サキ コレクション vol.5:狼たち

月に吠える



「侵入者たち」



カルパティア山脈の東端の尾根に広がる雑木林のなかに、冬の晩、男がひとり、耳を澄まして周囲の様子をうかがっていた。森の獣が視野の内にはいないか、射程圏内まで入って来ないかと待ちかまえている。だが、実際のところ彼が眼を光らせていたのは、猟期や狩猟鳥獣を記載したカレンダーには載っていない生き物だった。ウールリッヒ・フォン・グラドヴィッツが暗い森のなかを求めて回っているのは、人間の敵だったのだ。

 グラドヴィッツ家の所有する森は広大で、獲物となる獣も多かった。だが、はずれにある急勾配の林は、そこをねぐらにする生き物も少なく、獲物も限られていたのだが、当主のウールリッヒは、領地のなかではどこよりも厳重に監視していた。祖父の代の派手な訴訟騒ぎのあげく、不法に占有していた隣のちっぽけな地主一家から苦労して取り戻した土地なのである。取り上げられた方はその判決を良しとせず、それから先も長きに渡って密猟しただのなんだのと争いが続き、両家は三代に渡って憎しみを募らせてきたのだった。

隣家に向けられた憎悪は、ウールリッヒが当主となるころには、当主個人に対する憎悪にまで発展していた。ウールリッヒが心の底から憎み、不幸を願う相手がこの世にいるとすれば、ゲオルク・ツネイムをおいてはない。彼こそ諍いの相続人、しぶとく密猟を続け、争いの元の領地に不法侵入を続ける人物だった。めいめいが相手をここまで憎んでさえいなければ、両家の紛争も、もしかすると沈静化、ひょっとしたら和解の可能性さえあったかもしれない。だが、ふたりは少年時代から相手に血を流させようと機会をうかがい、成人してからは相手の不幸を祈っていた。そうして風の荒れ狂う冬の夜、ウールリッヒは自分の配下の森番を集め、暗い森の中で、四本足の獲物を探す代わりに、境界を越えて二本足で入ってくる盗人どもを見張っていたのだった。いつもなら嵐のあいだは窪地に身を隠しているノロジカが、今夜は追い立てられたかのように駆けていたし、夜のあいだは眠っているはずの生き物たちまでもが落ち着かなげに動き回っている。ウールリッヒには何ものかがどちらの方角からやってくるのか、よくわかっていた。

 丘のてっぺんに張り込ませた者たちから離れて、自分だけ、密集した下生えをかきわけながら、急な斜面を下の方まで降りていった。木立のあいだをすかして、侵入者の姿が見えないかと目を凝らし、吹きすさぶ風やぶつかりあう枝のざわめきに紛れて近寄る音は聞こえないかと、耳をすませる。嵐の夜、闇に閉ざされた寂しい場所で、ゲオルク・ツネイムと一対一、目撃者もないところで会えるなら――それがウールリッヒの心からの願いだった。そうしてブナの大木の根元を回って一歩踏み出したところで、求めていた相手とばったり顔を合わせたのである。

 互いに相手を敵と見なしていたふたりは、しばらく黙ったまま睨み合った。それぞれがライフルを手に持ち、胸を憎悪で焦がしていたのだ。脳裏に真っ先に浮かんだのは殺意だった。これまでの人生のあいだ、抱き続けた憎しみを爆発させる機会が訪れたのだ。だが、文明社会の規範のもとで成長した彼らに、家族や名誉を傷つけようとする相手ならいざしらず、隣人を、言葉もなく平然と撃つことができるような度胸はなかった。一瞬ためらったのちに、行動に出ようとしたちょうどそのとき、自然の持つ破壊力が、ふたりをまとめて打ちのめしたのである。恐ろしいうなりごえをあげて襲いかかった突風に答えるかのように、頭上でめりめりと立木の裂ける音がした。そうしてふたりが飛び退く前に、ブナの大木が轟音とともに倒れかかってきたのだった。

ウールリッヒ・フォン・グラドヴィッツは気がつくと地面に倒れていた。体の下敷きになった腕の感覚はなく、もう一方の腕は、きつくからまった枝に押しつぶされて、ほとんど動かすこともできない。両脚は、倒れた枝のせいでぴくりとも動かすことができない。頑丈な狩猟用のブーツのおかげで、足はつぶされずにすんだが、骨はまちがいなく折れているだろうし、誰かが助けに来てくれないかぎり、身動きひとつできないことは明らかだった。落ちてきた小枝で顔も傷だらけ、眼をしばたいて、まつげにたまった血のしずくを払い落とすと、彼にもやっと被害のあらましが見て取れた。すぐ横、ふだんなら手を伸ばせば届く位置にゲオルク・ツネイムが倒れている。息はまだあるようで、もがいているが、彼同様、下敷きになったまま、動けないのにちがいない。そこらじゅうに裂けた大枝や折れた小枝が降り積もっていた。

 命が助かったことに安堵しつつも、身動きできない状況にいらだって、ウールリッヒは、敬虔な感謝の祈りと呪詛の入り交じった奇妙な言葉を口にした。ゲオルクは目に入る流血のせいでほとんど何も見えず、もがくこともやめてしばらくそのせりふを聞いていたが、やがて短い、鼻先で嗤うような音を立てた。

「おっと、おまえは死に損なったようだな、くたばればよかったのに。まあ、動けないんじゃどうしようもないが」彼はわめいた。「あっさりとつかまっちまったな。ハッハッ、お笑い草じゃないか、ウールリッヒ・フォン・グラッドヴィッツが人から奪った森のなかで罠にかかるとはな。こういうのを本当の天罰と言うのだな!」

