サキ コレクション vol.7:隣の不思議

不思議なネコ

トバモリー



 八月も終わりの肌寒い、雨で洗われたような午後のことだった。この時期、ヤマウズラは禁猟期で保護されているか、冷蔵庫の中で保護されているかのどちらかだし、ほかに獲物もない。ブリストル海峡を北に臨む地域なら、丸々とした赤ジカを馬で追いかけても違法ではないのだが、ハウスパーティを催したレディ・ブレムリーの屋敷は、ブリストル海峡に臨んでいるわけではなかったので、この日の午後、客はひとり残らずお茶のテーブルに集まっていた。

目玉になるようなものがひとつもない季節ではあるし、集まりも新鮮味に欠ける。にもかかわらず、一同の面もちは、自動ピアノを聞かされるのなんてごめんだとうんざりしているようすもなければ、オークションブリッジが始まるのを心待ちにしているような気配もなかった。みんな口をぽかんとあけて、ミスター・コーネリアス・アピンという風采の上がらない、地味な男に目を奪われていたのである。レディ・ブレムリーが招待した客の中で、身元が定かではないのは彼だけだった。「切れ者」といううわさを聞いた夫人が、その切れるところの一部でも、みんなのお楽しみに貢献してくれれば、と、わずかばかりの期待を込めて招待したのである。

この日のお茶の時間まで、彼がどの方面で切れるのか、夫人にはどうにもよくわからなかった。気の利いたことを言うわけでもなければ、クローケーの名手というわけでもない。人をうっとりさせるような魅力があるわけでなし、しろうと芝居を見せてくれることもない。頭脳を使う場面では、いささか見劣りのする男でも、女性なら喜んでそれを忘れてくれる外見のもちぬしも世間にはいるけれど、彼の容姿ではそれも無理というものだった。結局ただのミスター・アピン、コルネリウスというのはたいそうな名前負けである。

ところがその彼が、実は私は大変な発見をしたのです、と言い出した。火薬の発見も、活版印刷や蒸気機関の発見も、私の発見に比べればものの数ではありません、過去数十年間、科学は各方面でめざましい進歩を遂げましたが、私の発見は科学的偉業というより、奇跡の領域に属すると言えましょう、とのたもうたのである。

「というと、私たちにその話を信じろと、本気でおっしゃっておられるのですな」サー・ウィルフリッドが言った。「あなたが発見されたのは、動物に人間の言葉を教える方法である、と。そうして、うちのトバモリーがあなたの教え子第一号であると?」

「これは、ぼくが過去十七年間に渡って取り組んできた課題なのですが」とミスター・アピンは言った。「成功のかすかな糸口をつかんだのは、たかだか八、九ヶ月前のことなんです。もちろん、何千種類もの動物で実験を繰りかえしてきましたが、最近はネコに限っています。ネコはすばらしい生き物で、人間文明に見事なまでに同化しながら、ネコ特有の高度に発達した本能は依然として持ち続けている。ときおり、ネコの中でも、おそろしく優れた知能を備えたネコがいます。ちょうど、人間と同じように。一週間前、トバモリーを見かけたとき、ぼくには一目でわかりました。飛び抜けて高い知能を持った『超ネコ』だ、と。このところの実験も、成功への道を着々と歩んでいたんですが、トバモリー、そう呼んでいらっしゃいますよね、彼のおかげでぼくはゴールにたどり着いたのです」

 ミスター・アピンはこの瞠目すべき発言を、勝ち誇った調子を何とか抑えてしめくくった。だれも「バカだろ」などと言ったわけではなかったが、クローヴィスの口が、一音節の言葉をつぶやいたかのように動いた。おそらく何らかの不信の思いが言葉になったものであろう。

「ってことは、こうおっしゃってるの」ようやくミス・レスカーが口を開いた。「簡単な文章とか、単語とかを、トバモリーが理解できるように、教えたってことなんですか?」

「ミス・レスカー」奇跡を起こした人物は落ち着いて答えた。「小さな子供や野蛮人、頭の鈍い大人であれば、細切れのやり方で教えるでしょう。だが、知能が極度に発達している動物は、導入部の問題さえクリアできれば、そんなまだるっこしいやり方は、必要ではないんです。トバモリーはぼくたちの言葉を完璧に話すことができます」

 クローヴィスの言葉は、今度ははっきり聞こえた。「大バカだな」
サー・ウィルフリッドは、それよりは礼儀をわきまえていたが、同様に疑念を表明した。

「だったらトバモリーを連れてきて、みんなで判断すればいいのじゃなくて?」レディ・ブレムリーが提案した。

 サー・ウィルフリッドはくだんのネコをさがしに行き、一同は腰を下ろしたまま物憂げに、多少は気の利いた素人腹話術でも見ることになるのだろう、と思っていた。

 まもなく戻ってきたサー・ウィルフリッドの日焼けした顔は蒼白で、興奮した目は飛び出しそうになっている。
「なんということだ、本当だったんだ!」

 その動揺はまぎれもなく本物で、興味をかき立てられた人びとは身を乗り出した。

 肘掛け椅子に身を沈めても、サー・ウィルフリッドの息は治まってなかった。「喫煙室で寝ているのが見えたから、『こっちへ来て一緒にお茶にしよう』と声をかけたんだ。そしたらこっちを向いて、いつもやるみたいにまばたきする。だから言ってやった。『トビー、こっちへおいで。お客様を待たせるもんじゃない』すると、どうしたと思う? やつは恐ろしいほど普通の声音で、うんざりしたみたいに言うんだ。『その気になったら走っていくさ』だと! 心臓が飛び出すかと思ったよ」

 アピンが話したときは、誰もまともに相手にしなかった。だが、サー・ウィルフリッドの話となると、信憑性がまるでちがってくる。驚きのコーラスが湧き上がるのを、科学者アピンは静かに腰を下ろして耳を傾け、世紀の発見の最初の果実を心ゆくまで楽しんでいた。

そのさわぎのまっただなかに、トバモリーはやってきたのである。ベルベットのようになめらかな足取りで、興味もなさそうに一同を見渡すと、丸いティー・テーブルを囲む人びとの方へ歩いていった。

 気まずい、当惑に満ちた沈黙が、一同の頭上にたれこめる。どうやら飛び抜けた知能を持つとされる飼い猫と、対等の立場で会話するというのは、妙に居心地の悪いものであるらしい。

「ミルクを少しいかが、トバモリー?」レディ・ブレムリーが緊張した声でたずねた。

「悪くはないね」というのがその答えだった。どっちでもいいけど、と言わんばかりである。それを聞いた一同は、動転しそうな気持をなんとか抑えた。レディ・ブレムリーのミルクをつぐ手が震えたのも、無理からぬところである。

