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坐る男 坐ったままでどうぞ 坐る女


――存在は裸形をおそれて、幻影をまとうのだ
市川浩『精神としての身体』

【注】「すわる」の表記に関しては、当用漢字では「座る」という字が当てられています。
本来、この「座」という字は「すわる場所」の意で、「すわる」という動作には「坐」が当てられていました。ところが「坐」が当用漢字からもれてしまったために、「すわる」にも「座」が当てられるようになった、という経緯があります。現在では「座る」と「坐る」が入り乱れ、このログが多くを拠っている多田道太郎氏の著作でも、1972年初版の『しぐさの日本文化』では「坐る」が、2002年初版の『からだの日本文化』では「座る」が当てられています。
ここでは地の文では「坐る」で統一していますが、引用に関しては原文の表記を尊重しています。多少読みにくいところがあるかと思いますが、ご理解ください。


1.しゃがむ姿勢を覚えていますか


最近の小学校では、入学前の子供を持つ家庭に、和式トイレで用が足せるよう指導してください、と通達するらしい。昨今の家庭のトイレはほとんどが洋式、つまり便座に腰かけて用を足すスタイルだが、学校はいまだに大部分がしゃがんで用を足す和式水洗トイレである。ところが入学までに「しゃがむ」という姿勢を取ったことのない子供が少なからずいて、そんな子は学校のトイレが使えない。となると、学校としては「しゃがんで用が足せる」よう、各家庭に訓練を求めざるをえない。わたしが話を聞いた小学校の先生は、「字なんて書けなくてもいい、しゃがんでトイレだけできれば」と言っていた。1973年に「しゃがむ姿勢はカッコ悪いか」と本多勝一が書いた「しゃがむ姿勢」は、ここまでわたしたちの日常生活から縁遠いものになってしまったのである。

1980年代のことだが、当時すでに日本中に普及していたコンビニエンス・ストアの前で、ヤンキー(アメリカ人の意にあらず。アクセントは「キ」)と呼ばれる人々が坐っている格好は「ヤンキー坐り」と呼ばれていた。あの姿勢はまぎれもなく「しゃがむ」だったのだが、あまりあれを「しゃがんでいる」とは言わなかったように思う。むしろ「ヤンキー坐り」または「ウンコ坐り」などという呼称の方が広く行き渡っていたのではあるまいか。

確かにそばに寄るのもはばかられるような、独特の目つきであたりを睥睨していた彼らの姿勢は、「しゃがむ」という言葉では言い尽くせない雰囲気があったようにも思う。だが、当時彼らを除けば人前でしゃがむような人もおらず、「しゃがむ」という言葉自体が日本語のなかでずいぶん影が薄くなってもいた。「ウンコ坐り」という言葉に見て取れるように、当時すでに、しゃがむ姿勢はもっぱら用足しの姿勢として意識されていたように思う。

さて、多田道太郎の『しぐさの日本文化』のなかには、二章が「しゃがむ」に当てられている。

 しゃがむというのは、どうにも恰好のとれない姿勢であるらしい。トイレの中は別として、少なくとも公衆の面前でしゃがむのは不体裁この上もない姿勢とされている。いわば文明によって禁圧されている姿勢、それがしゃがむ姿勢である。

(多田道太郎『しぐさの日本文化』筑摩書房 1972)

「文明によって禁圧されている姿勢」と、ずいぶんものものしいが、同書で多田はしゃがみこんだためにひどく叱責された経験が二度あったことをあきらかにしている。昔は農夫にしろ職人にしろ、ひょいとしゃがんで休んでいたし、それをとがめる人もいなかったというのに。これはいったいどうしたことか。

 文明は、人に立つか歩くか走るか、それともすわるか寝るか、を命じている。しゃがむというのは、寝るでもなく、立つでもなく、その中間にあって、京都弁でいうアアシンドにあたる身体的表現であろう。一般に「アアシンド」はごく評判がわるい。すでに江戸の文人が京都の芸者は座敷にはいるなり「アアシンド」と言う、と憤慨していた。客の顔を見るなり「アアシンド」とは何事か、というわけだ。…(略)…文明生活の圧迫にたいし、アアシンドといいつづける人間の性根が彼らには理解しにくいわけで、したがって、芸者の「アアシンド」にまで、いちいち腹が立ってくるわけだ。

「しゃがむ姿勢」に文明人が不快感をもち、腹を立てるのも、この「アアシンド」に対する反感とまったく同じであって、下から見上げる者のイロニックな抵抗に対し、本能的な不快感をもっているのである。

