P.G.ウッドハウス 『階上の男』  

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イギリスの作家P.G.ウッドハウスの短編『階上の男』の翻訳をお送りします。
原文はhttp://www.bibliomania.com/0/0/286/1978/frameset.htmlで読むことができます。


* * *


The Man Upstairs   by P.G. Wodehouse

  階上の男 ――P.G.ウッドハウス


 頭上から響く床を激しく蹴りつける音に、アネット・ブルームは、三つの異なる段階を追って反応していった。最初はばくぜんと引っかかりを覚えただけだ。ワルツの作曲に没頭するあまり、その音も、ほとんど意識には上ってこなかった。第二段階は肉体的苦痛、真っ赤に灼けたペンチで、自分の気持ちを音楽から引き剥がされるような苦痛として現れた。そして最終段階にいたってようやく、アネットは怒りに身を震わせつつ、その意図するところを理解したのだった。侮辱だ。姿なき、かの野蛮人は、わたしの弾くピアノがキライなのだ。そのことを、靴のかかとで告げているというわけだ。

受けてやろうじゃないの、とばかり、アネットは伸音ペダルを踏みながら、鍵盤をもういちど叩いた――ほとんど叩きつけた、といってもいいほど強く。

「バン!」真上から音がする。「バン! バン!」

アネットは立ち上がった。頬は紅潮し、顎は昂然と上を向き、両の目は闘争心に燃えている。部屋を後にすると、階段を上り始めた。どんな観客であろうと、公正な気持ちさえ持っていたならば、その男に対する同情するあまり、胸の痛みを覚えないではいられなかっただろう。差し迫る運命を知らないその人物は、それどころかおそらくは勝ち誇った気分で、部屋の中、アネットがいままさにノックしようとしているドアの向こうに立っているにちがいないのだ。

「どうぞ!」と大きな声が応じた。どちらかといえば、感じのいい声だ。だが、その魂が下劣であるならば、感じのいい声がいったいなんになろう?

アネットは入っていった。芸術家が集まるここチェルシー地区によくあるタイプのアトリエで、ろくすっぽ家具もなく、絨毯も敷いてない。部屋の真ん中にはイーゼルが立っていて、その向こうにはズボンをはいた脚があった。イーゼルの上は灰色の煙が雲状に渦を巻いている。

「お邪魔します」とアネットは口火を切った。

「いまはモデルは必要ないんだが」と、件の野蛮人は言った。「名刺はテーブルの上に置いておいてくれたまえ」

「わたしはモデルなんかじゃありません」アネットは冷たく言い放った。「ここにうかがったのは、ただ……」

すると野蛮人は要塞の奥から姿を現し、パイプを口から離すと、自分の椅子をだだっぴろいところへぐいと押し出した。

「そりゃどうも。すわりませんか」

自然は資質というものをいかにデタラメに配分することか! 床を踏み鳴らすこの腹黒い男は、感じのいい声をしているばかりか、外見まで好ましいときている。いまのところは多少だらしのない格好で、髪も使いかけのモップのように上を向いているが、そうした欠点を差し引いても、確かにいい男と言えそうだ。アネットもそれは認めないわけにはいかなかった。怒り狂ってはいても、アネットは公平な精神のもちぬしなのだ。

「またモデルが来たと思ったんです。ぼくがここに落ち着いてからというもの、一時間に十人の割で来てるからなぁ。最初のうちはそういうものかと思ってたんだけど、八十番目に陽光あふれるイタリアの申し子みたいな子が来たあたりから、もう、うんざりしてしまって」

アネットは相手のことばが終わるのを冷ややかに待った。

「失礼ですけど」あなたにはこれで十分よ、と言わんばかりの口調である。「ひょっとしたらわたくしの弾くピアノの音が、お邪魔ではございませんこと」

毛皮の下に冬用の下着を着込んだイヌイットでもなければとうてい耐えられそうもない、身も凍るようなアネットの態度だった。だが野蛮人は凍死したようすはない。

「もしわたくしのピアノがご迷惑でしたら」アネットは氷点下の声で繰り返した。「どうかお許しください。わたくし、真下の部屋に住んでおりますが、こちらで床を蹴っていらっしゃるのが聞こえましたの」

「とんでもない」若い男はにこにこしながら否定した。「ぼく、ピアノが好きなんです。ほんと、大好きなんだ」

「ならどうして床を蹴ったりなさるんです?」アネットはそう言うと、部屋を出ていこうとした。「天井が痛みます」アネットは振り返って肩越しに言った。「こんなこと申し上げても、お気を悪くなさらないでね。それじゃごきげんよう」

「気を悪くしたりなんかしないけど……。ちょっと待って」

アネットは立ち止まった。男は親しげな微笑みを浮かべて、こちらをしげしげと眺めている。こう認めてしまうのはまったくもって気が進まないのだが、悪くない笑顔だ。相手があまり落ち着き払っているので、ますます腹がたってきた。ほんとうなら、とっくの昔に恥辱にまみれ、惨めな様子で自分の足下でのたうち回っているはずだったのに。

