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半世紀前のやらせが教えてくれること〜TVとわたしたち

テレビは教育し、向上させ、その過程において破壊をもたらす狭量さ、無知をなくす。……
未来はテレビ世代の子供たち、さまざまな情報を持った世代の子供たちとともにある。
――シルヴェスター・ウィーバー(アメリカNBCテレビ重役 1952年の発言)

新聞の一面に載ってるぞ
やつらにはいま助けが必要だ
警察はどこだ?
カラーテレビのことで文句を言わなくちゃ
―― Pet Shop Bpys "Suburbia"

テレビ


1.きっと「やらせ」だよ

「やらせ」という言葉がある。テレビ番組や新聞・雑誌などで、あらかじめ筋書きが用意してあるにもかかわらず、それが何の手も加えられていないかのように放映・報道されるものである……ということぐらい、いまなら小学生でも知っているだろう。

昔の小学生だって、ウルトラマンがハヤタ隊員の変身ではないことぐらい知っていた。だが「やらせ」という言葉を知っているいまの小学生は、番組のなかで起こる「ハプニング」に台本があることや、バラエティに登場する「一般人」は、自分や家族や友だちを含む「一般人」とはちがう種類の人びとであることを、なんとなく察しているだろう。それだけではなく、ドキュメンタリーを見て感動している友だちに、「あれはきっと“やらせ”だよ」と冷水を浴びせかけるようなことを言うのかもしれない。

新聞・雑誌でテレビ番組の「やらせ」や「捏造」疑惑が報道されても、わたしたちの多くは憤りを感じるより、「何をいまさら」という観の方が強い。「演出」と「やらせ」はちがうと言われても、出演者への「ここで怒ってみてください」という指示は、はたして「演出」なのか「やらせ」なのか、一体誰に答えられるだろう。

その昔、テレビの電源を入れれば、そこから「自然に」番組やコマーシャルが流れ出して来た時代があった。もちろんその時代にも、番組の制作者やスポンサー、テレビネットワークが介在していたのだが、その時代、テレビの前に坐る人にとって存在するのは、番組と自分たちだけだった。誰が作っているのか、どんな意図や思惑がそこには働いているのかをまったく考えることもなく、視聴者は、笑ったり泣いたり怒ったり考え込んだりしながら画面に見入っていたのだ。

夜になればみんながニュースにチャンネルを合わせていた時代、暮れには家族で紅白歌合戦を見ていた時代は過去のものになってしまった。

テレビなど、そんなに一生懸命見るものではない、どうせどれも「やらせ」なんだ、真剣に笑ったり泣いたり怒ったりするようなもんじゃないと、斜に構えていればいいのかもしれない。リモコン片手にザッピングし、気に入った番組がなければ DVD に切り替えたり、You Tube で昔の番組を検索してそっちを見ればいい。台風が来てもテレビをつける代わりに、インターネットの気象庁のサイトにアクセスすれば、関係ない地域のあれやこれやをいらいらしながら見ている必要もない。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。テレビはどうして「魔法の箱」ではなくなってしまったのだろう。

おそらくテレビの時代は終わりつつある。テレビはインターネットなどの、いわゆるマルチメディアに飲み込まれてしまうのだろう。

それでも、テレビのスイッチを切ったあとでも、わたしたちは未だにパソコンや携帯電話でテレビの動画を見る。グーグルの検索で上位に上がってくる単語のほとんどは、テレビで話題になったものだ。わたしたちとテレビの関係が変わってしまっても、テレビというメディアは、何らかのかたちでわたしたちと密接な関係を持ち続けている。

テレビ番組はどうなっていくのか。わたしたちとテレビの関係はどうなっていくのか。
それに答えを出すことは、わたしにはできそうもない。それでも、なぜ「やらせ」が起こってしまうのか、そもそも「やらせ」とは何なのか、考えてみることはできそうだし、これからのテレビとのつきあいを考える上でも決して無駄ではないはずだ。ここではそのことを取り上げてみたい。


2.大問題になった「やらせ」

『クイズ・ショウ』という1994年の映画をご存じだろうか。ロバート・レッドフォードが監督し、レイフ・・ファインズが主演して、『フォレスト・ガンプ』などとアカデミー賞作品賞を争った映画だ。これは、コロンビア大学助教授のチャールズ・ヴァン・ドーレンが、クイズ番組『トウェンティー・ワン』で事前に答えを教えてもらって勝ち続けた、実際に1959年に発覚した事件を、ほぼ忠実にふまえたものである。

不正と言えば、不正だ。だが、たかだか出演者がクイズの答えをあらかじめ知っていたというぐらいで、世間は騒然となり、下院立法監視委員会・連邦通信委員会合同の公聴会までが開かれたのだ。

