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【贈与交換】

人がほかの人に物をおくったり、おくられたりすることをいうが、市場経済における売買や交易における物々交換のように、利益をあげたり必要物を獲得するのが目的でなされるのではない。贈与交換は広く交換の一形態であるが、贈与の場合は交換されるもの自体には価値や意味はなく、交換の行為そのものに価値や意味をみとめる。バレンタイン・デーに女性が男性にチョコレートをおくり、ホワイト・デーには男性が女性にキャンディをおくるが、女性も男性もチョコレートやキャンディがほしいわけではない。交換することによって両者の間に発生するなんらかの親密な関係にこそ意味をみいだす。

"贈与交換" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001.
【聖バレンタインデーの虐殺】

1929年2月14日にシカゴで起きたギャングの抗争事件。
アル・カポネと抗争を繰り広げていたバッグズ・モラン一家のヒットマン6人及び通行人一人の計7人が殺害された。事件自体はそれほど重要というわけではなかったが、犯人たちが警官に扮していたこともあって全米中のマスコミの注目を集めた。

"聖バレンタインデーの虐殺"フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ヴァレンタインの虐殺

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1.女心はアテにならない

わたしは小学校五年のときに、私立の女子校から公立の共学の小学校に転校した。しばらくは身近に男の子がいるという状態が非常にめずらしく、大変興味深かった。

だが、入念に観察して、クラスメイトの男子というのは「要するに、てんでガキじゃん」という結論にたどりつくまで、おそらく一ヶ月もかからなかっただろう。
大半の男の子は休憩時間になると、教室の後ろでうわばきをバット代わりに野球もどきをやり、TVか何かのくだらない真似をしては下品な声で笑い、なかには失礼極まりないことに、隙あらばスカートをめくろうとする輩までいる。文字通り、「かえる、かたつむり、子犬のしっぽ」(マザーグース)でできている連中だった。

ところがそういうなかで、女の子の人気を一身に集めている男子がいた。
その佐藤君(仮名)という男の子は、クラスでも「勉強がよくできる」三人衆のひとりで、休憩時間も、ほかの男子とは一線を画し、教室でなにやらこむずかしげな話をしているのだった。残りのふたりが黒縁の眼鏡をかけていたり、太っていたりでどうみてもパッとしなかったのに対して、佐藤君ときたら整った顔立ちをしているだけでなく、ドッジボールもうまいし跳び箱も鉄棒もうまい、おまけにけっこうおもしろいことも言う。多くの子が五年にもなると、ランドセルをやめてスポーツバッグやショルダーに切り替えていたのだが、いかにも小学生らしくランドセルを背負って、小綺麗な格好で学校に来る。そんな子だったのだ。

数年前、実家に戻った際に、自分の部屋を整理していたら小学校の卒業文集が出てきた。将来の夢、というタイトルで、みんなさまざまなことを書いていたのだが、男の子の約半分は、プロ野球選手、あとは「ガンのとっこうやくを発明してノーベル賞」とか「東大へ行って外交官」とか、もっとつつましく「学校の先生」とか、なかには「漁師」になりたい、という子もいて、それぞれの顔を思い出すと実におもしろかった。その佐藤君の夢は、なんと「社長」で、それも小さい会社を自分で作りあげて、少しずつ大きくしていきたい、という、いまのベンチャー企業を先取りするような作文を書いていたのだった。

ともかく、下品なことは言わない、スカートめくりなんてとんでもない、礼儀正しく、先生のウケもよく、しかもガリ勉ではない、となると、女の子の間で圧倒的な人気を博するのも不思議はない。

わたしが最初に仲良くなったアヤ子ちゃん(仮名)という子も、やはりその佐藤君が好きで、どちらかといえばおとなしく、地味だった彼女は、ほかの女の子のように「積極的にアタック」することもなく、秘めた気持を切々とわたしに訴えたものだった。
わたしからすれば、ほかよりは多少マシではあっても、所詮、小学生じゃないか、そんな子供のどこがいいんだろう(そう考える自分も同じ小学生、という視点は、未だ形成されていなかったのである)と、せつない気持ちなんてちっとも理解できなかったのだけれど、佐藤君が近くに来れば、赤くなって急に態度がぎこちなくなるアヤ子ちゃんの態度の変化は、見ていて非常に興味深かった。