「ほんと、悪かったと思ってます。だけど、こういうことなんだ。ぼくはね、音楽が大好きなんです。だけど、あなたは曲を弾かないでしょう。何度も何度もおなじところを繰り返すだけで」

「一小節ずつ作ろうとしてたんです」アネットは威厳をこめて言ったが、その声音には、先ほどの冷淡さはなかった。気がつかないうちに、固く閉ざされた心が溶けはじめていた。このもじゃもじゃ頭の青年には、どこか不思議な魅力がある。

「一小節?」

「曲です。ワルツのね。わたし、ワルツを作ってるんです」

青年の顔にパッと賛嘆の表情がひろがった。こうなると残った一片の氷塊までも溶けてしまう。会ってから初めて、アネットは床を蹴飛ばすこのならずものに、はっきりとした好意を抱いてしまっていた。

「作曲ができるんですね」感動の面持ちで彼は聞いた。

「歌をほんのひとつかふたつ」

「そんなことができるなんて、ほんとうにすばらしいだろうな。作曲みたいに芸術的なことができるなんて」

「あら、あなただってそうでしょう? 絵をお描きになってる」

にこにこ笑いながら、首を横に振った。

「ぼくはいいペンキ屋になることをめざすべきなんだろうなぁ。広がりが必要なんです。キャンバスは締めつけられるような気がする」

そう口では言いながら、キャンバスの狭さをちっとも苦にしているようすはない。どう見ても楽しそうにしか見えないのだ。

「見せてくださる?」

アネットはイーゼルの側へ回っていった。

「こまったなぁ」とそれを押しとどめようとする。「ほんとに見たい? 行きがかり上、まぁ見ておきましょう、っていうんじゃないんですね? しょうがない、いいですよ」

経験を積んだ批評家の目には、その絵はまちがいなく未熟なものでしかなかっただろう。黒い瞳の子どもが、大きな黒猫を抱いているスケッチだった。統計学の専門家によれば、この地球上のどこかで、一日のうちのいかなる瞬間をとっても、ひとり以上の若い画家が、猫を抱いている子どもの絵を描いているそうだ。

「『子どもと猫』という題をつけようと思ってるんです」青年は言った。「結構いい題だと思いませんか? 見る人に、この作品の中心主題がすぐにわかる。あれが」とわざわざパイプの柄で指し示して解説してくれた。「猫です」

アネットは、描かれた題材が好きか嫌いかによって絵の好き嫌いが決まるという、一般人の大多数を占める人々に属していた。おそらく、いま現在百万枚ほども存在する、芸術とはほど遠い『子どもと猫』のどの一枚を見たところで、アネットが嫌いと言うことはなかっただろう。しかも、彼は自分の音楽について、とても優しいことを言ってくれたのだ。

「すばらしい、と思います」アネットはきっぱりとこう言った。

その顔には、うれしいというよりいぶかしげな表情が浮かんだ。

「ほんとに? ならぼくは何も思い残すことはないなぁ。あとはもう、下の部屋であなたの曲を聴かせてもらえさえすれば」

「ただ床を蹴とばしたくなるだけだと思うわ」

「生きてる限り、もう決して床を蹴ったりなんかしませんよ」元野蛮人は、頼もしげに請け負った。「床を蹴るなんてことは大嫌いなんだ。いったいどうして床なんか蹴るような人がいるんだか、ぼくには理解できません」


ここチェルシーでは、友情は瞬く間に進展する。一時間と十五分のうちに、アネットは青年がアラン・ベヴァリーという名前であること(この門閥の名前からくる気苦労には、アネットは軽蔑を感じるよりも、むしろ気の毒に思った)、生計の道を、もっぱら仕事に依存しているわけではなく、自分自身に多少の財産があること、そしてそれを幸運であると思っていることを知るようになった。

話し始めるとすぐ、アネットはベヴァリーのことを好ましく思うようになった。不運の画家というのは、まったく馴染みのない人種だ。レジナルド・セラーズ、この建物にアトリエを構えていて、ときどきアネットのところへコーヒーを飲みに来ては愚痴をこぼすセラーズとはちがって、ベヴァリーは自分が成功しない原因を、世間の一部の悪意や愚かしさに求めたりはしなかった。

セラーズが無教養な俗物どもをののしり、未だ真価を認められない我が才能を延々と語るのにすっかり慣れていたアネットは、一般人って芸術センスに欠けるんですよね、とありきたりのなぐさめのことばを口にした。ところがベヴァリーが、大衆はしっかりした良い趣味を持っていますよ、と答えたものだから、奇蹟でも起きたかと自分の耳を疑った。もしベヴァリーが、どうにかしてアネットに尊敬されたい、と腐心していたとすれば、このひとこと以上に確かな行動をとることはできなかっただろう。

アネットはいつもやさしく、辛抱強く耳を傾けるものだから、愚痴をこぼす人間はそれをいいことにいつまでも話を続けたが、そういう手合いに内心ではものをぶつけてやりたくてイライラする。泣き言をいう人間には、これっぽっちも同情したくなかった。アネット自身はファイターだったのだ。

