啄木と言葉のふるさと
言語意識の深層には既成の意味というようなものは一つもない。
時々刻々に新しい世界がそこに開ける。
――井筒俊彦『意味の深みへ』
1.思い出すうた
中学生のころ、井上靖の『北の海』や『夏草冬濤』を読んで驚いたのは、わたしとそれほど年齢の違わない旧制中学の生徒たちが、おりにふれて歌を口ずさむことだった。歌といっても、メロディのついた歌ではなく、短歌の方である。船で旅行に行くときや、故郷沼津をそれぞれに離れていく夜、彼らの口から自作の歌や、名の知れた歌人の歌が自然に出てくる。数多くの歌が彼らの内側には蓄えられているのだろうと思った。だからこそ、そのときどきの感情に一番ぴったりくる歌が、自分の内からあふれるように口をついて出てくるのだろう、と。
そう思って見てみれば、アガサ・クリスティやルース・レンデルなどのミステリでも、登場人物たちはシェイクスピアのソネットや、オマル・ハイヤームのルバイヤートを口にする。訳注として小さな字で挿入されたそれらの語句を通じて、わたしはオマル・ハイヤームもマシュー・アーノルドに「海峡」という詩集があることも、T.S.エリオットやジョン・キーツの名前も知っていったのだ。ミステリでさえこうなのだから、文学作品になると、わたしなどには気がつきもしないほど、多くの詩が登場人物のせりふに織り込まれているのだろう。
自分のことを考えてみると、確かに百人一首は小学生のうちに覚えてはいた。だがそれもただカルタ取りのためだけで、たとえば「淡路島 かよふ千鳥のなく声に 幾よ寝ざめぬ 須磨の関守」という歌は「淡路島に行くよ」という具合に覚えていったのだから、歌の情景も歌にこめられた思いも、記憶とは何の関係もないのだった。ただ読み上げられた「音」を聞いて、条件反射のように下の句の最初の言葉取り札のなかから探していたにすぎない。
おそらくはそうした本の影響なのだろう。自分の気持ちにぴったりくるような詩を見つけては、覚えようとして、ノートに書き写していたころもあった。けれども、ああいいな、いい歌だな、と思いはしても、いくつかの小説を読んだときのようには、自分と深いところで結びつくような感じを抱くことはなかったのだ。どこまでいっても詩や歌が、自分のものになったような気がしなかったせいだろう、じきにそんなこともやめてしまった。いまとなっては当時のわたしが、いったい誰のどんな詩を覚えようとしていたのかすら記憶にない。
それから時が過ぎ、そんなことを思ったことすらも忘れたころだった。
ある冬の夜、仕事を終えて、真っ暗な部屋に帰った。明かりをつけ、ひとつづきの動作でファンヒーターのスイッチを入れた。自分の息が白く凍る部屋のなかで、ファンヒーターが作動を始め、炎のついたボッという音を確かめてから、手袋から手を引き抜いた。自分の手が出てくるのにつれて、ふと、記憶がほぐれでもしたかのように、口をついて出てきた歌があった。
手套(てぶくろ)を脱ぐ手ふと休(や)む
何やらむ
こころかすめし思ひ出のあり
手袋を脱ぎながら「こころかすめし思ひ出」のように、ほとんど意識することもなく、この歌が口をついて出たのだった。冷えた部屋のなかで、低い自分の声を聞いた。自分が作ったはずもないのに、そのときの自分の内側から出てきたとしかいいようのない歌。自分で作るよりも、まぎれもない自分の言葉がそこにあった。
本棚の奥の方のどこかにあるはずの薄っぺらい文庫本を探した。最初の「我を愛する歌」はどんどん読み飛ばした。親もふるさともどうでもよかった。
ことさらに燈火(ともしび)を消して
まぢまぢと思ひてゐしは
わけもなきこと
この歌は、わたしだけのものだった。それが証拠には、わざわざ電灯のあかりを消してまで集中できる環境を整えたのに、ふと気がついてみれば、自分が考えているのは「わけもなきこと」だった、と知るときの、やりきれない、バカバカしくもあり、その底に苦いおかしみもこもっているようなその「感じ」が、これほどまでにわかるはずがないのだから。
心より今日は逃げ去れり
病ある獣のごとき
不平逃げ去れり
わたしの体の奥の、どことも言えない場所で、息を殺している密やかないらだち。そのいらだちに、「病ある獣のごと」という言葉が与えられる。言葉にされて初めて、ああ、そうだ、わたしはいらだっていたのだ、と気がつく。その瞬間に、不平は逃げ去っている。幸運な偶然のように、言葉が与えられたおかげで。
さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと
