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ここでは Shirley Jackson の短篇 "The Summer People"の翻訳をやっています。
この作品はシャーリー・ジャクスンの死後、夫で文学批評家のスタンレー・ハイマンが編んだ遺稿集 "Come Along With Me" に所収されています。なかなかよくまとまった作品であるにもかかわらず、1950年の雑誌 "Charm" で発表されたきり、選集に収められることもなかったのは、その前年、短篇集として出版され、大変に話題となった『くじ』と重なる部分があったからかもしれません。「くじ」の持つ強烈さこそありませんが、舞台となった場所も、得体の知れなさも、確かによく似ています。ただ、ジャクスンの短篇のいくつかに流れる家庭的な雰囲気は、この作品にあって「くじ」にはないものです。
このふたつはのちに脚本家のブレーナード・ダフィールドの手によって戯曲化され、アメリカでは今日も学生演劇やアマチュア劇団でよく上演されています。
「くじ」にも出てきたニューイングランドの田舎町。古い、閉鎖的な共同体の人びとと、もう何十年も夏が来るたびにそこを訪れている都会人の夫婦。ふたつの異なる世界の住人がぶつかるとき、いったい何が起こるのでしょうか。



夏の人びと


by シャーリー・ジャクスン


ランプ

 アリスン家のコテージは、一番近い町からも10キロほど離れた丘のてっぺんに、ちょこんと建っていた。三方の斜面は、夏の盛りでも干からびたりしおれたりしない針葉樹林や草むらでおおわれ、残る一方は湖が見下ろせた。湖にはアリスン夫妻が長年に渡って修繕を繰りかえしてきた桟橋が突き出し、玄関からも、横手のベランダからも、そこから湖まで続く木の階段のどこからでも、湖の眺望が楽しめた。

アリスン夫妻は夏の家がことのほか気に入っており、初夏ともなれば、ここへ来る日を指折り数えて待つのが常だったし、秋の訪れとともに離れなければならなくなると、ひとしきり残念がっていたけれど、かといってわざわざそこを、もっと住み心地良くしようとは思わなかった。自分たちに残された年月を考えれば、この家と湖があるだけで、住み心地はもう十分だと考えていたからだ。

夏の家にはガス設備もなかったし、水も、裏庭のポンプで汲みあげる分だけで、電気も来ていなかった。十七年のあいだ、夏になるとジャネット・アリスンは石油コンロで料理をし、水はすべて煮沸してから使用していた。ロバート・アリスンは毎日井戸からポンプで水をくみ上げ、バケツで何度も運んだ。夜になると新聞を石油ランプの明かりで読み、ふたりとも衛生的な都会人だったのだが、屋外トイレを無頓着かつ事務的に使用していた。

最初の二年ばかりは、屋外トイレにまつわる寄席や雑誌で仕入れた小話を披露し合ったが、いまではそれにひるむような訪問客もなくなり、屋外トイレも井戸や石油コンロと同様、なんとはなしに自分たちの夏の日々を彩るものとして、いつのまにか馴染んでしまったのだった。

 アリスン夫妻自身は、ごくふつうの人びとだった。夫人は五十八歳で、夫のアリスン氏は六十歳である。子供たちは一緒に夏の家に来るには大きくなり過ぎ、いまはそれぞれの家族とともに、海辺へ避暑に出かけていく。友人の多くは亡くなったか、一年中快適な土地に引っ込むかで、甥や姪たちとはつきあいもなくなっていた。

冬のあいだ、ふたりはニューヨークのアパートメントで、夏が来るまでの辛抱だ、と言い合い、夏になれば、ここに来るのを待ちわびている冬というのも悪くないものですね、と話す。

 もはや自分たちが習慣の奴隷であることに気が引けるような歳でもなかったから、アリスン夫妻は毎年、レイバー・デイ(※9月の第1月曜日)の翌日の火曜日に夏の家を引き上げることに決めていた。それでいて、九月から十月初旬のあいだは、天気が良かろうものなら、都会での生活が耐えがたいまでに味気なく思え、離れたことを後悔するのが常だった。毎年、ニューヨークで自分たちを待つものは何ひとつないと知ってはいたのだが、レイバー・デイが過ぎて、夏の家に留まろうとは思わなかったのだ。ところがついに今年、久しい間の惰性をうち破ろうと決心したのである。

「街に帰らなきゃならない理由なんて、本当は何もないじゃない?」と、あたかも不意に思い立ったかのように、アリスン夫人は真剣なおももちで夫に言った。すると夫の方も、これまでふたりともそんなことは考えたことがなかったような調子で答えた。「それならできるだけ長く田舎暮らしを楽しんでみるか」

 かくして、すっかりうれしくなったばかりか、ちょっとした冒険気分まで味わいながら、アリスン夫人はレイバー・デイの翌日、町へ下りていった。行きつけの店の人びとに、主人とわたしは夏の家に少なくとももう一ヶ月は留まることにしたのよ、と、伝統破壊者たる表情を浮かべ、きっぱりと宣言したのだった。