ほかの誰しもと同じく、野心に燃えて闘っているときに、運命が繰り出す手痛いパンチは願い下げだったが、かといって、愚痴の独演会をしてもいいことにはならない、と思う。ときどき、音楽出版社をいくつも渡り歩いたあげく、虚しく帰ってきたあとで、ひそかに苦々しい思いを吐き出すことはあったし、眠れぬ夜、枕に噛みつくことさえあった。だが、人前ではいつも明るく元気でいなければ、自分のプライドが許さなかったのだ。

今日初めて、アネットは自分の心痛の一部を打ち明けた。モップ頭の青年には、信頼しても大丈夫、と思わせるところがあったのだ。冷酷な音楽出版社のこと、自費出版でなければ歌ひとつ印刷してさえもらえないむずかしさ、情けない売れ行き。

「だけど、あなたが弾いていた曲は、出版されたんでしょう?」

「ええ。三曲ね。だけど、たったそれだけ」

「で、売れなかった?」

「ほとんどね。歌って、有名な人が歌ってくれなきゃ売れないんです。歌ってあげる、って約束してくれても、ちっとも歌ってくれないの。ああいうひとのいうことって、アテにはならないのね」

「そいつらの名前を教えてください。明日、片っ端から撃ち殺してやろう。だけど、何かいい方法はないのかな」

「ただ、あきらめずにどこまでもがんばるだけ」

「お願いだから、何かで落ち込んだときには、ここへ来て、胸の内に溜まった毒を吐き出してください。溜め込んだままじゃよくない。上がってきて、ぼくに話してほしいんです。そしたらきっと気分も良くなる。それか、ぼくが降りていく。うまくいかないときはいつでも、天井をたたいてください」

アネットは笑った。

「そのことはふれないでください」ベヴァリーは懇願した。「ひどいですよ。深く悔い改めた元−床蹴飛ばし男ほど、傷つきやすい人間はいないんですから。あなたが上がってくるか、ぼくが降りていくか、いいですね? ぼくはそんなふうに惨めな気分になったときは、外に出て警官をひとり殺すことにしてるんです。だけど、それはあなたの好みじゃなさそうだから。だから天井をたたけばいいんです。そしたら飛んでって、ぼくができること、なんだってやってあげますよ」

「そんなことおっしゃって、きっと後悔すると思うわ」

「それは絶対ない」決然たる声が返ってきた。

「もし本気でそう思ってらっしゃるんだったら、ほんと、うれしいわ」アネットもそれを認めた。「ときどきね、誰か、不満をぶちまけさせてくれるんだったら、お金を全部あげたってかまわない、って思うことがあるんです。昔の小説みたいに、『わたしが生涯の話をしますから、すわって聞いてください』って言えたころの人々は、さぞかし良かっただろうな、って。天国にいるみたいな気分だったにちがいない、と思いません?」

「さて、と」ベヴァリーは立ち上がった。「ぼくに用があれば、どこにいるかわかりますね。床を蹴る音がしたその真上です」

「床を蹴る音、ですって? そんなことありましたっけ」

「握手していただけますか?」

* * *

ちょうどそのつぎの日に、ひとりの生徒に一時間、気も狂わんばかりの思いをさせられたアネットは、上の部屋にあがっていった。生徒たちは救世主であると同時に、悩みの種でもある。アネットの生活を支えてくれる彼らであったが、反面、彼らのおかげで、生活など支える価値もないようなものになり果ててしまうのだ。ピアノを習いに来る者もいれば、歌っているつもりの者もいた。だがどの生徒の頭の中も、ただただ固い象牙色の頭蓋骨があるだけ。生徒一同の脳を寄せ集めても、灰色の脳細胞は茶さじ一杯がせいぜいだろうし、なかでもその日の午後の生徒たちは、なかでも最低の部類だった。

ベヴァリーのアトリエでは、レジナルド・セラーズが、非難がましい様子でイーゼルの前に立っていた。アネットはセラーズが好きではない。長身で、押しつけがましく、ひとを見下したような態度を取る。炭をなすったような口ひげをはやし、アネットにはいつもいつも「よぉ、おチビさん」と呼ぶのだった。

ベヴァリーは顔を上げた。

「手斧を持ってきてくれましたか、ミス・ブルーム? だったらあなたもこの無垢な生き物たちの虐殺にちょうど間に合った。セラーズさんがぼくの子どもと猫をズタズタにしているところだったんです。見てください、セラーズさんの目を! いまも光ったでしょ? もういちどやる気なんですよ」

「ベヴァリー君」セラーズは堅苦しい調子で言った。「私はただこの絵の欠点について、考えを述べようと試みていただけだよ。その批判が少々手厳しかったなら、勘弁してくれたまえ」

「どうか続けてください」ベヴァリーの声には、心からそう思っているんだという響きがあった。「ぼくがどう思うかなんて、気にしないでください。何もかも勉強になるんだから」

「じゃあ言わせてもらうが、要するにこの絵には生命が感じられない。子どもも猫も、生きてはいないのだ」

セラーズは一歩下がって、両手の指で枠を作った。

「まず猫だ。なんというか……つまり、その、なんだ」

「この種の猫はそういう感じじゃないと思うんです。種類がちがう」

「かわいい猫だと思うわ」アネットはさっそく、いつものようにカッカと腹を立て始めていた。セラーズが無能であることをよく知っていたから、ベヴァリーがにこにこしながら見下されるままになっているのに我慢ならなかったのである。

