ウィリアム・フォークナー  『乾いた九月』

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原文はSelected Short Stories of William Faulkner (Modern Library) を底本としています。邦訳は新潮文庫『フォークナー短編集』龍口直太郎訳 など。
なお、"negro"、"nigger"の訳語として、いわゆる「差別語」を当てていますが、その点はご了承ください。
なお、http://amb.nbu.bg/american/4/faulkner/september.htmで原文が読めるようです。



乾いた九月




I

 雨が降らなくなって六十二日が過ぎ、なにもかもが血に染まったような九月のたそがれどき、乾いた草原を渡る火のように駆け抜けたものがあった――流言、噂話、それをなんと呼んでもかまわないが、ミス・ミニー・クーパーとひとりの黒人にまつわるはなしだ。襲われた、辱めを受けた、怖ろしい目に遭わされた。土曜の夜、床屋に集まった者たちは、よどんだ空気を入れ替えることもなくかきまわすだけの天井の扇風機が、すえたポマードとローションと一緒に、自分たちのすえたような息と体臭を繰り返し浴びせかけるのを感じながら、だれひとり、実際には何が起こったか知ってはいないのだった。

「ウィル・メイズじゃないってんなら、話は別だが」と、理髪師のひとりがいった。中年の、痩せて沈んだ肌の色をした穏やかな顔つきの男で、いまは客の顔を剃っているところだ。「ウィル・メイズならよく知ってるんだ。あいつはいい黒ん坊だ。それにミス・ミニー・クーパーってひとも、よく知ってる」

「ミス・ミニー・クーパーの何を知ってるっていうんだ?」と、もうひとりの理髪師がいう。

「その人はだれなんだ?」客が割り込んだ。「若いお嬢さんかい?」

「とんでもない」理髪師が答えた。「四十ってとこでしょう。嫁かず後家でね。だからあたしにはどうしても信じられない……」

「信じるだって、ええ?」シルクのシャツに汗をにじませた、大きな図体の若い男が声を上げた。「あんたは白人のご婦人がいったことより、黒ん坊の話を聞くってのか」

「ウィル・メイズがそんなことをしたなんて、あたしには信じられない」理髪師は繰り返した。「やつならよく知ってるんだ」

「ならあんたはだれがやったか知ってるんだな。きっとそいつをこの町から逃がしてやりでもしたっていうんだろう。まったくたいした黒ん坊贔屓だぜ」

「あたしが言ってるのは、だれであれ、何かしようなんて気を起こした人間がいたとは思えない、ってことなんです。ほんとに何かがあった、なんてね。おたくら、好きなように考えてくれたらいいんだが、嫁にも行かず、歳ばっかり食っていくご婦人がたにはわからないこともある。男がそんな気にはならない……」

「こりゃまたあんたはたいした白人だな」客はそういって、クロスの下で身をよじった。若い男はがばっと立ち上がった。

「信じられないっていうのか? 白人の女のほうが嘘をついたっていうんだな?」

 理髪師は、身体を起こしかけた客からカミソリを離して、頭の上の方で留めた。

「いまいましい天気が続いてるからな」別の男がいった。「男なら何かしたくなるかもな。たとえ相手がおばちゃんだって」

 だれも笑わない。理髪師は持ち前の、穏やかだが梃子でも動かない調子でいった。「あたしはだれかがどうかしたからけしからん、なんてことが言いたいんじゃありません。ただ、あたしが知ってるように、それからみなさんだってよく知ってるように、男を知らない女ってもんが……」

「この黒ん坊贔屓めが!」若い男が毒づいた。

「やめろよ、ブッチ」もうひとりがいった。「ことを起こすには、十分時間をかけて事実を調べなきゃダメだ」

「だれがそんなことをするんだよ。事実だって? 事実なんてクソ食らえだ。オレは……」

「あんたは立派な白人だ」客が言った。「そうだろ?」あごひげを泡だらけにした客は、まるで西部劇に出てくるならずもののようだ。「お若いの、みんなに言ってやってくれよ。もしこの町には白人がひとりもいないんだったら、このオレを頼ってくれてかまわない。オレはただの旅回りのセールスマンで、ここじゃよそ者に過ぎないが」

「そのとおり」理髪師はいう。「まず事実ってものを明らかにしなくちゃ。あたしはウィル・メイズをよく知ってるんだから」

「まったく結構なことだよ」若い男がいった。「考えてもみろよ、この町に一人だって白人の男が……」

「いいかげんにしろよ、ブッチ」と別の男が止めた。「オレたちにゃ時間はたんとあるんだからよ」

 客は坐りなおすと、声のしたほうに向き直った。「あんた、白人の女に黒ん坊が襲いかかったとしても、何かいいわけすりゃ聞いてやろうって言うのか? 白人の男として、そんなことをおめおめと見ていられるとでも? 故郷の北部へとっとと帰ったらどうだい。ここ南部じゃ、あんたみたいなやつはお呼びじゃないんだ」

「北部とはどういうことだ。オレが生まれたのはここだし、大きくなったのもここだ」

「えい、くそっ」若い男がいった。自分が何を言いたかったのか、何をしようとしたのか、なんとか思い出そうとしているような、張りつめ、途方に暮れた色を目に浮かべてあたりを見回した。袖を引っ張って汗まみれの顔を拭う。「おれだったら、白人の女に勝手なまねをするようなやつは……」

