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翻訳作品と著者紹介


 シャーウッド・アンダーソン(Sherwood Anderson)

シャーウッド・アンダーソン(1876〜1941)はアメリカの作家。
アンダーソンのお父さんは開拓者の第一世代。中西部の田舎町はいまだ開拓時代の名残を残しているのに、一方でニューヨークやシカゴは加速度的に大都市化していく。アンダーソンが生きた時代はそういう社会が激変する時代でした。同時に文学上の表現という意味でも大きく動いた時期でもありました。作品は、単に登場人物の経験したことの物語だけではなく、同時に、その人物の生きてきたすべてを結晶化させるような瞬間を切り取ったものでもある。フォークナーはアンダーソンのことを「われわれの世代のアメリカ作家の父」と呼んだのだけれど、まさに近代が現代になっていく、その端境期の作家のひとりです。

◆ 『ワインズバーグ・オハイオ』(Winesburg, Ohio)…… 2005.10.22
実は連作短編である『ワインズバーグ・オハイオ』全編を訳してやろうとだいそれたことをもくろんでおりまして(笑)、全体では第五章の「だれも知らない」までを訳しています。全体の六分の一ぐらいで挫折して、いまに至っております。またそのうち、気が向いたら続きも訳してみようと思っているのですが、なかなかこれが大変で……。ま、気長におつきあいください。



 ロバート・バー(Robert Barr)

ロバート・バー(1850-1912)はイギリスのミステリ作家。
あのシャーロック・ホームズを生んだコナン・ドイルとほぼ同時代のイギリスで活躍した作家です。生まれたのはイギリスですが、幼少期にカナダに移り、そこで教育も受けました。フランス人探偵を登場させたのも、エドガー・アラン・ポーの影響を受けただけでなく、イギリスを外から見ていた彼独特の視点があったからかもしれません。このフランス人探偵の系譜は、ベルギー人となってアガサ・クリスティのエルキュール・ポワロへと受け継がれていきます。

◆ 『健忘症連盟』(The Absent-Minded Coterie)……2007.07.28 この作品は、日本で大変有名な作品に出てきます。きっとその文豪も、雑誌に掲載されたのをおもしろく読んだのだろうと思います。時代を超えて、おもしろいという感覚を共有できるのは楽しいものです。江戸川乱歩はこの作品を「奇妙な味」と呼びました。確かに、ガス灯の時代のロンドンの、ユーモアと奇妙な味が味わえる、ミステリ・アンソロジーの定番です。



 チャールズ・バクスター(Charles Baxter)

チャールズ・バクスター(1947-)はアメリカの作家。
フォークナーがアメリカ南部を描き、チーヴァーがアメリカ東部の郊外を舞台に作品を書いたように、バクスターが描くのはアメリカの中西部です。ミシガン州のスモールタウンは、わたしたちが映画やドラマで「知っている」アメリカとはずいぶんちがいます。農場があり、教会があり、目抜き通りにあるのはショッピングモール。休みの日には、公園にピクニックに出かけたりします。そんな町を舞台に、ヒーローが出てくるわけでもない、劇的な事件も起こらない、ありふれた人びとの毎日に“ちょっとしたハプニング”が起こる。けれども、その“ちょっとしたハプニング”が光源となって照らすのは、わたしたち自身の日常でもあるのです。

◆  『グリフォン』(Gryphon)……  2008.11.19

語り手のトミーは小学校の四年生。先生が病気になって、代理の先生がやってきます。この若い(?)女の先生は、なんだか不思議な先生です。だれも聞いたことのないような話をつぎつぎに教えてくれます。先生はちょっとおかしな人なんでしょうか。それとも子供たちに見知らぬ世界の存在を教えてくれた人なんでしょうか。




 アンブローズ・ビアス(Ambrose Bierce)

アンブローズ・ビアス(1842-1914?)はアメリカの短編作家。
少し前のエドガー・アラン・ポーと比較されることの多い、独特な短編のスタイルを築いた人物です。「ニガヨモギと酸をインクとして使っている」と評されたように、辛辣な筆致、あっと驚くような結末、そうしてどれも死がテーマとなっています。没年が不明なのは、メキシコに渡ったのちに行方不明になったから。まるで自分の作品の登場人物のような一生を送った、ともいえる人物です。

◆ 『アウル・クリーク橋でのできごと』(An Occurrence at Owl Creek Bridge)……  2005.08.15
古今の短篇のアンソロジーの定番中の定番、ビアスの作品のなかでもっとも有名なものでしょう。この着想は、のちにいろんな映画のなかで使われることになります。ただこの作品は、すぱっと切り落とされた幕切れの鮮やかさだけではなく、夢幻的な場面の独特な感じ、鮮やかなのだけれど、同時に歪んだ感じがなんだかすごいなあと思います。訳しているあいだ、ほんとうにずっと喉が痛かったです。

◆ 『月明かりの道』(The Moonlit Road)…… 2006.05.27
ビアスを最初に日本に紹介したのは芥川龍之介です。それだけでなく、芥川龍之介の作品全体が、少なからぬビアスの影響を受けているように思います。この作品ももちろん『藪の中』へと受け継がれていったのでしょうが、むしろ作品の雰囲気は『奉教人の死』に近いように思います。



 エリザベス・ボウエン(Elizabeth Bowen)

エリザベス・ボウエン(1899-1973)はイギリス系アイルランド人の作家。
先祖はイギリスの名誉革命の指導者クロムウェルに仕えたという旧家の出身です。一族はアイルランドに「ボウエンズ・コート」という荘園を持っており、ボウエンはその最後の一人として、家屋敷を人手に渡すことになります。18世紀から19世紀初頭にかけて隆盛をきわめたゴシック小説は、のちに大西洋を渡ってアメリカに受け継がれ、本国イギリスでは衰退してしまうのですが、ボウエンの作品にゴシックの影響が色濃いのは、そうした伝統とは別に、彼女がゴシックの雰囲気、アイルランドという異郷に、孤島のように浮かぶ古いイギリスの大邸宅のなかで育っていったことと深い関係があるように思います。ボウエン自身、このような言葉を残しています。「死者たちは亡霊として現れる必要はない。その霊はすでに屋敷の隅々まで浸透しその一部になってしまっているからである」(エリザベス・ボウエン他『猫は跳ぶ』橋本槙矩訳 福武文庫)と。

◆ 『悪魔の恋人』(The Demon Lover)……2008.07.27
この作品は、日本で長編の翻訳がなく、それほど有名ではないボウエンの作品のなかでは、もっとも有名なものでしょう。怪談の一種、と呼んでさしつかえないと思います。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選(上)』にも所収されています。第二次世界大戦下のロンドンが舞台です。初めての大規模な空襲を受け、その余塵くすぶるなかに戻ってきた主人公。いつしか第一次世界大戦のときの記憶がよみがえってきます。当時のヨーロッパ人にとって、第一次世界大戦と第二次世界大戦のふたつの戦争は、ひとつながりのものとして意識されているのだろうなあと改めて思います。



 トルーマン・カポーティ(Truman Capote)

トルーマン・カポーティ(1924-1984)はアメリカの作家。
カポーティといえば、ノンフィクションノヴェルというジャンルを確立した『冷血』がもっとも有名かもしれません。一方で、彼が幼少期を過ごした南部の雰囲気の色濃い作品も多くあります。11歳にして作家を志した彼は、読むことで書くことを学んでいき、17歳で高校を終えるとすぐに、雑誌「ニューヨーカー」で下働きの職を得ます。そうして19歳から徐々に短篇が大手雑誌に掲載されるようになるのですが、21歳のときに発表した『ミリアム』が一躍注目を集め、その年に発表された短篇の最優秀作品に贈られる「O.ヘンリー賞」を受賞します。そののちの『遠い声、遠い部屋』(1948)や『草の竪琴』(1951)などの詩情豊かな長編、あるいは華々しい成功をおさめた『冷血』など、作品の数は決して多くないのですが、アメリカを代表する作家の一人であるといえるでしょう。

◆ 『ミリアム』(Miriam)…… 2007.01.24
上でも書いたように1945年、カポーティが初めて大きく注目されるようになった作品で、処女短編集『夜の樹』に収められています。いわゆるゴシック・ロマンスというのが小説のジャンルにはあるのですが、そもそもはイギリスで18世紀半ばから流行した、ゴシック様式の建築物の廃墟(教会など)を舞台に幽霊だのなんだのが出てくるようなものでした。その伝統は時代を経て、さまざまにかたちを変えながら受け継がれていくのですが、アメリカではとくに南部小説に、南部ゴシックというかたちで残っていきます。この作品もそのひとつ。謎が大きな役割を果たします。いったいミリアムは何ものなのか。ミリアムの目的は。短いにもかかわらず、白い閉塞感と寒気があとに残っていく作品です。

◆ 『クリスマスの思い出』(A christmas memory)……2009.12.16
1956年、アメリカの雑誌「マドモワゼル」に発表された短篇です。複雑な育ち方をしたカポーティが、幼年の一時期を過ごしたアラバマでの経験が元になっています。アメリカでは大変有名な短篇で、いまでも小学校の教科書に載ったり、クリスマスシーズンになると朗読されたりしています。すべて現在形で書かれた追憶の物語は、現在形で語られることによって、時を超越したいという作者の願いの現れなのかもしれません。



 ジョン・チーヴァー(John Cheever)

ジョン・チーヴァー(1912-1982)はアメリカの作家。
チーヴァーが描くのは、第二次世界大戦後の豊かなアメリカの、郊外に住む、何不自由ない中流階級の人々です。ところが物質的には豊かなはずなのに、彼らはつねになにものかに脅かされている。チーヴァーはそこに不思議なものを滑りこませます。
もし現代を舞台におとぎ話や寓話を描こうとしたら、どうしてもこうなってしまうのかもしれません。

◆ 『とんでもないラジオ』(The Enormous Radio)…… 2006.03.26
ここに出てくる「不思議なもの」はラジオです。ラジオを買った。ところがそれがとんでもないラジオで……。
そんなことはありえないはずなのに、ちっとも違和感を覚えない。この導入のたくみさと、細かな描写の積み重ねがチーヴァーの真骨頂といえるでしょう。これを読んだら、たぶん、周囲の人がそれまでとは少し、ちがってみえるはず。もちろん、あなた自身も。