「ごめんなさい、わたし、ずいぶんこぼしちゃったわね」すまなそうにそう謝った。

「ま、何にしてもぼくのアクスミンスター・カーペットじゃないからね」とトバモリー。

「人間の知性について、どう考えていらっしゃる?」メイヴィス・ペリントンがへどもどと聞いた。

「たとえば誰の知性?」トバモリーはすげなく聞き返す。

「あら、まあ、そうね、たとえばわたしとか」メイヴィスは弱々しい笑い声をあげた。

「そりゃまた言いにくいことをぼくに言わせようとするね」だが、トバモリーの声も態度も、言いにくそうなようすはみじんもない。「今度のパーティにあんたを呼ぶかどうかって話になったときにも、サー・ウィルフリッドは反対して、『あんなに頭の悪い女は見たことがない』って言ったんだ。『客をもてなすことと、頭の弱い手合いの面倒を見てやることは、話がちがうんだぞ』ってね。そしたらレディ・ブレムリーはこんなふうに言い返した。『智恵が足りない人っていうのは、招待するのにもってこいなのよ。うちの古い車を買ってもいいって考えてくれるようなおバカさんは、あの人だけなんだから』って。ほら、あの車、『シジフォスの羨望』とかいうやつ。まあ押してやれば坂だってちゃんと上れる。だからそんな名前がついてるんだろうな」

 レディ・ブレムリーは、とんでもない、と打ち消してはみたが、それも、もし今朝、何気ないふうを装って、メイヴィスに、この車だったらデヴォンシャーのお宅にはちょうどいいわ、ともちかけていなければ、多少は本当らしく聞こえたかもしれなかった。

 バーフィールド少佐が話の流れを変えようと、大きな声で割り込んだ。

「馬小屋にいる三毛猫とはうまくいってるのかね、ええ?」

 すぐに、全員が少佐の失敗を悟った。

「ふつうはそういった話題は、人前で取りざたするのを避けるもんじゃないかね」トバモリーは冷たく言う。「この家に来てからのあんたをちらっと見ただけだが、その話をしたら具合が悪いんじゃないのかな。あんたのちょっとした恋の話とかね」

 大慌てに慌てたのは、ひとり少佐だけではなかった。

「コックのところへ行って、あなたのご飯の準備ができたかどうか見てきたらどうかしら」とレディ・ブレムリーが焦りながら言った。トバモリーの夕食まで二時間は優にあったが、気がつかないふりをしたのだ。

「どうも」とトバモリーは答えた。「お茶の時間が終わってから間がないんだがね。消化不良で死にたくはないな」

「ネコは九生あるそうだが」サー・ウィルフリッドは陽気に言った。

「かもしれないが、我々の肝臓はひとつしかない」

「アデレイド!」ミセス・コーネットが言った。「あなた、このネコが召し使いのところへ行って、ゴシップを広めるのをそのままにしておくつもりなの」

 全員が、文字通りのパニックに陥っていた。この屋敷にあるほとんどの寝室の窓には、幅の狭い飾り手すりがついているのだが、ここがトバモリーの昼夜を問わないお気に入りの散歩コースになっているのを、不意に思い出したのである。トバモリーにしてみればハトを見張るのに格好の場所なのだが、そのほかに一体何を見ているか、神のみぞ知るところだ。これから先も、思いつくまま洗いざらいぶちまけることが続いたら、いったいどうなることか。気まずいぐらいではすまないだろう。

ミセス・コーネットは、きれいに化粧しているというより、刻々と変化し続ける顔のもちぬしなのだが、それも実は暇さえあれば化粧室に坐っているからだった。そのため、少佐と同じくらい憂鬱そうな顔をしている。ミス・スクロウェンはたいそう官能的な詩を書いているが、ほんとうは非の打ち所もない生活を送っていたために、かえっていらだたしげな表情をうかべていた。みながみな、まっとうで貞潔な私生活を告知したいわけではない。

バーティ・ヴァン・ターンは十七歳のときから腐敗した生活を続け、ずいぶん前に、これ以上堕落しようのないところまで墜ちに墜ちた男だったが、そんな彼でさえクチナシのような蒼白な色になっていた。とはいえ、部屋からあわてて逃げ出したオドゥ・フィンズベリほど、無様なまねはしなかったが。フィンズベリはキリスト教学の勉強をしている若い男で、おそらく人びとが関わっているスキャンダルを聞かされて、心の平安が乱されるのを望まなかったのだろう。クローヴィスは落ち着き払ってはいたが、頭のなかでは、口止め料として、エクスチェンジマートの代理店を通して、めずらしいハツカネズミを手に入れるには、何日ぐらいかかるだろう、と計算していた。

 このように厄介な状況であっても、アグネス・レスカーときたら、人の前にしゃしゃり出て一言、言い出さずにはおれない女だった。

「どうしてこんなところに来ちゃったのかしら」なんとも芝居がかった調子である。

 打てば響くようにトバモリーが答えた。

「あんたは食い物が目当てだったんだろう? 昨日、クローケーの芝のところでミセス・コーネットに話してたじゃないか。滞在するにしてもブレムリー夫妻ほど退屈な夫婦はいないが、一流のコックを抱えるぐらいの頭はある。そうでなきゃ、いったい誰がこんなとこに二度と遊びに来るもんか、って」

「そんな話、最初から最後まで全部大嘘よ! コーネットさん、わたしが言ったのは……」アグネスは困惑して叫んだ。

「ミセス・コーネットはそのあと、あんたが言ったことをそのまんま、バーティ・ヴァン・ターンに伝えた」とトバモリーは続けた。「それから『あの女、ほんとに意地汚いったらありゃしない。一日に四回ご飯を食べさせてくれるところならどこにだって顔を出すのよ』とのことだ。バーティ・ヴァン・ターンはそれに答えて……」

 そう言ったところで、時の神の配剤により、トバモリーは口をつぐんだ。牧師館の黄色い大きなネコが植え込みを抜けて、馬小屋の方へ行くのが、視野に入ったのである。彼は弾かれたように立ちあがり、開いたままのフランス窓から出ていった。

 このすばらしく優秀な生徒がいなくなると、コーネリアス・アピンは手ひどい叱責を喰らうやら、不安そうに問いつめられるやら、おびえながら哀願されるやらの暴風にさらされた。こういうことになったからには、全部あなたに責任があるんですよ、これ以上事態を悪くしないように、何か防御策を採ってください、というのである。トバモリーはあの危険な才能を、ほかのネコにも伝えることができるのですか? との問いに答えることが、さしあたっての任務だった。親しくしている馬小屋のネコに伝えた可能性はあるだろうが、そのネコを超えて、技術が伝播している可能性はまずない、というのがアピンの回答だった。

「だったら」ミセス・コーネットは言った。「トバモリーはそりゃ貴重なネコだし、大切なペットでしょうよ。だけど、あなたもわかってるわよね、アデレイド、馬小屋のネコと一緒に、いますぐ処分しなきゃダメよ」

「わたしがいまの十五分間を楽しんだとでも思って?」レディ・ブレムリーは苦々しげに言った。「主人もわたしもトバモリーをそりゃかわいがってきましたよ――少なくとも、あんな恐ろしい力を身につける前まではね。だけど今となったら、もちろん、あの子にしてやらなきゃいけないことはたったひとつしかありません。それもできるだけ早くね」