この出来事で注目すべきは、『トウェンティー・ワン』ばかりでなく、当時放映されていたクイズ番組が、軒並み不正操作を行っていたことである。しかも、それが発覚したのは、1950年にはアメリカの各家庭の普及率がたった9%だったテレビ受信機が、十年間で87%にまで広まっていった時代でもあった。ゴールデン・アワーの番組のほとんどが40%代の視聴率を記録するなど、アメリカ人の娯楽の中心の座をテレビが獲得していった時期と、クイズ番組が人気を博し、やがてその「やらせ」が発覚した時期とは、ほぼ軌を一にしているのである。

以下、有馬哲夫『テレビの夢から覚めるまで ―アメリカ一九五〇年代テレビ文化社会史』(1997 国文社)を参考にしながら、この出来事を概観する。


@ ラジオの時代からテレビの時代へ

そもそもクイズ番組というのは、ラジオの人気番組だった。
1930年代の半ばごろから、低予算かつ生中継で簡単に作ることができるクイズ番組がどんどん作られていった。ドラマやコメディ、音楽番組に比べれば、ずいぶんお手軽、手抜きともいえるような番組ではあったが、聴取者にとっては家族みんなで答えを考え、一体となって参加できる、楽しい娯楽となったのである。ウディ・アレンの映画『ラジオ・デイズ』にも、ラジオのクイズ番組に興じる人びとが登場し、出演した主人公の叔母さんは、見事優勝を果たしている。

50年代も半ばになると、ラジオでの人気に目をつけたテレビ番組の制作者が、テレビでもクイズ番組を放送することを検討し始める。視覚的要素の乏しいクイズをどうテレビで制作するか。それに解決を与えたのが『六万四千ドルの問題』という番組だった。

これは当時ラジオで人気のあった『六十四ドルの問題』をそっくりそのまま踏襲したものだ。『六十四ドルの問題』では、挑戦者が最初の対戦で勝つと賞金が1ドル、以降勝ち残るたびに賞金が倍になり、最終的に七度勝ち抜くと64ドルが手に入る。テレビでは、その賞金を千倍にしたのである。

この六万四千ドルという金額は、当時ニューヨーク周辺に中間所得層向けの住宅を三、四軒建てられるほどの額だったという。いまの感覚で言えば、ちょうど年末ジャンボ宝くじに当選したようなものだろうか。賞金が高額になれば、それだけ人びとの注目も高くなる。さらに番組では、スタジオで回答者をブースに入れるなど、視覚的効果を高める工夫も重ね、話題性のある挑戦者を参加させた。ラジオ番組時代はただのクイズ番組だったのだが、それに演出とシナリオを加えてショーに仕立てたのである。

問題は、そのシナリオに、人気の出そうな出場者を登場させること、しかも、競り合いになるようにライバルを仕立て、なおかつ双方に、何問かの答えを教えたということである。視聴者の人気を得た出場者が勝ち残り、緊張感を煽ったあげく、見事優勝する、という筋書きが用意されたのである。この『六万四千ドルの問題』は、制作者の思惑どおり、最高視聴率をおさめる番組となった。そうして他のネットワークもそれに追随して、同様の番組を作り始めたのである。

制作者の側からすれば、演出はどうしても必要だった。まだテレビに慣れていない時代の一般人が初めてテレビに出演するともなれば、極度に緊張して簡単な質問にさえ答えられなくなることなど、当たり前のように起こった。リハーサルもない状態で、突然出題されたなら、出場者はほとんど答えられなかったはずだ。事実、番組中に答えられない出場者が続出して、スポンサーの側からクレームがついたこともあった。時間内に収まるのか。逆に、早くケリがついてしまったら、そのあとはどうやって埋めたらいいのか。出演者は、視聴者をひきつけられるのか。
制作者は考えた。

 大切なのは、視聴率だ。番組の視聴率が高ければ、番組のあいだに挿入されるコマーシャルを、それだけ多くの人に見てもらえる。そうすれば、スポンサーの宣伝する商品の売上げが上がる。視聴率を上げるためには、視聴者をひきつける娯楽が必要だ。視聴者は、よほど興味深いものでない限り、生の現実など見たいと思ってはいない。現実などあまり面白いものではない。視聴者が見たいのは、むしろ現実を忘れさせてくれるようなショーだ。テレビとは、ショー・ビジネスなのだ。ショー・ビジネスならば、演出は当然のことだ。

(『テレビの夢から覚めるまで』以下同様)

