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時間とわたしたち

(時は流れない)
ぼくはふりかえらない
いま、このときのまわりをよく見たいんだ
― Rush "Time Stand Still"





よく言われる話に、高校野球を見ていて、子供の頃は大人がやっていると思っていたのに、いつのまにか自分と同年代となり、やがて年下になり、そのうちに子供がやっていると思うようになる、そういうときに「歳を取った」と実感する、というのがある。
高校野球をまともに見たことがないわたしでも、それが意味するところはよくわかる。

高校野球というのは、わかりやすい目盛りなのである。
もちろんやっている高校生は変わっていく。変わっていくが、高校生であることには変わりはない。ところがそれを見ているわたしたちと高校生の関係は刻々と変わっていく。それはわたしたちが歳を取っていくからである。高校生を「大人」と思うほどの子供から、同年代へ、やがて高校時代を過ぎ、子供を持ち、いずれ、高校生の孫を持つような年齢が来る。
日常の時間はだらだらと流れていき、「流れた」ということさえ気がつかないが、こういう目盛りがあると、改めて「流れていく」ことが実感される、という話なのである。

高校野球に代わる「目盛り」としてわたしが思いだすのは一冊の本である。ウェブスターの書簡小説、というとずいぶん大層だが、タイトルを聞けばおそらく誰もが知っている、『あしながおじさん』なのである。

この本をわたしが初めて読んだのは小学校の低学年だった。親戚からもらった児童文学のシリーズがあったのだ。『赤毛のアン』や『名犬ラッド』や『三銃士』や『ひみつの花園』や『十五少年漂流記』や『西遊記』などと一緒に段ボール箱に入っていたのを取ってきて読んでいたような記憶がある。
なかでもわたしが夢中になったのは『西遊記』で、当時暗唱できるほど繰りかえし読んだのだが、いつのまにか離れてしまい、以降読み返すこともない。だからわたしの『西遊記』の知識は、子供向けにリライトされた、孫悟空の冒険の物語なのである。

そのころ『あしながおじさん』に特別の感銘を受けたわけではない。
ただその本の挿絵が好きだったのだ。古い本独特のにおいのする小型の厚い表紙の本を開くと、細い棒のような手足をしたかわいい女の子が出てくる。ほかの本がいかにも「挿絵」然としているのに、田村セツ子が描いているこの本だけは、「イラスト」という感じで、「イラスト」という言葉など知らなくても、そのちがいは子供の目にもよくわかったのだった。なかには素朴なタッチのウェブスター自身の手になるカットも挿入されているのだが、ずいぶんちがうの雰囲気の二種類の絵も、それほど気にならなかった。

そのころは主人公のジュディを女子大生と意識はしなかったように思う。女子大生、というのがそもそもイメージできず、自分より少し年上のおねえさん、というぐらいの感覚で読んでいたのではなかったろうか。自分の延長にある、おそらくは中学生くらいの女の子が寄宿学校に入って、部屋を飾ったり、いろんな本を読んだり勉強したり、ラテン語で落第したり、作文に独創性を認められたり。いつかそのうち自分にも起こるかもしれない物語として読んでいたような気がする。

ところがそれが最後に「あしながおじさん」と結ばれるのだ! これにはショックを受けた。裏切られたようにさえ思った。
ショックを受けたのは「あしながおじさん」が「ジャービー坊ちゃん」だったからではなく、そんな「おじさん」と結婚することなのである。もちろんこの「おじさん」は、当初ジュディが思っているような老人ではなく、三十代半ばの社会改良家(?)なのだが、当時のわたしには、「初老の評議員」と「三十代半ばの社会改良家」の区別などロクにつかなかった。「皺をのばしてさしあげる」という記述があるくらいだから、そんな皺があるような年代のおじさんと一緒になるなんて!
これはこたえた。何か、不気味なものを見てしまったような気さえした。

だがこの本はのちに重要な本となる。高校になって、英語のテキスト、読むのではなく、英文の手紙を書くときの「文例」として使うために、日本語と英語をつきあわせながら、本の綴じがほどけてバラバラになるまで「文例辞典」として使用したのである。

たとえばこんな文章

I hope that I don't hurt your feelings when I criticize the home of my youth?
(わたしが自分の子供時代の家(※孤児院のこと)を批判しても、おじさんはお気を悪くなさらないでしょうね?(※「おじさん」は孤児院の評議員のひとりなのである))

これで、相手の国の何かを婉曲に批判するときの表現を学んだし、

College gets nicer and nicer.
(大学は日に日に楽しくなっていきます。)

などのように、英語らしい単純明快な表現もこれで覚えた。
それだけでなく、そのころにはこんな部分に目が行くようになっていたのである。

And he is--Oh, well! He is just himself, and I miss him, and miss him, and miss him. The whole world seems empty and aching. I hate the moonlight because it's beautiful and he isn't here to see it with me. But maybe you've loved somebody, too, and you know? If you have, I don't need to explain; if you haven't, I can't explain.