「文明は、立つか歩くか走るか、それともすわるか寝るかを命じている」という指摘は興味深い。文明というと話が大仰になってくるのだが、わたしたちが日々を送っている現代社会は、「ON」と「OFF」を厳しく分ける社会である、といってもいいかもしれない。たとえばオフィスで就業途中、「アアシンド」としゃがんで一服されたら、同僚は大変不快に感じるだろう。一服どころか、風邪でしんどそうな状態の人を見るだけで「病院へ行ったら?」「早く帰って休んだら?」と目の前から追い払おうとするにちがいない。学校でも同じだりう。

逆に、家のなかで「アアシンド」としゃがむ、というのも不思議な話で、OFFならば、もっとゆっくりできる恰好、つまり、坐るか寝そべるかすればいいのだ。確かにわたしたちの社会は、「立つか歩くか走るか、それともすわるか寝るか」を命じている。

しゃがむ姿勢はそれに「イロニック」に、つまり正面切ってではなく、斜に構えて抵抗する姿勢なのだろうか?

 話が柔道のことに飛ぶが、嘉納治五郎は「柔」の本義を相手にさからわないことにあると言った。相手にさからわず、自分の身体をひき、相手の余力にまかせる。すると相手はバランスを失い、こちらはバランスを保っている。……自分を絶対的に強くするよりも、相手を弱めるような状況を作りだすことで、その場かぎりの相対的な強さを自分のものとするということであろう。……

 まず……自分を弱者と規定する(あるいは思いこむ)ことである。そう規定することで、肝心のところで優位にたつ。つまり、弱者だからこそ弱者なりの安定をもとめ、その安定において、相手に立ちまさるのである。

これこそがしゃがむという「姿勢の哲学」であると多田はいう。そう言われてみれば、「ヤンキーの兄ちゃん」の「ヤンキー坐り」もそういうものであったのかもしれない。そうしてまた、いまのわたしたちがしゃがまなくなったのも、「自分を弱者と規定」したうえで、「弱者なりの安定をもとめ」なくなったからのかもしれないのだ。

いまのわたしたちは、働きながら「アアシンド」と声に出し、しゃがんで一休みしたのちにまた働き続けることよりも、「ON」と「OFF」を明確に分けたいのかもしれない。働いているわたしたち、勉強しているわたしたちは、何ごとかに一生懸命、つまりはケチのつけようがない「強者」である。
そしてまた、「OFF」でありながら人に相対するようなときは、多くの場合「消費者」として関わる。消費者は「お客様=神様」で、これまたやっぱり強者である。「弱者なりの安定をもとめ」るという指向性は、いまのわたしたちの生活とは相容れなくなっているのかもしれない。だからこそ、わたしたちはしゃがむ姿勢に「美しさ」を見いだせなくなっているのだろう。
しゃがむという言葉があるのに、あえて「ヤンキー坐り」だの「ウンコ坐り」だのという言葉をあてはめていたのは、そういう言葉であの姿勢をおとしめていたのだ。

さて、わたし自身が「しゃがんだ経験」として思い出すのは、三歳のときの記憶である。夏の暑い日、祖母につれられて停留所でバスが来るのを待っていた。ところがバスはなかなか来ない。すると祖母はついとしゃがんだ。そうして、わたしにもそうしろと言ったのである。暑いよ。ずっと立っとるとしんどぉなるよ。わたしは目の前を車や人が行ったり来たりするなかで、そんな体勢を取るのが恥ずかしく(ほかには誰もそんな恰好をしていないし、パンツが見えるし)、しかもしゃがんでしまえば足首が痛くなり、すぐに立ち上がった。立ち上がって上から見下ろした祖母の、白髪交じりの髪の毛が薄く、地肌が見えていたことをいまでもよく覚えている。
腰を地面につけて坐り、汚い、やめなさい、と叱られたのは、同じときの記憶だったのだろうか。腰を直接つけるのは汚い。だから腰を浮かせたまま、休む姿勢だということを、そのとき理解したように思う。

ところがそういう体勢になっていると、わたしはずっと足首が痛くなると思っていたのだが、腰が痛くなる人もいるらしい。
多田道太郎の『からだの日本文化』(潮出版社)には、鶴見俊輔の『生き方の流儀を求めて』から、「低いところにその本があったので、それをとってしゃがんでよみはじめ、読み終わったときには日がくれていた。トゥルゲネフの「ルーディン」という本で、そういう出会い方をする本は、もうこれからはないだろう。腰が痛くなるから」という部分が引用されている。