◆ 『泳ぐ人』(The Swimmer)…… 2006.07.19
こちらの「ありえない設定」は、時間です。ここでは時間が不思議な流れ方をします。主人公は、時空のひずみにまぎれこんでしまったのか。それとも主人公の記憶のほうがどうかしてしまったのか。真相は定かではありません。ただ、確かなのは、これを読んだあとの世界は、以前ほど明るくもなければ、確かなものでもなくなっているはずです。

◆ 『ニューヨーク発五時四十八分』(The Five-Forty-Eight )…… 2009.08.05
この作品ではいきなり襲いかかってくる不条理は、「わたしが・捨てた・女」です。捨てた方としてみれば、まるでコンピュータの Delete キーを押すようなもの、「合理的判断」なのかもしれませんが、捨てられた方としてみれば、そんなわけにはいかない。おまけに職まで失ってしまったのですから、もう大変なことです。
主人公は、否応なく過去の自分に向き合わされる。自分が気分次第で人の人生をめちゃくちゃにしてしまったか、突きつけられます。このあと主人公はどうなるのか。あるいは、それを突きつけた女性の方は。
「自分」というものを確立してしまった人間が、他の人と共に暮らすということはどういうことなのか。そこで下される「合理的判断」なるものが、どれほど恣意的で身勝手なものなのか、この作品は、わたしたちにそのことを問うてきます。

◆ 『クレメンティーナ』( Clementina )…… 2010.07.01
読み始めてしばらく、チーヴァーをよく知っている読者は、とまどうかもしれません。というのも、幕が開くと、そこはイタリアの寒村。奇跡だの天使や悪魔だのと時代もよくわからないような舞台で繰り広げられるのは、まるでおとぎ話のような物語です。
それがいつの間にか、チーヴァーお得意のアメリカの郊外にすべりこむ。おとぎ話の住人にとっては、わたしたちにおなじみの世界の方が「おとぎ話」です。そうして、読み終わると同時に、わたしたちは自分がいるここもまた、「おとぎ話」であることに気づくのです。リアリティって何でしょう。そんなことを改めて思う短篇です。



 ウィラ・キャザー(Willa Cather)

ウィラ・キャザー(1873-1947)はアメリカの女性作家。
どういうわけか日本ではあまり有名ではないのですが、20世紀アメリカを代表する作家のひとりであることはまちがいないでしょう。ネブラスカ州の農場で育ち、のちにペンシルヴァニア州で教師と新聞記者をつとめ、そこからニューヨークに移って編集者となり、やがて専業作家となりました。そうしてアメリカの開拓者精神、土地と結びついた人とびとの生活や生き方を、自然主義的ではない、一種の象徴的な手法でもって描き出していきます。
「人の助けを借りず、また、助けを必要とせずに成就される愛、すなわち芸術における愛がキャザーの作品におけるもっとも深い真実の愛なのである」(ユードラ・ウェルティによるキャザーの作品評から:マルカム・ブラッドベリ『原題アメリカ小説II』)

◆ 『ポールの場合』(Paul's Case)……2007.03.24
この作品はキャザーの処女短編集『トロールの庭』(1905)に所収された、最初期の作品ですが、今日でもアメリカの短篇アンソロジーにはしばしば収められるものです。20世紀初頭というのに、十代の、純粋なもの、完全なものを求めてさまよう主人公の心情にはまったく古さを感じない。ホールデン・コールフィールドの原型は、このポールであるように思います。



 ロアルド・ダール(Roald Dahl)

ロアルド・ダール(1916-1990)はイギリスの作家。
鮮やかな幕切れと皮肉なユーモアが持ち味の作家です。児童文学も手がけており、映画化もされた『チョコレート工場の秘密』は、英米で子供たちにもっとも人気のある作品のひとつでしょう。ところが彼の作品は、たとえ子供向けといっても「またやられた。ひどい。許せない。すごい仕返しをしてやらなくては」(『マチルダは小さな大天才』)と主人公の女の子に言わせる(しかもその相手は実の父親)くらい、容赦のないものです。この手加減のないところこそ、ダールの真骨頂といえるのかもしれません。

◆ 『南から来た男』(Man From the South)……2006.09.06
結末の一点に向かって進んでいく緊張感がたまらない作品です。ダールのなかでももっとも有名な作品でしょう。TVシリーズ「ヒッチコック劇場」でも映像化されましたし、タランティーノの「フォー・ルームス」でもひねった形で出てくる。おそらくこのストーリーを知っている人も多いのではないでしょうか。まだ知らない、読んだことがない人がちょっとうらやましくなるぐらい、おもしろいものです。原文のドキドキする感じを損なっていなければよいのですが。

◆ 『羊の殺戮』(Lamb to the Slaughter)……2006.11.14
これは××の処理方法で有名な作品。ここでもダールならではの皮肉が生きています。既訳では「おとなしい凶器」というタイトルになっていますが、ここでは原題にもう少し近づけてみました。

◆ 『番犬に注意』(Beware of the Dog)……2007.04.25
ダールの処女短編集に収められている作品です。円熟期のものにくらべると、オチのあざやかさはありませんが、リアルな恐怖があるように思います。

◆ 『天国へ上る道』(The Way Up to Heaven)……2007.09.20
短編集『キス・キス』に所収されています。ここでは煮詰まったふたりの人間関係が、ひとつの出来事をきっかけに、思わぬ展開を見せる。「いけず」の人は、ご用心、かもしれません(笑)

◆ 『味』(Taste)……2008.04.17
『南から…』や『羊の…』と同様、短編集『あなたに似た人』所収。ワインを飲んで、その醸造年と醸造所を当てる賭けをする。「ワインティスティング」として、実際にそういうことをやっている人も多くいるのでしょう。ところが楽しいはずのこの遊びが、それだけでは終わらなくなって……。

◆ 『女主人』(The Landlady)……2009.08.13
短編集『キス・キス』所収。暗い、寒い夜、見知らぬ街に迷い込んだ17歳の少年が主人公。職に就いて間もない彼は、出張を命じられます。まず落ち着き先を決めてから、支店に出社すること。出世しようと野心を抱く彼は、上司の命令を忠実に守ろうと、落ち着き先を探します。ところが彼が見つけたのは……。

◆ 『幕開けと悲劇的結末 ―ある真実の物語』(Genesis and Catastrophe ―A True Story)……2009.10.23
短編集『キス・キス』所収のこの短篇では、従来のダール・テイストは封印され、歴史の「もし」へとわたしたちを誘います。もし、彼の父親がこんな人間ではなかったら、もし彼のきょうだいがこんなことになっていなかったら……。歴史学的にはほとんど意味のない問いなのでしょうが、わたしたちの空想は尽きません。そうして、空想から現実の世界に戻っていくとき、わたしたちの「いま・ここ」のとらえかたは、少し変わっているはずです。



 フィリップ・K・ディック(Philip K. Dick)

フィリップ・K・ディック(1928-1982)はアメリカのSF作家。
ディックというと、一般に知られているのが、映画「ブレード・ランナー」や「トータル・リコール」「マイノリティ・リポート」などの原作者ということでしょうか。
ディックが描く未来社会は、政府なんだか、独占企業なんだかよくわからない、巨大なものに支配された、息苦しいような管理社会です。そこに住む人びとは、どこからどこまでが「現実」なのか、「自分」というものがいったいどこからどこまでか、わからなくなってしまっている。この現実と現実でないものの境界、人間と人間でないものの境界というのは、四半世紀に及ぶディックの作家生活のあいだで、変わらない問題意識としてありました。境界を定めることによって、何とか確かなものを保証しようとしたはずが、ますますその深みに足を取られていくように。
「現実を見ろ」と言われて、「あなたが見ろという現実っていったい何?」と聞き返してしまういまのわたしたちの意識は、ディックの世界の延長にあるように思います。

◆ 『変種第二号』(Second Variety)……2009.04.24
この作品は1953年に発表されたもので、ディックの最初期の短篇に当たります。50年代の、冷戦構造と核の恐怖の色濃い世相を背景に、早くも「どこから人間」「どこまで人間」というディックの問題意識が現れています。変種第二号は誰なのか。降り積もる死の灰の上を、ぼろぼろのぬいぐるみを抱いた、痩せて青白い顔の男の子が、どこまでも後をついてくるというイメージが、わたしたちの記憶に残ります。

◆ 『お父さんのようなもの』(The Father Thing)……2009.04.24
1954年発表ですが、『変種第二号』に比べてあまり時代を感じさせません。ある人物が、いつのまにか人間外のものに乗っ取られるというアイデアは、大昔から魔物や吸血鬼や動物、やがて宇宙人やゾンビへと姿を変えながら、繰りかえし物語にされてきました。けれどもこの作品では、子供を焦点人物に据えることで、ひと味ちがったものに仕上がっています。ディックの短篇のなかでも幅広い年代に読まれているもののひとつです。



 ウィリアム・フォークナー(william Faulkner)

ウィリアム・フォークナー(1897〜1962)はアメリカの作家。
フォークナーについて何をいったらいいんだろう。20世紀を代表する作家、モダニズムを代表する作家、アメリカの南部を代表する作家、まあとんでもなく重要な作家であることはまちがいない。その巨人のささやかな入門編ということで、ここでは比較的とっつきやすい短編を訳してみました。

◆ 『乾いた九月』(Dry September)…… 2005.10.04
『エミリーに薔薇を』と並んでもっとも有名な短編のひとつだと思います。ただ、時間がバラバラにほぐしてある『エミリー…』にくらべて、こちらは時間は多少前後しているものの、流れは追いやすいはずです。ただ、土埃で口の中がざらざらするような空気も、血のような夕暮れも、どうやっても日本語にはならなくて、翻訳って英語を日本語に当てはめるだけの作業じゃないんだなあ、と痛切に思った経験でした。フォークナーの英語に対応するような日本語を、わたしの側が持っていない。できればこれもまた訳し直したいと思っています。訳しているあいだ、ずっと空がどんよりと見え、口の中がざらついていました。