 あざけりと怒りをこめて、もう一度高笑いした。

「おれがいまいるのは、うちの森だ」ウールリッヒは言い返した。「うちの衆が助けに来てくれるのをどうせおまえも待ってるんだろうがな、隣の地所で密猟をしていたことがばれるより、ここで動けない方がましかもしれんぞ。ざまはないな」

 ゲオルクはしばらく口をつぐんでいたが、やがて静かに答えた。

「おまえのところの連中が助けてくれるまで、おまえは生きていられるつもりらしいな? おれだって今夜、屋敷の者を連れてきてるんだぞ。すぐ近くにいるんだ。先に助けに来るのは屋敷の者たちの方さ。ここに来て、クソ枝からおれを引っ張り出したら、すぐにあのぶっとい幹をきさまの上に転がしていくなんざ、どんなにぶきっちょなヤツにだって朝飯前さ。おまえのところの連中が見つけるのは、倒れたブナの下敷きになってくたばってるきさまの死骸だ。世間の手前、おまえの一家には悔やみのひとつも送っておいてやるよ」

「いいことを教えてくれたな」ウールリッヒは噛みつくような声をだした。「うちの衆には十分経ったら追いかけてくるように言ってあるし、七分はもう経っただろうからな。うちの衆がおれを助けたあとは――教えてくれたことはしっかり覚えておくぞ。ただし、おまえはおれの地所で密猟中にくたばったことになるから、きさまの家には悔やみなんぞは届けないのが、礼儀かもしれんな」

「ふん、結構だ」ゲオルクが怒鳴った。「それもよかろう。死ぬまでやってやろうじゃないか、おまえとおれ、それから森番だけで、邪魔者一切なしだ。くたばりやがれ、ウールリッヒ・フォン・グラッドヴィッツ」

「同じことを言ってやろう、ゲオルク・ツネイム、このこそ泥めが」

 互いに口汚くののしって、何とか相手に打撃を与えようとした。首尾良く見つけられるにせよ、偶然通りかかるにせよ、配下の者たちが来るまでまだしばらくかかることはわかっている。しかも、どちらの一団が先にここにやってくるかは、運次第なのである。

 ふたりとも、のしかかる大木から這い出そうとあがくのは、無駄なことだとあきらめていた。ウールリッヒは少しだけ自由になる方の腕を伸ばして、上着の外ポケットからワインの入ったフラスコを引っ張り出そうと、精一杯の努力をした。それがうまくいくと、つぎはなんとか栓をゆるめて、自分の喉に流し込むという気の遠くなるような困難が待っていた。だが、まさに神から贈られたようなひとくちだった! 冬もまだ浅く、雪もほとんどなかったために、例年のこの時期に比べても寒さはさほど厳しくはなかった。それでもワインを飲めば温まり、傷を負った体にも生気がよみがえってくるようだ。目をやれば、倒れている自分の敵が、痛みと疲労でうめき声をあげそうになるのを、歯を食いしばってこらえている。哀れさに胸を衝かれた。

「このフラスコをそっちへ放ったら、手を伸ばすことができるか」不意にウールリッヒは聞いた。「うまいワインが入ってる。ちょっとでも楽になれるのならそれに越したことはないからな。一杯やろうじゃないか。たとえ片方が今夜中に死ぬとしても」

「いや、いい。ほとんど見えないんだ。両目とも血で固まってしまった」ゲオルクは答えた、「ま、何にせよ敵とワインなんぞ飲むのはごめんだしな」

 ウールリッヒは少しのあいだ黙って、うなりをあげて吹きすさぶ風の音に耳を澄ましていた。思いがゆっくりと頭のなかで形になろうとしていた。顔をゆがめて痛みと疲労に耐えている男の方に目をやるたび、思いは強まるばかりだった。ウールリッヒ自身、痛みで気が遠くなりそうになりながら、昔からの憎悪が徐々に消えていくのを感じていた。

「お隣さんよ」やがてウールリッヒは声をかけた。「おまえのところの連中が先に来たなら、おれをどう料理してくれてもいい。約束は約束だからな。だがな、おれは気が変わった。もしうちの衆が先に来たら、まずおまえを助けさせる。おまえはうちの客人だ。おれたちはこれまでずっと阿呆のように争ってきたが、それもこれっぽっちの林のためだったんだからな。風がちょっと吹いたらすぐに倒れてしまうような木しか生えてない場所なのに。今夜、寝っ転がって考えてみると、おれたち、ずっと馬鹿だったよなあ……人生には境界を越えたの越えないのといがみ合うより、もっとましなことがいくらでもあるのに。お隣さんよ、もしあんたが昔からの諍いを水に流してやってもいいと思ってくれるんなら、おれは……もしよかったら、おれの友だちになってもらえないだろうか」

 ゲオルク・ツネイムがあまり黙ったままだったので、ウールリッヒは、もしかしたら痛みのせいで意識がないのかもしれない、と思ったほどだった。やがてゲオルクはうわごとのように、のろのろとした口振りで言った。

「世間じゃびっくりして大騒するだろうなあ。もしおれたちが馬で一緒に市場へ入っていったらさ。ツネイム家とフォン・グラッドヴィッツ家の人間が仲良く話しているところを見たことがあるようなやつは、もう生きちゃいまい。おれたちがここで諍いをやめたら、森番連中もうまくやっていけるだろうな。連中の前でおれたちが手打ちをしても、文句を言うやつはいないだろう。ほかに邪魔立てするやつもいないはずだ……。大晦日のシルヴェスターのお祝いには、うちへ来てくれ。おれも何かの祝日にはおまえの館に招んでもらうぞ……。もうあんたの地所では銃は撃たない。あんたが狩りに呼んでくれたら別だがな。あんたもうちの沼地へは鴨を撃ちに来てくれ。手打ちをするとなりゃ、この界隈で文句を言うやつなんているはずがない。おれはこの先一生、あんたを憎むことになるとばっかり思っていたが、考えが変わった。三十分ほど前からな。そしたら、あんたがワインを飲めと言ってくれたんだ……ウールリッヒ・フォン・グラッドヴィッツ、おれたちは友だちだ」

