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'TWAS DA NITE ――クリスマスの思い出






0.クリスマスには早すぎる

11月の半ば、暗くなりかけたなかを元気に"Shook me all night long"と歌いながら自転車をかっ飛ばしていた。ふいに“ぎくっ”とした。この胸騒ぎの正体は何だ? 自分はいったい何に“ぎくっ”としたのだろう? 自転車を止めてわたしはあたりを見回した。

自分が通り過ぎたばかりの家のベランダに、よじのぼろうとしている人影がある。それを目の隅で捉えて、アヤシイ人影! とばかり、“どきっ”としたにちがいない。
だが、人影と言っても、サイズは頭の小さな五、六歳児といったところ。本物の五、六歳児がベランダでロッククライミングの練習をしていたわけではなく、それは人形なのだった。それも子供ではなく、赤い服のじいさんである。ディズニーランドの「カリブの海賊」の人形と同じく、実際の人間よりかなり小さくしてあるのだ。いささか余談になるけれど、「カリブの海賊」たち、最初はもっと大きかったらしいのだ。それが、人間に近いサイズだと、暗い中ではものすごく怖くなってしまうんだとか。それと一緒で、やはり等身大だとかさばるばかりでなく、実際、暗がりで見たらさぞかしコワイにちがいない。

もちろんこの人影、というにはずいぶん小さいのだけれど、ベランダにしがみついて不法侵入を試みている人型の物体は、赤い服を着て白いひげの、ホッホッホー、と笑うあのじいさんだ。

よく見ると、コードがあちこちとぐろを巻いていて、豆電球もいっぱい点いている。電源を入れればさぞかしきらびやかなクリスマスのイルミネーションなのだろう。
まぁ電気代がかかろうがどうだろうが、わたしの知ったこっちゃないんだが、それにしても11月の半ばである。いくらなんでも、ちょっと早すぎるのではあるまいか。一晩中ピカピカさせつづけて一ヶ月、そうでなくても明るいこのあたりの夜が、いよいよ明るくなってしまう。街路樹に巣をかけているツグミたちは、さぞ迷惑に思っているにちがいない。


1.ヴァージニア・オハンロンとわたし


わたしは幼稚園の年中から小学校の四年まで、カトリックの学校に通っていた。そこではクリスマスは運動会よりも大きな行事で、準備期間も含めた一切がとても楽しかった。
クリスマス会のメイン・イヴェントはキリストの生誕劇。わたしも二年生のとき、東方の三賢者のひとりとして、「あ、星が。イエズス様がいまお生まれになりました」というセリフを言ったことを、いまでも覚えている(どうでもいいが、なんでこういう役に立たないことばかり覚えているんだろう。わたしの記憶領域は、こうしたジャンクによって食い尽くされているにちがいない)。
クリスマス会を締めくくるのは、全校生徒によるキャンドル・サービス。
暗い中、ひとつひとつ受け継がれ、灯されていくロウソクの炎は、火がこれほどまでに美しいものなのか、と思うほどだった。

五年になるとき引っ越して、転校することになるのだが、そのとき何よりも残念だったのは、このクリスマス会にもう出られないことだった。転校先の学校は公立で、そんなものがあろうはずもなく、そのかわり、毎年地区の子供会主催のクリスマス会が、近所の神社の別棟の集会所で開かれる。

クリスマス会といっても、当たり前ではあるが、宗教色のいっさいないもので、みんなでケーキを食べて、ジュースを飲んで、あとはお腹に枕をいれて赤いサンタクロースの服を着た新聞屋のおじさんが、スーパーに山積みされているお菓子を詰めた長靴と、子供会費で買ったプレゼント、例年、学習帳とシャープペンシルと××新聞と書いてあるタオルが入っている袋を配ってくれるのだった。それまでの豪華なクリスマス会との落差が激しすぎて、翌年は行かなかったら、家にそのケーキとプレゼントの袋が届けられていたような気がする。