◆ 『納屋は燃える』(Barn Burning)……2008.11.03
1939年発表の、フォークナーのなかでも後期の短篇にあたります。おなじみのサートリス大佐の名前をもらったサートリス・カーネル・スノープスという十歳の少年の目から見た、父親と息子の物語です。小作仕事をする父親について、一家は荷馬車に全財産を積んで渡り歩いています。誇り高いならず者の父親と、父親の言うなりの兄、無気力な双子の姉、無力な母親と叔母。そのなかで少年は、父親に対する激しい愛情と、社会の一員として生きることのあいだで引き裂かれていきます。



 F.スコット・フィッツジェラルド(F.Scott Fitzgerald)

F.スコット・フィッツジェラルド(1896-1940) はアメリカの作家。
1920年代のアメリカを代表する作家の一人です。1920年の処女作『楽園のこちら側』が熱狂的に受け入れられて、「ジャズ・エイジの桂冠詩人」とも呼ばれたフィッツジェラルドですが、ヘミングウェイやフォークナー、スタインベックらが一貫して高い評価を得ていたのに対し、フィッツジェラルドはアメリカでも一時期忘れ去られ、1950年代にふたたび評価が高くなるという曲折を経ています。日本では近年、村上春樹が短編のいくつかと『グレート・ギャツビー』を訳し直すことを通して、多くの関心を集めているといえるでしょう。彼の生きたけばけばしい時代とその没落が描かれる作品を通して、現代のわたしたちは1920年代のアメリカを知り、さらには繁栄と崩壊(「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ」太宰治)の普遍的な相を見るのかもしれません。

◆ 『生意気な少年』(The Freshest Boy)…… 2011.01.25
時代は1913年ごろ。中西部の町を出て、東部の寄宿学校で新生活を始める十五歳の少年の物語です。自伝的な要素がきわめて強い作品ですが、同時に、周囲からいわれのない誹謗を受け、それに反抗することで、孤立に陥るベイジルの状況は、多くの人が経験してきたことではないでしょうか。少年の心のふるえがそのままわたしたちに感じ取れるのは、作者が単に自分の過去を懐かしんでいるだけではなく、“ベイジル・リー”として、作品世界を生き直しているからにほかなりません。



 シャーロット・パーキンス・ギルマン(Charlotte Perkins Gilman)

シャーロット・パーキンス・ギルマン(1860-1935) はアメリカの作家。
200を超える短編と十冊の長編小説を書いた多作の人ですが、なんといってもこの『黄色い壁紙』が有名でしょう。揺籃期のフェミニズムを支えたひとりで、特に女性の経済的自立ということを早くから訴えた人でもあります。

◆ 『黄色い壁紙』(The Yellow Wallpaper)…… 2005.07.23
これは作品の発表が1892年、19世紀末のアメリカが舞台です。一種のゴシック・ホラーですが、今日的にはフェミニズムの観点から読まれることのほうが多いのでしょうか。大学の語学のテキストにもなっているところが多いようで、大学からのアクセスがやたら多いんですが、大学の先生、同じ間違いをたくさんしている人がいたら、それはわたしの責任です。どうかそういう箇所があれば教えてください。



 メアリー・ゴードン(Mary Gordon)

メアリー・ゴードン(1949- ) はアメリカの作家。
ニューヨーク州ロングアイランドで、のちにカトリックに改宗したユダヤ人の父とアイルランド系の母親の下に生まれます。1960年代の後半を、激しい学生運動の嵐が吹き荒れるコロンビア大学で過ごしたのち、創作を学び、70年代後半から執筆活動に入ります。その多くが家庭生活を営む女性、あるいは自分の母や父、母のバックグラウンドとも重なるアイルランド系移民など、身近なところに題材を取った彼女の作品は、決して派手なものではないですが、高い評価を得ています。

◆ 『手品師の妻』(The Magician's Wife)…… 2011.04.01
1987年に発表された短編集 "Temporary Shelter"(日本語にすると「仮設住宅」ということになるのでしょうか)に所収された一篇です。家の数だけ家庭があり、そこではそれぞれに異なる家庭生活が営まれています。かつてトルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で「幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸な家庭は不幸なさまもそれぞれ違うものだ」と書きましたが、その幸福と不幸の配分さえも、それぞれに異なっているのが現実の家庭ではないのでしょうか。
この作品では穏やかな老年期を迎えたひと組の夫婦が描かれます。妻は夫の老いとどう向き合い、どのように受け入れていくのでしょうか。



 グレアム・グリーン(Graham Greene)

グレアム・グリーン (1904-91) はイギリスの作家。
作家のイヴリン・ウォーはグリーンのことを、「カメラ・アイ」、映画のカメラのように小説を書く、と評しているのですが、うまい言い方だなあと思います。細部の描写があざやかな作家は幾人もいますが、グリーンの眼は移動する眼、クローズアップしたり俯瞰したり、変幻自在に動いていきます。

◆ 『破壊者』(The Destructors)…… 2004.11.24
この家を日本の家みたいに思っては絶対にダメです。ヨーロッパの石造りの家、グリニッジ天文台やセント・ポール大聖堂を建築したクリストファー・レンの設計したものすごい家なんです。これ、映画化は無理だろうなぁ……。見てみたいけど。

◆ 『八人の見えない日本の紳士たち』(The Invisible Japanese Gentleman )…… 2006.02.10
日本人が魚を食べる話です、っていうのは嘘ではない。ほんとに食べてます。「「読むこと」を考える」のなかで、これの読解をやっています。ポール・セローの長編『写真の館』のインターテクストとして使われてもいます。

◆ 『パーティの終わりに』(The End of the Party)…… 2010.02.18
『破壊者』同様、『二十一の短篇』に収められています。ただ『破壊者』が1954年に発表された短篇であるのに対し、こちらはグリーンが処女作を発表した1929年の作品です。最初期の短篇であるにもかかわらず、のちのグリーンの作品に出てくるテーマが、ここでも見て取ることができます。



 リリアン・ヘルマン(Lillian Hellman)

リリアン・ヘルマン(1905?-1984)はアメリカの劇作家・作家。
ヘルマンの活動の時期は、ふたつに分かれます。1950年代ぐらいまでの、劇作家の時期と、70年代からの自伝的な作品を描いた作家としての時期と。彼女自身については「リリアン・ヘルマン――ともに生きる」でもふれています。
ヘルマンはわたしにとって、きわめて重要な作家です。翻訳の勉強を始めたのは、この『ペンティメント』の冒頭を内側に取りこみ、そこからもういちど、自分というフィルターを通して日本語にしたかったのかもしれない、とも思います。読み返してみて、ああ、まだまだだな、という感じなんですが。

◆ 『ペンティメント 〜亀』(Pentimento - Turtle)…… 2005.12.22
連作短編『ペンティメント』から冒頭部とそのなかに所収された「亀」を訳しています。ここではダシール・ハメットの思い出が、ひとつのエピソードを通じて語られる。語っているのは、歳月を経て、過去を見渡せる位置にいるヘルマンです。そのときにはわからなかった相手の苛立ちも、自分に寄せる愛情も、言ってみれば「歳月の彼岸」に立つことによって、いまの「わたし」にはすべてが見えてくる。そんなヘルマンが、感情を排した言葉で「生き延びたハメット」のことを語っています。
これは翻訳の文章を練り上げていく途中で、何度も何度も音読しながら、わたしの「声」をヘルマンの「声」に近づけていこうとしたものでもあります。長い歳月を「生き延びた」女性の声が、聞こえるでしょうか。

◆ 『ペンティメント 〜ジュリア』(Pentimento - Julia)…… 2006.04.25
フレッド・ジンネマンによって映画化された作品です。おそらくリリアン・ヘルマンの作品のなかでも、もっとも有名なものでしょう。この作品をめぐっては、真偽論争もありますが、わたしはあくまでもフィクション、作者名を持つ登場人物によって語られるフィクションとしてとらえています。緊迫した場面と、過去の場面、はっきりとは描かれないナチの足音の恐怖と、新旧さまざまな世代のアメリカ人、きわめて多くのものが登場人物のちょっとした言葉を通して描かれていきます。劇作家としてのヘルマンの力量が発揮された、きわめて密度の濃い作品です。



 アーネスト・ヘミングウェイ(Earnest Hemingway)

アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)はアメリカの作家。
ヘミングウェイもまた20世紀を代表する作家の一人でしょう。ただ、同じモダニズム文学の作家であるフォークナーとはちがって、「行動する作家」のイメージが固定してしまっており、とくに日本では、あえて「誤解されてきた」と言ってしまいたい作家であるように思います。ぎりぎりまで切り詰められた、無駄のない緊密な文体、決して明らかにはされることのない感情や痛み。語彙をとことん限定していったヘミングウェイの文章は、単語としては単純な、読もうと思えば中学生にだって読めるような英語です。それに対して同じ強度と響きを持った日本語を当てはめることができるのか。それを思うとちょっと情けない気分になっちゃいます。。

◆ 『殺し屋』(The Killers)……2006.12.30
日常の場所にいきなりやってきた黒ずくめの二人組。奇妙な言葉をしゃべる異世界からの乱入者の目的は、はっきりしています。ところがその理由はわからない。このあとどうなるか予測はつきますが、どうしてそうなるのかもわからない。この強烈なイメージとわからなさが、アメリカ人の心に一種のトラウマをもたらしたのかもしれません。この奇妙な掛け合いをする二人組は、これからのち、映画やミステリであきれるほど繰りかえし描かれ、いまなお作られ続けています。殺し屋はスーツを着るものだ、という認識も、ここから生まれたのかも。
ここにはわからないまま宙づりにされた時間があります。まるで、わたしたちがいま現在に起こっていることを、決して理解できないように。