その年のヴァレンタインデーは、その佐藤君が圧倒的にたくさんのチョコレートをもらったことは言うまでもない。

クラス替えもないまま、わたしたちは六年生になった。
クラスに美也(仮名)ちゃんという子がいた、。髪の毛にパーマをあて、いつも小学生とは思えないような格好をしていた大人っぽい子だったのだが、その子が急にヨシ君(仮名)が好き、と言い出したのである。

ヨシ君、というのは、わたしのカテゴリーでいくと「有象無象の一員」、だいたい無口で下品なことも言わないのは感心だったが、野球しか頭にないような、これといって目立つところもない子だった。
ヨシ君のどこが良かったのか、とにかくことあるごとに美也ちゃんは「ヨシ君がスキ!」と繰り返す。教室移動のときでも、下校のときでも、後を追いかけて腕を取り、「ヨシ君一緒に理科室に行こう」「ヨシ君一緒に帰ろう」という彼女に、ヨシ君のほうは、何とも言えず困った顔をして、おそらくどうしていいかわからなかったのだろう、「うるさい!」と言って逃げ回っていたのだった。

ところが「ヨシ君のこんなところがカッコイイ」「ヨシ君のこんなところがスキ」という、美也ちゃんの派手な宣伝が功を奏してか、次第にクラス全体に「ヨシ君、いいかも」という空気が生まれてきたのである。

ついこの間まで、佐藤君、佐藤君、と言っていた多くの女の子たちが、しだいにヨシ君、ヨシ君、と言い出したのだった。
静かに、せつない胸の内をわたしにうち明けてくれたアヤ子ちゃんなら、よもやそんなことはあるまい、と思っていたわたしは、ヴァレンタインが近づいた二月のある日、聞いてみた。
「今年はチョコレートの競争者が少なくて良かったね?」
「今年はわたし、ヨシ君にあげたいの……」

わたしは人気というのは、このように形成されていくものなのか、と、このとき学んだのだった。この年、ヨシ君のスポーツバッグには、圧倒的多数のチョコレートが詰め込まれたのは言うまでもない。

つくづく、女の子の「スキ」なんていうのは、アテにしちゃいけないんだな、と思ったのだった。

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2.ハートチョコレートとジョルジュ像

中学に入ってもしばらくの間は、同じ学年の男の子というのは、てんでガキだと思っていた。行った学校が中高一貫だったため、12歳から18歳までいるのだ。まるで大人のようにも見える18歳と較べると、12や13の男の子が子供に見えるのも無理はなかった。

ヴァレンタインに女の子からチョコレートをもらっても、照れ隠しなのだろうが、ムスッとした顔で、お礼さえ言わない。もちろんそうした同級生の「有象無象」にチョコレートなんぞもったいない、と思っていたわたしではあったが、事象としては興味深く、その結果どうなるかの観察だけは、しっかりとしていた。

当時はまだ「義理チョコ」などということが一般化する前のことで、男の子に渡す、というのは、真剣も真剣、清水の舞台から飛び降りるほどの決心が必要だったような気がする。女の子たちは渡そうか、渡すまいか、悩みに悩んで、「どうしたらいい?」と、わたしにもイヤになるほど聞いてきた(たいてい、「やりたいようにしたら?」としか言わなかったのだが)。当日になっても決心がつかないそうした女の子に、「ひとりで行けないからついて来て」と頼まれ、「鈴木君、渡辺さんが話があるんだって」と呼び出しまでさせられたものだった。

ところがそれだけ思い煩った結果、どうなったかといえば、ほとんどの場合、どうにもならないのだった。女の子のほうも、渡してしまえば、達成感があったのか、それで気が済んだようなところもあったのではないだろうか。それが証拠に、あれほど悩んでいた女の子たちが、終わってしまえば憑き物が落ちたがごとく、当の男の子の名前さえ口にしなくなる、ということもよくあったのだ。

そうした流れが徐々に変わってくるのが、中三ぐらいからではなかったか。
それまでヴァレンタインなんていやがっている、とばかり思っていた男の子たちが、その年頃になると、朝から妙にソワソワし、用もないのに放課後まで教室に残っていたりして、「今年はナシかなー」などと女子のほうにチラチラと物欲しげな視線を送ってくるのである。

