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ここではカーソン・マッカラーズの短編『木・岩・雲』の翻訳をお届けします。
原文は
http://cstl-hhs.semo.edu/stokes/SW308/A%20Tree.%20A%20Rock.%20A%20Cloud.htmで読むことができます。




木・岩・雲

カーソン・マッカラーズ





 雨の朝、あたりはまだ真っ暗だった。路面電車を改造したカフェにたどりついた少年は、新聞配達もほとんどすませたところでコーヒーを飲もうと入っていったのだった。そこは終夜営業の店で、苦虫を噛みつぶしたような顔のレオという吝い男がやっている。

寒々としたひとけのない通りから入ってきてみると、店のなかには暖かい光があふれていた。カウンターには兵隊がふたり、紡績工場の作業員が三人、そうして隅には背中を丸めてビア・ジョッキに鼻と顔の下半分を突っ込んでいる男がいた。飛行機乗りのようなヘルメットをかぶっていた少年は、カフェに入ると、あごのストラップをはずして右の耳当てを持ち上げて、薄赤く染まった小さな耳を出した。ふだんなら少年がコーヒーを飲んでいると、だれかしら親しげに話しかけてくる。だが今朝は、レオが近くに寄ってくるわけでもなく、みな無言のままだった。少年がコーヒー代を払ってカフェを出ようとしたとき、呼び止める声がした。

「おい、ちょっと、そこの坊や」

 少年が振り返ると、隅の男がうなずきながら手招きしている。ジョッキから上げた顔には、はっとするほど明るい表情が浮かんでいた。長い顔は青白く、大きな鼻、赤茶けた髪は色を失いかけている。

「坊やのことだよ」

 少年は男のほうへ歩いていった。12歳ぐらいの小柄な身体つきで、新聞の束の重みで一方の肩がかしいでいる。ひらべったいそばかすの散った顔は、子供らしい丸い目を見開いていた。

「何か用ですか?」

 男は片方の手を少年の両肩に回すと、あごをつまんで顔をそっと左右に揺すった。少年は決まり悪げに後ずさった。

「よせよ、なんだっていうんだ」

 うわずった少年の声が響き、カフェは急にしんとなった。

 おもむろに男がいった。「おまえを愛しているよ」

 カウンターの男たちがいっせいに笑った。しかめっつらをしたまま後ずさる少年は、どうしていいかわからないようだ。カウンターの向こうにいるレオを見ても、疲れた顔のまま、すげない、あざけり笑いを浮かべた目で見返すばかりだった。少年もなんとか笑ってみようとしたが、男の顔は生真面目で、かなしそうだった。

「からかうつもりじゃなかったんだよ」と男は言った。「ここへ座って、ビールでも飲もうじゃないか。話さなくちゃならないことがあるんだ」

 新聞配達の少年は、おそるおそる横目遣いでカウンターの人々にどうしたらよいか尋ねるようなまなざしを向けた。だが、ふたたび自分のビールや朝食に気持ちが向いていた男たちは、少年の視線には気づかない。レオがコーヒーをついだカップに小さなクリームの容器を添えて、カウンターに差し出した。

「こいつは未成年だ」

 新聞配達の少年は、自分の体を持ち上げるようにしてストゥールに腰掛けた。ヘルメットのフラップの下の耳は、ひどく小さくて真っ赤になっている。男は酔いのさめた顔でうなずいてみせた。

「たいせつなことだ」そう言うと、後ろのポケットに手を伸ばして何かを取り出し、手のなかにすっぽりと納めたまま、少年の前に差し出した。「気をつけてよく見ておくれ」

 少年は目を凝らしたが、気をつけて見なければならないようなものは見当たらない。大きな汚れた手のひらにのっているのは、一枚の写真だった。女の顔だが、ひどくぼやけていて、はっきりとしているのは身につけた帽子とワンピースだけだった。