「別に、街に帰ってすることがないわけじゃないの」と夫人は食料品店の主人のバブコック氏に言った。「楽しめるあいだは楽しんでいいんじゃない? って思っただけ」

「これまでレイバー・デイが過ぎたのに湖から引き上げなかった人は、ひとりもいませんでしたよ」とバブコック氏は言った。アリスン夫人が買った食料品を、大きな段ボール箱に詰めていたが、手を止めてクッキーの袋をしげしげと眺めた。それから「誰もね」と言葉を足した。

「でもね、街ってところはね」アリスン夫人がバブコック氏にニューヨークのことを言おうとすると、決まって相手がいつもそこに行くことを夢見ているかのような口調になってしまうのだった。「とっても暑いのよ――想像もつかないでしょうけど。だからいつもここを離れるときは、残念な気持ちでいっぱいになるの」

「去りがたい思いかね」とバブコック氏は引き取った。ここらへんの人の何より気に障るところは、こっちのちょっとした言葉尻をとらえて、古くさい言い方で繰りかえす癖だわ、と、アリスン夫人は思った。

「わしだって去りがたい思いさね」と、しばらく考え込んだ末にバブコック氏はそう言い、アリスン夫人とふたりで微笑み合った。「だが、レイバー・デイが終わっても湖に残ってた人の話なんざ、聞いたことがないな」

「ええ、そうね、だからわたしたちがやってみようって思ってるのよ」というアリスン夫人の言葉を、バブコック氏は重々しく引き取った。「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、とな」

 風貌だけだったら――食料品店でバブコック氏との要領を得ない会話を交わしたあとはいつも、アリスン夫人は心の中でつぶやくのである――政治家のダニエル・ウェブスターの銅像のモデルはバブコックさんってだって言ってもいいくらいだけれど、中身ときたら……古き良きニューイングランドのヤンキーの末裔が、どれほど堕落したかを考えると、恐ろしいほどね。車に乗り込みながら、そっくりおなじことをアリスン氏に向かって言うと、アリスン氏はこう答えたのだった。
「何代にも渡って血族結婚を繰りかえしてきたせいだな。もうひとつは土地柄が悪いってことだ」

 今日は遠路はるばる田舎町まで、二週間に一度の、配達してもらえない日用品の買い出しの日だった。一日がかりの仕事で、昼は新聞とソーダを売っている店に立ち寄ってサンドウィッチを食べ、車の後部座席に荷物を山積みにして帰るのだ。

定期的に配達を頼むこともできたのだが、アリスン夫人は、電話ではバブコック氏の店に何があるのか正確なところはわからないと思っていた。おまけに、夫人のあれやこれやの購入品目一覧表には、いつも自分たちには必要ないようなものまで付け加わるのが常だった。たとえば店頭に急に顔を出した地場産の新鮮な野菜や、入荷したばかりのキャンディの袋のようなものが。

今回の買い出しでも、アリスン夫人は金物屋兼衣料品店兼雑貨屋で偶然見つけたガラス製の耐熱皿セットに心奪われた。まるでほかの誰でもない、アリスン夫人をそこで待っていたかのようだったのだ。

なにしろ田舎の人ときたら、木や石や空と同じくらい長持ちしそうにないものに対しては、何に寄らず不信の目で眺めるのだから。ちかごろやっと鉄製の耐熱皿の代わりにアルミ製それを、おそるおそる使い始めたところだ。きっとここには、鉄製品が気に入って、堅焼き陶器を使わなくなったころのことを覚えている人がいるにちがいない。

 アリスン夫人はガラス製耐熱皿の梱包をしっかりやってくれるよう頼んだ。家まで石ころだらけの山道をガタガタ上っても大丈夫なようにお願いね、と。そうしてチャーリー・ウォルポール氏(彼は弟のアルバートとふたりで金物屋兼洋品店兼雑貨屋を経営していた。店が「ジョンスンズ」という名前なのは、昔、ジョンスン家のロッジだった場所に店が建っていたからだ。ただしそのロッジはチャーリー・ウォルポール氏が生まれる五十年前に、すでに焼けてしまっていたのだが)が広げた新聞紙で皿を念入りにくるんでいるあいだ、アリスン夫人は気安げに話かけた。「もちろん、ニューヨークに戻ってからこんなお皿を買っても良かったの。だけど、今年はもうちょっとこっちにいるつもりだから」

「こっちへいなさるって話は聞いたよ」チャーリー老人はぶるぶるふるえる指で、薄い新聞紙をなんとか一度に一枚だけつまみあげようと苦労しながら、顔も上げず、アリスン夫人に目をやらずに言葉を続けた。「これまで湖にずっといた人の話は聞いたことがないな。レイバー・デイを過ぎたあとはな」

「あのね、それは」アリスン夫人はまるで老人に説明しなければならないかのように、言葉を続けた。「毎年わたしたち、急いでニューヨークに戻ってるでしょう、ほんとはそんなことする必要もないのに。街の秋がどんなだかわかるでしょう」
それからうちとけたようすでチャーリー・ウォルポール氏ににっこりと笑いかけた。

 店主はリズミカルに紐を包みの回りに巻き付けていく。この人はひもをけちってるわね、とアリスン夫人は思い、苛立った表情を見せまいとすぐに目を反らせた。「わたしたち、もうここの人間になったぐらいの気持ちでいるのよ」と言った。「みんなが帰っても、ここに残ってる、っていうんじゃなくて」