「とりあえず」とベヴァリーは楽しそうに言った。「お二人には、これが猫には見えるらしいですね。その点には異論はない、と。これはたいしたもんだ、と言ってもいい。なんせぼくは初心者なんですから」

「そうだ、確かに、その通りだよ」セラーズは鷹揚にうなずいた。「私が批判したぐらいで、意気消沈することはない。将来性がない、などと、悲観してはいけないよ。それどころか、いつか君はかならずうまくなるだろう。かならずね」

アネットの瞳に冷たい光がきらめいたのに気がついただろうか。

「セラーズさんは」アネットは穏やかな調子で話し始めた。「現在の地位をお築きになるまで、それはそれは苦労なさったんですものね。もちろん、セラーズさんの作品をごらんになったでしょ?」

ここへきて初めて、ベヴァリーはなにがなんだかわからなくなってきたようだ。

「ぼくが? どうして?」

「あら、もちろんご覧になっていらっしゃるはずよ」そのことばは妙に愛想がいい。「雑誌という雑誌に載っていますもの」

ベヴァリーは偉大な画家に尊敬のまなざしを向けたが、セラーズの方は、落ちつかなげな様子で赤面している。それをベヴァリーは天才が謙遜しているのだ、と了解したようだった。

「広告のページにね。セラーズさんはウォーキージー・シューズやレスタホワイル社製の長いす、あとはリトル・ジェム・サーディンのいわしの缶詰の絵なんかを描いてらっしゃるんですもの」

緊迫した沈黙がたれこめる。ベヴァリーの耳には、レフェリーがカウントを取る声が聞こえてくるような気さえした。

「ミス・ブルームは」とうとうセラーズが吐き捨てるように言った。「私の仕事を、商業美術だけに限定したいようだが、それだけじゃない」

「もちろんそうでしたわよね。ほんの八ヶ月前に、風景画を五ポンドでお売りになったわよね。それから、その三ヶ月前にもう一枚」

それで十分だった。セラーズは強ばった仕草で一礼すると、大股に部屋を出ていった。

ベヴァリーは雑巾をとりあげると、のろのろと床を拭き始めている。

「何をなさってるの?」ぎょっとしたアネットは、つい詰問口調になってしまった。

「うち砕かれた男の破片をね」ベヴァリーはささやく。「全部集めて、丁寧に葬ってやらないとね。ミス・ブルーム、まったくたいしたパンチをお見舞いしましたね」

ベヴァリーは、えっ? と驚くと、持っていた雑巾を落とした。というのも、とつぜんアネットが泣き始めたからだ。両手に顔を埋めて椅子に腰を落とし、身も世もないほどの泣きようである。

「どうしたんです」ベヴァリーは呆然として、そう聞いた。

「わたしはネコよ! けだものよ! もう、わたしなんて最低よ!」

「どうしてそんなことを……」ベヴァリーはあっけにとられて、そう聞いた。

「わたしはブタよ! 鬼よ!」

「どうしてまた……」ベヴァリーはなすすべもなく、そう聞いた。

「わたしたち、みんななんとかうまくやろうとして、苦労しながらがんばってるのに、わたしときたら、それを助けようともしないで、セラーズさんの絵が売れないからって、バ、バ、バカにしたりして! ああっ、もう、わたしなんて生きてる価値がないのよ!」

「どうして、どうして……」ベヴァリーはうろたえ、そう繰り返すだけだった。

泣き声は、やがてすすり泣きに変わり、それもだんだんに静かになっていった。やがて涙に濡れた痛ましい顔を上げて笑った。

「ごめんなさいね、わたし、バカなこと言っちゃって。だけど、セラーズさんがあんまりあなたを見下したような態度を取るものだから、ひっかいてやらずにはいられなかったの。わたしって絶対、ロンドンで一番性悪のネコね」

「いや、性悪のネコはこっちです」ベヴァリーはそう言いながら、キャンバスを指した。「すくなくともいまは亡きセラーズ氏に言わせるとね。だけど、どうなんでしょう、故人は偉大な画家じゃないんですか? ふんぞり返って入ってきちゃ、ぼくの傑作を酷評するもんだから、ぼくなんか自然と、こいつぁすごいや、天才の登場だ、なんて思ってたんですけど。そうじゃないんですか」

「あの人の絵を買ってくれるところはどこもないの。広告のイラストを描いて、ほそぼそと暮らしているのよ。それをわたしは、バ、バカになんかしちゃって」

「もうそこまで。お願いだから」ベヴァリーは心配そうに言った。

こみあげてきた涙をこらえながらアネットが言った。

「どうしようもないわね」その声は惨めそのものだ。「徹底的にやっちゃったんだもの。あぁ、つくづく嫌な女ね。だけど、ひどい生徒を教えたあとでイライラしてたのよ。そこへきてあのひとがベヴァリーさんを見下したような態度を取りはじめたでしょ」そう言うと、目をしばたたかせた