A スターを作る

1956年に始まった後発のクイズ番組『トウェンティー・ワン』では、容姿の冴えないユダヤ系高校教師ハーバート・ステンペルが連勝を続けた結果、視聴率は低下の一途をたどっていた。そこへ現れたのが、コロンビア大学の講師のチャールズ・ヴァン・ドーレンである。ドーレンの父は、ピューリッツァ賞を取った詩人であると同時に英文学を教える大学教授でもある。叔父もまた歴史学の教授だった。ドーレンは東部のエリート一族の出身であり、体格の良いハンサムな風貌は、テレビ映えも申し分がなかった。

『トウェンティー・ワン』での「やらせ」のそもそもの発端を、ドーレンは1959年、下院立法監視委員会・連邦通信委員会合同の公聴会で、このように証言している。

 ……彼(『トウェンティー・ワン』のプロデューサー、アルバート・フリードマン)は、二人だけで話せるように寝室(フリードマンのアパートの)に連れていきました。そして、今のチャンピオンのハーバート・ステンペルは不敗の回答者だ、なぜなら物事を知り過ぎるくらいよく知っているからといいました。ステンペルは不人気で、番組がだめになるまで対戦者を右に左になぎたおしていると彼はいいました。彼は、彼に対する好意として、私が彼と取り決めをして、ステンペルと互角に渡り合い、それによって番組の価値を高めてはくれないかといいました。私は助けを受けずに、正直に番組でやらせてほしいと頼みました。彼はそれはできないといいました。ステンペルは知り過ぎるくらい物知りだから、私が彼を負かすことはあり得ないだろうと彼はいいました。彼はまた、番組はエンターテイメントに過ぎず、クイズの対戦者に手を貸すのは普通に行われていることだし、ショー・ビジネスの一部に過ぎないといいました。もちろん、そういうことは事実ではなかったのですが、私はたぶん、彼のいうことを信じたかったのです。

ドーレンは「事実ではなかった」と言っているが、ほかのクイズ番組でもこのような演出は当たり前だったのだ。制作者の側にとっては、あくまでもショーだった。ショーであるならば、台本があり、演出があり、リハーサルをすることに何の不都合があろう。この問題を追求されたプロデューサー、ここにも名前が出てくるアルバート・フリードマンは、ほとんど罪悪感を感じるようすもなく、このように証言している。

国家の重責をになう人物たちが、たいてい「ゴースト・ライター」を雇っていて、自分の演説を書かせたり、多くの場合、本さえ書かせたりしているとわかったとして、それはショッキングなことでしょうか。

演出が必要だと考えていたのは、制作者だけではなかった。当時のクイズ番組の司会をしていたジャック・バリーは、1980年代になって当時のことをこのように振り返っている。

最初の何週間かは、われわれはこうした工夫(答えを事前に回答者に教えること)をしませんでした。しかし、三、四週間やってみて、ほとんど全部の問題にまったく答えられない解答者が二人ほど出てきました。それは酷いものでした。スポンサーと広告代理店が電話をかけてきて「二度とこんなことを繰り返すな」といってきました。

当時、スポンサーは番組の放送に立ち会うなど、番組に対していまよりはるかに強い発言権を持っていた。スポンサーとしてみれば、ラジオとは較べものにならないほどの巨額の広告費を支払っているのだ。自分たちに口を出す権利は十分あると考えていたのである。

だが、テレビのクイズショーを見ている視聴者は、そうは思っていなかった。テレビの最大の特徴は「視聴者が生の現実に立ち会う」ということではないか。
ラジオは音声はあっても画像がない。映画は画像はあるが、リアルタイムで進行する現実には立ち会えない。いくらドキュメンタリー・フィルムやニュース映画であっても、編集の手を経ているし、出来事が起こってから時間が経過していることは避けられない。だが、クイズは生中継なのだ。ということは、自分たちはいままさに起こっていることに立ち会っているのだ。視聴者は期待と興奮をもって、「いま、目の前で起こっていること」として、テレビを見ていたのである。

チャールズ・ヴァン・ドーレンが途方もない難問に答えられるのは、彼が博識だからではなく、事前に答えを教わっていたからだ。彼が十四週勝ち抜いたのは、彼が対戦者よりも物知りで強かったからではなく、話題性のある人物で、高い視聴率が予想されたので、長く勝ち残ることをスポンサーが望んだからだ。彼が唇に指を当てたり、あちらこちらに話を飛ばしたり、黙り込んだりするのは、自然にしたことではなく、そうするようリハーサルを受けていたからだ。これは四千五百万世帯のアメリカの視聴者に対する詐欺行為だ。チャールズ・ヴァン・ドーレンはそう思った。

