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ここでは Katherine Mansfield の "The Stranger" の翻訳をやっています。
この作品はマンスフィールドの第二短編集 『園遊会 その他』 に所収されているものです。結婚してイギリスに渡った娘のところへ行った妻が、ニュージーランドに戻ってくる。それを夫は埠頭で船が着くのを待っています。久しぶりに再会したふたりはどうなっていくのでしょうか。
淡い、出来事らしい出来事も起きない、ふたりの人生の数時間を切り取った短篇です。けれどもその数時間には、もしかしたらその人の一生が凝縮されているのかもしれません。
原文はhttp://members.lycos.co.uk/shortstories/mansfieldstranger.html" で読むことができます。



見知らぬ人


by キャサリン・マンスフィールド


連絡船


 埠頭に小さな人垣を作っている人びとの目に、その姿は金輪際動くまいと決意したかのように映っていた。灰色にうねる波の上に、巨大な姿を静かに横たえて、煙の輪をひとつ、頭上に浮かべている。おびただしい数のカモメが、やかましく鳴き交わしながら、船尾から投げ捨てられた残飯めがけて水中に飛び込んだ。ふたり一組の小さな人影が並んで歩いていく――ちっぽけなハエが、しわの寄った灰色のテーブルクロスに載った皿の上を、行ったり来たりしているようだ。ほかのハエは端の方に群れてたかっている。低い方のデッキで白いものが一瞬ひらめいた――コックのエプロンか女の客室係りだろう。こんどは小さな黒い蜘蛛が、ブリッジに出る梯子をのぼっている。

 人垣の先頭に立っていたのは、がっしりした中年男性だった。立派な身なりの人物で、暖かそうなグレイのオーバーを着こみ、同色の絹のスカーフに厚手の手袋、濃い色のフェルト帽をかぶって、きちんと巻いた傘を振り回しながら行ったり来たりしている。その姿は埠頭の小さな人垣のリーダーのようにも、人びとを一箇所にまとめる任務を引き受けているようにも見えた。さしずめ牧羊犬と羊飼いの中間とでもいうところか。

 だが、それにしても馬鹿な話――双眼鏡を持ってこなかったのは、うかつな話じゃないか! ここに集まった連中がまた、だれひとり双眼鏡を持ってきていないのだから。

「おかしな話じゃありませんか、スコットさん。わたしたちの誰ひとりとして双眼鏡を持ってくることを思いつきはしなかったんですからね。そうしたら、みんなの気持ちを少しでも引き立てることだってできるのに。こっちから短い合図を送る算段だってできたはずだ。『上陸をためらうべからず。原住民に害意なし』とか、『歓迎が待つ。万事水に流した』なんてね。いかがです、ええ?」

 ハモンド氏の鋭く熱を帯びたまなざしは、ずいぶん気が高ぶっているふうだったが、その一方、親しみやすい、気さくな性質がうかがえて、埠頭に集まった人はみな、ロープの向こうの舷門にたむろしている年老いた沖仲仕たちさえ好意を持った。人びとは、ひとりの例外もなく、船に乗っているのはハモンド氏の奥さんであることを聞かされていたが、その大変な事態も、ほかの人びとにしてみれば、別にどうということでもないかもしれないなどと、興奮したハモンド氏の頭をよぎりもしないのだった。ハモンド氏は、誰に対しても暖かい気持ちを抱いていた。だれもが――と彼は決めこんだ――立派な人なのだ。舷門のそばにいる年寄り連中だって――そう、立派でちゃんとした老人なのだ。なんという胸板だろう――たいしたものじゃないか! 自分も胸を張り、厚い手袋をはめた両手をポケットにつっこんで、体を前後にゆすった。

「そうなんですよ、うちの家内はこの十ヶ月間、ずっとヨーロッパに行ってたんです。去年結婚した長女のところへ行きましてね。家内をここまで連れてきたのはわたしです。オークランドからね。だから迎えも、連れて帰るのも、わたしがやった方がいいだろうと考えたんですよ。そうです、そういうことなんです」鋭い、灰色の目をまた細めて、動きのない定期船を見やった。またしてもオーバーのボタンをはずす。ひらべったい、バターのような薄い黄色の時計をまた取り出して、二十回目――五十回目かもしれない――あるいは百回目の計算がまた始まった。

「ええと、医者の乗ったランチが出たのは二時十五分だった。二時十五分。いまちょうど四時二十八分だ。つまり医者が言ってから二時間十三分が経過したことになる。二時間十三分だ。ひゅぅ」そう言うと、奇妙な口笛のような小さな声を出して、またぱちんと時計を閉めた。「だが何かあったのなら、わたしたちにも知らせてもらわなくてはね――そうじゃありませんか、ゲイヴンさん」

「そのとおりですな、ハモンドさん。だが、何かあったわけではないのだと思いますよ――心配するようなことは何も」ゲイヴン氏は、パイプを靴のかかとに打ちつけながら言った。「それに……」

