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日付のある歌詞カード 〜"These Days"


♪ 駅前でBon Joviの "These Days" をふと思い出した


駅に向かって歩いていたら、急に小雨がぱらつきだした。。
うつむいて雨を避けながら足を急がせる人、あわててポケットティッシュのつまった箱を屋根の下に移す人、そのまま歩道橋の上で歌を続ける人、そういう情景を見るともなしに見ていたら、頭の中でボン・ジョヴィの"These Days"が流れてきた。

視線を落とすと、駅の柱にもたれて座っているホームレスの人が目に入った。
ボン・ジョヴィの歌みたいに発泡スチロールの王冠をかぶってはいなかったけれど、いくつもいくつもショッピングバッグを両脇に抱えていた。

わたしが子供のころは、そういう人は「浮浪者」と呼ばれていた。怖くて、それでもそちらが気になって、母親からは「見ちゃいけません」と注意されてあわてて目をそらし、それでも視線の隅でチラチラうかがっていた。横を通り過ぎるときは、胸がドキドキした。

大学に入ったころは、そうした人は「レゲエのおじさん」と呼ばれていた。その呼び方には、揶揄もあったけれど、どこか、親しみもこもっていたかもしれない。なかには有名な「レゲエのおじさん」もいて、エピソードを持っている人もいた。

いまでは、ただ、ホームレス、という。

アイン・ランドという人がいる。小説もいくつか書いているけれど、一種の思想家とでもいえるような人だ。RUSHというバンドの《2112》というアルバムが、アイン・ランドのSF小説にインスパイアされた、ということで、長らく翻訳も出ていなかった日本では、一部でSF作家だと誤解されてるみたいだけれど、実際は専業作家ではなかった。

この人が主張したのは「自分自身の幸福の達成は人間の最高の道徳目標である」という、倫理的利己主義の思想だ。孫引きになっちゃうけれど、「寄生虫、たかり屋、火事場泥棒、畜生、凶悪犯たちは一人の人間にとって何の価値も持ち得ない」(『利己性の徳』:ジェームズ・レイチェルズ『現実をみつめる道徳哲学』晃洋書房から)とまで、言い切っちゃう。
人は自分の幸福の実現をめざして懸命に生きるべきだ、実際にそうやって生きている人に対して、ほかの貧しい人のために、計画を変更したり、財産を放棄したりするようにいうことは、「彼の生」を犠牲にさせるものでしかない、と批判した。

こんな人もいる。
ジョナサン・コゾルの『家のない家族』(増子 光訳 晶文社)という本を読んだことがある。この本のなかには、家を失った家族が描かれる。些細なきっかけで(たとえば火事で、失業で)堅実な生活からあっというまにすべりおち、家を失うと、そこからはいあがるのは、奇跡を待つのに近いほど困難なことになる。
この曲にも出てくるような「シェルター」で寝泊まりするだけで、日々、少なからぬ額のお金が消えていく。そこからさらに生活費を捻出しなければならない。どんな安アパートでさえ、「家」と呼べる場所を借りるためのお金など、正規の職をいったん失った人には、貯めようがないのだ。

それを書いたコゾルは、ハーバードを最優秀で卒業したあと、ローズ奨学生に選ばれて、イギリスのオックスフォードで学んだ(クリントン元大統領と同じ経歴だ)。のちに『罌粟の香り』という甘美な恋愛小説を書いて、将来を嘱望されていたコゾルが、いったいどのような経緯で公民権運動に足を踏み入れたのかはよくわからないが、ボストンのゲットーで教師をし、やがて公民権運動に関わったことを理由にそこを解雇される。だが、教師時代の経験をもとに著した『死を急ぐ幼き魂』が注目を集め、やがてフリー・スクール運動の中心的な人物となる。
その彼が、ホームレス・シェルターに赴き、インタビューしてまとめ、雑誌『ニューヨーカー』に発表した記事は大きな反響を呼び、やがて『家のない家族』として上梓される。

わたしも含めて、たぶん多くの人は、アイン・ランドの主張にはうなずかないだろう。かといってコゾルのように、そうした人々の力になるために、実際になんらかの活動を起こせる人は多くない。

ときに、自分の良心を封じるためにだけ、ほんのささやかなことをする。忘れてしまうことはできない。胸の痛みとして記憶に刻みつけておきながら、一方で、そうすることにどこまで意味があるのだろう、と思う。

ジョン・ボン・ジョヴィが“おれもゆくゆくはあんなふうになるんだろうか、って思った”と歌うように、だれもがどこかでそう思う。
だからよけいにわたしたちは、視界のなかに入れまいとするのかもしれない。
見なければ、そこに存在しない、とでもいうかのように。