 しばらくのあいだ、ふたりとも黙ったまま、この劇的な和解の結果、どんなにすばらしい未来が待っているだろうと思いを巡らしていた。寒く暗い森の中、裸木のあいだを風がひゅうひゅうと吹きすぎる。ふたりは横たわったまま、助けが来るのを待っていた。いまやどちらの家からでも人が来さえすれば、ふたりは助かるのである。だが互いに心の中で、自分の配下の者が先に来てくれるように、と祈っていた。そうすれば、何を置いても現在の友となったかつての敵に、心からの思いやりを示すことができるのだから。

 やがて、風が止んだとき、ウールリッヒが沈黙を破った。

「助けを呼ぼう」彼は言った。「風がおさまっているあいだなら、声が少しは向こうまで届くだろうし」

「木立ちも藪もあるからどこまで聞こえるかわからないが」ゲオルクは言った。「とにかくやってみよう。声を合わせて。それ」

 ふたりは声を張り上げて、長く尾を引く狩りの呼び声をあげた。

「もういちどやってみよう」応えを待つ数分間が虚しく過ぎたところで、ウールリッヒは言った。

「風の音しか聞こえないな」ゲオルクの声は涸れていた。

 また沈黙が続いたが、やがてウールリッヒがうれしそうな叫び声をあげた。

「木立ちの向こうからこっちへやってくるのが見えるぞ。おれがおりてきた斜面をついてきたんだ」

 ふたりは声をかぎりに叫んだ。

「聞こえたみたいだ! 止まった。ああ、気がついたんだ。斜面を駆けおりてこっちへくる」ウールリッヒは大声をあげた。

「何人だ?」ゲオルクが聞く。

「はっきり見えない」ウールリッヒは言った。「九人か十人ぐらいだ」

「じゃあ、そっちの連中だな」ゲオルクが言った。「おれと一緒に来たのは七人だけだから」

「全力で走ってるな、元気のいいやつらだ」ウールリッヒはうれしそうに言った。

「あんたのところの森番だな?」ゲオルクが尋ねた。「あんたのところの連中だろう?」ウールリッヒが何も言わないのにしびれを切らし、重ねて聞く。

「ちがう!」そう言うと、ウールリッヒは笑い出した。恐怖に度を失った者だけが上げる、気でも違ったようなすさまじい声だった。

「誰なんだ」あわててそう聞いたゲオルクは、見えない目を精一杯凝らして、誰も見たくはないそれの姿を、何とか見ようとした。

「狼だ……」



The End






「セルノグラツの狼」



「この城には古い言い伝えみたいなものはないのかい?」コンラッドは妹に聞いた。ハンブルグで手広く商売をやっているコンラッドだが、ひどく世俗的な一族のなかではただひとり、詩人の心を持っていたのである。

 グルーベル男爵夫人は小太りの肩をすくめた。

「こういう古い城に言い伝えはつきものよ。そんなもの、簡単にでっちあげられるし、お金だってかからないし。ここのはお城でだれか死ぬと、森の獣たちが一晩中遠吠えするとかいうの。そんなものを聞かされでもしたことなら、さぞかしぞっとするでしょうけどね」

「なんだか不気味だけどロマンティックな話だな」ハンブルクの商人が言った。

「だけどそんな話は嘘っぱち」男爵夫人はしたり顔で言った。「わたしたちがここを買ってから、何も起こってないのが何よりの証拠だわ。お義母さまが去年の春にお亡くなりになったとき、みんなで耳をすましていたのだけど、遠吠えひとつ聞こえなかったんですもの。ただのお話。お金をかけずにお城に箔をつけようとしてるのよ」

「奥様のお話は言い伝えとはちがっております」と言ったのはアマリーという白髪の家庭教師だった。みんながあっけにとられてそちらを振りかえった。常日頃、家庭教師は口数が少なく、食事中もつんととりすましていて、話しかけでもしないかぎり、自分から口も開かないのだ。第一、家庭教師ふぜいとわざわざ話をしようとする者もいなかった。それが今日に限って、にわかに雄弁になったのである。神経質そうな早口で、まっすぐ前を向いたまま、だれに向かってでもなく話を続けた。

「この城でだれかが亡くなったというだけで、遠吠えが聞こえるのではございません。セルノグラツ一族の者の死期が迫ってくると、近隣一帯から狼が集まって来ます。そうしていまわの時となると、森のはずれで遠吠えが始まるのです。その先の森をねぐらにしている狼のつがいは、せいぜいふたつかみっつといったところでしょうが、森番の話では、そのときばかりはずいぶん大勢の狼が姿をあらわし、物陰をうろつきまわっては鳴き交わすのだそうです。狼の遠吠えが始まると、城の犬も村や方々の農家の犬も、怯えたり怒ったりして吠え出します。そうして、魂がその人の体から離れていくまさにそのとき、荘園の木が一本、めりめりと倒れるのです。そうしたことが起こるのは、セルノグラツ一族の者が、この城で死ぬときだけ。よそものがここで亡くなったところで、むろんのこと狼は遠吠えなどいたしませんし、立ち木が倒れることもございません。ええ、ほんとうに」