「まったくその通りですよ、まったくね!」ハモンド氏はさえぎった。「まったくもう不愉快この上ない!」せかせかと歩いていったかと思うと、また、もといた場所、スコット夫妻とゲイヴン氏の間に戻ってきた。「おまけにずいぶん暗くなってきたじゃありませんか」巻いた傘をふったが、その動作はまるで、そうすればたそがれさえもしばらくは遠慮していてくれるとでもいいたげだった。だが、あたりは水に落とした一滴のインクが広がっていくように、ゆっくりと暗くなっていく。小さなジーン・スコットは母親の手を引っ張った。

「ママ、あたし、お茶が飲みたい」とぐずり始めた。

「そりゃそうだ」ハモンド氏が引き取った。「ここにいらっしゃるご婦人方はみんな、お茶を所望しておられるにちがいない」その優しげで血色の良い、同情のこもったまなざしは、人びとの気持ちをふたたび結びつけた。

ハモンド氏はジェニーがあっちの特別室で最後のお茶を飲んでいるだろうか、と考えた。そうだったらいいのだが。だがそうとは思えなかった。ジェニーのことだから、デッキから離れようとはしないだろう。だとしたら、デッキの給仕係がお茶を持ってきてくれるのではないだろうか。もしわたしが船にいたなら、持っていってやるのだが――どうにかして。しばらくのあいだ、彼はデッキの人となっていた。妻の傍らに立って、妻がいつもそうしていたように、小さな手でカップを包みこんでいるのを見つめていた。船上で手に入れることのできた、たった一杯のお茶を……。だが、まもなく彼の意識は岸に戻って、あのいまいましい船長が海の上でぐずぐずするのをいつになったらやめるのかは神のみぞ知るだ、と考えた。彼はまた、向きを変えて行ったり来たりを始めた。そこから馬車の待機所まで歩いていって、お抱えの御者が行方をくらましていないことを確かめる。またひとまわりして、バナナの木箱の前で小さな人垣を作っている人びとのところへ戻っていった。小さなジーン・スコットが、まだ母親にお茶がほしいと言い続けている。かわいそうな子供じゃないか! チョコレートを少しだけでも持っていれば良かったんだが。

「やあ、ジーン」彼は声をかけた。「抱っこしてあげようか?」そうして優しく小さな女の子をひょいと抱き上げると、一段高くなっている樽の上にのせた。ジーンを抱き上げ、なだめてやったことで、彼自身の気持ちがずいぶん慰められ、心も軽くなっていた。

「離すんじゃないよ」そう言って、女の子の体に腕を回してやる。

「あらあら、ジーンのことはお気遣いなく、ハモンドさん」スコットの奥さんが言った。

「大丈夫ですよ、スコットさん。なんでもありません。わたしの好きでやっていることなんですから。ジーンはわたしのちっちゃなお友だちなんです、そうだろ、ジーン?」

「ええ、そうよね、ハモンドさん」ジーンはそう言うと、彼のフェルトの帽子のくぼみに指を走らせた。

 だが、突然、ジーンはハモンド氏の耳を引っ張って、悲鳴をあげた。「見てよ、見て、ったら。ハモンドさん! お船が動いてるわ!。ああ、こっちに入ってくる!」

 ほんとうだ。ジーンの言う通りだ。ついに戻ってきたか。船はゆっくりと方向転換している。銅鑼が波を渡って聞こえてき、蒸気の大きなかたまりが吹き出されるのが見えた。カモメが一斉に飛び立つ。カモメたちは白い紙切れのようにはためいた。深い、ドクンドクンと鳴る音が、エンジンの音なのか自分の心臓の音なのか、ハモンド氏にはよくわからなかった。どちらであるにせよ、しっかりこらえるんだ、なんでもない、と自分を励まさなければならないのには変わりはなかったが。ちょうどそのとき、港長のジョンソン船長が、革の折りカバンを小脇に抱え、大股で埠頭にやってきた。

「ジーンのことはどうかお構いなく」スコット氏が言った。「わたしが娘をつかまえておきますから」父親は危ういところで間に合った。ジーンのことなど忘れてしまったハモンド氏は、ジョンソン船長に向かって駆けだしてしまったのだ。

「さても船長」鋭くたかぶった声が、また響き渡った。「とうとうわれわれに慈悲をたれる気持ちになってくださったか」

「わたしの責任じゃありませんよ、ハモンドさん」老船長は定期便にじっと目をやって、ぜいぜいと喉を鳴らした。「奥方が乗っておられるんでしたな?」

「その通り」ハモンド氏はそう言うと、船長の隣りに並んだ。「ハモンド夫人があそこにいるんだ。おーい、もうそんなにかからないからな!」

 電話のベルのような音とスクリューの回転音であたり一面を満たしながら、巨大な定期船が人びとの方へ迫ってきた。舳先は暗い水を切り裂き、大きな波頭は白いかんなくずのように丸まって砕けていく。ハモンドと港長は人びとの先頭に立っていた。ハモンドは帽子を取った。いくつものデッキに目を走らせる――どこも乗船客でごった返していた。帽子を振り、大きな、奇妙な声をあげて「おーい!」と波を隔てて叫んだ。それからくるりと振り返ると、はじけるように大声で笑い、老船長のジョンソンに向かって何ごとか――ほとんど意味のないようなことを――話しかけたのだった。