さりげない言葉は「それだけのこと」と言い捨てられて、「さりげない」ことからあふれだす。小さな声で、抑えた声で、言い捨てられた言葉だから、聴く方も大袈裟に聴いてはいけないのだ。けれど、わたしはこのあふれ出したなにものかを受けてしまった。このあふれ出したものはどうしたらよいのだろう。
朝が来て夜になり、夜がまた朝になるように、連綿と続く日々の生活のなかに、切れ目なく続いていくわたしの思い。繰りかえしながら決して同じであることのない日々のように、感じていることすら意識されないような、茫漠とした思いは、にもかかわらず、そのときたった一度きりの思いなのだ。啄木の生活を歌った歌は、わたしのそうした思いをすくい上げ、形にしていた。わたしが生まれるよりずっと前にすでにあったのに。
わたしは、薄い本のなかに、わたしの生活の意味を見つけたのだ。ここに、わたしの生活がある。わたしは、ここで生きていく。三行に分かち書きされた文字の連なりに過ぎないもののなかに、わたしがいる。
そのときから、いくつかの歌は、特に暗記するつもりもないまま自分の内に刻まれてしまうようになった。いまもどうかすると、溜息をつくように自分の内側から啄木の歌がにじみ出てくる。
いそがしき生活(くらし)のなかの
時折のこの物おもひ
誰のためぞも
2.「公団嵐が丘」のふるさと
かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川
いしいひさいちのコミックスのシリーズに「ドーナツブックス」というのがあって、これは一巻ごとに文学書のパロディのタイトルがついている。たとえば『毛沢東語録』が『毛沢東双六』になっていたり、『女の一生』が『女の一升瓶』になっていたり、『長距離走者の孤独』が『長距離走者の気の毒』になったりしていて、言葉をほんのひとつかふたつ変えるだけで、オリジナルとパロディのあいだのずれが、笑いを誘ったり、一種の権威のようなものをしゃれのめしていたり、まったくちがう見方を与えたり、そこからいろんな物語さえもが生み出されたりして、パロディというのはなかなかたいしたものだ、という気がしてくる。『公団嵐が丘』も、そんなタイトルのひとつだ。
小さいころから、毎朝、郵便受けに差し込まれている新聞を取ってくるのはわたしの仕事で、毎週土曜の朝刊は、ふだんの倍近くの厚さになっているのはよく知っていた。週末の新聞を分厚くしているのは広告で、折りたたんだつやつやとした大型の紙には、木立を背景に、立ち並ぶ高層住宅群の絵が麗々しく描いてあるのだった。
広告には「青葉台」だの「ひばりヶ丘」だの「桜ヶ丘」だのと、大きな文字が踊っていた。子供時代には不思議にも奇妙にも思わなかったそうした名前が、いったいどういう性質のものなのか、理解するようになったのは、それからずいぶんあとになる。
そこには別の名前があったのだ。長い歴史のなかで、そこに暮らす人々が、さまざまな思いをこめて口にし、文字にも記してきた、その土地に結びついたもともとの名前があったのだ。ところが山を崩し、地形を変えて、宅地を造成するなかで、忽然と消えた山と一緒に、その山の名前も、村の名前も、跡形もなく消えてしまったのである。
砧村、関戸村、古い地図や昔の小説には、いろんな村の名前が出てくる。それぞれに言われも歴史もある名前を本を通じていくつも知るようになると、土地本来の名前を「青葉台」や「ひばりヶ丘」に変えてしまうことは、山を崩し、そこに生える木や草や菌類や、そこに暮らす生き物を根こそぎにすることと同じくらい、暴力的なことのように思えてくるのだった。
いや、考えようによっては、プラスティックのように薄い、本来の「青葉」や「ひばり」の意味をすでに失った「言葉」の残骸は、山をごっそり削り取り、その残骸に建てた家の群れにこそふさわしいものなのかもしれなかった。そうした広告が、木立や青空を背景に、ことさら自然の一部を使った「新しい名前」で呼びかけているのは、偽物だとわかっている宝石だって、みんなで口裏を合わせて褒めそやせば、偽物の輝きも少しは本物らしく見えるのだから、一緒にそのお芝居に加わりましょう、ということだったのかもしれない。
