顔をしているのである。
「ハツカネズミ」では、「開いた窓」のナトルによく似た神経質な男の、汽車が駅につくまでの、内面、というか、服の内側の葛藤がテーマである。葛藤をいやがうえにも増幅させているのは、「他人から見たらどう見えるか」という意識。セオドリックも相客の目を気にして、きりきり舞いするのだが、彼女は見ようにも見ることができなかった。
セオドリックの独り相撲はおかしいが、わたしたちの葛藤というのも、実のところ、同じようなものなのかもしれない。ここでの「話し上手」は、姿を見せないサキその人だが、話を聞かされているわたしたちが、こんどはひどい目に遭わなければよいのだけれど。
三つのなかで「スレドニ・ヴァシター」だけは、少しトーンがちがう。ユーモラスなところはどこにもないし、おもしろい話を語りながら、読み手の反応を予想しておもしろがっている作者の姿も見えてこない。
世界の五分の三に押しつぶされそうになりながら、自分の想像の世界を守っていた少年の姿は、大人になって振り返ったサキの目に映るかつての自分の姿である。だからこそ、少年の祈りは聞き届けられ、イタチは“スレドニ・ヴァシター”として現れなければならなかったのだ。
あらゆる子供は程度の差こそあれ、似たような境遇にいるのかもしれない。周囲の大人は「あなたのため」といいながら勝手なことをして、無力な子供は大切なものと引き裂かれる。だが逆に、引き裂かれるからこそ、それがほんとうに大切なものとなり、子供の側はこんどはなんとかそれを生き延びさせる知恵を養っていくのだ。
かつてのコンラディンがいたからこそ、のちの「サキ」が生まれたように。
物置の扉を見守るコンラディンの目を通して、刻々と移り変わっていく庭の情景の描写は、静かだが、ただならぬ気配に充ちている。そうして、最後に姿を現すのは、想像の世界から越境してやってきた神“スレドニ・ヴァシター”なのか、それともただのイタチなのか。いずれにしても森に帰っていくその姿はいつまでも心に残る。
つくづく、うまい人だな、と思う。
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