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あのときわたしが聞いた歌

宇宙船勇者号、どこまでも進んでいけ
ぼくの魂を見つけるまで あの夜に届くまで
― Yes "Starship Trooper"



bluebird


わたしの i-pod には、現在1478曲が入っている。24時間休みなく聴いても、5,1日かかるらしい。

なかには、入れた当時はずいぶん聞いたけれど、もう飽きてしまった曲もあるし、ヴァン・モリソンとかトム・ウェイツとかドクター・ジョンのように、いつも聞きたいわけではない、というか、滅多に聴きたい気分にはならないミュージシャンの曲もある。ライブラリには、再生回数と最後に再生した日付がのるのだが、それを見ると、日課のように聴く曲もあれば、一年以上聞いてない曲、ほんの数回しか聞いていない曲もある。

まだまだ曲は入るのだけれど、もし容量がもっと押してきたら、ボン・ジョヴィやデフ・レパードやエルヴィス・コステロは削除するかもしれない。それでも、たとえ再生回数は少なくても、初めて配信で一曲だけ買ったエールの〈プレイグラウンド・ラブ〉や、上に上げた人たちの《土曜日の夜》や《魂の道のり》や《シティ・ライツ》などのアルバムは、わたしの宝物だから絶対に外すことはない。

振り返れば、いつも歌が流れていた……わけではない。
出来事と結びついた曲ならいくらでもある。UB40の〈ダンス・ウィズ・ザ・デヴィル〉を聞くと、いつもイギリス在住のジャマイカ人の使う独特の英語を教えてくれたイギリス人の声が耳に甦ってくるし、プリテンダーズの〈ドント・ゲット・ミー・ロング〉を聞くと、その曲で一緒に踊った相手のコロンの匂いと湿った手を思いだす。
けれどそれは歌のことを思いだすのではなくて、そのときの出来事や、相手を思いだしているのだ。歌はB.G.M.として流れているだけだ。

イエスの〈スターシップ・トルーパー〉を聞いてもわたしは何も思いださない。U2の〈ライク・ア・ソング〉を聞いても、キング・クリムゾンの〈ポセイドンの目覚め〉を聞いても、ピンク・フロイドの〈走り回って〉を聞いても、甦ってくるのはその旋律であり、歌詞であり、リズムであり、歌声であり、楽器の音だ。そうした曲は、あまりに何度も繰りかえして聞いたので、一度や二度の出来事と結びつくことができないのだ。何かに結びついているとしたら、その時期のわたしのまるごと、ということになる。歌に思い出がつまっているのではなく、反対に、その歌がわたしを作ってきたのだ。

わたしにとっての特別な歌。過ぎ去ることなく留まっている、いくつかの歌。
歌にまつわる思い出ではなく、そのとき、その歌がどんなふうにわたしと結びついていったかを書いてみたい。これが単なる個人の記憶を越えて、読んでいるあなたの記憶と結びつくところが少しでもあるとよいのだけれど。


1.怖いものが好き ――シューベルト〈魔王〉


三〜四歳の記憶となると、そんなにいくつもあるわけではないのだが、その半分くらいは音楽教室にまつわるものだ。いまでも教室の窓から見える外壁のツタの葉っぱが陽を受けて光っていたことや、二列に並んだオルガン、五線譜が書いてある黒板、あるいは先生の結婚式に教会に行って、式が始まる前の先生に会った情景が、断片的な記憶として目の前に浮かんでくる。結婚式の情景では、真っ白なつやつや光るスカートが、目の前にふわっと広がっているのと、白い長い手袋が見えるだけ、先生の顔も、ほかの部分も記憶にないのは、実際に自分がおとなの腰のあたりまでしか身長がなかったからだろう。
その時期を最後に歌ったはずもないのに、♪ヤ・マ・ハー ヤ・マ・ハーの音楽教室ー という歌まで覚えている。いまでもあの「小鳥がね、お窓でね」という歌は変わっていないのだろうか。

教則本に、見開きで挿絵のある物語のページがあった。
モノクロのページで黒インクのドローイングがひどくおどろおどろしかった。おそらく馬に乗ったお父さんと子供の絵が描いてあったのだろうが、覚えているのは「怖い絵だった」という漠然とした印象だけだ。

物語は短い。夜、父親が子供を前に乗せて馬を駆っている。すると子供が、急に魔王がいる、とおびえだす。父親には何も見えない。子供は魔王の声を聞く。父親には聞こえない。だが魔王は子供を連れて行く。父親の腕のなかには、もはや息をしていない子供の亡骸。

ストーリーを読むだけで、もう怖くて怖くて、そのくせ当時から怖い話が好きだったのだろう、もう夢中になってそこばかりくりかえし読んでいた。
おそらく音楽教室に行くたびに、そのページを広げて夢想に耽っていたにちがいない。

夢想のなかで、わたしはその子供だった。暗い夜道は怖いけれど、父親のふところに抱かれて、暖かく安心していた。
そこへ魔王が現れる。いったいどこに現れたのだろう。馬の走っていくその先、中空に浮かびあがったのだろうか。
魔王はどんな顔をしていたのだろう。一目で魔王とわかるのだろうか。黒いマントを着ていたのだろうか。
なぜお父さんには見えないのだろう。声も聞こえないのだろう。お父さんに見えないことを知り、守ってもらえないとわかったその子供はどれほどがっかりしただろう。いきなりさらわれるより、守ってもらえないと知ってさらわれる方が、ずっと怖いにちがいない。
なぜ魔王はその子を連れていったんだろうか。自分もその子のように、いつか魔王に狙われたりするのだろうか。