「見えるね?」男は聞いた。

 少年がうなずくと、男はもう一枚の写真を、手のひらにのせた。その女が水着姿で海辺に立っている。水着のせいで、腹部が変に膨れあがって見え、そこだけが目立っているのだった。

「よく見たね?」男は顔をよせ、やがて聞いた。「この女を見たことはないかね?」

 少年は身じろぎもせず腰掛けたまま、男のほうをはすに見た。「ぼくが知ってる人じゃないと思うけど」

「結構」男は写真にふっと息をふきかけ、またポケットにしまった。「これはわたしの妻なんだ」

「死んじゃったの?」少年は尋ねた。

 男はのろのろと首を振った。口笛でも吹くようにくちびるをすぼめると、「いぃぃや」と言葉を引き延ばした。「これからその話をしよう」

 男の前のカウンターには、大きな茶色のビア・マグに入ったビールがある。それを持ち上げて飲むかわりに、背中を丸めてあごをマグの縁にのせると、しばらくそのままじっとしているのだった。やがて、ふたたび両手で抱えると、ひとくち飲む。

「そのうち、そのでかっ鼻をマグに突っ込んだまま眠り込んで、溺れちまうぞ」とレオが言った。「かの有名な流れ者、ビールの海にて溺死。そいつぁ気が利いた死に様だぜ」

 新聞配達の少年は、なんとかレオに合図しようとした。男が見ていないすきに顔をくしゃくしゃにして、口を動かすだけで、声には出さず聞いた。「酔ってるの?」けれどもレオは眉をあげてみせるとあっちへ行ってしまい、ピンクの縞模様のベーコンを取り上げて、グリルにのせた。男はマグを押しやると、背筋を伸ばし、ゆるく開いて曲がった手をカウンターの上で重ねた。少年を見つめる男の顔はかなしげだった。まばたきはしなかったが、ときおり瞼は重力の作用を微かに受けるのか、青緑の目にかぶさってくる。夜明けは近く、少年は重い新聞の袋を持ち替えた。

「愛の話をしよう」男は言った。「わたしの見るところ、愛は科学なんだよ」

 少年はストゥールから半ばおりかけたのだが、男が人差し指を上げると、なんとなく立ち去ることができなくなってしまった。

「十二年前、わたしはあの写真の女と結婚したんだ。一年と九ヶ月と三日と二晩、わたしの妻だった。愛していたんだ。ああ……」かすれ、おぼつかなくなってきた声に力を入れ直すと、男は話を続けた。「わたしは妻を愛していたし、妻もそうだったと思う。わたしは鉄道技師だった。暮らしを快適にするためのものならなんでも買ってやったし、贅沢もさせた。まさか満足してないとは、夢にも思わなかった。だが、どうなったと思う?」

「知らねえなぁ」とレオが言った。

 男は少年の顔から目をそらさない。「わたしを残して行ってしまった。ある晩、戻ってみたら家はもぬけの空で、妻の姿はなかった。行ってしまったんだよ、わたしを残して」

「だれかと一緒だったの?」少年は尋ねた。

 男はそっと手のひらをカウンターに置いた。「ああ、そういうことだ。女というものは、ひとりっきりで家を出ることはしない」

 カフェは静かで、店の外の通りには、おだやかな雨が、暗く、止むこともなく降り続いていた。レオはベーコンを長いフォークの先で押さえつけて焼きながら言った。「てことは、おまえさんときた日には、十一年もその尻軽女を追いかけてるってことか。まったくご苦労なこった」

 男は初めてレオに一瞥をくれた。「低俗な言い方をしないでほしい。もうひとつ、わたしはきみに話してるんじゃない」少年に向き直ると、信頼しているのだ、秘密を打ち明けているのだ、とでもいうように声を落とした。「彼の言うことなど、気にはしないでほしい。いいね?」