 最後の言葉には、決して従わないぞと言わんばりの、見下すといってもいいような響きがこもっていた。よく太った体を飾り立てた男爵夫人は、みすぼらしい年寄りじみた女をにらみつけた。ふだんは分相応にしているくせに、急にどうしたっていうの、あのぶしつけな物言いはいったい何よ。

「フォン・セルノグラツ家の言い伝えにずいぶんお詳しいのね、シュミット先生」とげとげしい声でそう言った。「学問がおありとはうかがってましたけれど、門閥のことまでお詳しいとは知りませんでした」

 いきなり雄弁になったアマリーをあてこすって男爵夫人はそう言っただけなのだが、返事を聞いていっそう驚かされることになった。

「わたくしはセルノグラツ一族の出でございます」年老いた女が答えた。「だからこそ一族の言い伝えも知っております」

「フォン・セルノグラツ家の人だって? あなたが!」半信半疑の言葉が一斉に口にされた。

「一族が没落いたしましたせいで、わたくしは家を離れ、教師の職に就きました。そのとき一緒に名前も変えましたのは、こちらの方がこの職にはふさわしかろうと思ったからでございます。ですが、わたくしの祖父は、子供時代のほとんどをこの城で過ごしておりますし、父も城の話はずいぶん聞かせてくれました。ですからもちろん一族の言い伝えや昔話のあれこれは存じております。何もかもを失って、あとに残りましたものは思い出だけ、そうなりますと、思い出もことのほか大切なものでございます。男爵様にお仕えするようになりましたとき、まさか昔、一族のものだった城へ来ることになろうとは夢にも思っておりませんでした。どこかほかの場所であれば、とずいぶん思ったものでございます」

 アマリーが言葉を切ると、座は静まりかえった。やがて男爵夫人は一族の歴史より差し障りのない話題に変えた。だが、年寄りの家庭教師が静かに席を立って仕事に戻っていくとすぐ、一同はあざけったり、信じられないと言い合ったりしたのだった。

「非礼にもほどがる」と吐き捨てた男爵は、憤懣やるかたないという顔つきで、目をぎょろりと剥きだした。「食卓の席であんな話を始めるなんて、たいした女のつもりらしい。我々がそこらへんの馬の骨か何かのように言うんだからな。嘘八百もいいところだ、ただのシュミット、それだけだ。どうせ小作人からでもセルノグラツ家の話を聞きこんできて、来歴や言い伝えをひけらかしているのだろう」

「自分のことをたいそうな人間だと思わせたいんですわ」男爵夫人は言った。「そろそろ仕事も辞めなくてはならないでしょうしね、だから同情でも引くつもりだったのでしょうよ。わたくしの祖父は、ですって」

 男爵夫人にも世間並みに祖父はふたりいたが、ついぞ自慢などしたことがない。

「もしかしたらこの館で配膳係りか何かやっていたのかもしれないな」男爵はクックッと嗤いながら言った。「ひょっとすると、そのぐらいはほんとうかもしれん」

 ハンブルクの商人は何も言わなかった。思い出を大切にしていると言った老婦人の目に涙が浮かんでいるのを見たのである――もしかしたら、単に想像力が豊かなあまりに見たと思っただけだったのかもしれないが。

「暇を出すつもりです、新年のお祝いが終わったらね」と男爵夫人が言った。「それまではあの人にも手伝ってもらわないと、わたしが困りますからね」

 だが、実際にはやはり男爵夫人はアマリーの助けなしにやっていかなくてはならなくなった。クリスマス後に襲来した寒波のために、高齢の家庭教師は病に伏し、部屋から出られなくなってしまったのだ。

「ほんと憎らしいったらないんですのよ」暮れも押し迫ったある晩、男爵夫人は客人と一緒に暖炉を囲む席でその話を始めた。「あの人がうちへ来てからというもの、これまでずっと病気で寝込むようなこともなく来たんです。自分の部屋を出て仕事もできないほどの病気というのはね。それがどうでしょう、お客様が大勢お見えになって、いろいろやってほしいときになって寝込むんですからね。確かに気の毒なことは気の毒なんです。すっかりやつれて、縮んでしまったみたい。そうはいってもこちらとしてみればたまったものではありませんわ」

「それはたいそうお困りのことね」銀行家の妻が、わかりますよ、といわんばかりにあいづちを打った。「きっと厳しい寒さのせいですわよ、年寄りにはこれがこたえるんです。今年は例年よりもなおのこと寒いですからね」

「十二月にこんなに霜が降りたのも、ここ数年来なかったことですからな」男爵も言った。

「確かに歳が歳ですからね」と男爵夫人は言った。「もっと前に暇を出しておけばよかったと後悔しているのですよ、そうしていれば、こんなことにもならずにすんだでしょうからね。あら、ワッピー、どうしたの?」

 毛むくじゃらの小型犬が、クッションから急に飛び降りたかと思うと、ぶるぶる身を震わせながらソファの下へもぐりこんだ。城の中庭では、犬が一斉に怒ったように吠え始め、遠くの方からもやかましい犬の吠え声が聞こえてきたのである。

「あいつらは何を騒いでいるのだろう」男爵が言った。

 じっと耳を傾けているうちに、犬を怯えさせたり怒らせたりしたものの正体が、人間にもはっきりわかってきた。長く尾を引くもの悲しい遠吠えが、高く、低く、あるときは五キロも先から聞こえたかと思えば、雪原をひとっとびして城壁の裾あたりからも吠えているかのよう。凍てつく世界のさまざまな飢えと寒く惨めな思い、野生の生き物たちの激しい空腹からくる怒りが、なんとも名づけようのないもの悲しい旋律に混じり合い、むせびなくような遠吠えになっているようだった。