曲も最初は音楽教室で聴いたはずなのだ。おそらくは日本語で。
ところが記憶に残っているのは、フィッシャー=ディスカウが歌うドイツ語版で、これは家にあったものだった。犬のマークのついたステレオがあるのは、北向きの薄暗い部屋。いくつも曲が収録されているLP盤のうち、なかほどにある〈魔王〉のところだけ、針を落として聴いていた。あとからレコードに傷をつけた、と母親に怒られ、「聴くのだったら最初から聴きなさい」と言われたのだが、ほかの曲は退屈なだけだった。

風のゆらす木々のざわめきとも、馬の駆ける音ともつかないピアノの三連符に、左手の低音がしのびよってくる。やがてフィッシャー=ディスカウの歌が始まる。
最初は語り手の淡々とした歌。
それから、父親の低い声。
魔王の猫なで声。
一人で歌っているとは信じられないような、子供の怯えた声。その「マイ ファーター マイ ファーター」という部分ははっきりと聴き取れて、よく歌った。
いま考えるに、ドイツ語の歌詞で少なくとも「マイ ファーター」ではないはずなのだが。

高い声で怯えたように「マイ ファーター マイ ファーター」と歌っていると、その子の絶望感(当時はまだそういうボキャブラリは持たなかったが)が胸を満たした。
いまでも実家では語りぐさになっているのだが、わたしはよく「死んだふり」をしている子供だった。畳や板敷きの床に仰向けに寝転がり、身動きをせず、呼吸も浅く小さく、できるだけ音をさせないように静かに横になる。そうやって、このまま心臓が鼓動を停めたらどうなるのだろう、と考えたものだ。もしかしたらその「死んだふり」も、この歌の流れでやっていたのかもしれない。寝るときも、ふとんに入って連れ去られた子供のことを考えていたから。

確かにこの歌には、人の心に深く食いこんでくるものがあるように思う。志賀直哉は『暗夜行路』のなかで、《魔王》を聞いて掻きたてられた内心の苛立ちをそのまま、こんな文章で表している。

 若いコントラルトの唄で、その晩の呼び物だったが、謙作には最初から知らず知らずの悪意、反感が働いて居た。彼にはその曲を少しも面白いとは感ぜられなかった。総て表現が露骨過ぎ、如何にも安っぽい感じで来た。それは只、芝居がかりに刺激して来るだけで、これだけの感じなら、文学のままで沢山だと思った。シューバートのこの音楽は文学を文学のまま、より露骨に、より刺激的に強調しただけで、それは音楽の与えられた本統の使命には達していない曲だと彼は考えた。
 ゲーテの詩までが彼には気に入らなかった。それは本統に死を扱った深味のある作ではなく、芸術上の一つの思いつきだという気がした。比較的若い時の作に違いないと思った。

志賀直哉『暗夜行路(後編)』

謙作が「シューバート」の「エールケーニヒ」を演奏会で聞いたのは、初めての赤ん坊が誕生したその晩のことである。のちにこの赤ん坊は、重い病気に罹って死んでしまうのだが、引用は発病して容態が思わしくないころに、誕生の当日聞いたこの曲が、あたかも災いを引き起こしたかのように回想している場面である。

「総て表現が露骨過ぎ、如何にも安っぽい感じ」というのは、自分の恐れている感情、ふだんは深く閉じこめている感情を、この曲によって、心ならずも引きずり出された不快感のあらわれではあるまいか。こう書くことによって、志賀はこの歌の持つ力を、逆に認めているともいえる。

親からすれば、自分の子供が奪われるということほど、恐ろしいこともない。カーヴァーの短編『ささやかだけれど、役に立つこと』などと同様に、悪夢のような曲なのかもしれない。

ただ、「死」というものを知りはじめた子供にとって、この歌は、怖いけれど、それだけではない、独特の吸引力をもつ「死」の、ふだんは知ることのできない側面を、垣間見せてくれるものだった。魔王の誘いかける旋律は、妖しく、美しい。この曲はそういう場所から出てきた曲のように思われた。

おそらくそこは現実の死、医学的な死とは関係がない。そうではなく、大昔から人々が絵や音楽や文学に描いてきた「死」、安息であり、解放であり、救済である「美しい死」。
怖いけれど、そこから目が離せなかったのは、おそらくそこが美しい場所だったからだろう。この曲は小さなわたしにその世界を垣間見せてくれるものだった。わたしもまた、そうやって魔王にさらわれていく子供のひとりだったのだ。


2.転調とシンコペーション


小学校の低学年にもなると、自分で見つけて好きになった歌はいくつもあった。そのほとんどはタイトルも知らないまま、ずいぶん大きくなって、あのとき好きだった曲はこんなタイトルだったのか、こんな人が歌っていたのか、と知るようになったものだ。

ロネッツの《ビー・マイ・ベイビー》、シュープリームスの《恋はあせらず》、ギルバート・オサリバンの《アローン・アゲイン》、つい先日も、arareさんの書きこみで、ずっと「テストファニー」と思いこんでいた曲が、《テイスト・オブ・ハニー(密の味)》ということを知った。これもカッコイイ、と思っていた曲だ。そうして、青江美奈の《伊勢佐木町ブルース》。