わたしは、なるほど、と思った。
そういえば、中一の頃はフォークダンスで女の子と手をつなぐのを恥ずかしがって、終わると逃げだすようにその場から離れていた男の子たちが、このあいだの文化祭のあとでは、もっと踊りたい、と言っていたっけ。
こうやってみんな大人になっていくのだな、と、しみじみ思ったのだった(相変わらず、自分もその一員であるという自覚はなかったのだが)。

この頃から徐々に「つきあっている」と言われるカップルも誕生し始めたのだった。「つきあう」と言ったところで、せいぜいが一緒に帰るぐらいだったのだけれど。

さて、人の話ばかりでなく、自分のことも書いておこう。

わたしが生まれて初めてチョコレートをあげたのは、中学二年の時である。
ただ、これをヴァレンタイン・チョコと言っていいのかどうなのか、多少疑問があるのだが。

この年は自分たちの教室の他に、美術室の掃除をすることになっていた。
三学期に入って、美術室の掃除当番がまわってきたとき、部屋にはいると石膏デッサンをしている上級生がいた。邪魔にならないよう、立っている場所や石膏像が置いてある棚を避けて、わたしたちは静かに掃除をした。うわさ話を聞きこんでくるのが早い女の子が、あの人は今度美大を受ける人だ、だからここで昼休みと放課後、そのための準備をしているのだ、と教えてくれた。

イーゼルにクリップで留めてあるデッサンは、もうずいぶん描きこんであって、これ以上線を加えるところもなさそうなのに、それでも毎日石膏像を睨んでは、少しずつ手を入れていく。こちらも毎日見ているうちに、線が加わったり、消されたりする部分に気がついた。
そうなるとおもしろくなって、自分の掃除当番が終わっても、見に行くようになった。

放課後、カバンを持って、美術教室の後ろから入っていく。
前の方で描いている上級生の邪魔にならないように、一番後ろの席にそっと腰をおろす。

それまで絵といえば、美術の授業で描かされるものでしかなかった。最初のうちはおもしろくても、ちっともイメージ通りには描けないし、気に入った色も出ない。そうしているうちに飽きてきて、どうでもよくなって投げ出してしまう。自分では、そんな絵しか描いたことがなかった。
なのに、その上級生は毎日毎日、どう考えてもおもしろみのある題材とは思えない石膏像を相手に、少しずつ線を足し、引いていく。日を重ねるうち、デッサンは少しずつ奥行きを増し、質感を加えていく。絵というのはこういうものなのか、と思った。

一月も終わろうとする頃、いつものように絵を見に行くと、その上級生がイーゼルを畳んでいるところだった。明日から学校に来なくなるから、と言って、わたしにそのデッサンをくるくる丸めて「これ、あげるよ」とくれたのだ。

もうこれで終わりなんだ、と思うと、急に何かしなくては、という気になった。咄嗟にカバンのなかにチョコレートが入っていたのを思い出した。非常食ではないけれど、おなかが空いたときのために食べようと、ずいぶん前に買っておいてそれっきりになっていた、不二家ハートチョコレートである。たしか、80円かそこらだったような気がする。それを、「これ、お礼です」と言って、差し出したのだ。

「ヴァレンタインの代わり?」と言って、その上級生は受け取ってくれた。ああ、そうか、もうすぐヴァレンタインデーなのか、と言われて初めて気がついた。

結局その上級生の名前も聞かず終わってしまったのだったけれど、そのジョルジュ像のデッサンは、そのあとしばらく、わたしの部屋に貼っておいた。ときどき左隅のイニシャルは何の略なのだろう、と思いながら。

やがてわたしは電話帳で美術教室を探し、自分で何軒か回って、石膏デッサンを教えてくれるところを見つけ、親と交渉して、習いに行くようになる。

ときに、「××を始めたきっかけは?」「△△が好きになったきっかけは?」という類の質問があるが、わたしはこれは相当な愚問ではあるまいか、と秘かに思っている。

少なくとも自分に関しては、百パーセント、それが言える。たいてい何かを始めたきっかけ、というのは、かくのごとく、くだらないものなのである。問題は、始めたことではなく、たとえくだらない理由から始めたとしても、その後、投げ出してしまうことなく十年、二十年続けてきたものであって、そういうことに関しては、ふりかえってみるに、続けてきた必然性のようなものが必ずある。自分のなかに、その必然性を形成することになる、重要な出会いがあったり、導き手にめぐり逢っていたり。

