入れ札と云う声を聴いたとき、九郎助は悪いことになったなあと思った。今まで、表面だけはともかくも保って来た自分の位置が、露骨に崩されるのだと思うと、彼は厭な気がした。十一人居る乾児の中で自分に入れてくれそうな人間を考えて見た。が、それは弥助の他には思い当たらなかった。
(菊池寛『入れ札』『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』所収 新潮文庫)
そこで、九郎助は自分に入れる。
ところが、九郎助には、自分が入れた一票しか入らなかった。九郎助は選に漏れたのである。
仲間から離れてひとり落ちる九郎助のあとを、弥助がついてくる。
「俺あ、今日の入れ札には、最初(はな)から厭だった。親分も親分だ! 餓鬼の時から一緒に育ったお前を連れて行くと云わねえ法はねえ。浅や喜蔵は、いくら腕節や、才覚があっても、云わば、お前に比べればホンの小僧っ子だ。たとい、入れ札にするにしたところが、野郎達が、お前を入れねえと云うことはありゃしねえ。十一人の中(うち)でお前の名をかいたのは、この弥助一人だと思うと、俺ああいつ等の心根が、全くわからねえや」
…(略)…
柄を握りしめている九郎助の手が、だんだん緩んで来た。考えて見ると、弥助の嘘を咎めるのには、自分の恥ずかしさを打ちあけねばならない。
その上、自分に大嘘を吐いている弥助でさえ、自分があんな卑しい事をしたのだとは、夢にも思っていなければこそ、こんな白々しい嘘を吐くのだと思うと、九郎助は自分で自分が情けなくなって来た。口先だけの嘘を平気で云う弥助でさえ考え付かないほど、自分は卑しいのだと思うと、頭の上に輝いている晩春のお天道様が、一時に暗くなるような味気なさを味わった。
勝つか負けるかわからない。だから人は賭けるのだ。
負けたときは、潔く負けを認めること。潔く富を、賭け物を、あるいは地位を失うことを認めること。たとえ内心では穏やかではなくても、少なくとも表面だけでも平静なふうを装って、負けを受け入れる。それもまた賭ける人間のルールなのである。
それが守れない人間は、賭け事などしないほうがいい。
え? 賭けはやりたいけれど、負けるのはどうしてもいやだ? 勝てるときだけ、賭けをする、というわけにはいかないものだろうか、だって?
4.運は座して待つもの
もし、魔法が使えたらどうだろう。だいそれたことをしたいというのではない。ちょっとカードをいじって、望む手札に変えるだけでいい。
芥川龍之介の『魔術』は、そんな話だ。
主人公はインド人の魔術の大家から「欲を捨てること」と引き替えに、魔術を教わる。
そうして覚えた魔術を乞われるまま、友人の前で披露する。石炭を金貨に変えて見せたのだ。元の石炭に戻そうとすると、友人たちは抵抗し、「骨牌(ルビは「かるた」であるが、実際にはトランプ)」で勝負することになった。主人公が勝てば元通り、石炭に、友人が勝てば、その金貨は友人たちのものになる。
ですから私も仕方がなく、しばらくの間は友人たちを相手に、嫌々骨牌をしていました。が、どういうものか、その夜に限って、ふだんは格別骨牌上手でもない私が、嘘のようにどんどん勝つのです。するとまた妙なもので、始は気のりもしなかったのが、だんだん面白くなり始めて、ものの十分とたたない内に、いつか私は一切を忘れて、熱心に骨牌を引き始めました。
勝てば楽しくなる。捨てたはずの欲が、自分の内に興ってくる。
私はこの刹那に欲が出ました。テエブルの上に積んである、山のような金貨ばかりか、折角私が勝った金さえ、今度運悪く負けたが最後、皆相手の友人に取られてしまわなければなりません。のみならずこの勝負に勝ちさえすれば、私は向うの全財産を一度に手へ入れることが出来るのです。こんな時に使わなければどこに魔術などを教わった、苦心の甲斐があるのでしょう。そう思うと私は矢も楯もたまらなくなって、そっと魔術を使いながら、決闘でもするような勢いで、
