サキ コレクション vol.6:舌先三寸

これもオオカミ



「メスオオカミ」



 レオナルド・ビルシターは、現実の世界に魅力も興味も感じられないことの埋め合わせに、「見えないものの世界」を経験したり、想像したり、ときにはでっちあげたりするような手合いのひとりだった。そういうことは子供がたくみにやってのけるものだが、彼らは自分さえ信じていれば十分だ。ほかの人まで巻き込んで、自分の信じる世界を世塵にまみれさせる愚は犯さない。ところがレオナルド・ビルシターときたら、「ごく少数の人びと」、つまりは自分の話に耳を傾けてくれる相手なら誰にだって吹聴するのだった。

 とはいえ、あちらの世界に首をつっこんだにせよ、そのままいけば、客間に集まった人相手に透視してあたりさわりのない話をするぐらいのものだっだろうが、神秘主義に関する知識の在庫をぐっと増やすような事態に素遇したのである。彼がウラル地方の鉱山事業に携わる友人と一緒に東ヨーロッパを旅行したのは、ちょうどロシア鉄道の大ストライキが、「怖れ」から現実のものになりそうな時期のことだった。ストが勃発したのは、帰途、ペルミの手前のことである。数日間、名もない駅で動かない汽車に閉じこめられて、彼は馬具や金具の取引をしている商人と知り合いになった。商人は待つ間の退屈しのぎに、イギリス人旅行者に向かって、バイカル湖の対岸地方の商人や土地の人から聞いた伝説を、とりとめなく聞かせてやった。国に帰ったレオナルドは、ロシアでストライキに遭遇したことは何度も披露したが、闇に包まれた神秘の数々に関しては、音に聞こえたシベリアの魔術と臭わすに留め、何も語ろうとはしなかった。

 固い口がほぐれ始めたのは、一週間か二週間後、誰も興味を示さないものだから、レオナルド自ら、それとなく詳しいところまで語るようになったのである。なんでもこの神秘のパワーたるやすさまじいもので、許されて奥義を伝授されたほんのひと握りの者しか操ることはできないのだとか。彼の伯母のセシリア・フープスは、真実も愛するが、騒ぎならなおのこと愛するような人物だったから、行く先々で、レオナルドったらわたしの目の前でカボチャを鳩に変えて見せたんですのよ、と宣伝にこれ努める、願ってもない広告塔となったのである。もっとも超能力を発揮した箇所に関しては、ミセス・フープスの想像力を考慮に入れて、いくぶん割り引いて受けとる向きもあったようだが。

 レオナルドが超能力者であるか、それともペテン師であるかは意見の分かれるところだったが、メアリー・ハンプトンの家で開かれたパーティに、超能力者、もしくはペテン師として、大物一歩手前の名声を持って出現したのだった。もちろん彼も自分に与えられた名声を避けるつもりは毛頭ない。レオナルド、もしくは彼の伯母がいるところでは、神秘のパワーだの超能力だのが、どこでも話題の中心になり、レオナルドはこれまでやったこととかこれからできそうなことを、いわくありげにほのめかしたり、暗に認めてみせたりしたのだった。

「ビルシターさん、わたし、オオカミになってみたいわ」レオナルドが到着したつぎの日の昼食の席で、女主人が言った。

「おやおや、メアリー」ハンプトン大佐が言った。「おまえにそんな趣味があったとは夢にも思わなかったな」

「メスのオオカミよ、もちろんね」ミセス・ハンプトンは続けた。「気がついたら性別も種族も一度に変わっていた、じゃ、まごついてしまいますものね」

「こうしたことを冗談半分に口にするのはいかがなものかと思いますが」とレオナルドが言った。

「冗談半分じゃございませんことよ、わたし、真剣ですの。ただ、今日は困るわね。ブリッジができる人が8人しかいないんです。そうなったら卓がひとつ組めなくなってしまうわ。明日にはもっと大勢集まるでしょう。だから、明日の晩、ディナーが終わってから……」

「秘められたパワーに対するわれわれの知識は、未だ不十分と言わざるを得ませんから、遊び半分ではなく、謙虚な態度こそが望ましいと思われます」レオナルドの口調がたいそう厳粛なものだったために、話題はそこで立ち消えになった。

 クローヴィス・サングレールは、シベリア魔術の危険性が話題になっているあいだはめずらしく沈黙を守っていたが、昼食後、パブハム卿をひと気のないビリヤード室に連れ込んで、求めているもののことを聞いてみた。

「収拾しておいでの野生動物のなかに、メスのオオカミはいませんか。どちらかというと、気性の穏やかなメスのオオカミを探しているのですが」

 パブハム卿は考えてから「ルイーザだな」と言った。「シンリンオオカミのなかでは、まずまずのやつです。二年前に北極ギツネと交換したのですよ。うちの動物たちはみんな、わたしがいれば、さほどの時間もなしに手なづけることができるんです。ルイーザは天使のように穏やかといえるでしょう、メスのオオカミとしては、ですが。だが、どうしてそんなことを?」

「そいつを明晩、貸してくださいませんか」と、クローヴィスは飾りボタンかテニスラケットでも借りるように無造作な調子で尋ねた。

「明日の晩ですか?」

「そうです。オオカミは夜行性の獣だから、夜遅いのは平気ですよね」と、万事了解済み、といわんばかりの調子である。「お宅の召使いか誰かに、暗くなってから連れてこさせてくださいませんか。手伝いますから、ルイーザを温室に入れてやってください。メアリー・ハンプトンがこっそり出ていったのと入れ替わりにね」