ドーレンは、不正など働く必要はなかった。事実、彼は最初は断りもしている。ある面では彼は巻き込まれた側でもあった。公聴会でのドーレンの証言は悲痛なものである。だが、ドーレンは一切の経緯をありのまま述べることによって、みずから不正の責任を引き受け、今後に向けて過ちをただそうとした。この証言は、彼の高潔な人柄がうかがえる、勇気に満ちた証言でもある。

この三年間の人生の軌跡を変えることができるなら、私はなんでも差し出すでしょう。私は、自分のいったこと、したことを取り返すことはできません。だれにとっても過去は変わらないのです。しかし、少なくとも、過去から学ぶことはできます。……私はこの三年間に、とくにこの三週間に、多くを学びました。私は、人生について、多くを学びました。私は、私自身について、そして人間が他の同胞に果たすべき責任について、多くを学びました。私は善と悪について、多くを学びました。それらは必ずしも見かけと同じものではありませんでした。私は詐欺に深く関わりました。そして、私もまたかなり騙されていたという事実があっても、私がその詐欺行為の最大の犠牲者だということにはなりません。なぜなら、私がその象徴的存在そのものだからです。……

私には話さなければならないことがたくさんあります。私は友人を騙しました。そして、私には何百万人もの友人がいました。今、彼らの私に対する感情がどうであれ、私の彼らに対する想いは、これまでになく強いものです。私は、彼らのために、ここで証言するのです。私がここにいることが、長くこれからも彼らのためになればいいと思います。……

ドーレンの言う「何百万人もの友人」とは、彼の一挙手一投足を固唾を飲んで見守ったアメリカの視聴者のことである。ドーレンが証言したのは、他でもない、彼らに対して責任を果たすためだったのだ。

クイズ・ショウで不正を告白したあと、ドーレンは大学を解雇された。その証言を受けて番組プロデューサーたちも不正を認めたが、あくまでも「業界の常識」を主張した。なおかつスポンサーの関与は否定したのである。というのも、指示があったと証言すれば、今後、彼ら自身がテレビの世界で仕事ができなくなってしまうからだ。制作者たちの否定のおかげでクイズ番組の不正操作に直接的に関わり、番組の人気によって最大の利益を得たはずのスポンサーは、不正操作への関与を否定することができた。結果的にその責任を問われることもなかった。

ところが、番組を放送していたテレビネットワークは、この問題を無視することはできなかった。プロデューサーたちのように「業界の常識」と開き直るわけにはいかなかったのは、他のメディアにはない、「視聴者が生の現実に立ち会う」ことができる利点をつねづね主張してきたからである。視聴者が立ち会っている「生の現実」なるものが、筋書き通り演出されていて当然だ、などと、ネットワークとしては決して認めるわけにはいかなかった。さらに、もしこのスキャンダルが公序良俗に反するものと見なされるならば、放送免許の更新を拒否される可能性もあったのだ。

ネットワークは軒並み、クイズ番組を放送中止にし、番組プロデューサーとの契約を破棄し、とかげのしっぽ切りを進めた。さらに、悔悛の情と再発防止の熱意を示すために放送コードを定め、番組の自己検閲のシステムを強化した。それと同時に、番組の制作をスポンサー主導から、ネットワーク主導へとシフトしていったのである。

放送中止になったクイズ番組の穴は、ハリウッド制作のテレビ用映画が埋めた。これ以降、ハリウッドで制作されたテレビ番組が主流を占めるようになる。当初敵対していた映画とテレビは、共存共栄の道を歩むようになった。こうしてネットワークはスキャンダルで被った打撃を逆に利用して、テレビ繁栄の基礎を固めていったのである。

では、視聴者の側は、この事件をどうとらえ、どう変わっていったのか。『テレビの夢から覚めるまで』のなかで有馬は指摘する。

たしかにスキャンダルは、テレビがライヴだけではないということを証明した。……テレビは、遠くで起こっていることと、茶の間の視聴者のあいだの距離を消去してくれるテクノロジーだが、そのテクノロジーが広告に使われると、視聴者と現実のあいだにスポンサーやネットワークや広告代理店という挟雑物が入り込むのだということをもわかった。テレビというメディアは、アメリカでは広告のメディアであり、それはビジネスの論理で動き、しばしば現実を歪めるのだということも知った。「公共の電波」が、しばしば公共の利益に反する使い方をされ、FCC(※連邦通信委員会)も賄賂を受けとっていて、それを監視できないのだということも知った。しかし、多くの人は、この事件で、それを初めて知ったのではなかった。むしろ、この事件で再確認したことだろう。