"These Days"

人混みのなかを一人で歩いていた
なんとか雨に濡れないようにしながら
発泡スチロールの王冠をかぶった浮浪者を見た
おれもゆくゆくはあんなふうになるんだろうか、って思った
街角で歌ってる男がいた
昔の、変革を呼びかける歌を歌っていた
このごろじゃだれもが十字架を背負ってるっていうのに

スーツケースいっぱいの夢を抱えて泊まるところをさがしにきた彼女は
大通りのモーテルに着いた
たぶん、ジェームズ・ディーンにでもなろうと思ってるんだろう
ありとあらゆる人間の信者と、ありとあらゆる有名人の真似をしてる連中に会うんだ
このごろじゃ自分自身でありたいと思う人間なんていやしない
それでもしがみつけるものといったらこうした日々でしかない

このごろじゃ星なんてとても手が届かないような気がする
このごろじゃストリートに梯子なんてありゃしない
日々はまたたくまに過ぎて、この情け容赦のない時代には何も残らない
このごろじゃあとに残されたのはおれたちだけ

ジミー・シューズは両脚を折った 空を飛ぶ練習をしようとして
二階の窓から、目をつぶってジャンプした
ジミーのママは、頭がどうかしてる、って怒ったけど、ジミーはこう言ったんだ
「ぼくはやらなくちゃ」って
おれのヒーローはみんな死んじまったけど
おれだってフェイド・アウトするくらいなら死んだほうがマシだと思う

このごろじゃ星なんてとても手が届かないような気がする
このごろじゃストリートに梯子なんてありゃしない
日々はまたたくまに過ぎて、この情け容赦のない時代には何も残らない
善意なんてものも夜更けの列車に乗って行ってしまった
だからこのごろじゃあとに残されたのはおれたちだけ

まだローマは燃えたままなんだ
時代は移り変わっていくけど
地球は回り続けてるんだ
このごろだって

このごろじゃ星なんてとても手が届かないような気がする
このごろじゃストリートに梯子なんてありゃしない
日々はまたたくまに過ぎて、この情け容赦のない時代には愛なんて続かない
善意なんてものも夜更けの列車に乗って行ってしまった
だからこのごろじゃあとに残されたのはおれたちだけ

このごろじゃ星なんてとても手が届かないような気がする
このごろじゃストリートに梯子なんてありゃしない
日々はまたたくまに過ぎて、この情け容赦のない時代には何も残らない
もうムダに生きてる暇はないんだ
責任を取ってくれるやつもいない
このごろじゃおれたち以外にだれもいないんだ

(※原詞は
http://bon-jovi.lyrics-songs.com/lyrics/4939/


その昔、とあるアメリカ人と話をしていた。つい最近、映画の“スピード”を見た(つまりそのころの話だ)、と言ったら、どうだった、と聞かれたので、なんというか、ああ、こうなるんじゃないかな、と思ったら、そうなって、つぎに、こんどはこうなるだろう、と思ってたら、やっぱりその通りになって、おもしろくないわけじゃないけど、完璧に先が読めて、ちょっとつまんなかった、といったら、そういうのは "predictable" というのだ、と教えてくれた。もちろん予言する、とか、予想する、とかいう意味の "predict" という単語はよく知っていたのだけれど、それの可能態をそういうふうに使えるとは知らなかった。
それ以来、"predictable" という単語が出てくるたびに、わたしはキアヌ・リーヴスが出てくるこの一本調子の映画を思い出してしまう。

ボン・ジョヴィの音楽というのは、ほんとうにこの"predictable" そのもので、“バウンス”というアルバムでもいきなり“ダダダダダダダダ”(ああ、こういう書き方ってほんとうにマヌケだ)と来るから、きっとつぎは“ッダダダダダダダ”と来るだろう、と思ってたら、ほんとうにそうなって、つぎはきっと“ダダッダダッダダッダダッダッダッ”ってなるだろうと思うと、あら不思議、ほんとにそうなる(笑)。
だからとっても覚えやすい。一度聞いたら、間違いなくメロディラインを完全に覚えられる。

こういう書き方をすると、なんとなくわかるかもしれないけれど、ボン・ジョヴィが好きかっていうと、それほど好きじゃない。
ポップなら、ポップでいい。ペット・ショップ・ボーイズだってそんな曲はいくつもあるし、一筋縄ではいかなかったはずのエルヴィス・コステロまで、最近ではずいぶんポップな感じになってきた。
聞きやすい音、売れる音、そういうものを目指すのなら、それはそれでかまわない。キャロル・キングとジェリー・ゴフィンだって、そういう音楽をいくつも書いて、そうしたなかから三十年以上たってもズシッとくるポップ・ミュージックの名曲を残した。もっとさかのぼれば、あのジョージ・ガーシュウィンだって、顔を黒く塗って黒人の真似をする白人が歌うミンストレル・ショーのために曲をどっさり書いた。そうして、お金をもうけたのちに、おそらく20世紀最高のオペラといっていい《ポーギーとベス》を書き、これはかならず黒人によって上演されなければならない、と記して実質的に封印した。