「かわいそうなやつ」ベヴァリーは言った。「全然気がつかなかった。そういうことだったのか」

アネットは立ち上がった。

「セラーズさんに謝ってくるわ。鼻であしらわれるだろうけど、謝らなくちゃ」

アネットは部屋を出ていった。ベヴァリーはパイプに火をつけると、窓辺にたたずんで、物思いにふけりつつ、通りを見下ろした。

* * *

人生には、決して謝ることなかれ、という黄金律がある。正しい人間なら、他人に謝罪を求めるようなことはしないし、よこしまな人間は、謝罪につけこもうとする。セラーズは後者に属していた。すっかり爪をひっこめたアネットが意気消沈した様子でやってきて、たいそう悪いことをした、もう二度とそのようなことはしない、と深々とこうべを垂れたのに対して、セラーズは、それはそれは感じの悪い、太っ腹なところを見せてやるといわんばかりの態度で謝罪を受け容れたのである。こんなにしょげかえっていないときのアネットなら、改めてけんかっぱやいところを発揮せずにはおれなかっただろう。そこをぐっとこらえておとなしく許しを請うたたアネットではあったが、これからはなおのこと、我慢ならない相手になるにちがいない、と、がっくりくるような見通しを抱きながら帰っていった。

予感は見事、的中した。セラーズはふたたび新入りのアトリエに足繁くやってくるようになり、完成目前の絵に、本が一冊書けるほど批判を浴びせるのだった。それに愛想良く調子を合わせるベヴァリーの態度には、アネットも驚いた。その絵が好きで自分のものにしたいと思ったことはなかったけれど、生みの親のほうをますます尊敬するようになっていたのだ(そして、そのことに気がついたときは、ひどく狼狽してしまった)。だが批評家気取りのセラーズに対しては、このまえ爆発して後悔したことを思い出しつつ、なんとかズタズタにしてやるのを思いとどまったこともたびたびだった。ところがベヴァリーときたら、芸術家らしい過敏なところなどこれっぽっちも見受けられない。セラーズが、動物虐待防止教会の怒りを招きかねないほど例の猫を痛めつけても、ただにこにこしているだけなのである。その辛抱強さは、アネットの理解を超えるものだった。

いつのまにかベヴァリーを、すばらしいひとだ、と思うようになっていた。

批評家としての地位をより強固なものにしようと、いまやセラーズは、いっぱしの権威者のような口をきく。ここへきて、積年の苦労ののちに彼の運もついに上向きになった。もう何ヶ月も画商のところで沈没しかけた戦艦のように傾いたままになっていた絵に、ついに買い手がつき始めたのだ。この二週間のうちに、風景画が三枚と寓意画が一枚、結構な値段で売れたという。この成功のおかげで、ちっぽけな花が花弁を広げたように、セラーズの態度も大きくなった。画商のエプスタインから、寓意画はベイツという名のグラスゴーの金持ちが、百六十ギニーで買ってくれた、との知らせを受け取ると、セラーズの「無教養な俗物」批判、無知な彼らの物質万能主義と鑑賞眼の欠如へのこきおろしには、修正が加えられた。ベイツ氏など、あたかも友人の名前であるかのような口ぶりだった。

「ぼくに言わせりゃ」この知らせを、ベヴァリーはアネットから聞かされた。「もっと深い意味がありますね。ここからわかるのは、グラスゴーからついに素面の人間が登場した、ということです。酔っぱらいじゃあの寓意画を正面切って見る勇気はありませんからね」

ベヴァリー自身の美術界への進出は、遅々たるものだった。『子どもと猫』を完成させて、セラーズの紹介状といっしょにエプスタインのところへ持ち込んだだけである。一方セラーズは、いまやすっかり鷹揚な大家気取り、肩書きを手に入れて、後進にチャンスをくれてやろうという態度が癖になりつつあった。

画家としての一歩を踏み出したものの、ベヴァリーは現実にはそれほど製作に励んでいるわけではない。アネットがアトリエに出向いてみても、いつも椅子に腰かけて足を窓枠に載せてパイプを吹かしているか、同じ格好でセラーズの芸術論を拝聴しているかのどちらかだったのである。上り坂のセラーズは、銀行にはかなりの預金ができ、時間の余裕も生まれていた。広告の仕事からは足を洗って、大作――また別の寓意画――をものにするつもりだったのだ。つまり、ベヴァリーのために費やす時間はたっぷりあり、まさにセラーズはそうしていたのである。当のベヴァリーは、大演説のあいだ、パイプを吹かしながらすわっているだけで、聞いているやら、いないやら。アネットは一、二度聞かされただけで、もう腹が立ってたまらず、身体をふるわせながらベヴァリーに訴えた。

「なんであんなにえらそうなことを言わせておくの? わたしの曲のことをあんなふうに言うひとがいたら、それがだれであっても、わ、わたしなら、自分がなにをしでかすか、ちょっとわからないわ。そうよ、たとえ相手が大音楽家だったとしてもね」

「セラーズは大芸術家だとは思っていない? いまでも?」

「そりゃあのひとの絵は売れたかもしれない。ってことは、きっといい絵だったんでしょう。でも、だからといってあなたにたいしてあんなにえらそうにする権利はないんじゃないかしら」