「狼だ!」男爵が叫んだ。

 狼の合唱が四方八方から聞こえてきた。

「何百頭もの狼だ」想像力の豊かなハンブルグの商人が言った。

 自分でも説明のつかない衝動にかられて、男爵夫人は客から離れ、家庭教師の狭い、陰気な部屋へ向かった。そこで年老いた家庭教師はもう何時間も横になったまま、暮れていく年を眺めていた。身を切るような冬の夜気にもかかわらず、窓は開け放したままだ。もう、いったいなんてことをしているの、と大声で言いながら、男爵夫人はあわてて窓を閉めようとした。

「開けておくのです」老女は弱ってはいるが、男爵夫人がこれまで一度も聞いたことのない、有無を言わさぬ調子で言った。

「でも、この寒さで死んでしまうわよ」男爵夫人はいさめた。

「わたしはもう長くはありません」とその声が答えた。「だからわたくしはあの子たちの声が聞きたいの。あの子たちは、わたくしの一族が死ぬときの歌を歌いに遠くから集まってくれたのです。みんな、ほんとうによく来てくれました。フォン・セルノグラツ家の一族がこの古い館で死ぬのもわたくしでおしまい、だからみんな、わたくしのために歌おうと来てくれたのですね。ほら、なんと大きな声で呼んでいること!」

 狼たちの遠吠えは、静かな冬の夜気をふるわせながら切り裂き、長く尾を引いて、城壁を取り囲んでいく。老女はベッドに仰向けに横たわったまま、やっと幸福が訪れた、とでもいいたげな表情を浮かべていた。

「さがりなさい」男爵夫人にそう命じた。「わたくしはもうひとりではありません。誇り高い一族の一員なのですから……」

「もう長くはないと思うわ」男爵夫人は客の集まっているところに戻ってそう言った。「お医者を呼びにやったほうがよさそうね。それにしてもいやな遠吠えね! どれだけお金を積まれても、あんな末期の歌なんてゴメンだわ」

「あの歌は、どれだけ金を積んでも聞けやしないよ」とコンラッドが言った。

「ちょっと待て! あの音は何だ?」何かがめりめりと裂けるような音を聞きつけた男爵が尋ねた。

 荘園で立木が倒れたのだ。

 ぎこちない沈黙がたれこめた。やがて、銀行家の妻が口を開いた。

「ひどい寒さですものね、木も裂けるんでしょう。狼があんなに大勢集まってきたのも、寒さのでいですわ。これほど寒い冬は、ここ何年もありませんでしたもの」

 男爵夫人も勢いこんで、これもみな寒さのせいにちがいありませんわ、と同意した。家庭教師が医者の診察も受けることなく、心臓麻痺で亡くなったのも、寒さのなか、窓を開け放していたせいだ、ということになった。だが、新聞の死亡記事だけはずいぶん立派な体裁のものとなった――。

十二月二十九日、セルノグラツ城
アマリー・フォン・セルノグラツ逝去。多年にわたりグルエベル男爵ならびに男爵夫人の大切な友人であった。



The End






「物置部屋」



 子供たちは特別なはからいでジャグバラの砂浜に連れていってもらうことに決まった。ニコラスだけはおいてきぼりである。みせしめのためなのだ。というのも、その日の朝、ニコラスは滋養豊かなパンがゆを、このなかにカエルがいるなどという突拍子もない理由で、食べたくないと言い張ったのだ。分別ある立派な大人たちが、パンがゆにカエルがいるはずがないじゃないか、バカをお言いじゃないよ、と言って聞かせても、ニコラスはたわごとを撤回しようとするどころか、逆に、カエルの色だの模様がどんなだのと、話はいやに細かくなっていく。驚くなかれ、パンがゆの入ったニコラスのボウルには、ほんとうにカエルがいたのだった。ぼくが入れたんだもの、ぼくが知ってるのはあたりまえじゃないか、とニコラスは思ったが、庭でつかまえたカエルを、滋養豊かなパンがゆに入れるなんて、ほんとになんて子だろうね、と長々とお説教をくらう羽目になった。とはいえ、ニコラスからしてみれば、この出来事で何よりはっきりと確認できたのは、分別のある立派な大人たちの言う“絶対まちがいない”ことが、おおまちがいだった、という点である。

「伯母さんはパンがゆのボウルにカエルなんているはずがない、って言ったじゃないか。だけど、ほんとにいたよね」と、有利な地点では一歩も引かない老練な策士のように、ニコラスは執拗に繰りかえした。

 いとこの男の子と女の子、ニコラスのちっともおもしろくない弟が、その日の午後、ジャグバラに連れて行ってもらい、ニコラスだけが家で留守番しなければならない羽目になったのにはそういういきさつからだった。いとこたちの伯母さんが――ニコラスにとっては伯母には当たらないのだが、勝手に想像をたくましくして、そうふるまっていたのだ――急にジャグバラへの遠出を思いついたのは、楽しいことを見せつければ、ニコラスも自分が朝食の席で悪いことをしたと後悔するにちがいない、と考えたからである。これはいつもの手口で、伯母さんは子供が悪いことをするとかならず、何かおもしろそうなことを急ごしらえして、悪い子だけを仲間はずれにするのだ。子供たちがみんなそろって悪さをしたときは、突然、隣町にサーカスがやってきたんだってさ、などと言い出す。そのサーカスときたら、もう世界で一番おもしろくて、数え切れないほど象もいるんだよ、悪いことさえしなかったら、今日、連れて行ってあげようかと思ったのにねえ、などと。