「よろしい。まず君から引き給え。」
「九」
「王様」
どうやら人間に「魔術」が使えないのは(あるいは、仮にいたとしても? 極端に少ないのは)、どうやっても欲を捨てられないためであるらしい。
それでも一度だけなら。三枚だけ、絶対に勝てる手札を知っている人がいたら。
プーシキンの『スペードの女王』には、そんな人物が登場する。
堅実な近衛兵ゲルマンは、一同がトランプに興じていても、加わることはない。
ある日、賭けに興じる同僚のうちのひとり、トムスキイが、八十歳になる自分の祖母、伯爵夫人の話を始める。祖母は若い頃、錬金術師でもあったサン・ジェルマンに絶対に勝つトランプの手を教えてもらったのだ。そうして、破産しかかった自らを救い、巨万の富を得たのだけれど、以降トランプに手を出そうともしない、と。
ゲルマンは、伯爵夫人の下で身の回りの世話をしている若い女性、リザヴェータに近づき、屋敷に忍びこむことに成功する。そうして老いた伯爵夫人からその数字を聞き出そうと、ピストルで脅す。
怯えた郎伯爵夫人は、そのまま死んでしまった。
何食わぬ顔をして葬儀に出たあと、家に帰って眠りこんだゲルマンの夢のなかに伯爵夫人の霊が出てくる。
「今夜来たのは私の本意ではありません」と夫人は力のこもった声で言った。「おまえの望みをかなえてやれとの仰せです。『三(トロイカ)』、『七(セミヨルカ)』、『一(トウズ)』――この順で張れば勝ちです。ただひと夜さに一枚だけしか張ってはなりません。また勝った上は死ぬまで、二度とふたたび骨牌を手にしてはなりません。…」
言い終わると夫人は静かに身を返して、扉から姿を消した。
(アレクサンドル・プーシキン『スペードの女王』神西清訳 岩波文庫)
ゲルマンは、全財産をつぎ込んで、賭けをする。
「三」が出る。「七」が出る。そうして最後は……。
「おまえの望みをかなえてやれ」と、伯爵夫人の霊に告げたのは、いったい誰なのだろう? 伯爵夫人に数字を教えたサン・ジェルマン伯だったのだろうか。それとも、運命を左右することができるもの?
昔から、このパターンの話は数多い。グリム童話などでは、実際に悪魔や魔女と賭けをするものもあるが、運命を変えてやる、という「取引」を持ちかけられて、自分の人生を「賭け」ることになる物語がいくつもある。
そのヴァリエーションのひとつが古くはゲーテの『ファウスト』だろうし、あるいは怪奇物語になると、W.W.ジェイコブズの『猿の手』、モダンホラーであればスティーヴン・キングの『ニードフル・シングス』に見ることができる。
遊戯者が偶然を尊重しなくなれば、この(※偶然の遊び)堕落は始まる。すなわち、偶然を、個人を越えた中立の、感情も記憶ももたぬ力、運の配分をつかさどる法則の純粋に機械的な結果とは考えない場合である。
(『遊びと人間』)
多くの物語が教えてくれるのは、「運」はただ、座して待つもの、動かそうとしたり、その行方を知ろうとしてみたりしてはならない、ということだ。
わたしたちにはまったく手出しができないもの。うかがい知ることさえできないもの。
それならば、あろうがなかろうが、結局、わたしたちにとっては同じことではあるまいか。
それでも、わたしたちは「偶然」以上の、「運」のようなものを求めてしまう。そうしてどこかで「運」を左右する「悪魔」のような存在を、ばくぜんと思い描いてしまうのだ。
むしろ、ダールの『南から来た男』のおもしろさは、こうしたわたしたちの思いこみを逆手に取って、ひっくり返しているところにあるのかもしれない。
小指を取り上げようとする男は、禍々しい、悪魔じみた存在だ。しかし同時に、強い意志力を持つ妻の前では、小さくうなだれる一文無しの老人でしかないのだ。
ここで「恐しい」のはいったい誰なのだろう?