◆ 『白い象のような山並み』(Hills Like White Elephants)……2007.06.13
小説ではときに起こるんですが、それがうまく書かれていればいるほど、読者は作品であることを忘れて、登場人物の行動を倫理的に評価してしまいます。この行動は許せない、主人公はこういうことはすべきではない。まあ、そんなふうに考えるのはしかたがないのかもしれませんが、問題なのは、それが作品の評価に横滑りしていってしまうことです。確かにふたりの会話は「堕胎」をめぐって交わされていきますが、どのような意味でも「堕胎」の是非を云々する作品ではない。クンデラは『裏切られた遺言』のなかで「逃れゆく現在の現実の喪失に対抗したいという欲求」を作品化したものが、この短篇である、とも言っています。これに、倫理的な判断を当てはめてしまうことは「現在の瞬間に常套句というヴェールを投げかけてしまうのである。/それは、ひとがなにを生きたのかを、けっして知らないようにするためだ。」(西永良成訳 集英社)

◆ 『キリマンジャロの雪』(The Snows of Kilimanjaro)……2010.10.01
ヘミングウェイの短篇の中でも、非常に有名なもののひとつです。中年期に入った作家が、若い頃、自分の内にあった真摯さや気迫を取りもどそうと、アフリカに狩猟旅行に行く。ところがそこで、思いもかけぬ運命が待っていて……というもの。
ヘミングウェイの短篇は、あまりに語句を切り詰め過ぎて、ときにわかりにくかったり読みにくかったりすることがあるのですが、これは中期に書かれた作品であることも手伝って、比較的わかりやすいように思います。ヘミングウェイを何か読んでみたい、という人には、この作品がおすすめです。『老人と海』より、断然こっちです。




 オルダス・ハクスリー(Aldous Leonard Huxley)

オルダス・ハクスリー(1894-1963)はイギリスの作家。
ハクスリーの経歴を書くとき、かならずふれられるのが、彼の血筋です。お祖父さんはダーウィンの進化論の擁護者(自称“ダーウィンのブルドッグ”)、お兄さんも高名な生物学者、お母さんの伯父さんに詩人のマシュー・アーノルドがいます。
ハクスリーは約四十年間の作家活動のうち、五十冊近い著作を発表していて、なかには近未来のディストピアを描いた『すばらしい新世界』("Brave New World"、どうでもいいですけど、アイアン・メイデンのアルバムのタイトルにもとられています。きっと選んだのはブルース・ディッキンソンにちがいない)のようなSF、17世紀初頭、ある修道院で火炙りの刑に処せられた司祭と修道院における悪魔憑きを描いた歴史書『ルーダンの悪魔』などが有名です。比較的初期の長編小説『恋愛対位法』には『ジョコンダの微笑』のヘンリー・ハットンを発展させたような人物も出てきます。

◆ 『ジョコンダの微笑』(The Lottery)…… 2007.08.31
ハクスリーの第二短編集 "Mortal coils" の冒頭に収められた作品です。日本ではこの短編集自体は未訳ですが、ミステリとしても読める『ジョコンダ』だけは、いくつかのアンソロジーに所収されていて、ハクスリーのなかでは『すばらしい新世界』などと並んで有名なものでしょう。
吉田健一は三島由紀夫の『愛の渇き』の新潮文庫版あとがきのなかで「三島氏はこの作品でも、別にこれと言った仕事を持たない有閑階級を扱っている。…そういう人々の生活に、氏が小説というものの秘密を読み取っている感じがする。…小説は、それを書くことも読むことも含めて、すべて文化の名に値するものと同様に、余裕の産物なのである」と書いているのですが、まさにそれがぴたりと当てはまるような作品です。名前のある登場人物(というか、彼は姓しかないのですが)で仕事を持っているのはただひとり。
同時にこのことはヴェイユの「感覚だけを追求することの中には、エゴイズムが含まれており、そういうエゴイズムは、わたしにはぞっとする程いやらしい感じがします」(「ある女生徒への手紙」)という一文も一緒に思いだしてしまうのですが。



 W.W.ジェイコブズ(W. W. Jacobs)

W.W.ジェイコブズ (1863-1943) はイギリスの作家。
『猿の手』があまりに有名で、「『猿の手』の作家」という印象の強いW.W.ジェイコブズですが、19世紀後半、公務員生活の傍らで、ユーモア作家としてスタートを切ったようです。彼自身、沖仲士の息子だったのですが、自分が小さい頃からなじみ深かった船乗りや港湾労働者を登場人物に据えた短編で人気を博するようになります。ここに訳した『猿の手』は1902年に出版された "The Lady of the Barge(遊覧船の貴婦人)"に所収されたもので、皮肉なオチの作品あり、ユーモラスなものあり、恐怖小説あり、と、多彩なものです。「翻訳作品集成」さんのサイトで、意外に多くの作品が訳されていることを知りました。持ってるのに全然記憶のなかった本もいくつかありました(笑)。

◆ 『猿の手』(The Monkey's Paw)…… 2008.02.16
当サイトでは、誰もがあらすじだけは知っていて、でもちゃんと読んだことはない、そういう作品もちゃんと紹介していこうと思っていたのですが、この作品もそういう思惑のもと、当初からリストにあったもののひとつです。そうは言っても、いまさら「猿の手」でもないだろう、という思いもやっぱりあって、のばしのばしにしてきたのですが、いざ訳してみるとこれがおもしろい。what's new?でもちょっとふれたのですが、これを「貨幣小説」(by 今村仁司)として読むことはできないかなあ、なんてことを考えています。そんなことを妄想するのはわたしだけかもしれないんですが。いやいや、暗闇のなか、ノックの音だけが響く恐怖を感じ取ってくだされば、それにまさる喜びはありません。それが息子であるにもかかわらず/そうであるからこそ、という、恐怖の両義性を描いて秀逸な作品でもあるように思います。



 シャーリー・ジャクスン(Shirley Jackson)

シャーリー・ジャクスン (1916-1965) はアメリカの作家。
ゴシック・ホラーの系列に属する作品を数多く遺しています。映画「ホーンティング」の原作(『山荘奇談』ハヤカワ文庫/『たたり』 創元推理文庫)もこの人のもの。ただこの人の場合、超自然現象を扱ったというよりも、いわゆる「正気」とされている人間の精神の領域が、どれだけ不確かなものかを描いた作家といえるように思います。ここから先は怪物領域、という明確な線があるわけではなく、日常から、ふと気がつくと、霧の中に迷い込んでいるような。とはいえ、ここで取り上げたのは、そういった作品とは少し傾向が異なるものなのですが。

◆ 『くじ』(The Lottery)…… 2004.11.17
アメリカの短編アンソロジーにかならず選ばれているといっていいほど有名な作品。
1948年、雑誌「ニューヨーカー」に掲載されたときは、驚いた読者から何百通もの抗議の手紙が届いた、というエピソードが残っています。幕切れに向かってあらゆるものが周到に準備されていく。そうして「その瞬間」を目撃する直前で、作品は終わります。

◆ 『チャールズ』(Charles)…… 2006.06.21
「くじ」とはずいぶん雰囲気のちがう、一種のドメスティック・コメディ。長編(『野蛮人との生活』)の一部であるとともに、この部分だけで短篇化されてもいます。こちらは短篇の方のテクストを使っています。確かにジャクスンらしい、ブラックな味わいが最後にあります。だけど、子供ってこういうところがあるとも思うんです。現実の子供に読んで聞かせたら、大喜びしていました。

◆ 『魔女』(The Witch)…… 2009.09.18
上の「チャールズ」の主人公とおぼしき小さな男の子とその妹がここでも登場します。
お母さんと小さな子供がふたり、汽車に乗っている。そこに奇妙な人がやってきます。サキの「話し上手」とシチュエーションはまったく同じ。けれども料理人がちがえば、出てくる料理がどれほどちがってくるものか。描かれる日常の情景がくっきりしたものだけに、かいま見える「あわい」の世界の暗さ、不気味さが印象的です。

◆ 『なんでもない日に落花生を持って』(One Ordinary Day, With Peanuts)…… 2009.09.24
作家没後三十年あまりが過ぎて、屋根裏部屋から未発表原稿が多量に発見された……。
なんとなくワクワクするようなニュースをときおり目にすることがあります。実際には屋根裏部屋ではなく物置き、未発表原稿ばかりでなく、雑誌に掲載されたものの、短篇集に漏れてしまったのがこの作品なのですが、実際には雑誌のその年の年間ベストにも選ばれており、なかなかどうして、出来の悪い作品ではありません。
主人公がいったい何を象徴しているのか。彼の行動は、何のアレゴリーなのか。かならずしも明らかでない作品は、逆にわたしたちの想像力を刺激します。

◆ 『夏の人びと』( The Summer People )…… 2010.08.16
ジャクスンの没後、夫のスタンリー・エドガー・ハイマンによって編まれた遺稿集『こちらへいらっしゃい』("Come Along With Me")に所収された短篇です。『くじ』でジャクスンを知った人には、その作品世界をもう一度味わえる短篇かもしれません。
ジャクスンは、避暑地での生活のひとこまひとこまを丁寧に描いていきます。不便な設備、地元の人とのちょっとした行き違い。そんな中に、ひとつ、またひとつ、些細な違和が積み重なっていきます。思い過ごしかもしれない。けれどもそのどれもが一点を指しているようにも思える。
その幕切れは『くじ』同様、わたしたちにまがまがしいものをつきつけます。

◆ 『ある物語の顛末』( "Biography of a Story" )…… 2010-11-19
ジャクスンの名を一躍有名にしたのが、ここでも以前紹介した『くじ』でした。ありふれた田舎町の、ほんの二時間ほどを描いた作品が、雑誌に掲載されるや否や、大騒動を引き起こしたのです。その顛末を、十余年後、ジャクスンは振り返っています。
作者というものは、どのように作品を送り出すか、そうして読者をどのような目で眺めているのか。この講演を通して、わたしたちは『くじ』の作者の一端にふれることができます。



 リング・ラードナー(Ring Lardner))

リング・ラードナー(1885-1933)はアメリカの短篇作家。
新聞のコラムとスポーツの報道をする記者は、やがて野球選手を主人公にした短い物語を雑誌に書き始め、評判を呼んで、いつのまにか作家となっていた。それがラードナーです。ラードナーの作品にはスポーツ選手ばかりでなく、さまざまな職業の人が登場します。その職業ならではのものの見方、とらえ方、独特のしゃべり方。こうしたものを掬いあげたラードナーは、大変耳の良い作家であったのだと思います。