だから、どうせ聞くのだったら、きっかけではなく、なぜそれを続けてきたのか、を聞いたほうが、おもしろい話が聞けるんじゃないだろうか。

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その3.17歳のころ

この話はどれもわたしが高校二年のときのことだ。

ヴァレンタイン・デーも近いころ、ホームルームの時間を利用して、女子が男子にチョコレートを贈るヴァレンタインの会を開こう、と計画した女の子たちがいた。

「本命」にはヴァレンタイン・デーの当日に贈ればいい。そうではなくて、クラスメイトとして贈るのだ、という。つまりは義理チョコ大会のようなもので、五百円くらいのチョコレートに、ちょっとしたカードを添えて渡しましょう、と。贈りたい相手が重なったときは、交渉が必要だけど。

なんでそんなバカバカしいことをしなくてはならないのだ、とわたしは腹が立った。
「お好きなように。だけどわたしは出ないからね」と返事をしたら、えらく揉めた。クラスの和を乱す、とか、全員参加じゃなきゃ、ホームルームの時間は使えない、とかなんとか、およそくだらないことをさんざん言われたのだが、結局わたしが折れたのは、首謀者の女の子たちに屈したのではなく、そのころ仲が良かったひとみちゃん(仮名)という子が、こんなことを言ったからだった。

「わたしはこんな機会でもなきゃ××君にチョコなんて渡せない。だから、わたしはそれを楽しみにしてるの。どうしてもやってもらいたいし、* *(わたしのこと)にも参加してほしい。みんな、* *みたいに強い人間ばっかりじゃないんだよ」

わたしは自分が「強い」と言われて、とんでもない、と言いたかったけれど(自分の弱さは自分が一番良く知っていたし、当時そのことでどれほどやりきれない思いをしていただろう)、同時に、そのころ読んだばかりの『グレート・ギャツビー』のこんな一節を思い出したのだった。

「ひとを批判したいような気持が起きた場合にはだな」と父は言うのである。「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思いだしてみるのだ」

 (スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』野崎孝訳 新潮文庫)

だからわたしは首謀者の青木さん(仮名)のためではなく、また「クラスの和」のためでもなく、ひとみちゃんのために参加することにした。

だれでもいい、と希望を出さずにいたら、くじ引きである男の子が当たった。高校から編入してきたおとなしい彼とは、わたしはほとんど話さえしたことがない。書きようがないので、ヴァレンタインをネタに短い笑い話を三本ほど書いて、カードの代わりにした。

ところが当日、驚いたことに、企画者の女の子たちがカードを読み上げて渡すのだ。
「バスケをやっているところはとってもステキです。これからもがんばってください。これはだれに宛てたものでしょう? ……吉田君(仮名)です」
ここでみんな拍手する。
こんなことを「気分が悪くなるほどバカバカしい茶番」と思う自分は、恵まれているのだろうか。恵まれているから、「茶番」と思えるのだろうか。
ギャツビーの一節を思い出しながら、わたしはじっと耐えた。

まもなくひとみちゃんの書いたカードが読み上げられた。
高校からこの学校に編入してきて、いろいろなことがわからなくてとまどっているときに親切にしてもらった去年のこと、今年も同じクラスになることができて、とてもうれしかったこと、来年はおそらく文系理系で別れるだろうけれど、いつまでも友だちでいてほしい……。

心情のこもった、いい手紙だった。わたしのカードが読み上げられたときは、みんなの笑いを誘ったけれど、どう考えても相手の子には似つかわしいものではない。いくら乗り気ではなかったとはいえ、相手には関係がないことだ。申し訳ないことをした、と思い、どうしてひとみちゃんのようなことが書けなかったのだろう、と思った。 もちろん、ひとみちゃんの気持ちと、わたしのそれとではずいぶん違いがある。けれど、それ以前に、わたしが書くものは、どれも地に足がついていない、相手も見ていない、どこか上の空のものなんじゃないだろうか。
ここには、当時を振り返った現在のわたしの感慨が相当混じっているのかもしれない。けれど、そのときから言葉にはできないけれど、漠然とそうしたことを感じていたような気がする。感じてはいても、もういちどそのことは繰り返すことになるのだけれど。