ほんとうに「賭博に打ちこむ人間たちの心」が恐ろしいのだろうか?
「賭け事」は「遊び」として、範囲が限定され、ルールがあり、審判がおり、不正は糾弾される。「賭け」ない自由も保障されている。
ところが日常生活は、範囲はなく、ルールは一応あるにはあるが、不正は平気で横行し、審判の目も万全ではない。しかも、わたしたちはそこから身を退くことができない。
それを考えると「賭博に打ちこむ人間たちの心」とは、むしろ日常生活に背を向け、遊びの世界から出てくるのをいやがる、「恐ろしい」というよりは「子供っぽい」人間なのではないか。
ということで、遊びの世界から外に出て、日常生活に戻ってみよう。
5.日常の中の「賭け」
もういちど『クージョ』から。
宝くじを引き当てたチャリティ・キャンパーのひとり息子は、鳶が鷹を産んだような、頭の良い男の子。だが自動車修理工の暴力夫は、そんな息子の資質に気がつきもしない。
チャリティは、なんとかして息子をこんな世界から抜けださせたい、と考えている。妹のホリーは、夫のジムがロー・スクールに進学したことで、ホワイト・カラーの仲間入りをした。息子にはできればホリーの夫のように大学に進学してホワイトカラーの一員になってほしい。そう思って、チャリティは宝くじの賞金で、妹の住むコネティカットに行くのだ。
ゆうべ、ホリーはチャリティに、これはいくら、あれはいくらと、ビュイック・フォー・ドアや、ソニーのカラー・テレビや、廊下の寄せ木細工を自慢した。ホリーの心のなかでは、いまだにそれらの品物に眼に見えない正札がついているかのようだった。
それでもチャリティは妹が好きだった。ホリーは気前がよく、親切で、衝動的で、愛情深く、心優しかった。しかし彼女はその生き方のせいで、自分とチャリティがメイン州の田舎で貧しい少女時代を送ったという冷厳な事実、そのためにチャリティはジョー・キャンパーと結婚せざるをえなかったが、自分のほうはまったくの幸運のおかげで――チャリティが宝くじに当ったのと本質的な違いはなかった――ジムと出会い、貧しい生活と永久におさらばすることができたという事実から、目をそらすことを強いられていた。
(『クージョ』)
遊びとしての「賭け事」の世界では、参加者は全員平等だが、日常生活のなかの人間は、平等でもなんでもない。生まれた国、地域、家柄、財産、家庭環境、持って生まれた資質、こうしたものはその人間の運命を大きく左右する。
学校では、努力すれば、だれでもスキルをあげていけば、輝かしい未来が、そこまでいかなくても、まずまずのポジションが手に入るというけれど、ほんとうにそうなのだろうか。アフリカの紛争地帯に生まれ落ちてしまえば、そこから抜けだすことはおろか、成人するだけで大変な困難を伴う。
だれもが生まれたときに配られた手札でゲームをやっていくしかない。
そこからスキルを身につけ、能力を発揮することで、多少条件を好転させることはできても、完全に脱出することは不可能に近い。
そうやって営々たる努力を続け、あらゆるリスクは排除しながら確保したささやかな地位を守る、という生き方もある。
ロバート・コーミアの『チョコレート・ウォー』の主人公ジェリーは十四歳。この春、母親を亡くし、薬剤師の父親と二人暮らしである。この父親が、まさにそんな生き方をしているのだ。
「ねえ、パパ」
「なんだい、ジェリー」
「きょう、薬局ではほんとにいつもどおりだったの?」
父親はキッチンの戸口で立ちどまり、けげんそうな顔になった。「どういうことだい、ジェリー?」
「つまりさ、ぼくが毎日、きょうはどうだったってきくと、パパは毎日、まあまあって答えるじゃない。すばらしい日とか、不愉快な日とかってないの?」
「薬局っていうのは、あまり変化がないものなんだよ、処方箋を受けとって、その処方箋どおりに薬を調合する――それだけのことさ。前もってよく調べ、ダブル・チェックしながら慎重に調合するんだ。医者の手書きの処方箋に関する噂はほんとうだけど、その話は前にしただろ」
父親は眉をひそめて記憶をたどり、必死になって息子がよろこびそうな話題を見つけだそうとしていた。
「三年前に強盗未遂事件があったな――麻薬常習者が野蛮人みたいに薬局にとびこんできたんだ」
ジェリーは、ショックと失望をなんとか顔にだすまいとした。
それが父親をいちばん興奮させた事件なのだろうか? おもちゃのピストルをふりかざした若者がひきおこした、あわれな強盗未遂が? 人生ってそんなにおもしろくないもので、退屈でありふれたものなんだろうか?