「やつのいつもの晩飯の中にストリキニーネを入れてやればいい」とサー・ウィルフリッドが言った。「馬小屋へは私が出向いて、そっちは川に沈めて始末するとしよう。馬丁は飼いネコがいなくなれば悲しむだろうが、二匹とも、伝染性のひどい疥癬にやられて、猟犬に伝染すると大変だから手を打った、と伝えておくよ」

「ですが、私の大発見なんですよ!」ミスター・アピンが訴えた。「何年にも及ぶ研究と実験の成果が……」

「農場でも行って、牛相手に実験すりゃいいんです。それならちゃんと管理されてますからね」とミセス・コーネットは言った。「そうでなきゃ動物園のゾウとかね。ゾウなら知能が高いって話だし、なによりすばらしいのは、寝室に入り込んだり、椅子の下なんかにこっそりもぐりこんだりしないってとこね」

 仮に大天使が恍惚たる表情で主の再臨を告げたちょうどその日、国際ボートレース、ヘンリー・レガッタの日とかち合って、残念ながらやむをえず順延せざるをえなくなったとしても、偉大なる研究の成果がこんな反応を引き起こしたのを目の当たりにしたコーネリアス・アピンほど、意気阻喪することはなかっただろう。だが、世論は彼に味方することはなかった。それどころか、もし広く意見を求めるようなことをしたなら、アピンに対してもストリキニーネを与えるべき、という、少数ながら強固な票が投じられたにちがいない。

 汽車の時間には合わないし、また事態がどう決着するのか見届けたかったので、誰もすぐにはそこを出立しようとしなかった。だが、その日の夕食は、楽しい社交の場とはほど遠いものだった。サー・ウィルフリッドは、馬小屋のネコ相手につらい経験をし、その結果、馬丁にもまた手を焼く羽目になった。アグネス・レスカーはこれ見よがしに、何もつけないトーストだけを自分の食事とし、それを憎き敵さながらに、ぎりぎりとかみしめている。一方、メイヴィス・ペリントンは復讐するかのように食事の間中、緘黙を貫いた。

レディ・ブレムリーはなんとか会話をもたせようと、のべつまくなしにしゃべり続けながら、目は片時もドアから離さなかった。サイドボードには、注意深く薬を混ぜ込んだ魚の切れ端が載せてあるのだが、食後に甘いデザートを食べ、セイボリー(※前菜やデザートとして出す塩漬けの魚やブランデーに漬けた果物など辛口の料理)をすませ、最後の果物を終えても、トバモリーはダイニングルームにも台所にも姿を現さなかった。

 陰気な食事も、そのあとの喫煙室での不寝番にくらべれば、まだしも陽気だったようだ。少なくとも食べたり飲んだりするあいだは、気まずさを紛らわせることもできた。だがブリッジなど、気持が高ぶり緊張している中ではできるはずもない。やがてオドゥ・フィンズベリが悲しげな声で『森の中のメリサンド』を歌ったが、聴衆は最上級の冷淡さで応え、音楽は暗黙のうちに斥けられた。

十一時になって、召使いの休む時間になり、『食料庫の小窓は、いつものようにトバモリーが通れるよう、開けておきます』と報告があった。最初の内は熱心に雑誌の最新号に目を走らせていた客も、徐々に体が沈んでいき、スポーツ雑誌や風刺漫画をぱらぱらとめくるだけになっている。レディ・ブレムリーは定期的に食料庫を見に行ったが、そのたびに暗い、うち沈んだ表情で戻ってくるものだから、誰もどうなったか聞くこともできなかった。

 二時になったところで、クローヴィスが沈黙を破った。

「今夜は出てこないみたいですね。もしかしたらいま、地元の新聞社で回想記の第一章を口述してるのかもしれません。レディ・何とかの本なんて目じゃないね。当日の目玉記事になるだろうなあ」

 みんなの気持にとどめをさしてクローヴィスは寝に行った。そのあと時間を置きながら、ほかの客もクローヴィスにならったのだった。

 翌朝になって、召使いはみな、朝のお茶の席で、判で付いたような質問に、判で付いたような返事をした――トバモリーは戻ってきませんでした。

 朝食は、昨夜の夕食よりなおのこと気分の晴れないものだったが、それも終わろうとするころ、状況は一変した。トバモリーの亡骸が植え込みによこたわっているのを園丁が見つけ、連れ帰ったのである。喉を咬み切られ、足には黄色い毛がからみついているところを見ると、牧師館の大ネコトムに武運拙く敗れたものにちがいない。

 午前中のうちにほとんどの客は屋敷を出立し、昼食を終えてからレディ・ブレムリーは、牧師館に手紙を書けるまでに元気を取りもどした。かけがえのないペットを奪われたことに対して、強い抗議をしたためたのである。

 アピンにとってはトバモリーが唯一の成功例となり、その後を継ぐ者は現れなかった。数週間後、ドレスデン動物園のゾウが、それまで特に気が立った様子もなかったのに、いきなり鎖を切り、からかっていたとおぼしいイギリス人を殺したのである。被害者の名は新聞によって、オピンとなったりエプリンとなったりしていたが、ファーストネームだけは正確に「コーネリアス」と報道された。

「もしドイツ語の不規則動詞をあのかわいそうなゾウに教えようとしたのなら」とクローヴィスは言った。「その報いを受けたってことだろうな」




The End








モウズル・バートンの平和



 クレフトン・ロックヤーは身も心ものびやかに、モウズル・バートン村にある農家の庭先に、のんびりと腰をおろしていた。そこから地続きのせまい地所は、半ば果樹園、半ば菜園になっている。

都会の喧噪のなかで久しくストレスにさらされ続けた体を、なだらかな丘陵に囲まれた田舎に置いてみると、静けさとやすらぎが五感の隅々にまで染みいるのを感じる。時間と空間は意味を失い、溶け出していくようだ。数分間は知らぬまに数時間へと伸びていき、草地も休耕地も向こうの方までなだらかに切れ目なく続いていく。

生け垣にはびこる雑草は花壇へ伸びて交じり合い、壁をつたうニオイアラセイトウや庭の低木は、逆に庭から小道の方へ攻勢をかけている。眠そうな顔のメンドリや、まじめくさって何かを考えているらしいアヒルは、庭であろうが果樹園であろうが道であろうが、いっこうに頓着なく歩いていく。境界というものがどこにも見当たらないのである。門の扉さえも、真ん中で開くとは限らなかった。

あたり一帯に平和な雰囲気が満ちあふれ、まるで魔法にかけられているようだった。午後は、いつ始まったかもわからず、いつまで続くかも定かではない。宵闇せまる頃合いになればなったで、たそがれ時が永遠に続いているように思える。クレフトン・ロックヤーは古いマルメロの木の下の丸太のベンチに坐ったまま、心を決めた。ここは人生の錨をおろすのにふさわしい場所だ。昔から夢に見、疲労と神経の消耗が高じてきた近ごろでは、なおのこと思い焦がれてきたのは、まさにこういう場所だった。素朴で人なつこい人びとの住む村にずっと滞在しよう、ここを終の棲家とするのだ。快適に暮らせるように、少しずつものを買いそろえながら、同時に村の人びとの生活様式にも馴染んでいこう。