不思議なことに、いま振り返っても当時の自分がそうした曲のどこが好きだったのかはっきりとわかる。《ビー・マイ・ベイビー》は転調してからのBメロの半音でうねうね動くところが好きだったのだし、《恋はあせらず》は裏打ちのリズムがカッコイイ、と思ったのだし、《アローン・アゲイン》はコードが半音ずつ下がっていくところが好きだったのだし、そうして《伊勢佐木町ブルース》、これは曲に入ってしまうとそれほど好きではなかったのだが(いま考えてみたが歌詞は全然記憶にないし、メロディすらも全部は思い出せない)、あのイントロのッハー、ッハーというため息のシンコペーションがたまらなくカッコイイと思ったのだ。
どうもわたしは音楽の好みというのは、そのころに形成されたままほとんど変わっていないらしい。つまり、歌が好き、といっても、歌詞はあくまでも二義的なもので、わたしにとって重要なのは、メロディラインであり、リズムであり、コード進行だったのだ。

わからないのは、いったいどこでそういう曲を知ったのか、ということだ。家にはテレビはなかったし、ラジオが日常的についていることもなかった。
家にあったレコードは、古典音楽ばかりで、さらにひどいことに、母親はブルグミュラーだのツェルニーだの、曲として優れているとはいいがたい、ピアノのテクニックを上達させるための練習曲のレコードを「曲の感じをつかむために」と聴かせたのだった。毎日同じ曲を繰りかえし練習しているところに加えて聞かされたレコードは、吐き気がするようなものだった。いまだに古典音楽のピアノ曲だけは、協奏曲も含めてどうにも聞く気になれない。そのくらい、いやだった。

家ではない。となると、出先で流れていたB.G.M.や、映画館で耳にした、始まる前のコマーシャルや映画音楽、挿入歌だったのだろう。ともかくそういう場で耳に飛びこんできた歌が気に入りでもしたら、一生懸命耳に焼き付けようとしたのだと思う。そうやって記憶に刻みつけたあとは、繰りかえし思い返す。また聴く機会があれば、さらに記憶の音を補強する。

わたしは知っている曲ならかなり忠実に再現することができる(自分では「頭のなかで鳴らす」と呼んでいる)のだが、これはおそらくそのころ養っていった能力であるように思う。あの曲が聞きたいな、と思ったら、たいていは「頭のなかで鳴らせる」のだ。残念ながらこの「頭の中で鳴らしている」とき、どれほど正確な音を「出し」ているのか、実際の音と比較して確かめることはできないのだが。

ともかく人間というのは制限された環境の中でも、なんとか適応するものなのである。
そうやって覚えた曲はこっそりピアノで弾いてみたし、「タラッタラッタタラララッ、ッハー、ッハー」と歌っていて、「何を変な声、出してるの!」と叱られた記憶もある。それでも、たとえ自分以外の人の賛同を得られなくても、怒られたとしても、好きなものは好き、という感情を、わたしはこういう曲を通して培っていった。

初めて自分で買ったレコードは、ジグソーの〈スカイ・ハイ〉だ。
いま聴いてみると、派手で中身のないメロディラインにちょっと情けなくなってしまうのだが、それでも自分がそのどこに引かれたのかもやっぱりわかる。ドラマティックなイントロから、一転、歌がふわっと入ってくるところが好きだったのだし、Bメロで転調して、スカッと抜けたようなサビへと、曲想がそれぞれの部分ではっきり変わっていくところが気に入ったのだ。さすがにいまはこれを「好き」とは言わないけれど。

そのシングル・レコードは、小さなビニール袋に入っていて、曲名の下には、バンドの写真ではなくプロレスラーがドロップキック(という技の名前は当時知らなかったが)をしている写真が載っていた。裏には曲の紹介も演奏者の紹介もほとんどなくて、マスクをかぶったレスラーが「ミル・マスカラス」というメキシコの選手であることを始め、彼がこの曲を入場曲として使っていたこと、「華麗な空中殺法」を得意とする選手である、といった内容のことしか書いてなかったように思う。事実ミル・マスカラスは当時人気があったらしく、この曲をあちこちで耳にしたのもそのせいだったらしい。

小学校では年に一度、バザーがあった。
不要品を出すというのは建前だけ、実際には未使用・未開封の製品でなければならない、という規定があって、家にそんな未使用の食器や敷物などがあるはずもなく、結局はそのバザーに出品するために、わざわざ母はデパートに行って買い物をしていたように思う。毎年その時期が近づくと母はこぼしていたものだったが、子供たちにとってはバザーはお祭りのようなもので、楽しみにしていた。

うどんやカレーを出す店、お母さんたちが焼いたクッキーを売る店、そのほかにも、服や文房具や本などさまざまなものが売られている。もちろんそれだけではなく、児童が書いた絵や習字、研究発表や壁新聞なども掲示されていた。そんな出店のなかに、先生たちが「不要品」を売る店があった。

一角に、先生たちが読んだ本やレコードが並べてあった。本は大人向けで、小さな字の文庫本が多く、とても子供には読めないようなものだったのだが(そのなかに石川達三の『青春の蹉跌』という本があって、「これは何と読むのですか」と読み方を教えてもらったのをなぜか覚えている)、レコードはカラフルなジャケットを見ているだけで楽しかった。確か、イーグルスの《ホテル・カリフォルニア》のジャケットも見たような気がする。

シングル盤が並んでいるなか、一枚だけ、筋肉がもりあがったごつい体つきの、上半身裸の男が跳んでいる写真があった。これはどういうレコードなんですか、と聴いたのだと思う。すると、レコードの元のもちぬしだった先生は、そこに置いていた小さなプレーヤーで聴かせてくれたのだ。
何度か耳にしていた曲で「この曲、好きなんです」と言ったら、特別にまけてあげよう、と言われて、70円で買った。カレーが二百円で、クッキーが百五十円だったように思う。ほかに何を買ったのか、そもそもいくらまでお小遣いを持つことが許されていたのか、まったく記憶にないのだけれど、70円払ってわたしはそのレコードを自分のものにしたのだった。