自分のこれからの人生がそんなものかと思うと耐えられなかった。まあまあの昼と夜が延々とつづいていく。まあまあ――よくも悪くもなく、すばらしくもまずくもなく、興奮もせず、なんてことない人生。
(ロバート・コーミア『チョコレート・ウォー』北澤和彦訳 扶桑社ミステリー)
確かに入試や恋愛、あるいは結婚、就職、そうしたいくつかのイヴェントでは、だれもがある程度は「賭け」、大辞林がいう「(2)運を天に任せて思い切ってやってみること」を強いられる。
だがそうしたイヴェントや、劇的な出来事がなければ、人は賭けることもなく、「まあまあ」の日々を送るしかないのだろうか。
TVでは、さまざまなことに賭けている人々の映像が映し出される。
司会者に煽られて、それまでに得た賞金を賭け、さらなるクイズに挑戦する人。
ワールドカップに出場して世界の強豪と闘う日本選手。
それを見る人々は、賭けている彼らと一体となって、ドキドキしたり、応援したりする。彼らは自分たちの「代わり」なのだ。
自分たちの代わりに賭けている人々を、安全なところから見て楽しみ、「まあまあ」の日を送る。ときにこんなふうに思うかもしれない。
メイコンは、考えてみると、今まで自分から何かの行動を取ったことはあまりないような気がした。いや、ほんとうのところは一度もなかったのではないだろうか。結婚も、転職も、ミュリエルとのことも、サラのもとへ戻ったことも――みな自分に降りかかってきたことのような気がした。自発的に行動し、何かをなしえたことは今まで一度もなかったような気がした。
しかし、今からそんなことをするのはもう遅すぎるだろうか?
(アン・タイラー『アクシデンタル・ツーリスト』田口俊樹訳 早川書房)
『チョコレート・ウォー』での薬剤師の父親同様、メイコンも一切の「賭け」を排除して生きている。あらゆることを前もって予想して、災厄を避ける選択をしてきた。言葉を換えれば、「運命」を予測しつつ、賭けをしなくてすむ選択を積み重ねてきた、とも言えるのだ。
にもかかわらず、メイコンのひとり息子イーサンは、まったくの偶然から命を失ってしまう。
人は「運命」を知ることも、操ることもできないのだ。たとえ賭けをどれだけ避けようとしても。日々続いていく賭けは、そこからおりることができない。どれだけリスクを避けようとしても、完全に逃れることはできない。
そうして生まれて初めて、意識的に賭けをしたメイコンは、気がつく。
メイコンは窓の外を眺めながら、自分の心の中をのぞいた。心が逸っていた。ほんとうの冒険とは時の流れだ、と彼は思った。それ以上の冒険はない。
わたしたちは未来を知ることはできない。
こうしたからこうなった、と、過去のできごとから因果関係をとりだして、それをまだ起きてはいないことがらに当てはめて、予測することはできる。けれども、それがほんとうにその通りになるかどうかはわからない。
その意味で、あらゆる行動は、行動をしないことまでも含めて、一種の賭けにほかならないのだ。
日常的な多くの行動、ささやかな選択は、賭けなどとは無縁のものに思える。
日々、わたしたちがさまざまな人と交わす会話のほとんども、薬剤師の父親のように「まあまあ」のもの、事務的な必要最低限のコミュニケーションで、決まり切った、ときに聞き手をうんざりさせるようなものなのかもしれない。
けれどもそれさえも、「賭け」なのではあるまいか。
とくに意識することもなく、なんとなく始まり、なんとなく終わる会話であっても、「わたし」と「あなた」のあいだには、その場かぎりのなにかが生まれている。それはのちのち記憶されるようなものではないかもしれない。それでも、なんとなく楽しかった、つまらなかった、厭な感じだった、そういう印象は、わたしたちのなかに刻まれていく。