 自分の決意を頭の中で少しずつ具体化しているところに、年取った女がよたよたとおぼつかない足取りで、果樹園を抜けてやってきた。彼が滞在している農場の家族の一員だ。一家の女主人の母親だったか、義理の母親だったろうか。感じのいい挨拶をしなくては、と、大慌てで言葉を探した。ところが相手に先を越されてしまった。

「あっちの戸にチョークで何か書いてあるだろ。なんて書いてある?」

 のろのろとした語調は、どこか上の空で、何年も喉の奥に引っかかっていた質問を、やっと片づけたという感じだ。だが、視線の先にあるのはクレフトンの頭越しの、まばらに続いていく納屋の列の一番奥の戸で、そこを憎々しげににらんでいるのだった。

何が書いてあるんだろうといぶかりながらクレフトンが振り返って見てみると、「マーサ・フィラモンは魔女」とある。一瞬、そのまま世間に広めて良いものかどうかためらわれた。自分は何も知らないし、もしかしたら自分が話をしているこのおばあさんが、マーサその人かもしれないのだ。スパーフィールドの奥さんの結婚前の姓がフィラモンなんだろうか。痩せてしわくちゃのおばあさんの姿は、彼の目にはいかにもこの土地の魔女らしく映った。

「マーサ・フィラモンとかいう人は、何とかかんとかだって書いてありますよ」と彼は慎重に答えた。

「何とかかんとかだって?」

「あまりいいことじゃありません」とクレフトンが言った。「魔女だとか。こうしたことはあまり書いちゃいけませんね」

「ほんとのことさ。まるっきり」彼の答えはどうやら相手の期待に添うものだったらしく、さらに説明が加わった。「おいぼれのヒキガエルめが」

 ふたたび足を引きずりながら庭を抜け、しわがれ声で怒鳴った。「マーサ・フィラモンは魔女だ!」

「あの女の言うことを聞いたかい?」低い、腹立たしげな声がクレフトンの背後から聞こえてきた。あわてて振り返ると、そこにいたのは今度は別のしわくちゃばあさんである。痩せて黄色くしなびて、たいそう腹を立てている。どうやらこれがマーサ・フィラモンその人であるらしい。この果樹園は、近隣一帯のばあさん連中のお気に入りの散歩道なのだろうか。

「嘘だね。まったくひどい嘘もあるもんだ」細々とした声が続いていく。「ベッツィー・クルートこそ魔女さね。あいつも、あいつの娘も、うす汚いネズミだ。あいつらに呪いをかけてやるからな。邪魔者めが」

 のろのろと足を引きずって向こうへ行きかけたが、納屋の戸にチョークで書いてある文字を目に留めた。

「あれはなんて書いてある?」クレフトンの方を振り返ってたずねた。

「ソーカーに投票しよう」これまでも仲裁するたびにやってきたように、臆病な人間特有の大胆さで嘘を言った。

 ばあさんは不満げに鼻を鳴らした。ぶつぶつ言う声が、色あせた赤いショールと一緒に木立の向こうへ少しずつ遠ざかっていく。クレフトンもやがて立ち上がり、家の方へ歩き出した。平和な雰囲気が霧散してしまったような気がした。

 昨日のお茶の時間は、ざわめきに満ちた楽しいひとときで、クレフトンは農家の台所がたいそう居心地良かった。ところが今日はどういうわけかひどく陰気で、憂鬱な気分がたれこめている。人びとも暗い顔で黙りこくったままテーブルを囲んでいた。お茶をすすれば、生ぬるく、味もなければ香りもない、仮にお祭り騒ぎの真っ最中であっても、お茶を一口すすっただけで、楽しい気分も吹き飛んでしまいそうなしろものだった。

「まずいなんて文句言わないでちょうだい」ミセス・スパーフィールドがあわててそう言ったのは、クレフトンが自分のカップを、失礼にならないようにちらりと見たからである。「お湯が沸騰しないせいなんだから」

 クレフトンは暖炉に目をやったが、日ごろないほどに炎が激しく燃えさかり、黒い大きなやかんがかけてある。だが、その口からは細々とした湯気が、切れ切れに立ち上るばかりで、どれだけ炎にあぶられてもだんまりを決め込んでいるらしい。

「一時間以上もあの調子なの。お湯が沸こうとしないのよ」ミセス・スパーフィールドは、一部始終を説明するために言葉を継いだ。「わたしたち、呪いをかけられたんだわ」

「マーサ・フィラモンのしわざだよ」おばあさんが話に加わった。「あたしがあのおいぼれヒキガエルに仕返ししてやる。こっちも呪い返してやるんだ」

「じきに沸きますよ」クレフトンは話の奇妙な風向きを無視して言い張った。「きっと石炭が湿ってるんでしょう」

「一晩中火を焚いたところで、明日の朝どころか昼ご飯の時間になったって沸きゃしませんって」ミセス・スパーフィールドはそう言った。そうして実際、その通りになったのである。家では炒めたり焼いたりした料理でなんとかしのぎ、隣の人が親切に差し入れてくれたお茶すらも、かろうじて温かいといえるぐらいの温度でしかなかった。

「あんた、ここを出ていくつもりでしょう。何もかもすっかり案配が悪くなっちゃったからね」ミセス・スパーフィールドは朝の食卓を眺めながらそう言った。「厄介ごとが持ち上がると、雲を霞と逃げてく人は少なくないもの」

 クレフトンはあわてて、さしあたって予定を変更するつもりはないことは告げたが、内心では、最初のころに感じた心のこもったもてなしが、すっかり変わってしまったとは感じていた。探るようなまなざしが行き交い、みんな不機嫌に押し黙っている。口を開けばきつい言葉の応酬に終始するのが当たり前になってしまった。

おばあさんは日なが一日、台所か庭先にすわりこんで、ぶつぶつとマーサ・フィラモンを毒づき、呪いをかけている。こんなにも弱々しい、縮んでしまったような年寄りが、残ったわずかな力をふりしぼって、相手に不運がふりかかるよう、ふたりして呪い合っているようすは、何かしらおぞましくも、哀れをもよおすところがあった。あらゆる能力が歩調を合わせるかのように衰えていくなかで、たったひとつ、憎悪の感情だけが、弱まることも衰えることもなく、生き延びているようだった。