(そして彼は――ああ、もういいわ。彼は彼なのだから。そして、わたしはその彼がいなくて寂しくてたまらないの。恋しくて恋しくて。世界中が空っぽになって、ずきずき痛むみたい。月の光だって憎らしい。あんなにきれいなのに、彼と一緒に見ることができないんですもの。だけど、おそらくおじさまだってどなたかを愛した経験がおありでしょうから、これがどんな気持ちだかご存じでいらっしゃるわね? だったら説明なんて必要じゃないし、もしおありじゃなかったら、説明のしようがないのだけれど。)

ここでジュディは自分がどんなに「ジャービー坊ちゃん」のことを思っているか、それが当の相手とも知らずに「あしながおじさん」に訴えているのだが、"He is just himself, and I miss him, and miss him, and miss him." や "The whole world seems empty and aching." という表現は胸がしめつけられるように思ったし、自分も誰かのことをこんなふうに書くことがあるのだろうか、とも思ったのだった。さすがに手紙を送る相手はそういう関係ではなかったので使えなかったのだが、いつかどこかで使ってやろう、と頭にインプットしておいたのだった。残念ながらそんな機会はないまま今日に至っているのだが。
ちなみに" If you have, I don't need to explain; if you haven't, I can't explain." のほうは、微妙に表現を変えながら何度も使った。どうもいまにいたるまでわたしが対句表現を偏愛しているのも(たとえば「読みながら考え…」とか)、根っこにはこのフレーズがあるのかもしれない。

ともかく、そのころには十歳以上年長の男性にジュディが引かれたとしても、なんら違和感を覚えないまでにわたしも成長していたのである。

だが、いまのわたしは下手をしたら「ジャービー坊ちゃん」より年上なのかもしれないのである。この文章を書くためにざっと読み直してみたのだが、ジュディの手紙の向こうから、彼のためらいさえ見え隠れするようだ。おそらく彼は、光源氏的発想、女の子を引き取って、自分の目の届くところで一人前のレディにしようとしたのではなく、たまたま勉強のできる女の子に奨学金を出してやったら、相手は「孤児」からひとりの女の子へとなっていき、しかも女の子から女性へと成長していくのを目の当たりにして、徐々に引かれていったのだ。そうして、彼自身、自分の思いが受け入れられるかどうか不安なのである。彼のそこらへんの感じが妙によくわかるような気がして、つまり、わたしはいつのまにか「ジャービー坊ちゃん」の側からストーリーを眺めてしまっていたのだった。

げに目の前の憂き世かな。

さて、話は変わるが、わたしが初めて人を教えたのは二十歳のときで、相手は小学校五年生の子だった。そうして数年前、その子のお母さんと電車の中でばったりと会ったのだ。
向こうから声をかけられて、「あ、××君のおかあさん! お久しぶりです」と挨拶したのはいいけれど、その横で照れくさそうな顔をしているスーツ姿の青年が、かつての小学生だ、と気がつくまでに、かなり時間がかかった、というか、お母さんの方が教えてくれたのだ。「あのときは小学生だった××も……」

へ? あの半ズボンをはいていた子が? 流水算がわからなくて泣いていた子が? 大学を卒業してお勤めをしている??