そうしてこの「その場かぎりのなにか」は、片方がどうかしようと思ってもどうなるものでもないし、前に楽しかったから、もういちどそんな場を持とう、と思っても、またふたたび生まれるかどうかはわからない。
どうなるかわからないけれど、とりあえずやってみて、うまくいくときもあれば、いかないときもある。そういう意味で、やはり「賭け」なのである。
さらには、自分の言葉がこの関係をこわすかもしれない、そんな危険をはらみつつ選ばれた言葉。
あるいは、自分の内をさぐって、どうしても理解して欲しい、と願った言葉。
それが、失敗をすり抜けて、思い通りに相手に伝わった。理解して欲しい、と願ったように、相手は理解してくれた。
通じ合えた、という喜び。
相手とその話題をめぐって、ひとつになった、という喜び。
これは、高額の宝くじに当たったのに匹敵する、もしかしたらそれ以上のうれしさである。
わたしたちは気がつかないうちに、遊びの世界で繰り広げられる「賭け事」以上の、そこから逃げることができない、という意味で、はるかにシビアな賭けを、日々、繰りかえしているともいえる。そこに審判はいないし、はっきりとした決着がつくわけでもないために、そのことに気がついていないだけなのだ。
さて、シビアな現実の賭けの世界に生きるわたしたちは、遊びとしての「賭け事」にどう向かい合っていけばよいのか考えてみよう。
6.「賭ける」ことに賭けてみる
ドストエフスキーの中編小説に『賭博者』という作品がある。一時期、賭博にのめりこんだ自らの経験をもとに、ドストエフスキーは、賭け事に夢中になり、徐々に損なわれていく青年の姿を描いた。
ドイツの観光地に滞在する将軍の子供たちの家庭教師をしているロシア人の青年は、恋人にそそのかされて、賭博場に足を踏み入れることになる。
わたしがルーレットにそれほど多くのものを期待していることが、いかに滑稽であろうと、勝負に何かを期待するなぞ愚かでばかげているという、だれもに認められている旧弊な意見のほうが、いっそう滑稽なような気がする。それになぜ勝負事のほうが、どんなものにせよ他の金儲けの方法、たとえば、まあ、商売などより劣っているのだろう。勝つのは百人に一人、というのは本当だ。しかし、そんなことがわたしの知ったことだろうか。
ドストエフスキー『賭博者』原卓也訳 新潮文庫)
自分の運命を知ろうとしてルーレットに向かう主人公は、恋人のために賭け、元金を八倍にしてそれを渡す。こうして徐々に、ルーレットにのめりこんでいく。
わたしは勝った――そして、また全額賭けた。前の分も、今の儲けも。
「三十一!(トラント・エ・タン)」ディーラーが叫んだ。また、勝ちだ! つまり、全部で八十フリードリヒ・ドルである! わたしは八十フリードリヒ・ドルを全額、真ん中の十二の数字に賭けた――円盤がまわりはじめ、二十四が出た。わたしの前に、五十フリードリヒ・ドルずつの包みが三つと、金貨が十枚、積み上げられた。前の分と合わせて、わたしの手もとに、総額二百フリードリヒ・ドルできていた。
わたしは熱病にうかされたように、その金の山をそっくり赤に賭け、突然われに返った! そして、その晩を通じて、全勝負を通じてたった一度だけ、恐怖が寒さとなって背筋を走りぬけ、手足にふるえがきた。わたしは、今負けることがわたしにとって何を意味するかを、恐怖とともに感じ、一瞬にして意識した! この賭けにわたしの全生命がかかっていた!
