「賭け」する人々

サイコロ


ロアルド・ダールの「南から来た男」という短編小説は、ライターに火がつくかどうかをめぐって賭けをする話だ。
賭けを持ちかける男の狙いがあきらかになるあたりから、話は一気に奇怪な様相を帯びてくるのだけれど、コーヒーや昼食を賭けてやるちょっとした「賭け事」は、ごく日常的な娯楽のひとつだろう。
明日の天気、サッカーの勝ち負け、野球のペナントレースの行方。つぎに角を曲がってやってくるのは男か女か、わたしたちのまわりには「賭けの種」には事欠かない。

わたしたちはなぜ賭けをするのだろう。

先にも挙げたダールの短編が所収されている『あなたに似た人』(ハヤカワ文庫)のあとがきには、都築道夫のこんな言葉が紹介されている。

ダールはおおざっぱに言って、ふたつのテーマしかあつかわない。賭博に打ちこむ人間たちの心の恐ろしさ。それと人間の想像力の恐ろしさ。

「賭け」をする人間は怖ろしいのだろうか。
それとも、どこかに「分水嶺」のようなものがあって、そこを越えて「打ちこむ」と「怖ろしい」領域に入ってしまうのだろうか。

怖ろしい「賭け」というと、思い出すのがずいぶん前に訳したシャーリー・ジャクスンの「くじ」だ。あれは村中総出でくじ引きをする、という話だった。
村の広場でひとりずつくじをひく。それは一種の賭けと言えるだろう。負けるのは、たったひとり。スケープゴートを選び出すためのくじなのだ。

なぜそんなことが行われるのだろう。だれがそんな賭けを考え出したのだろう。

わたしは競馬も競輪も、麻雀もパチンコもしない。友だちと賭けることもない。だから「賭け」とは無関係。

ちょっと待って。
ほんとうにそうだと言えるんだろうか。
たとえギャンブルをしない人でも、つぎの交差点の信号を青のうちに渡れたら、あのカバンを買うことにしよう、といった具合に、自分自身の胸のなかでひそかに賭けをすることもあるのではないか。

あるいは、TVのクイズ番組。
問題が出され、賞金をねらって、回答者が答える。
あれは一種の賭けではないのだろうか。
なぜ、TVではクイズ番組が放映されるのだろう。
見ず知らずの人なのに、賞金の額があがっていくたびに、つい、ドキドキしてしまうのはなぜなのだろう。

好きな人ができる。
いまのままでもいいけれど、もうちょっと距離を縮めたい。
話も合うし、向こうも自分のことがそんなにキライじゃないはずだ。
思い切って告白してみようか。いや、それよりも、いまのままで十分いい関係なのだから、このままもう少し様子を見ようか。
こういうとき、「告白する」にしても「様子を見る」にしても、一種の「賭け」とはいえないだろうか。

あるいは、入学試験。
あるいは、会社選び。
あるいは、結婚。

生きて行こうと思えば、選択はついてまわる。
そういうとき、わたしたちは一種の「賭け」をしているのではないのだろうか。
それとも、そういう「賭け」と「賭け事」は、またちがうものなのだろうか。

ギャンブル以外にも、ごく身近に「賭け」はあふれている。
なんでわたしたちはいろんなことを「賭け」てしまうんだろう。
さまざまな小説に描かれた「賭け」を通して、そのことを考えてみたい。


1.運試し


まず、「賭け」を辞書で引いてみると、つぎのふたつの定義が出てくる。

(1)勝負事などで金品を出し合い、勝者がその金品を取ること。賭け事。
(2)運を天に任せて思い切ってやってみること。

(「大辞林 第二版」より)

このように「賭け事」とお金は切っても切れない関係がある。
よく「博打で身を持ち崩す」という言い方をするが、これは「賭場に入り浸って悪い空気を吸って病気になってしまった」という意味ではなく、「賭け事に夢中になったあげく、全財産を費やした、さらには借金まで作ってしまった」という意味だ。
賭け事がよくない、という考えを持つ人は、おもにこうした側面を批判する。

人間の遊びを「競争」「模擬」「眩暈」「偶然」の四つに分けたカイヨワは、「偶然の遊び」に「賭け事」を分類する。そうしてこの「偶然の遊び」は、ほかの動物には見ることのできない「すぐれて人間的な遊びである」という。

運命の決定を受動的、意志的に待つ態度、損をするときもあればそれ相応に儲けの時もあるとして自分の富を賭ける態度をとるには、予見し、想像し、そして投機できる能力がいる。これは客観的で数理に明るい熟慮にのみ可能なことである。子供の場合、偶然の遊びが大人の場合ほどの重要性をもたないのは、おそらく子供が動物に近いということにもとづいているのであろう。子供にとっては、遊ぶことは行動することだ。それに、経済的な独立がなく、自分のものといえる金も持っていないので、子供には偶然の遊びの、何が肝心の魅力なのかわからないのだ。この遊びは子供をぞくっとさせる魅力をもたない。ビー玉は、なるほど子供にとって一種の貨幣である。しかし彼はそれをもうけるため、幸運ではなく技を頼りとしている。

(ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学術文庫)

「賭け事」という遊びの「ぞくっと」する魅力は「富を賭ける」という点にある、という。
自分の富を賭けたあとは、「自らの資質、能力、あるいは、自己の技量、筋肉、知性といった手段を用いない」(引用同)で、あとはただひたすらに運命を待つ。
それが「賭け事」という遊びなのだ。
勝つときもあれば、負けるときもある。その運は万人に平等だ。
シャーリー・ジャクスンの「くじ」でも、「くじびき」という手段が選ばれたのは、あくまでも公平で、運命の前にはだれもが平等だからだ。
だれもが当たる可能性が同じだけあるから、興奮する。そこで手に入れるのは、運命が自分に味方してくれた、という感覚だ。自分には「つき」がある。

バーバラ・キングソルバーの小説『天国の豚』には、こんな場面がある。
若い白人女性であるテイラーとその養女、チェロキーインディアンのタートル(このふたりについては「ものを食べる話」の“4.天国での食事”でもふれている)は、買い物をして、車に戻ってきたところで、ワイパーに挟んだ封筒を見つける。中に入っているのは、いかがわしげなメモと、五十ドル。相手を間違えているのは明らかだけれど、差出人は“フーブス”というニックネームだけ。

「キャディって誰?」とタートルが知りたがる。
「大きな白い車を持ってる別人よ。フーブスっていう男の人が彼女にお金を借りてて、彼女とじかに顔を合わせたくなかったのね」
「どうしてあたしたちにくれたの?」
「わたしたち、ついてるってことよ」
「あたしたちがどこへいったらいいか教えてくれるしるしって、それだったの?」
「でしょうね。わたしたちにつきがまわってきたってしるしよ。お金がひとりでに入ってくるんだわ。ラスヴェガスへいくべきでしょうね」
「ラスヴェガスってなに?」
「人が運試しをしにいくところ」
 タートルは考えこむ。「それでどうしようっていうの?」
「それでもっとお金を手に入れようっていうの」

(バーバラ・キングソルバー『天国の豚』真野明裕訳 早川書房)

「運試し」がしたくなるとき、というのは、どんなときだろう。
何もかもうまくいっているとき。
いま「ついている」と思う。この好調がいつまで続くのだろう、と不安でもある。それを確かめようと、運試しをする。
あるいは、困難を前に、乗り切れるかどうか、不安なとき。
「つき」の助けを借りたい。自分に「つき」はあるのだろうか。運試しして、確かめたい。

『天国の豚』では、前作『野菜畑のインディアン』で固い絆を結んだタートルとテイラーが引き離されそうになる。それも、インディアンの子供はそれぞれの部族のもとで、部族の一員として育てられるべきだと考える、チェロキー族出身の有能な弁護士女性の出現によって。タートルと引き離されそうになったテイラーは、着の身着のまま逃げ出したのだ。

もちろんテイラーにはお金が必要だ。けれど、本当にほしいのは、自分につきがあること、運命は自分の側に味方してくれている、つまりは、自分がタートルを育てることは間違ってはない、という確信である。ラス・ヴェガスで手に入るかもしれないお金は、「その証し」なのである。

 賭博がいつ頃から始まったのかは明らかでないが、その原始的な型は「人類が火を用いるようになった頃と同じほど古い時代から、とかんがえることができる。」(J.P.ジョネス『ギャンブル・昨日と今日』)とされている。
 我々の祖先が、まだ狩猟や採取によって生活していた時代から、とジョネスは想像した。彼の賭けの起源についての想定は、原始の狩人達が経験上の知識では判断できない時に――たとえば、どの方向に進めば獲物を得ることができるかを決めねばならない場合に――石や棒を抛り上げて、その落ちた場所で進む方向を決定した。ここからごく初期の「賭」がはじまったという。

増川宏一『賭博 I』(法政大学出版会)

大昔の人々にとって、世界は謎と不思議に満ちていた。
狩りで獲物が捕れるだろうか。
明日は好天に恵まれるだろうか。
雨が降ってくれるだろうか。

神や自然が自分に味方してくれるときもある。味方してくれないこともある。
大昔の人々は、それを知るために占いをし、くじをひいた。ここでの「賭け事」は占いときわめて近いものである。