 遠出の時間になれば、ニコラスの目から涙の数滴でも流れ落ちるだろうと思われていた。ところが実際には泣き出したのは、いとこの女の子の方で、それも馬車に乗りこもうとして段で膝小僧をすりむいたからだった。

「すっごい泣き声だったね」というニコラスは楽しそうだが、出かけた一行の方は、遠出を楽しみにしたり喜んだりしている気配はなかったのである。

「すぐ泣きやみますよ」と自称伯母さんは言った。「こんなにすばらしいお天気の日に、きれいな砂浜を駆け回ることができるんだからね。あの子たち、どれほど楽しい思いをするだろうねえ」

「ボビーはそんなでもないかもね。駆け回ったりはできないと思うよ」とニコラスがクスクス笑いながら言った。「ブーツが痛いんだってさ。きつすぎて」

「あの子、なんでわたしに痛いって言わなかったのかしら」いささかとげとげしい口調で伯母さんは言った。

「二回も言ったよ、だけど伯母さん、聞いてなかったじゃないか。伯母さんってときどきぼくらが大切なことを言っても聞いてないことがあるよね」

「スグリの果樹園に入っちゃいけませんよ」伯母さんは話題を変えた。

「何で?」ニコラスが聞いた。

「だってあんたは罰を受けてるとこなんだからね」伯母さんは見下したように言った。

 ニコラスにはちっとも理屈が通っていないように思われた。罰を受けることとスグリの果樹園に入ることは、完璧に両立可能なはずである。彼の顔に、いかにもきかん気らしい色が浮かんだ。この子はまちがいなくスグリの果樹園に入るつもりだ、それも「いけないと言われた」という「だけ」の理由で。伯母さんはそう確信した。

 ところで、スグリの果樹園には入り口が二箇所あって、一方から入ると、ニコラスのような背の低い人間は、アーティチョークやラズベリーの枝、丈の低い果樹類の陰にすっぽりと入り込んで見えなくなってしまう。そこで伯母さんは、午後から用事はいろいろあったにもかかわらず、二時間ちかくも花壇や植え込みに居座って、たいしてやらなくてもいいような庭仕事に精を出した。それもひとえに、そこならば禁断の園に通じる二箇所の入り口に目を光らしていられるからだ。知恵の方はたいしたことはない伯母さんではあるが、集中力はすばらしいものを持っている。

 ニコラスは一、二度、表の庭へ出ていくと、いかにも人目をはばかっているようすで、あっちとこっち、両方の入り口をそわそわとのぞきに行ったが、伯母さんの油断のない目は、一瞬たりとも欺かれることはなかった。ほんとうのところは果樹園に入るつもりなど毛頭なかったのだが、伯母さんにはそう思わせておけば、非常に都合が良いのである。そう思いこんでいるからこそ、伯母さんも午後一杯、見張り番という任務を遂行してくれるのだから。

伯母さんの懸念をしっかりと裏付け、確固たるものにしておいてから、ニコラスはそっと家に忍びこんで、かねてより胸の内に暖めていた計画をさっそく実行に移すことにした。書斎の椅子に乗らなければ手の届かない棚の上に、大きくていかにも大切そうな鍵が置いてある。見かけの通り、ほんとうに大切な鍵なのである。なにしろ物置部屋の秘密を守り、許可なく詮索しようとする者を締めだすためのものなのだから。そこに入って良いのは伯母さんたちを初めとする特権階級の人びとだけである。

ニコラスは、鍵を鍵穴に差しこんで回して開けるという経験があまりなかったから、教室のドアで鍵を開ける訓練に数日を費やしていた。幸運だの偶然だのを、あまり信用しないことにしているのだ。その鍵を差しこむと、錠は固かったがなんとか回すことができた。扉が開き、ニコラスは未知の世界へ足を踏み入れた。ここに比べれば、スグリの果樹園にどれほどの価値があろう。単に物質的な楽しみに過ぎないではないか。

 これまで何度も何度も、ニコラスは物置部屋のなかのようすを頭の中に思い描いてきた。子供たちの目から慎重に隠し、何を聞いても返事の返ってこないあの場所は。

そこは彼の期待していた通りだった。第一に、そこは大きくて薄暗かった。高いところに窓がひとつ――その窓が面しているのは、例の禁断の庭である――、それが唯一の明かり取りである。第二に、そこには想像したこともないような宝物がしまいこまれていた。自称伯母さんときたら、物というのは使えば痛むと考えて、埃と湿気に任せることを保存と呼ぶ手合いのひとりなのである。家の中の、ニコラスがうんざりするくらいよく知っている場所は、殺風景で陰気なのに、ここには見るだけで楽しくなるようなすばらしいものがあふれていた。

まず目をとらえたのが、枠にはまったタペストリーだった。どうやら暖炉の前に置く衝立てらしい。だがニコラスにとっては、生きている、まさに息づいている物語にほかならなかった。彼はくるくると巻いた、埃の下からも鮮やかな色がわかるインド織りの壁掛けに腰を下ろして、タペストリーに綴られた絵をすみずみまでじっくりと眺めた。

大昔の狩猟服を着た男が、鹿を矢で射止めたところだ。鹿はほんの一歩か二歩しか離れていないので、命中させるのは難しくはなかったろう。絵の中には密集した茂みも描かれているから、草をはむ鹿のすぐ近くまで忍び寄るのは造作もなかったはずだ。ぶちの犬が二匹、一緒に追いかけようと飛び出す構えを取っているが、これは矢が放たれる瞬間まで、主人の後ろから離れないように訓練されているのだろう。そこまではおもしろいにはちがいないが、ごくありきたりな絵柄だった。