 無理もないことだが、パブハム卿はしばらくのあいだ、とまどった表情でクローヴィスを穴のあくほど見つめた。やがて破顔一笑した。

「なるほど。それがあなたの手なんですな。ちょっとしたシベリア魔術をあなたの方がやろうというわけか。ミセス・ハンプトンも陰謀に加担する気満々、というところですか」

「メアリーは最後までつきあってくれる約束です。もし、ルイーザの性質をあなたが保証してくださるんならね」

「ルイーザのことならわたしが請け合いましょう」パブハム卿は言った。

 翌日、屋敷のパーティにはさらに大勢の人びとが集まり、ビルシターの自己宣伝の本能もまた、観衆が増えたことに刺激されてうずきだした。その晩のディナーの席上で、彼は見えざるパワーや、試みられたこともない力について長口舌をふるい、居間へ場所を移してコーヒーが配られても、その熱弁はとぎれることなく続いた。やがて一同はトランプ用の部屋に移ることになった。

 ビルシターの伯母がもり立ててくれたこともあって、みんな彼の話に礼儀正しく耳を傾けてくれたが、派手なことが大好きな伯母は、話だけでなくもっとドラマティックなことを待ちわびた。

「レオナルド、あなたの力をもっとみなさんにわかっていただけるように、何かやってみせてくれないかしら」と伯母がせがんだ。「何かを別のものに変えてみるのはどう? この人はね、それができるんですよ、その気になりさえしたらね」

「あら、じゃ、やってみせてくださいな」メイヴィス・ペリングトンが熱心に言い、その言葉にこだまするように、その場にいた全員が繰りかえした。なかには容易に説得されない連中も混ざっていたのだが、彼らもまた、たとえ素人の手品であっても、楽しめるのなら大歓迎だと思っているのだった。

 レオナルドは、どうやら何かはっきりと目で見てわかるようなことを期待されているぞ、と考えていた。

「ここにおいでのみなさまのなかで、三ペンス銅貨か何か、特に価値のない、小さなものを持っていらっしゃいませんか?」

「まさかコインを消したりするような、姑息なまねをやってみせるつもりじゃありませんよね」クローヴィスが軽蔑しきったような声を出した。

「わたしをオオカミに変えてほしいってお願いしたのに、それを聞いてくださらないんですもの、意地悪な方ね」メアリー・ハンプトンはそう言いながら、飼っているインコにえさをやりに、部屋を横切って温室に歩いていった。

「そうした力をふざけ半分にもてあそぶとひどい目に遭いますよ、とご注意申し上げたはずですが」とレオナルドはもったいぶった調子で言った。

「あなた、そんなことできないんでしょ」挑発するように笑うメアリーの声が温室から聞こえてきた。「ほんとうにできるものなら、ぜひやっていただきたいものだわ。わたしをオオカミに変えられるものなら、いくらでも受けて立ちますわよ」

 そう言った瞬間、メアリーの姿はアゼリアの茂みの陰に消えてしまった。

「ミセス・ハンプトン……」レオナルドがさらにもったいをつけて言いかけた言葉は、途中で消えてしまった。冷たい空気が部屋にさっと吹きこんだかと思うと、その瞬間、インコたちの耳をつんざくような鳴き声が聞こえてきた。

「メアリー、いったいどうしたんだ、あの鳥たちは」ハンプトン大佐は思わず大きな声を出した。だがその瞬間、もっと大きい、空気を引き裂くような悲鳴がメイヴィス・ペリントンの口からあがったので、一同は思わず腰を浮かせるとメイヴィスの方へ駆けよった。恐ろしさにすくみあがる者、本能的に身を守ろうとする者、さまざまな姿勢を取った人びとの視線の先には、シダとアゼリアを背景に、こちらをうかがっている灰色の獣がいた。

 恐怖と混乱の渦から最初に逃れ出たのはミセス・フープスである。

「レオナルド!」ミセス・フープスは甥に向かって金切り声をあげた。「ミセス・ハンプトンをすぐ元に戻して! いまにもこっちに飛びかかってきそう。戻してちょうだい!」

「ぼ……ぼく、どうしたらいいか」震え声でそう言うレオナルドは、誰よりも度を失い怯えきっていた。

「何だって!」ハンプトン大佐が怒鳴りつけた。「きさま、うちの家内をオオカミに変えるようなけがらわしいことを勝手にしておいて、いまになって、元に戻すことができないなどと平気な顔でぬかすのか!」

 レオナルドのために正確を期していうなら、平気な顔というのは、そのときの彼のようすを形容するには、あまり適切ではなかったのだが。

「これはほんとうです。ぼくはミセス・ハンプトンをオオカミになんて変えてません。そんなつもりは毛頭ありませんでした」

「じゃあ家内はどこにいったんだ。どうしてあのオオカミが温室に入ってきたんだ」大佐は迫った。

「もちろん、あなたがミセス・ハンプトンをオオカミにしていないとおっしゃるのでしたら、わたしたちはそれを尊重しますよ」クローヴィスが礼儀正しく言った。「ただ、情況はあなたにとって厳しいということはおわかりでしょう」

「言い争いをしてる場合じゃありませんよ。あの獣がいまにもわたしたちを八つ裂きにしようと狙ってるのに」メイヴィスは涙を流して憤慨した。

「パブハム卿、あなたは野生の獣の扱いならお手のものでしょう……」ハンプトン大佐が水を向けた。

「野生の動物といってもわたしが慣れているのは」とパブハム卿が言った。「名の知られた業者から手に入れた保証書つきのものか、そうでなければうちの飼育場でわたしが育てたやつらばかりですよ。アゼリアの茂みからのんきに歩いてきたオオカミに遭ったのは初めてのことですからな。しかもお美しいと評判の奥方がどこへ行ったのかもわからないというのに。外見の特徴から察するに、北米産シンリンオオカミのメスの成体でしょう。普通種のカニス・ループスの一種です」