しかも、気味の悪いことに、老婆たちの憎しみや呪いが蒸留されて、何かしらおぞましい、ぞっとするような力が生まれていくようだった。たとえ信じたくはなくても、燃えさかる火の上にかけたやかんもなべも沸騰させることができないのは、まごうかたなき事実だったのである。クレフトンはあくまで石炭の不調で押し通そうとしたが、たきぎをくべても結果は同じ、運送屋に頼んでアルコールランプつきのやかんを配達してもらっても、やはりお湯は頑として沸騰するのを拒む。この結果を見て、不意に彼も、想像もつかないような、きわめてまがまがしい隠れた力を目の当たりにしたように思ったのだった。数キロ先、丘の開けた場所には街道が延び、行き交う自動車も見える。最新の文明を運ぶ動脈ともさほど離れていないこの村には、コウモリが巣くう古い農家があり、魔術らしきものが現実に力をふるっているらしかった。

 農家の庭を抜け、その先の小道に向かった。そこなら心地よく平穏な雰囲気に、また浸れるかと考えたのだ。いまでは家の炉端にいても――とりわけ、火のそばから消え失せてしまったぬくもりに。ところがクレフトンは家のおばあさんが、マルメロの木の下の椅子に腰掛けて、ぶつぶつとひとりごとを言っているのに出くわしたのだった。

「泳いでいるやつは溺れろ、泳いでいるやつは溺れろ……」子供がなにやら暗記しようとするように、何度も何度も繰りかえしている。それがやおら中断したかと思うと、甲高い笑い声が続いた。その声音には悪意がこもっていて、聞いているだけでぞっとする。

クレフトンはその声がもはや耳に届かないところまで来て、やっと胸をなで下ろした。あたりはひっそりとしていて、草ぼうぼうの道が、どこへ続くかわからないまま、二、三の方向に分かれている。一番細い、ひとけのなさそうな道を選んで歩いたのに、やがてちっぽけな車道に出、その先には家が見えたので、彼はいささかムッとした。みすぼらしい家で、ろくに世話もされていないキャベツ畑があり、その先には年老いたリンゴの木が数本、流れの速い小川に沿って立っていた。小川は途中で広くなり、かなり大きな水たまりを作っている。堰き止めるように繁るヤナギの間を縫って、また流れていた。

クレフトンは木の幹に身を預けて、渦を巻いている水たまりの向こうの小さくみすぼらしい農家に目をやった。動くものの気配といえば、薄汚いアヒルが列をつくって水辺に下りてくるだけだ。だが、アヒルというのはヨチヨチと不格好に歩いていても、地面を離れるやいなや、ふわりと優雅に水に浮かぶ。その変わっていく瞬間は、何度見ても見飽きない。クレフトンは先頭のアヒルが水面に浮かぶのを注意深く見つめながら待っていた。同時に、胸の内には、何か奇妙な、良くないことが起きるのではないかという不安が兆していた。

アヒルは何の疑いもなく水の中に入っていったが、すぐにくるりとひっくり返って水面から姿を消した。頭が一瞬浮かんできたかと思うと、また沈み、泡がつづけざまにぶくぶくと出て、羽や足が必死で水をかいているのが見える。あきらかにアヒルは溺れていた。

クレフトンは最初、水草かなにかに足を取られたのか、それともキタカワカマスや水ネズミに水面下で襲われたかと考えた。だが水面に血が浮くこともなかったし、アヒルはもがきながら、何かにからみつかれた様子もなく流されていく。

そのとき、二羽目のアヒルも池へ入り、ばたばたともがきながら水中に沈んでいった。ときどき水面に突き出されたくちばしがあえいでいる。その情景は、あたかも親しい水に手ひどく裏切られてパニックに陥ったかのようで、何とも哀れなものだった。クレフトンは、三羽目のアヒルも岸辺から飛び込むと同時に、ほかの二羽と同じ運命になっていくのを、ぞっとするような思いで眺めていた。

ありがたいことに、残りのアヒルたちは、先達の味わっている悲劇にやっと気がついたらしい。頭を高々と上げて身を固くすると、危険な場所にくるりと背を向け、ガアガアとおびえ、わめき立てながら帰っていった。

同時に、クレフトンは、自分がその出来事の唯一の目撃者ではなかったらしいことに気がついた。腰の曲がったしなびたおばあさん――彼にはすぐに、悪名高いマーサ・フィラモンだとわかった――が、足を引きずりながら農家から細い小道を抜けて、池の端へ下りてきたのだ。アヒルが溺れ死んでいくおぞましい光景を、じっと見つめている。やがて怒りにふるえた声が聞こえてきた。

「ベッツィー・クルートがやったんだな。あの老いぼれネズミ、こっちも呪いのお返しだよ」

 クレフトンは音のしないようにその場を離れたが、おばあさんが彼の存在に気が付いていたかどうかはわからなかった。ただ、マーサ・フィラモンがベッツィー・クルートの仕業だとわめきだすより早く「泳いでいるやつは溺れろ、泳いでいるやつは溺れろ……」と小さな声で呪文を唱えていたことが頭をよぎり、不吉な思いでいたのだ。

ところが、仕返しを誓うマーサの脅し文句を聞いていると、彼の頭は新たな不安でいっぱいになり、それ以外のことはすっかり忘れてしまった。あれこれ考え合わせても、おばあさんたちの脅しが、単なる口げんかだとはどうしても思えない。モウズル・バートンの家々は、執念深い老婆のくびきの下に置かれているのだ。どうやらあのばあさんたちは、個人的な怨恨を、何かしら手の込んだやりかたで現実のものとするらしく、三羽のアヒルを溺死させられた復讐に一体何をたくらむのか、彼にはわかりようがなかった。同じ屋根の下にいる自分も、マーサ・フィラモンの不興を買って、巻き添えになってしまうかもしれない。

もちろんそれが馬鹿げた空想であることは、クレフトンにもよくわかっていたが、アルコールランプつきやかんの成り行きと、さっき目の当たりにした水たまりでの出来事で、彼は心の底から動揺してしまっていた。さらに悪いことに、自分がおそれているものの正体がはっきりしないから、なおさら恐ろしさは募る。ひとたび「あり得ないこと」を考慮に入れてしまうと、「起こり得ること」は際限なく広がってしまうものだ。

 翌朝、クレフトンが目ざめたのは、いつもどおりの早い時間だったが、この家に来てこれほど眠れなかったのは初めてだった。感覚がひどく鋭敏になっているせいで、あらゆるものごとがすべからく不調に終わる空気が、この呪われた家をすっぽりとおおっているのがよくわかった。

搾乳の終わった牛も、庭のすみで身を寄せ合い、イライラと放牧されるのを待っている。ニワトリはエサはまだかとせっつきながら、うるさく鳴くのをやめようとしない。庭にあるポンプまでもが、ふだんなら朝早くから、陽気な音を繰りかえし立てているのに、今朝は不気味に静まりかえっている。クレフトンは身支度をすませると、せまい階段のてっぺんに立った。物憂い、ぶつぶつとつぶやくような声が聞こえている。何かを怖れて声を潜めているのだ。すぐにそれがミセス・スパーフィールドの声だと気が付いた。