時代がくだっても、未来がわからないことには変わりはない。
それでも人は、勤勉に働き、努力を続ければ状況は好転する、と思いながら、日常生活をおくっている。
けれども、ときに「運」が自分に味方してくれるかどうか知りたくなる。
年の初めにおみくじを引いたり、占いをしてみたり。
日常生活から一歩離れて、自分の運を占う。大昔から変わらず、「賭け事」は運試し、占いの延長にある。

けれども、「運」の証しとしての「賞金」で、ときに、日々の生活では決して得られないだけのものが瞬く間に手に入ってくることがある。
ところがわたしたちの「金銭に対する感覚」というのは、きわめて相対的なものでしかない。またたくまに手に入った「一万円」は、時給千円で十時間労働した結果としての「一万円」と同じものとは思えない。「あぶく銭」として入ったお金は、さらなる「あぶく」を求めて、「あぶく」のように賭けてしまう。

「運試し」をしにラス・ヴェガスに向かったテイラーは結局すべてを失ってしまい、ケンタッキーの実家に電話をかけて、母親を呼ぶしかなくなった。

「百十ドルよ。死にたくなるわ」
(…略…)
「それは一番いいとこまでいったときにやめてればの話ね。出だしの金額じゃないだろ」
「ええ、出だしは五十よ」
「そいじゃ、すったのはそれだけさ、ほんとのとこは」
「どうしてやめなかったのかしら?」
「やまを張ってたからだよ。五十で百十手に入るんなら、百十で千かせげないわけはないって」
「馬鹿ねえ」
「馬鹿なのはこの町にいるほかのみんなとおんなじさ。あのネオン・サインを見てごらん、誰が電気代を払ってると思うのか聞きたいね」
「あたしたち、ついてるような気がしてたのよ」
「そういう連中が払ってんだよ。ついてると思ってたっていう老若男女がさ」

(『天国の豚』)

「運」だとか「つき」だとか、偶然以上のものが果たしてほんとうにあるのだろうか。
あるにせよないにせよ、忘れてはならないのは、未来というのは、どこかですでに起こってしまった「出来事」が、わたしたちを待ちかまえているわけではない、ということだ。
仮に賭けに勝ったところで、それは、さきにすばらしいことが起こっている「証し」などではないのだ。勝ったとしても、その「遊び」の「その場面」に限られる。「運命」が今後も引き続いてその人に味方してくれるかどうかはだれにもわからない。
ということで、つぎは「運試し」がうまくいった人のその後の「運命」がどうなったかを見てみよう。


2.勝ったらどうなる?


「博打で家を建てた人間はいない」という言い回しがある。
それが本当であるかどうかはともかく、ジャンボ宝くじでが三億円が当たったら、確かに家一軒は十分に建つだろう。そうなると、人生は大きく好転することになるのかもしれない。
ところが小説の世界では、あまりそういう結果にはならないのだ。

 こんなはずはない。きっとなにかの間違いだわ。
 だが間違いはなかった。六回も確かめてみたから、絶対に間違いではなかった。
 結局はだれかの身に起ることだわ。
 もちろん、それはそうだった。だれかの身には。しかし彼女の身にそれが起るとは。

(スティーヴン・キング『クージョ』永井淳訳 新潮文庫)

チャリティ・キャンバーは宝くじを引き当てる。額面五千ドル、そこから税金の八百ドルを引いたものが彼女のものになるのだ。

幸運の女神が彼女に白羽の矢を立てたのだ。これが生まれてはじめてで、たぶんもう二度とないことだろうが、日常性という分厚いモスリンのカーテンがわずかにあいて、外側の光り輝く世界を垣間見せてくれたのだ。彼女は実際的な女で、口にこそ出さないが、自分が夫を少なからず憎み、少なからず恐れているけれども、いずれは二人はともに年をとり、夫が借金と――そしてこれは心のなかでさえ認めたくはなかったが、その恐れは充分にあった――おそらく甘やかされた子供を残して先に死ぬであろうことを知っていた。 …(略)…

実際に当たった五千ドルの十倍の賞金が当たっていたのなら、彼女はモスリンのカーテンをいっぱいにあけて、息子の手を引っぱりながら、町道三号線と、ジョー・キャンパー自動車修理工場、外車歓迎と、キャッスル・ロックの向こうにある世界へ足を踏みだすことを考えていたかもしれない。断固たる決意のもとにブレットをコネティカットへ連れて行き、ストラトフォードで小さな部屋を借りるのにいくらかかるかと、妹にたずねていたかもしれない。

 だが、現実には、カーテンはわずかに動いただけだった。それでおしまいだった。

宝くじは、それまで夫の暴力にひたすら耐えていたチャリティに、行動を起こさせるきっかけにはなった。けれども同時に、恐ろしい事件を引き起こすひとつの要因ともなった。
反面、その事件のおかげで、チャリティは暴力的な夫から離れることができる。
「禍福はあざなえる縄の如し」。
出来事はただ起こる。それを幸にも不幸にも「あざなって」いくのは、生きていくその人なのである。つまり人生を変えたのは、五千ドルの賞金ではなく、チャリティが行動を起こしたことだったのだ。