ところで、この話には後日談がある。

首謀者の青木さんには同じクラスに「彼氏」がいて、もちろんみんなそのことは知っていた。わたしも青木さんはこの「彼氏」に渡したのだろうとばかり思っていた。ところが青木さんは別の、去年までつきあっていた男の子に渡したのだという。そもそもこんなことを企画したのも、その「元彼」に、「別れたけれど、まだスキ」という意思表示をして気を引くためだった、というのだ。
そういえば、詩もどきのつまんない文章を、思い入れたっぷりに読み上げてたっけ。あれは自分で書いたものだったのか。

じゃ、今の「彼氏」には誰があげたの? とわたしが聞くと、ひとみちゃんは青木さんの腰巾着の名前をあげた。
「いったいなんでそんなことするのよ?」
「だって、あの子も彼が好きだからよ。あの子がいつも青木さんと一緒にいるのも、そうしたらちょっとでも話ができるから」
「わからない。もう、全然わからない。気持ワルイ。そういうの、理解できない」
「知らなかったのは* *だけ。みんな知ってたよ」
「じゃ、なんで教えてくれなかったの」
「だって教えたら、* *は絶対やだ、出ない、って言うでしょ? だから黙ってた」
それからひとみちゃんは哀れむような眼で付け加えた。
「* *って、ときどき、すごーく幼いんじゃないか、って思う」

ついこのあいだまで、周囲を子供だと思っていたわたしは、気がつけば逆に「子供」だと思われるようになっていたのだった……。

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いよいよヴァレンタイン・デーが近づいたある日、姉が突然、今年は「手作りチョコレート」にする、と言い出した。

わたしは昔からこの「手作り」という表現には、たいそう疑問があった。チョコレートを作るわけではない。チョコレートを湯煎にして別の型に流し込むだけではないか。それを「手作り」と称するのは、誇大表現もいいところである。

どうせ作るのなら、もっとちがうもののほうがいいよ、ブラウニーを作ろうよ、とわたしが図書館でレシピを探してきて、一緒に作ることにした。

溶かしたチョコレートに小麦粉と卵とつぶしたマカダミアナッツを加えてオーブンで焼く。焼き上がりを試食してみると、クッキーとケーキの中間ほどの食感で、初めて作ったとは思えないぐらいおいしい。見栄えはちょっと、ではあったけれど、まずまずの仕上がりだった。

ところが本に書いてある分量通り作ったら、ずいぶんたくさんできてしまった。きれいなところを選んで姉の彼氏用にラッピングしても、まだまだ残ってしまう。そこで父親と弟にもあげることにしたが、それでも余ったのだ。

そのうち、わたしも力を貸したことだし(というか、姉がやったのは、小麦粉をふるっただけで、あとはずっとわたしにやらせたのだ)、せっかくのヴァレンタインだし、わたしもだれかにあげようかな、という気になった。

さて、誰にあげよう、と考えて、図書館にもおいてない個人全集を貸してくれていた国語の先生を思いだした。そうだそうだ、××先生がいた。××先生にあげよう。

箱に入れてラッピングし、手紙を書いた。
『グレート・ギャツビー』のデイジーが住む対岸の灯を見ながら、ギャツビーが身を震わせるシーンを引用しながら、いろんなことを書いた。そのうち、なんというか、すっかり気分が出てしまい、やたらと感傷的なことを書いたのだと思う。

いま考えると、顔から火が出る思いだけれど、そのときは自分の書いた文章にすっかり酔って、いい気持ちでブラウニーの箱と一緒に袋に入れた。

翌日、颯爽と先生に渡しに行った。

ところが数日後、担任に呼ばれた。
「おまえなぁ、どのくらい本気だ?」
「へ?」
「××先生が言ってたぞ。嫁も子供も捨てるわけにはいかないからなぁ、って」
「へ??」
担任からは怒られはしなかったけれど、自分が責任を取れないようなことは書いてはいけない、と懇々と諭された。