「『教養ある我が友の非礼は、たとえ彼が皇帝で、その相手がゴキブリであろうとも許し難いものである』」ベヴァリーはウィリアム・ヘンリー・モール卿のことばを引用した。「さて、じゃ、ぼくたちはどうしたらいいんでしょう?」

「あなたの絵も売れさえしたらいいんだけど……」

「うーん、ぼくだって契約のうち、自分の責任は果たしたんです。商品を納入したでしょ。いまや品物はエプスタインのところにある。売れないからといって、世間に責められる筋合いはありません。あとは何千もの人々がワルツでもくちずさみながらやってきて、その絵を争ってくれりゃいいだけなんです。ところでワルツといえば、どうなりました?」

「あら、それならできたわよ」そう答えたアネットは、妙に元気がない。「ついでに言っておくと、出版もされたの」

「出版されたんですって! じゃ、なにが問題なんです? どうしてそんなに悲しそうな顔をしてるんです? 小鳥みたいに歌いながら、広場を飛び回ってないんですか?」

「それはね、残念ながら、自費出版だからなの。たった五ポンドなんだけど、売上げはそこまでもいかないのよ。もしそれ以上売れたら、重版もしてくれるんでしょうけど」

「その分もあなたが負担しなきゃならないんですか」

「いいえ。それは出版社がやってくれるわ」

「どこの出版社?」

「グラスチンスキー・アンド・ブフターキルヒ社よ」

「それはすごい。何を思い煩う必要があるんです? もうわかりきったことじゃありませんか。グラスチンスキーなんて名前の男なら、十二版くらい一人で売ってしまいますよ。おまけにブフターキルヒがついて、アイデアを出してるんでしょう、彼ならあなたのワルツをイギリス中の話題にしてみせますよ。赤ん坊だってベビーベッドのなかで歌うようになるでしょうね」

「このまえ会ったときには、グラスチンスキーさんはそう思ってなかったみたいだったけど」

「もちろんそうでしょうよ。グラスチンスキーも未だ自分の能力に目覚めていないんです。彼が引っ込み思案で弱気なことは、音楽業界では有名です。なにしろ正真正銘、野に咲くスミレみたいな男なんだから。あなたも彼に、時間を与えてやらなくちゃ」

「重版を一度か二度してくれるんなら、何だってしてあげたいわよ」

驚くべきことに、グラスチンスキーはやってのけたのだ。アネットのワルツが、ほかの無名作曲家のワルツ同様、たいして売れるわけがない、という予想には、さしたる根拠などなかったのかもしれない。ごくまれに動くだけだった売れ行きという名の川が、何の前触れもなく洪水になってしまったのだ。グラスチンスキーは慈父のような面持ちで、アネットが店に行くたびに(それはしょっちゅうだったのだが)微笑みかけ、この一週間に二度目の重版があったことを告げるのだった。ベヴァリーのほうは、みずからの芸術的発展は未だセラーズの監視の目に抑えつけられていたものの、アネットに対しては、あの曲が成功することには、これっぽっちも疑いなんか持ったことがありませんでしたよ、ほんの一小節を耳にした瞬間から、ぼくは喝采するために床を踏みならさずにはおれなかったんですから、などと言うのだった。あのセラーズでさえ、おめでとう、を言う間だけは自分の勝利も忘れていたようだった。お金も転がり込んできて、人生行路は順調この上もない。

すばらしい日々、仕事も順調……。

手短に言えば、毎日がすばらしく輝かしいものだった。だが、たったひとつ、完璧に欠けるものがある。通常、成功につきものの難点として、ある人間がうまくいくと、友人にとってはそのことが癪の種になってしまうものである。ところがアネットの場合、この点は問題にならなかった。セラーズのものごしは、名誉の殿堂入りした新米を迎え入れる古参会員、といったあんばい。教え子たちは、頭は空っぽながら、感心にもお世辞の言い方だけはよく心得ている。そしてベヴァリーは、だれよりも喜んでくれるのだった。だが、アネットの欠けるところのない満月に影を落としているのは、ほかならぬこのベヴァリーだったのである。

成功したアネットは、友だちみんなにうまくいってもらいたかった。ところがベヴァリーときたら、こまったことにうまくいかなくても朗らかで、さらに問題なのは、セラーズにバカにされるがままになっていることなのである。セラーズのアドヴァイスや批評は、公平無私とはいいきれないものがあった。つまりベヴァリーをだしにして、自分の勝利に酔いしれようとしていたのである。あまりにも悔しかったアネットは、いまも上の階に上がっていったけれど、セラーズの声がアトリエから聞こえてきたために、ノックさえせずに引き返してしまったのだった。