わたしの家でもクリスマスが近くなると、ツリーを飾った。それほど大きくない、60センチぐらいの、もちろん本物の木なんかではない、プラスティックのツリーである。生まれたばかりの姉のために両親が買ったもので、年々ツリーにつける飾りも散逸してしまい、弟が小学生になったぐらいには、ずいぶん少なくなってしまっていた。それを補うわけでもなかったのだが、家では「サンタさんにお願い」を短冊に書いて、そのもみの木もどきに結びつけていたのだ。わたしは何の疑問もなくそれをやっていたのだが、後年、だれに聞いても「それは変だよ」と言われることになる。だが、家のツリーには毎年「テレビをください」「二重飛びが二十回以上できますように」などと書かれた星形や長靴型の短冊が、いっぱいぶらさがっていた。

ところで、みなさんはサンタクロース、何歳まで信じていらっしゃいましたか?

わたしは小学校の二年まで、というか、正確にいうと、三年の十一月まで信じていた。
学校でクラスメートに「サンタクロースって、あれは親だよ」教えられて、一気に何もかも合点がいったのだった。

毎年わたしはサンタさんにテレビをお願いしていた。というのも、家にはテレビというものがなかったから。友だちの家に行くと、テレビがあるのがうらやましくて、テレビがついていてもそちらを見向きもしないで、まったくちがうことをして遊んでいる友だちが信じられなかった。おそらく街頭テレビに見入っていたころの人と同じような顔をして、テレビに見入っていたにちがいない。

ところがサンタさんがくれるのは、毎年レゴなのだった。
別にレゴをもらってうれしくなかったわけではない。なんであれ、プレゼントはうれしかったし、世界にはたくさん子供もいることだし、割り当てみたいなものがあるのだろう、というふうに、わたしなりに理解し、納得していたのだった。

だが、親であるとすると、レゴなんて、実にわたしの親が考えそうなプレゼントである。人生、すでに何十回目かに、「やられた」と思った。
家に飛んで帰って、姉に
「サンタクロースって親だった、って知ってた?」
「アンタもやっとわかったんだ。いったいアンタ、いつまでそんなこと信じてるんだろう、って思ってたよ」
つぎに、弟に聞いてみた。
その年、小学校に入ったばかりの弟であったが、年に似合わず、いつだって大変クールなわが弟は、そのときも顔色ひとつ変えず、こう言ってのけたのだった。
「あたりまえじゃん。世界中に子供がどれだけいると思ってるの? 全部にプレゼント配ってたら、どれだけ時間があっても、一年中プレゼント配ってなきゃならないよ」

だが、三人で並んで短冊を書いていたのは、あれは何だったのか。
「書いてたら、ああ、こういうものをほしがってるんだ、ってわかるでしょ?」
「どうせ買ってくれないのはわかってるけどね」

ところで、いまを去ること百年以上前、19世紀末、わたしと同じような経験をした女の子がいた。八歳の彼女、ヴァージニア・オハンロンは、わたしと同じような質問を父親にし、父親はわからないことは新聞に聞いてみるようアドバイスした。そこで彼女はサン紙に手紙を書く。「ともだちがサンタクロースなんていないと言う。ほんとうにいないんですか?」

百年以上たっても、毎年クリスマスシーズンになると引き合いに出されることになる返事を書いているとも知らず、記者フランシス・ファーセルス・チャーチ(当時は無署名の社説だった)はこう答えた。愛や寛容の精神や信仰が確かなものであるのと同じように、サンタクロースも確かに存在する、見たことがある人がいないからといって、いないことにはならない、と。

人生、姉がいるといないとでは、大きく変わっていく。


2.貧者への贈り物


大学に入った年のクリスマス・イブは、コピー屋でバイトをしていた。
大学は冬休みに入っていて、コピー屋は閑散としており、店を開けてからトナーの交換をし、紙を補給したら、あとはほとんどすることもなかった。持ってきたジョイスの『ダブリン市民』を広げて読んでいるうち、おそらくあんまり静かだったかどうかで、そこに置いてあったラジオをつけてみたのだろう。

いきなりユーミンの“恋人がサンタクロース”という曲が流れてきた。
わたしはそれまでまともに聴いたこともなくて、なんとなく、サンタクロースの恋人になりたい、という歌なんだろう、と思っていたのだ。そのとき初めて、恋人がプレゼントを持ってきてくれて、「サンタクロースみたい」だ、という歌であることを知った。