それから家で毎日そのレコードを聴いていたように思う。文句を言われても、「学校のバザーで先生から買った」ということがお墨付きになったのだ。先生が聞いていたんだもの、文句ないでしょ、とばかりに。
そのころ、自転車に乗って走るときはいつもあのイントロの「タラララタラララタラララタラララダカダカダン」というのが頭の中で鳴っていたように思う。


3.笛吹く子供と〈スカボロー・フェア〉


小学校には、わたしを含めて三分の二ほどが付属の幼稚園から上がった児童、残りの三分の一ほどが外部生だった。すでに顔見知りのなかに入っていく、さまざまなところから来て、知り合いもいない女の子たちは、いくら小学生になったばかりとはいえ、十分プレッシャーを感じていたことだろう。

何がきっかけかは覚えていないが、入学した当初、わたしは同じ幼稚園から上がって家も近所だったエリちゃんと、外部生のマキちゃんという子の三人でいることが多かった。
あるときマキちゃんが、エリちゃんがわたしの母のことをゴリラに似てるって言っていた、と教えてくれた。おそらくわたしは家に帰って憤慨して母にそのことを告げたのだと思う。すると母は、「マキちゃんはお母さんのこと、何に似てるって言ってた?」と聞いたのだった。
大人の母からすれば、いままでにも家に何度も遊びに来ていたエリちゃんが、いきなりそんなことを言い出すはずもない、とすぐにわかったのだろうが、わたしには母の真意がわかるまで、それからしばらくかかった。そうして、気がついたときにはひどく驚いてしまった。

それまでわたしだって嘘は何度もついてきた。だがそれもみな、どうして窓ガラスにクレヨンで落書きなんかするの、と怒られて「やってないもん」と言い張ったり、幼稚園でお弁当がどうしても全部食べられなくて、お腹が痛い、と言ったり、見えない友だちをいかにもいるように話したりするような嘘に限られていた。そんなものではなくて、人間関係をめぐる嘘、誰かと仲良くなろうとして、別の誰かを排除するような、そんな嘘がありうるのだ、などとは、わたしの想像の埒外だった。

ひとたび気がついてみれば、三人で遊んでいるときはそんなそぶりさえ見せないのに、エリちゃんの姿がなくなれば、マキちゃんは、エリちゃんがああ言った、こう言っていた、と言い出す。マキちゃんは、わたしとだけ遊びたいのだろうか。それともわたしがいないときは、今度はエリちゃんにそういうことを言っているのだろうか。マキちゃんの言葉を聞きながら、わたしはよくそんなことを考えたものだ。
結局わたしはどうしたのか、それから私たち三人がどうなったのか、まったく記憶にはないのだが、そうした面での成熟度には、ずいぶん個人差があったのだろう。

ところが小学校も四年ともなると、多くの女の子たちが一年のときのマキちゃんのようなことを日常的にするようになっていた。

わたしが三年のとき、バザーで「スカイ・ハイ」のレコードを買った先生は、まだ大学を卒業して間がない二十代の男の先生だった。そうしてその先生が四年のクラスの担任となった。

ことあるごとに、誰それが贔屓されている、と言いだす子たちが出てきたのは、おそらくその先生が担任でなくても起こったことなのかもしれない。そういう成長段階でもあったのだろうが、やはり若い男の先生ということも無関係ではなかったろう。
何人か集まれば、誰それがあんなことを先生に言った、それに対して誰それがこんなことを言った、先生はそれに対してどう言った、ということばかりになり、誰それとは話しちゃダメ、先生に贔屓されてるんだから、と袖を引かれ、つきあってはならない子は日々変わっていき、いつのまにか毎日デリケートな外交折衝を要求される国連大使並みの神経を使わなければならなくなっていた。

実際には何が起こっていたのかほとんど記憶にない、というより、当時でさえよくわからなかった。とにかくそういう話がいやで、努めて距離を置こうとし、休憩時間はいつも図書館にいたような気がする。いまでも「〜さんがあんなことを言っていた」という類の話を聞かされると、とたんに落ち着かなくなって席を立ちたくなるのは、このころの記憶が尾を引いているのかもしれない。
ともかく、担任の言うことをまったく聞かない子が出てきたり、途中で帰ったりする子が出てきたりして、教室に教頭先生やシスターが常駐するようになった。いまでいうところの一種の学級崩壊だったのだろうと思う。

例年、二学期の終わりに音楽会があった。各クラスがそれぞれに出し物を準備して、全校生徒の前で演奏するのである。
いま考えると、なんとかそれをきっかけに、クラスをもう一度まとめようと先生は考えていたのだろう。その年は、いつもより早くから準備が始まった。リコーダーの合奏で、〈スカボロー・フェア〉をやるのだ。

教室でサイモンとガーファンクルの曲を聴いたときの不思議な感じはいまでも覚えている。
黒板に先生が日本語に訳された歌詞を書いてくれた。パセリ・セージ・ローズマリー、アンドタイム、というところだけがわかる、静かな、不思議な歌を聴いているうちに、あたりに萌葱色の靄がおりてきたように思った。
譜面をもらって、毎日家で吹いていた。電車をおりると駅からの帰り道も、その曲を吹きながら歩いた。暗くなって吹くと怒られるので、日があるうちはひたすら吹いていたような気がする。
頭の中でサイモンとガーファンクルのコーラスを鳴らしながら、それに合わせるようにして、自分のリコーダーから萌葱色の靄が出てこないか、と思った。