山や台地を切り崩したそのあとに、臆面もなく、何の関係もないイギリスの小説のタイトルを持ってきた「公団嵐が丘」も、いかにもどこかにありそうだ(「嵐」を連想させるネーミングは実際には好まれないのかもしれないが)。小説と切っても切り離せない、ヒースの生い茂るイギリスの荒れた台地の名前だけを拝借し、その前に「公団」とつけるだけで、いつのまにかベージュやネープルズイエローのペンキを塗りたくったマッチ箱の群れの名前ににが建ち並ぶ、新興住宅地の光景が浮かんでくる。その命名にまつわるうさんくささを指摘して秀逸なタイトルである。だが、「公団嵐が丘」となるまえの、たとえば「仰木山」という名になじんだ人の思いは、いったいどこへいくのだろうか。
わたしたちが自分の生まれた場所や地名に特別の愛着を覚えるのは、そこが自分が世界と最初に触れあった場所であり、そこを通じて、山や川や木や空という言葉を覚えていった場所だからだ。わたしたちはそういう場所を通して、そこにあるものと身体的な交流をしながら、言葉の世界に入っていったのだ。朝な夕な仰いできた「仰木山」こそが、その人の「山」という言葉の根底にある非言語的なイメージであり、その山に分け入って木々のそよぎを聞いたの経験が「風」という言葉の根幹にある。言葉の世界に入ってしまったわたしたちの意識は、そのときの非言語的な世界との交流を、もはや覚えてはいないけれど、身体はその痕跡を記憶しているはずだ。だからこそ、どうやってもうまく言葉に乗らない愛着(郷土愛などという言葉に押し込めようとすればなおさら遠ざかっていく「何ものか」)を、そういう場所に対して覚えるのだろう。
方言にしてもそうだ。わたしたちは身近な人びとから、口移しにされるようにして言葉を覚えていく。そのときの言葉というのは、単に単語だけではない、発声そのものも含まれる。だからどれだけ共通語を使っていても、発声にその人の出身地はあらわれるし、どれだけ英語の巧みな人でも、くしゃみをするときは日本語だ。わたしたちの発声は、身体に刻まれた場の名残りなのである。
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく。
啄木が「聴き」に行ったのは、内容を持つ話ではなかった。「訛り」とここでは歌われているが、母音と子音が合わさって一気に発声される、音節の短い、機関銃のような東京の言葉ではない、口の中で豊かにふくらみながら鼻に抜けていく、横光利一が「寝ながらあちこちで話す村人の会話を聞いていると、このあたりの発音は、ますますフランス語に似て聞える」と語った(『夜の靴』)東北独特の発声だったのではなかったか。啄木の体に刻まれた「ふるさと」である。
だが、岩手県の渋民村に生まれた啄木、というか石川一(はじめ)が、生涯渋民村を出ることがなく、父もまた常光寺を追い出されることがなければ、渋民村は彼の生活の場であって、ことさらにその言葉を聞きたいと思うこともなかっただろう。
病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも
「思郷のこころ湧く」ためには、つまり「ふるさと」が「ふるさと」となるためには、人はそこから出ていなければならない。そこから出てしまった場所、と同時に、「ふるさと」自身はそこにあって、帰っていける場所なのである。だから、汽車の煙を見ると「かなし」くなってしまうのである。
己が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術なし
自分が振りかえる「ふるさと」は、自分が出たそのままの場所として自分のなかに刻まれている。自分のなかでは、その「ふるさと」は、出たときのままで時間を止めてしまっている。もはやそこは現実の場所ではない。「かへる術なし」とうたわれる場所が「ふるさと」なのである。
ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足軽くなり
心重れり
啄木の評伝を読めば、たいていどれにも彼が「石持て追われた」ことが書いてある。だが、「足軽くなり」「心重」くなるのはそのためばかりなのだろうか。体はそこを歩いた日々を覚えている。川のある場所も、坂道も、四つ辻もすべて覚えているだろう。けれど、「心」の方は、そこが「ふるさと」ではないことを知っている。自分からすでに失われた場所であるから「ふるさと」は「ふるさと」と意識されるのだとしたら。たとえそこを歩いていたとしても、まぎれもなく体はそこを認めても、失われた場所である「ふるさと」を、心の側は認められない。この「感じ」は、そこを出て戻った者が誰しも思う「感じ」なのである。この「ふるさと」は、もはや「渋民村」ではなく、読む人の「ふるさと」のことなのである。