「それをみんなに言ってやるんだよ、兄さん」セールスマンが声をかける。「もしみんなが……」

 スクリーン・ドアが大きな音を立てて開いた。男がひとり、大きな身体を無造作にかまえて大股で立っている。白いシャツは胸をくつろげ、中折れ帽をかぶっていた。男は怒気を帯びた険しい眼差しで一同を睨めつけている。マクレンドンという名で、フランスでの前線部隊の指揮を執り、勇敢さをたたえられて勲章を授けられた過去を持つ男だ。

「おい、おまえたちはそこにのんびり坐って、ジェファソンの街の通りで、白人の女を黒ん坊のやりたい放題にさせて平気なんだな」

 ブッチはふたたび跳ね起きた。シルクのシャツが、分厚い肩にべったりと貼りついている。両脇の下は、汗でどす黒い半月ができていた。

「おれがずっと言ってたのもそのことなんだ! おれが言いたかったのは……」

「それってほんとうに起こったことなのか?」三番目の男がいった。「ミス・ミニーが怯えたってのもこれが最初ってわけじゃないんだぜ、ホークショーが言うみたいに。男が台所の屋根に上って、服を脱ぐところをのぞき見していたとかいう話があったじゃないか、一年ほど前のことだよな?」

「なんだって?」客がいう。「何のことをいってるんだ?」理髪師はゆっくりと客を椅子に押し戻す。客は傾いた背もたれに抵抗しながら、頭を持ち上げようとしたので、理髪師はその頭をずっと押さえつけていなければならなかった。

 マクレンドンは三番目の男のほうに向き直った。「ほんとうに起こったか、だと? 起ころうが、起こるまいが、どれほどのちがいがあるっていうんだ。ほんとにやっちまうまで、黒ん坊どもに好きにさせとくつもりか?」

「おれが言ってたのもそういうことなんだよ」ブッチは大声を出すと、意味のない悪態をくどくどと言いつのった。

「わかったわかった」四番目の男が口を挟む。「声が大きいぞ。そんなに大きな声をあげて話す必要はなかろう」

「そのとおり」マクレンドンがいった。「おしゃべりなんか必要ない。おれの話はもうしまいだ。一緒に来るのはだれだ?」つま先立ちになると、ギロギロとあたりを見回した。

 理髪師はカミソリを離して、セールスマンの顔を押さえつけていた。「事実を確かめることが先ですぜ、みなさんがた。あたしはウィル・メイズってやつをよく知ってる。やつはそんなことはしない。保安官に来てもらって、ちゃんとやってもらいましょうや」

 マクレンドンは怒気もあらわな強ばった顔を理髪師に向けた。だが理髪師も目をそらさない。ふたりはまるで異なる人種のようだった。ほかの理髪師たちも、仰向けにしたお客の上で手を止めていた。「おまえは白人の女がいうことよりも、黒ん坊の言葉を信じるというわけだな」マクレンドンはいった。「このクソッタレの黒ん坊贔屓が」

 三番目の男が立ち上がってマクレンドンの腕をつかんだ。この男も兵隊上がりだった。「おいおい、ことをはっきりさせようじゃないか。だれか実際に何があったのか、知ってる者はいないのか?」

「はっきりさせるだって? 冗談じゃない」マクレンドンは腕をふりほどいた。「このオレについてこようってやつは、立ってくれ。そうじゃないやつは……」あたりをねめつけながら、マクレンドンは袖で顔をぬぐった。

 三人の男立ち上がった。セールスマンが椅子の中で身を起こした。「おれもいくぞ」そういうと、首のまわりの布をぐいっと引っ張る。「こんなぼろ布どっかへやってくれ。おれも一緒にいくぞ。そりゃ、ここの人間じゃない。だがおれたちのおふくろや、女房や妹たちが……」その布で顔を拭うと、床にたたきつけた。マクレンドンは立ったまま、ほかの者たちをののしった。するともうひとりが立ち上がり、そちらへ寄っていく。残った者は、落ち着かなげな顔ですわっていたが、互いに目を合わせないようにして、ひとりずつ立ち上がると、マクレンドンの側についた。

 理髪師は床から布を拾い上げ、ていねいに畳んだ。「みなさん、そりゃいけません。ウィル・メイズはそんなことはしない。あたしはやつを知ってんだ」

「いくぞ」マクレンドンがいった。向きを変える。後ろのポケットには、ごついオートマティック銃の台尻がのぞいていた。一同が出ていく。スクリーン・ドアが閉まるバタンという音が、死んだような空気のなか、ひどく大きく響いた。

 理髪師はカミソリをすばやく丁寧にぬぐって片づけ、奥に駆け込むと壁の帽子を取った。「できるだけ早く帰ってくるよ」と、ほかの理髪師に声をかける。「そんなことさせるわけには……」小走りに店を出た。残ったふたりの理髪師は、後を追って戸口に向かうと、跳ね返ってきたドアをつかまえ、そこから身を乗り出して、通りを走っていく仲間を見送る。外気は澱んで死んだようだった。舌の付け根に金気の味が残る。

「やつに何ができるってんだ」ひとりがそういうと、もうひとりは「まったくひでえ話だ」と息をひそめた。「おれなら喜んでウィル・メイズになるね、ホークになるくらいなら。マクレンドンをあんなに怒らせちまったんだからな」