「奥さんは見つかりましたか」港長はたずねた。

「いや、まだ……。あ、そのまま――もうちょっと!」そこで急にふたりの不格好な大男のあいだに――「そこをどけよ!」傘で指図する――手が上がるのが見えた――白い手袋をはめた手が、ハンカチを振っている。つぎの瞬間――おお、ありがたい、神様――そこに妻がいた。ジェニーだ。そこにハモンド夫人がいた。そうだ、まちがいない。――手すりのそばに立って、ほほえみながらうなずき、ハンカチを振っていた。

「ああ、あれは一等のデッキだな――、一等だ。よしよし」彼は意味もなく足を踏みならした。それから稲妻のようにすばやく、老船長に葉巻のケースを差し出した。「葉巻を取って置いてくれたまえ、船長。ものはいいぞ。二本とも取っておけよ。さあ」――そうしてケースのなかに残った葉巻を全部船長に押しつけた。「ホテルに帰ればまだふた箱あるんだから」

「そりゃどうも、ハモンドさん」老船長は息をぜいぜいいわせながらそう答えた。

 ハモンド氏は葉巻ケースをしまった。手がふるえているが、すでに自分を取り戻していた。ジェニーの顔が見える。手すりにもたれ。どこかの女性と話しながら、いつでも夫の腕に飛び込んでいけるとでもいうように、彼から目を離さなかった。彼が衝撃を受けたのは、船と岸の距離が徐々に狭まってきたせいで、巨大な船にくらべて妻がいかにも小さく見えることだった。胸は締め木にかけられたように早鐘を打ち、叫びだしたかった。なんと小さく見えるのだろう。あんなに小さいのに、あの長い道中をたったひとりで帰ってきたのだ! いかにもあれらしい、ジェニーらしいことだ。あれにはそんな勇気がある、なんというか――そのとき船員たちが前に出てきて、乗船客を押しやった。船員は手すりをおろして舷門の準備を始めた。

 岸からの声と船上の声が飛び交う。
「みんな元気でいた?」
「ああ、元気だったよ」
「お母さんはどう?」
「とっても元気よ!」
「ジーンちゃん!」
「こんにちは、エミリー叔母ちゃん!」
「船旅は快適だった?」
「最高さ!」
「もうすぐだね!」
「すぐさ」

 エンジンが止まった。船がそろそろと埠頭に横付けされていく。

「道をあけてください、下がって、下がって!」沖仲仕たちが重い道板を船尾の端まで運んできた。ハモンドはジェニーに、そこにいるように、と合図を送った。老港長が足を踏み出す。彼もそれに続いた。いわゆる“レディ・ファースト”などというようなことは、彼の頭をかすめもしなかったのである。

「お先にどうぞ、船長!」ハモンドは大きな声で愛想良くそう言った。そうして老人のかかととつま先が触れ合わんばかりに、道板を大股で上ってデッキに出ると、まっすぐジェニーの下に向かった。ジェニーは夫の腕の中にしっかりと抱きしめられたのだった。

「ああ、よし、よし、やっと帰ってきたな!」そこで言いよどんだ。それ以上何も言えなかったのだ。するとジェニーが顔を上げて、落ち着いた小さな声で――彼にとっては世界にたったひとつの声で――言ったのだった。
「あなた、ずいぶん長くお待ちになって?」

 いや、たいした時間じゃない。どのみち時間なんて問題ではないのだ。すんでしまったことなのだから。だが、そうは言っても、波止場の入り口に馬車を待たせているのだ。ジェニーは船を下りる準備ができているのだろうか? 手荷物の支度は整っているのだろうか? 船室の手荷物だけ持っていき、残りは明日にすればいい。ハモンドが妻の方に身をかがめると、ジェニーはなつかしい、笑いかけたような表情で彼を見上げた。まったく前と同じだ。一日も離れていたようには思えない。彼の知っているそのままの妻だった。小さな手が彼の袖にかかった。

「子供たちはどうしてます、ジョン?」

(子供のことなんてどうだっていいだろう!)「すばらしく元気だよ。いままでこんなに元気だったこともないぐらい元気だよ」

「あの子たち、わたしに手紙を書いてくれなかったのかしら」

「ああ――もちろん書いたさ。ホテルに置いてきた。あとで読めばいい」

「すぐには下りられないの」と彼女は言った。「お別れの挨拶をしなきゃいけない人もいるし――それに船長さんにも」夫が下を向いてしまったので、わかっているわ、というように、その腕をきつく握った。「もし船長さんがブリッジから降りていらっしゃったら、あなたからお礼を言ってくださいな。それはよくしていただいたんですから」

そうだ、妻は戻ってきたのだ。もう十分待ってくれ、と言うのなら……。彼が一歩退くと、妻の周りに人が続々と集まってきた。どうやら一等船客の全員が、ジェニーに別れが言いたいらしい。

「ごきげんよう、ハモンドさん。今度、シドニーにいらっしゃるときは、ぜひお越し下さいませね」
「ハモンドさん! どうか手紙を書くのを忘れないでくださいね」
「さても、ハモンドさん、実際あなたがこの船にいらっしゃらなかったら、どんな船旅になっていたことやら」