それを実際に証明しようと、店の向こうの顔見知りの女に明るい笑顔を向けた。もうせん、この人からイチゴを買ったんだっけ。それとも、ときどき食料品店を手伝っている、バブコック氏の叔母さんだか誰だかかもしれない。

「さてね」チャーリー・ウォルポール氏はそう言って、包みをカウンター越しに少しばかり押し出した。売買契約もつつがなく成立し、きちんと包装もすませたところを見せて、あとは料金をいただくのにやぶさかではない、ということらしい。「さて」と彼は繰りかえした。「これまで夏に来た人は、レイバー・デイを過ぎて、湖に残るようなことはしなさらんかったがなあ」

 アリスン夫人は五ドル札を渡すと、店主は1セント銅貨にいたるまできちんと釣りを返した。「レイバー・デイのあとは、誰もな」店主はそう言うと、アリスン夫人にうなずいてみせてから、落ち着いた足取りで店内を歩いていくと、木綿の普段着を見ていたふたりの女性の相手をした。

 アリスン夫人が店を出ようとしたとき、女のひとりの尖った声が耳に入った。「なんであっちの服が1ドル39セントで、こっちのがたった98セントなの?」

「いい人たちなんだわ」金物屋のドアを出たところで夫と合流したアリスン夫人は、並んで歩道を歩きながら夫に言った。「まじめで分別のある、とっても正直な人たちなのよ」

「気分が良さそうだな。まだこんな田舎町が残っているとわかったからか」とアリスン氏は言った。

「そうね、ニューヨークだったら」とアリスン夫人は言った。「このお皿を数セントは安く買えたかもしれない。だけどただそれだけなのよ。人と人とのふれあいみたいなものはないの」

「湖にずっといるつもりなんですって?」新聞とサンドゥイッチの店でマーティン夫人がアリスン夫妻に尋ねた。「あなた方がまだしばらくいるって話を聞いたんだけど?」

「今年のすばらしい天気を心ゆくまで味わいたいんですよ」アリスン氏が答えた。

 マーティン夫人はこの田舎町では比較的新参の部類だった。近隣の農場から、この新聞とサンドウィッチの店に嫁いできてから、夫の死後もここを切り盛りしている。マーティン夫人は瓶に入ったソフト・ドリンクと、目玉焼きと厚切りパンにはさんだオニオン・サンドを出す。店の奥の調理台で料理されたものだ。ときどき、マーティン夫人がサンドウィッチを運んでくると、マーティン夫人用の晩ご飯らしいシチューやポークチョップのおいしそうなにおいが一緒に漂ってくるのだった。

「いままでそんなに長くこっちにいた人はいないと思うけど」とマーティン夫人は言った。「とにかく、レイバー・デイが終わってもいるような人はね」

「ふつう、レイバー・デイってのは、ここを発つ日ってことになってるんだ」それからしばらくして、バブコック氏の店の前で、アリスン家の隣人のホール氏が、家に帰るために車に乗ろうとしている夫妻に声をかけた。「驚いたよ。まだいたなんて」

「そんなにすぐ帰るなんてもったいなくって」とアリスン夫人が言った。ホール氏は五キロほど離れたところに住んでいて、バターと卵を届けてくれていた。ときどき、夜がふける前のホール家の人びとが起きている頃合いに、丘のてっぺんにあるアリスン家のコテージから、一家の明かりが見えた。

「ふつうの人はレイバー・デイが来たら、帰っていくもんだ」とホール氏は重ねて言った。

 家までは遠く、道は悪い。あたりは暗くなり始めていて、アリスン氏は湖沿いの荒れた道を、車を慎重に走らせなければならなかった。夫人の方は、シートに深々と身を沈め、ふたりの日ごろの生活と比べると、あっという間に過ぎていった今日一日の買い物を終えて、心地よくくつろいでいた。新しい耐熱ガラス皿に、半ブッシェルの食べ頃の赤いリンゴ、それに棚の縁を飾るつもりの色とりどりの画鋲の箱が、楽しそうに帰るのを待ちわびている。「家へ帰るのはいいものね」空を背景に、黒々と浮かび上がるコテージが見えてきたところで、夫人はそっとつぶやいた。

「帰るのを延ばすことにして良かったよ」とアリスン氏も賛成した。


 翌朝、アリスン夫人は時間をかけながら、ガラス製耐熱皿を丹精こめて洗った。ただ、チャーリー・ウォルポールはうかつにも、皿の一枚の縁が欠けているのを見逃していたようだが。夫人はいささかもったいないとは思ったが、食べ頃の赤いリンゴをいくつか使って、夕食にアップル・パイを焼くことにした。パイがオーブンに入るころ、アリスン氏は郵便を取りに下りていき、夫人はふたりで丘のてっぺんに植えた小さな芝地にすわって、雲が太陽を急ぎ足で横切るたび、湖面が灰色から青に変わる、息を呑むような色の変化を眺めていた。

 アリスン氏がいくぶん落胆のおももちで戻ってきた。散歩が体に良いといっても、州道沿いの郵便受けまで一キロ半も歩いて行ったあげく、手ぶらで戻らなければならないとなると、上機嫌とはいかない。今朝はニューヨークのデパートからのダイレクトメールとニューヨークの新聞だけだった。新聞は郵便で来るため、発行日から一日から四日遅れで、不規則に届く。そのせいで、アリスン家に新聞が三つ届く日があるかと思うと、まったく来ないこともしばしばだった。