 少年はおぼつかなげにうなずいた。

「こういうことなんだ」と男は話を続けた。「わたしはさまざまなことを感じる人間なんだ。これまで生きてきて、起こったことがその都度、心に深く刻まれた。月の光。美しい娘の脚。つぎつぎに。問題は、わたしが何を楽しんでいようが、そこに奇妙な感覚が生じていたことだった。まるで自分から離れていって、まわりにぷかぷか浮かんでいるような感じだ。なにひとつ、収まるということはなかったし、ぴったりと合う感じもしない。女はどうだったかって? 女も多少は知ったよ。だが、同じだった。終わってしまえば、自分から離れてただよっていくだけだ。わたしは愛するということができない人間だったんだ」

 男はたいそうゆっくりと瞼を閉じたが、そのようすはまるで劇の一幕がすんで、幕が下りたようだった。だが、ふたたび話し始めると、その声は熱を帯び、言葉はあとからあとから流れ出す――大きな、垂れ下がった耳たぶも震えていた。

「そんなとき、あの女に会った。わたしは51歳になっていたが、女はいつも30だと言っていた。ガソリンスタンドで会って、結婚したのはそれから三日後だ。どんな感じだったかわかるかい? とてもじゃないが、口では言えやしない。いままでにわたしが感じてきたあらゆることが、女のまわりに全部集まってきたようなものだ。もう何も自分から離れてただよったりしない、女のせいですべてが収まるところに収まったのだ」

 男は急に口をつぐんで、長い鼻をそっとさすった。声を低め、固い、とがめるような小声で言った。「正確に説明しようと思っているわけではないんだ。何があったか言いたいだけなんだ。つまり、こういった美しい感情と、まとまりのない、ささやかな喜びといったものが自分のなかにはあったのさ。そして、女は、言ってみればわたしの魂の組みたて工場のようなものだった。ベルトの上にわたしの小さな部品がのっていて、彼女のなかを通り抜けると、わたしという人間が完成する。どうだ、わかるかね?」

「なんていう名前だったの?」

「ああ」と男は言った。「ドードーと呼んでいた。だがそんなことはどうだっていい」

「戻って来させようとしてみたの?」

 男の耳には入らないようだった。「こんな状況で、女がわたしをおいて出ていったあと、どんな気持ちだったか想像できるかね?」

 レオはグリルからベーコンを取り上げ、二枚をパンの間にはさんだ。顔色は悪く、目は細く、細い鼻にかすかな青い影が落ちていた。紡績工のひとりがコーヒーのお代わりを持ってくるよう合図を送ったので、レオは注いでやる。それもただではなかった。紡績工は毎朝ここで朝食をとっていたのだが、レオは客と馴染みが深くなればなるほど、ますますしみったれになっていくのだった。自分が食べるパンさえも、物惜しみするがごとく、少しずつかじるのだ。

「それで、奥さんは連れ戻せなかったの?」

 少年はその男のことをどう考えてよいのかわからず、子供らしい顔には好奇心と不審さの入り混じった、心許ない表情が浮かんでいた。新聞配達を始めてからまだどれほどにもならない。早朝とは思えないほど暗い街並みを行くことにも、まだなれていなかった。

「そうだ」と男は答えた。「連れ戻そうとありとあらゆることをやってみた。居場所をつきとめようと歩き回ったし、身内がいるというタルサにも行ってみた。モビールにも。話に出てきた場所にはひとつ残らず出向いたし、関わりあった男もみんな突き止めた。タルサ、アトランタ、シカゴ、チーホー、メンフィス……。ほぼ二年間というもの、妻を取り戻そうとして、国中を探し回った」

「ところがそのおふたりさんは、地上から消えちまってた、とくらぁ」とレオが混ぜ返した。

「あんなやつの言うことなんかに耳を貸すんじゃない」男は声を潜めた。「それからいま言った二年間のことも忘れてしまっていい。そんなことは重要じゃない。大切なのは、三年目あたりから起こり始めた奇妙なことなんだ」