 あれが船のなかでもずば抜けた人気者だったのは、まったく火を見るよりも明らかだな。いちいちそれに返事をしている――いつものように。まったく落ち着き払ったまま。あの小さな体で――あくまでもジェニーらしく。ヴェールを上げてそこに立っている。ハモンドはいまだかつて妻がどんなものを身につけているか、気をつけたことがなかった。何を着ていようが、彼にはまったく同じことだったのだ。だが、今日ばかりは妻が黒い「スーツ」――で良いのだろうか?――を着ていて、襟元と袖口に白いひらひら(おそらく縁飾りというのだろう)がついているのに気がついた。そうしているあいだも、ジェニーは彼を紹介してまわった。

「ジョン!」それから「こちらの方を紹介するわ」

 やっと人の輪から逃れることができ、妻は自分の一等船室に彼を案内してくれた。妻の知り尽くした通路を、その後について歩くというのは、彼にとっては不思議な経験だった。ジェニーに続いて緑色のカーテンを分けて、妻のものだった船室に足を踏み入れると、なんともいえない幸福な気持ちがした。だが――忌々しい話だ!――船室係りがそこにいて、床の上で敷物をひもでしばっているところだった。

「これでおしまいです、ハモンド様」船室係りはそう言うと立ち上がり、まくっていた袖をおろした。

 彼はここでも紹介され、それからジェニーは船室係りと一緒に廊下に出ていった。ふたりが小さな声で話しているのが聞こえる。チップを渡すか何かしているのだろう。縞模様のソファに腰を下ろし、帽子を取った。妻が持っていった膝掛けの類があった。どれも新品同然だった。荷物はどれも未使用のまま、傷一つついてない。名札には小さな読みやすい妻の筆跡で「ミセス・ジョン・ハモンド」と書いてあった。

「ミセス・ジョン・ハモンドか」満足げなため息をもらし、椅子に背をあずけ、腕組みをした。緊張のときは終わった。安堵のため息をつきながら、ここでなら半永久的にすわっていられる――不安な、心臓をわしづかみにされたままひきずりまわされているような感覚から解放された安堵感に浸った。危険は去ったのだ。そんな気がした。おれたちは乾いた土の上に戻ってきたのだ。

 だが、そのとき入り口にジェニーの頭がのぞいた。
「あなた、お医者様のところにお別れを言いに行ってもかまわないでしょう?」

 ハモンドは急いで立ち上がった。「一緒に行こう」

「いいのよ、そんなことはなさらなくて。わたしがひとりで行ってきますわ。一分もかかりはしないのだから」

 そうして夫の返事も聞かず行ってしまった。追いかけようと思いはしたが、そうする代わりにまた腰を下ろした。

 ほんとうにすぐに戻ってくるのだろうか? いったいいまは何時なのだろう。時計を取り出した。だが目をやっても何も見ていなかった。ジェニーの様子はおかしくはないか? どうして船室係りに船医への挨拶を言付けなかったのだろう? ホテルから手紙を出したっていいのだ、もしどうしても言っておかなければならないことがあるのなら。どうしても言っておかなければならないことだって?――そんなことがあったのか――航海中に具合でも悪くなったとか? 何か隠していることでもあるのだろうか? そうにちがいない。彼は帽子をつかんだ。出ていって、そいつを探し出し、どうにかして本当のところを吐かせるのだ。自分が何かをつかまえたような気がした。なんだか冷静過ぎる――あまりにも落ち着きすぎている。顔を合わせたときから……。

 カーテンが開く音がした。ジェニーが戻ったのだ。ハモンドは急いで立ち上がった。「ジェニー、航海中に具合でも悪くなったのか? そうなのか?」

「わたしが?」軽やかで細い声が、からかうように聞き返す。膝掛けの包みをまたぎ、夫のすぐそばにやってきて、胸元にそっと手を置き彼を見上げた。

「あなたったら」彼女は言った。「びっくりさせないで。もちろんわたしは元気でしたわ。どうしてそんなことを思ったりしたのかしら。わたし、具合が悪いように見えます?」

 だが、ハモンドは妻を見ようとはしなかった。ただ、妻が自分を見ているのを感じ、心配するようなことは何もないのだ、と思っただけだった。妻はここでやらなければならないさまざまなことがあるというだけだ。何も気に病むようなことはない。万事順調なのだ。

 妻の手がそっと押しつけられて、気持ちは落ち着いてきた。彼は自分の手を妻の手に重ね、やさしく握った。すると妻は言った。

「じっとしていて。あなたのお顔をよく見たいの。だっていままでその暇がなかったんですもの。お髭の手入れをきれいになさってる。それに、ね――若返ったみたい。そうよ、絶対、お痩せになった! 独身生活がきっと合うんでしょうね」

「独身生活が合うだって!」愛しさがこみあげてきて、うめくようにそう言うと、妻をまたきつく抱きしめた。するとまた、いつものように、決して自分のものにはならない何ものかを抱いているような気がした――どうしても自分のものにはならない。手を離してしまえばすぐにどこかへ飛んでいってしまいそうな、あまり繊細で、あまりに大切な何ものか。