◆ 『散髪』……2006.07.25
これもアメリカの短篇アンソロジーの定番。
床屋が髪を切ってくれるあいだの語りをそのまま書き下ろしたような体裁をとっています。この床屋はすべてを知っていてこんな話をしているのか、それとも知らずにとらえたカメラにすべてが映っていたのか。わたしは「薄々感づいていた」という見方から訳しているんですが、そうでない見方をしたとしたら、微妙に訳も変わってくるのかもしれません。フォークナーの『乾いた九月』と同じ設定で、ここまでちがった物語になっていくのか、と思うほど。でも、この「見ているだけ」の床屋にも、捨てがたい味があります。

◆ 『金婚旅行』……2007.11.05
こちらの語り手は、アメリカのニュー・イングランドのスモール・タウンに住むおじいさん。七十代半ばか後半ぐらいのおじいさんが、避寒をかねてフロリダに一ヶ月の金婚旅行に出かけました。そこで何が起こったか。劇的ならざる人生を歩んできた人が出くわした、ほんのちょっと劇的な出来事の話です。



 トーマス・リンチ(Thomas Lynch)

トーマス・リンチ(1948-)はアメリカの詩人、エッセイスト。
この人は創作の傍ら、中西部にあるミシガン州ミルフォードという人口6000人あまりのスモール・タウンで、いまも仕事を続ける葬儀屋でもあります。葬儀店の名前が "Lynch & Sons funeral home" となっていますから、家業の大半は息子さんがやっていらっしゃるのかもしれません。アメリカではこれまでに二冊の詩集と二冊のエッセイ集、そうしてアイルランドの旅行記の三冊が刊行されていますが、日本ではエッセイ「残酷なスポーツ」(『アメリカミステリ傑作選2003』DHC)が訳されているに留まります。

◆ 『仕事 ――葬儀業から見た人間研究』(The Undertaking: Life Studies from the Dismal Trade)…… 2005.11.20
仕事 ――葬儀業から見た人間研究』は1998年のアメリカン・ブック・アウォード受賞作であり、全米図書賞の候補作でもあります。
"Every year I bury a couple hundred of my townspeople.(毎年、わたしはこの町の住人を数百人埋葬している)" という言葉で始まる、深い声の語り口が印象的なエッセイです。冒頭の一章、全体の十二分の一ほどをここで訳しています。
死というのは、従来からさまざまなかたちで描かれてきました。だれもにかならず訪れる、にもかかわらず、だれもそれがどういうものかを知らない死。それを、リンチはきわめて実務的に、一方で、決して敬意を失わず、ときにユーモラスに描いていきます。死をこういう角度から見ている人がいるのだ、ということに、深い感動を覚えました。



 キャサリン・マンスフィールド(Katherine Mansfield)

キャサリン・マンスフィールド(1888−1923)はニュージーランドに生まれ、イギリスで創作活動をおこなった短編作家。
19世紀に劇的な発展をとげた短編小説という形式を、20世紀に入ってさらに深めていったひとりがキャサリン・マンスフィールドといえるでしょう。社会や出来事、剥きだしになった階級差といった外的な刺激に微妙に移り変わっていく、「気分」としかいいようのない繊細な感情を掬いあげ、ときに皮肉に、ときに詩情豊かにまとめあげたのがマンスフィールドです。生前は習作といえるような処女短編集をのぞけば『幸福』『園遊会』の二冊の短編集、さらに死後、夫の手による『鳩の巣』、あとは詩集や書簡集と遺された作品はあまりに少ないのですが、チェホフの後継者として、現代にも大きな影響を与えている人です。

◆ 『ディル・ピクルス』( A Dill Pickle )…… 2007.06.13
1923年、短い生涯を終えたマンスフィールドの死の直後に出版された第四短編集『鳩の巣その他』に所収されています。ディル・ピクルスとはハーブの一種であるディルを香り付けに加えたピクルスの一種です。ディルだのチャーブだのルッコラだのは、料理をしない人には馴染みのない固有名詞かもしれませんが、主人公も聞きながらどんなものかよくわかっていないので、原題をそのままにしました。第一次世界大戦中、ヨーロッパでは緊迫した空気が高まっている。一方、ロシアからは、革命の様子も伝わってきます。そんな時期、かつて別れた男と女が再会する。コーヒーを飲むあいだだけ、時間にすれば30分ほどでしょうか。そのあいだに、過去の出来事、現在のふたりの状況がめまぐるしく交錯していきます。最後に思わずにやりと笑っていただければ、と思います。

◆ 『見知らぬ人』( The Stranger )…… 2008.08.16
1922年に出版された、彼女の最高傑作とも呼ばれる第三短編集『園遊会その他』に所収されています。中年の夫婦の物語。嫁いだ娘が暮らすイギリスを訪れた妻が戻ってきます。十ヶ月ぶりに妻に会えるとあって、夫の方は気もそぞろ。なのに妻の様子はどこかおかしい。どうやら「見知らぬ人」がふたりのあいだに影を落としているようです。ほんの一瞬、交錯しただけなのに、その人の一生に決定的な影響を与えるような人に会ってしまえば、影響を与えられた側の周囲にいる人は、その人の変化にとまどうことでしょう。その人こそが「見知らぬ人」になったように感じるのかもしれません。夕方から夜へ、こちらも短い時間です。ですがこの短篇にも、夫婦が家族として過ごしてきた過去、妻が連絡船で過ごした過去、現在、そうして未来が凝集されています。



 カーソン・マッカラーズ(Carson McCullers)

カーソン・マッカラーズ(1917-1967)はアメリカの作家。
南部ジョージア州に生まれたマッカラーズは、南部ゴシックの作家、あるいはフォークナーの後継者とも言われていますが、作品数も少なく、日本でも昔から翻訳されてきたわりには、たとえばカポーティなどとくらべると、ずいぶん地味な印象の作家、知る人ぞ知る作家であるように思います。それでも、彼女の描く、たとえ相手のことを深く思っていたとしても(あるいは思っているがゆえに)どうしようもなくコミュニケーションは途絶えてゆき、孤独に陥ってしまう登場人物たちは、すぐれて今日的な存在ではないでしょうか。

◆ 『木・岩・雲』(A Tree. A Rock. A Cloud.)…… 2005.12.09
わたしはこの作品の魅力を、アン・タイラーが『歳月の梯子』のなかでふれるまで、理解することができませんでした。そのすぐれた要約、あとがきで引用しているので、どうかそちらも読んでいただきたいと思います。短編でしか表現できないものというのが確かにあるのだろうと思います。おそろしく短い、それでも、ここにはすべてがあるような気がします。そういえばアップダイクは、「短編は詩と長編の中間にあるもの」と言っていましたっけ。

◆ 『過客』(The Sojourner)…… 2006.12.06
アメリカの優れた短編に与えられる「O.ヘンリー賞」受賞作。
親しい方を相次いで亡くされた方の文章を読んで思いだしたのが、この短篇でした。単に言葉でしかない愛、ひとつの音のように、たちまちにして消えていく一片の言葉。けれども、移ろいゆく音を音符につなぎとめて曲にするように、移ろいゆく感情を愛という言葉に当てはめることによって、人はそれをつなぎとめ、時間に逆らおうとする。時が過ぎるということは、否応なくわたしたちが死に向かって歩き続けているということでもあります。けれども逆に、だからこそ、時間という概念が生まれ、愛という概念も生まれたのだろう。きれいな旋律のひとふしの歌のような作品ですが、わたしは読み返すたび、ここからいろんなことを考えます。

◆ 『家庭のジレンマ』(A Domestic Dilemma)…… 2008.12.07
マッカラーズの最初期の作品です。マッカラーズの作品では「子供」がよく出てきます。それも、独特の肌触りと重量感と温みを備えた子供です。決して明るい話ではないんですが(というか、現実にはきっと、とんでもなく大変な情況なのだろうけれど)まるで光源のような子供たちの描写のおかげで、この一家がある意味「幸せ」なのかもしれない、と思えてくる。確かに、たとえ危機がそこにあったとしても、人が毎日生活を続けていくということを、わたしたちは「幸せ」と呼んでいるのかもしれません。



 サマセット・モーム(Somerset Maugham)

サマセット・モーム(1874-1965)はイギリスの作家。
モームは中野好夫の手によって日本に紹介されたといっても過言ではありません。昭和十四年、まだ一部の英文学徒のあいだにしか知られていなかったモームを、「なにか英文学作品で、面白くて売れそうなのはないか」と岩波文庫の当時の編集長に聞かれ、「大丈夫、ぼくが保証する」と『雨』を含む短編集を出したんだそうです。のちに長編小説『月と六ペンス』を出したときにも、「とにかくこんなに面白くて、しかもまた、なにかを考えさせてくれる通俗小説というのは、ちょっとほかに類はあるまいと考えていた」という。こうしてモームは広く日本で読まれるようになり、それに合わせて原文で読んでみようという人も多かった。いまではちょっと考えられないことなんですが、わたしの小さい頃には町の商店街の本屋の片隅にも、オレンジ色の背表紙のペンギンブックスのモームは置いてありました。
翻訳書の種類も増えるにつれて、いつのまにかモームも「売れる」本ではなくなってしまったのかもしれないけれど、「面白くて、しかもまた、なにかを考えさせてくれる」作品であることには変わりはないと思います。機会があれば、少しずつここでも紹介していきたいと思っています。

◆ 『奥地駐在所』(The Outstation)…… 2008.03.15
このサイトを始めたときから、いつか訳してやろうと思っていた作品の一つです。ほかの社会から切り離された場所に、男がたったふたりきりになったらどうなるか。ほかの場所であれば、気に障るちょっとした物言いに過ぎない言葉の端々が、そこではどこにもいかず、どんどんと積もっていきます。ところがこの相手、自分とどこか似ている。最初は自分とちがっているから気に障っていたはずなのに。鏡張りの部屋にいるように、相手のなかに自分の姿が見えてくる。自分が思っているのとはちがう自分の姿から、片時も目をそらすことができなくなったとしたら……。これはモーム版の「出口なし」と言えるかもしれません。