「何が起こったの」少年は聞いた。

 男は身をかがめて、ビールをまたひとくち飲もうとマグを傾けた。ところが顔を近づけたところで鼻の穴がヒクヒクと動いた。気が抜けたビールの臭いを嗅いだために、飲む気が失せたのだ。「愛というのは、もともと奇妙なものなんだ。最初は妻を連れ戻すことばかりを考えていた。ある意味、取り憑かれていたんだ。だがそれから時間がたつうち、妻のことを思い出そうとしなきゃならなくなっていた。そうしたら、どうなったと思う?」

「わからない」

「ベッドに横になって、妻のことを考えようとすると、頭のなかが空っぽになってしまう。顔が見えてこないんだ。写真を出して、よく見る。それでもうまくいかない。なんの役にも立たない。空っぽだ。それがどういうふうだか、わかるか?」

「おい、マック!」レオはカウンターに座っている客に呼びかけた。「このおっさんの頭ン中は、空っぽなんだってよ」

 のろのろと、蠅でも追い払うように男は手を振った。だが、緑色の目は、新聞配達の少年の平たい小さな顔に据えられたまま、動こうとしない。

「ところが、歩道に落ちたガラスのかけらだの、ジュークボックスから流れてくる安っぽい歌だの、夜、壁に映った影だの、そんなものを見た拍子に、出し抜けに思い出すんだ。通りでそんなふうに思い出したりしたら、叫び出すか、頭を電柱にぶつけるかしかなかった。わたしの言うことがわかるかね?」

「ガラスのかけら……」

「なんだっていいんだ。わたしはただそこらへんを歩いているだけで、どうやって思い出しているのか、いつ思い出すのかもわからない。何か身を守るようなものを用意しておけばいいと思うかもしれないが、記憶のよみがえりというのは、正面から向かってくるわけじゃないんだ――横から回り込んでくるんだ。見るもの聞くものすべてに翻弄されてしまった。いつのまにかわたしが妻を捜しに国じゅうを歩き回っているのではなくて、妻の方がわたしの胸の奥底へ入り込んで追い回すようになった。追いかけてくるんだよ、間違いない。胸の奥底まで来て」

やがて少年が聞いた。「そのときおじさんはどこにいたんですか?」

「ああ」男はうめき声をあげた。「わたしは重い病気に罹っていた。天然痘のような。ありのままを言おう。酒浸りになっていたんだ。姦淫の罪も犯した。思いのまま、ありとあらゆる過ちを犯したのだ。正直に言うのは辛いことだが、そうすることにしよう。あの時期のことを思い返すと血も凍るような気がするよ」

 男はうつむいて、額をカウンターにこつこつとぶつける。しばらくの間、この体勢のまま動かなかった。やせこけたうなじには、オレンジ色の毛がもしゃもしゃと生え、長い節くれ立った指は重なり合って祈りの形になっていた。やがて男は身体をまっすぐ起こした。笑みの浮かんだ顔は、急に晴れやかになっていたが、小刻みに震え、ひどく老けこんでしまっていた。

「五年目に、こんなことがあった。一緒にわたしの科学もスタートしたのだ」

 レオは口をねじ曲げて、短い薄笑いを浮かべた。「ま、オレたちゃだれも若くはならないもんな」そう言うと、急に怒りがこみあげたように、持っていた雑巾を丸めて、勢いよく床に叩きつけた。「薄汚ねえおいぼれの色男が」

「何があったんですか」少年は尋ねた。

 年老いた男は、高い、生き生きとした声になった。「平安だよ」

「何ですって?」

「科学的根拠に基づいて説明するのはたやすいことではないのだ。論理的に言うなら、妻とわたしはあまりに長い間、お互いから逃げまわっていたために、とうとうふたりとももつれあい、ダメになり、終わってしまったのだと思う。そうして平安が訪れた。不思議な、美しい空白だ。ポートランドは春で、毎日昼下がりになると雨が降った。夜のあいだ中、闇のなかでベッドに横たわっていた。すると、科学がわたしの内にきざしたのだ」