「後生だから、早く船を下りて、ホテルでふたりきりにさせてくれないか」そうして彼は荒々しく呼び鈴を鳴らし、荷物の面倒を見てくれる者を呼んだ。

* * *

 ふたりで埠頭を歩きながら、妻が彼の手を取った。夫も妻に腕を回した。もはやひとりではない。ジェニーのあとから馬車に乗り込みながら――赤と黄の縞模様の膝掛けにふたりの体をくるんで――御者を急がせた。わたしたちはまだお茶も飲んでいないのだから、と言って。もうお茶を飲まずにすませたり、自分で自分のお茶を注いだりするようなことはしなくてよいのだ。妻が戻ってきたのだから。そちらを向いて、その手を握りしめ、これまでいつも妻に話しかけるときだけの「特別な」声音で、やさしく、からかうような調子で言った。「家に帰ってこれてうれしいかい?」妻はにっこりと笑顔になった。わざわざ言葉にするようなことはなかったが、馬車が明るい通りに入っていくと、彼の手をそっと引き寄せた。

「ホテルのなかで一番良い部屋を取ったんだ」彼は言った。「他人に邪魔されるのはごめんだからな。客室係りに少し火を焚いておくよう言っておいた。君が寒かったらいけないからね。なかなかいいメイドなんだ、よく気がつく娘だよ。せっかくここまで来たのだから、何も明日すぐ帰らなきゃならないってこともあるまい。明日一日、ここいらを見物して、明後日の朝発ったらどうだろう? 君もその方がいいと思わないか? 急ぐことはない、そうだろう? 子供たちだってすぐに会えるさ……明日一日、いろいろ見物でもしたら、君も道中のいい骨休めができるんじゃないかな――どうだい、ジェニー」

「切符は明後日のものをお買いになったの?」

「そんなふうに思ったからね!」オーバーのボタンをはずして、ふくらんだ札入れを出した。「ほら見てごらん、ネーピア行き一等車。ほら――『ジョン・ハモンド夫妻』とあるだろう。できるだけ楽をしようじゃないか。人に煩わされるのはいやだし。そうじゃないか? だが、もしおまえがもっとここに長くいたいなら……」

「あら、それでいいのよ」ジェニーは急いで言った。「ほんとにそれでいいの。では明後日ね。それで、子供たちは……」

 だがふたりはホテルに着いていた。支配人が、広く明るいポーチに立っている。ふたりを出迎えにおりてきた。ポーターも手荷物を受け取りに、ホールから走って出てきた。

「やあ、アーノルドさん。家内がやっと戻ってきましたよ」

 支配人はみずから先に立ってホールを抜け、エレヴェーターのボタンを押した。ハモンドは自分の仕事仲間がロビーにある小さなテーブルを囲んで、夕食前に一杯飲んでいるのを知っていた。だが、うっかり邪魔されるようなことにでもなったら大変だ。彼は左にも右にも目を向けなかった。連中は連中でやっていればいい。わからないのなら、そいつがバカだというだけの話だ――エレヴェーターから出ると、部屋の鍵を開け、ジェニーを先に通した。ドアが閉まった。とうとうほんとうにふたりきりになれたのだ。彼は明かりをつけ、カーテンを引いた。暖炉の火は燃え上がった。大きなベッドに帽子を放り投げ、妻の方へ行った。

 だが――こんなことがあるだろうか!――またしても邪魔が入ったのである。今度はボーイが荷物を運んできたのだった。出ていったかと思うと、ドアを開けたまままた戻ってきて、時間をかけて通路を歩いてくるあいだも、歯の隙間から口笛を鳴らしている。ハモンドは部屋をいったりきたりしながら、手袋を引き抜き、スカーフを引きはがした。最後にオーバーをベッド脇に投げ出した。

 やっとあのバカが行ったか。ドアがカチリと閉まった。こんどこそふたりきりになれたのだ。ハモンドは言った。「もう二度とふたりきりにはなれないような気がするな。まったくいまいましい連中だ! ジェニー?」そう言うと、熱のこもった真剣なまなざしを妻に向けた。「晩飯はここで食べようじゃないか。食堂に下りていけば、また邪魔が入るかもしれないし、あそこではやかましい音楽をやっているからな」(その音楽を昨夜の彼は褒め称え、さかんに喝采を送っていたのに!)。「話をしようにも、声がろくすっぽ聞こえないんじゃな。ここで、暖炉の前で何か食べることにしよう。お茶の時間にはすっかり遅くなってしまったが。簡単な晩飯でも注文するよ、それでいいね?」

「あなた、そうなさって」ジェニーが言った。「あなたが注文してらっしゃるあいだに、――わたし、子供たちの手紙を……」

「おい、そんなものならあとでいくらでも読めるじゃないか」

「でも、片づけてしまいたいの」ジェニーは言った。「それに、わたし、その前に……」

「ああ、そうだった、下まで行く必要なんかないんだよ」ハモンドは力説した。「呼び鈴を鳴らして注文すればいいんだから……それともわたしがここを出たほうがいいと言うんじゃあるまいな?」