だが、この狩人は、ニコラスのように、四頭のオオカミが森を抜けて自分の方へひた走ってくるのに気がついているのだろうか? もしかしたら、四頭だけでなく、木立の陰にもっといるのかもしれない。少なくとも四頭のオオカミに襲われて、狩人と犬は切り抜けることができるのだろうか。矢筒に矢はもう二本しか残っていないし、一本、いや、二本とも、射損じてしまうかもしれないのだ。彼の腕前がどれくらいか、大きな鹿を滑稽なほど近い距離から仕留めただけではわからない。ニコラスはこの情景がどうなっていくのか空想をめぐらして、すばらしいひとときを過ごした。オオカミは四頭なんかではすまないんじゃないだろうか。だからこの男と犬は、追いつめられてしまうのだ。

 だが、そこにはほかにもまだおもしろい、興味を引くものがいくつもあって、ニコラスはすぐに夢中になった。とぐろをまいたヘビの形の燭台、アヒルをかたどった中国製の茶瓶、これはくちばしの隙間からお茶がでるようになっているのだろう。これにくらべたら子供部屋のティーポットなんて、お話にならないぐらい、つまらなくて不格好なものなのじゃないか。

彫刻を施された白檀の箱のなかには、いい匂いの脱脂綿がぎっしり詰まっていて、綿と綿の間には真鍮製の小さな人形が入っていた。背中に瘤のあるウシや、クジャクや小鬼を眺めたりつまんだりして、ニコラスは心ゆくまで楽しんだ。見たところは何の変哲もない、地味な黒い表紙の大きな四角い本があった。ところが手にとって中をのぞいてみると、色とりどりに描かれた鳥がずらりと並んでいた。その鳥ときたら! 庭や散歩する小道でニコラスも鳥を見かけたことはあった。だが大きな鳥といっても、せいぜいがめずらしくもないカササギやモリバトくらいのものだ。ところが本のなかには、アオサギやノガン、トビ、オオハシやズグロミゾゴイ、ツカツクリ、トキ、キンケイといった、想像さえできないような鳥がたくさん描かれているのだ。

ニコラスがオシドリの色にうっとりとしながら、この鳥はいったいどんな一生を送るのだろうと考えていたときだった。スグリの果樹園の方から、ニコラスの名前をわめく伯母さんの声が聞こえてきたのだ。姿が見えないことを怪しんだ伯母さんが、ライラックの茂みを目隠しにして、その向こうから塀を乗り越えたにちがいない、と当たりをつけたのだろう。そこでせっせとアーティチョークやラズベリーの茂みを探して無駄骨を折っているのだ。

「ニコラス、ニコラス!」伯母さんは叫んだ。「すぐに出ておいで。隠れようったってムダだよ。最初からちゃんと見えてるんだからね」

 おそらく過去二十年間で、この物置部屋の中で誰かがにっこりしたのはこのときが初めてだったにちがいない。

 そのうちニコラス、ニコラスと怒りながら繰り返す声が、きゃあっという悲鳴に変わった。誰か、すぐに助けに来て、と言っている。ニコラスは本を閉じると、注意深く元あった隅に戻し、近くの古新聞の束に積もった埃をふりかけた。それから抜き足差し足で部屋を出ると、ドアに鍵をかけ、その鍵は自分が見つけた元の場所に正確に戻しておいた。伯母さんはまだ表の庭から、ニコラス、ニコラスと呼んでいる。

「ぼくを呼んでるのは誰?」ニコラスは尋ねた。

「わたしですよ」塀の向こうから声がする。「わたしの声が聞こえなかったのかい? スグリの果樹園であんたをさがしてたら、足が滑って雨水タンクに落っこったんだよ。幸い、水はなかったんだけどね、縁がつるつるしてて出られやしないんだ。桜の木の下に小さい梯子があるから、行って取ってきておくれ」

「スグリの果樹園には入っちゃいけないって言われてるんだ」すかさずニコラスはそう言った。

「確かにそう言ったけどね、いまは入ってもいいんだよ」雨水タンクのなかから、じれったそうな声が返ってきた。

「なんだか伯母さんの声とちがうぞ」ニコラスは言い返した。「おまえはきっと悪魔だな。ぼくをそそのかして、言いつけを破らせようとしてるんだ。伯母さんはいつも言ってる。あんたは悪魔にそそのかされて、いつも誘惑に負けてる、ってさ。今日こそは絶対に誘惑されないぞ」

「ばかなことを言うのはおよし」タンクの囚人は言った。「さっさと梯子を持って来るのよ」

「晩ご飯のときにいちごジャムを出してくれる?」ニコラスはとぼけて聞いてみた。

「出してあげますとも」伯母さんは言ったが、密かに、こんな子に絶対に出してやるもんか、と心に誓った。

「ほーら、おまえは悪魔だ、伯母さんなんかじゃない」ニコラスはうれしそうに叫んだ。「昨日、ぼくらが伯母さんにいちごジャムが食べたい、って言ったら、伯母さんはないって言ったんだ。戸棚に四つあるのをぼくは見つけてたんだけど、そう言うおまえもそのことを知ってるんだな。伯母さんは知らないんだよ。いちごジャムはない、って言ったぐらいだからね。おい、この悪魔め。自分でしっぽを出したな!」

 伯母さんを悪魔呼ばわりできるなんて、滅多にない最高の気分ではあるが、ニコラスは子供なりに判断力を備えていたから、やりすぎはいけないことをわきまえていた。そこで足音高くその場を去ったのだった。伯母さんを雨水タンクから助け出したのは、パセリを探しに来た台所女中だった。