「あの人は出ていくよ、きっと」その声は言った。「ありゃ、何か具合の悪いことがおこると、一目散に逃げるような手合いだから」

 クレフトンは、確かに自分はそんな「手合い」のひとりだ、と考えた。だが「いかにも」のふるまいが、いい結果につながる場合もある。

 彼は音のしないように部屋へ引き返し、わずかばかりの手回り品を荷造りしてから、滞在費をテーブルに載せ、裏口のドアから庭へ出た。ニワトリが何かくれるのかと群れをなして駆けよってくる。あとからあとから来るのをふりきって、牛舎やブタ小屋、山と積まれた干し草の影に隠れるようにして先を急ぎ、農場の裏手の小道に出た。旅行鞄を提げているので、一目散に駆け出すわけにはいかないが、それでも数分間も歩くと、幹線道路に出ることができた。後ろから早朝の配達人が追い越そうとしたので、隣り町まで乗せてもらった。

道の曲がり角で、自分が滞在した農家が最後にちらりと見えた。破風作りの古い屋根と、茅葺きの納屋、まばらにつづく果樹園、マルメロの木、木陰にある木の椅子、そうしたものすべてが朝日を受けて、鮮やかにうかびあがっていた。もうひとつ、魔法の力、クレフトンがかつては平安と勘違いした不思議な気配も、あたりをすっぽりと覆っていたのだった。

 パディントン駅では、せわしなく動き回る人と騒音とが、クレフトンの耳を聾さんばかりに襲いかかってきたが、彼はそれを、もう大丈夫という歓迎の合図として受けとった。

「まったく神経にこたえますよ、この雑踏の慌ただしさときたら」相客が言った。「田舎のやすらぎと静けさがほしいものですな」

 クレフトンは、そんなものならいくらでもくれてやる、と内心思った。人でごった返し、照明がまぶしすぎるほど輝いているコンサートホールでは、「1812年」が活気あふれるオーケストラによって、とびきり威勢良く演奏されていた。彼の神経を鎮めるには、それ以上に理想的なものは見当たらなかった。




The End








七番目のひよこ



「毎日の仕事がきついから、不平を言っているわけじゃないんだ」ブレンキンスロープは不満そうな顔で言った。「仕事の間を別にすれば、ぼくの生活ときたら、退屈で味気なくて、てんで変わりばえがしないんだからな。おもしろいことなんてひとつも起こらない。めずらしいことも、変わったことも。少しはおもしろいんじゃないかとやっと見つかったことでさえ、誰もおもしろがってくれない。たとえばうちの庭の話なんかのように」

「重さ1キロのでかいジャガイモが取れたんだよな」友だちのゴーワースが言った。

「その話はもうしたんだっけ」ブレンキンスロープはたずねた。「今朝、電車の中でほかの連中には話したんだが。君には話したかどうか、忘れていたよ」

「正確を期すならば、君の話のジャガイモは、ほんとうは1キロはなかった。立派な野菜だの、釣り上げた超弩級の魚だのは、死してなお成長し続けるものだから、ぼくはそこも計算ずみさ」

「君もほかの連中と同じだな」ブレンキンスロープは悲しげに言った。「ぼくのことをバカにしてるんだろう」

「罪はジャガイモにあるのであって、ぼくたちには関係がない」ゴーワースは言った。「そもそもジャガイモなんて、およそおもしろくないものじゃないか。だから誰も少しもおもしろがらないんだよ。君が毎日汽車で乗り合わせる連中も、君とまったく同じなのさ。みんな平凡な生活をしていて、自分のことをたいしておもしろい人間だとも思っていない。だからほかの人間が出くわすありきたりのことなんか、熱心に聞くはずがないじゃないか。話すんだったら、君か、君の家族に起こった、何かびっくりするような、劇的で、刺激的なことを話してくれよ。そしたらみんなもすぐに夢中になるから。知り合いに会うたびに、まるで自分の自慢話をするみたいに、君のことを触れ回るにちがいない。

『ぼくの親しい男にブレンキンスロープっていうやつがいる。近所に住んでるんだが、晩飯に持って帰ったロブスターに、指を二本、はさみで切られてしまったんだ。医者の話では、手全体を切断した方がいいと言ってるらしい』みたいな話だよ。これならかなり上等な話だぞ。だが、テニスクラブへ歩いていきながら、こんなことを言うところを想像してみろよ。『ぼくの友人に、重さが1キロ以上もあるジャガイモを作った男がいるんだ』なんて」

「ちょっとまってくれよ」ブレンキンスロープはいらだたしげに言った。「だからぼくにはとりたてて話すような出来事は起こらないと言っただろう?」

「何かでっちあげろよ」ゴーワースは言った。寄宿学校時代に聖書学で優秀賞を受賞したせいで、以降の人生においては、人より不謹慎であってもかまわない、と思っている節がある。人生の早い時期に、旧約聖書で言及される十七種類の木の名前をあげることができたのだから、あとはもうたいていのことは許されるはずだ、と。

「どんなことを?」ブレンキンスロープは、木で鼻をくくったような声を出した。

「昨日の朝、ヘビが一匹、きみんちの鶏小屋に入り込んで、七羽いたひよこのうち、六羽を殺してしまった。最初に目で催眠術をかけてから、ひよこがなすすべなく立ちつくしているところを、つぎからつぎへと呑み込んでしまったんだ。ところが七羽目のひよこはフレンチ種でね、羽毛が両目にかぶさっている。おかげでヘビの催眠術にかからないですんだ。そこでヘビに飛びかかって、くちばしでつついて、バラバラに引き裂いてしまったのさ」

「かたじけないね」ブレンキンスロープは硬い表情を変えなかった。「なかなか冴えてる作り話だな。もしそんなことがほんとに鶏小屋で起こったんだったら、ぼくも鼻高々でみんなに教えるだろうね。だが、ぼくは事実を重んじる方なんだ。それがどれだけ平凡であろうとね」

とはいえ、彼の気持は七番目のひよこの話に引きつけられていた。汽車の中でその話をしている自分の姿が目に浮かぶ。同乗の仲間の関心を引きつけているところも。無意識のうちに、細かいところやもっとおもしろくなりそうな箇所を、頭の中で練り始めていた。

 翌朝、客車に乗りこんで腰を下ろしたときも、彼の頭のほとんどは、何かしら物足りない思いに占領されていた。向かいに坐たスティーヴナムは、重要人物として、みんなから一目置かれている。というのも伯父さんが国会議員選挙の投票をしている最中に、急死したのである。それが起こったのは三年前だったのだが、いまだに国の内外を問わず、あらゆる政治問題について、スティーヴナムの意見は尊重されているのだ。

「やあ、どでかいマッシュルームだっけ、あれはどうなったんだい?」ブレンキンスロープが通勤仲間から認められているのは、そのことだけだった。

 さらに、ブレンキンスロープがあまり好ましく思っていないダクビーという若い男が、家庭内の不幸な出来事の話で、あっというまに一同の注目をかっさらってしまった。

「昨夜、うちのハトのヒナが四羽も、大きなネズミに食われたんです。ほんとに怪物みたいなやつだったにちがいありませんよ。やつが物置に開けた穴を見たら、どれくらい大きかったかわかります」

