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――もうちょっと大人になったらステキだと思わない?
それならそんなに待たなくてもいいし
ぼくたちが一緒に暮らせたらステキだよね
ぼくたちにぴったりの世界でさ

(The Beach Boys "Wouldn't it be nice")


夏休みが長かったころ



麦わら帽子


1.夜の波音


生まれて初めて親元を離れて泊まったのは、小学校四年のときだった。
一学期の終業式が終わってすぐに始まる臨海学校で、房総半島の先のほうに行ったのだ。

ほとんどの生徒が親元を離れるのは初めてで、説明会だの保護者会だの、ずいぶんいろんな準備があったような気がする。とはいえ大変なのは先生と母親ばかりで、わたしのほうはクラスのだれと並んで寝ようか、ふたりから誘われているのだけれど、トシコちゃんがいいか、エミちゃんにしようか、と悩むぐらいがせいぜいだった。

巨大なオレンジのリュックサック、ついにそのとき一度しか使わなかったあのリュックサックも実家に戻ればまだあるのかもしれない。学校指定のそのリュックを、わざわざスポーツ用品店まで買いに行ったのだ。たかだか三泊四日のためにいったい何を入れる必要があったのか、弟が入って遊んだぐらい大きなリュックサックに、バスタオルを二枚、水着、着換え、そのほかにはいったい何を詰めたのだろう。それでもいざ準備を始めると、あれも持っていきなさい、これも持っていきなさい、ということになったのではないのかと思うのだけれど、ともかく八分ほどは詰まっていった。

その日の朝、脚をふらつかせながらまず学校へ行き、そこからバスに乗って目的地へ向かう。途中、お弁当を食べるためにどこかに停まったのだと思うが、それがどこだったかはまったく記憶にない。ただ、ずっとバスに揺られるだけだったためにまったくお腹が減らず、お弁当も半分ほどしか食べられなかった。わたしは食べられなかったお弁当を、そのままナプキンで包んで持って帰ったのだが、真夏、四日前の弁当が残った弁当箱を洗う母はさぞいやだったことだろう。その場で処分する、という知恵など、まったく回らなかったのである。

バスから降りて、自分の背丈と同じくらいのトウモロコシ畑の間の細い道をうねうねと歩く。夏空は薄い水色で、綿を千切ったような白い雲がいくつも浮かんでいた。木の電信柱にセミが留まって鳴いている。向こうの山が白い日差しのなかで黒々とそびえ、手前の木の梢の葉は、濃い緑にきらきら輝いていた。
わたしの少し前を歩いていた引率の先生が振り返って、「君らはもう泣こうがどうしようが、四日先まで家には帰れないんだからな」と話した。やがて後ろの方でくすん、くすん、と鼻をすする音がし始め、と思うと、その音はあちこちから聞こえてきて、涙こそ出なかったけれど、しばらく家には帰れないのだという思いがしこりのように、みぞおちのあたりに固まってくるのを感じたのだった。

おそらく民宿のようなところに泊まったのだと思う。山が海岸近くまで迫り、細い平野部にその大きな家はあったのだ。目の前に狭い砂浜があり、その向こうに波打ち際が続く。
おそらく入り江のようなところだったのだろう、水平線は見えず、海の向こうにもまた山が迫っていた。

それまで、家族で何度か海水浴に行ったことはあったけれど、泳ぐのはもっぱらプールで、水に入ってみると、波のある海はずいぶん泳ぎにくかった。何よりも、眼が痛くなるのには困った。
海の水は冷たくて、あがると寒かったような記憶があるのは、たまたま涼しい日だったか、直前に雨が続いたかどうかしていたのだろうか。ただ、いまに比べると、そのころの七月というのは、いまの七月の暑さとずいぶんちがっていたような気もする。

海から上がると、走って浜辺の焚き火のところに行く。
薪を積み上げた上にはアルミの黄色い大鍋があって、そこへいくと、夏用の薄いベールをかぶったシスターが、ひしゃくで鍋の飴湯を、丈の低い、紺地に白い水玉が抜き出してある、ありふれた柄の湯呑みにすくってくれる。ショウガの匂いのきつい、熱くてどろっと甘い飴湯は、ほかのときならおいしいと思うこともなかったろうに、そのときは不思議とおいしく、海から上がるたびに、ふうふうと吹きながらすすっていたような気がする。