こうして主人公は巨額の金を手に入れるが、やがてそれもパリで蕩尽してしまう。
ふたたび金を手に入れようとヨーロッパ各地の賭博場をまわるが、もはや幸運は訪れない。やがて債務のために刑務所にまで入る羽目になる。
それでも主人公は賭博場から離れられない。
かつての友人は、再会した主人公にこう尋ねる。
「……どうなんです、あなたは博打をやめるつもりはないんですか?」
「ああ、あんなもの! すぐにでもやめますよ、ただ……」
「ただ、これから負けを取り返したい、というんでしょう? てっきりそうだと思ってましたよ。しまいまで言わなくとも結構です。わかっているんですから。うっかり言ったってことは、つまり、本音を吐いたってことですよ。どうなんです、あなたは博打以外には何もやってないんですか?」
「ええ、何も……」 …(略)…
「あなたは感受性を失くしちまいましたね」彼が指摘した。「あなたは人生や、自分自身の利害や社会的利害、市民として人間としての義務や、友人たちなどを(あなたにもやはり友人はいたんですよ)放棄したばかりでなく、勝負の儲け以外のいかなる目的をも放棄しただけでなく、自分の思い出さえ放棄してしまったんです。わたしは、人生の燃えるような強烈な瞬間のあなたをおぼえていますよ。でも、あのころの最良の印象なぞすっかり忘れてしまったと、わたしは確信しています。あなたの夢や、今のあなたの最も切実な欲求は、偶数、奇数、赤、黒、真ん中の十二、などといったものより先には進まないんだ、わたしはそう確信しています!」
賭け事は、予想して金を賭け、結果がでるまでのあいだ、「全生命がかかっていた」と感じるほどの怖ろしいほどの緊張感をもたらす。そうして勝ったときの眩暈がするほどの陶酔。
だからこそ、そこまで人は夢中になるのだ。
事実、『賭博者』の主人公のように、賭け事で身を持ち崩す人も、相当数いるのだろう。
けれども先にも見てきたように、「賭け事」そのものが、ほんとうは恐ろしいものではない。むしろ、限定され、規則があり、審判がおり、賭け金さえ払えば「行動の責任」を問われることもない、という意味で、実は日常生活のほうがはるかに厳しいものなのである。
自分の欲望を抑えて、勤勉に働くこと。そうして、その労働で得た生産物や賃金は、自分の欲望のままに消費することなく貯蓄すること。
こういう考え方を「正しいもの」とするならば、「賭け事」というより、遊ぶこと自体が「正しくない」こと、となってしまう。
だが、わたしたちは仕事をする一方で、「遊びをせんとや生れけむ」という存在ではなかったのだろうか。
なるほど賭博者は運に自らを委ねるが、それでも、結局どこまで委ねるかは自分できめるのだ。 …(略)…
どういう人を立派な遊戯者と言うのか。それは、次のことの分かっている人だ。不測の事態を、好んで求めたとは言わずとも、進んで受け入れてきたのだから、不運に文句をいったり、不幸を嘆いたりする権利は自分にはない、ということの分かっている人である。立派な遊戯者とは、一言でいえば心の平静を保って遊びの領域と生活の領域とを取り違えない人のことである。たとえ負けても、自分にとって遊びは遊びだ、という態度のとれる人のことだ。
(『遊びと人間』)
カイヨワの言う「立派な遊戯者」であることは、決して簡単ではない。それでも、互いに平等ではなく、曖昧で、不正が横行し、審判もおらず、なおかつ退くこともできず、失敗すれば厳しく責任を問われる日常生活の「賭け」のなかで、立派な「賭け」する人であるよりは、「立派な遊戯者」となるほうがまだしもたやすいことなのかもしれない。
少なくとも、「立派な遊戯者」であろうとしない人間には、日々の賭けを「立派に」やりとげることなどはできないだろう。
賭ける。
大昔から人間が続けてきた営みのひとつだ。
そこで何を賭け、何を得ることができるかは、あなたしだい。
ひとつ、何か賭けてみませんか。