アリスン夫人も夫同様、自分たちが心待ちにしている手紙が来なかったせいでがっかりはしたものの、デパートからの案内は熱心に読み耽った。ニューヨークに戻ったら、何をおいてもウールの毛布のセールをのぞいてみなくては、と頭に刻みつけておく。きょうび、きれいな色で、しかも品物が良いとなると、見つけるのはむずかしいですからね。忘れないようにこの案内状は取っておこうかしら。立ちあがって家に入り、しかるべき場所に保管する手間を考えたあげく、夫人は椅子の傍らの芝生の上に放り出し、眼を半ばつむっって椅子に背をもたせかけた。

「一雨来そうだな」とアリスン氏が眼を細めて空を見上げた。

「作物には恵みの雨ね」アリスン夫人はぽつりと言い、それからふたりは声を上げて笑った。


 つぎの朝、アリスン氏が郵便を取りに丘を下りているあいだに、灯油の配達人がやってきた。ちょうど灯油が残り少なくなっていたので、アリスン夫人は喜んで男を迎えた。男は灯油や氷を売るだけでなく、夏の間には、避暑にやってくる人びとの出すゴミも集めていた。土地の人はゴミなど出さないのだ。

「来てくださってうれしいわ」アリスン夫人は男に言った。「灯油がほんのちょっぴりしか残ってなかったの」

 灯油を配達してくれる男の名前を、アリスン夫人は未だに知らなかったが、その男はいつも、ホースと付属の器具を使って、20ガロン入りのタンクをいっぱいにしてくれた。その灯油が、アリスン家の明かりとなり、料理の熱源ともなる。だが今日に限っては、きちんと巻き付けてトラックの運転台に載せてあるホースの留め金を外そうともせず、困ったような顔をして、アリスン夫人の顔を穴の開くほど見つめていた。トラックのエンジンは、かけっぱなしだ。

「あんたがたはもう出ていったと思ってたよ」

「ひと月、滞在を延ばすことにしたの」アリスン夫人は明るく言った。「お天気がこんなにいいでしょう、まるで……」

「それは聞いた」男はさえぎった。「灯油なんかもうないよ」

「どういうこと?」アリスン夫人は眉を上げた。「わたしたちがこれまで通りやっていける分くらいの……」

「レイバー・デイのあとじゃ」男は言った。「おれのところの分だって十分には手に入らないんだから」

 アリスン夫人はこれまで隣人と何か行き違いがあったとき、都会での対処法は田舎の人には通用しなかったことを思い返した。田舎で人に仕事を頼むときは、あっちの調子で言うことを聞いてもらえると思っちゃだめ。そこでアリスン夫人は愛想良く笑いながら言ってみた。「でも、残り物の油を回してくれるだけでいいのよ、わたしたちがここにいるあいだ分の」

「あのな」男は、いらだたしげにトラックのハンドルを指先でトントンと叩いている。「つまり、あれだ」とのろのろと話し始めた。「うちの灯油は取り寄せなんだ。80キロ、いや、100キロ離れたところから取り寄せてんだよ。六月に、この夏どのくらいいるか見越して注文する。そのつぎに注文するのは……そうだな、たぶん十一月だ。だからいまぐらいの時期は、底をついちまってるんだ」これでこの話はおしまい、とばかりに、トントンと叩くのをやめて、出発の合図か何かのようにハンドルを両手できつくにぎりしめた。

「だけど、ほんの少しくらいなら、分けてくれてもいいんじゃないかしら?」アリスン夫人は言った。「だれかほかのところで買える?」

「この時期、どこかよそで手に入れようったって無理な話だな」男は考えながらそう言った。「何にせよ、うちにゃもうないからな」アリスン夫人が何か言おうとする前に、トラックは動き出した。それからいったん停まり、運転席の後ろの窓ごしに男は振り返った。「氷は? 氷ならやってもいいが」

 アリスン夫人は首を横に振った。氷ならまだあったし、何より腹が立ってしょうがなかった。トラックを追いかけようと、数歩駆けだして叫んだ。「なんとか手配してもらえないかしら。来週あたりはどう?」

「無理だね」と男は言った。「レイバー・デイが過ぎたら、もう無理だ」トラックは行ってしまい、アリスン夫人は怒りにまかせてトラックをにらみつけながら、たぶんバブコック氏のところから灯油を分けてもらえるだろう、と考えて、何とか自分を慰めようとした。悪くしてもホールさんだったら。「来年」とつぶやいた。「来年の夏、ここに来たらどうなるか覚えておきなさいよ」

 今日も郵便はなく、届いていたのはここ数日、日にち通りに来ることをかたくなに決めたかのような新聞だけで、アリスン氏は見るからに不機嫌な様子で戻ってきた。アリスン夫人が灯油の配達人のことを話しても、特別な反応は返ってこなかった。