合奏の練習が始まると、担任の先生は伴奏にコントラバスを持ってきた。初めて見る大きな弦楽器がめずらしく、その低いボン・ボンという音もうれしくて、合同練習が楽しくてたまらなかった。最初のうちはどうしてもなかに入らない子もいたのだが、次第に戻ってきて、最後には二部合奏もずいぶん上達したように思う。

だが、それだけ夢中になって練習したのに、わたしは音楽会の当日、扁桃炎で四十度を超える熱を出し、出ることはできなくなったのだった。
その日、11月の午前中の白い日差しが入ってくる自分の部屋で寝ながら、わたしは頭のなかでリコーダーとコントラバスの合奏による〈スカボロー・フェア〉を聴いていた。部屋に萌葱色のもやがおりてきたようだった。


4.音符の中を泳いでいく魚のように


高校を卒業して数年後、当時のわたしを知っていたという人に会ったことがある。学年がちがったので、わたしのほうはその人のことをほとんど知らなかったのだが、在学中にわたしがやっていたことを下級生だったその人はよく知っていて、話を聞きながら、出来事こそ同じでも、まったくちがう登場人物による、まったくちがった物語を読んでいるような不思議な気持ちがした。

わたしの記憶のなかの十代の自分のイメージは、部屋の隅に置いた小さな冷蔵庫だった。胸の奥の衝動を抑え、厚い扉の内側に閉じこもって、ときどき振動音を立てる小さな冷蔵庫。

そこに閉じこもって、わたしは本を読み、音楽を聴いた。
食べたものが身長を伸ばし、血や肉となっていったように、繰りかえし読んだ本は、わたしの文体とボキャブラリを築いた。そうして、潜ったあとの水泳選手が水面に顔を出し、空気をむさぼる、ちょうどそんな感じで聞いていた音楽は……。
わたしの身体の組織構造を探っていくと、きっと左腕の肘から肩のあたりまでは、レッド・ツェッペリンとピンク・フロイドとイエスでできているはずだ。そこには筋肉や骨や血管の代わりに、きっと音符と音がびっしり詰まっているにちがいない。

中学に入ってまもなくのレコード鑑賞会で、わたしはツェップとフロイドとイエスを知った。五日間に渡って放課後、毎日開かれたその鑑賞会では、もちろんそれ以外にもディープ・パープルも聴いたはずだし、ビートルズもローリング・ストーンズも聴いた。それでも、音楽の、それまで知っていたのとはちがう側面を見せてくれたのは、その三つのバンドだった。

レッド・ツェッペリンはラフなまま立つことを教えてくれた。ソフィスティケイトされなくても、自分が作りだすものを疑いさえしなければ、そのいさぎよさだけで十分にカッコいいのだ、と。
ピンク・フロイドは、わたしにとっては重力だった。上に伸びるためには、下方に向かう力も必要なように、わたしを下へ、下へと引っぱった。
そうして、イエスを聴いていると、自分が身を圧倒するような大量の音符の海を泳いでいく魚になったような気がしてくるのだった。スティーヴ・ハウのギターは、たくみなバランスのとりかたを教えてくれたし、リック・ウェイクマンのキーボードは、金色に輝く背びれ、クリス・スクワイアのベースは筋肉をしなやかに動かす術を教えてくれた。ビル・ブラッフォードのドラムは泳ぐ力を与えてくれたし、そうしてジョン・アンダーソンのボーカルは、水のなかに差す日の光、わたしはその光を目指して泳いでいったのだ。

もちろん当時聴いていたのはそれだけではない。キング・クリムゾンも、エマーソン・レイク・アンド・パーマーも好きだったし、そののちU2と結んだ絆はまた特別なものだった。それでもわたしの身体を作ったのはその三つのバンドだ。

のちに、アメリカのコラムニストであるアンナ・クインドレンのコラム集『言わせてもらえば』のなかで、こんな文章を読んだ。
クインドレンがとりあげたのは、1985年にショットガンを使って自殺したふたりのティーン・エイジャーの家族である。両家は彼らが好きだったバンド、ジューダス・プリーストを訴えた。少年たちが「ジューダス・プリーストのアルバムによって死の暗示にかけられた」という理由で、百二十万ドルの損害賠償を請求したのである。

クインドレンはふたりの生前の様子をスケッチする。
ひとりは、生まれる前に両親が離婚し、その後、母親は四回結婚を繰りかえした。四度目の父親は、息子の目の前で、母親を拳銃で脅すような人物だった。少年はハイスクール在学中に逮捕され、中退し、マリファナやコカインや睡眠薬を常用した。
もうひとりは、小さい頃から母親に虐待され、成長すると逆に虐待するようになった。暇なときは何をするかという問いに(この質問は、日本語で「趣味は」という質問に相当する)「ドラッグ」と答え、ビールも浴びるように飲んだ。

こうしたふたりが自殺を図ったことの原因をジューダス・プリーストに求めることは、確かにお門違いと言えるだろう。

 裁判所は、自殺はバンドのせいではない、という判決を下した。しかし家族は、息子たちの恐ろしい死の責任から逃れるために、さらに上告するだろう――ヘビメタがあの子をそそのかしたんです。父親が何度も変わったせいではありません。折檻も、アルコールも、ドラッグも関係がありません。意志が弱かったせいでも、子育てに失敗したせいでもありません。誰かが悪いんです。私たち以外の誰かが――。
 いつだって誰かのせいにしないと気がすまないらしい。

(アンナ・クインドレン『言わせてもらえば』松井みどり訳 文藝春秋社)

当時ヘビメタを「馬鹿っぽい」と決めつけて避けていたわたしが、ジューダス・プリーストを聴くことはなかった。もちろん、当時のわたしと自殺したティーン・エイジャーとの共通点も、同じ十代だったことを除けば、ほとんどないのかもしれない。