「まったくもう、どえらいことだぜ」二番目の男はひっそりといった。 「あんた、ほんとにウィルがあの女にやったと思うか?」と最初の理髪師は聞いた。


II

 彼女は三十八か、九になっていた。病身の母親と、痩せて顔色が悪い割には衰えを見せない叔母といっしょに、小ぶりの板張りの家に住んでいたが、毎朝十時か十一時までには、レースのふち飾りがついたつばのない帽子をかぶった姿でポーチに現れると、昼までそこに吊ってあるブランコ椅子に坐って、ゆらゆらと揺れているのだった。昼食がすむと、昼下がりの涼しくなるころまでしばらく横になる。それから、毎年夏になると作る三、四着の新しい薄手のドレスのうちのひとつを身にまとって、街へ繰り出し、店に入ると、ほかの女と一緒に品物をいじくりまわしながら、愛想も遠慮もない調子で値切ったりして、午後いっぱいを過ごすのだった。

 彼女は豊かな家の出だったし――ジェファーソンで最上、とまではいかなかったが、十分に良い家柄と言えた――、十人並みの顔立ちではあるものの、まだ華奢な身体つきを失ってはおらず、仕草もドレスも、どこかやつれてはいるが、ぱっと明るいものだった。若い頃は、痩せて神経質な体つきの、一種、手強い快活さのようなものを持っていたために、街の社交界、ハイ・スクールでのパーティや教会の親睦会といった場で、同年代の友人たちが未だ子供らしく、階級意識に目覚めていないうちは、花形でいられた。

 自分がその地位から滑り落ちつつあること、つまり、自分よりも、さえない、地味な炎でしかなかった仲間たちが、いつのまにか嬉々として紳士を気取っていたり(男の場合)、仕返しを楽しむようになっていたり(女の場合)していることを、彼女はなかなか認めようとしなかった。そのころから顔には、明るいけれど、どこかやつれた色合いが浮かぶようになっていた。それでもなお、マスクか旗印のようにその表情を貼り付けて、日陰のポーチや、夏の庭で催されるパーティに出向いていたのだが、目には、真実など決して認めようとしないつもりでも、そうしきれないところから来る当惑が現れていた。だがある晩、パーティの場で、もとは同級生だった青年とふたりの女の子が話しているのを耳にして以来、どんなパーティに招待されても応じることはなくなったのだった。

 自分と一緒に大きくなった娘たちが、結婚して家庭を持ち、子供を生んでいくのを彼女はじっと見ていたが、自分には定期的に訪ねてくるような男は現れなかった。そのうち、仲間の子供たちが彼女を「おばちゃん」と呼ぶようになり、母親の方が、ミニーおばちゃんは子供のころすごーく人気があったのよ、と、明るい声で話すようになる。さらに数年がすぎてから、街の住人たちは、彼女が毎週日曜の午後、銀行の出納係といっしょにドライブに出かけるのを見かけるようになった。四十代のやもめで、いつもかすかに床屋かウィスキーのにおいをさせている、血色のいい男である。街で最初に自家用車――赤い小型車――を持ったのはこの男で、いっぽうミニーは、この街初のドライブ用のヴェールつきの帽子の持ち主となった。街の住人たちは「かわいそうなミニー」だの、「だけど自分の始末は自分でつけられる頃合いだ」だのというのだった。ちょうどそのころ、彼女は昔の同級生たちに、子供に「おばちゃん」と呼ばせるのはやめて、「いとこのおねえちゃん」にしてよ、と頼んだのだった。

 彼女が世間から「姦通」の烙印を押されて、いまでは十二年がたつけれど、出納係の方は八年前にメンフィスの銀行に移動になり、毎年クリスマスの季節になると、一日だけジェファソンに戻ってきて、狩猟の会が川縁で開く独身者の集まりに出るのだった。近隣の人々はカーテンの内側から、一行が通り過ぎていくのを眺め、クリスマスのお祝いを言いに彼女の下を訪ねては、あのひと、元気そうだったわよ、とか、メンフィスではなかなか羽振りがいいらしいですね、とか言いながら、密かに目を光らせて、彼女のやつれた、明るい顔を眺めるのだった。たいていその時刻になると、彼女の息はウィスキーの臭いがした。ウィスキーを差し入れてやるのは、ソーダ・ファウンテンの若い店員だ。

「そうだよ。おれがあのおばちゃんに買ってやってるのさ。おばちゃんだって、ちょっとは楽しくやる権利だってあるだろ?」

 母親はいまでは部屋に籠もりきりになっていた。家の切り盛りをするのは、ひからびたような叔母さんである。そうした状況を考えると、ミニーの派手なドレスや、怠惰でうつろな毎日は、極端なまでに現実味を欠いているようだった。いまでは彼女が日が暮れてから出かけるのは、近所の若い娘たちとだけ、映画に行くのである。毎日午後には、新しいドレスを身にまとって、街中にたったひとりで出かける。そこではすでに若い「従姉妹たち」、ふんわりとした絹糸のような髪の毛や、細くぎこちない腕、つい意識してしまう腰のもちぬしたちは、互いに腕をからませて昼下がりの通りをぶらぶらしたり、ソーダ・ファウンテンにいるふたり組の男の子ときゃあきゃあいったり、クスクス笑ったりしているのだった。そこを彼女が通り過ぎ、軒を並べる店の前を歩いていっても、店の入り口に腰をおろしてブラブラしている男たちは、もはやその姿を目で追うことすらしなくなっているのだった。


III

 理髪師は通りを急いだ。まばらな街灯には羽虫が群がり、死んだような夜気のなかに、固い暴力的な光をぎらぎらと投げかけている。太陽は立ちのぼる砂ぼこりの間に沈み、暗くなった広場は疲れ果てた砂ぼこりに閉ざされていたが、上空は真鍮の鐘の内側のように澄んでいた。東の空低くには、二倍にも膨れた月がのぼりかけようとしていた。