 路面電車の窓は明るくなり青く染まっていた。ふたりの兵士はビールの代金を払ってからドアを開けた――外に出る前に、ひとりは髪を梳かしてゲートルについた泥をぬぐった。三人の紡績工は、黙々と食事を続けている。壁の時計が時を刻んだ。

「こういうことなんだ。よく聞いてくれよ。わたしは愛について、ひたすらに考え、結論を出したのだ。わたしたちがどこで間違えるのかがよくわかった。男というものが、生まれて初めて愛してしまう、そうなったときの相手は誰だ?」

 少年は柔らかい唇をなかば開けたまま、返事もしなかった。

「女だ」年老いた男は言った。「科学の存在もなく、頼るべきものもなく、男はこの世でもっとも危険であり、神聖なものでもある経験をその身に引き受けようとする。男は女に心を奪われる。そうではないかな?」

「そう……かも」少年は消え入りそうな声で答えた。

「間違ったところから始めてしまうのだ。クライマックスから始めてしまうようなものだ。どうしてそのように惨めなことになってしまうのだろうか。ならば、男はどのように愛したらよいのだろう?」

 老人は手を伸ばして少年の革の上着の襟をつかんだ。そうして少年をそっと揺さぶり、真剣な緑の目で瞬きもせずにじっと見つめた。

「君はどう思う? 愛するには何から始めたらいい?」

 少年はおとなしく座ったまま、じっと耳を傾けていた。ゆっくりとその頭を横にふる。老人は身を寄せてささやいた。

「木。岩。雲」

 通りはまだ雨が降っていた。穏やかでグレーの、いつ止むとも知れぬ雨だった。紡績工場から、交替を告げる六時のサイレンが鳴り、三人の紡績工は金を払って行ってしまった。カフェに残ったのは三人、レオと、老人と、新聞配達の少年だけになった。

「ポートランドの天気もこんなふうだった」と男は言った。「そのときわたしの科学が始まったのだ。考えに考えて、慎重に進めていった。外で何かをつかまえて、それを家へ持って帰るのだ。金魚をいっぴき買ってきて、そいつに意識を集中し、愛してやった。ひとつ卒業すると、つぎのもの。一日ごとにわたしはこの術を身につけたんだ。ポートランドからサンディエゴに行く途中……」

「いいかげんにしろ!」レオが怒鳴った。「黙れよ、やめるんだ!」

 老人はまだ少年の襟元を握りしめていた。小刻みに震えながら、その顔は真剣で、晴ればれとし、同時に猛々しくもあった。「六年というもの、わたしはひとりっきりであちこち行って、この科学を構築していったのだ。いまではわたしも達人となった。もうなんでも愛することができる。もはや考える必要さえない。通りにあふれかえる人々を見れば、美しい光がこの胸に差し込んでくる。空の鳥を見る。道を急ぐ旅人に会う。あらゆるもの。あらゆる人。あらゆる見知らぬ人々。そのすべてをわたしは愛している。わたしのような科学がどういうものなのか、君にもわかるかね?」

 少年は身を強ばらせ、両手できつくカウンターの縁をつかんでいた。やがてこう尋ねた。「それで、その女の人に会えたんですか?」

「え? 何だって?」

「つまり……」少年はおずおずと聞き直した。「また女の人を好きになったんですか?」

 老人は襟元を握りしめていた手を離した。顔を背けると、緑の目に初めてあやふやでうつろな色が浮かんだ。カウンターのマグを持ち上げ、黄色いビールを飲み下す。頭がふらふらと揺れていた。そうしてしばらくのちに返事をした。「いいや。そのことはわたしの科学の最終段階なんだ。わたしは慎重に進んでいる。だからまだそこまでいっていないのだ」