わたしはそれまで書くことは好きだったけれど、自分の書いたものに読み手がいる、ということを考えたことがなかったのだ。おもしろがって、友だちのラブレターの代筆をしたこともあった。けれども、それを読む人間のことは考えたことがなかった。読み手のことなどいっさい眼中になく、ただおもしろいもの、自分が書きたいことを書いていただけだった。

自分が書いたものは、自分から離れて読み手のところへ届く。そうして、それは、たとえどれほどつたないものであろうと、こちらの意図とは無関係に、読み手に何らかの影響を及ぼさずにはいないのだ、と。
わたしが読み手の存在を意識するようになった原点には、このときの恥ずかしい経験がある。

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その年の三月、わたしたちが「川越のおばさん」と呼んでいた人が亡くなった。

直接の血縁はないのだが、親戚筋にはあたり、六十代のこの人が、学校に在職していた最後のころ、姉が習ったという関係もあった。
退職後は近所の子供を相手に、自宅で小さな塾を開き、ひとりで暮らしている人だった。

そのおばさんのお葬式に、学校があるわたしはいかなかったのだけれど、準備も含め、数日そちらに行っていた姉は、帰ってくると、話したくてたまらない、といった調子でこんな話を教えてくれた。

お葬式のときに、お悔やみを言いに来たひとりの男性が、式が終わってから、遺品を少し分けてもらえないか、と申し出たのだという。後日連絡する、ということで、住所と名前を控えておいたところ、そのおばさんの部屋から、差出人がその名前の手紙がたくさん出てきた。

引き出しには何年分もの手帳もあって、日記形式のその手帳の左半分には、授業や来訪者の記録、右半分には暗号めいた時間の記録。どうやら電話や会ったときの記録らしい、と姉は言うのだった。

おばさんは、ほんの数日のつもりで入院したところ、そのまま帰らぬ人となったのだとか。だからおそらく、そんなものもそのままになっていたのだ、と姉は言った。そうした手紙や手帳をまとめて、「遺品」としてその男性に返すのだ、と。

おばさんには、そういうだれも知らない生活があったのだ。
てっきり小説のなかでだけだろう、と思っていた話が、身近で起こったことにすっかり興奮したわたしたちは、相手のことをいろいろ想像したり、実際のところどういう関係だったのか、あれこれ言い合ったりした。ギャツビーとデイジーみたいなものじゃなかったのかな。立場は逆だけど。本のデイジーは、軽薄な女だけど、おばさんはそうじゃなかった。だから長く続いたんじゃないかな。

「わたしもそんなふうに、たとえどうにもならなくても、ひとりの人をずっと思うっていうのがいいな」
とわたしが言うと
「何言ってんのよ、うまくいくほうがいいに決まってるじゃん」と姉にこづかれた。

「おばさんの部屋にバラのドライフラワーがあったの。あれ、その人から贈られたものかもしれない」
まだ「ホワイトデー」も一般化する前だったが、一ヶ月後の三月十四日にはちゃっかりお返しのクッキーをもらった姉は、わたしに少しだけ分け前を寄越しながらそう言うのだった。
「ああ、こんなクッキーより、バラのほうが良かったなぁ」

なんとなく、わたしには絶対、バラを贈ってくれるような人は現れないだろう、という確信めいたものをそのとき感じたのを、いまでもはっきり覚えている。人には向き不向きというものがあるように、わたしには絶対にバラは似合わない……。

残念ながらこの確信は当たったようだ。

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My Funny Valentine

わたしのおかしなヴァレンタイン
かわいくて、おかしなヴァレンタイン
あなたのおかげで、自然に笑顔になってしまう
笑っちゃうような顔は写真向きではないけれど
わたしには最高の美術品

姿形はギリシャ彫刻とは言えないんじゃないかしら?
口元はちょっと弱々しい?
その口から出てくる言葉は、気がきいてる、って言えるかな?

でも、わたしのために髪型なんて変えないで
わたしのことを思ってくれるなら、そんなことしないで
そのままでいて、わたしのかわいいヴァレンタイン
あなたがいるだけで、毎日がヴァレンタイン・デーだから



初出Jan.28-30 2006 改訂Jan.31 2006


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