えらく気持ちの悪い歌だと思った。
恋人を「サンタクロース」と呼ぶセンスっていうのは、どうしようもないな、と。

サンタクロースのような恋人も、サンタクロースではないような恋人もいなかったわたしは、プレゼントがもらえるならコメがほしい、というような生活をしていた。

大学に入学して半年もすると、貧乏というのは、一時的な状態ではない、ということをはっきりと理解していた。お金がない、月も半ばになると日々の支払いにも事欠いてしまう、という状態が、情況を大きく好転させるような何かが起こらない限り、今月ばかりでなく、来月も、その次も続いていくのだ、ということを。

だから、どれほどお金がなくなっても、親に泣きつこうと思わなかったし、借金もしようとはおもわなかった。今月親に泣きついてしまえば、来月もそうしなければならなくなるのは目に見えているし、借金は、来月それを返そうと思ったら、今月の収入にプラスして、借金の原因となった今月の不足分、さらに返済分の収入増が必要となる。そんな収入増の見込みすらないところでは、借金さえできないのだった。

コピー屋のバイトはなにしろ時給が安かったので、短期のバイトにもときどき行った。電車賃しかなくて、お昼休み、隅でご飯も食べずに本を読んでいたら、パートのおばさんにゆで卵をもらったこともある(そんなひもじそうな顔をしていたんだろうか。ただ、そのときのゆで卵はおいしかった)。

まわりには授業料を払うために、昼のバイトと夜のバイトをかけもちしている子もいたし、男子寮では、夜12時を過ぎると、食べ残した寮食が無料で食べられる、それが一日の唯一の食事で、12時を過ぎるのをいまかいまかと待っているハイエナのような寮生たちがいる、という話も聞いていた。世間はまだまだバブルの余韻が残っているような状態だったけれど、わたしの周囲は、わたしと同じように、赤貧スチューデントばかりだったので、それほど悲壮感はなかった。ただ、いまになって思うと、生活といっても、気楽な学生の一人暮らしは、どこまでいってもごっこ遊びの延長だったのかもしれない。

クリスマス・イブより、わたしには暮れの帰省の費用のほうが問題だった。帰る金がない、といえばすぐに送ってくれるのはわかっていたけれど、それと一緒になんだかんだ言われることは目に見えている。そういううっとうしいことは、なんとしても避けたい。だが、どう考えても旅費のようなイレギュラーな出費にまで、わたしの経済状態は対応できそうもない。ドリームバスの方が安いという情報は入手していたけれど、なんとなく夜間バスで帰るというのは、アメリカの小説でグレイハウンドバスのことをたくさん読んでいたわたしには、ちょっと怖かった。

おそらくバイト先でもそうした金勘定をしていたのだろう、お客も少なくレジにたいして入っているわけでもなかったのだが、この千円札を何枚か、十日間だけでも借りることはできないだろうか、と真剣に考えた記憶がある。

六時になって、店を閉めようと、シャッターを下ろしに表へ出た。すると、「ちょっと待ってください」と走ってきた人がいた。中年の女性だった。「コピーさせてください」

いかにも不慣れそうだったので、早く店を閉めるために、わたしが取ってあげることにした。見ると、"Joy to the World!"の楽譜である。
「あー、わたし、これ高校のとき歌いました。アルトだったんです」
セットして、三十部のコピーができあがるのを待つあいだ、わたしはなんとなく、アルトのパートで"Joy to the world! The Lord is come!"と歌ってみせた。
すると、その人はソプラノのパートでそれに合わせていき、結局、二重唱で最後まで歌ったのだった。

それだけのことだったのだけれど、なんだかとても楽しかった。
その人はこれから近くの教会で歌うのだという。信者ばかりでなく、一般の参加者も大勢来る、来た人に一緒に歌ってもらうためにコピーしたのだと。ミサに来ませんか、と誘われたのだけれど、そちらのほうは遠慮した。