この箇所を読んで、わたしも確かに低いところにある本はしゃがんだまま取り出し、そのままの体勢で本を開いていることに気がついた。そう言われてみれば、いまでもしゃがむことがまったくないというわけではないのだ。
とはいえさすがに最後まで読んだりはしない。ほんの数ページめくって、もっと本格的に読みたいときには立ち上がる。めでたく「立ち読み」の体勢になって、そこから腰を落ち着けて(と、これはレトリック)読みはじめる。人生で少なからぬ本を、本屋で立ったまま読んできたわたしにとって、書棚の前に立って読むことは、なじみの動作なのである。足が疲れてきたら重心を交互に移動させ、「休め」の姿勢になりながら、熱が入ったら、そうして時間さえ許せば、そのまま一冊読んでしまう。しゃがんだままだと、足首に負担がかかって、一冊どころか十ページも読めない。

もしかしたら鶴見俊輔よりもわたしの体重の方が重いからしゃがめないのか、という気がしないでもないのだが、三歳のときもやはり足首が痛くてしゃがみ続けられなかったことを思うと、やはりこれは習慣の問題だろう。多田も別のところでこう書いている。

からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならないのだ。

(多田道太郎『からだの日本文化』潮出版社)

とはいえこの「座る」訓練は「しゃがむ」訓練のことではなく、正坐のことを差している。ということで、ここから正坐について考えてみよう。


2.一時間正坐ができますか


昔の人はどんなふうに座っていたのだろうか。柳田国男の『明治大正史 世相篇』にはこうある。

本当の貴賓ならば正座の人はみな平坐であり、これに対する者はみな跪坐であった。日本では両膝を合わせて下に突き、足は指先のみを揃え付けているのが、長者の前に侍する者の常の作法であった。すなわち御用とあらばすぐに立てるという形なのである。この形は受ける側にも、いくぶんか気ぜわしなく感ぜられるゆえに、女性だけにはいま少し打ちくつろいだ現在のような坐り方があったが、男が主客ともに前面は膝まずき、後は指を伸ばして足の甲を下に附けるようになったのは、全くこの款待の拡張からであった。すなわち客もあぐらをかくに忍びず、亭主もかしこまっているにも及ばぬというほどの交際が、最も発達した結果と言ってよいのである。

(柳田国男の『明治大正史 世相篇』中公クラシックス)

文中の「正座」は「せいざ」ではなく「しょうざ」、正客がすわる正面の席のことを指す。そのお客様の席に通される人は、平坐、つまりあぐらだったのである。この貴賓に対して礼を取る側は、拝跪の姿勢を取っていた。この「御用とあらばすぐに立てる」という待機の姿勢とあぐらの双方が歩み寄り、結果、ともに正坐になる、という柳田の考察は非常に興味深い。あぐらはリラックス、跪坐は待機の姿勢、その中間である正坐は、敬意を抱きつつ、同時に落ち着いて話もできる姿勢ということになるだろうか。

多田は正坐が定着した背景をこのように考察している。

 跪座でもアグラでもなく、正座がそれこそ正常な姿勢として定着したのは、一つには、足を折りたたんでおく、という点にあったのではないか。話が少しとぶようだが、武家の座敷はすべての道具、日用品がとり片づけられているのが良しとされる。いわば「無」である。この「無」はじつは待機の姿勢であって、いったん緩急あるときは、納戸、なげしから必要なものが即座にでてくる。余計なものは一切置いてない。ちり一つとどめぬ座敷を良しとするのは、無用の物を片づけておく待機の姿勢を良し、美しとするからである。
 足は歩行には必要だが、座談には不必要である。これを腰の下に「片づけておく」姿勢が、やはり待機の美学、待機のモラルにかなったのではなかろうか。アグラのほうが楽なことは言うまでもないが、アグラでは無用のものを放りだしたようなみっともなさがある。

(『しぐさの日本文化』)

椅子の生活が多くなった現代でも正坐をしている人というと、思いつくのがお茶やお花の先生、お坊さん、落語家、棋士あたりだろうか。棋士である先崎学は正坐とあぐらについて、こんなふうに書いている。

 対局中は正座か胡座でというのが不文律である。非礼でもあるので、怪我でもしない限り他の姿勢をとる棋士はいない。割合を見ると、朝は九対一で正座の勝ち。昼過ぎから夕方は半分半分。夜は七対三でやはり正座の勝ちといったところだろうか。要するに、気合いを入れて、気を抜いて、そしてまた集中するのである。