 ジェニーはかぶりをふってほほえんだ。

「何かほかのことを考えているね。気がかりでもあるのか」ハモンドは言った。「どうしたんだ? さあ、こっちにおいで――火のそばに寄って、この膝の上においで」

「帽子をとらなくては」ジェニーはそう言うと、ドレッサーの方へ歩いていき「あら!」と小さな声をあげた。

「どうした?」

「なんでもないの。子供たちの手紙を見つけたのよ。だけどいいわ! あとにすれば。急ぐことではないのですものね」手紙を手に取ったまま、夫の方を振り返った。手紙をフリルのついたブラウスの内に押し込む。それから急いで明るい大きな声を出した。「あらまあ、このドレッサー、いかにもあなたらしいわね!」

「何のことだ? それがどうかしたのか?」

「このドレッサーが永遠の世界に浮かんでたとしても、わたし、きっと『ジョン!』って呼ぶでしょうね」ジェニーは声を上げてわらうと、ヘア・トニックの大きなビンや、オーデコロンの小枝細工のビン、二本のヘアブラシ、ピンクのひもでまとめてある一ダースほどの真新しいカラーをじっと見つめた。「あなたのお荷物はこれで全部?」

「わたしの荷物なんかどうだっていいじゃないか!」ハモンドは言った。だがそう言いながらもジェニーにからかわれることはうれしかった。「もっと話そう。さあ、ほかのことは忘れようじゃないか。話を聞かせておくれ」――ジェニーが膝の上に腰を下ろしてきたので、彼は後ろに身を反らせて、深く不格好な椅子に引き込んだ――「ジェニー、君はほんとに帰ってきて良かったと思ってるのかい」

「ええ、あなた。わたし、うれしいのよ」

 だが、そうやって妻を抱きしめたところで、彼には妻がどこかへ行ってしまいそうな気がするのだった。ハモンドには決してわからない――金輪際、わかりっこないのだ。自分が喜んでいるように、妻が喜んでいるのかどうか。いったいどうやって知ることができるのだろう? いつかわかる日が来るのだろうか。このまま自分はずっとこの焦がれるような思いを抱えていくのだろうか――飢えにも似た痛み、決してジェニーが自分から離れていってしまわないように、どうにかして妻を自分の一部にしたいという渇望を。あらゆる人、あらゆる物を消してしまいたかった。電灯さえも消してしまいたい。そうすれば妻をもっと近くに引き寄せることができるかもしれないから。だがそのとき、子供たちの手紙が、妻のブラウスの内側でガサゴソと音を立てた。そんなもの、火の中へくべてしまえ。

「ジェニー」彼はささやいた。

「なあに?」彼の胸に身を預けていても、その身はあまりに軽く、たよりなかった。ふたりの呼吸は重なって、高くなり、低くなりした。

「ジェニー!」

「どうしたの?」

「こっちを見て」彼はささやいた。ゆっくりと、深い血の色が彼の額にさしていった。「キスしておくれ、ジェニー。キスして」

 一瞬、間があいたような気がした――だがその間は、彼にしてみれば、拷問と感じられるまでに長いあいだだったようにも思えた――やがて、彼女の唇が、軽く、だが、しっかりと押しつけられた――これまでずっと彼にキスしてきたように、あたかもそのキスが――どうやって説明できるというのだろう?――ふたりの言葉を保証するかのよう、まるで契約にサインするかのように。だが、彼はそんなものを求めていたわけではない。彼が渇望していたのはまるでちがうものだった。不意に、恐ろしいまでの疲労を彼は感じた。

「君にはわからないだろうな」彼は目を開けた。「どんな気分でいたか――今日待っているあいだにさ。船はもう入って来ないんじゃないかと思ったよ。あそこでわたしたちはただぶらぶらしていたんだ。なんでそんなに時間がかかったのかい?」

 ジェニーは返事をしなかった。夫から目をそらして、火を見つめていた。炎はゆらめいている――石炭を包みこんで燃える炎は、立ち上ったかと思うと小さくなり、それを繰り返す。

「寝てるんじゃないだろうね?」ハモンドは言うと、妻を上下に揺すった。

「寝てなんかいないわ」そう答えて、しばらくしてから続けた。「そんなこと、およしになって。うとうとしてたんじゃなくて、考えごとをしてたの。ほんとうを言うとね」彼女はさらに言った。「昨夜、船に乗り合わせた方がひとり、亡くなったの――男の方。だからあそこで止まっていたのよ。船はその人を連れて帰ったの――水葬にはしなかった、っていうことよ。だから、もちろん船のお医者様も、陸のお医者様も……」

「なんだったんだ?」ハモンドは不安そうに聞いた。彼は死の話題を耳にするのが大嫌いだった。そんなことが起こったというのがいやでたまらなかった。奇妙なことに、なんだか自分とジェニーがホテルに戻る途中で、葬式に出くわしたような気がした。

「あら、伝染病なんかじゃないのよ」ジェニーは、息にかろうじて音が混ざるほどのささやき声で話した。「心臓だったの」間が開いた。「かわいそうな人だった」彼女は言った。「若い人だったのよ」炎が燃え上がり、崩れ落ちるのを見ていた。「わたしの腕の中で息を引き取ったの」

 衝撃があまりに急だったので、ハモンドは気を失うかと思った。身動きできない。息さえもできない。体中の力という力が流れ出していくような気がした――大きな、暗い色の椅子の中に流れ出し、その椅子が急いで彼をしっかり支えて、なんとかそれをこらえ、受け止めさせようとしているような気がした。