* * *

ある日の午後、アネットが部屋にいると、電話のベルが鳴るのが聞こえた。

電話は階段のところ、ちょうど部屋を出てすぐのところにある。部屋を出て、受話器を取った。

「もしもーし!」不機嫌そうな声が聞こえてきた。「ベヴァリーさんはいますか?」

アネットはベヴァリーが出ていく音を聞いた覚えがあった。いつだってベヴァリーなら足音でわかる。

「お出かけです。お言伝てはありますか?」

「お願いします」相手は強い調子で言った。「ルパート・モリスンから電話があって、こちらへ届いた大量の楽譜をどうするつもりか聞いていた、と伝えてください。そっちへ回送したほうがいいのか、それともほかの方法がいいのか」声はだんだん大きくなり、興奮の度合いも増してきた。あきらかに相手は神経を高ぶらせていて、自分の抱える問題を聞いてくれる人間がいさえすれば、それがだれでもかまわないようだった。

「楽譜ですって?」

「楽譜なんですよ!」モリスンは甲高い声で叫んだ。「楽譜の山また山また山なんです。これはいたずらか何かのつもりなんでしょうか」そう訊ねる声はヒステリックだ。明らかにいまやモリスンは、アネットのことを腹心の友にちがいない、と思ったようだ。自分の言うことを聞いてくれている。そこが肝心だった。だれでもいい――聞いてくれさえすれば。「ぼくに部屋を貸してくれたんです。邪魔の入らないところで、小説が書けるようにって。そしたら、さっそく楽譜が舞い込み始めたんです。部屋中に楽譜でいっぱいの箱が二ヤードも積み重なっていて、まだまだ毎日届くんですよ、どうしたらいい、って言うんです?」

アネットは電話ボックスに倒れかかった。頭の中はぐるぐる渦を巻いていたが、いろんなことが徐々に腑に落ちてきた。

「もしもし?」モリスンの声がした。

「はい。あの、その楽譜はどこから来るんですか」

「何を言ってるんです」

「楽譜を送ってくる出版社の名前をお聞きしてるんです」

「忘れちゃったなぁ。なんだか長い名前でしたよ。そうだ、思い出した。グラスチンスキー・アンドなんとかだった」

「ベヴァリーさんにお伝えしておきます」アネットは静かに言った。頭の上にひどく重いものがのしかかっているような感じがしていた。

「もしもし、もしもーし」モリスンの声が響いてきた。

「はい?」

「それからね、絵もある、って伝えておいてくださいね」

「絵、ですって?」

「ひどい絵が四枚ですよ。ゾウみたいにでかいんだ。身動きする場所さえありゃしない。それから……」

アネットは受話器を置いた。

* * *

外出から戻ったベヴァリーは、元気いっぱいの歩調で階段を三段飛ばしであがると、アネットの部屋までやってきた。そのとき、中からドアが開いた。

「ちょっといいかしら?」

「もちろん。どうかしかした? またワルツが重版になりましたか?」

「そんな話は聞いていません。ベ…ベイツさん」

こんどばかりは、アネットの目にも、階上の男の明るく悠然とした表情に動揺が走ったのがわかった。ところが気持ちを乱した気配もなく、アネットの一打を平然と返してきた。

「ぼくの名前をご存じなんですね」

「名前以外のこともね。グラスゴーの百万長者さん」

「ま、確かにそうではあるんですが、所詮、遺産です。ぼくの前は親爺がそうだった」

「そしてお金をお使いになったのね」アネットは苦々しい調子で言った。「友だちのために偽りの天国を作って見せた。あなたがお遊びにあきて、壊してしまうまでの間の天国をね。だけど、ベイツさん、それってひどく残酷なことだ、と一度もお思いにならなかったの? あなたがセラーズさんの絵を買うのを止めて、ほんとうのことが分かったとしたら、セラーズさん、またおもしろくもなんともない仕事に、また喜んで戻れると思います?」

「ぼくはやめない。グラスゴーの百万長者はセラーズの寓意画を買わなくなったら、ほかのだれかの寓意画を買うと思う? だれのも買いやしないよ。セラーズが気がつくことはない。やっこさんは描き続け、ぼくは買い続ける。万事、めでたし、めでたし、というわけさ」

「まったく結構なお話ね! それで、わたしのこれからはどうなさるおつもりだったの?」

「あなた、ですか……」考えながら言った。「ぼくと結婚するっていうのはどうでしょう」

アネットは頭のてっぺんから爪先まで、身体全体を強ばらせた。だが、その怒りに燃える目は穏やかな愛情に満ちた目に受けとめられる。

「わたしと結婚する、ですって?」

「あなたの考えてることはわかります。セラーズの寓意画が、いたるところに飾ってある家で暮らすことになりそうだわ、なんてお考えなんでしょう? だいじょうぶ、そんなことはしません。屋根裏にしまい込んでおきましょう」

口を開こうとするアネットを、ベイツは押しとどめた。

「聞いてください。ぼくが生涯の話をしますから、すわって、ね。まぁ最初の二十八年と三ヶ月は省略して、ただそのほとんどの期間を、あなたみたいな女性を探すことに費やしていたんだ、と言うに留めておきます。一ヶ月と九日前、ぼくはあなたを見つけたんです。あなたはエンバンクメントを渡ってらした。ぼくもエンバンクメントにいたんです。タクシーに乗ってたんだけど。タクシーを停めて、外に出ると、あなたがチャリング・クロスの地下鉄の駅に降りていくのが見えました。ぼくはパッと駆けだして……」