「もう結構、ラテン語の名前なんて」オオカミが一、二歩部屋に脚を踏み入れたので、メイヴィスが悲鳴をあげた。「エサでおびき出してどこかに閉じこめて、危害のないようにできませんの?」

「もしこれがほんとうにミセス・ハンプトンなら、すばらしいディナーをすませたばかりですからねえ、食べ物を見てもたいして興味は示さないんじゃないかな」クローヴィスが言った。

「レオナルド」ミセス・フープスは涙ながらに頼んだ。「もしこれをしたのがおまえでないにしても、おまえにはたいした力があるんだから、このオオカミがわたしたちに噛みついたりする前に、何か無害な動物に変えることはできないのかい? ウサギみたいなものに」

「ハンプトン大佐が奥方をつぎからつぎへとすてきな動物に変えるとなると、反対なさるんじゃないでしょうか。それじゃまるでぼくたちが奥方をもてあそんでいるみたいだ」クローヴィスがさえぎった。

「そんなことは断じて許さん」大佐は雷を落とした。

「わたしが飼ったことのあるオオカミは、たいてい砂糖が好きでした」とパブハム卿が言った。「効果があるかどうか、ひとつやってみてもかまいませんかな」

 パブハム卿は自分のコーヒーカップの受け皿から角砂糖をひとつ取ると、待ちかまえているルイーザに放ってやった。ルイーザは空中でぱくっと食いついた。一同から安堵のため息がもれた。少なくとも、インコぐらいなら易々と食い散らしそうなオオカミが、角砂糖を食べるのを見て、恐ろしさがいくぶん和らいだのである。パブハム卿がもうひとつ角砂糖をエサに、オオカミをうまい具合に部屋から外へ連れ出したときには、安堵のため息は感謝のうめき声に変わった。すぐにみんなはオオカミのいなくなった温室に駆け込んだ。だが、杳として行方の知れないミセス・ハンプトンの代わりにインコの夕食用の皿があるばかりである。

「温室の戸は内側から鍵がかかってる!」クローヴィスは叫んだが、実は試すふりをして、手際よく鍵をかけたのだ。

 一同はビルシターの方に詰め寄った。

「君が家内をオオカミに変えたのではないのなら」ハンプトン大佐は言った。「家内はどこへ消えたのか、ご説明願えませんか。鍵のかかった戸を抜けてどこにも行けるはずがないのは明らかですからな。北米産シンリンオオカミが突然温室へ現れたかの説明は、無理にとは言いませんが、うちの家内がどうなったか、調べる権利は私にあると思うんですが」

 ビルシターは繰りかえし、わたしは何もしていません、と否定したが、みな口々に、そんなはずはない、といらだって詰め寄る。

「もうここには一時間だっていられやしませんよ」メイヴィス・ペリントンが言い放った。

「もし奥様がほんとうに人間の姿でなくなったんなら」ミセス・フープスは言った。「ご婦人方はここにいちゃいけません。わたしだってオオカミの世話になるなんて、まっぴらごめんです」

「だけどメスのオオカミですよ」とクローヴィスが慰めるように言った。

 この非常事態にあって、礼儀にかなった態度がいかなるものか、とうとう決着はつかなかった。突然メアリー・ハンプトンが姿を現したので、議論の矛先は別の方に向かったのである。

「だれかわたしを催眠術にかけたでしょう」メアリーは不機嫌そうに言った。「気がついたらどうでしょう、わたし、場所もあろうに食料貯蔵庫で、パブハム卿にお砂糖を食べさせてもらってたのよ。催眠術にかけられるなんて、ほんとうにいや。お医者様からはお砂糖にさわるだけでもダメだって言われてるのに」

 かくかくしかじかの事情であった、とミセス・ハンプトンに説明が、というかその言葉が適切かどうかはなはだあやしかったが、そんなものがなされた。

「じゃ、あなたほんとうにわたしをオオカミに変えてくださったのね、ビルシターさん!」興奮した彼女は叫んだ。

 だが、レオナルドは栄光の海に漕ぎだそうにも、自らのボートを燃やしてしまったあとである。打ちひしがれ、こうべを振るばかりだった。

「実はぼくだったんですよ、勝手ながらこんなことをさせてもらったのはね」とクローヴィスが言った。「たまたまぼくはロシアの東北部に数年いたことがあるんですよ。旅行した程度の人よりは、あの地方の魔術のことなら詳しいんです。だけど、そういった不思議な力のことなんて、あんまり口にするものではないでしょう? ただね、あんまりおかしな話を聞かされると、ほんとうにそれを知っている人間なら、シベリアの魔法を使えばどんなことができるものか、やってみたい誘惑にかられてしまうんですよ。ぼくはその誘惑に負けてしまった、というわけ。ブランデーを少しいただけませんか。気力を使い果たしたもんだから、ちょっと意識がもうろうとしてきた」

 もしその瞬間、レオナルド・ビルシターがクローヴィスをゴキブリに変えて、踏みつぶすことができたなら、彼は喜んでその両方をやってのけたにちがいない。



The End





「ショック作戦」



 晩春の午後、エラ・マッカーシーはケンジントン公園の緑色の椅子に腰かけて、おもしろくもなんともない公園の風景を、ぼんやりと眺めていた。突然、あたりが熱帯の輝きに包まれた。遠くに待ちわびた姿が現れたのである。