(先崎学『浮いたり沈んだり』文藝春秋社)

さらに別の箇所で。加藤一二三が長考に入ったときのこと。

 加藤九段は胡座のうちは絶対に着手しない。指す時は常に正座である。だから、正座になられる度に、よしと気を込める。が、また座り直されてガクッとなる。

棋士が気合いを入れたり、集中したりするには、正坐という姿勢が必要ということなのだろうか。こう考えると棋士が正坐を基本的な姿勢としているのもうなずける。「待つ」姿勢。相手のつぎの一手を待ち、自分の指すべき一手を待つ。つまり、この姿勢は、相手の存在を前提とする姿勢でもある。

こう考えると、もうひとつ、あぐらと正坐のちがいがあるような気がするのだ。あぐらは背中が丸まる。正坐は背筋がのびる。人と話そうとするとき、まず何よりも声を出さなくてはならない。声を出すとき、体の深いところから声を出そうとするとき、背筋はしっかりと伸びていなければ、声は相手に向かわない。相手と話すという面からも、正坐は理にかなう坐り方のように思える。

そうは言っても正坐はつらい。ものの十分も坐っていると、すぐしびれがきれてしまう。だが、多田の言うように「からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならない」というのもまた事実なのである。

ところがこのつらい正坐、かならずしも体に負担がかかるわけでもなさそうだ。『からだの日本文化』には、どの体勢が椎間板への内圧が一番少ないかが記されている。

 姿勢による椎間板の内圧の変化――寝ているとき、いちばん内圧が低いのは当然として、起きているときには、正座の姿勢がいちばん低く、平方センチ当たり、2.1キログラム。ところが、あぐらをかくと、5.1から5.8キログラムにおよぶという。……
 いすに座った姿勢では、2.3キログラム、立った姿勢では2.1キログラム、はるかに楽なのである。

うーん。これは正坐の訓練をするべきなのかもしれない。


3.とんび坐りができますか


わたしは「とんび座り」という呼び方を多田道太郎の『からだの日本文化』ではじめて知ったのだが、要は正坐の状態から両足を曲げたまま外にずらし、腰をじかに床につける座り方である。

 とんび座り、またの名前を亀居ともいう。カメが両足を甲から出している格好に似ているからであろう。とんびはもちろん鳶である。鳶が枝にとまって、羽を広げている姿に似ているからだろうか。この命名の由来、自信がない。

 昔――といっても戦前のことである。畳の上では正座というのがきまりであった。特に食事時、特に女性は厳しくしつけられた。横座り、とんび座りは「だらしない」としかられた。……

 戦前の女の子は、友達同士笑い興じているときなど、初めの正座が崩れてだんだん足が出てくる。横座りの子もいたが、多くはとんび座りになった。ひざを合わせ、おしりをべったと畳につけ、足の裏をカメのように出す。
 子ども心に私はおさないエロティシズムを感じた。優美だと思った。なんとかまねて女の仲間入りをしたいと思い、やってはみたが足が痛くて辛抱しきれなかった。

(『からだの日本文化』)

多田が「足が痛くて辛抱しきれなかった」と書いているとんび坐りだが、わたしの記憶では、小学生の頃、体育の時間に先生がやってみて、とクラスの全員にさせたことがあるのだ。男子がいたということは小学校の五年か六年ということになるのだが、男子の半分以上はふつうにできていたような気がする。残りの半分より少ない、六、七人だろうか、ともかく男の子たちが、いたた……、とか、腰を浮かせたまま、これより下にはおろせない、とかと言っているのを、わたしたちはおもしろがって眺めていた。確かに女の子で「できない」と言っていた子はひとりもいなかったように思う。

ただ、日常生活でこのとんび坐りをした経験はあまりない。畳に坐って食事を取ることもまれだったし、自分の部屋は畳敷きではあったが、机と椅子があった。畳に座って本を読むときは、背中を壁にもたせかけ、足を投げ出して座っていたように思う。このとんび坐りはわたしにとって楽な坐り方ではなかった。腰骨や大腿骨が痛むというようなことはなかったのだが、足が痺れることにかけては正坐とちっとも変わりはなかった。