ところが初日の晩ご飯、カレイの煮付けだかなんだかを食べていたら、急に胃がきゅんとつかまれたような感じになった。家のご飯と味付けがちがう。そう思ったとたんに、激しいホームシックにかられてしまったのである。
涙が出そうで、喉は棒でも呑んだよう。これ以上、何も飲み込むことなどできそうにない。ホームシックなどとは言えなかったために、「お腹が痛い」と訴えた。
ひとりちがう部屋に寝かされ、養護の先生にビオフェルミンか何かをもらった。
横になったまま、もう三日寝たら、家に帰れるのだ、と、まだ一晩も寝ないうちに考えた。
波の音が耳について離れなかった。


2.初めてのデート


富士山麓に林間学校に行ったのは中学三年の夏だ。
初めて親元を離れてから、修学旅行やクラブの合宿、中学の臨海学校と、親元を離れることもずいぶん回数を重ね、そのころにはホームシックになるどころか、帰らなければならない日が憂鬱になるほど、わたしも成長していたのだった。
たいがい、夏休みの始めにそうした行事が終わってしまうと、あとは延々と家族の顔ばかり見て過ごさなければならなくなってしまうのである。そういう日が三十日以上待っているというのに、ホームシックなんぞになるわけがないのだ。

このとき、キャンプファイヤーの余興で、ギターを弾いて歌う大杉君の伴奏で、わたしはピアニカを吹くことになっていた。そうでなくても多い荷物に加えて、わざわざかさばるピアニカを入れていくのは大変だったけれど、なによりもれを楽しみにしていたのだった。

それまで大杉君と言えば、多くの男子がノーアイロンのさえないワイシャツを着ているなかで、ひとりだけオックスフォードのボタンダウンのシャツを着ている子、というぐらいの印象しかなかった。ときどき教室の後ろでギターを弾いていたのは知っていたけれど、当時、なんとなく日本のいわゆる「ニューミュージック」というものに偏見を持っていたわたしは、特に気に留めたこともなかったのである。

その大杉君から「ピアニカ、吹いてもらえない?」と言われたときは、えー、ピアニカ? と思ったものだった。これだから「ニューミュージック」っていうのは……。
ピアニカなんて、幼稚園のときに吹いたことがあるくらい。鍵盤数も少ないし、片手でしか弾けない。ぶーかぶーかと素朴といえば素朴、いささか間の抜けた音がする楽器だ。
大杉君が作曲したという譜面を見せてもらったのだけれど、四分音符と八分音符の単純なメロディをイントロと間奏でちょこっと弾くだけだ。これじゃつまらないなぁ、と思ったのだが、それでも、そんなふうに誘われたことがうれしかった。

一学期の終わりに、一度だけ音合わせをした。
ありきたりのコード進行に、いろんなバラードからちょっとずつもらってきたようなメロディがのり、ささやかな間奏があった。それでも、アンサンブルというのは楽しいもので、自分の音が人の出す音に重なっていくときの和音の喜びというのは、何にもかえがたいものがある。たとえそれが「蛙の歌」の輪唱であっても、自分ではない声と自分の声が醸し出すハーモニーを耳で聞けるのは楽しいのだ。
何度か練習して、「もうバッチリ」とお互いを讃え合い、当日を心待ちにしていたのだった。

歌あり、踊りあり、寸劇ありの出し物の、ほとんど最後のほうだったと思う。
野外では、教室で練習したときとちがって、音が拡散してしまうために、ピアニカを吹き始めると、ギターの音はほとんど聞こえない。それでもわたしは燃え上がる焚き火に照らされてオレンジに染まった大杉君の指に合わせてピアニカを吹いた。アンサンブルも何も、自分の音しか聞こえなかったけれど、指のリズムと自分の音がずれないように、それだけに集中していったのだ。
終わってから浴びた拍手のほとんどは大杉君の歌とギターに向けられていたのだろうけれど、わたしはとても満足だった。

林間学校も終わって、気だるい夏休みの日を過ごしていたある日、大杉君から電話がかかってきた。映画を見に行こう、という。わたしはおそるおそる母親に聞いてみた。
誰と行くの、という問いに、大杉君、あと、池田さんと村松さんと横山君と……と、思いつく名前をいくつも追加した。しょうがないわね、としぶしぶ了解した母は、危ないところ(これはゲームセンターのこと)に近寄らないように、遅くならないように、とくどくどいつまでも言っていた。