3.カメラの魔法

この事件を本で読みながら、わたしは奇妙な気がしてならなかった。
番組を盛り上げるための「やらせ」あるいは「演出」の問題や、スポンサーやテレビ局の思惑に番組の内容が左右されることは、わたしたちがそのまま今のテレビの問題としてあげることができる。つまり、半世紀前から、まったく変わることなく「問題」としてあり続けているではないか。このような問題は、テレビがテレビであるがゆえに抱えてしまった解決不能の問題なのだろうか。

テレビが登場したとき、多くの人はこれこそ「夢をかなえる機械」と考えた。1949年、デュモントテレビ・ネットワークの重役モーティマー・ローウィーは、テレビをグーテンベルクの活版印刷の発明以来のもっとも偉大な発明と呼んでいる。

テレビジョンは誤解と不寛容の壁、つまり、現代のバベルの塔をゆるがすだろう。テレビは、国家間の境界を越えて思想と理想を映し出すだろう。そして、われわれの時代でもっとも偉大な開拓者となるだろう。……テレビジョンという偉大なメディアは、おもに目に訴える。目こそ、耳よりも真実をはるかに早く弁別するものである。

わたしたちは、自分が直接、見聞きし、体験する世界に生きていると同時に、間接的に知る世界にも生きている。自分で直接体験できる世界は、ごくごくせまい、限られたものだが、メディアを通じてなら広い世界の出来事を知ることができる。現に他国の戦争やテロなど、たとえ日本から遠く離れた場所での出来事であっても、株式や円の高下だけでなく、政治的にも経済的にもさまざまな面でわたしたちの日常に影響を与えずにはおかない。わたしたちの生きている「世界」というのは、その二種類の世界が並立しているのではなく、複雑に入り交じっているからなのだろう。

とはいえ、メディアといっても、新聞や雑誌や書物が伝えるのは、あくまでも言葉が中心だ。伝えられた言葉と実物を照らし合わせ、同じものであると認めることは、言葉の受け手であるわたしたちには不可能なことである。

もし、言葉を介さず、その場の様子をありのまま伝えることができるのなら、わたしたちは遠く離れている出来事でも、目の前で起こったことと同じように体験できるのではないか。テレビの映像を見るということは、自分の目で見るのと同じことではないのか。「目こそ耳よりも真実をはるかに早く弁別するものである」というローウィーの言葉の背景には、そのような考え方があるし、だからこそテレビの黎明期、多くの人がテレビというメディアに興奮し、期待もしたのだろう。

だが、ほんとうにそうなのだろうか。仮にスポンサーやテレビ局の利害が入り込まなかったとしても、テレビカメラは果たして画面の前の視聴者を「現場」に立ち会わせることができるのだろうか。

大澤真幸は『電子メディア論』のなかで、1995年の阪神淡路大震災を「現場」で伝えるレポーターの様子を指摘する。

たとえば、テレビ画面の中のレポーターは、ほとんど顔面蒼白で、声を震わせて被災地の状況をわれわれに伝えてくる。レポーターは、なぜ、これほど驚愕しているのか。レポーターも、当然、神戸に行く前に被害の映像を見ていたはずだ。レポーターを戦慄させたのは、テレビ=メディアを通じて得た映像と彼(女)が目下直接に見ている〈現実〉との間に、あまりにも大きな乖離があるからである。実際に、レポーターや直接被害にあった多くの人が、映像と〈現実〉とががこれほどに大きな差異があるということを初めて知った、と告白している。つまり、〈現実〉の側に、仮想現実=虚構に還元できない何か、が残留しているのである。

(大澤真幸『電子メディア論』新曜社)

さらにこの「還元できない何か」とは、「〈現実〉に実践的・認識的に対峙する者が、全的にその〈現実〉に内属している、ということからくる効果のようなもの」である、とする。つまり、荒っぽくまとめてしまえば、わたしたちの身体がその「場」に居合わせるかどうか、ということだ(まとめすぎか)。画面で切りとられた風景を「見る」ことと、自分の身体を取り巻く圧倒的な空間に巻き込まれ、五感すべてでそれを感じることは、根本的にまったく異なっている。

そこで、制作者の側は、「視聴者があたかもその場に居合わせている」錯覚を起こさせるような演出をおこなう。惨事を象徴させるような映像(ぽっきりと折れてしまった鉄筋コンクリートの橋脚)をクローズアップし、あるいは空撮によって被害の規模を映し出し、ときには音楽を重ね合わせることで、画面の悲劇性を高めていく。焦点をある人物に当て、わたしたちが感情移入できるようにする。報道の場面で「生中継」が強調されるのも、「実時間を共有している」という感覚を視聴者に持たせるためだ。