それでも、音楽は単にその曲を聴いているあいだだけ、一種の気分をもたらすものではないように思うのだ。
とくに、まだ経験も乏しく、学ぶ要素も限られた子供が浸りきる音楽は、その子の少なからぬ部分を作り上げていくはずだ。加えて、歌詞が母語で、ダイレクトに伝わる場合、否定的なニュアンスの歌詞、暴力を肯定するような歌詞、投げやりだったり、呪詛したりするような歌詞が、吟味されることもなく、そのまま吸収されることがあるかもしれない。
作詞者にとっては単なる暴力的なおとぎ話が、ディストーションの効いたギターのリフとタイトなリズムという身体を与えられて演奏されたら、予想もしないモンスターを生みだしてしまうことだってありうるのだ。

わたしはイエスを見つけた。
イエスを見つけるなかで、身震いするような冷たい水の中でも、岩だらけの浅瀬でも、泳いでいく力を養っていった。
部屋の隅の冷蔵庫のなかで。

わたしだって彼らだったのかもしれないのに。


5.〈プライド〉


ソウル・オリンピックの年、わたしはアメリカにいた。

アメリカにいたらイギリスのロックなんて聴けないかなあ、などと暢気なことを考えて持っていったカセットテープは、端から授業の録音に上書きされていった。とにかく授業の英語が少しも聴き取れない。

週に一度、アイルランド人の先生のレッスンも受けていたし、ラジオ英会話では雑談の部分も十分に聞き取れた。だから、何一つわからないという事態は予想もしていなかった。

口を開かない発音。抑揚がなく、早口で、区切りも定かではなく、だらだらと続いて、-erとか-ahとか間投詞がやたら差し挟まれ、わかるのは"you know" だけ。
事前に用意された原稿を読んだり、外国人を意識して話すことと、日常そのままの言葉はここまでちがうのか、と、愕然とするばかりだった。

おそらくわたしにも輪に入るように、と投げかけられた質問さえ、いったい何を聞かれているのかわからない。
自分がクラスで一番できないというのがどういうことか、ほんとうに骨身にしみるように理解した。屈辱と劣等感で目の前が暗くなるような日々だった。

家に帰るとテープに録音した授業を何度も何度も聞き返してノートに取ろうとした。意味を調べようにも綴りがわからない。ひとつのトピックスを理解するために一時間以上かかっていた。消化しきれないテープだけが溜まっていく。

その状態がいったいどれほど続いたのか。
ある日、自分が取ったノートをもとに、ふっと授業をしている先生の声に自分の声を重ねてみた。なるべく同じようにしゃべってみる。息を継ぐところ、切るところ、抑揚、語尾の延ばしかた。自分のそれまでのしゃべり方を捨てる。発声も変え、先生とぴったりと重なるように話してみる。
偶然のように見つけたこの方法が、わたしのブレイクスルーとなった。繰りかえし声を合わせて読むことで、わたしは聞けるようになっていた。

ノートも取り方を変えた。それまでは必死で英語でノートを取ろうとしていたのだが、日本語で取るのだ。耳に入ってくるのは英語でも、考えるのは日本語だ。要約してまとめるのが日本語であって悪いはずはない。わたしにとって、それがスムーズにいくならば、それが一番良い方法だ、と割り切ることにしたのである。
そうやってできあがったノートは、日本語や図や記号や英単語の入り乱れるなんとも奇妙な代物だったが、わたしひとりが理解できれば用は足りる。そうこうするうちに、気がつけばわたしは授業についていけるようになっていた。

物珍しさから近寄ってきたクラスメイトたちとも、珍しさを越えて話ができるようになっていった。マドンナの話。マイケル・ジャクソンの話。
徐々に生活は楽しくなっていたが、それでも、たとえ自分の部屋に戻ってひとりきりになっても、心の底からくつろぐことはできなかった。疲労が澱のように溜まっていた。

周りはカール・ルイスの活躍に熱狂していたけれど、わたしにはオリンピックなど、別の惑星のできごとだった。ところがそんなある日、ホールに置いてある大型TVで男子マラソンの中継をやっているところに行きあったのだ。
おそらくは録画だったのだろうが、TVの前には小さな人だかりができていた。だが、なにしろマラソンは長い。アメリカ人が活躍するわけでもない競技は次第に人が減っていき、わたしは最前列で見ることができるようになっていた。

強烈なソウルの日差しのなかを、六人ほどの先頭集団がサバイバルレースをやっていくという展開だった。ひとり抜け、ふたり抜け、最後に四人残った。そのなかに、日本人の中山がいた。
わたしは中山から眼を離すことができなくなっていた。それまで自分が名前をかろうじて耳にしたことがあるだけの選手を、日本人だというだけの理由で、息を詰めて応援するようなことをする人間だと思ったことがなかった。自分のことを「日本人」ではなく、ひとりの「わたし」という人間として見てほしい、と思い、実際にそう口にもしているころでもあった。それでも、わたしはTVを見ながら、心のなかで、がんばれ、がんばれ、とひたすらに念じた。
そこにいたのは、「日本人」ではなく、中山だった。
けれども、「日本人」という一点で、わたしは彼と結びついていた。画面のなかにいたのは、中山であり、同時にわたしでもあった。