 理髪師が追いついたとき、マクレンドンと三人の男は、路地に停めていた車に乗り込むところだった。マクレンドンは髪の毛の多い頭をかがめて、車の屋根の下から外を見た。「気が変わったか? そいつは感心だ。まったく、明日になって、さっきの口のききようが町の人間の耳にでも入ったことなら……」

「まぁいいじゃないか」もうひとり、兵隊上がりの男が言った。「ホークショーなら大丈夫だ。さぁ、ホーク、早く乗れよ」

「絶対に、ウィル・メイズはやってない」理髪師がいった。「万一やった人間がいたとしても。あたしだけじゃない、みんなだってこの町みたいにいい黒ん坊のいるところはどこにもないって知ってるはずだ。それに女ってものは、たとえ理由なんてなくても男のことをいろんなふうに考えるもんだ、ってこともよく知ってるでしょう。ミス・ミニーときたら、とにかく……」

「わかった、わかった」兵隊上がりが引き取った。「おれたちはこれからやつとちょっと話をするだけさ。それだけだよ」

「話だなんてとんでもない」ブッチがいう。「そんなことはとっくに終わって……」

「頼むから、いいかげんにしてくれよ」兵隊上がりが割り込んだ。「町中の人間みんなに……」

「聞かせてやりゃいいじゃないか」マクレンドンがいう。「みんなに教えてやれよ、白人の女をみすみす……」

「さぁ行こうぜ、もう一台車が来たぞ」

 路地の入り口に砂ぼこりをまきあげて、二台目の車がタイヤをきしませながら入ってきた。マクレンドンは自分の車を発進させて、先に走り出した。砂ぼこりが霧のように通りにたれ込めている。街灯のまわりには、水の中の明かりのように、おぼろな輪ができていた。車は街の外に出る。

 わだちのついた狭い道は直角に曲がりくねる。道にも、そこだけでなく地上のあらゆるものの上にも砂ぼこりは立ちこめていた。製氷工場の暗い大きな建物が、空にそびえている。黒人のメイズはここで夜警として働いているのだった。

「ここに停めておこう」兵隊上がりがいった。マクレンドンは返事をしない。そのまま荒っぽく走らせ続け、やおらブレーキをかけた。ヘッドライトがのっぺらぼうの壁をぎらぎらと照らす。

 「頼むから聞いてくださいよ」理髪師がいった。「もしやつがここにいるんなら、それこそやってないってことになりませんか? 何かしたんだったら、逃げてます。そうするはずじゃありませんか?」

後続の車が続いて止まった。マクレンドンは自分の車から下りる。ブッチも飛び出してきて、ぴったりその横についた。「聞いてください」理髪師がいった。

「ライトを消すんだ!」マクレンドンが命じた。息がつまりそうな闇が押し寄せる。音のない世界に聞こえるものといえば、この二ヶ月、乾ききった砂ぼこりのなかで過ごした彼らの肺が、空気を求めて呼吸する音だけだった。やがてマクレンドンとブッチのざくざくと砂利を踏み敷く足音が遠ざかっていき、マクレンドンの声が響いた。

「ウィル! ……ウィル!」

 東の空低く、病んだ血が流れ出して滲んだような月がのぼってくる。山の背の上に姿を現した月は、大気も砂ぼこりも銀色に照らしだし、そのために、彼らの姿は、溶けた鉛のボウルのなかで、生き、呼吸しているように見えた。夜啼く鳥の声も、虫の声すらせず、耳に響くのは、彼らの息と、車の金属が冷えて収縮するピキッ、ピキッという微かな音だけだ。お互いがふれたところからは、乾いた汗が吹き出してくるような気がした。もはや身体のどこにも水気が残っているようには思われなかったからである。

「畜生」だれかがいった。「はやいとこ出ていこうぜ」

 だが、だれもその場から動こうとはしない。すると前方の暗闇からかすかな音が聞こえてきた。一同は車から下りると、息づまるような闇のなかで、緊張しながら待った。ちがう音が聞こえてくる。殴りつける音、ヒューッと息を吐く音、マクレンドンの抑えた罵り声。身動きすらできない一瞬が過ぎ、みないっせいに駆けだした。なにものかに追い立てられでもしているかのように、よろめきながらひとかたまりになって走る。「やっちまえよ、殺すんだ」囁く声がする。マクレンドンは乱暴に一同を押し戻した。

「ここじゃない」マクレンドンがいった。「車に乗せるんだ」「やっちまえ、殺してやるんだ」声がつぶやく。みなは黒人を車まで引きずっていった。理髪師は車の脇で待っていた。おれは汗をかいている、そのうち吐きそうになってくるんだ、と感じながら。

「いったいどうしたっていうんです」黒人が言う。「あたしは何もしちゃいません、神に誓って。ミスター・ジョン」手錠を差し出す者があった。一同はあたかも黒人が柱で、自分たちがそのまわりで忙しく働いてでもいるかのように、お互いがやっていることの邪魔をしながら、押し黙ったまま、必死になって動き回った。黒人はなずがままに手錠をはめられ、ぼんやりと浮かび上がる顔から顔へ、きょろきょろと視線を泳がせている。「みなさんは、どちらさんなんでしょうか」そういって頭を前に突き出し、顔をのぞき込もうとしたので、まわりの者にはその息がかかり、汗くさい体臭が鼻をついた。名前をひとつかふたつ、口にした。