やまひある獣のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし
「ふるさと」はそこにある。離れて、そこの話を聞くことはできる。つかの間、こころのなかの「やまひある獣」をなだめることはできる。だが、そこには決して戻ることはできない。たとえそこに行ったとしても、そこはもはや自分が過ごした場所ではない。
そういう場所が「ふるさと」であるならば、つまりその人から「失われた場所」として意識されるしかない場所が「ふるさと」であるならば、たとえ幼き日々にともにあった山が崩され、その名前さえ奪われていたとしても、「ふるさと」を奪うことは誰にもできないのだ。たとえ山の名前が、もはや古い地図や歴史書や古文書のなかにしか残っていなくても、「ふるさと」はその人の体に刻まれているはずだ。初めて世界と交わった場所として。
飴売のチャルメラ聴けば
うしなひし
をさなき心ひろへるごとし
わたしが子供のころに毎週入っていた広告のもとになった公団住宅も、作られてから四半世紀以上が過ぎた。そこで生まれ育ちした人も、すでにずいぶんいるのだろう。そうした人にとっては、「青葉台」や「ひばりヶ丘」が世界と初めてふれあった場所なのだ。「かにかくに」「恋しかり」のふるさとなのだ。A棟とB棟のあいだのケヤキの木立が「ふるさとの山」であり、雨の日に増水して流れが速くなった排水溝が「ふるさとの川」として、その人の内にきざまれているはずだ。
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
3.Prince of the Apple Towns(林檎の町の王子)
そのかみの神童の名の
かなしさよ
ふるさとに来て泣くはそのこと
小学校時代、絵が飛び抜けてうまい子がいた。わたしを含めて大多数の児童が、水彩絵の具がどういうものかも理解できずに、色を混ぜ合わせて濁った色を画用紙に塗りたくっていたころ、すでに淡彩の手法を使って、透明度の高い絵を描いていた。名前などついていなくても、その子の描いた絵だけはすぐわかったし、毎年絵画コンクールで大きな賞を受賞して、朝礼のときに全校生徒の前で表彰状を受けとっていた。卒業文集にその子は「将来は画家になりたい」と書いていたし、わたしたちはみんな「あの子なら絶対なれるだろう」と疑っていなかった。
けれど、結局彼は歯科医院を継いだ。小学校を卒業してからわたしの方は、まったく交流はなくなってしまったのだけれど、たまたま母がそこにかかったことで、歯の治療をしてくれている「若先生」が、わたしの元同級生であることがわかったのである。絵を続けているのかどうなのかは知らないし、もしかすると趣味で楽しんでいるのかもしれない。だが、彼のなかでどんな曲折があったのか知る由もないけれど、子供時代のわたしたちのなかで、「才能」という言葉に一番近いところにいたのは、おそらく彼だったのではあるまいか。
石川啄木は禅寺に生まれた神童だった。山寺のことで、もとより豊ではなかったけれど、生活難の何物たるかを知らずに成長した。それが、二十歳になった五月、処女詩集『あこがれ』を出版した得意の絶頂に、暗澹たる運命が前途にこの少年天才を待ち設けていようとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。
啄木は『あこがれ』一巻をふところに、「故郷の閑古鳥を聞きに、行って来る」というハガキをわれわれに飛ばして、突然帰郷した。あとになってわかったが、当時、郷里の檀家との間にいざこざが起こって、啄木の両親が寺を出て還俗し、盛岡市帷子小路に一家を構え、年来の恋人であった堀合節子嬢を迎えて結婚式を挙げさせようとする両親の電報や手紙で招き寄せられての帰郷だった。が、この帰郷を境に、まだ金をもうける道を知らなかった二十歳になったばかりの詩人の弱肩の上に、一家扶養の重荷が一度にのしかかって来たのであった。そして、身を終わるまでふたたび浮かび上がることのできない赤貧のどん底に、あえぎ通さなければならなかったのである。
(金田一京助『一握の砂・悲しき玩具』解説)
啄木自身で自分のことを「神童」と呼び、金田一京助も「神童だった」と書いているが、実際のところ、石川一少年の「神童ぶり」というのはどの程度のものだったのだろう。盛岡中学時代の一は、金田一京助を始め、多くの文学少年たちと雑誌を作ったりしている。中学四年のときの成績は平均六十六点で、学年百十九人中の八十二番だったという。当時すでに岩手日報に詩歌を発表していて、もはや学業にはほとんど関心が持てなくなっていたのかもしれない。