「こんにちは、バーティ」すぐ隣の椅子に、ズボンの具合に気を配りつつ、いそいそと腰をおろす相手に、エラは落ち着いた、それでいてうれしさの隠せない声をかけた。「こんなに気持ちのいい春の昼下がりもないわね」

 その言葉はエラの気持ちからいくと大嘘、バーティが来るまでは、気持ちいい、などとお世辞にも言えたものではなかった。

 バーティは、ああ、そうだね? と当たり障りのない返事をしたが、最後に問いかけるようなニュアンスを付け加えた。

「きれいなハンカチのセットをどうもありがとう」エラは相手の口にされなかった質問を察して答えた。「あんなハンカチがほしいと思ってたところだったの。プレゼント、ほんとにうれしかったんだけど、ひとつだけ、ちょっとね」ちょっと拗ねたようにつけくわえた。

「何だって」バーティは驚いてたずねた。女性が使うにしては大きすぎるのを選んでしまったのだろうか。

「わたし、すぐお手紙を書いてお礼が言いたかったのに」エラの言葉に、バーティの胸の内にたちまち暗雲がたれこめた。

「君もおふくろがどんなだか知ってるだろ」とぼやいた。「ぼくに来た手紙は全部、開けちまうんだから。もしぼくが誰かにプレゼントなんかしたってわかったら、二週間はぐちゃぐちゃ言われるに決まってる」

「まさか二十歳にもなるっていうのに……」エラがそう言いかけた。

「ぼくはまだ二十歳じゃない、九月が来るまでは」バーティが口をはさむ。

「十九歳と八ヶ月にもなったら」エラは食い下がった。「自分宛ての私信の管理ぐらい、まかせてもらってもいいんじゃないかしら」

「確かにそうすべきだろうね。だけど物事は、かならずしもそうすべきだからそうする、ってことにはならないんだよ。母はね、誰宛てだろうが、うちに来た手紙は全部開けてしまうんだ。姉さんたちだってぼくだって、もう何度も文句を言ってきたんだけど、ぜんぜんやめようとしないんだよ」

「わたしがあなたの立場だったら、きっと何かやめさせる方法を考えると思うわ」エラはきっぱりと言い放った。バーティは、さんざん頭を悩ませて、心配しながら贈ったプレゼントの魔力が、その礼状さえ出せないという不快な制限の前に、色あせてしまったのを知った。


「どうかしたのか」その晩、室内プールで会った友だちのクローヴィスが聞いた。

「なんで?」

「室内プールまで来て、それだけ憂鬱そうな顔を貼りつけてたらな」とクローヴィスが言った。「何やかや身につけてるわけじゃないんだから、そりゃ目立つさ。彼女、ハンカチのセットが気に入らなかったのか」

バーティはいきさつを説明した。

「ずいぶんおかしな話だろ?」バーティは続けた。「女の子の方は、書きたいことがたくさんある、って言ってくれてるんだ。それを、手紙は出してくれるな、出すんだったら、こっそり、まわりくどいやり方で出してくれ、なんて」

「幸福は失ってみて初めてそれと気がつく」クローヴィスが言った。「ぼくなんか、いま、返事を出してないことの言い訳をひねりだすのに大汗をかいてるぞ」

「冗談なんかじゃないんだ」バーティはいらだたしげに言った。「君んちのお母さんが、君の手紙を片っ端から開封してるとしたら、少しもおかしくなんてだろう」

「おかしいのは君がおふくろさんにそんなことをさせてるってことさ」

「やめさせられないんだよ。もうさんざん言い合ったんだけど……」

「そういうことは話し合ったってダメなのさ。ほら、手紙が開封されるたびに、晩飯になるとテーブルの上でひっくり返って発作を起こしてみせるとか、真夜中、家中みんなにウィリアム・ブレイクの『無垢の歌』を暗唱して聞かせてやるとかすれば、そのさき抗議したときには、きっともっと聞いてもらえるさ。まわりの人間にしてみたら、食事の時間がめちゃくちゃになったり、夜中にたたき起こされたりする方が、誰かが失恋するより、大問題なんだから」

「いいかげんにしろよ」バーティは腹を立て、いきなりプールに飛び込むと、クローヴィスに水をさんざんはねかした。


 ふたりが室内プールで話をしてから一日か二日経ったある日のこと、バーティ・ヘザント宛ての手紙がヘザント家の郵便受けにすべりこみ、そののち、バーティの母親の手に落ちた。ミセス・ヘザントは、他人の問題となるとあふれんばかりの好奇心をもたげさせる、例の頭の空っぽな連中のひとりだった。それがプライヴァシーにかかわるものであればあるだけ、詮索癖はいよいよ募る。いずれにせよ手紙は開封され運命だったにせよ、あろうことかその封筒は表に「親展」と記されている上に、繊細だが奥深い芳香がただよってくる。だから普段通り開封した、というより、がむしゃらに突進したのである。なおかつ、その収穫たるや、予想をはるかに上回るものだった。

「カリシモ(※イタリア語で「親愛なる」の意)・バーティ」という書き出しでそれは始まっていた。

あなたにそれをやる度胸が残ってるかしらね、なにしろ、これまた度胸のいるヤマだから。宝石のことを忘れないで。確かにそっちは本筋じゃないけど、わたしにとってはどうでもいいことじゃないの。