「いったいあたしがなにをしたっていうんです、ミスター・ジョン」

 マクレンドンは車のドアをぐっと引いて、「乗れ」と命令した。

 黒人は動こうとしない。「みなさんは、あたしをどうなさるおつもりなんです、ミスター・ジョン。なんにもやっちゃいません。白人のみなさん、旦那がた、あたしはなにもしてないです、神かけて、なんにも」そうして、ちがう名前を呼んだ。

「とっとと乗るんだ」マクレンドンはなおもいった。黒人をなぐる。ほかの者も、かわいた息をひゅうひゅうと喘がせながら、手当たりしだいになぐりつけると、彼のほうもよろめきながらも罵り声をあげ、手錠をはめられたままの両手を、まわりの顔めがけてふりまわし、理髪師の口をしたたかに打ちすえたので、理髪師もなぐりかえす。

「やつを乗せるんだ」マクレンドンがいった。みなで車の中へ押し込む。暴れるのをやめた黒人は車に乗り、おのおのが席につくまで静かに坐っていた。理髪師と兵隊上がりにはさまれて、身体が触れることのないよう、できるだけ身を縮めて腰かけ、目だけは忙しく顔から顔へと走らせ続けている。ブッチは車のステップに足を乗せて、しがみついた。車が動き出す。理髪師はハンカチを口に当てた。

「どうしたんだ、ホーク」兵隊上がりが聞いた。

「なんでもない」と理髪師は答える。車はふたたび本道に戻り、街とは反対の方角に進む。後続の車は砂ぼこりのなかに見えなくなってしまっていた。車はスピードをあげて走り続ける。町はずれの最後の家も、通り過ぎてしまった。

「畜生、こいつぁ臭いぜ」兵隊上がりがいった。

「その臭いもじきしまいだ」マクレンドンの隣の席にいるセールスマンがいった。ステップに乗っているブッチは、おしよせる熱風に向かって悪態をついている。理髪師は急に身を乗り出すと、マクレンドンの腕にふれた。

「ジョン、おろしてもらえないか」

「飛び降りろよ、黒ん坊贔屓め」マクレンドンは振り返りもしない。スピードは上げたままだ。うしろから、姿の見えない二番目の車のヘッドライトばかりが、砂ぼこりをまぶしく照らし出していた。やがてマクレンドンは細い道に入っていく。普段使ってないために、でこぼこになった道だ。その先にあるのは、もう使っていない煉瓦の焼き窯で、赤みを帯びた盛り土が並び、雑草や蔓草に覆われた底が抜けた大窯がいくつもうち捨てられた場所だった。後に放牧場として使われたこともあったが、それもラバが一頭、いなくなる日までのことだった。牧場主は長い棒で大窯をいくつもつついてみたが、窯の底さえ見つけられなかったのだった。

「ジョン」理髪師がいった。

「飛び降りろっていったろ」マクレンドンはでこぼこの道を飛ばし続ける。理髪師の横で、黒人がいった。
「ミスター・ヘンリー」

 理髪師は坐ったまま身を乗り出した。狭いトンネルのような道が、突進してきては過ぎ去る。その速い流れは、火の消えた溶鉱炉から吹きつけてくる爆風を思わせた。冷たい、完全に死滅している風だ。車は轍から轍へと弾みながら進んだ。

「ミスター・ヘンリー」黒人がもういちどいった。

 理髪師はドアの取っ手を狂ったように引っ張った。

「気をつけろ、危ないじゃないか」兵隊上がりがいったが、そのときはすでに理髪師はドアを蹴り開け、ステップの上に身を移していた。元兵士は黒人の上におおいかぶさって理髪師の身体をつかもうとしたが、理髪師はすでに身を躍らせていた。車はスピードをゆるめることなく走る。

 勢いのついた身体は、ほこりまみれの草をなぎ倒しながら転がり、溝の中へ投げ出された。まわりで砂ぼこりが舞い上がり、枯れた茎が耳元でかすかな、悪意の感じられる音をぱきぱきとたてる中で、息をつまらせてからえづきしながら横になっていた。二台目の車が通り過ぎ、そのエンジン音もやがて聞こえなくなる。立ち上がり、足を引きずりながら本道に出ると、手でほこりを払いながら、街のほうへ歩き出した。

月はずいぶん高くなって、砂ぼこりがただよっている層を越え、澄んだ空にのぼっている。しばらくすると砂ぼこりの向こうに光る街の灯が見えてきた。足をひきずりながらなおも歩いた。そのうち車の音が聞こえてきて、背後の砂塵を照らすヘッドライトが次第に大きくなってきたので、道を離れて雑草のなかにうずくまって、車をやり過ごした。マクレンドンの車が後になっていた。そこに乗っていた人間は四人で、ブッチはもはやステップに立っていなかった。

 車は行った。砂ぼこりが後ろ姿を飲み込んでしまう。テールランプもエンジンの音も消えた。車が巻き起こした砂ぼこりもしばらく漂っていたが、じきに果てしない砂塵のなかに飲み込まれてしまった。理髪師は道の上によじのぼり、足をひきずりながら街を目指した。


IV

 同じその土曜日の夕方、食事に出かけるために服を着替えようとしていた彼女は、自分の身体が熱そのものになってしまったように感じた。ホックを留め金にかけようにも、手はぶるぶると震え、目は熱に浮かされたよう、梳かしても髪は縮れてくしゃくしゃになるばかりで、櫛の下でパチパチいった。身繕いも整わないうちに仲間たちが呼びに来て、極薄の下着とストッキング、新品のドレスを身につけるのを、坐って見ていた。