「きっと冬の間に高値で売りつけようと思って、売り惜しみしてるのさ」と感想を述べたあと、続けた。「そんなことよりアンとジェリーはいったい何をしているんだろう」

 アンとジェリーはふたりの娘と息子で、どちらも結婚して、一方はシカゴに住み、他方は極西部に住んでいた。子供たちが毎週、義理堅く送ってくる手紙が、このところ遅れているのだ。確かに遅すぎるじゃないか。わざわざ出向いたのに手紙がなかったいらだちが、道理にかなった不満というはけ口を見つけた。「どれほど手紙を楽しみにしているか、あの子たちは少しは考えたことがあるのか。まったく思慮の足りない、わがままなやつらだ。もっと分別があってもよさそうなものだ」

「そうかもしれないわねえ」アリスン夫人はなだめるように言った。アンとジェリーに腹を立ててみたところで、灯油屋への怒りはどうにもならない。しばらく間をおいて、夫人は言った。「来て欲しいと思ってるだけじゃ、手紙は来ないわよ、あなた。それより、わたし、バブコックさん電話して、灯油を配達してくれるよう、お願いして来なくちゃ」

「ハガキ一枚ぐらいよこしたってよさそうなものだ」アリスン氏は部屋を出ようとする夫人に向かって言った。

 コテージにはあれこれ不便なところがたくさんあったから、アリスン夫妻はもはや格別電話を不便とも思わなくなっており、ことさら文句も言わずに、奇妙な電話機でも甘んじて受け入れていた。壁掛け式の電話で、田舎でもこんな型のものを使っているようなところは数えるほどしかなかっただろう。交換手を呼び出すために、アリスン夫人はまず、横のハンドルを回さなければならなかった。たいてい交換手が応えるまで、二、三度やってみなければならず、アリスン夫人はどんな電話をかけるときも、涙ぐましいほどの忍耐心とあきらめの境地でもって、電話機に向かうのだった。

今朝は電話機のハンドルを回して三度目に、交換手が出た。そこからバブコック氏が食料品店の奥の肉切り台のさらに裏側にある受話器を取るまで、また時間がかかった。

バブコック氏の声が聞こえてきた。「店だが?」語尾が上がるのは、こんな当てにならない機会で話をしようとする人間に対する不信の念からかもしれない。

「アリスンです。バブコックさん。確か、注文したら翌日こちらに届けて戴けるんでしたよね、というのも、わたし、どうしても……」

「アリスンさん、何だって?」

 アリスン夫人は声を少し声を高くした。夫の姿が見える。外の芝生で椅子からこちらに体を向けて、気遣うようなまなざしを送っている。「バブコックさん、早目に注文したら、届けていただけ……」

「アリスンさん?」とバブコック氏はさえぎった。「あんたがこっちに取りに来てくれるんだな?」

「取りに来るですって?」あっけにとられて夫人の声はふだんの声の大きさに戻った。今度はバブコック氏が声を張り上げる。「何だって、奥さん?」

「いつもは届けてくださるんじゃなかったの?」

「あのな、奥さん」バブコック氏はそう言ったきり、しばらく間が空いた。その間、アリスン夫人は電話の向こうにいる夫の頭が、空ににゅっと突き出しているのを見つめながら待っていた。

「アリスンさん」やっとバブコック氏の声がした。「あのな、店で手伝わせていた男の子が、昨日学校に戻ったんだ。だから配達してくれる人間がだれもいないんだ。夏のあいだだけ、配達に男の子をひとり雇ってるんだよ」

「でも、おたくじゃいつだって配達してくれるんじゃないの」あアリスン夫人は食い下がる。

「レイバー・デイが終わったら、もうそんなことはできないんだよ」バブコック氏はとりつく島もない。「レイバー・デイが過ぎたら、あんたがたはここにゃいなかっただろう。だから知らなくても無理はないがね」

「まあ」もはやアリスン夫人にはなすすべもない。胸の奥底で、何度も繰りかえし、田舎の人には街のやり方は通用しない、という言葉が響いていた。怒ってもしょうがないのよ。

「絶対、どうしてもだめ、ってことなのね?」夫人は最後にたずねた。「今日一日だけでも配達は無理ってことなのね、バブコックさん?」

「そういうことだ」バブコック氏は言った。「むりだな、奥さん。配達は割に合わないんだ。湖にはもう誰もいないんだから」

「ホールさんはどうなの?」アリスン夫人は不意に思い出して聞いてみた。「ホールさんのところなら、そちらからだって五キロほどでしょう? ホールさんだったら、こっちに来るついでに持ってきてもらえるから」

「ホールだって?」バブコック氏は言った。「ジョン・ホールのことかね? あそこの家族は、嫁の実家のある北部に行ったよ、奥さん」

「でも、あの人たちはバターと卵を届けてくれてるのよ」呆然としながらそれだけ言った。

「昨日出たんだよ」バブコック氏は言った。「たぶんあんた方がまだこっちにいるとは思ってなかったんだろう」

「だけど、ホールさんには伝えたのに……」アリスン夫人は途中で口をつぐんだ。「明日食料品を買いに、うちの主人をやるわ」と言った。

「じゃ、それまでの分は大丈夫だな」とバブコック氏は満足げに言った。それは質問ではなく、確認だった。

 電話を切ると、アリスン夫人はのろのろと外へ出て、夫の隣りに腰を下ろした。「配達してくれないんですって」彼女は言った。「あなた、明日取りに行かなきゃならなくなったわ。あなたが戻るまで、なんとか灯油を保たさなきゃ」