 通常の大きさのネズミがこの地域で捕食活動をすることはどうやらないらしい。彼らの大きさの途方もない話ときたら、まさに途方もなかった。

「まったくひどい話ですよ」ダクビーは続けたが、一同が自分に注目し、話に感心していることをはっきりと意識していた。「四羽のひなを一度にやられちゃったんです。ここまで思いがけないことが起こるなんて、めったにないでしょうね――こんな不運がね」

「うちじゃ昨日の昼に、七羽いたひよこが六羽まで、ヘビにやられてしまったんだ」ブレンキンスロープは、自分のものとは思えないような声で言った。

「ヘビだって?」興奮した声の合唱が返ってくる。

「ヘビは恐ろしい、ギラギラ光る目で、一羽一羽、催眠術をかけていったんだ。ひよこはみんななすすべもなくじっとつったったまま、やられてしまったらしい。隣りに寝たきりの人がいて、寝室の窓から何もかも見ていたんだとさ。助けは呼べなかったらしいが」

「わぁ、こりゃたまげたな」合唱隊から驚きのさまざまな変奏が聞こえる。

「おもしろいのは七番目のひよこのことなんだ。そいつだけは殺されなかった」ブレンキンスロープはここで言葉を切ると、ゆっくりとタバコに火をつけた。もはや気後れなど片鱗も残ってない。堕落とは、いかに安全で容易なものであることか。一歩踏み出す勇気さえあればそれでいい。「死んでしまった六羽はミノルカ種のニワトリだった。それが、七羽目だけはウダン種で、羽毛が目の上までかぶさっている。そもそもヘビの姿が見えてないんだから、ほかのひよこみたいに催眠術にもかからない。見えたのはただ、地面をなにかがにょろにょろはってるだけだったから、飛びかかって、つつき殺しちゃったんだ」

「わぁ。そりゃすごい!」合唱隊は叫んだ。

 それから数日間というもの、ブレンキンスロープは、世間が賞賛してくれさえすれば、自分のふるまいに対する恥ずかしさなど、痛くも痒くもなくなることを発見した。彼の話は家禽新聞で報道され、そこからさらに巷の話題として日刊新聞に転載された。さらに、スコットランド北部在住の女性がよく似た話題を提供した。彼女の場合は、テンと盲目のライチョウとのあいだに起こったことを目撃したという。作り話もただの「話」と呼べば、さほど非難されるべきものではなくなるらしい。

 しばらくは、七番目のひよこ物語の脚色者は、ひとかどの人物という地位を十分に楽しんだ。現代奇譚の一翼に名を連ねたのである。やがて、ふたたび彼は、冷たい灰色の背景に追いやられた。スミス=パドンという人物の名声が花開いたのである。彼もまた毎日一緒に通勤している仲間なのだが、彼の幼い娘がミュージカルコメディに出演中の女優の車にはねられて、あわや大けがをするという事故に遭ったのだった。女優はそのときは車には乗っていなかったのだが、エドマンド・スミス=パドン氏の愛娘メイジーちゃんの安否を気遣うスターの写真が何枚も写真週刊誌『ゾト・ドブリーン』に掲載された。この新たな事件は、人びとの興味を引きつけ、通勤仲間はブレンキンスロープが彼の鶏小屋にヘビとハヤブサを近づけない細工を説明しようとしたときも、ほとんど無礼といっていい態度を取ったのだった。

ゴーワースにこっそりとそのことを打ち明けると、彼は同じアドバイスを繰りかえした。

「何かでっちあげろ」

「よし、わかった。でも、何を?」

 打てば響く賛同のあと、対句のように質問が続いたのは、彼の倫理的立場が劇的に変わったことのあかしである。

 数日後、ブレンキンスロープは客車でいつもの面々に向かって、一族の歴史の一ページを披露した。

「奇妙な出来事が叔母に起こったんだ。パリに住んでる叔母なんだがね」と彼は切り出した。確かに彼には叔母が数人いたが、地理的には全員ロンドン及びその近郊に散らばっている。

「その叔母さんが、先日の午後、ルーマニア公使館での昼食会のあと、ブローニュの森のベンチに腰掛けていたんだ」

 話に外交関係的雰囲気を持ち込むことによって、情景がありありと目に浮かぶようにはなるにせよ、その瞬間から話は現実に起こったありのままの事実とは受け入れがたくなるものである。ゴーワースはこの世界の新規参入者にもそのことは警告していたのだが、新規参入者の情熱というのは伝統的に思慮分別を凌駕するものである。

「叔母さんはいささかぼうっとしていた。たぶん、日の高いうちにシャンパンを飲む習慣がないにもかかわらず、飲んだせいだろうけどね」

 低い感嘆のつぶやきが一同の口からもれた。ブレンキンスロープの本物の叔母さんたちは、シャンパンなど一年を通じて飲むことはなく、クリスマスと新年の飾りのようなものと考えていたのだが。

「そこへ、立派な風体の紳士が通りかかり、脚を止めて葉巻に火をつけようとした。その瞬間、若い男が彼の背後にしのびより、仕込み杖から刀を引き抜くと、グサッ、グサッと五、六回も突き刺したんだ。『このならず者めが』若い男は叫んだ。『おれのことを知らないだろう。おれはアンリ・ルテュールだ』紳士の方は自分の服に飛び散った血をぬぐうと、斬りつけた男に向かって言った。『ところでいつから斬りかかることが自己紹介の代わりになったのかね?』そう言ってから、紳士は葉巻にちゃんと火をつけ終えて、歩いていった。ぼくの叔母さんは、悲鳴を上げて警官を呼ぼうとしたんだが、事件の主役が平然としているのだから、自分が割り込んでおおごとにしてしまっては失礼に当たるのではないかと思い直した。

もちろん、ぼくが言うまでもないことなんだけど、叔母さんは、暖かい昼下がりに自分がうつらうつらしていたことと、公使館で飲んだシャンパンの仕業で、夢でも見たのだと思ったんだ。さて、ここからがこの話のたまげたところだ。二週間後、ある銀行の支配人が、まさにそのブローニュの森で、仕込み杖で刺し殺された。下手人は、以前その銀行で働いていた掃除婦の息子だった。掃除婦はしょっちゅう酒を喰らっていたもんだから、支配人に首を切られていたのさ。そうして息子の名は、アンリ・ルテュール」

 その時以来ブレンキンスロープは、暗黙のうちに仲間うちのほら男爵と目されるようになった。そうして来る日も来る日も仲間たちの信じやすい性質をテストするかのように、彼はいかなる努力も惜しまなかったのである。ブレンキンスロープは、忠実な、願ってもない聴衆を得たと思いこみ、驚くべき物語の需要を満たすべく、せっせとその供給に励み、巧みにもなってきた。ダックビーは、カワウソを飼って、泳げるように庭に池を作ったのだが、水道料金を払うのが遅れるたびに、カワウソが落ち着かなげなようすで鼻をクンクン鳴らす、という皮肉めいた話をしたのだが、それもせいぜいブレンキンスロープの力作の不出来なパロディとみなされたにとどまった。ところがある日、復讐の女神が到来したのである。