つまり距離を消そうとする努力そのもののうちに、「演出」は潜んでいる。

それだけではない。カメラを向けられたわたしたちの側の問題もある。わたしたちはたとえ家族や友だちにカメラを向けられたときであっても、かならずポーズを取る。ぼさぼさの頭やだらしのない格好をしているときは、ちょっと待って、と直す。

わたしたちはカメラの前で演技する。自分の写りの良い角度、良い表情、良い仕草、良い身なりを撮られようとする。それは、映し出された映像が、「真実」として記録されるからだ。「真実」の姿を少しでも良いものにしようとして、わたしたちは演技をするのだ。

さらにビデオとなると、わたしたちは静止しているわけにはいかない。ビデオカメラが自分をとらえていることをを意識しながら、なるべく意識しないように、「いつも通り」に動こうと演技する。

ビデオを撮るのは、卒業式や運動会、結婚式などのイヴェントや旅行に行ったときなどのいわゆる「ハレ」の日だ。わたしたちの「ケ」、日常のゴミ出しや風呂掃除、テレビの前で寝そべったり、ベッドで寝っころがってマンガを読んでいるところは、特別な目的がなければビデオに撮るものではない。「ハレ」の日、立派にアクト(行動、演技)している自分を記録に残すのだ。自分が「このように見られたい」と願う姿こそが「自分の真実である」と証明するために。

こう考えていけば、テレビカメラを向けられた人びとは、台本のあるなしにかかわらず、かならず演技化された行為をすることになってしまう。なんとか「現実」そのままにしようとすることさえ、一種の演技となってしまうのだ。

他人の視線を意識しないではいられないわたしたちの身体は、自分の姿を切りとり、「真実」として保存するカメラの前で、「ありのまま」ではいられない。「カメラがある」という〈現実〉に巻き込まれてしまったわたしたちは、自分の身体を意識し、自分の動きを意識しないではいられない。そうして、いったん意識し始めたが最後、わたしたちはぎこちなく「自分」を演じるしかないのだ。

もちろんそんなとき、カメラの存在がないかのように動ける人もいる。災害救助隊や医療従事者などその場で作業に従事していて「カメラどころではない」人びとである。彼らは自分に向けられたカメラを邪魔にこそ思っても、意識するような暇はないだろう。だが、彼らは彼らの役割(レスキュー隊や医療従事者、災害ボランティア)をアクト(行為、演技)しているとも言えるのである。役割を演じているのだから、素の自分としてカメラの前に立たされているのとはちがう。だから、役割が要求するアクトを、自然に、きびきびとこなすことができる。

このことは街頭インタビューでいきなりマイクを向けられた人が、よどみなく自分の「意見」を語ることができる場合にも当てはまるだろう。素の自分がほんとうにそんな意見を持っているかどうかが問題なのではない。マイクを向けられた瞬間、その人は「地球温暖化に憂慮を抱く人」や「政治家の失言に憤る人」の役割を選び取り、その役柄に応じた発言をする。だからこそ街頭インタビューの内容というのは、あきれるほどステレオタイプだ。

こう考えていくと、番組が「現実」に近づけようとすればするほど、演出や演技は避けられないことになってしまう。


4.誰が、どのような意図を持って作っているのか

演出・脚本家である今野勉は『テレビの嘘を見破る』(新潮新書)のなかで、制作者がドキュメンタリーとして「事実」を伝えるためにどのような演出をしてきたか、まるで手品師が手品の種明かしをしていくように、数多くの実例をあげながら、ひとつひとつあきらかにしていく。見せるための工夫や演出だけでなく、事実の再現、印象的な場面を撮るために、別々に撮った光景を組み合わせ、ひとつにつなげる……。それらは「やらせ」ではないのか。その問いに対して、今野はこのように答える。

 ドキュメンタリーは事実をあつかいます。やらせは何らかの事実に対応しています。
 これまで見てきたように、やらせの現場には、スタッフや出演者や参加者がいます。その全員の間に何らかの合意が成立しないかぎり、やらせは実現しません。
 その合意とは何でしょうか。
 自分たちのやる行為は、ただの都合のいい絵空事なのではなくて、よんどころのない事情で撮影できない、ある想定しうる事態、ありうる事態を現出させる代行行為なのだという合意です。

(今野勉『テレビの嘘を見破る』新潮新書)