「何だって?」苦しげな声で彼は言った。「いま、なんて言ったんだ」

「亡くなったそのときは、とてもやすらかだったの」声は小さかった。「あの人は」――ハモンドの目には、妻が小さな手を挙げるのが見えた――「ひとつ息をして、それでおしまいだった」彼女の手が落ちた。

「誰か――そこにはほかに誰がいたんだ?」ハモンドはやっとのことでそれだけ聞いた。

「誰も。その人と一緒にいたのはわたしだけ」

 おお、なんということだ。こいつはいったい何を言ってるんだ? このおれに何をしようと言うんだ! ああ、死にそうだ。だが、そのあいだにも彼女は言葉を続けていた。

「容態が変わっていくのがわかったから、給仕にお医者様を呼びにやらせたの。でもお医者様が来たときには遅かったわ。だけど、何にせよできることなんてなかったんでしょうけどね」

「それにしても――なんで、どうしておまえが……」ハモンドはうめいた。

 それを聞いたジェニーは、ぱっと向き直って、夫の顔に素早く目を走らせた。「そんなこと、まさか気になさったりしないわよね、ジョン?」彼女は聞いた。「気になさったりはしないでしょう……あなたにも、わたしにも、なんの関わりもないことなんですから」

 彼は苦労しながら、どうにか笑顔めいたものを妻に向けた。それからやっとのことで、もごもごと言った。「まあ――なんだ、で、どうなった? それからどうしたんだ。その先を聞かせてくれ」

「でも、ね、ジョン……」

「話すんだ、ジェニー!」

「話さなきゃならないようなことはないのよ」そう答えながら、とまどっているようだった。「一等船客のひとりだったってだけ。上船したときから、ずいぶんかげんが悪そうに見えたの……。でも、昨日まではずいぶん良くなっているように見えたわ。だけど、午後になってひどい発作が起きたの。きっと、もうすぐ着くっていうことで――興奮したのね――神経がたかぶったんでしょう。それで、もう回復できないところまでいってしまったの」

「だが船室係りだっていただろうに……」

「まあ、船室係りだなんて!」ジェニーは言った。「そんなことしたら、あの方、どんな風に思ったでしょう。それに……何かことづてだってあったかもしれないし……誰かに……」

「何も言わなかったんだろう?」ハモンドは低い声で言った。「何か言ったのか?」

「いいえ、あなた、一言も言わなかった」彼女は静かに頭をふった。「わたしがそばにいてあげたあいだ、あの人はほんとに弱ってしまっていて……指一本動かせないくらい、弱ってしまっていて……」

 ジェニーは黙ってしまった。だが、彼女の言葉、軽く、おだやかで、凍りつきそうな言葉はまだあたりをただよっていて、彼の胸の内に雪のように吹き込んでくるような気がした。

 火は赤い熾火になっていた。その熾火もやがて鋭い音をたてて崩れ、部屋は冷えていった。寒さが彼の腕を這い上っていく。部屋は広く、とてつもなく大きく、明かりが煌々と照りつけていた。それが彼の世界のすべてだった。部屋には大きなベッドがあって、その上には彼のオーバーが、まるで頭のない男がお祈りを唱えているような格好で投げ出されていた。荷物は、いつでもどこにでも持ち運びできるように、汽車に投げ込まれ、台車に乗せられて船に積み込まれるのを待ちかまえているようだった。

「……あの人は弱っていたの。指一本、動かすことができないくらい」そう言っても、そいつはジェニーの腕の中で死んだんじゃないか。ジェニーは――これまで一度も――この長い年月、たった一度だって――どんな場面だって――。

 しまった。こんなことを考えてはいけない。そのことを思うと、気が変になりそうだ。いや、そんなことに気持ちを向けてはいけない。ああ、もうがまんができない。耐えられそうにない。

 すると、今度はジェニーが夫のネクタイを指でふれた。ネクタイの両端をつまみあげて重ねる。

「あなた――ごめんなさいね、こんな話をしてしまって。ジョン、あなた――話を聞いていやな気がした? 今晩を台無しにしてしまった? ふたりきりになれたのに?」

 そう聞かれて、彼は顔を隠さずにはいられなかった。自分の顔を妻の胸元にうずめて、両手で妻を抱きしめた。

 ふたりの夜はだめになってしまった。ふたりきりになれたのに、めちゃくちゃになってしまった。もう二度と、ふたりきりになることもないだろう。




The End





ひとりの人間の、ほかのひとりの人間への愛


マンスフィールドの短篇は、つねに説明にあたる部分ができるだけきりつめられているために、作品が切り取る以前にいったい何があったのか、暗示的にしか示されていない。ここでも、実際に船のなかで何があったのか、わたしたちはハモンド氏同様、何一つ知ることはできない。