最後の方で、その中山も脱落した。残念というより、姿がどうにかして見たくて、展開などよそに、一瞬映る四番目の選手の姿をわたしは必死で探した。どうか、ずるずると後ろへ下がっていくことのないように、途中で棄権したりすることのないように。
いや、そういうことでさえなく、ただ姿が見たかった。そこで走っている姿が見たかった。
そのまま四番目に中山がゴールしたとき、わたしはとまらなくなった涙を、バインダーで隠しながら拭いて、そこを離れた。

ホールを抜けたとき、どこからかギターの音が聞こえてきた。誰かが大音量でラジカセを鳴らしていたらしかった。激しいギターの音につづいて、歌声が響いた。

One man come in the name of love
One man come and go

わたしはまだそのとき、それを歌っているのがU2で、《プライド》というタイトルの曲だということを知らなかった。さらに、それがマーティン・ルーサー・キングを歌った歌ということも、もちろん知らなかった。
それでも、「ひとりの男が愛の名のもとにやってきた ひとりの男は、来て、去っていった」というのは、そのときの気分がそのまま音楽になって、外から聞こえてきたように思ったのだ。

One man come on a barbed wire fence
One man he resist

一人の男が有刺鉄線を超えてやって来る。
一人の男が抵抗する。

わたしはそこに立って、反響しながら聞こえてくる音楽を、全身で受け止めようとしていた。
たったひとり、外国で、過酷な日差しを浴びながら走っていくひとりの選手の歌。
同時にそれはわたしの歌でもあった。


6.〈カントリー・ロード〉


同じころ、高校で「何か日本の歌を歌ってくれ」と言われた。
小さい頃から馴染んできたのは西洋の古典音楽だったし、それ以降もずっと聞いてきたのは西洋の音階の、西洋のリズムを持つ音楽だった。日本の歌など、自分から進んで聞いたこともない。いったい何を歌ったらいいんだろう、と考えて、咄嗟に思いついたのが、中学の音楽の授業で習った歌だった。

やわらかに 柳あおめる 北上の
岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

石川啄木の短歌に越谷達之助が曲をつけたこの曲は、西洋音階の曲だったが、音符に一音節ずつのせていくところが「日本の歌」らしいように思えたのだ。
簡単に、これは遠くにあるホームタウンを思う歌である、と歌詞の意味を説明して、二回繰りかえして歌った。伴奏もなく、声量のないわたしの歌は、決してうまいとは言えないものだったが、みんなめずらしいのか、静かに聞いてくれた。
とても日本らしい歌だ、日本語は母音の多い、やわらかい言葉だということがよくわかった、という感想をもらって、わたしは内心ほっとした。

アメリカにいると、何かあると「日本ではどうか」とか、「日本人はこういうときどう考えるか」といったことを聞かれる。彼らにとっての「日本人」とは、このわたしなのである。
そういうとき、わたしはいつも、これは「日本人」ではなくて、あくまでわたしの意見だけれど、と答えていた。それまで「日本人」を意識したこともない自分が、「日本」などという看板を背負って歩くのなんて、まっぴらだ、と思ったのである。

それでも、「日本人の画一性についてどう思うか」と意見を求められて、そういう見方こそ画一的な、一種のステレオタイプではないか、と内心思いつつも、自分の経験をからめながらそうした画一性に批判的な意見を言うと、たいそう歓迎される。そういう見方は ethnocentrism(自民族中心的)ではなく、大変すばらしい意見だ、と言われる。
なぜアメリカ人が聞きたいような意見を口にすると、エスノセントリズムを脱したことになるのだろうか。そういうことは日本でもごく常識的な見解なのに。

それまで日本人である自分について、意識することもなかったわたしは、そもそもどう考えていいかさえよくわからなかった。ありきたりの意見に自分を当てはめ、さらにそれを少ない手持ちの語彙に当てはめる。何かちがう、どこかちがう、と思いながら、日本について、紋切り型の答えを繰りかえしていた。

期間の半分ほどが過ぎたとき、日本人留学生の集まりがあった。
何も考えずにしゃべることのできるのはひさしぶり、とばかり、夢中になって話をしている子もいたが、黙ったままでいられるのがありがたい、と思っていたのはわたしばかりではなかったようで、なんとなくみんな黙りがちだった。

ログハウスを模したレストランの隣の大テーブルには、若い中国系の男性の一団が声高に話していた。あまり会話も弾まないわたしたちのテーブルとは好対照で、唾を飛ばしながら、ケンカでもしているかのような物腰で言い合ったかと思うと、急に笑い合ったり、肩をたたき合ったりしている。まわりのアメリカ人の何とも言えない視線にも臆す気配もなく、その勢いに当てられたような格好で、わたしたちはさらに言葉を失っていた。

やがて奧のステージに、テンガロンハットにバンダナ、ウェスタン・ブーツを履いた数人の人があがってきた。ライブが始まったのだ。

アメリカで一番ありふれた音楽は、マドンナでもなければマイケル・ジャクソンでもない、もちろん古典音楽でもジャズでもない、誰が歌っていても同じに聞こえる、口の中で響かせたあと、いったん平たくして外へ出す、独特の発声のカントリー・ミュージックだった。
日本にいるころ耳にしたことがあったのは、ジョン・デンバーぐらいだったが、アメリカには名前も聞いたことのないカントリー・シンガーが、ものすごくたくさんいた。そうして学生などを除くと、多くの大人はこうしたカントリーを聞いているのだった。

同じような曲が何曲か続いて、やがて耳にしたことのあるイントロが始まった。
〈カントリー・ロード〉、これぐらいなら君らも知っているだろう、一緒に歌え、というのである。

確かにこの歌を歌うことはできた。音楽の授業か、あるいは授業以外だったかもしれないが、ともかく学校で習ったのだ。それでも日本にいるころ、この歌は、どんな情景も見せてはくれない、わたしにとっては何の魅力もつながりも感じられない歌のひとつだった。