「もう外に行けるくらい元気になったの」そういう仲間たちの目も、暗い輝きを帯びている。「ショックから立ち直れるぐらい時間がたったら、何が起こったのか、聞かせてね。あいつがどんなことを言って、何をしたのか。なにもかもよ」

 木陰のほの暗い道を、みんなで広場のほうに向かって歩きながら、彼女はまるでこれから水中に潜りでもするかのように、深呼吸を始めた。すると震えは止まった。ひどく暑かったし、彼女を気遣ってもいたために、四人はゆっくりと歩いていた。けれども広場に近づくと、ふたたび身体は震えだし、頭を昂然と上げ、手で両脇をぎゅっとつかんで歩いた。ぶつぶついっている彼女に話しかける娘たちの声も熱を帯びてきて、その目はきらきらと輝いていた。

 娘たちは、真新しいドレスに身を包んでいまにも倒れそうな彼女を真ん中にして、広場に入っていった。身体のふるえはいっそうひどくなる。アイスクリームを食べるときの子供が、だんだん食べる速さを遅くしていくように、彼女の歩みもだんだんのろくなっていった。頭をぐっともたげて、やつれがくっきりと浮かぶ顔に目だけを輝かせながら、ホテルの前を通り過ぎる。歩道沿いの椅子に上着を脱いで腰かけているセールスマンたちが、彼女をじろじろと見定めた。

「あれだ、あの女さ、真ん中の、ピンクの服だ」
「あの女がそうなのか。で、黒ん坊はどうなったんだ? 連中が……」
「もちろんさ、やつのことはもう大丈夫さ」
「大丈夫だって?」
「ああ、そうだ。やつはちょっと旅行に行ったんだよ」

それからドラッグ・ストアの前にさしかかる。入り口でたむろしていた若い男たちまでが帽子を心持ちあげて挨拶し、通り過ぎていく彼女の腰や脚を目で追った。

 四人はなおも歩き続けたが、すれちがう紳士たちは帽子をあげて挨拶し、あたりの話し声は、敬意を表し、護ってやろうとでもするかのようにふっつりと止んだ。

「見たでしょ?」仲間がいった。娘たちの声は長く余韻を残す、喜びのため息のようだった。「広場には黒ん坊なんていない。たったのひとりも」

 娘たちは映画館についた。そこはまるでミニチュアのおとぎの国のよう、ロビーは明るく照らされ、生が怖ろしくも美しい突然変異を遂げた瞬間をとらえた色つきのリトグラフが飾ってある。彼女の唇はひくつき始めた。暗くなって映画が始まってしまえば大丈夫、笑いたい気持ちがあっというまにしぼんでしまわないように、引き留めておくことだってできるわ。だから彼女は、ふり返る顔や、さざなみのような驚きの声のあいだを縫って急ぎ、四人はいつもの席に腰をおろした。そこからは銀色の光を背に、通路と、若い男女がふたり連れで入ってくるのがよく見える。

 明かりが消えた。スクリーンが銀色に輝くと、すぐに人生の幕が開き、美しく情熱的で悲しい物語が始まった。そのときになっても、若いカップルたちは、薄暗がりの中を、香水の匂いをさせ、ささやき声を交わしながら入ってくる。一対の後ろ姿の影は繊細で美しく、たおやかでいきいきとした身体はどこかぎこちなく、神々しいほど若さにあふれているのだった。彼らの向こうでは、銀色の夢が、いつしかつぎつぎと積み重なっていた。彼女は笑い始めた。抑えようとすればするほど、いっそう笑い声は大きくなる。頭がいくつもふり返る。なおも笑い続ける彼女を、仲間たちは立ち上がらせると、外へ連れ出したが、歩道脇に立っても、甲高い笑い声は収まらず、仲間たちは手を貸してなんとか彼女をタクシーに乗せてやったのだった。

 ピンクのドレスや薄い下着、ストッキングを脱がせ、ベッドに寝かせると、氷を砕いて額を冷やしてやり、医者を呼ぶ。医者の居場所がわからなかったので、ほかの娘たちは、叫びだそうとする彼女をあやしたり、氷を取り替えたり、うちわであおいでやったりと世話をしたのだった。替えたばかりの氷が冷たい間は、彼女も笑うのをやめておとなしく横になり、わずかに呻き声をあげるぐらいだった。だがじきに、また笑いの発作が起こって、甲高い声をあげ始めるのだった。

「シィィィィ! シィィィィ!」娘たちはそういいながら、氷嚢を交換し、髪をなでてやっては白髪を見つけた。
「かわいそうなひと」娘たちはそう言い合う。「ほんとに何かあったんだと思う?」目を暗く輝かせ、声を忍ばせて、夢中になってそう言い合う。
「シィィィィ! かわいそうなひと。かわいそうなミニー」


V

 夜中、マクレンドンは車で、ま新しく小綺麗な自分の家に戻った。手入れがいきとどいた新品の鳥籠のような家で、また鳥籠のように小さく、緑と白に塗ってある。車をロックし、階段をあがって中に入った。妻が電気スタンドのかたわらの椅子から立ち上がった。マクレンドンは歩を止めてにらみつけたので、妻は目を伏せた。