「ほほう」レオが言った。「それはそれは」

 老人は立ち上がると扉を開けた。「忘れるんじゃないぞ」早朝の雨に煙る灰色の光を背に、扉口に立った老人の姿は縮んだようで、みすぼらしく弱々しかった。だが、その笑顔は晴れやかだった。「忘れるんじゃない。おまえを愛しているよ」そう言って、もういちどだけうなずいた。そうして、後ろ手にドアを静かに閉じた。

 少年は長いあいだ何も言わないでいた。額にかかる前髪を引っ張ると、汚れた小さな人差し指を、からっぽのカップの縁に沿わせる。やがてレオのほうを見ないまま、尋ねた。

「あの人、酔っぱらってたの?」

「ちがう」レオは言葉少なに答えた。

 少年の澄んだ声が高くなった。「じゃ、ヤク中か何か?」

「それもちがう」

 少年は顔を上げてレオを見た。平たい小さな顔には思いつめた色を浮かべ、声はいっそう熱を帯び、高くなる。「頭が変なの? 狂ってたと思う?」その声は、急に迷ったかのように低くなった。「レオ? そうじゃないの?」

 だが、レオは何も答えようとはしなかった。終夜営業のカフェを経営して十四年になるが、常軌を逸した振る舞いに関しては一家言持っていた。街のさまざまな連中や、一晩だけふらりと迷い込んでくる流れ者も、ここには来る。あらゆる人間の持つ、きちがいじみた部分もよく知っていた。けれども、自分の言葉を待っているこの子供の疑問に答えてやることはしなかった。青い顔を強ばらせ、ひとことも口をきかないのだった。

 少年はヘルメットの右のフラップを引っ張り下ろし、店を出がけに振り向くと、自分が言っても差し支えなさそうなただひとつの意見、笑われたり馬鹿にされたりすることのなさそうな、唯一の意見を言ってみた。

「あの人、きっといろんなところへいっぱい行ったんだろうね」



The End


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そして最後はどうなるのだろう



アン・タイラーの長編小説『歳月の梯子』のなかに、この作品に言及している部分がある。

 ディーリアはカーソン・マッカラーズの本を手に取り、昨夜読み終わったページを開いた。二編読んだので、三編目を読みはじめた。しばらくすると、眠くなってきた。本を窓辺に置き、読書灯を消して、本の上にのせた。細くあけたドアから廊下の明かりが射しこみ、床の上に黄色い筋をつくっていた。ディーリアは猫の邪魔をしないようにそろそろとベッドに体をすべりこませた。猫は毛づくろいをしていた。そうしながら、ふとしたはずみというふりをして、彼女の胸のあたりに体を押しつけてきたが、ディーリアにはわざとやっているのだとわかった。

 動物が人間とねぐらを共にするなんて、考えてみると不思議な気がした。もしディーリアがアフリカの草原にいるのだとしたら、もしここに寝そべっているのがジャングルの動物だとしたら、ぎょっとしただろう。

 今晩読んだ短編は『木・岩・雲』という題だった。登場する男が、人間はほかの人間を愛する前に、まず簡単なものを愛することから始めたほうがいい、と語っていた。あまり複雑ではないものから始めるべきだ。たとえば木。あるいは岩。あるいは雲。これらの言葉がディーリアの心にリズミカルに響きつづけた。木、岩、雲。

 最初は自分一人、それから、ふとしたきっかけでできた知り合いが一人、二人、そして今度は手のかからない動物が一匹。次は何だろう。そして最後はどうなるのだろう。

アン・タイラー『歳月の梯子』(中野恵津子訳 文藝春秋社)