たまによその家に行って、それも友だちの家とかではない、しかるべき家に出かけて座敷に通され、「足を崩していいですよ」と言われても、横座りをすると、腰がねじれる感じが気持ちが悪い、とんび坐りも落ち着かない。となると、いちばん楽なのは正坐なのである。「お行儀の良いお嬢さんですね」と言われて気をよくしていたら、立ち上がった瞬間、足の感覚がなくなって、そう言ってくれたそこの家の奥さんの肩に、思いっきり倒れ込んでしまったこともある。

とんび坐りといって思い出すのは、中学のときの修学旅行の記憶だ。そのときの修学旅行は行く先々で、夕食はテーブルではなく、学年全員が入れるほどの広い座敷に、一人ずつ足つきのお膳が出るというものだった。わたしの隣の丸谷さん(仮名)は、非常に女性的な体型、というか、十五歳にして中年女性のような、もしくは土偶のような、きわめてどっしりとした腰つきのもちぬしだったのである。彼女がすわるだけで、ざぶとんはいっぱいになるほどだったのだが、その彼女がそうやって足を崩すのである。そうでなくても大きなお尻だったのに、そこからさらに足が出る。いくら広い座敷といっても、学年全員が詰め込まれているのだから、ざぶとんは隙間なくしきつめられている。必然的に、彼女のざぶとんからはみでた太い足は、わたしの座布団へと進出してくるのだった。

当時わたしが彼女と並んで歩いていると、団子と串、あるいは鉛筆と消しゴムと称されていたのだが、その串もしくは鉛筆の感じる窮屈さというのは並大抵のものではなかった。ジャージに包まれた彼女のやわらかなふくらはぎが、正坐しているわたしのそれにぎゅっと押しつけられ(というのも、彼女の足は、さらに領土拡張を図っていたのである)、なんともいえないその肉感的な感触に、食欲も失せる思いだった。

五泊六日の北陸旅行だったが、何よりはっきりと記憶に残っているのは、永平寺でも東尋坊でも兼六園でも黒部ダムでもなく、やたらに窮屈だった食事時間、毎回毎回押しつけられたふくらはぎの感触である。

この「とんび座り」に多田道太郎は小さい頃からえらくエロティシズムを感じていたようなのだが、このなかで本の中に高見順の『いやな感じ』にふれている箇所がある。

大森あたりの水商売の女が、鏡の前にべたりと座り込むくだりが印象的だった。たしか、ハマグリの貝から舌が出るように、女のしりから足が出ている感覚描写だった、呼んで私はうなった。子どもの時の記憶がよみがえった。

(『からだの日本文化』)

実はこれは微妙に記憶違いが含まれているのだが、その点に関しては、またのちほど。

さて、椅子に坐ることが「坐る」という姿勢の中心になったわたしたちの生活だが、かつては見られなかった新しい「坐る」姿勢がある。多田道太郎の本にもふれられていないこの坐り方を、つぎに見てみよう。


4.三角坐りはできますね


ひところ、駅の階段や電車のなか、コンビニの前などで、「地べた」にべたーっと坐るティーンエイジャーのことが話題になったことがある。「地べたりあん」などという、半ば揶揄するような呼称は、果たして普及したのかしなかったのか。彼らはその昔のヤンキーのお兄ちゃんたちさえもが抵抗があった「地面に直接腰を着けること」を軽く乗り越えたのである。地面に直接腰を下ろすのは、いつのまにか禁忌でも何でもなくなったのだ。

とはいえ、わたしはこれは学校教育のたまものであるような気がしてならない。学校というところは、地面に腰をつけて坐らせるところなのである。それも「三角坐り」(一部では「体育坐り」とも呼ぶ)という坐り方で。

床に腰をおろす。膝を立て、ぴったり揃える。それを両腕で抱え込んで、手は組み合わせる。これが三角坐りである。みなさんも学校で習いましたね?

わたしのころは、小学校では体育の時はかならずそれで坐ることになっていた。それだけではなく、遠足など校外に出たときも、「腰を下ろせ」と言われたときは、その体勢になっていたように思う。その姿勢で、道ばたでもどこでも、べたっと坐りこんでいた。

わたしたち元小学生にとってはあまりにおなじみのこの坐り方は、意外なことに従来の日本にはなかった坐り方であるという。竹内敏晴の『思想する「からだ」』を見ると、「1960年代の初め頃までに小学校に在学した人々……以上の人々にとってはほとんど経験がない姿勢なのだ」とある。