このときほど自分の年齢を強烈に感じたことはない。自分の中では二十歳のときなんてついこのあいだのような気がするのに、あれから11年もたっていたのだった。11年というと、小学生も社会人になるのである。

記憶の中の時間、物語の時間、時間というのはそれぞれに「場」を持つ。わたしたちの頭のなかでその「場」の情報がまったく更新されないとき、わたしたちはその「場」を思い返すとき、たとえどれほど時間が経っていても、その時間の経過は認識から抜け落ちてしまっている。昔、教えた子は、半ズボンをはいたままなのである。

逆に言うと目に見えない時間を認識する唯一の方法が、この「変化」なのである。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」というが、もしこれが「河」でなく池だったら、そこに鴨長明も「時の流れ」を重ねあわせて見ることもなかったのだ。

「高校野球」や「あしながおじさん」は姿を変えることによって、わたしたちに「時が流れた」ということを教えてくれる。だが「出会わない人」はそのあいだに姿を変えないから、時は流れない。だから、姿を変えていたときに驚くのである。

「死者とともに生きる」でも引用したのだけれど、『アクシデンタル・ツーリスト』には忘れられない一節がある(これはほんとうにすばらしい本だから、古本でも何でも、とにかく手に入れて読んでみてください)。

 もし死んだ人間も歳を取るなら、それは慰めにはならないだろうか? メイコンは、イーサンもまた天国で大きくなっているのだと考えると――だから今は十二歳ではなく十四歳になっているのだと考えると――悲しみが少し和らぐような気がした。

(アン・タイラー『アクシデンタル・ツーリスト』真野明裕訳 早川書房)

前に書いたときは気がつかなかったのだが、これは「時間」に関する重要な考察を含んでいるように思われる。わたしたちは、会わなくなった人、会えなくなった人を思い返す。思い返すとき、どうしても最後に会った時点のその人を思い返すのだ。それは、その人に流れる時を、こちらが止めてしまうということでもある。

メイコンは亡くなった息子の時間をせき止めてしまうのではなく、自分と同じ時間の流れのなかにおいてやろうとしたのだ。
具体的にはどういうことか?
それは、そのときどきの光を当てながら、思い返す、というやり方で。

わたしたちは身近にいない人を、たとえばこの曲を聴いたら、あの人はどう思うだろう、とか、この本はあの人が好きそうな本だな、とか思うことがある。美しい風景を見て、あの人だったら何と言うだろう、おもしろい出来事に遭遇して、こんなことがあったんだよ、と教えてあげたらあの人はどう言うだろう。
実際にその人がわたしたちが思っているとおりの反応を示すかどうかはわからない。だからこそ、実際に会ったり、話したり、メールを送ったりするのだ。

それでも、それが不可能な人だったら。
たとえそうでも、あの人ならこんなときこう言うだろう、この曲を聴いて、こんなふうに思ったんじゃないか、と考えることは可能だ。
はたしてそれは、まったく何の根拠もない、自作自演と言えるのだろうか。

その人の反応を想像することは、わたしたちの内側にストックされた過去のやりとりの記憶がもとになっている。だからその情報が更新されなければ、その人の記憶も古いままなのだろうか。

そうではない、と思うのだ。

以前「あなたのなかの子供」でも引用した長田弘の言葉をもういちど引こう。

 記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、自分の現在の土壌となってきたものは、記憶だ。
 記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。自分の記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う。

(長田弘『記憶のつくり方』 晶文社)

以前にははっきりとわからなかった「記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてる」ということは、そういうことではないのだろうか。
わたしが変わっていくように、記憶のなかの人びとも変わっていく。単に、別の見方で見る、というだけでなく、「その人のことば」を自分のうちで「そだてる」のである。
そうして、メイコンが救いを見出したのは、その「そだてる」ということだったのではないだろうか。そうして、ことばを「そだてる」ことは、同時に自分が「そだつ」ことでもある。

時が流れる、ということは、変化する、ということなのだ。変化する、ということにおいて、時は流れている、といってもいい。そうしてたとえ離れても、本なら読み返すことによって、音楽なら聴き返すことによって、人であれば、思い返すことによって、同じ時の流れに身を置くことができる。

そうして、こんなふうな思い返しを続けることによってしか、自分ではない「他人」は、ほんとうの意味で、自律した人間、自分とはちがう心を持った人間として、自分のなかには立ち現れてこないのではないだろうか、と思うのである。



ところで、わたしがいま住んでいるすぐ近所に、ついこのあいだまで頼まれて英語を教えてやっていた子がいた。先日その子が駐車場でバイクにもたれてタバコを吸っていたのを見たのである。
「こんにちは」と声をかけてやっても、こちらを照れくさそうにちらりと横目で見やったきり、挨拶もしてこない。
ついこのあいだ中学生だったのになあ、と思いながら、わたしはつらつら考えてみた。

……英語、教えてやったの、たった二年前じゃん。

初出March.22 2007 改訂May.20 2007

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