◆ 『幸せな男』(The happy man)…… 2008.12.30
1924年、モーム五十歳のときの作品です。すでに文名も確立した作家が、気軽に「人生の機微」を描いたもの。「だれもみな、塔の独房に閉じこめられた囚人」という語り手の感慨は、モームその人の人間観であるのでしょう。その人の、一瞬しか、ほんの一部しか知りもしないのに、アドヴァイスを送り、さらには幸福だの不幸だのと評価までしてしまう。それがどれほど愚かしいことか。この短篇は、モームおじさんのわたしたちに向けた「教訓」なのでしょう。



 ジョイス・キャロル・オーツ(Joyce Carol Oates)

ジョイス・キャロル・オーツ(1938-)はアメリカの作家。
大変に多作の人で、大学卒業後に短編集を発表したのを皮切りに、すでに三十冊以上の長編と、多数の短編集、加えて戯曲や詩や文芸批評を発表しています。マルカム・ブラッドベリは「彼女の世界の特徴は、隔絶感と恐怖に満ち、過去のアメリカの秘密と、現代の成功心にかられた暴力的なアメリカの現在の無秩序との間に存在する権力的な関係を示唆していることにある」(『現代アメリカ小説 【1945年から現代まで】』彩流社)とまとめているのですが、確かに彼女の作品は、たとえ同時代を舞台に、リアルな情景を描いていたとしても、それが何かの寓話になっているような、その向こうにある世界の存在を感じさせるようなものです。近年になって日本でも翻訳が出るようになりましたが、日本でももっと広く紹介してほしい作家だと思います。

◆ 『これからどこへ行くの、いままでどこにいたの?』(Where Are You Going, Where Have You Been?)…… 2008.03.15
これもサイトを始めたときから訳したかった作品のひとつです。アメリカの短編小説アンソロジーの定番なのですが、どういうわけか翻訳を読むことができなかったものでした。1966年に発表されたこの作品は、現実にあった事件と、ボブ・ディランの歌に想を得たようですが、「隔絶感と恐怖に満ち」た世界をリアルに描きながら、その向こうに拡がる「もうひとつの世界」を感じさせる、オーツの特徴をよく現した作品です。「アメリカン・グラフィティ」を思わせるようなドライブイン・レストランで、車の中から声をかけられたコニー。アメリカのノスタルジックな青春映画のようなすべりだしで始まったこの作品は、そこからどんどんずれていきます。最後にコニーはどこへ出ていくのでしょう。ホラーより怖いかもしれません。



 フランク・オコナー(Frank O'Connor)

フランク・オコナー(1903-66)はアイルランドの作家。
本名はマイケル・オドノヴァンで、「オコナー」は母親の旧姓から来たものです。長編小説や戯曲、評論も残していますが、何よりも「短編小説の名手」として知られています。アイルランドの詩人W.B.イェイツが「チェホフがロシアのためにやったことをアイルランドのためにやっている」と言ったほど。南アイルランドのコークの貧しい家庭に生まれ、独学で文学を学び、図書館員として勤務しながら短編小説を発表、やがて広く注目されるようになって、一時期アメリカに移住し、スタンフォード大学で教えたこともあります。何度も書き直すことでも有名で、「物語が一人立ちして、わたしを相手にしなくなる」まで、繰りかえし手直ししていったそうです。150あまりの短編を書きましたが、その約半数はアイルランドの家族に題材を取ったもの、とくに自身の生い立ちの影響の色濃いものです。

◆ 『わたしのエディプス・コンプレックス』(My Oedipus Complex)…… 2008.07.05
「マザコン」という言葉がありますが、小さな男の子というのはやはり母親に対して特別な思いを抱くものなのでしょうか。この作品では、戦争から還ってきた父親を、自分たちのあいだに割り込んできた敵対者と見なす男の子の気持ちの移り変わりと成長が描かれる、とまとめてしまうとおもしろくもなんともない、にもかかわらず、実におもしろく、隅々まで丁寧に作られた短編です。なんともいえない読後感の良さに、もっと読んでみたい、という気持ちになりませんか?

◆ 『天才』(The Geinus)…… 2009.07.25
前作に続いて「ラリー」が登場します。
小さい頃は、誰もが自分のことを何でもできると思っていました。空も飛べるし、スーパーヒーローに変身して、悪いやつをやっつけることもできる。ここでのラリーはスーパーヒーローを目指す代わりに「天才」を目指しています。実際、ラリーはおっそろしく早熟で、頭の良い子供です。ただ、一方で、六歳の子でもある。自分がいったいどこから来たのかがどうしてもわからないのです。
成長する、ということは、それまで不思議でたまらなかったことが、ある日を境に、もはや自分にとって問題でもなんでもなくなってしまう、ということなのかもしれません。問題でなくなる、ということも、やはりひとつの喪失なのでしょう。そこでまたちがう「不思議」が現れて、それをくり返しながら大きくなり、やがて「不思議」がなくなったときに、「大人になった」と呼ばれるのでしょうか。



 フラナリー・オコナー(Flannery O'Connor)

フラナリー・オコナー(1925−1964)はアメリカの作家。
フラナリー・オコナーというと、かならず言及されるのが、父親の命を奪った進行性の病気に、自身も二十五歳のときに冒されたことです。それでも「脚と顔の下半分の骨が柔らかくなる病気」と書いてある病気が、いったいどのくらいの痛みだったのか、そんな病気を抱えて日を送ることがどのようなものだったのか、そうして、日々の痛みや麻痺のなかに死の予兆を読みとるというのがいったいどのような経験であるのか、何も教えてはくれません。
不思議なことに彼女の作品には、感傷的な要素が一切排除され、その代わりに、独特の喜劇の感覚がある。感傷が、死や暴力を曇らせるものであるとするならば、笑いというのは、それを吹き飛ばすものなのでしょうか。
カトリックの信仰を持たないわたしにとって、フラナリー・オコナーの描く世界は、どうやっても入っていけない領域があるように思います。それでも、死に向き合うこと、死を通していまの自分を見つめること、それはできるような気がする。オコナーの作品を、そういう“経験”として読んでいきたいとわたしは思っています。

◆ 『善人はなかなかいない』( A Good Man Is Hard To Find )…… 2009.3.14
1955年に出版された同名短編集の表題作です。オコナーの作品のなかでは、もっとも有名なもののひとつです。平凡でさして魅力もない、身近にいればおそらくいらいらしてしまいそうな人間が、暴力的な極限状況のなかに投げ出される。そこで一種の超越を果たします。



 ジョージ・オーウェル(George Orwell)

ジョージ・オーウェル(1903-1950)はイギリスの作家。
オーウェルを作家、と呼んでいいんだろうか、とためらう気持ちもあります。小説というと、近未来の全体国家を描いた『1984』とスターリン主義の寓話『動物農場』の二作を書いただけなのですから。にもかかわらず、スペインの内戦に参加した体験を綴った『カタロニア賛歌』といい、炭鉱労働者のルポルタージュ『ウィガン波止場への道』といい、オーウェルという人を通して、あらゆることが経験され、作品として再構成されている。こういうのを見ても、やはりこの人は作家だったのだろうと思います。良かったら『カタロニア賛歌』読んでみてください。スペイン内戦を描いた文学は、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』だけじゃない、とわかるから。

◆ 『象を撃つ』(Shooting An Elephant)…… 2005.04.25
オーウェルは当時イギリスの植民地だったインドで生まれ、イギリスのパブリックスクールで教育を受けたのちに19歳から五年間、イギリス領ビルマで警察官として働きます。ここで扱った『象を撃つ』はそのときの経験が描かれています。
ふつうはエッセイに分類されるのですが、実際にこんな事件があったかどうかはわからない。けれども、植民地、支配、古い帝国、そんな抽象的な概念がここまで鮮やかに象徴化されるのか、というような作品です。

◆ 『なぜわたしは書くのか』(Why I Write)…… 2010.01.15
作品は作品として完結したものであって、作者の育った環境や、執筆時の生活状態などは無関係、という考え方がありますが、オーウェルに関して言えば、オーウェルがイギリスの植民地で生まれたこと、植民地ビルマで警察官として過ごしたこと、のちにイギリスに帰って社会主義に傾斜し、スペイン市民戦争に参加したことは、彼の作品を見ていく上で、無視することはできないものです。その彼が「書く」ということをどう考えているか。最後の長編小説『1984年』を執筆しながら、このエッセイでそれを明らかにしています。



 ドロシー・パーカー(Dorothy Parker)

ドロシー・パーカー(1893-1967)はアメリカの短編作家、詩人、雑誌編集者でありハリウッドの脚本もいくつか手がけています。
リリアン・ヘルマンの『ジュリア』にも登場するパーカーは、《ミセス・パーカー ―ジャズエイジの華》というタイトルで映画にもなりました。実際には60年代まで生きていますが、アメリカの1920年代を指す「ジャズ・エイジ」というサブタイトルがついているように、おもな創作は20年代〜30年代に限られます。ヘミングウェイがいて、フィッツジェラルドがいて、ラードナーがいて、サーバーがいた時代です。その当時、どれほど人気があったかは『ジュリア』にも出てくる。後代に大きな影響を残したわけでもなければ、20世紀を代表もしない、それでもその時代の空気をいまに伝える人なのでしょう。

◆ 『電話』(A Telephone Call)(Shooting An Elephant)…… 2005.04.25
誰かの電話が鳴るのを、待ったことがあります? だったらこの主人公の気持ちはよくわかる。鳴らない電話を待ちながら、気分はめまぐるしくかわっていく、そんなスケッチです。ミュージシャンのプリンスは1987年のアルバム "Sign 'O' the Times" のなかで "Ballad of Dorothy Parker" という曲を発表しました。これはドロシー・パーカーという大柄でブロンド(パーカーには『大柄なブロンド美人』という短篇もあります)のウェイトレスが主人公の歌。彼女もやっぱり電話を待っている(この情報はmikarinさんから教えていただきました。mikarinさん、ありがとうございます)。時代は変われど、そうして、電話機自体も変わっていっても、やはり待つ気持ちは変わらないのかもしれません。



 サキ(saki)