年譜によると、十七歳のときに「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」が与謝野鉄幹・晶子の主催する『明星』に掲載されたとある。『明星』は当時最も権威のある詩歌の雑誌だった。そうして十九歳で処女詩集『あこがれ』を刊行。これには序文を上田敏が書き、あとがきを与謝野鉄幹が書いた。当時、最も評価の高かった詩の翻訳者と歌人がまえがきとあとがきを書いたのだから、確かに華々しいスタートを切ったといっていい。
以前、太宰治の『ヴィヨンの妻』を読んでいて、「二十一で本を書いて、それが石川啄木という大天才の書いた本よりも、もっと上手で」という部分を見て、ちょっと驚いたことがある。啄木というと、すぐに生活苦ということが出てくるから、ちょうど印象派の画家のように、生前は周囲に無視されていたのだろうと思っていたのだが、『ヴィヨンの妻』が発表された昭和二十二年には「大天才」という評価が定まっていたのだろうか。ともかく啄木の年譜を見てみると、二十三歳の時に百号で終刊になった『明星』のあとを受けて創刊された『スバル』の編集兼発行人になっている。当時の彼は森鴎外ともつきあい、北原白秋や土岐善麿とも親交が厚かった。となると、歌人としての評価は、生前にも十分に高かったのである。
だが、短歌では当時、経済的な基盤を築くことはできなかった。父母と妻子を支えていかなければならない啄木は、そのこともあって小説家を目ざす。
関川夏央の『二葉亭四迷の明治四十二年』(文藝春秋社)を見ると、明治四十一年の五月から六月、啄木は「小説を二百二十枚ほどとと詩を八篇書き、短編小説の構想を十六本分練った」とあるが、啄木が書いた小説は、まず題と、登場人物の名前、そうして小説の冒頭だけだった。
啄木が二十二歳の時に東京毎日新聞に連載した『鳥影』を評して、ドナルド・キーンはこのように言っている。
客観的にみても『鳥影』は失敗作に終わりました。しかし連載終了後、啄木はできあがった原稿を方々の出版社に持ち込み、ことごとく単行本化を断られます。そして啄木は逆上しました。自分が天才であることを一度も疑ったことはなかったのでしょう。
啄木の判断は間違ってはいませんでした。天才であったに違いないと私も思っています。ところがそれは、小説家としてではなく、即興詩人としての天才でした。…即興詩人に欠点があるとすれば、それは構造です。啄木は最後まで小説の構造を少しも身につけられなかった。そして彼は、自分以外の人物を書くことができなかった。
(ドナルド・キーン「ローマ字でしか書けなかった啄木の真実」
『新文芸読本 石川啄木』河出書房新社)
それから啄木の人生、といっても、もう四年ほどしか残っていないのだが、ひたすら小説を書き、認められず、評論を書き、金にはならず、生活に追われ、借金をし、無駄遣いをし、合間合間に吐き出すように歌を詠んだ。若い日に、自分と同じ代用教員を主人公とした『雲は天才である』と書いた啄木は、やがて自分を「天才」と思うことをやめてしまう。
イギリス、というか、ウェールズに深く根を下ろした詩人ディラン・トマスの詩に「ファーン・ヒル」というものがある。
ぼくが幼くて、なんの憂いも知らなかったころ、林檎の木の下、
楽しげな家のまわりで、緑の草のように幸せだったころ、
渓谷の夜空は星が瞬き、
時は その絶頂で
金色に輝くぼくに 歓声をあげさせ、舞い上がらせた
荷馬車に囲まれたぼくは、林檎の町の王子
時の流れもまだ知らぬころ、王者のように木々や葉を従えて
雛菊や大麦といっしょに歩いていった
思いがけない贈り物のように光り輝く川に沿って。
(私訳)
幼いころ、世界と初めて交わってから日も浅いころは、誰もが「木々や葉を従え」ていた「世界の王者」だったのではなかったか。だが、「世界の王者」の日々は長くは続かない。わたしたちは「ひとりの子供」として社会に入っていく。自分のほかにも大勢の人びとがいることを知る。もはや自分がたったひとり「世界の王者」であったころには戻れない。
やがて、学校という社会に入っていくうち、わたしたちの全能感は、徐々に壁にぶつかって、修正を余儀なくされてしまう。自分がとうていまねできない、それどころかどうしたらそんなことができるか、そんなふうに絵の具や水や筆を使うことができるのか、想像すらもできない子を見ることで、自分の能力に限りがあることに否応なく気づかされることになる。