 その日の晩ご飯の食卓は、恐ろしいまでの静けさに包まれていた。子供たちがジャバグラの入江に着いたときは、ちょうど満潮の時刻に当たっていて、遊べるような砂浜はなかった――なにしろ見せしめのために伯母さんがあわてて計画した遠出なのだから、それも仕方があるまい。ブーツがきつかったボビーは、午後いっぱい不機嫌だったし、ほかの子供たちも、とてもではないけれど楽しかったなどと言いたくなるような気分ではなかった。伯母さんは氷のような沈黙を守っていた。なにしろ、三十五分間に渡って雨水タンクの中に閉じこめられるという、不名誉で不当な罰を被ったのである。

ニコラスはどうかというと、彼もまた沈黙のうちにいた。考えごとに夢中になっていたのだ。こういう可能性もあるな。ニコラスは思った。あの狩人は、自分が射止めたシカをオオカミたちがむさぼり食っているあいだに逃げたかもしれない。



The End






さまざまな狼たち



狼というと、昔から童話では定番のキャラクターである。「三匹の子豚」にしても「赤ずきん」にしても「狼と七匹の子やぎ」にしても、狼と言えばかならず、主人公たちを食べようと目論む、残忍で、しかも食い意地の張った獣だった。同じ恐ろしい森の獣でも、熊のように一種の擬人化をほどこされて、人間と交流するようには描かれない。たとえ『いやいやえん』のように擬人化されて、赤いシャツとズボンをはいていても、なんとなればしげるを食べようと狙っている。

だが、本物の狼を知っている人は少ない。もちろん動物園に行けば、「ハイイロオオカミ」などという札の向こうに、せまい檻の中をうろうろしているみすぼらしい犬のような獣がいる。そこらへんのシベリアン・ハスキーの方がよほど強そうだ。

かつては世界中に分布していた狼も、いまでは東ヨーロッパやアジア、カナダ、アラスカに残るだけになってしまった。それも、人間が駆逐してしまったせいだ。

実際にはほとんど人間を襲うことはないという狼だが、人間の側が狼の領域に侵入した結果、家畜を襲う害獣ということになってしまった。ヨーロッパの童話に出てくる狼がそのように描かれるのも、当時の人びとが狼のことをそのようにみなしていたということにほかならない。

サキが生まれた19世紀後半には、すでにイギリス本国では狼は絶滅して久しく、西ヨーロッパでもほとんど絶滅しかけていた。ここで訳した「侵入者たち」も「セルノグラツの狼」も、ともに舞台をドイツに設定しているが、それもおそらくはポーランドとの国境が近い地域なのだろう。

一般に狼といって連想されるイメージ、群れで行動する恐ろしい獣、というイメージをそのまま作品に投影させたのが「侵入者たち」である。生まれる前からの領地争いで、互いに相手を「侵入者」としていがみあうふたりが、思わぬことから和解するが、その和解に「侵入」してきたのは狼だった、という、サキらしい皮肉な結末なのだが、勝手に狼たちの生息地に入ってきて、領地だのなんだのとどんどん線を引いていき、それを勝手に自分のものだ、いや自分のものだ、と争っている人間の方が「侵入者」かもしれない、という視点は、もちろんサキにはなかっただろう。それでもそうやって逆転させて、人間の諍いも和解も、所詮はちっぽけなものである、とも読めるところがおもしろい。それにしても、たとえそれで死ぬことになったとしても、和解できたふたりは、和解できなかったときにくらべて、よほど恐怖も耐えやすかったのではあるまいか。

「セルノグラツの狼」は、おそらくイギリス人にとっても異国情緒たっぷりな作品であるにちがいない。出てくるのは、お金の話しかしない(ほんとうに見事なまでにお金の話ばかりしている)男爵夫人(おそらくたっぷりの持参金を持って、貧乏貴族に嫁いだ中産市民階級の娘なのだろう)とぱっとしない男爵、そうして仲間のブルジョワたち。こうした世俗的な人びとのなかにあって、ほんものの城の継承者が家庭教師に身を落としている。そうして彼女は最後の幕を引く。一族の幕だけではない。「ほんものの貴族がいた時代」の幕である。そうして、そのレクイエムを歌うのが狼たちである。

狼が鳴き交わす遠吠えというのは、いったいどのようなものなのだろう。サキはそれをどこかで耳にしたことがあるのだろうか。むしろ一種のお伽噺のように、読者ひとりひとりの想像にゆだねられているのかもしれない。

わたしたちと同じなのが「物置部屋」に出てくるニコラスと狼の関係である。ここでの狼は、ニコラスにとって想像上の生き物でしかない。

伯母さんは雨水タンクのなかに閉じこめられるが、実際にはニコラスの方が閉じこめられているのだ。知恵もあれば美しいものを見る感受性も豊かなニコラスは、伯母さんの支配するタンクのなかで、なんとか生き延びていかなければならない。だからこそ、自分の方に向かって走ってくる狼たちから、逃げる手だてを夢中になって考える。狩人の工夫は、ニコラス自身の工夫である。サキ自身がそうやって逃れたのだろうか、自分がほんとうに逃れ出たことを確認するために、サキは何度も同じパターンの作品を書いたのだろうか。

狼たちは、人間に狩られ、駆逐されてきたが、同時に人びとの想像力のなかに実際以上の力を発揮したともいえる。サキの短篇のなかでも、容赦ない破壊力として、レクイエムを歌う幻想的な獣として、お伽噺の登場人物として、独特の魅力を発揮し続けている。





初出 Sep. 12-21 2008 改訂 Sep. 25 2008
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