 この姿勢が学校に取り入れられたのは一九五八年に文部省が、児童を戸外で坐らせる場合はこのやり方がよろしかろうと通達したのが初めらしい。まだ体育館なども少なく、体育といえば運動場で行っていた時代のことだ。ところが、一九七〇年になってみると、この坐り方は全国の公立小学校に広がっていた。戸外でも床の上でも時と場所を問わず、子どもが集合する場所にはすべてこの坐り方が適用される、と言っていいほどになった。

(竹内敏晴『思想する「からだ」』晶文社)

なぜこの坐り方がわずか十年ほどのあいだに全国的に定着したのか。特に疑問にも思っていないらしい教員たちに、竹内は押してその理由を問う。

その第一は、手遊びをさせない、で、第二は位置を移動させない、である。私があっけにとられたのは、教員の話に集中させるため、という返事がかなりの数の人から出た時だった。どういうことか私には一瞬わけが判らなかった。子どもが無言で不動でいさえすれば集中していると見なしてやっと安心する、ということなのだろうか?…(略)…

 古くからの日本語の用法で言えば、これは子どもを「手も足も出せない」有様に縛り付けている、ということになる。子ども自身の手で自分を文字通り縛らせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢を取ってみればすぐ気づく。息をたっぷり吸うことができない。つまりこれは、「息を殺している」姿勢である。手も足も出せず息も殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。

わたしたちの動作やしぐさ、体勢や姿勢はすべて時間をかけてその形になってきたものだ。姿勢にせよ、歩いたり、しゃがんだりする動作にせよ、たまたまそうなったのではなく、わたしたちの環境やライフスタイルや仕事、あるいは体型からくる必然から生まれたものであり、それが変化するのに合わせて少しずつ変わっていくものでもある。

この三角坐りに一番近いのが、膝を抱えてうずくまる姿勢だ。
わたしたちはどんなときに膝を抱えてうずくまるか。それはかならずひとりのときだ。ひとりで、なおかつ自分の内に閉じこもりたいようなとき。同時にこの姿勢が一番近いのは、胎児かもしれない。
思いが屈するとき、思うようにいかないとき、自分自身の思いのなかにどっぷりと浸りきりたいとき。人はそうやって胎児の姿勢に戻るのかもしれない。こういう姿勢が必要なときは確かにあるのだ。

ここから顔を前に向ける。それが「三角坐り」だ。顔を前に向けただけで、ひとりきりの姿勢から外に出られるものなのだろうか。

跪坐は、用があったらいつでも立てるような「待機の姿勢」だった。正坐はそこから落ち着いたもの。それでもすぐに立ってつぎの体勢に移れる姿勢には代わりはない(痺れさえきれなければ、ではあるが)。
この三角坐りはいったいどういう姿勢なのだろう。膝を抱えてうずくまる姿勢が、深く自分の内に返っていく姿勢であるが、前を向いていなければならない三角坐りでは、自分の内に返ることもできない。竹内の言うように、自分を縛りつける姿勢、管理される姿勢なのだろうか。

もういちどこの言葉を思いだしてみよう。

からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならないのだ。

(多田道太郎『からだの日本文化』)

わたしたちはしゃがむのではなく、正坐でもなく、三角坐りの訓練をさせられてきた。それによって、たとえ地面に腰をつけたくなくても、聞きたくなくても、聞いていなくても、前を向いてじっと聞いているふり、そこにじっとしていたくなくても、自分自身をじっとさせる姿勢を訓練してきたのかもしれない。

そういうことを続けていれば、地面に直接すわることに抵抗が薄れてくるのも当然なのである。その証拠に、電車の床に腰を下ろしている人間の坐る格好は、もちろん正坐ではなく、かといってあぐらでもなく、例の三角坐りから腕をとりはらったものだ。

学校という空間で生き延びるためにその姿勢が必要であっても、そこを出たらもうその姿勢になるのはやめよう。どのような意味でもその姿勢はわたしたちには必要ではない。


5.この坐り方はわかりますか


以下にあげる文章をちょっと読んでほしい。この人物はいったいどんな坐り方をしているかわかりますか?