「そのかみの神童」だった啄木には、そのことに気がつくまでに、多少時間がかかってしまったのだろう。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
だが、「天才」であることをあきらめたときから、啄木はほんとうの啄木となったのではなかったか。伊藤整は啄木のことをこのように評している。
彼は小説家、詩人として成功することを諦めて、「小さな慰め」として、また「玩具」として、使い慣れた短歌形式を、極めて自分流に、戯れの用具とした。その時から彼の真の芸術が、その「玩具」を通して現れたのである。私は、その転換期を特に注目する。それは、貧乏から免れない、出世もできない、健康にもなれない、家庭も幸福に築けない、と考えたときに突然始まったのである。そしてそれは当然に、そういう自己の不合理さの実原因としての社会認識をも伴ったのである。ある条件の社会において困惑する自己、それを見いだすことは、自己と社会の両方を見い出すことなのだ。
それはいわば、彼の直接な自我からの脱出であった。貧しい自己、才とぼしき自己、不幸な自己が、一挙に彼自身の把握から抜け出し、今までの自己と別個な自己、客観的に存在する石川啄木として啄木自身の目に映ったことを意味する。そして、その石川啄木をそのように存在させる条件なる社会に彼は気がついた。存在する自己と、それを支配する社会と、それを見て描く自己との分離という、真の芸術家すべてが通らねばならない諦観に、彼は二十五才の若さで達したのである。
(伊藤整『作家論』筑摩書房)
自分がもはや天才=世界の王者ではない、限界を持った存在であると思い知らされることは、確かに楽しいことではない。だが、その認識を通して、わたしたちは自分がかなわない人びとへの敬意を知っていくのではないだろうか。特定の人への敬意から、人間の能力への敬意、そうしてまた、逆に、市井でつつましく生きる人への敬意。自分一人が「王者」の座からすべり落ちるのではない。人はみなそうやって社会の一員になっていく。
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと
ときに周囲を呪詛することもあるだろう。
死ぬことを
持薬をのむがごとくにも我はおもへり
心いためば
いまある自分にいらだち、この世界からの脱出を願うことだってあっただろう。
だが「玩具」がいつも彼の傍らにあった。使い慣れた短歌、短い生涯を共に歩いてきた短歌。その形式が、自らの言葉の形式となるほどまでに、自分のものにしつくした短歌。
遊びに出て子供かへらず、
取り出して
走らせて見る玩具の機関車。(「悲しき玩具」)
啄木の短歌のどれも、生活のなかの心情が描かれる。一瞬に移ろいゆく日々の感情は、言葉につなぎとめられ、歌のかたちをとることで、形式を与えられる。おそらく啄木の短歌が「わかりやすい」のは、形式として完成されているからだろう。完成されているものは単純なかたちをしているものだから。
湯川秀樹は
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
という歌に関して次のように書いている。
自然界の真理をつかもうと、どんなに努力しても、砂のようにさらさらと指のあいだから抜けていってしまう。そういうもどかしさ、私が何度も経験した気持、それがこの歌によって実に見事に表現されていると私は思う。啄木自身はもっと違った気持を表現したのであろうが、そのせんさくは私には不必要である。
(湯川秀樹『啄木全集第七巻 月報』岩波書店)
啄木はまさか「砂」を「自然界の真理」と解釈されることがあろうとは思わなかっただろう。だが、この「砂」は、どこの、どんな砂であってもかまわないのだ。啄木個人の経験から離れ、「わたしの砂」に重ね合わせられていく。この歌を読むわたしたちが、「砂」という言葉と初めて触れあったときのところへ、わたしたちの身体に刻まれた記憶へと戻っていくことを可能にする。
啄木の歌を通して、わたしの自分のなかの密やかな思いに形が与えられる。手袋を脱ぐときに、不意に去来する思い、自分よりほかの人の良い知らせを聞いて、おめでとう、と言いながら、自分ひとり取り残されていくような鬱屈、ひとりになりたい思い、どこかへ行きたい思い、なにもかも、そこにあったのだと気づく。啄木は、わたしの歌になる。
庭のそとを白き犬ゆけり。
ふりむきて、
犬を飼はむと妻にはかれる。
啄木の死後出された『悲しき玩具』はこの歌で終わる。
まるでこのあとも日々が続いていくように。