「おもしろくないわ」

「話はここから盛り上がるんです」と彼は請け合った。「主人公が駆けだしたところまででしたね。というわけだったんです。そこであなたはウェスト・エンド行きに乗って、スローン・スクウェアで降りた。ぼくもそれに続きました。あなたはスローン・スクウェアを横切って、キングス・ロードへ入ると、ここに着いたんです。ぼくもついていきました。すると看板があったんです。『貸しアトリエあり』と。ぼくは考えました。ほんのおなぐさみ程度だけれど、ちょっとだけ絵を描いた経験もある。だから画家のふりくらいできるんじゃないか、って。そうやってアトリエを借りました。アラン・ベヴァリーって名前も考えたんです。ほんとのはビル・ベイツです。アラン・ベヴァリー、って呼ばれるのと、シリル・トレヴェリアンって呼ばれるのとどっちがいいか、ずいぶん考えたんですけどね。コインを投げて、アラン・ベヴァリーに決めたんです。いざここに来てみると、問題はどうやってあなたと知り合いになるか、っていうことでした。あなたがピアノを弾いていらっしゃるのを聞いたときは、よし、これだ、って思いました。あとは床を蹴とばしていれば、そのうち、ね?」

「じゃ……あ、あなたは……ほんとうは……」アネットの声は怒りで震えた。「あなたはただ、わたしをおびき出そうとして、床を蹴った、ってことなんですか?」

「そういうことです。計略っていうことになりますかね? さて、それじゃどうしてぼくがあなたのワルツを買ったのがわかったか、教えていただけませんか? あなたのおっしゃった『偽りの天国』っていうことばは、セラーズのことだけを指しているわけじゃありませんよね。だけど不思議なのはどうしてあなたにそれがわかったか、ってことなんです。ロジンスキーでしたっけ、秘密を守ることを誓わせたんだけど」

「モリスンさんとかいうひとよ」アネットは冷たく言った。「電話があって、あなたから借りてる部屋に楽譜の山が溢れてしまって、すごく困ってるから、そう伝えてくれ、ですって」

それを聞いたベイツは、腹を抱えて笑い始めた。

「かわいそうなモリスン! すっかり忘れてた。オルバニーの部屋をやつに貸してやったんです。小説を書いてるんだけど、ちょっとでもなにかうまくいかないことがあると、書けなくなるんだ。こんどのことでも、よくわかるでしょ?」

「ベイツさん」

「はい?」

「おそらくあなたはわたしを傷つけるつもりではなかったのでしょう。おそらくただご親切なお気持ちからだったんだと思います。でも……、でもね、それがわたしを侮辱するものだ、とはお考えにならなかったんでしょうか? 子ども扱いなさったんです。偽りの成功をさせて、それもただ――ただ、わたしをおとなしくさせるためだけにね、そうじゃありません?」

彼はポケットをごそごそさせていた。

「手紙を読ませていただいてもいいですか?」

「手紙?」

「短いものです。エプスタインから来たんです。あの画商ですよ。こんなふうに始まる。『貴下』、ぼく宛てなんですけど、『親愛なるビルさん』じゃなくて、ほら、ただ『貴下』です。『本日午前、貴下の“子どもと猫”に十ギニーというお申し出がありましたことを謹んでご報告いたします。この価格で販売してよろしいか、ご通知ください』」

「それで?」アネットの声は、消え入りそうだった。

「ぼくはエプスタインのところへ行ってきたんです。買い手はミス・ブラウンという人でした。住所はベイズウォーター。そこへ行ってみたんです。ミス・ブラウンという人はいませんでしたが、あなたの生徒という人がいました。その人に、ミス・ブラウンから荷物が届くことになってはいないか、と聞いてみましたよ。そしたらあなたから手紙をもらって、なにもかも了解しているので、届いたら預かっておく、という話でした」

アネットは両手で顔を隠した。

「出ていって!」そう言うのがやっとだった。

ベイツは一歩近づいた。

「島で暮らしている人たちの話を知っていますか? お互いの洗濯物を引き受けあって、かつかつの生活を、なんとか支え合っている人たちなんですけどね」

「出ていって!」アネットは大きな声を出した。

「ぼくはずっと思っていたんだ。そうすることによってその人たちは、みんなとても親密になっただろう、お互い同士が強く結びついていただろう、ってね。そうは思いませんか?」

「出ていって!」

「出ていこうとは思いません。あなたが結婚してくれる、って言ってくれるまで、ここにいます」

「お願いだから、出ていってください。考えさせて」

アネットは彼がドアの方へ行く足音を聞いた。その足音が止まったかと思うと、また歩き出した。ドアが静かに閉まる。やがて上の階から足音が聞こえてきた――行ったり来たりする単調な足音。檻のなかの動物のような。

アネットはすわったままその音に耳を澄ませた。足音は止むこともない。

とつぜん、アネットは立ち上がった。部屋の隅に、窓のサッシを開け閉めするための長いポールがある。それを手にして、少しの間迷った。それからすばやく持ち上げて、天井を三回、突いた。



THE END


※あとがきとウッドハウスについて



初出March.8-15, 2005、改訂March.18, 2005




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