落石が十分に起こりうるような場所で、そこでの仕事が危険と背中合わせであることを表現するために、落石を「代行」して現出させる。これが「やらせ」である、と言うのである。そうであるならば、制作の現場でさまざまになされる工夫のひとつひとつをとらえて、「これはやらせであるかどうか」と判断することに、どれほどの意味があるのだろうか。視聴者が考えなければならないのは、カメラがとらえた落石が、スタッフの手によって人為的に起こされた「やらせ」なのかどうかではなく、映像全体が何を伝えようとしているのかである、と。

わたしたちが実際には経験できないことを、あたかも実際に経験しているかのように見せようとする映像は、そのためにさまざまな工夫や演出がなされることになる。それを、単純に“人を騙すことは良くない”という倫理の問題として考えることはできない、と今野は言う。「事実の前に謙虚であること」そうして「伝えたいことがあれば、そのために考えられるありとあらゆる最善の方法を考える」その「作り手の原点」をふまえたドキュメンタリーを作っていくのだ、と言うのである。

確かに今野の主張は納得できるものだ。だが、そうであるならば、わたしたちは制作者が「いったい何を伝えようとしているのか」について、よほど意識的でなくてはならなくなる。しかも、大勢の人が制作に関わり、しかも放送されるまでのチェックがあるために、「やらせは一般の視聴者には見破れない」ものらしい。

最低限、その「事実」はどのように撮影されたのかは、明らかにされる必要があるだろう。

「写真の例だが」と断った上で、今野は1973年ピューリッツァ賞を受賞した「戦争の恐怖」というタイトルの写真が撮られることになった経緯を説明する。

戦争の恐怖

ヴェトナム戦争のなかでも最も有名な写真のことを、スーザン・ソンタグは、このように語る。

もっともよく知られた写真はどれも演出によるものではない、ということが確実になるのはヴェトナム戦争以降である。このことは、世代の意識に刻印を残す映像の道徳的権威にとって不可欠である。ヴェトナム戦争の恐怖を端的に捉えたものに一九七二年のヒュン・コン・ウトによる有名な写真がある。アメリカ軍のナパーム弾を浴びた村から少女が苦痛の悲鳴をあげて道路を走ってくるあの写真は、演出では絶対に作れない種類の写真である。

(スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』北条文緒訳 みすず書房)

だが、この写真は実際にはどのように撮影されたのか。今野は写真家の大石芳野の談話を引用しつつ、このように指摘していく。

戦後のヴェトナムで、わたしはこの少女らに会う機会に恵まれた。「軍からお寺に避難せよといわれ、村人が避難した直後にその軍から爆撃されたのです」と彼女たちは話した。戦場の大混乱のなかで多数の報道陣が軍のアドバイスを受けて路上で待機し、悲惨で残酷な光景に向かって一斉にシャッターが押されたのだった。
 演出ではない。しかし、つくられた偶然に写真家はどう共感を込めていくか。(中略)戦争写真のむずかしさを改めて考えさせられた。

(北海道新聞'03・8・31)

 アメリカ軍は、ナパーム弾をゲリラの村に投下するところを、カメラマンたちに撮影させようとして、村人を寺に避難させたのでしょう。不幸にもナパーム弾は寺を誤爆したのです。あの写真はつくられた偶然によって撮影されたのです。
 大石さんが明かしてくれたもうひとつの事実は、ベトナム戦争の真実をより深く物語っているのではないでしょうか。

ソンタグばかりではなく、多くの人びとは、この写真を、アメリカ軍がナパーム弾による空爆の映像だと思ったことだろう。おそらくカメラマンは偶然、あるいは空爆の情報を得てこの村を訪れ、そこで逃げまどう人びとの姿を目にし、この情景を何としても伝えなければ、という道徳的な熱意にかられて夢中でシャッターを切ったのだ、と思ったことだろう。だが、「演出では絶対に作れない」はずの写真は、実は、待機していたカメラマンの前で繰り広げられた「つくられた偶然」による情景だったのだ。

だがカメラマンの待機は「やらせ」という言葉でくくり得るものなのだろうか。この経緯を知ることによって、この写真から受ける「ヴェトナム戦争の悲惨さ」の印象がいささかでも減じられるだろうか。

映像は、どのようなものであっても、制作者のバイアスがかならずかかっている。だからこそわたしたちはその映像が「どのように撮影されたものか」を知っておかなくてはならないし、我を忘れて映像に見入るのではなく、誰が、どのような意図を持ってこの映像を制作したのかを頭に入れておかなくてはならないのだろう。