「そういうことはもっと前に話してくれなきゃならなかったな」アリスン氏は言った。

 だがこんな日に、いつまでも暗い気分でいられるものではない。今日ほど田舎が心引かれる場所に見えたことはなかった。下に目をやると、木々の間からのぞく湖面は穏やかにさざ波を立てている。風景画さながらの穏やかな眺望である。アリスン夫人は自分たちが湖や遠くに広がる緑の山々、木々を渡る風のそよぎを独占しているのだと思うと、満足のあまりに深い吐息がもれるのだった。


 晴天が続いた。つぎの日の朝、アリスン氏は食料品のリストで武装し――その最上段に「灯油」と大きな字で書いてある――、車庫への小道を下っていった。アリスン夫人は買ったばかりの耐熱皿で、パイ作りに取りかかった。パイ生地の粉を混ぜ合わせ、リンゴの皮を剥いているところに、急ぎ足で坂道を上ってきたアリスン氏が、台所のスクリーンドアをばたんと開けて入ってきた。「くそっ、車が動かない」と大きな声を出した。車を右腕にしていた人間が、頼みの綱を切られたような声だった。

「どこか悪いの?」アリスン夫人は片手でナイフを持って、リンゴを剥く手を止めて聞いた。「火曜日にはどこも悪くなかったのに」

「さあな」アリスン氏は食いしばった歯の間から言った。「ともかく、金曜日には悪くなったってことだ」

「直せそう?」アリスン夫人は聞いた。

「無理だ」アリスン氏は答えた。「うちじゃ無理だ。誰かを呼ばなくては」

「誰を?」

「ガソリンスタンドの店主がいたな」アリスン氏はきっぱりした顔で電話に向かった。「去年一度、修理を頼んだ」

 かすかな不安の念を抱きながら、アリスン夫人は上の空でリンゴの皮を剥き続けながら、夫が電話をかける音に耳をすませた。リンリン、と鳴らしてしばらく待ち、またリンリンと鳴らして待つ。やっと交換手に番号を告げる声が聞こえてきて、ふたたび待ち、また番号を告げ、さらに三度目に番号を告げてから、がしゃんと受話器を叩きつける音がした。

「誰も出ない」台所に入って来るなり、そう言った。

「たぶんちょっと出かけてるんじゃないかしら」アリスン夫人は不安そうにそう言った。どうしてこんなに不安になるのか、自分でもよくわからない。もしかすると、あの人が我を忘れるほど怒ってしまうのが不安なのかしら。「ご主人はひとりでやってらっしゃるでしょう、だからもし席を外すようなことでもあれば、電話には誰も出られないし」

「そんなところだろうな」アリスン氏は皮肉めいた口調で言った。台所の椅子にどさっと座りこみ、夫人がリンゴの皮を剥いているのを眺めている。しばらくして、夫人がなぐさめるように言った。「手紙を取りに行って、それからまた電話をかけてみたら?」

 アリスン氏はしばらく決めかねているようだったが、やがて言った。「そうしてみるか」

 重い腰を持ち上げ、台所から出がけに振り返って言った。「もし手紙が来てなかったら……」恐ろしいような沈黙を残したまま、夫は小道を下りていった。

 アリスン夫人はパイ作りを急いだ。二度、窓辺へ行き、空を見上げて雲が出ているかどうか確かめた。不意に部屋が暗くなり、嵐が近づいてくるとき特有の張りつめた空気が感じられたからだ。だが、いつ見ても澄んだ空は晴れわたり、アリスン家のコテージにも、世界のほかの場所と同様、明るい陽射しが降り注いでいた。

 あとはもうパイをオーブンに入れるばかりにしておいて、アリスン夫人は三度目に外を見た。夫が小道を歩いてくる。すっかり機嫌が良くなって、夫人に気が付くと、手紙を持った手を振り回した。

「ジェリーからだ」声が聞こえる距離まで来てから、大声で言った。「やっと……手紙がきたぞ!」あの人はもう、緩い坂道さえも、息を切らさずに上れないんだわ、とアリスン夫人は気がついた。だが、そのときにはもう、手紙を差し上げながら、戸口のところまできていた。「戻るまで、読むのをがまんしてきたんだ」

 アリスン夫人は息子の見なれた手書きの文字に、自分でも意外なほど、夢中になって目を凝らした。どうして手紙が来たぐらいでこんなに興奮してしまうのだろう。その理由がわからない。もしかしたら、ずっと待っていたあとで、やっと受けとったからだろうか。きっと明るくて礼儀正しい、アリスと子供たちがああしたこうしたということから始まって、自分の仕事の進み具合が続き、シカゴの最近の天気にふれたあと、「愛をこめて」で終わる手紙だ。
アリスン氏もアリスン夫人も、子供たちの手紙のパターンならすっかり呑み込んで、暗唱することだってできただろう。