 ある晩、ブレンキンスロープが家に帰ってみると、ひと組のトランプを前に、妻がすわったまま、何か一心に考え込んでいる。

「いつものペイシェンスなんだろう?」とくに気に留めることもなく、彼はたずねた。

「ちがうのよ。これはペイシェンスでも『死者の頭』っていって、一番難しいの。いままできちんと上がったためしがないんだけど、なんだかそうなると怖いような気がする。母は生涯でたった一度、上がれたのよ。上がるのを怖れていたんだけど。母の大伯母が一度、うまく上がって、興奮したところでそのまま亡くなったんですって。だから母も、もし自分が上がったら死ぬだろうといつも思ってたんだわ。そうして上がった晩に死んでしまった。確かにそのとき病気ではあったんだけど、奇妙な偶然の一致よね」

「怖いんだったら、やめとけよ」ブレンキンスロープは現実的な意見を残して、部屋を後にした。数分後、妻が彼を呼んだ。

「ジョン、すごい手が来て、もう少しで上がりそうになったの。ダイヤの5が出てくれたおかげで、上がらずにすんだけど。ほんとに上がるかと思った」

「おや、上がりだよ」ブレンキンスロープは、部屋へ入ってそう言った。「クラブの8を空いている9のところへ動かせば、ダイヤの5を6のところへ持っていける」

 妻は、すばやく言われたとおりに動かした。指がふるえる指で、残りのトランプをそれぞれの組の上へ載せていった。そうして、母親と大伯母の作った先例にしたがった。

 ブレンキンスロープの妻を愛する気持は純粋なものだったが、喪失の悲しみのさなかにも、ある考えが頭の中を占めるのをどうすることもできなかった。耳目を集める、しかも現実の出来事が、ついに彼の人生に起こったのである。もはや灰色でもなければ、モノクロの記録でもなかった。彼の家庭内悲劇を伝える見出しが、頭の中でつぎつぎと浮かんでくる。
「受けつがれる予感、ついに現実に」
「ペイシェンス『死者の頭』 三代に渡って証明された不吉な名前」
彼はこの運命的な出来事の一部始終を書き記し、『エセックス ヴェデット誌』に送った。そこでは彼の友人が編集者だったからなのだが、別の友人には要約記事を送って、どこか三文紙の編集室に送ってほしいと頼んだ。だが、空想物語の名人としての評判が、どちらの場合でも致命的な障害となり、彼の野心は報いられることはなかった。

「喪に服すべきときに、ほら男爵の真似とはね」というのが仲間内での評価で、ただひとつ、地方新聞の「お悔やみ」欄に「われらが尊敬する隣人、ミスター・ジョン・ブレンキンスロープ夫人、心臓麻痺による急死」という記事が載っただけだった。世間の注目を集めるつもりだったのが、みじめな結果に終わったのである。

 ブレンキンスロープは通勤仲間のグループから外れ、早い汽車で都心に通勤するようになった。ときには顔見知りに、彼の飼っているすばらしいカナリヤのさえずる声の美しさとか、菜園で取れた砂糖ダイコンの大きさについて語り、賞賛を求めることもある。だが、かつては七番目のひよこの飼い主として、人の口にものぼり、名指されもした日々は、もはや思い出すこともないようだ。




The End








すぐそこにある不思議



サキの短篇の中には、「開いた窓」「メスオオカミ」などのように、不思議なことを信じやすい人の気持を手玉に取って、あっと思わせる話が少なくない。反面、「スレドニ・ヴァシター」などのように、不思議なことが実際に起こってしまう種類の話もある。ここでは身近なところで起こった不思議な話を三つ集めてみた。

「トバモリー」は「メスオオカミ」をひっくり返したような話である。クローヴィスも出てくるし、きっとトリックか何かだろうと思いながら読んでいると、おやおや、ということになり、それでも最後はニヤリとしてしまう。

「モウズル・バートンの平和」では、「不思議」の正体がはっきりしない。だが、溶け出した時間と空間がそのまま淀んでしまったような場所では、そんなことも起こるのかもしれない、という気に何となくさせられてしまう。

「七番目のひよこ」では、「不思議」を求めて、「不思議」とたわむれていた男が、最後に「不思議」に手痛い目に遭わされる話である。

この三つの話を読んで思うのは、イギリス、日本を問わず、時代を超えて、わたしたちは「ちょっと不思議」な話が好きなのだなあ、ということだ。「トバモリー」は、ドイツで見つかった賢いウマ「クレバー・ハンス」(「賢いウマ」)が下敷きになっているのではないかと思うのだが、おそらく不思議を求め、不思議を喜ぶわたしたちの好奇心が、こんないくつもの「事件」を発見したにちがいない。

何年か前に「人面魚」というのが話題になったこともあるし、いまだにニュースのない日には、新聞の片隅に、奇妙な形の野菜の写真が載ることもある。ダイコンがたまたまハート形をしているだけで、ニュースになる、というのは、考えてみればずいぶん不思議な話である。ブレンキンスロープではないが、平凡な自分、決まり切った毎日でおもしろい出来事が起こることもない自分の生活をよく知っているから、そんなものでも埋め草になるのだろうか。

合理的な説明がつく場合もあれば、つかない場合もある。けれどもサキが「不思議なこと」を取り上げるのは、いつもはっきりとした目的がある。「不思議なこと」を鏡にして、人間のある面を浮かび上がらせるのだ。

しゃべるネコ、トバモリーが明らかにするのは、人間の「裏の顔」である。表と裏を使い分け、人に応じて態度を変える人間だからこそ、鏡が「裏面」を明かすと、困ったことになる。「不思議」を求めていたくせに、都合が悪くなると、いともたやすく「不思議」を抹殺しようとする、得手勝手な人びとの姿をサキは容赦なく描きだす。

「七番目のひよこ」は、「不思議」のない生活というのが、実は得難いものであることを教えてくれるし、同時にほんとうの「不思議」――「不条理」と言ってもよい――は人間の手に負えるものではないことをも教えてくれる。

その意味で、興味深いのは「モウズル・バートンの平和」だ。ここに出てくる「不思議」は、果たして「魔女」と呼ばれるおばあさんたちや、彼女らの「呪い」なのだろうか。むしろ人間の中には、どこまでいってもよくわからない、説明できない部分がある、ということなのではないだろうか。おばあさんたちの中にある、よくわからない、うまく言葉にのらない部分は、実はわたしたちの中にも、ひっそりと、あるいはときに表面に出てきて持ちあぐねているのではあるまいか。

まばゆい照明は闇をかき消し、都市の喧噪は、静けさの奥に潜む何ものかを追い払おうとしている。だが、光が明るくなればなるほど、その影の闇もまた深いはずだ。わたしたちの心の内には、どんな「不思議」が潜んでいるのだろうか。





初出 Feb. 26-March 09 2010 改訂 March.16 2010



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