サキ(1870-1916)はイギリスの短編作家。
サキ(本名ヒュー・ヘクター・モンロー)の経歴は、不思議なくらいオーウェルと重なり合うのですが、作品といい、問題意識といい、まったく異なるものです。個人的な資質の問題ももちろんあるのでしょうが、植民地情勢が19世紀末と、20世紀に入ってからではまったくちがっていたのでしょう。
サキの短編は、しばしばアメリカの短編作家O.ヘンリーと比較されます。最後の一点に向かってすべては用意され、わたしたちは最後であっと驚く。
それでも、O.ヘンリーは世の辛酸をなめた人の暖かさと苦みがあるのに対して、サキのそれは、もっとずっとひやりとしたものです。

◆  サキ・コレクション…… 最終改訂 2009.2.22
ここではサキの短編のなかから、vol.1「意外な結末」として「開いた窓(The Open window)」「ハツカネズミ(The Mouse)」「スレドニ・ヴァシター(Sredni Vashtar)」の三つを、vol.2「動物と人間と」として「話し上手(The Story-teller)」「博愛主義者と幸せな猫(The Philanthropist and the Cat)」「立ち往生した牡牛(The Stalled Ox)」を、vol.3として「ラプロシュカの魂(The Soul of Laploshka)」「マルメロの木(The Quince Tree)」「毛皮(Fur)」を収めています。くっきりしたストーリー展開とひねりのきいたオチを楽しみながら、人間っていうのはこうしたもんだよな、と思ったりするのがサキの楽しみ方なのかもしれません。

あらたにvol.4「闘争と人間と」として「シャルツ=メッテルクルーメ式教授法(The Schartz-Metterklume Method)」「平和的なおもちゃ(The Toys of Peace)」「ビザンチン風オムレツ(The Byzantine Omelete)」を加えました。

ひきつづきvol.5「狼たち」として、「侵入者たち」(The Interlopers)、「セルノグラツの狼」(The Wolves of Cernogratz)、「物置部屋」(The Lumber Room)、vol.6「舌先三寸」として「メスオオカミ」(The She-Wolf) 「ショック作戦」(Shock Tactics)「こよみ」(The Almanac)、vol.7「隣の不思議」として「トバモリー」(Tobermory)、「モウズル・バートンの平和」(The Peace of Mouslebarton)「七番目のひよこ」(The Seventh Pullet) も訳しています。

vol.8では「ああ、勘違い」というくくりで、「七つのクリーム入れ」(The Seven Cream Jugs)、「運命の猟犬」(The Hounds of Fate)、「返品可能で販売中」(On Approval)の三作を訳しました。思わず笑ってしまうもの、短い話なのに、あとに余韻が残るもの、サキの世界を楽しんでいただければ、と思います。





 J.D.サリンジャー(J.D.Salinger)

ジェローム・D・サリンジャー(1919-2010)はアメリカの作家。
半世紀近く前の1965年、最後の小説『ハプワース16、1924年』を発表してから沈黙を続けていたサリンジャーが、先頃(2010-2)亡くなりました。『ライ麦畑でつかまえて』(もしくは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)を初めとして、いまなお日本でも広く読まれているサリンジャーですが、おそらく、大人になる一歩手前で踏みとどまり、少年時代のイノセンスを守りたい、という思いは、これからも時代と国を超えて、広く受け入れられていくものなのだろうと思います。 腐敗し、破壊的なものに満ちあふれた世界の中で、それに汚染されず、真実を見きわめ、理想に生きようとしながら、対立の緊張に耐えきれず、精神のバランスを崩したり、貝のように沈黙して引き籠もっていく主人公たちを、批判的に見ることはある意味で簡単なのでしょうが、それこそはホールデンの憎んだ「インチキ」の側に呑みこまれることにほかならない。「だめにしちゃだめってほどステキ」(by ホールデン・コールフィールド)なものは、守っていかなきゃならない。その意味で、一方の極にあることが必要な作家であり、作品群であるように思います。。

◆ 『ロイス・タゲットの長いデビュー』(The Long Debut of Lois Taggett)…… 2010.04.08
ニューヨーク生まれのロイス・タゲットは、裕福な家のお嬢様。彼女が大学を卒業してからの三年間が、いくつものエピソードを軸に、年代記ふうに描かれていきます。こよみがめくられるように、さまざまな人に会い、出来事に遭遇し、その果てに彼女はどこに到達したのでしょう。
サリンジャーの短篇集には未収録の最初期の短篇なのですが、のちのサリンジャーの片鱗がうかがえます。バスルームも重要な役割を果たしています。



 アーウィン・ショー(Irwin Shaw)

アーウィン・ショー(1914-1984)はアメリカの作家・戯曲家・脚本家。
なんとなく日本では「しゃれた都会風の短編小説の名手」ということになっていますが、その肩書きには微妙に違和感があります。これはたまたまショーと最初に出会ったのが、赤狩りを描いた『乱れた大気』だったせいなのかもしれませんが、ほかにも三人の青年たちの物語が絡み合い、錯綜しながらやがて第二次世界大戦の戦闘をクライマックスにしていく長編小説『若き獅子たち』(上・下 鈴木重吉/A.クラウザー訳 ちくま文庫)も大変おもしろいものです。短篇・長編ともに思うのは「場面」を作るのが大変巧みな人、ということ。そうして、この「場面」は、決して登場人物の「内面」と密接に関連しています。ここでショーに興味を引かれた方は、ぜひ、『若き獅子たち』を読んでみてください。ストーリーのおもしろさが長さを感じさせません。

◆ 『夏服の娘たち』(The Girls in Their Summer Dresses)…… 2007.10.19
結婚五年目のまだ若い夫婦がデートします。ところがこのデート、ほんの些細なことから急展開を見せるのです。
結婚ってなんだろう。誰よりも身近なはずの相手のことを、実は何にもわかってなかったのではないか。それを知ったとき、登場人物はどうするんでしょう。描かれた向こうにあるもうひとつの「ストーリー」、どうかあなたも見つけてください。



 ロバート・シェクリィ(Robert Sheckley)

ロバート・シェクリィ(1928-2005)はアメリカのSF作家。
SFにもさまざまな種類がありますが、シェクリィのSFは、そのオチを生かすために、宇宙や未来という舞台が用意されたような印象を受けます。思わずニヤリとさせられるようなユーモラスなものがあるかと思えば、人間とロボットがしみじみと心に残るようなやりとりを交わすものもあります。星新一など、日本のSF作家第一世代が影響を受けたというのもよくわかります。
大変多作な人で、亡くなるまで十五の長編と、四百もの短篇を残しました。

◆ 『危険の報酬』(The Prize of Peril)…… 2009.1.25
たまにテレビでやっている「逃走中」を思わせる設定です。ただし、こちらの“ハンター”は、実際に銃もぶっ放すし、車で轢き殺そうともします。主人公は文字通り、命を賭けての逃走なのです。
なぜこれがSFなのか。それは本作品が1958年に発表されたもの、「小型テレビ」などというものが空想の産物でしかなかった時代の作品だからです。
ところが半世紀を経て、携帯でテレビを見ることができるような時代になっても、おもしろさは色あせていない。作り手側の視聴率万能主義や、視聴者側の身勝手、一攫千金を目論む一般参加者というのは、半世紀を経ても、まったく変わらない、ということなのでしょう。



 ジョン・スタインベック(John Steinbeck)

ジョン・スタインベック(1902-1968)はアメリカの作家。
スタインベックというと、1930年代の作家だなあ、という感じがします。狂乱の20年代、ジャズ・エイジともいわれた1920年代が大恐慌によって終焉し、そこからアメリカの文学は、社会的な関心を深めていくのですが、そうした関心と、カリフォルニア州サリナスという土地が結びついたのが、スタインベックの一連の作品だといえるでしょう。自然と文明との衝突を、一貫して自然の側から描いた作家、ともいえます。まだスタインベックを読んだことがない、という人だったら、連作短編の『赤い子馬』をおすすめします。わたしは『缶詰横町』のオフ・ビートな感覚がなんともいえず好きなんですが。

◆ 『菊』(The Chrysanthemums)…… 2007.12.17
霧のたれ込める十二月の午後、庭仕事をしているエリーサのもとに、荷馬車に乗った鋳掛け屋がやってきます。家に縛り付けられているエリーサと、家さえ持たない鋳掛け屋の、ふたつの世界が出会います。鋳掛け屋の登場によって、ほんの一瞬開いた向こうの世界への扉。エリーサは、エリーサの分身は、そこから出ることができるのでしょうか。



 フランク・ストックトン(Frank Stockton)

フランク・ストックトン(1834-1902)はアメリカの作家・児童文学家。
17世紀にアメリカにやってきた一族の出身で、そのなかにはアメリカの独立宣言に関わった人物もいるほど。
彫刻家としてキャリアをスタートさせ、のちに新聞記者、児童文学の編集に携わるようになり、やがて自分でも子供向けの物語を書くようになります。
ストックトンの作品は、緊密な構成を持つユーモラスなものが中心です。ここで紹介した『女か虎か』があまりにも有名なのですが、児童文学では今なお読み継がれているものも多く、『秘密の花園』のバーネットや『若草物語』のオルコットなどと並んで、児童文学の基礎を築いた人ともいえるでしょう。

◆ 『女か虎か』(The Lady Or The Tiger? )…… 2006.01.25
これはあらすじだけなら知っている人も多いのではないでしょうか。
わたしもずっとストーリーは知っていて、どこかの昔話かおとぎ話かが元になっているのだろうとずっと思っていました。『女か虎か』とか、ジェイコブズの『猿の手』とか、誰もが知っているのだけれど、きちんと読んではいない作品もこんなふうに発掘していけたらな、と思って、訳してみたのでした。読んでみて、伏線もきちんと張ってあるし、なかなかよくできた話だと改めて思いました。どちらの扉を開けるか。そうしてそれはどうしてか。いろんな解釈があると思うのですが、その解釈は同時に解釈をする人を語ります。ぜひ、話のネタにしてみてください。



 ジェイムズ・サーバー(James Thurber)

ジェイムズ・サーバー(1894-1961)はアメリカの作家。雑誌“ニューヨーカー”で、独特の味わいのある一コママンガも描いています。
リリアン・ヘルマンの『ジュリア』にも出てくるんだけど、そこではちょっと荒っぽい。酒を飲むと人格が変わる人だったのかなぁ、という気もします。ユーモアとペーソス、なんてクリシェですが、この人のためにあるような表現かもしれません。