すると、隣のテーブルの中国人(国籍ではすでにアメリカ人なのかもしれないのだが)たちが大声で歌い出した。中国訛りの英語というのは、英語というより中国語に聞こえるのだなあと思ったが、彼らは顔をまっ赤にして、力の限り歌っていた。

田舎道よ、わたしを家まで連れていっておくれ
わたしの場所、わたしが帰属するところへ

まるでその歌を知って歌えることが、アメリカ人である証か、あるいはアメリカ人と対等に渡り合えることの証であるかのように、誇らしげに歌っていた。自分たちは、自分たちの場所、自分たちが帰属するところをはっきりと知っているのだ、といわんばかりに。

この歌を歌うアメリカ人は、ウェスト・ヴァージニアの山々に「母なるもの」を思い浮かべるのだろうか。
それぞれに生まれ育った故郷を離れ、東部や西海岸の都市で生活する人々が、この歌を歌いながら、「ウェスト・ヴァージニア」という歌詞の向こうに、「わたしの場所、わたしが帰属するところ」を思うのだろうか。
そこに最初からずっとあるものを「そこにある」と気がつくためには、失われるか、自分がちがうところへ行くかしなければならないのかもしれない。家にいた青い鳥を見つけるためには、いったん家を出て、さまざまな冒険をしなければならないように。
そうしてこの〈カントリー・ロード〉は、「ウェスト・ヴァージニア」を離れた人々が、山々に「青い鳥」を見出す歌なのだろうか。

わたしは日本を離れて、そのとき初めて自分が日本人であることを知った。自分が否応なく結びつけられている「日本人」という言葉と出会ったのだ。
同時にこの言葉は、ほかの人ともわたしを結びつけた。
この言葉はわたしが見つけた「青い鳥」の一羽なんだろうか。

わたしのカントリー・ロードは、わたしをどこへ連れていってくれるのだろう。
自分の母語ではない言葉、自分の気持ちを決して完全に言い表すことのできない言葉、どうしようもなくずれてしまう言葉の歌詞を口ずさみながら、わたしはこの歌がつれていってくれる「わたしの場所」を思っていた。


7.ピカピカのピンのように〜〈New Pin〉


二十代の終わりごろから、気がつけばしばらく音楽を聞かなくなっていた。
まったく聞かなかったわけではないし、そのころだってR.E.M.とか、レッド・チリ・ホット・ペッパーズとか、ペットショップ・ボーイズのように、好きなバンドやグループはあった。それでも、ひところのように、何もかもいっさいをやめて、全身で聞くようなことはなくなっていた。つぎは何を聞こう、と考えることもなく、CDショップはルートから外れ、よく知ったアルバムをなんとなく聞いていればそれで十分だった。

ところがドリーム・シアターと恋に落ちて、また前のように、曲が鳴り始めると、何も手につかなくなり、一心に聞き入ってしまう状態に戻っていった。もしかしたら、おとなになりそこねたのかもしれない、と思わないでもない。けれども一方で、またふたたびそういう状態に戻ることがわたしの必然だったようにも思う。

ひとつのバンドを知り、愛してしまうのは、もしかしたらあまり知的とはいえないことなのかもしれない、とときどき思う。特に、意味不明の歌詞を、この「重力」というのは、ヴェイユのいう「重力」なんだろうか、などと深読みしてしまったりするときなど、これはとんでもない時間の無駄遣いかもしれない、と思うこともある。
同じ時間を使うなら、もっと読まなければならない重要な本を読んだり、聞くにしても、数年もしたらすっかりその良さを汲み尽くしてしまうかもしれない音楽ではなく、名曲のお墨付きがたっぷりついた古典音楽を聞いた方がいいのかもしれない。「シェーンベルグの12音階」とか、「ケージはこんなことを言っていた」と差し挟むと、文章もぐっと知的になってくるのかも。

それでも相変わらずドラムの音やベースの音を聞くと、身体の深いところからざわざわと血が騒ぎ出す。古典音楽のときは吐き気がしてくるピアノの音が、一転、キーボードとしてギターやベースの間から立ち現れてくると、雲間から月の光が差してきたように思う。

一番新しく恋に落ちたのはオーシャンサイズで、とくに二枚目のアルバムの四曲目、カノン形式の〈ミュージック・フォー・ナース〉で異様に高まった緊張感を、つぎの〈ニュー・ピン〉でスコーンと抜くところは、何度聞いてもその緩急のバランスにうっとりとしてしまう。特に〈ニュー・ピン〉の冒頭、ドラムが軽めにドコドコ叩くところを聞いていると、たとえ悲しいことがあったとしても、生きていくということはとてもとても大切なんだ、という気持ちがごく自然に湧いてくるのだ。

こんなふうに、また好きになる音楽ができたということは、とても賢いことではないかもしれないけれど、とてもステキなことにはまちがいない。わたしが恋に落ちたのは、もしかしたら世界で一番賢い人ではないかもしれないけれど、もしかしたら世界一ドラムがうまい人でもないのかもしれないけれど、わたしにとってその音を出す人は世界にたったひとりしかいない。その音を聞くだけで、わたしの世界は明るくなる。
その歌があったから、わたしがわたしになっていったように、その人がいるから、わたしが、わたしになっていく。

まるであふれだした川のように、行き先もわからないんだけど
新しく王様になったみたいに、自信が湧いてくる
まるでそよ風が沈んだ心を引き上げて
浮かび上がったら、新しいピンみたいにピカピカ光ってたみたいに

Oceansize "New Pin"







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