待ち合わせた駅に行くと、ボタンダウンのシャツを着た大杉君が片手をあげた。いつもとはちがって、薄い水色のストライプが入っている。
制服の黒いズボンのかわりにジーンズ、ストライプのシャツ、ただそれだけなのに、なんとなく初めて会った男の子のようでもあり、わたしは言葉が出なかった。
基本的に話すことがないときは黙っていることにしているのだけれど、そのとき映画館に着くまでずっと黙っていたのは、やはり緊張していたのかもしれない。

幸いなことに見たのは『エイリアン2』で、終わってから話す材料には事欠かない映画である。マクドナルドでマックシェークを飲みながら「なんであの女の子だけは助かったんだろう」とか「バスケスがカッコ良かった」とか、「アンドロイドが一作目とちがって悪者じゃなくなってたね」とか、さまざまなことを言い合ったのだと思う。
そのあとスニーカーを買うという大杉君につきあってシューズ屋をのぞき、どこか行きたいところある? と聞かれて、ほんとうは本屋に行きたかったのだが、なんとなくそれも言い出しかねてそのまま帰りの電車に乗った。
「行きがけ、何もしゃべってくれないから、誘って悪かったのかと思った」と言われ、そんなことない、とあわてて否定して、つぎに美術館に行こう、と約束した。

ところがそれから一週間ほどしてわたしは体調を崩し、入院する羽目になる。二学期が始まってもしばらくは学校を休み、やっと登校したのは十月になってからだった。
ところがそのときには大杉君には「公認のカノジョ」ができていたのだった。

あるとき、昇降口のところでその「カノジョ」に会った。映画の帰りに大杉君が買ったスニーカーとおそろいのケイパをはいている。ふん、大杉君が買ったときは、わたしと一緒だったんだからね、と思ったが、もちろんそんなことは言わなかった。ピアニカも弾けないクセに、と、それも言わなかった。

大杉君は、このあと本格的に音楽を始めて、高校の途中でやめるか、よそに転校するかしてしまう。
ところがこのあともう一度だけ、ばったり出くわしたことがある。大学に入って二年目、夏休みの帰省で乗っていた新幹線だった。

何か買ってきたのか、トイレの帰りだったのか、ともかく身体がよろけないように気をつけながら細い座席の間の通路を抜けて、自動ドアから出たところだった。壁に背をもたせかけて、ドアの窓から外を見ながらタバコをすっていたのが大杉君だった。

「大杉君!」
わたしはちょうど、昨日会ったばかりのような呼び方をしたのだと思う。その夏以来、ほとんど言葉を交わしたこともなかったというのに。
向こうは一瞬、いぶかしげに目を細め、上から下までわたしを見まわし、少し考えてから、「**さんでしょ」と笑った。「全然変わってないね」

ぱっと見てわかったのが不思議なほど、大杉君の方は変わっていた。
薄いジャケットを着て、Tシャツに黒い細身のジーンズ、コンバットブーツをはいて、チェーンのベルトをし、髪をのばして耳にいくつもピアスをし、いろんな指に指輪もはまっていた。
なによりも、顔がひどくだらけて、太っているわけではないのにほほがたるんで、眼に力がなかった。なにか、大杉君の抜け殻が歳を取ったようだった。

聞かれるままに、大学の話や寮の話をしたのだけれど、なんとなくわたしのほうからは、いま、どうしてるの、と聞けなかった。大杉君の方から何か話してくれないかな、と思いながら、わたしたちは当たり障りのない話を続けた。

窓から夕日に染まって薄いピンク色になった富士山が見えた。
「音楽、やってるの?」わたしの口から、聞けずにいた問いが、すっと出た。
「なかなか大変でね、いまは違うことやってる」
「そう」
わたしが何でそのことを聞いたのか、大杉君にもわかったのだろう。
「あの曲、覚えてる?」と大杉君が聞いた。
わたしもそれだけで何を言ってるのかわかった。
「覚えてる。ソーソーミミファー、ラーラーファファソー」
わたしは低くピアニカのイントロを口ずさんだ。

富士山が見えなくなると、話すこともなくなったわたしたちは、「それじゃまたね」と言って別れたのだった。

その歌は、「初めてあなたに会ったとき」という出だしとピアニカソロしか覚えていないけれど、未だに半袖のボタンダウンのシャツが好きなのは、どこかに中学時代の大杉君の記憶が残っているからなのかもしれない。ボタンダウンは少し袖が長いし、下にシャツも着なくてはならないから、本格的な夏になってしまうと暑いのだけれど。