「何時だと思ってるんだ」手を上げて指さす。マクレンドンの前に立つ妻は、雑誌を両手でにぎりしめ、うなだれた。その顔は青ざめ、緊張し、疲労の色が濃い。

「おれの帰りを待って、こんな時間まで起きてちゃいけないといっただろう」

「ジョン……」雑誌を下におろす。マクレンドンは爪先立ちになって、顔から汗をしたたらせながら妻をにらみつけた。

「おれはそう言わなかったか」妻のほうに近寄る。彼女は顔を上げた。マクレンドンはその肩をつかむ。されるがままになりながらも、夫の顔からは目を離さない。

「やめて、ジョン。わたし、眠れなかったの。この暑さですもの。それだけじゃない、何かよくわからないけれど。やめて、ジョン、痛いわ……」

「おれは言わなかったか」マクレンドンは手を離すと殴り飛ばした。椅子に倒れ込んだ妻は、横たわったまま、部屋をでていく夫を静かに見送った。

 シャツを引きはがすようにしながら、家の中を通り抜け、網戸を張った暗い裏口に出て、シャツで頭や胸や背中の汗をぬぐい、そのまま投げ捨てた。後ろのポケットからピストルを引き抜き、ベッドサイドのテーブルにおく。ベッドに腰かけて靴をぬぎ、立ち上がってズボンを脱いだ。それだけでまた汗まみれになっている。立ち尽くして、気が狂ったようにシャツを探す。やっと見つけてそれで身体をぬぐうと、ほこりまみれの網戸にその身体を押しつけたまま、喘いだ。動くものも、物音もなく、虫の鳴き声さえ聞こえない。冷たい月と、まばたきもしない星の下で、暗い世界は傷ついて横たわっているようだった。



The End



初出 Sep.3-11,2005 改訂 Sep.13,2005





重箱の隅をつついてみよう

 『乾いた九月』は1931年雑誌『スクリプナーズ』に発表され、後に"These 13"(『これら13編』というタイトルどおり、13編の短編を集めたもの)に所収されたもので、フォークナーの34歳のときの作品。その前年に長編『死の床に横たわりて』、1932年に最高傑作ともいわれる『八月の光』を発表していることを考えると、まさに円熟期の作品といえるだろう。

 フォークナーの多くの作品が、時間の推移によって語られていないために、何が起こったのかたどるのさえ一苦労、といったことが多いのに対し、この『乾いた九月』では何が起こったかは鮮明である。

 ひとりの女性がついた嘘が、黒人のリンチ殺人を生み出す、というものである。

 ただし、中身はそれほど単純なものではない。

 この短編はこの文章から始まる。

Through the bloody September twilight, aftermath of sixty-two rainless days, it had gone like a fire in dry grass---the rumor, the story, whatever it was.

 この"bloody September twilight"を、わたしは「なにもかもが血に染まったような九月のたそがれどき」と訳してみたのだけれど(ちなみに新潮文庫の龍口直太郎訳では「血のような色をしたその九月のたそがれ」となっている)、このbloodyは当然、このあと起きる事件を暗示している。実際、リンチは暗示されるだけで、血が流れるシーンは、ウィルが暴れてホークショーの口が切れるただ一カ所だけだ。にもかかわらず、全体を貫くやりきれないほど暴力的なイメージは、この冒頭の描写からすでに始まっていると見て、まちがいはない。

 第一章の舞台となるのは、床屋。洋の東西を問わず、TVのワイドショーがなかった時代、ゴシップが集まり、拡大していく場は床屋だったらしい。理髪師のホークショー、「黒ん坊」ではなく「ウィル・メイズ」、「白人の女」ではなく「ミス・ミニー」と固有名で呼び、事実を重んじようとする、いわば理性を代表する人物である彼の肌の色はsand-colored、つまり、真っ白ではない。

 そこにやってくるのがマクレンドン、彼は第一次世界大戦の英雄として登場する。こののちの行動も、彼にとっては戦争の続きなのだ。

 マクレンドンとホークショーは「異人種のように」対立する。マクレンドンが行動(すなわち、黒人に対する制裁)を求めるのに対し、「事実」と「保安官」(に代表される法の裁き)を求めるホークショー。けれども、この対立は、もともとずれているのだ。

 マクレンドンが"Happen? What the hell difference does it make? "(私訳では「ほんとうに起こったか、だと? 起ころうが、起こるまいが、どれほどのちがいがあるっていうんだ」)というように、南部の男にとって、南部の白人女性は「守るべき存在」で、たとえ事実でなく、噂だけであっても、自分たちはそうしたことを許さないということを示す必要がある。

ホークショーがどれほど目を見返したとしても、ホークショーはマクレンドンを止めることはできないし、多くの人間(途中、マクレンドンに反対した「兵隊あがり」までも、マクレンドンの行動に荷担することになる)はマクレンドンの側につく。そうして、ホークショーが後を追う。この構造は、のち、ウィル・メイズを車に乗せていくことになる場面でも、そっくり繰り返されることになる。

 二章、ミス・ミニーは毎日十時頃からお昼までboudoir capをかぶって、ポーチのブランコ椅子に坐っているのだけれど、このboudoir cap、おそらくは従来の訳にあるようなナイト・キャップではなく、1920年代のフラッパーがかぶっていた帽子(※画像)のほうではないかと思う。何かよくわからないけれど、着飾って、自分でもよくわからない何かを待っている、という感じなのだ。

 まずミス・ミニーの家族構成が語られるけれど、ここで押さえておきたいのは、父親がいないこと。つまり、まずまずの名家であっても、父親がいないために社会的には没落しつつあり、そのために「こぶりな板張りの家」に住むことを余儀なくされ、高校のクラスメートたちからも取り残される。だが、なまじ名家なだけに、庶民と結婚するわけにもいかず、「嫁き遅れ」を余儀なくされたミス・ミニーのバックグラウンドが明らかになっている。おそらくそのために、やもめの銀行の出納係と結婚をするわけにもいかないのである。 