永遠にあなたのもの クロティルダ

 わたしの存在はお母さんには知られないで。聞かれたら、そんな女、聞いたこともない、って言っておいてね。

 もう何年も、ミセス・ヘザントはバーティの手紙をせっせと調べて、不品行の気配はないか、若気の過ちの痕跡はないかと探してきたのだが、詮索癖が生み出したこの疑念も、ついに網に引っかかった獲物のおかげで裏書きされたのである。“クロティルダ”などという怪しげな名前の女が、バーティに向かって不埒にも「永遠にあなたのもの」と書いてる。実際それだけで唖然とするほかないというのに、あまつさえ、宝石がどうのこうのとほのめかしているではないか。ミセス・ヘザントは小説や戯曲のなかで、宝石が胸踊らせる派手な役割を演じたことを、いくらでも思い出すことができた。それが、ここ、このわたしの家のなかで、わたしの目の前で、繰り広げられている、しかもうちの息子が、宝石が興味深くはあるけれど「たいしたことじゃない」ような陰謀に加担してるなんて。バーティが帰ってくるまで一時間ほどあったが、姉たちは家にいたので、さっそくこの醜聞にまみれた話をぶちまけた。

「バーティが大事件に巻き込まれてるのよ」ミセス・ヘザントはわめき散らした。「クロティルダなんて名前の女」と、まるで最悪のニュースは最初に知っておいた方がいい、とばかりに言い足した。若い娘たちに人生の暗黒面を隠していては、良い面よりも害をなすことの方が多いことはままあるのだから。

 バーティが戻ってくるまで、母親はバーティの秘密の悪行についてありそうなことからありそうにもないことまで洗いざらい並べたが、姉たちは、バーティは悪いんじゃなくて情けないだけ、という感想しか述べようとしない。

「クロティルダって誰なの?」バーティが玄関に足を踏み入れるやいなや、その質問が飛んできた。そんな人は知らないよ、と言っても、馬鹿にしたような笑い声が返ってくるだけだ。

「言いつけに忠実なこと!」ミセス・ヘザントはわめいたが、当てこすりもすぐに激しい怒りに転じた。あろうことかバーティときたら、母親がすべてを知っているというのに、しらを切り通すつもりらしい。

「何もかも正直に言わないかぎり、晩ご飯はなしよ」母親は頭から湯気をたてながら宣言した。

 それに対するバーティの返事は、食料貯蔵庫から即席晩餐会が開けるほどの食料をさっさとかき集め、寝室に閉じこもることだった。母親は、何度も鍵のかかったドアの前に行って、質問を繰りかえしていれば、いつかは答えが返ってくるとでもいうように、大声で尋問を続ける。バーティの側は、母親の期待に応える気配は毛頭見せなかったのだが。

一方だけが虚しく話し続ける不毛なやりとりが一時間ほど続いたところで、バーティ宛てに「親展」と書いた手紙がもう一通、郵便受けに舞い込んだ。ミセス・ヘザントは、ネズミを取り逃がしたネコが、思いがけず二匹目のネズミを与えられて夢中で飛びかかるように、その手紙に飛びついた。もし彼女が、さらにくわしいことが明らかになるだろうと考えたのであれば、その期待は裏切られることはなかった。

「ほんとにやっちゃったのね!」とその手紙はいきなり始まっていた。

 かわいそうなダグマー。やられちゃったとなると、彼女もちょっとかわいそうね。だけどあなた、すごくうまくやったわよ、この悪党。召使いたちはみんな自殺だと思ってる。だから面倒なことは起こらないはず。検屍が終わるまで、宝石には手をふれないでね。

クロティルダ

 これまでにわめいてきたのとは段違いの騒々しさで階段をかけあがると、息子の部屋のドアを気でもちがったように叩いた。

「あんたって子はまったくひどい子。ダグマーに何をしたの」

「今度はダグマーか」バーティは辛辣に切り返した。「つぎはジェラルディンがどうとかって言うんだろうな」

「こんなことになるなんて。あれほど骨を折って、夜出歩くような子にならないように育ててきたのに」ミセス・ヘザントは泣き出した。「どんなに隠そうとしたってムダだよ。クロティルダの手紙に何もかも書いてあるんだから」

「その女が誰かも書いてあるのかい」バーティはたずねた。「そいつの話はさんざん聞かされたから、その女の私生活がちょっとばかり知りたくなてきたよ。真剣な話、母さんがこんな調子で続けるんだったら、ぼくは医者を呼んで来なきゃ。これまでだって何もしてないのに説教されたこともずいぶんあったけど、ハーレムをでっちあげて、そいつを話のなかに引っ張ってくるなんてことは、さすがになかったからな」

「この手紙がでっちあげだとでもいうの」ミセス・ヘザントは金切り声を上げた。「宝石はどうなの。おまけにダグマーだの、自殺説だのと」

 疑問の数々に対する回答が、寝室のドアから出てくることはなかったが、その晩、最後に郵便受けに投げ込まれた三通目のバーティ宛ての手紙の内容が、ミセス・ヘザントの蒙を開いた。息子の方はいち早く気がついてはいたのだが。

 親愛なるバーティ

 ぼくが「クロティルダ」名で出した例のいたずらだが、君が気を揉んだりしていなければいいのだが。この前、君のところの召使いか誰かが、君の私信を開封するって言ってただろう? だからぼくはそいつのために、読んでわくわくするような話を書いてやったのさ。そのショックはきっといい結果をもたらすにちがいないと思ってね。

君の友 クローヴィス・サングレイル

 ミセス・ヘザントはクローヴィスを少しばかり知ってはいたが、どちらかというと怖れる気持ちが強かった。このいたずらの行間を読むことも、さしてむずかしくはない。だから今度ばかりはたかぶる気持ちを抑えて、もういちどバーティのドアの前に立った。