この部分、決して派手な部分ではないのだけれど、作品中の非常に印象的な場面でもあり、同時にマッカラーズの短編の明快な要約ともなっている。

実はわたしはマッカラーズを長いこと忘れていた。おそらく高校時代に南雲堂の双書で読んだのだと思うのだが、あの双書特有の英文解釈さながらの翻訳文体(笑)も相まって、読むには読んだけれども何やらよくわからないうちに行き過ぎてしまった作品のひとつだったのだ(わたしにはそうした読んだはずなのに、実は何ひとつ読んでいない作品が山のようにあって、ときに恐ろしい気がする)。

それからずいぶん月日は流れ、それこそ「歳月の梯子」をいく段かのぼったところで、このタイラーの一節にめぐりあったのだ。これはもういちど読んでみなくては。

一読して、奇妙な部分が気になった。男が持っていた写真には、だれが写っていたのだろう。

たまたまそのとき、ロラン・バルトの『明るい部屋』を読んでいたためかもしれない。このようないくつかの部分と重なり合ったのだった。

「写真」は過去を思い出させるものではない(写真にはプルースト的なところは少しもない)。「写真」が私におよぼす効果は、(時間や距離によって)消滅したものを復元することではなく、私が現に見ているものが確実に存在したということを保障してくれる点にある。……

「写真」は本質的には決して思い出ではない(思い出を表わす文法的表現は完了過去〔現在とつながりをもつ過去〕であろうが、これに対して「写真」の時間は、むしろ不定過去〔現在とつながりをもたない絶対的な過去〕である)。それだけではなく、「写真」は思い出を妨害し、すぐに反=思い出となる。

ロラン・バルト『明るい部屋 ――写真についての覚書』(花輪光訳 みすず書房)

男が見せてくれた写真には「女」が写っていた。バルトの言葉を借りれば、過去のある時期、その女が「確実に存在したということを保障してくれる」写真だ。けれどもこの写真は顔がはっきりとはしていないために、少年も、イメージを思い描くことができないし、男も、この写真をよすがに、彼女を思い出すこともできなくなってしまった。

ならば、なぜ男はこの写真を後生大事にもっているのだろうか。
おそらく、ひとつには、確かに彼女がそのとき、そこにいた、ということを証明するために。そうしてもうひとつには、男の、女に対する思いを焼き付けるための印画紙として。

最初は妻を連れ戻すことばかり考えていた男が、その顔を思い描けなくなってしまった。写真も役には立たない。バルトが言うように、写真が思い出を妨害するのだ。だが逆に、そのときから、男は彼女のイメージにつきまとわれ始める。写真を媒介にして、その場にいない彼女のイメージを呼びだすのではなく、いつの間にかイメージが彼の内側に培われ、逆に彼を支配するようになっていったからだ。

このイメージは、現実の彼女の姿を必要とはしない。逆に、白紙でなければならないのだ。男の思いをそこに投影させるためには。「現在とつながりをもたない絶対的な過去」は、「かつてそこにあった」ものを証明する、おぼろげな輪郭線以上のものがあってはならないのだ。

ここでわたしは疑問に思う。この男は「いま」、だれを捜しているのだろう、と。彼が捜しているのは、最初は確かにその女だったろう。だが、もしかしたら通ってきた街のどこかで、すれちがっていたのかもしれない。けれども、それは「現在とつながりをもたない絶対的な過去」の女、男のイメージにある「女」ではない。だから気づかなかったのかもしれない。

男が「愛の科学」の果てに愛そうとするのはいったい誰なのだろう。結局は、自分のイメージでしかない、虚焦点の彼方の像を求めて、孤独のなかをさまよっていくのだろうか。

このほかにも、写真には疑問が残る。だれが撮ったのだろう。そうして二枚目の「腹部がふくれていた」写真は、どういう意味があるのだろう。妊娠していた、彼の子を宿していた、と理解すべきなのだろうか。子供はどうなったのだろう。だが、そのあたりはマッカラーズ自身にも、はっきりとわかってはいなかったような気がする。