 玄白の手元に来たとき、彼もにこにこ笑いながら取り上げた。袋の口には、金具が付いていた。それは、おそらく知恵の輪の仕掛けになっていたのだろう。玄白は、所々を押したり引いたりしてみたが、口は一分も開かなかった。
 彼は、とうとう持て余した。彼は、苦笑しながら、それを次の者に譲ろうとした。が、その時に、一座の者は、たいていそれを試みていた。ただ玄白の右手に座っている良沢だけには、彼があまり端然と控えているために、誰もがそれを手渡しかねていた。

菊池寛「蘭学事始

長崎屋という商家でカピタンにオランダの医術や自然科学の基礎を教わる人々の集まりのなかでの一幕である。座興に加わりもせず「端然と控えている」良沢の姿勢は正坐以外にはありえない。

そんな柳吉に蝶子はひそかにそこはかとなき恋しさを感じるのだが、癖で甘ったるい気分は外に出せず、着物の裾をひらいた長襦袢の膝でぺたりと坐るなり「なんや、まだたいてるのんか、えらい暇かかって何してるのや」こんな口を利いた。

織田作之助「夫婦善哉

どうして蝶子は長襦袢の裾をひらいているのか。それはとんび坐りができるように、ということだろう。「ぺたり」と坐る蝶子の姿は、柳吉に対してなれなれしいとも微妙に媚びを含んでいるとも言えそうだ。

「四郎さんがあとからお風呂に来るかと思ったら……」
「来ないんで、がっかりした?」
 波子はお尻の横に、貝が舌を出した恰好で、足を出していた。行儀が悪いというよりそんな波子は可愛く見えたが、
「すっかり波子は悪くなったな」
「なぜ?」
「そんなことを言うのが悪くなった証拠だ」

(高見順『いやな感じ』文藝春秋社)

これが先にあげた多田がエロティシズムを感じた場面である。アナーキストの四郎は福井大将を暗殺するために朝鮮に行く。そこで料理屋の仲居の波子に会うのだ。日本からは帰国命令が下され、警察の目をあざむくために、波子と一緒に日本に帰る。私娼窟にいるクララや芸者の照子と恋愛関係を持っていた四郎だったが、素人娘の波子には手を出せずにいた。その波子と日本で久しぶりに会った場面である。その波子の坐り方は「とんび坐り」でなくてはならないのだ。

坐る姿勢はその人のありようと深く関わっている。波子が良沢のように端然と坐っていたら、四郎は後ろから抱きしめることはできなかっただろうし、良沢がもしあぐらをかいていたら、玄白と良沢のあいだの緊張もなかったろう。


ところで「坐る姿勢」といっておいて「立つ」話を始めるのだが、近所に立ち話の好きな人がいる。わたしもつかまらないよう、つねづね警戒を怠らないようにしているのだが、たいていわたしが通りかかったときは、獲物? を捕獲したあとで、すでに立ち話に余念のない状態である。

買い物に行くときに、こんにちは、と、話の邪魔にならないように(巻きこまれないように)頭だけ下げて横を通りすぎる。そうやってしばらく歩いてスーパーに着き、そこで買い物をすませて戻ってくる。たいてい行くときと同じ場所でそのふたりは立ったまま話を続けている。

朝、洗濯物を干す。ベランダからひょいと下をのぞくと、その人が誰かと話している。洗濯物を干し終わり、ざざざっと部屋の掃除をすませ(四角い部屋を丸く掃く、のではなく、四角い部屋の空いた場所だけ、丸く掃除機をかける)、ゴミを集めて、さあ、遅くなったと身支度をすませて下へ降りていくと、やっぱり同じ場所で立ち話は続いている。

さらには休みの日、図書館に行く。自転車置き場付近で立ち話をしているその人に挨拶し(「どこ行くん?」「ちょっとそこまで」「わたしもはよ行かなあかんねん」)、図書館へ行き、本を選び、ついでに銀行へ行き郵便局へ行き、買い物までして戻ってくる。すると「はよ行かなあかんねん」と言っていた人は、まだそこにいて、戻ってきたわたしの顔を見て「あら、うっかり話しこんでしもたわ」とあわてて出かけていく。

いまの時期、外で立ち話は寒かろう。現に、その人も相手の人も肩をすぼめ、自分の体に自分の腕を巻きつけて、足踏みしながら話している。寒さで白っぽい顔色にさえなっているのだ。

立ち話をするのは日本人ばかりではないらしい。

 スペインの港町バルセロナにランブラスという繁華街がある。大通りの真ん中に緑の安全地帯があり、花屋とか新聞のキオスクとかが点在している。このあたりで、人がたむろして立ち話をしている。私が大通りに臨むホテルの窓から観察していると、夜中の二時、三時になっても、人は立ち話をやめない。なかには、数時間ぶっとうしで、ふたり、しゃべっていた中年婦人もいた。
 見ている方も根気のいることであったが、結論――この人たちは立っているのが好きなのだなあ。