「ミスター・サングレイルから手紙が来たわよ。全部ばかげたいたずらだったんですって。あの手紙は全部、あの方が書いたんだそうよ。……あら、どこへ行くの?」

 ドアを開けたバーティは、帽子をかぶって上着を着ていた。

「医者を呼びに行って来る。母さんを看てもらうんだ。もちろんいたずらにはちがいないけど、殺人だの自殺だの宝石だの、そんなたわごとを本気にする人間なんて、まともなはずがないもの。この一時間か二時間、家がひっくりかえるくらい騒いだのはだれだっけ」

「だってあの手紙、どう考えればいいっていうの」ミセス・ヘザントは情けない声を出した。

「どう考えればいいかなんて簡単なことじゃないか」とバーティは言った、「人の私信をのぞいて大騒ぎしたがるなんて、自分が悪いんじゃないの。とにかくぼくは医者を呼んでくるよ」

 これぞまたとない好機、バーティにもそれがよくわかった。母親は、この話が広まりでもしたら、自分がどれほど馬鹿に見えるか気がついていた。そこで喜んで口止め料を払う旨を申し出た。

「わたしはもう絶対にあなたの手紙なんて開けたりしませんよ」

 かくしてクローヴィスはバーティ・ヘザントというこの上なく献身的な奴隷を手に入れたのである。



The End





「こよみ」



「こんなことを考えたことはない?」ヴェラ・ダーモットがクローヴィスに話しかけた。「この地域限定の暦を作ったら、なかなかいいお小遣い稼ぎができるんじゃないかしら。未来を占う言葉を入れておくのよ、世間で50万部ほど売れてる暦みたいに」

「たぶん、小遣い稼ぎならできるだろうけど」とクローヴィスは言った。「なかなかいい、ってのはどうだろう。昔から預言者は故郷では迫害されることになってるからな。君だって自分が占ってやった相手と、毎日面つきあわせて過ごさなきゃならないとしたら、そんな仕事はごめんなんじゃないか? たとえば、ヨーロッパ各国の王侯貴族に向かって、何か大変な悲劇が起こりますよ、てなことを予言しておいて、一日おきに昼食会やお茶会で顔を合わせせなきゃならないとしたら、その仕事も悪くないなんてことはいってられないんじゃないかな。特に年の終わりになって、占った一大事のリミットがだんだん迫って来でもしたら、目も当てられない」

「わたし、年が改まる直前に売り出すことにする」ヴェラは、起こりうる不都合な事態の可能性を指摘されても一顧だにせず、きっぱりとそう言った。「一部18ペンス。友だちにタイプしてもらえば、一部売るたびに、そっくりそのまま儲けになる。いくつ占いが外れるだろうって野次馬気分で、みんな買ってくれるにちがいないわ」

「のちのち困ったことになるんじゃない?」クローヴィスが聞いた。「占いがつぎつぎ『立証不能』ってことになりでもしたら」

「大外れってことがないような占いだけを集めておくのよ。最初はこれ。“教区司祭は『コロサイ人への手紙』からの感動的な説教で新年を始めるでしょう”って。あの人、わたしの記憶にある限り、毎年それをやってるもの。おまけにあのお年でしょ、変化なんてものは好まないはず。一月の項にはこう書いておいて大丈夫でしょうね。“当地において、深刻な財政上の問題に直面する名家は、一家に留まらないでしょうが、それが深刻な危機に至ることはないでしょう。”ってね。ここらじゃ毎年この時期は、あっちの家でもこっちの家でも赤字で大変なことになって、財布の紐をぐっとひきしめなきゃならなくなるのよね。それから四月か五月あたりには、ディブカスター家のお嬢さんのひとりが、生涯で一番幸福な選択をするでしょう、って予言しておこう。八人も娘がいるんだから、そのころにはひとりぐらい結婚するとか、舞台に立つとか、ロマンス小説を書くとかしてもいいはずよ」

「だけど、どれだけ人類史をさかのぼっても、あの一族からはそんなことをした人間なんて、ただのひとりも出てきてないぞ」クローヴィスが反論した。

「いちかばちかやってみなきゃいけない場合だってあるわよ。だけど安全策をとるなら、二月から十一月にかけて、使用人問題で悩まされる、っていう方がいいかもね。“当地におけるきわめて有能な奥方、あるいは家政を預かる方のなかで、使用人問題に頭を悩ませる方が出てきますが、当面は乗り切ることができるでしょう”って」

「もうひとつ安全な予想がある」クローヴィスが提案した。「ゴルフ・クラブで競技会が何度かあってメダルが授与されるっていうのがいい。“当地の一流ゴルフ・プレイヤーは、ひとかたならぬ不運に見舞われ、獲得するはずのメダルを逃してしまうことになるでしょう。”少なくともこの予言が当たった、と思うやつは一ダースは下らないだろうな」

 ヴェラはそのアドバイスを書きとめた。

「先刷りを半額で譲ってあげるわ」ヴェラが言った。「だけどお宅のお母様には、定価で買ってもらってね」

「おふくろには二部買わせるよ。一冊はレディ・アデラにあげればいい。あの人は借りられるものなら何だって借りて済まそうとするんだからな」

 暦の売れ行きは上々、予言はおおむね現実のものとなり、暦の制作にあたった予言者の能力は、18ペンスに見合うものであることを証明した。ディブカスター家では娘がひとり病院看護婦になることを決意し、もうひとりはピアノを断念することにした。いずれにせよ幸福な選択と考えられないこともない。使用人問題もゴルフコースでの不運も、一年のあいだに、各家庭やゴルフクラブでそのとおり立証された。

「わたしが料理人を七ヶ月のあいだに二度も替えることになるなんて、どうしてあの人にわかったのかしら」ミセス・ダフは言ったが、“当地におけるきわめて有能な奥方”という言葉は、まさに自分のことを言っているのだと、たちどころに理解したのである。