 それでもミス・ミニーは全面降伏したわけではない。彼女が毎年作る派手な服にしても、毎日、街中に出かけていくことにしても、彼女は自分の魅力を信じたがっているし、ふり向かれたがっていることの証左である。
 事実、第四章では、ふたたび彼女は街の視線の中心に返り咲いたのである。ミス・ミニーが噂の発祥地であることが、こうして暗示されている。

 第三章は、息詰まるような場面が連続する。具体的な暴力のシーンは驚くほど少ないけれど、空気も砂ぼこりも月も、死のにおいが満ちている。原文では"lifeless air"、"spent dust"、"wan hemorrhage of the moon"など。みなさんもこうしたメタファーの訳語を考えてみてください。

 もうひとつ、月の描写は、ホークショーの行動とも密接に関連している。ウィル・メイズを待っているときは「東の空低く、病んだ血が流れ出して滲んだような月がのぼってくる」だったのだが、ホークショーが車から離れると、つまりリンチの群れから逃れ出たときには「月はずいぶん高くなって、砂ぼこりがただよっている層を越え、澄んだ空にのぼっている」。飛び降りたホークショーの心情が暗示されているのだ。

 ウィル・メイズはどうなったのか。わたしたちに明かされる情報は、帰りの車は人がふたり減っているということ。ひとりは飛び降りたホークショーであり、もうひとりはもちろんウィル・メイズ。おそらく行方不明になったロバの死体と同じあたりにあるのではないだろうか。

 そうしてdust、第三章をずっと覆っていた砂ぼこりは、ウィル・メイズの死が暗示されたところで何もかも呑み込んで、消えてしまう。

 第四章の冒頭で、以下のことが起こるのが、同じ日のほぼ同時刻であることが明らかになる。噂の張本人のミス・ミニーがどうなったか。

 ミス・ミニーが笑い出すのは何を見たときか? スクリーンに映る絵空事の前に並ぶ現実のカップルを見たときだ。カップルの姿は、ミス・ミニーが手に入れられなかったものを、残酷なまでに浮かび上がらせる。

 第五章、マクレンドンの家を見てみよう。マクレンドンの家は「鳥籠」のよう、と描写される。マクレンドンは何に閉じこめられているのか? それは暴力や偏見の側に立つものは、暴力の環の中から逃れられない、ということではないのか。

 マクレンドンの前に広がる世界は、「動くものも、物音もなく、虫の鳴き声さえ聞こえない。冷たい月と、まばたきもしない星の下で、暗い世界は傷ついて横たわっているようだった」。

 

 マクレンドンの前に広がる世界は「月はずいぶん高くなって、砂ぼこりがただよっている層を越え、澄んだ空にのぼっている」夜空の下を、足をひきずりながら歩くホークショーが見た世界とは、ずいぶん異なっている。

 フォークナーは南部の白人の男にとって黒人は「白人種の罪の宿命と呪詛の一部となるべく宿命づけられ、呪われている」(『八月の光』)存在だと記す。人間というより、その存在を前にしたとき、自分自身が宿命づけられている罪や呪いが、否応なくあぶりだされる象徴だというのである。そのために白人は、自分の「男らしさと血統」(『墓場への侵入者』)を主張するために、黒人を抹殺しなくてはならない、というオブセッションにかられるのである。

 そしてまた、フォークナーの作品のいくつかに登場するオールド・ミス同様に、ミス・ミニーもまたオブセッションに取り憑かれている。美しく、幸せになれるはずだったのに、いつの間にか幸せが手の間から滑り落ちてしまっている。その結果、『エミリーに薔薇を』のミス・エミリーは現実から遠ざかり、不毛な幻想の世界に逃避していく。  しかしミス・ミニーは逃避しない。不似合いなまでに派手派手しく着飾り、それでも男の視線をとらえることができなくなって、それでも自分が「若い女」であることを証明するために、いよいよ最後の手段として、陵辱の噂を広めるのである。

 熱気と乾燥、砂ぼこりのなかで、人々が抱えているそうした潜在的な狂気が爆発する。それは、ウィル・メイズの抹殺という形をとって現れる。けれども、それがこの事件だけで終わらないこと、一行の車が「永劫の砂ぼこり」に呑みつくされたように、そのオブセッションに常に呑み込まれてしまっているのだ。

 そうして車から飛び降りたホークショー、なんとかしようとしてはみたものの、一行を押しとどめるにはあまりにも無力で、みずからも暴力の一端に加わりながら、それでも決定的な場面に加わることは拒否するホークショーは、傷つきながらも、また自分が生まれた「南部」に戻っていくのである。

 ノーベル賞受賞後のフォークナーは、ヴァージニア大学で、主人公の心的態度には「三つの段階がある」と語った。

 ……第一段階の人はこう言う――この世の中は不潔だ、それにかかわりをもつくらいなら、死んだ方がましだ。第二段階の人はこう言う――この世の中は不潔だ、気にくわないが、どうすることもできない、せめてそんなものにかかわりあうことはよして、洞窟にひきこもるか、高柱にのぼって鎮座していよう。第三段階の人はこう言う――この世の中は臭い、それをなんとかしよう……

(「大学におけるフォークナー」F.J.ホフマン『フォークナー論』審美社 からの孫引用)

 足を引きずりながら街へ帰っていくホークショーの姿には、おそらくフォークナーの願望がこめられている。かすかな希望が暗示されているのだ。


初出Sep.13, 2005、補筆Oct.5,2005
 



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