3.夏は繰り返す


学生時代、小学生の塾の夏合宿で、こんどは引率する側の一員となったことがある。

四十人ほどの小学生と引率の大人を乗せたバスは、耳元がわんわんするほどやかましく、体温の高い子供たちのおかげでエアコンのつまみを最強にしても汗がじっとりとにじんだ。
車内の空気は、乳臭く汗臭く日向臭く、つまりはやたらに子供臭く、山の中をうねうねと登っていくうちに、
「せんせー、○○さんが気持ち悪くなったー」と、酸っぱい臭いまでもが混じり始めた。

トイレ休憩のたびごとに人数を確認し、たいていはいない子供がひとりやふたりいて、彼らを探しに行く。
「ほら、もう出発だよ」
「せんせー、セミつかまえた」
「逃がしてやりなよ、バスの中に持って入んないで」
そんな忠告が入れられるはずもなく、やがてジイジイとやかましいセミの鳴き声が耳を圧するほど響き始める。
「わー、やかましい」
「逃がしてやれよ」
実際セミというのはそばで聞くと、ただごとではないほどのやかましさなのである。なんとか窓から外へ放り出すと、話し声がどれほどさわがしくても、静かになったように思えるのだった。

それもつかのま、時ならぬ悲鳴がこんどは引率の先生(といっても、これも同じく学生バイト)の間から起こる。
どうしたの? とのぞいてみると、
「ム…ムシが…あたしの髪に……。取って、だれか取って……」
髪の毛をバレッタでまとめている大島先生の、ちょうどそのバレットの下あたりに、白い斑点のあるカミキリムシが触覚をふりあげている。
「もぞもぞするって思ったら、何かさわった……、いったい何やの?」
「カミキリムシ。いま取ってあげるからちょっとじっとしてて」
わたしがそっとつまみあげようとすると、前足が髪にからまる。
「こら、カミキリムシ、大島先生に留まらせたの、だれ?」
見まわすと、うれしくてたまらない、という顔をした悪ガキがふたり。
「えへへー、カミキリムシて、ほんまに髪、切るんかどうか、試してみてん」
「実験的精神を持つことは極めて正当であるが、そういうことは自分の髪の毛でやるように」
そういってわたしは子供の柔らかい髪を脱しかけている、半ば固くなりかけの短い前髪の上に、指の間でキイキイと鳴くカミキリムシをのせてやった。

やっとのことでバスが到着した民宿は、日本海のすぐ近くだった。海は見えないけれど、空気のなかに汐のにおいが混ざっている。もう八月は終わりに近かったけれど、日差しは強く、十分泳ぐこともできそうだ。だが、塾の夏期講習の合宿には、泳ぐような時間は組み込まれていないのだった。
夜、浜で花火をするぐらいの時間はあったはずだ。わたしは頭の中でもういちどスケジュールを確認する。

バスから荷物を降ろしながら、ぞろぞろと降りていく子供たちの背に向かって「さーて、みんな、もう今日から三日間、泣こうがどうしようが、家には帰れないからね」と、気がつけば昔、自分が言われたせりふをそのままに繰り返していたのだった。

簡単なミーティングと諸注意が終わると、すぐに授業。それから小グループに分かれて勉強していく。合宿というと、それぞれに目的はあっても、いつだって結局は遊ぶため、楽しむために行っていた。こんなふうに集まって勉強するという合宿を、わたしは経験したことはなかった。

それでも中学受験組だったわたしにとって、この時期の勉強は、それはそれでパズルみたいにおもしろかったのもまた確かなのだ。かわいそう、だとか、いまのうちから、とか、さまざまな言い方もできるけれど、それは教えることでお金をもらっているわたしの言うべき言葉ではない。
だからその代わりに、ひとりひとりに声をかけていった。
「よし、よくわかってるね。えらいよ。だけどね、ここはこんなふうにやってみると、もっとスムーズに行く。じゃ、これをこういうふうに換えて、もう一題やってみよう。いいよ、絶対できるから。見ててあげる。ひとりでやってごらん。……ほら、できた。やったじゃん」

夕方の勉強が終わると、夕食の時間だ。
わいわいさわぐ子供たちの尻を叩いて、テーブルを台ふきでふかせ、クロスをかける。大鍋やおひつを運ばせ、麦茶の入った大きなアルミのやかんを一緒になって運んだ。

「先生……」
見ると、ひとりの女の子が目に涙をいっぱい溜めている。
「おなか、痛いの?」
わたしは自分が初めて臨海学校に行ったときのことを思い出していた。
その子はゆっくりとうなづく。