「“当地の家庭菜園にて、目を見張るばかりの立派な野菜が収穫されるでしょう”という予言も、ちゃんとその通りになったわね」とミセス・オープンショーが言った。「暦にはね、“当地において、美しい花を栽培すると賞賛の的だった庭園では、今年、すばらしい野菜が収穫されるでしょう”ってあったでしょ。うちの庭に咲く花は、確かにみんなが褒めてくれるんだけど、昨日ヘンリーが掘ったニンジンときたら、品評会に出しても並ぶ物がないほどの出来だったのよ」

「あら、でもあの占いが言っているのはうちの庭のことだと思うんだけど」とミセス・ダフ。「うちだって毎年花は見事だと言われてきて、今年はそりゃすばらしい、見たこともないようなグローリー・オブ・サウス種のパースニップが取れたの。そのサイズを測ってフィリスが写真も撮ったのよ。あの暦、来年も出るんだったら、わたし、絶対に買うわ」

「わたしも予約したのよ」ミセス・オープンショーが言った。「うちの庭のことをちゃんと予言できるんだもの、これはもう買わなくちゃね」

 その暦は目のつけどころがいいとか、よく当たる予言をうまく集めているとか、おおむね好評だったが、なかには予言したようなことは、どの年でも多少のちがいがあるにせよ、起こりそうなことばかりじゃないか、とくさす向きもあった。

「出来事ひとつひとつに、はっきりしたことを書くような危険は冒せなかったのよ」とヴェラは12月も終わりに近づいたある日、クローヴィスに言った。「それが、ジョスリン・ヴァナーのことだけは危ないの。十一月から十二月にかけて、ジョスリンにとって狩りに出かけた先は安全な場所ではない、とほのめかしたの。彼女、いつだって馬に飛び越えさせ損なって落っこちたり、急に馬が駆け出しちゃったり、そんなことばかりでいつだって危ないのよ。それがジョスリンときたら、わたしの予言を警告と受けとって、歩いて集合場所に行くのよ。そんなことしてたら、そんな大きな事故なんて絶対に起こるわけないじゃないの」

「それじゃ狩りのシーズンもぶちこわしだな」とクローヴィスが言った。

「ぶちこわしなのはわたしの暦の評判よ。うまくいかないってはっきりしてるのはそれだけなの。彼女、落馬ぐらいはまちがいなくするだろうから、それを拡大解釈すれば重大事故くらいにはなると思ったのに」

「ぼくが馬でジョスリンに襲いかかるわけにはいかないだろうし、猟犬をけしかけてキツネだと思わせてズタズタに引き裂かせることもできないだろうし」クローヴィスが言った。「もしそんなことができたら、君はぼくに永遠の愛を捧げてくれるんだろうけど、そんなことをしたらあとあと大変だろうしね。それにぼくはこれから先、狩りの仲間に入れてもらえなくなるだろう。それはちょっと困るからなあ」

「あなたのお母さんが言ってらした通りね。あなたってつくづく利己的な人間なんだわ」


 それから一日二日たつうちに、クローヴィスが利己的ではないことを示す機会が訪れた。キツネ狩りに参加したクローヴィスがふと見ると、ブラッドベリー門のそばにジョスリンがいるではないか。あたりでは猟犬たちが、姿の見えないキツネのあとを追って、長い木のうろを探しまわっていた。

「臭いのあとなんてたいして残ってないだろうし、ここら一帯は隠れ場所には事欠かないから」クローヴィスは馬に乗ったままぶつぶつ言った。「キツネをここから追い立てるまで何時間もここにいなくちゃならなくなりそうだな」

「だからわたしたち、たくさんお話できるじゃありませんの」ジョスリンはいたずらっぽくそう言った。

「問題は」クローヴィスは陰気な声を出す。「話しているところを見られていいのかどうなのか、ってことなんです。あなたを巻き添えにしてしまうかもしれない」

「まあ! 何の巻き添えなんですの?」ジョスリンの息が弾んでいる。

「ブコウィナってご存じですか」いかにも何気ないふうにクローヴィスはたずねた。

「ブコウィナ? 小アジアのどこかじゃありませんでしたっけ……それとも中央アジアだったかしら……それともバルカン半島の一部?」ジョスリンは当てずっぽうを言った。

「革命かどうかの瀬戸際なんです」いかにも重大なことを告げているのだ、と言わんばかりの声を出す。「だからこそぼくはあなたに気をつけていただきたいんです。ぼくがブカレストの伯母のところにいたとき」(クローヴィスはほかの人間がゴルフ歴を創作するがごとく、伯母さんを気前よく創作する)「ぼくは自分がいったい何に関わり合っているのかも知らないままに、ある事件に巻き込まれてしまったんです。王女がいらっしゃって……」

「なるほど」ジョスリンは心得顔にうなずいた。「こういう事件には美しくて魅力的な王女様がつきものですものね」

「いや、あそこまで不器量で退屈な女は東ヨーロッパ中探しても見つけられっこありません」とクローヴィス。「いまにも昼食の知らせが届きそうな時間になるとやってきて、夕食のために着替えなきゃならないような時間まで居座るような人なんです。さて、ここにユダヤ系ルーマニア人が出てきます。鉱山の利権を保証してくれるなら、革命の資金を喜んで出そうという人物ですが。そのユダヤ人はヨットでイギリス沿岸をまわってるんですが、王女が権利書をわたすには、ぼくが一番安全な人間だと考えたんですよ。ぼくの伯母さんはこう耳打ちします。『お願いだから、王女様のおっしゃるとおりにしてさしあげて、さもないと晩餐まで居座っちゃうから』って。そんなことになるぐらいだったら、どんな犠牲だって払おうってもんですよ。だからいま、ぼくがここにいるのもそのためなんです。ぼくの胸ポケットが膨れてるでしょ、なかには例の書類が入ってる。おかげでぼくはまず、生きては帰れないでしょうね」