(『からだの日本文化』)

ヨーロッパ人が立っているのが好きかどうかは知らないのだが、立ち話はおそらく立っていなくては成立しない話なのである。立ち話は座談には昇格しない。そしてまた、昇格しないからこそ、一方でそろそろ終わらなければ、と思いながら、いつまでもずるずると続いていくのだろう。ちょうど、試験の前になると、そろそろ勉強しなくては、と思いながら、長編マンガのコミックスを一巻から読み直し、あと一巻、あと一巻と思いながらだらだらと読み続けるように。

腰を落ち着ける、という言い方があるように、坐ることは「坐ってじっくり取り組むこと」でもある。
小学校での学級崩壊というのは、高学年と低学年ではその性格がちがうという。高学年の学級崩壊が担任に対する反抗という性格が強いのに対し、低学年、とくに学校に入学間もない一年生あたりでは、四十五分間、席に着いて人の話を聞くことができないことから来るものらしい。先生が話していても、そういう子供たちは、平気で席を立って教室のなかをうろうろする。そういう子が何人も出てくれば、確かに授業は成立しないだろう。

彼らも遊びたいとか、友だちと話がしたいとかの目的があって教室のなかをうろうろしているわけではないだろう。一定の時間、坐っていることができないのだ。うろうろするような子供が相手では、話を聞かせることができないばかりか、ノートに字を書かせることも、何かをさせることもできない。椅子に坐らないということは、学校ですることのほとんどは不可能だということでもある。

そういう子は学校という空間でなければ、坐ることができるのだろうか。家でなら、四十五分、坐って親の話を聞いたり、本を読んだり、絵を描いたり、粘土で遊んだりできるのだろうか。TVやビデオなら坐って見ることができるのだろうか。
先生の言うことも聞かず、目的もないまま、まるでブラウン運動をしている花粉のように、教室をうろうろとしている子供のことを思うと、あらためて多田のいう「からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならないのだ」ということばが思い起こされる。

こう考えていくと、このブラウン運動の対極にあるのが、禅の言葉の「只管打坐」のように思えてくる。あまり知りもしないことを言うのは気が引けるのだが、この言葉は「ただひたすら坐る」ということであるとわたしは理解している。もちろんこのときの「坐る」は「坐禅」ということだが、この「坐禅」の宗教的意味は別として、腰を落ち着けて集中して、自分の中のいらないものをどんどん取り払っていくプロセスなのではないかと思うのだ。つまり、もっとも純粋な、夾雑物のない「坐る」がここにはあるように思う。

「立つ」ことに対して、「坐る」ことにはさまざまな坐り方がある。椅子に腰かける。正坐する。しゃがむ。跪坐。あぐら。とんび坐り。結跏趺坐。そしてうずくまる。三角坐り。坐る姿勢だけでも、実にさまざまなものがある。

哲学者の故生松敬三氏の巧みな表現を借りれば、「人間は居ても立ってもいられない存在」なのです。人間は座りつづけることもできないし、立ちつづけることもできない。すぐに惰性化する存在でありながら、惰性的でありつづけることもできない。

 人間は易きにつく存在ですから、禁欲の時代のつぎに享楽の時代が来るのはわかりやすい道理です。面白いのは、人間は享楽にも飽きるということです。享楽の時代のつぎに禁欲の時代が来るという不思議さ――同じ状態を永くつづけることができない人間のいたたまれなさは、動かしがたくみえる生き方を転換し、不可避とみえる袋小路を打開する力さえもっています。これが惰性的=創造的な習慣的身体の逆説です。

(市川浩『〈身〉の構造 身体論を超えて』講談社学術文庫)

「居ても立ってもいられない」わたしたちは、さまざまな「坐る」姿勢を持ってきた。椅子での生活が圧倒的に多くなってきて、この豊かさが失われつつあるのだとしたら。坐るさまざまな姿勢も「動かしがたくみえる生き方を転換し、不可避とみえる袋小路を打開する力さえもってい」るのだとしたら、その豊かさが失われていくことは、そうした力をも失うということだろう。おそらく、「坐る」ことを意識するだけで、わたしたちの同席する人への対し方も、仕事の仕方も、少しだけ、変わっていくような気がするのだ。

あなたがどんなふうに坐っているか、あなたの目の前の人がどんなふうに坐っているか、いちどじっくり見てみませんか。
あ、どうぞ、そのまま、坐ったままで。



初出Jan.26-31 2008 改訂Feb.21, 2008

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