ほかの先生に別室で休む旨を告げて、小さな四畳半の部屋に蒲団を敷いた。
エアコンの静かな音が部屋に響く。

蒲団に横になったその子は、じっと天井を見ていた。
「わたしもね、四年生の時、お腹が痛くなった。お腹っていっても、みぞおちのあたりがきゅっとする感じなんでしょ?」
「そう。わかる?」顔がぱっと明るくなる。
「そりゃわかる。経験者だからね。小学校四年の、臨海学校だった。そのころはね、ホームシックなんて言葉も知らなかったし、よくわかんなかったんだ」
「これ、ホームシックなんかなぁ」

部屋の蛍光灯があまりにまぶしいように思え、わたしは豆電球だけにした。
オレンジの小さなあかりだけになったほの暗い部屋のなかで、わたしは小学校のときの臨海学校や、そればかりではない夏休みのことをぼつぼつと話した。

六月も半ばになると、終業式まであと何日、と、指折り数えていたけれど、いざ始まってみると、わたしは夏休みの日をどうやって過ごしていたのだろう。
臨海学校、林間学校、クラブの合宿。お盆の頃に両親の実家へ行ったり。家族でささやかな旅行に出かけた夏もあった。けれどそれをのぞけば、毎日毎日、朝起きて、ゴハンを食べて、本を読むか何かして、またゴハンを食べて、たまには自転車に乗って、公営プールに行ったり、図書館に行ったりして過ごした。塾の夏期講習に行った夏もあれば、毎日絵を描いていた夏もある。図書館にある文学全集を端から読んでいった夏もあった。

変わり映えのしない毎日の中で、夕立が楽しみだった。白いむくむくした積乱雲が鉛色に変わり、空が暗くなったと思うと、天の底が抜けたような大雨が降り始める。腹の底がずしんとくるような雷鳴が好きだった。ぴかっと光ると、つぎに落ちる稲妻を探した。そらに浮かび上がる青白いジグザグから、1,2,3……と音が聞こえる間を数え、落ちた場所との距離の見当をつけた。やがて雨足が弱くなり、雲の切れ間から青い空がのぞくようになる。それでもときおり、遠くでゴロゴロという音が聞こえた。「遠雷」という言葉も好きだった。

たまに夏休みの間にクラスメートに会うこともあった。何か、一学期にくらべて背も伸びて、少し大人になったようにも見える。事実、二学期になってみると、みんな、会わないでいた間に身長が伸びているのだった。
つまり、夏休みは成長する時期だったのだ。

トウモロコシが日々育っていくのは、毎日見ている人間にはわからない。それでもひとつき経てば、丈も伸び、実もつき、包葉の先からひげがたなびいているように、四十日後にまた会うと、それぞれに変化が起きていた。確かに、みんなが変わっていたのだった。

目が慣れてくると、薄暗いオレンジ色の明かりの下でも、いろんなものがはっきりと見えた。隅の方に固まって置いてあるデイパックやトートバッグ、帽子やポーチ。エアコンを切って窓を開けると、汐のにおいが部屋に流れこんだ。

かつてのわたしを見るような女の子と同じ部屋で、自分を「おとな」として頼り切っている女の子と話をしながら、わたしはいつの間にか、自分が「おとな」になっていたことを知ったのだった。自分ではちっともそんな気がしなかったのだけれど。

もはやホームシックになることもなかった。第一、わたしの「ホーム」は寮の北向きの風の入らない暑い部屋だった。
あのころは、待っていれば良かった。七月が過ぎ、八月が過ぎ、九月になってまた二学期が始まる。そのあいだにやらなければならないのは宿題だけ、時の過ぎるのにまかせていれば、勝手にまたいつもの生活に戻ることができたのだった。
女の子は、これからどうしたらいいのか、わたしに聞くこともしない。夜の勉強時間をどうするのか。この部屋にひとり残るのか。わたしのほうで万事決めてくれると信じているのだ。

わたしはこの子が思っているほど大人ではなくて、どうしたらいいか判断を仰ぎに行かなくてはならないのはわかっていた。けれども、もう少しその部屋にいたかった。
その子と一緒に「夏休み」を味わいたかった。自分が通り過ぎてきた夏休み。そうして、間もなくなくなってしまう、長い夏休みを。
遠く波の音が聞こえた。

初出Aug.21-23 2006 改訂Aug.24 2006

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