わたしたちに与えられている手がかりというと、ハモンド氏に関するいくつかの情報、裕福な中年男性で、おそらく結婚したのは一番上の娘なのだろう、その下にはおそらく十代ぐらいの子供が何人かいるのだろう、ということぐらい。もう少し埠頭でのようすを注意深く見るならば、人好きのする、人が集まればリーダーとなるような人物ではあるが、樽に乗せたまま子供を忘れてしまうほど気まぐれで、喘鳴のある老船長に葉巻を押しつけるような、気持ちの細やかさとは縁のない人物でもある。そうして、ずいぶん長い結婚生活であるにもかかわらず、未だに妻に夢中なのである。嫁いだ娘のことを聞くでもなく、妻がいないあいだの子供たちのことを話して聞かせるでもない。二十世紀初頭のイギリスやニュージーランドのアッパーミドルクラスの男性は、子供は乳母や家庭教師にまかせていたことを考えると、彼の態度も不思議ではないのかもしれないが、それにしてもこの態度は、いささか極端に思える。十ヶ月離れていたという以上に、歳月を重ねた夫婦の愛情とは思えないほどの激しい感情を、妻に対して抱いているらしい。

わたしたちは誰かを好きになるとき、自分と近い部分、共通する部分に引かれるだけでなく、自分の知ることのできない部分、自分には手の届かない部分にも引かれていく。知らない部分を知りたい、手の届かない部分をわがものにしたいと願う。長い年月をともに過ごした夫婦の関係が安定するのは、なによりも知らない部分、自分のものにはならない部分がもはやなくなってしまった、という思いこみから来る安心であり、安定なのだろう。

だが、ほんとうに人は仮に何年、何十年と共に過ごしたとしても、自分ではない他者である相手のことを、ほんとうに知ることができるのだろうか。相手のことを理解した、よくわかったと思った瞬間に、愛は消えてしまう。その意味で、別の面ではいささか勝手で短慮なところもあるハモンド氏は、妻に対しては「愛する人」であり続ける。

だが、妻の目から見たハモンド氏は、身だしなみの道具を並べたドレッサーそのもののような人物である。彼に対して落ち着いた優しい気持ちは持っていても、それはもはや「愛」とは呼びがたい。

妻のジェニーがどんな人物なのかは、ハモンド氏よりさらにわかりにくい。船の中ではほかの乗船客や乗組員たちに愛されていたらしいこと、あとに残してきた子供のことが気がかりで、夫と観光をするより、早く家に帰りたいらしいことはそれとなくうかがえても、肝心の、死んでいった青年と、いったいどういう関係だったのか、なぜ彼をたったひとりで看取ることになったのかはいっさい明らかにはならない。

この妻の心を占めているのが、彼女が看取った青年の死である。せっかく良くなってきたように思われたのに、故国の土を踏むことができる、と喜んだ、それが原因で死んでいく青年を、ジェニーはたったひとりで看取ったのである。おそらくその瞬間は、自分が死んでゆくのを見ているような、自分が死んでいくような瞬間だったのだろう。その経験は、おそらく言葉にはなるものではないのだろうし、ましてドレッサーのような夫と共有できるものではない。

明らかにならないからこそ、いっそう焦がれるハモンド氏の愛情と、ジェニーの心に深く秘められた「死の経験」は、決してかみ合うことがない。誰ともつかない語り手は「もう二度と、ふたりきりになることもないだろう」と予言する。ひとりきりで迎えに行ってさえ、これだけ邪魔が入るのだ。おそらくこれからも、幅広い社交生活を営むふたりのあいだには、さまざまな「他人」たちが入り込むことだろう。

だが、おそらく入り込むのは生きた他人ばかりではないはずだ。たとえ実質的にはふたりきりになったとしても、ハモンド氏はかならず妻がたったひとりで看取った青年のことを思い出すだろうし(そうしてその関係に思いをめぐらすことをやめることはできないだろう)、ジェニーもまた「自分が死んでいくような瞬間」を胸の奥底にしまいこみ、つねにそのときの記憶とともにあるはずだ。

相手を自分のものにしたいと願いながら、そのつど遠ざけられ、隔てられ、どこかに到達することなく、完了することもないハモンド氏の姿は、「愛する人」の姿である。「愛する人」の船は、どこにも行き着くことはない。

そしてまた、たまたま同じ船に乗り合わせただけの青年が死んでいくのを、あたかも自分が死んでいくように看取ったジェニーの経験も、自分自身の死まで完了することはないのだ。

出来事はわたしたちの目の前で、あるいは見ていないところで絶え間なく起こり続ける。その始まりがいったいどこなのか、わたしたちには特定することさえできないし、いったい何が起こっているのかもわからない。ところが「原因と結果」という図式を当てはめてものごとを考えるわたしたちは、いつのまにか「出来事」というのは、くっきりとした初めと中と終わりを持つ「物語」のようなものだと思ってしまう。そんなときにマンスフィールドのような短篇を読むと、逆に、わたしたちの現実の生のわからなさを思い出させてくれるのだ。

フラナリー・オコナーは「短編小説を短く終わらせないのは意味である」(『秘儀と習俗』)と書いている。この短篇もごく短い時間を切り取ったものだ。四時二十五分ごろから始まって、最後の場面はおそらく八時前だろう。この作品を読むわたしたちは、さらに短い時間で最後までたどりつく。それでも、たとえ最後のページをめくっても、わたしたちは名にも終わったような気はしない。どこにもたどりつけない登場人物たちのおかげで、わたしたちのなかでこの短篇は終わらない。

初出August5-11, 2008 改訂August17, 2008

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