◆ 『ネコマネドリの巣の上で』(The Catbird Seat)…… 2004.12.31
意外な展開、最後にニヤッと笑えます。人間的に尊敬できない上司がいる人は、他人事とは思えないような話かもしれません。だけど、サーバー、まちがっても「正義」なんかふりかざさない。そこがいいんです。

◆ 『マクベス殺人事件』(The Macbeth Murder Mystery)…… 2006.07.25
シェイクスピアの『マクベス』を読んだことのない人は、これを読む前にぜひ読んでください。知らなかったらおもしろくない、知っていれば膝を打つこと請け合いです。

◆ 『たくさんのお月様」(Many Moons)…… 2007.10.05
サーバーが初めて子供向けに書いた童話です。お姫様に王様、魔法使いと、おとぎ話の体裁を取っていますが、これは何を言っているのだろう、と考えてみると、なかなか深いものがあります。やっぱりサーバー、この人が人間に向けるまなざしというのは、独特のものがあります。



 ジョン・アップダイク(John Updike)

ジョン・アップダイク (1932- ) はアメリカの作家。
現代アメリカを代表する作家のひとり。グリーンがカメラ・アイだとしたら、アップダイクは画家の眼。アップダイクの短編を読むと、二割くらい鮮やかに見える眼鏡をかけさせてもらったみたいに世界が鮮やかに見えてきます。
ともにアメリカの中流階級を描いたところから、チーヴァーと並び称せられる(“ふたりのジョン”)ことも多いのですが、同じ苦しみや不安を描いていても、少しアップダイクの方が光が行き渡っている感じがする。あくまでも個人的な感想なんですが。ひとつには、アップダイク独特の色彩感覚、もうひとつは失いつつあるにせよ、すっかり失われてしまっているにせよ、アップダイクの一方の極には「信仰」があるからのような気がします。

◆ 『A&P』(A&P)…… 2004.11.24
ホールデン・コールフィールドほど自意識過剰ではない、でも、ホールデンと地続きの、ほんものとそうでないもの、美しいものとまがいものの二分法で世界を見てしまうサミーが主人公。描かれている場所はスーパーの店内と駐車場だけ。時間はほんの二十分ぐらい。でも、だれもが通り過ぎた、世界がもうちょっと単純で、ふたつにすっぱり分かれていた「あの頃」にアクセスしていきます。



 H.G.ウェルズ(H.G.Wells)

H.G.ウェルズ(1866-1946)はイギリスの作家。
ウェルズというと「SFの父」としてあまりに有名ですが、作家活動も五十年に及び、非常に多くの作品を残していて、処女作の『タイムマシン』から初期のいくつかの作品だけをとらえて「SF作家」と呼ぶのは無理があるでしょう。とはいえ、それだけ長い作家生活のなかで、社会はどうあるべきなのか、そうして、人類がこれからどうなっていくか、という問題意識は一貫してあったようです。

◆ 『水晶の卵』(The Crystal Egg)…… 2007.02.24
ウェルズの1897年の作品です。骨董屋の店先に置いてある水晶の卵をのぞくと、なんとそこに映っていたものは……という話。荒唐無稽なはずなのに、ちっとも荒唐無稽な感じがしない。陰鬱なロンドンの空気のなかで、孤独な老人が水晶のなかに見える風景に傾倒していく、というところだけとってみると、現代の小説といっても通るかもしれません。

◆ 『魔法の店』(The Magic Shop)…… 2008.09.09
ウェルズの1903年の作品です。ウェルズは19世紀末、『タイムマシン』を皮切りに、『透明人間』や『宇宙戦争』などのSFを矢継ぎ早に発表します。やがて「科学」の枠におさまらない、不思議と幻想の色調の濃い小品をいくつか著していくのですが、この作品もそのひとつでしょう。主人公がさまよいこんだのは夢とも現実ともつかない世界ですが、『タイム・マシン』の時間旅行者が一輪の花を「証拠」として持ち帰ったように、この作品でもやはり「証拠」が持ち帰られます。この「お持ち帰り」の請求書は届くのでしょうか。それともすでに支払っている? 支払われているとしたら、その代価はなんだったのでしょう?



 イーディス・ウォートン(Edith Wharton)

ーディス・ウォートン(1862-1937)はアメリカの作家。
ニューヨークの上流階級出身の女性で、社交界の貴婦人としての生活を送る一方、アメリカとヨーロッパを行き来しながら、旺盛な文筆活動を続けた人です。1870年代のアメリカの上流階級の恋愛を描いた『エイジ・オブ・イノセンス』は映画にもなりました。社会の制約のなかで生きなくてはならない人間が自分の欲求とどう折り合いをつけていくのか。あきらめたり、手放したりするなかで、それでも何を守っていこうとするのか。ウォートンには一貫してそんな問題意識があったように思います。

◆  『閉ざされたドア』(The Bolted Door)…… 2005.02.08
すいません。これ、訳がとても良くない。いま暇を見て(って言ってるから、いつになっても進みやしない……)少しずつ手を入れている最中です。そのうち、もう少し修正したバージョンをお届けします。いましばらくご容赦のほど。

◆  『ローマ熱』(Roman Fever)…… 2006.10.10
アメリカの短編小説のアンソロジーの定番中の定番。かならずといっていいほど所収されています。中年の女性がふたり、しゃべっているだけ。なのに、おそろしく深い。どんでん返しもあります。ウォートンってほんとに人間っていうものをよく知ってた人なんだなぁ、と思います。



 P.G.ウッドハウス(P.G.Wodehouse)

P.G.ウッドハウス(1881-1975)はイギリスのユーモア作家。
高校生のころ、吉田健一大人(わたしはいつも吉田健一、とくると、頭の中でそのあとに「大人」をつけてしまいます。あ、念のために「大人」は“うし”と読んでね。“ターレン”なら許すけど“ダイジン”“オトナ”はペケです)が“ウッドハウスの作品はイギリス文化の成熟度合いを示している”(曖昧な記憶による不確かな記述)みたいなことを書いていたのを読んで、さっそく洋書の古本屋に行って、ペンギン・ブックスを買ってきたんです。まだ英語もたいして読めなくて、ボキャブラリも少なかったころだったんで、ピンとこないのも結構あったんですが、何か佐々木邦のユーモア小説を読んでるみたいだと思いました。当時はウッドハウスは翻訳も手に入らなかったんですが、これをちょうど訳し終わったぐらいにちょっとしたブームが来たみたいで、何冊も出た。ついでに佐々木邦も復刊という運びにはなりませんかね。

◆ 『階上の男』(The Man Upstairs)…… 2005.03.18
シリーズものをはずして、オチがくっきりしているものをさがしたら、これになりました。まぁ一種のラブ・コメってやつですね。ただわたしはこの結末がイマイチ気にくわないんですが。
付録として、戦後、ナチスに協力したという、まったく見当外れの批判にさらされたウッドハウスを、ジョージ・オーウェルが擁護しています。その間の経緯を「ノート」としてあとにつけています。興味のある方はそちらもどうぞ。



 トバイアス・ウルフ(Tobias Wolff)

トバイアス・ウルフ(1945- )はアメリカの作家。
80年代のアメリカの作家の一群を称して「ダーティ・リアリズム」と呼ぶことがあります。おそらくレイモンド・カーヴァーがおそらく一番有名でしょうが、ここではそのグループのひとりに分類されるトバイアス・ウルフを紹介しています。
トバイアス・ウルフは短編作家であるとともに、レオナルド・ディカプリオが主人公に扮した映画《ボーイズ・ライフ》の同名原作や邦訳された『危機一髪』のように、自伝的な作品も発表しています。

◆ 『雪の中のハンター』(Hunters in the Snow)…… 2006.03.02
ダーティ・リアリズムの小説群は、特定の地域を舞台に、そこで営まれる日常生活を詳細に描写していきます。
起こっていることはリアルなのだけれど、つねに「語られていない」何ものかがそこにはある。漠然とした不安感は感じるのだけれど、登場人物たちがいったい何を考えているのか、どうにもよくわからない。緻密に描かれるのは、そんな世界です。
何か、よくわからない。よくわからないけれど、さまざまな感情が流れている。そうしてその底には不安がある。『雪の中のハンター』に描かれた世界は、まさにわたしたちが生きる世界そのものなのかもしれません。



 英語の詩を読む

シモーヌ・ヴェーユは「詩の魅力のひとつは、詩が人工的なことばと自然的なことばとの一種の出会いのうえに成り立っているところにあります」(『ヴェーユの哲学講義』)と言っています。自然的なことば、つまり自然発生的な、人間の肉体からそのまま発せられた個人的なことばと、伝達を目的とする社会的なことば。その二種類のことばの奇跡的な出会いが詩である、と。
いっぽうで、わたしたちは詩はむずかしい、と思う。よくわからないと思う。それは意味内容を伝達するものとして受けとっているからではないのだろうか。「肉体からそのまま発せられたことば」としての詩。そういうものを紹介したくて、いくつかあげてみました。一応訳はつけていますが、あくまで、こんなことを言っている詩なんですよ、という程度のもの。まだまだ「詩の日本語」にはなっていないのはわかっているのですが。どうか原文で、声に出して、単語を舌先で味わいながらお読みください。

◆ 英語の詩を読む――その1…… 2005.03.15
ここではイロクォイの祈り、エズラ・パウンド、カール・サンドバーグ、カール・シャピロ、ディラン・トマスの詩を紹介しています。

◆ 英語の詩を読む――その2(Robert Bly "The Teeth Mother Naked at Last")…… 2005.03.15
ここではロバート・ブライのヴェトナム戦争について詩 "The Teeth Mother Naked at Last"「歯母神 ついに裸形となる」を紹介しています。"The Teeth Mother"(歯母神)というのはユングの大地母神から想を得た、ブライが創造した破壊神です。まるで戦争映画を見るようなリアルな描写から、どんどん象徴的なものになっていく。見えているものの向こうにイメージの世界があるのだ、と、感じ取っていただければ、これほどうれしいことはありません。


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