* * *

マッカラーズは1917年生まれ。多作ではないけれど、アメリカ南部を代表する作家のひとりでもある。戯曲家・作家のテネシー・ウィリアムズとは親交が深く、一時期共同生活もし、彼の勧めで長編第二作の"The Member of the Wedding" を戯曲化した。その作品は処女作である"The Heart is a Lonley Hunter" 以来、一貫して、愛しながらも決して理解し、結びつくことができない人々の孤独を描いたものである。四作の長編、中編をひとつ、そうして短編を少々残しただけで、五十歳で死去。この『木・岩・雲』は優れた短編小説に贈られる"O.ヘンリー賞"を、1943年に受賞している。

さて、ここでタイトルについて。本文にも出てくる"A Tree, A Rrock, A Cloud"とはどういうことなのだろう。

もちろんこれにはいろいろな解釈がある。それぞれに孤独で、決して結びつくことができない人間のありようを描いた、というもの、あるいは、根を張って動かない木、他者の力によって動いていく岩(あるいは石)、雲は絶えずうつろいゆくもの、という自然の三つのありようを示し、男の言う「愛の科学」の段階をあらわすものである、という解釈。あるいは、一本の木、ひとつの石ころにも愛を注ぐ、というのがこの男の「科学」なのだ、というもの。ほかにもあるかもしれない。

ただ、このように解釈してしまうと、ちょっとつまらないかな、という気もする。情緒的な、ときにあふれんばかりの情緒に、自分をも流していってしまうマッカラーズを、こんなふうに理詰めで解釈すると、ずいぶんのものが切り落とされるような気がする。なんとなく、よくわからないまま、ときどき空を見上げたり、梢の間を行き過ぎる雲を見上げたりして、"A Tree, A Rock, A Cloud,"とつぶやいてみたりするほうが、個人的には好みだったりする。

今回訳文をつけるとき、最初は「石」としたのだけれど、原文を見るとあきらかなように、tree - rock - cloud と音の響きが繋がっている。そうして、そのそれぞれが、"a" という弱く、軽く発音される不定冠詞で分断されているのだ。発音してみて、木−石−雲、というと、shiの音が強すぎて、続くmo の音とバランスが悪い。kiは強いが、つぎのiに繋がっていく。ということで、shiよりも柔らかいwaにすることにして、『木・岩・雲』となりました。

この作品はどういうわけか一時期 Web上で読めなかった。ちょうどその時期、翻訳しようと思ってできなくて、急遽差し替えたのがSakiである(全然ちがう!)。
先日もういちど検索してみたら、なんだかいやにいっぱい出てきたのである。そこで改めて読んでみて、なんというか、いろいろ感じる部分もあったし、Sakiを訳していたころに読んでも、ここまでぴったりくる感じはなかっただろうなぁ、といったことを思った。

短編は短い。読み飛ばそうと思ったら、一瞬だ。それでもいくつかの短編は、そのほんの一瞬の出会いが心に残り、そうしてわたしたちは回遊魚のようにときどきそこへ戻ってきて、そのときどきの光を当てながら、そのときどきの心情に応じて読んでいくのだろう。

* * *

「一年と九ヶ月、三日と二晩」暮らした男と女の「愛」は、彼女が男を捨てたときから始まった。おそらくは決して良い人間ではなかった彼女が、逃げ出さなかったとしたら、おそらくそこに「愛」は生まれなかった。ふたりは、会わないことによって、逆に深いところで出会ったのだ、とも言えるのかもしれない。

この男はどうなったのだろうか。話を聞きながら、刻々と心情が移り変わっていったレオ(名前を持つ唯一の登場人物)は、このあとどうなったのだろうか。
そうしてこの少年は。
そうして、これからもときにこの短編を読み返すであろうわたしは。

「次は何だろう。そして最後はどうなるのだろう」



初出Dec.4-7 2005 改訂Dec.9 2005

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