5.半世紀後のクイズ・ショウ

『テレビの夢から覚めるまで』のなかで有馬は、1951年のクリスマスに放送されたテレビ受像機のコマーシャルをふまえて、このように書いている。

1950年代の初めにおいて、テレビ受像器はアメリカ人の夢を叶える機械だった。……テレビは、神からのプレゼントだ。われわれは、このプレゼントを手にして、娯楽のことばかり考えるのではなく、人類への善意と地上の平和のことを、そして、それをいかに役立てるかをも考えなければならない。テレビを通じて、いかにひとびとの蒙を啓き、偏見を根絶し、理解を深めるかに心をくだかなければならない。テレビこそ、その未来を開いてくれるだろう。

1950年代の人びとは、なんというまぶしい理想をテレビに対して抱いていたのだろう。まるで、子供のころに思い描いた自分の未来図が、時を経て、目の前に見せつけられたような気がする。あのころの自分の夢はどこに行ってしまったのだろう。

わたしたちは「娯楽のことばかり考え」てはいないか。「人類への善意」なんて誰か持っているのか。「地上の平和」を果たしてわたしたちは限りなく遠い未来であっても、実現しうる理想として描くことができるのか。偏見はなくなったのか。異なる文化や民族や宗教についての理解は深まったのか。自らを省みて、恥じ入るばかりである。

半世紀前とくらべて、とてもではないけれど、わたしたちは進歩したとは言えないが、これだけは言える。いまのわたしたちは、テレビが「神からのプレゼント」ではないことを知っている。制作者がいて、スポンサーが費用を出し、それを電波に乗せるネットワークがあることを知っている。

「やらせ」あるいは「演出」があることを知っているなら、それを「許す/許さない」ではなく、それをふまえてどのように見るのかが問われているのが、半世紀を経たいまのわたしたちではあるまいか。


だが、ある意味で、わたしたちはその答えを出しているのかもしれない。

1950年代のクイズ番組では、ルックスも家柄も良く、社会的にも申し分のない地位の人をクイズの勝者とするために、「やらせ」が行われた。それから五十年経って、不思議なクイズ番組が人気を博した。

はやり廃りの激しいテレビの世界では、もはやそれほど人気番組とは呼べないのかもしれないのだが、『クイズ!ヘキサゴンII』という番組は、勝者とは逆に、敗者にスポットが当てられる。おそろしく簡単な問題にとんちんかんな答えを出す彼らに対して司会者は、その無知ぶりをことさらに指摘し、そこに笑い声がかぶせられる。

それを見てわたしたちは考える。彼らはほんとうにそんなことさえもわからないんだろうか。それともわからないふりをしているだけなんだろうか。彼らの言動は、完全に演じている、ともいいきれない。もしこれが演技であれば、逆にすごいと思う。だが、ほんとうに何も知らず、それこそ「天然」でああなのか、というと、かならずしもそうではないような気がする。

あるタレントが、「どうだ、すごいだろう」と言わんばかりの顔つきで、もったいぶった言い回しで何ごとか言えば、ああ、この人は自分を賢そうにみせるたいのだな、とわたしたちは思う。だが、その行為が明らかにするのは、本人の意図に反して、彼もしくは彼女の「素顔」が「たいして賢くない」ということだ。

逆に、ものの言い方にしても、ことばの選び方にしても、いかにも頭の切れそうなタレントが、馬鹿なことを言ってみたり、くだらないだじゃれを連発したりするとき、わたしたちは「この人は馬鹿のふりをしているけれど、ほんとうは頭がいいんだろう。おそらく偉そうにしている人びとや、賢いふりをしている連中を笑いのめすためにこういうことをやっているのだな」と思う。

賢いふりをしようが、馬鹿のふりをしようが、その演技の向こうの「素顔」は、なんとなく見えてくる。ところが簡単なクイズに、屈託なくとんでもない回答をするタレントを見ても、わたしたちは彼らがいったいなんのためにそういうことをやっているのかよくわからない。「役割」がわからないせいで、彼や彼女の素顔が見えてこないのだ。

テレビ番組、しかもバラエティー番組ともなれば、どんな演出がなされているかわかったものではない、とテレビずれしたわたしたちは考える。だが「いったいなんのためにそういうことをやっているのかわからな」ければ、そこにいったいどのような演出が働いているのか、それとも演出ではないのか、わたしたちにはわからない。だからそれを知ろうと目を凝らす。わたしたちは、「いったいなんのためにそういうことをやっているのかわからない」行為を見ながら、「どういう人なのか」を突き止めるために彼らを見る。そうしてその「素顔」を確定した段階で、わたしたちは彼らに飽きてしまうのだ。

半世紀前と同様、このクイズ・ショウにもおそらく「やらせ」は働いている。だが、わたしたちは「騙された」と怒る代わりに、「やらせ」とたわむれている。




初出Jan.21-23, 2009 改訂Oct.15 2009

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