「でも」とジョスリンは言った。「あなたはイギリスにいらっしゃるんですもの、安全なんじゃありませんこと?」

「あそこに男がいるのが見えますか、葦毛の馬に乗ってる」クローヴィスは黒い口ひげでおおわれた男を指さした。近くの町から来た競売人らしいが、いずれにしても狩りのなかではなじみのない顔である。「あいつ、ぼくが王女様を馬車まで送っていったとき、伯母の家の前に立っていたんです。ぼくがブカレストを発つときは駅のプラットホームにいましたし、イギリスに着いたときには港の桟橋にいました。ぼくの行く先々ですぐ近くにいるんです。今朝も会ったところで、驚くにはおよびません」

「だけどあのひと、あなたに何もできはしないでしょう?」ジョスリンの声はふるえていた。「殺すことなんてできるはずがないわ」

「目撃者のいるところではそんなことはできません。そんな危険は犯しませんよ。猟犬が獲物を見つけて、狩り場にみんなが散ったときが、あいつにとってのチャンスです。やつは今日こそあの書類を横取りしようと狙っているはずだ」

「だけどその書類をあなたが肌身離さず持っているってどうしてわかるの?」

「それはわからない。こうやって話しているときに、もしかしたらそっと書類を渡しているかもしれません。だからいざとなったらぼくたちのどちらを狙おうか、腹を決めようとしているんです」

「ぼくたちって?」ジョスリンは悲鳴をあげた。「もしかしてあなたが言ってるのは……」

「だからぼく、言ったでしょう。一緒に話しているところを見られるのは危険だって」

「でも、そんなのひどいわ! わたし、どうしたらいいのかしら」

「猟犬たちが動き出したら、すぐに藪に飛び込んで、ウサギみたいに走るんです。それ以外に逃げ延びるチャンスはありません。でも、忘れないで。もしうまく逃げおおせても、一切他言は無用です。いまぼくがお話ししたようなことを、一言でもあなたが漏らせば、命の危ない人が何人もいる。ブカレストの伯母が……」

 そのとき、窪地の方から猟犬のクンクン鳴く声が聞こえてきたかと思うと、あちこちで馬に乗ったまま待機していた人びとが、さざ波のように動き出した。叫び声がひとつあがると、それに呼応するかのように、ざわめきが渓谷の方から聞こえてきた。

「見つかったんだ!」クローヴィスは叫ぶと、馬の向きをぐいっと変えて、殺到する人びとに合流しようとした。がさっ、ごそごそっと音がして、人が大急ぎでカバノキのやぶや枯れたシダを踏み分け、決然と進んでいく音がする。彼がいましがたまで相手をしていた人物は影も形もなく、音だけがあとに残った。


 ジョスリンがキツネ狩りで遭遇した恐るべき危機がどんなものだったか、彼女の親友たちでさえ、ほんとうのところは知ることができなかったが、暦の売上げ向上に寄与するぐらいの情報は、広く知れ渡ることとなった。

その暦、値上げされて、新価格は三シリングである。



The End






舌先三寸にご用心



人の話をふんふんと聞いていて、最後に語り手が「……みたいなことがあったらなあ、って思ったの」と言ったとしたら、なんともいえない徒労感のような、裏切られたような気がするのではないだろうか。あるいは相手が「……なーんてね、全部嘘だよ〜ん」とでも言ったことなら、ぶん殴ってやりたくなるかもしれない。

わたしたちのコミュニケーションは、相手の言うことに意味がある、聞く価値がある、ということが前提になっている。相手が話していることが、実際に起こったことではない、物語や夢や想像の世界の話、とわかっていたら、聞く真剣さは確実に減じるだろう。

逆に、子供におもしろいお話を教えてやるとする。相手は夢中になって聞いているし、いきおいこちらの話にも力がこもる。最後にその子はこう聞く。「それ、ほんとう? ほんとでしょ?」問いの形をとってはいても、ここには、いまのこの話が本当のことであってほしいという願いがこもっているのだ。

ところが舌先三寸の手合いというのは、このわたしたちのコミュニケーションに対する信頼を、いとも簡単に裏切るのだ。こんな相手が許されようか……。

ところが、許されるのである。サキの短編集に出てくる登場人物たちには、そんな舌先三寸たちがどっさり出てくるし、しかも彼らは魅力的ですらある。それはどうしてなのだろう。

というのも、その犠牲になるのが、とんでもなくいやな連中だからなのだ。

法律違反をするわけではない。逆に彼らは規範にも、権力のある者に対しても、きわめて従順だ。ところが強いものにはしっぽを振るくせに、弱い者に対しては居丈高、そのくせ機会あるごとに乏しい自分の能力を、これみよがしにひけらかす。

そういう連中に目にもの見せてやるには、「舌先三寸」こそがふさわしい武器であることを、サキは教えてくれる。なにしろ連中ときたら、正面切って批判しても、はい、そうですか、と聞いてくれるはずがない。行動の誤りや矛盾点を指摘すれば、侮辱された、と逆に怒り出すような手合いなのだから。

わたしたちの周囲にも、「見える人」だの、空っぽの自分を人のうわさ話で満たそうとしているような連中だのには事欠かない。そんな連中にイライラさせられることもしばしばだ。そんなとき、ふと思う。

クローヴィスがここにいれば、どんな「舌先三寸」を見せてくれるだろう?





初出 Feb. 04-13 2009 改訂 March.01 2009



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