コピー屋を閉めて、暗い裏通りを歩いて帰りながら、空を見上げた。先ほど読んだばかりの『ダブリン市民』の末尾を飾る一編、「死せる人々」を思い出していたのだった。それはちょうどクリスマスを舞台にした短編だった。

クリスマスの日、叔母の家で開かれたクリスマス・パーティに、妻とふたりで出かけたゲイブリエル・コンロイは、帰り際、妻が聞こえてきた古い民謡に心を奪われるのを見る。

ヨーロッパ大陸やイギリスで教育を受けたゲイブリエルだが、妻は自分が捨て去ろうとしているアイルランドの民謡に我を忘れて聴き入っている。そうしてゲイブリエルも、妻の美しさに陶然となる。

ところが妻は、曲に聴き入っていたのではなかった。かつて自分にその歌を捧げてくれた十七歳の少年が、自分を愛してくれたこと、その愛ゆえに死んでしまったこと、そうしたことどもを、相手を思って泣きながらゲイブリエルに告げるのだ。

ゲイブリエルは嫉妬、屈辱、さらに自分の存在そのものがどれほどおぼつかないものであったかを感じ、愕然とする。

だが、泣き疲れて眠る妻を見るうち、ゲイブリエルは、その妻の向こうに、死んだ後にも妻が思い続けた少年の面影を見、さらにまもなく死ぬであろう叔母に、さらにアイルランドに眠る死者たちに思いを馳せていく。戸外には雪が降っている。生きる者の上にも、また、死者たちの上にも、アイルランド全土に雪は降り積もっていく……。

雪はなかったけれど、そうして、お金もなかったけれど、サンタクロースのような恋人も、サンタクロースではない恋人もいなかったけれど、ジョイスの短編と、"Joy to the World!"と、ふたつの思いがけないプレゼントを手に入れたのだ。わたしの心は、豊かだった。空を見上げたまま、大きく深呼吸する。
いいクリスマス・イブじゃん、と思った。


3.クリスマスの精神


それから数年が過ぎた。
たぶんイブの晩ではなかったと思うのだけれど、とにかくクリスマスシーズンの土曜の夜だった。塾のバイトを終えたわたしは、待ち合わせた友人と一緒に、ライブハウスに行く予定だった。
予定だった、というのは、結局、行かなかったのだ。

バイトが終わって、わたしたちは繁華街を歩いていた。寒い夜だったけれど、土曜の夜の人通りはにぎやかで、クリスマスも近く、雑踏全体にどこか浮き浮きとした雰囲気が漂っていた。人混みのなかにいると、冷たい風も感じない。色とりどりのイルミネーションもまばゆく、歩道は昼間のように明るかった。

その明るい歩道が橋の間だけ、暗くなる。川から冷たい風が吹き上げ、人並みも自然に急ぎ足になって、橋を渡る間だけは、みんな無言で足を急がせていた。

渡りきったところに、暗い袂にうずくまるようにして、おばあさんがひとり地べたに座っていた。毛布を身体に巻き付けるようにして、水飲み人形のように機械的に頭を下げている。その前に置いた箱のなかに、いくばくかのお金が入っているのを見るまで、そのおばあさんが物乞いをしているのだということに、わたしは気がつかなかった。

当時、九十年代の半ばで、世間がじんわりと不景気になりつつあるという感じはあったけれど、それでも不景気も、そこまでは深刻ではなかった頃だ。わたしは物乞いをする人がいる、ということを、知識として知ってはいても、現実に見たのは初めてだった。

みな、見て見ぬ振りをして行き過ぎる。おばあさんは顔を伏せたまま、目の前を通り過る足に向かって、何度も何度も頭を下げ続ける。川から吹いてくる風に、白髪があおられていた。
いったいどのくらいの間そこにすわっていたのだろう、箱のなかには千円札が二枚、あとは小銭がいくつか散らばっていた。