 アリスン氏はたいそう慎重に封を切り、それから中の便せんを台所のテーブルに広げた。ふたりはかがみ込んで一緒に読み始めた。

「親愛なるお父さん、お母さん」と手紙は始まっていた。ジェリーの見なれた、いささか子供っぽい筆跡である。

この手紙もいつも通り、湖へ届いたようで、良かったです。いつも、お父さんたちが少し帰りを急ぎすぎるんじゃないか、そっちで好きなだけ過ごしたらいいのに、と思っていました。アリスも言ってるんですが、いまはもう、前みたいに若いわけじゃないし、自分の時間をどう使おうが自由なんだし、つきあいのある人も少なくなってきたんだから、楽しめるうちになんでも楽しいことをやればいいんですよ。お父さんもお母さんもそちらで楽しく過ごしているのなら、滞在を延ばすのはいい考えだと思います。

 アリスン夫人は落ち着かなげに、隣の夫をちらりと見やった。夫は真剣な面もちで手紙を読み耽っている。夫人は自分でも何をしようとしているのかわからないまま、手を伸ばして空の封筒を取り上げた。いつもと同じ、ジェリーの手書きで宛名が記され、「シカゴ」の消印が押してある。シカゴの消印があるのはあたりまえじゃない、と即座に夫人は思い直した。どこかよその消印かもしれない、なんて考える理由がどこにあるっていうの? 手紙に目を戻すと、夫は便せんをめくっていたので、そこから一緒に読み始めた。

……もちろん、あの子たちがいまのうちに麻疹だのなんだのをすませておけば、あとあとずっと楽なんですから。むろんアリスは元気だし、ぼくもそうです。最近ではカラザーズ夫妻、お父さんやお母さんは知らないでしょうが、その人たちと、よくブリッジをやっています。ぼくらと同年代の、おもしろい若夫婦です。さて、もうこれ以上、ぼくのあれやこれやを聞くのにもうんざりしているのではないですか。だからここらでペンを置くことにします。

シカゴの事務所のディクスン老が亡くなったこと、お父さんにお知らせしておきます。ディクスンさんはお父さんがどうしているか、よく聞いていたのですが。

湖で楽しい日をお過ごしください。何も急いで帰ってくることはありませんからね。

             家族全員の愛をこめて ジェリー 

「おかしいな」アリスン氏はひとこと言った。
「何だかジェリーらしくないわね」アリスン夫人も小さな声で言った。「あの子が書く手紙はこんな……」夫人は言いよどんだ。

「どんな手紙だ?」アリスン氏は尋ねた。「どんなところがあの子の手紙らしくないって言うんだ」

 アリスン夫人は眉をひそめたまま、手紙を最初に戻した。どの文章を取っても、どの言葉づかいも、ジェリーのいつもの手紙とちがうところを指摘することはできない。おそらくこの手紙が遅くなったからそんなことを思ってしまうんだろう。さもなければ、いつもとはちがって、封筒に汚れた指紋がたくさんついているから。

「わからないわ」いらだたしげに夫人は答えた。

「もう一回、電話をかけてくる」アリスン氏は言った。

 アリスン夫人は何かおかしな文章がないか見つけようと、さらに二度手紙を読み返した。そこにアリスン氏が戻ってきて、ひどく静かな声で言った。「電話が死んでしまった」

「何ですって」アリスン夫人の手から、手紙が滑り落ちる。

「電話が通じないんだ」アリスン氏はもう一度言った。


 そのあとは一日がどんどんと過ぎていった。クラッカーと牛乳の昼食をすませると、アリスン夫妻は外に出て芝生に腰をおろしたが、午後のひとときも早々に切り上げることになってしまった。低く垂れこめた暗雲がしだいに広がってきて、湖からコテージにかけてすっぽりとおおい、まだ四時だというのに、あたりは夜のように暗くなったのだ。だが、嵐はなかなか来なかった。まるでコテージを打ち壊す一瞬の予感を、心ゆくまで味わっているかのように。ときおり稲妻がひらめいたが、雨はまだ落ちてきてはいなかった。

日が落ちると、アリスン夫妻はニューヨークで買った電池式のラジオをつけて、家の中で寄り添って腰を下ろした。ランプもなく、明かりといえば、戸外の稲光りと、ラジオの文字盤からもれる四角い光だけだった。

 コテージの華奢な造作では、ラジオから流れ出す街の騒音も音楽も人の声も閉じこめておくことはできず、アリスン夫妻は湖面をたゆたうニューヨークのダンスバンドのサキソフォーンの音や、田舎の空気を鋭く切り裂く女性歌手の平板な声が、こだまして返ってくるのを聞いた。安全カミソリの替え刃の切れ味を高らかに伝えるアナウンサーの声さえも、アリスン家のコテージから流れ出す非人間的な声にしか聞こえず、まるで湖も丘も木々も、そんなものはいらないとはねつけるかのように、こだまとなって戻ってくるのだった。

 コマーシャルとコマーシャルがとぎれたときに、アリスン夫人は夫の方へ向き直って、弱々しいほほえみをうかべた。「わたしたち……何かした方がいいのかしら」

「いや」考えながらアリスン氏は答えた。「そうは思わない。いまは待つことにしよう」

 アリスン夫人はほっと息をつき、バンドがふたたびありふれたダンスのメロディの演奏を始めたのを背景にして、アリスン氏は言った。「車はいじられたんだ。それくらい、わたしにだってわかるさ」