こういう人たちに比べて、ボン・ジョヴィがなんとなく気に入らないのは、ごく浅いところで、こういうのが音楽なんだ、音楽っていうのはこういうもんなんだ、って満足してる感じがすることだ(そう思ってしまうのはわたしだけなんだろうけど)。ポップ・ミュージックだって割り切ってるわけじゃない、本人たちは、おそらくロックだと思ってるんだろう、これがロックだ、これが音楽だ、ってちっとも疑っていないおさまりの良さがどこまでいってもあって、ちょっとイラッときてしまう。

好きじゃないのなら、通り過ぎてしまえばいい。ジャクソン・ブラウン(どうでもいいけど、いつもわたしはジェイムズ・ブラウンとジャクソン・ブラウンが頭の中でごっちゃになってしまって――似てるのは名前だけなのに――、セックス・マシーンはどっちだっけ、とかならず一度考えなくてはならない。もちろんわたしが好きじゃないのは、セックス・マシーンじゃないほうだ)とか、ブライアン・アダムスとか、フィル・コリンズとか(フィル・コリンズの前のジェネシスは好きなのに…)、そんなに悪くはないとは思うけれど、好きじゃない、聞かないことにしている人が、わたしにはたくさんいるのだから。

それでもボン・ジョヴィはどういうわけか、通り過ぎてしまえない何かが、たぶんあるんだろうと思う。まさかジョンの顔が好み、っていうわけでもないんだけど、ジョンの声とか(感情のこめかたが安いところは好きじゃないんだけど)、バンドの音とか、それほどキライではないので、たまに聞いてしまう(おまけにどういうわけか図書館にはいっぱいある)。
この"These Days" にはほかにはない、揺れみたいな、ためらいみたいなものがあって、それでも最後はしっかり安定着陸しちゃうんだけど、ボン・ジョヴィのなかでは好きな曲だ。やっぱりイントロの最後のほうで、来るぞ来るぞ、というタイミングで入る予想通りのピアノの“チャララーン”という音には、こめかみに“怒りマーク”がみっつほど浮かんでしまうけれど。

一連目の

昔の、変革を呼びかける歌を歌っていた
このごろじゃだれもが十字架を背負ってるっていうのに

という箇所に出てくる歌は、もちろんジョン・レノンの《イマジン》だ。“天国なんてない、と想像してごらん”と歌ったのを受けて、だれもが十字架を背負っているっていうのに、そんな想像なんかが何の役に立つ? と言っているわけだ。
ジョン・レノンは前回の“The Sound of Muzak”でも、

反乱を呼びかける歌を聴いていると
怒りもかきたてられるけれど
それを作っているのは
君の倍くらいの年の億万長者

と批判されていたし(反乱を呼びかける、というから、"Imagine"ではなくて"Give Peace A Chance"のほうだろうか。もしかしたらスティーヴン・ウィルソンの頭にあったのは、レノンじゃなくて、たとえばU2だったりするのかもしれないけれど)、エルヴィス・コステロもどこかで「所有財産を否定した彼は億万長者だった」みたいに歌っていた。
ただし、そういう批判の痛烈さ、というか意地の悪さにくらべたら、ボン・ジョヴィの歌詞は優しい。少なくとも自分がいまはレノンの側にいることをごまかそうとはしない。そういう不器用な正直さ、みたいなものが、キライになりきれない理由なのかもしれない。

人はときに、さまざまなものを切り捨てて進んでいかなければならないこともある。自分にそうした人を救う力がないときは、どうしようもできない。つらいことだけれど。だけど、どうしようもないことを「正しいことだ」なんて正当化しちゃいけない。自分とその人たちを隔てるものは、ほんのちょっとした偶然でしかなかったのだから。

いつも正しいことができるばかりではない、弱い人間である自分を知り、そこからもういちど考える。できないことをできない、と認めることは、たしかに敗北かもしれないけれど、それで終わったわけじゃない。いつか、きっと。

敗北は、その醜さにもかかわらず、おのれが復活への唯一の道であることを示すことができる。樹を創造するためには種子を腐敗にゆだねなければならない。

(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』山崎庸一郎訳 みすず書房)
初出 March.10 2006 改訂 March.20 2006

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