立ち止まった連れは、ポケットから財布を出そうとした。
「そういうことを、わたしはしたくない」
「なんでやねん。おばあさんが一晩でも、二晩でも、温かいものが食べられたら、ええやんか」
「それで、どうなるの? そんなことしたって、何の解決にもならないよ」
「別に解決しよ、て思うてるわけとちがう」
「それだと結局自分の自己満足じゃん」
「自己満足で悪いか?」
「悪い。いいことした、みたいな気持ちになるのが、我慢できない」
「別にええことした、いう気になったりはせえへん。そんな大層なこととはちがう」
「額とは関係ない。お金を渡すっていうことは、恵むってことだ。人とそういう関係になりたくない」
「オレはな、そういうことより、ああしたおばあさんが、こういうなかに座ってはることが耐えられへんねん。自分の問題として、そうやねん」

立ち止まって言い争うわたしたちの横を、何人もの人が通り過ぎた。
こんな話のコンセンサスが得られるはずもなく、友人はお金をいくばくか渡し、わたしのほうはそちらを見ないようにして、ずんずんと歩き過ぎた。

そこからもわたしたちは歩き続けたけれど、ライブを聴きに行くような気持ちの弾みも削がれ、そのあとはどうしたのだろう。おそらく延々と歩き続けて、そこからバスにも地下鉄にも乗らず、そのままそれぞれの住処に帰っていったのではなかったか。

それから十年近くが経って、いまではときどき物乞いをしている人の姿も見かけるようになった。初めて見たときほどの驚きを覚えることもなくなったし、どうしたらいいのか、それに対して自分はどういう態度を取るのか、と、問いを突きつけられたように思うこともなくなった。人間は慣れるということなのだろうか。それともわたしの感じ方がすっかり鈍くなってしまったのだろうか。

そうした人は、クリスマス・イブにも出ていくのだろうか。
周囲が華やぐその日を、どんな思いで見るのだろう。

こういう人たちのことを考えると、「クリスマスの精神」というのはなんだろう、と思わずにはいられない。
フランシス・ファーセルス・チャーチは、八歳の女の子に、サンタクロースは、愛や寛容さや信仰心と同じくらい確かなものだ、と答えた。愛や寛容や信仰心がこの世に満ちあふれ、人々の人生に、最高の美しさと喜びとを与えているのだ、と。
愛や寛容さや信仰心はそれほど確かなものではないし、ほんとうにこの世に満ちあふれているんだろうか?
あるいは強靱な信仰心が、愛とも寛容さとも相容れない場面を、わたしたちはすでにいやというほど見てしまったのではなかったか。
わたしはそういう人を目の当たりにしても、どうしたらよいのかわからなくて、そもそもどう考えたら良いかさえわからなくて、見ないようにして行きすぎる。
19世紀末にそう返事を書いたチャーチがいま生きていれば、どんなふうに答えるにせよ、愛や寛容さや信仰心と同じくらい確か、とは言えないような気がする。

それでも、わたしはやはりクリスマスが好きだ。クリスマスの飾り付けも好きだし、灯りも好きだ。クリスマスがなければ、冬はずいぶん淋しいものになってしまうだろう。

灯りがともったクリスマス・ツリーには、ただ華やかさだけではなく、なんというか、やはり一種の精神性みたいなものがあるような気がする。プレゼントにしても、O.ヘンリーの『賢者の贈り物』にもあるように、ただ贈り物をするだけではなくて、相手を喜ばせたい、そうして、贈るという行為によって、自分もともに喜びたいという思いがあるはずだ。

わたしの家にも今日(12/13)、姉から自転車に乗る妹のために、手編みのマフラーが届いた。自分の家の犬にはすでに十本、編んでやっていて、たとえそのつぎに思い出したのがわたしであっても、そうしてそのマフラーがどう見ても年老いた川のごとく蛇行しているものであっても、思い遣りの一端を届けてくれる、というのはうれしいものだ。
わたしたちが思い遣りを示すことができるのが、たとえ自分のほんの身近な人でしかなかったとしても。それはおそらく利己心からは(人によって差はあるけれど)可能な限り、遠いものではないのだろうか。

近所に庭のゴールド・クレストに飾り付けをしている家がある。
その根本でうれしそうに木を見上げて吠えている犬を、今日、見かけた。
どうやら犬もクリスマスが好きらしい。




初出Dec.1,10,12 2005 改訂Dec.13 2005




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