 アリスン夫人は少しためらってから、静かに言った。「電話線も切られたのよね」

「きっとそうだろう」アリスン氏は答えた。

 しばらくして、ダンス音楽が終わり、ふたりはニュースに耳を傾けた。固唾を呑んで聞いているふたりの耳に、アナウンサーがよく響く声で、ハリウッドスターの結婚や、野球の試合結果、来週、食料品の値上げが予測されることなどを伝えた。アナウンサーは夏のコテージにいるふたりに語りかけていた。いつまで保つかも定かではない電池式のラジオがたったひとつ残された接点で、もはや彼らには手の届かない世界だが、そのニュースだけは聞かせてやってもよい、と言うがごとくに。ラジオもすでに音が消えかけていた。とりあえずまだ、ここにある世界に属している彼らだが、そのつながりさえもが、この音のようにか細いものになっていることを示すかのように。

 アリスン夫人は窓越しに、穏やかな湖面や、黒々とした木々のかたまりを見やり、やがて来る嵐を思った。それから穏やかな声で言った。

「あのジェリーからだっていう手紙のこと、もう気にしないことにするわ」

「昨晩、ホールの家に明かりがついていたのを見たときに、わかっていたんだ」アリスン氏は言った。

 不意に、風が湖を渡って夏のコテージに吹きつけ、窓がガタガタと悲鳴をあげた。アリスン夫妻は思わず身を寄せ合い、最初の雷鳴がとどろくと、アリスン氏は手を延ばして夫人の手を取った。戸外で稲妻がひらめき、ラジオの音がすっと消えると、パチパチという雑音だけになった。ふたりの老人は、彼らの夏の家の中で身を寄せて小さくうずくまり、やがて来るものを待った。






The End






邪悪なものの気配


たいていの物語は、平和で少し退屈な日常から始まって、じきに何かがやってくる。その結果、作品世界に混乱と変化が起こり、主人公は穴の底に叩き落とされる。物語の進行とは、穴から這い上がる主人公が、世界の秩序を回復していくプロセスにほかならない。主人公は、ほかの登場人物と協力しながら、やってきたものと対決し、うち負かし、世界を作り直すところで物語が終わる。

ところがこの短篇は、何ものかがやってくる、濃厚な気配だけを感じさせるところで終わる。食料品店の店主を始め、町の住人の言動や、動かなくなった車も、切られた電話線も、すり替えられた手紙も、明らかに「何か」が起こることを指している。ところがその「何か」が像を結ぶ前に、ジャクスンは物語を断ち切ってしまう。何ともあざやかな幕切れである。

やってくるものは一体何なのだろう。

この作品と同じく、ニューイングランドの古い、閉鎖的な田舎町を舞台にした「くじ」では、標題通りくじ引きによって、共同体の中から「スケープゴート」を選び出す過程が描かれていた。

閉鎖的な村で起こる日常的な対立や不和は、選び出した山羊を「いけにえ」にすることで、共同体はふたたび結束を取りもどす。「くじ」では、暴力の描写はほんの一瞬だが、そのあといけにえに選ばれた被害者が集団暴力の対象となることが予想される。

それに対して、この「夏の人びと」では、共同体の外から夏だけやってくる避暑客と、共同体に属する人びととの対立が軸となっている。

「レイバー・デイ」という言葉が、さまざまな人の口から繰りかえされる。この日までは、あんたたちを迎え入れてやる。だが、その日を過ぎたら、もういてはならない、というように。

「レイバー・デイ」を過ぎると、何か悪いことが起こるから、町の住人に非難されるのではなく、町の住人が非難するから、「レイバー・デイの翌日」にそこにいることがいけないことなのである。ちょうど、仏滅にあげる結婚式のように。

理由のあることではない。だからアリスン夫妻は気がつかなかった。合理性を重んじる都会人である夫妻は、警告を受けても、それが「警告」だとは思いもつかなかったのである。

こう考えていくと、共同体の秩序を乱す「よそ者」であるアリスン夫妻が、「スケープゴート」として選ばれたのではあるまいか。彼らを「スケープゴート」に仕立てあげることによって、この共同体は絆を深めていくのである。

こう考えると、夜更けにやってくるのが何ものであるかが何となく見えてくるように思う。

やがて共同体は秩序を回復するだろう。けれどもそれは、主人公の活躍によってではなく、主人公を排除することによって。

ジャクスンという作家は、繰りかえし悪を描いている。ただし、ジャクスンに興味があるのは、いわゆる犯罪や、反社会的行為としての悪ではない。ちょっとした意地悪やうぬぼれ、妬み。あるいはまた弱いものに対する嗜虐性。ありふれた人間の持つ邪悪さである。

こうした特質は、日常的な交流の場での礼儀正しさや親切さや立派さと相反するものではない。強い立場にある人間だけが持つ資質でもない。ジャクスンはそんな悪を寓話的に描きだす。悪は解消されない。どこにも行かない。

だから、ストーリーが終わったところから、わたしたちは考え始める。どうしたら自分の好みの終わり方を、この物語に与えることができるだろう。アリスン夫妻が、村の人たちと和解できるような方法はあり得るのだろうか、と。





初出July 12-20 2010 改訂Aug.16, 2010

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