では、額面がもう少し大きくなり、「カーテン」がすっかり開いて、一生、働かなくてもいいほどの金額が当たったらどうなるか。それがジョン・ファウルズの『コレクター』である。

 満二十一歳になった週からずっと、ぼくはフットボール賭博をやってきた。毎週、判で押したように五シリングずつ賭けた。税務課の同僚のトム爺さんやクラッチリー、それに何人かの女の子たちは、いつも徒党を組んで大枚を賭け、ぼくは一匹狼の立場を捨てなかった。だいたいトム爺さんやクラッチリーは虫が好かないのだ。…(略)…

 小切手の金額は七万三千九十一ポンド、それに何シリング何ペンスかの端数がついていた。火曜日、フットボール賭博の係員がこの額を確認してくれるやいなや、ぼくはウィリアムズさんに電話をかけた。ウィリアムズさんはぼくがそんなふうに辞めてしまうことに腹を立てていたようだ。むろん口ではそりゃよかった、みんなも喜ぶだろうと言ったが、喜ぶはずはありゃしないのだ。ウィリアムズさんはよかったら五%の公債を買わないかとすすめてくれた! 市役所なんかに勤めていると、まとまった金の値打ちというものが分からなくなるらしい。

(ジョン・ファウルズ『コレクター』小笠原豊樹訳 白水Uブックス)

「ぼく」には市役所に勤めている頃から、心引かれる娘がいた。市役所の真向かいにその娘の家がある。ロンドンの寄宿学校に通っているために、見ることができるのは、彼女が帰省したときだけ。だから、賞金を手に入れて仕事も辞めてしまえば、彼女のことも忘れるだろうと思っていたのだ。

 ぼくの本心としては(すでにロンドンで一番上等な七つ道具を買ってあった)、どこか田舎へ出かけて、珍しい種類や、変種の蝶を採集し、立派な標本を作りたかった。つまり好きな場所に好きなだけ滞在して、毎日外へ出て、採集したり、写真を撮ったりしたい。伯母たちが発つ前に、ぼくは運転免許をとり、特製の自動車を手に入れた。ぼくが欲しい種類はたくさんある――たとえばキアゲハ、クロシジミ、ムラサキシタバ、それにギンボシヒョウモンとかウラギンヒョウモンとかヒョウモン族の珍種。たいていのコレクターが生涯に一度ぶつかるかどうかという種類だ。蛾にも欲しいのがある。できれば蛾も集めたいと思う。

 ぼくが言いたいのは、つまり、彼女をお客に呼ぶという考えが湧いたのは全く突然のことであって、金が手に入ったときから計画したことではないという点だ。

ところが結局「ぼく」、主人公のキャリバンは売りに出ていた家を見に行き、そこから「秘密の客」を閉じこめておく、という考えにとりつかれてしまう。
キャリバンにとっての「賞金」は、「コレクター」の道への決定的な一歩となった。

だが、蝶を追って余生を送ることもできたのだ。どうして蝶の「コレクター」とならなかったのだろう。蝶ではなく、人間であるミランダを愛したのなら、どうしてそこで彼女とほんとうの意味で関わろうとしなかったのだろう。狭い自意識から外に出て、彼女にふれる代わりに、逆に、いっそう縛り付けられてしまったのだろう。
それもすべて、キャリバンがそれを選択したからだ。
「くじ」で得た賞金は、あくまでもひとつのきっかけでしかない。額面の如何にかかわらず、どう「使うか」は、その人にゆだねられており、それはほかの人生の選択と何ら変わるものではないのだ。

そもそも「賭け事」というのは、本来の日常生活からは切り離された、「遊び」に属することがらではなかったのか?
カイヨワが言うように「運命の決定を受動的、意志的に待つ態度、損をするときもあればそれ相応に儲けの時もあるとして自分の富を賭ける」遊びだったのでは?

宝くじを買うチャリティも、サッカーくじを買うキャリバンも、当たればいいなぁ、とは思っただろうが、真剣に勝てると思っていたわけではない。あくまでもそれは運試しであって、勝つこと、賞金を手に入れることを目的にしていたわけではない。

遊びは遊びであるからこそ、楽しい。
確かに思わぬ天の配剤でまわってきたお金は、日常のなかで消費される。けれどもそれはもはや、賭けとは関係のないもの、予期せぬ「臨時収入」以上の意味を持たない。
「賞金の使い方」は、その人の生き方に沿ったものとなる。つまり、賭けで勝ったから人生がバラ色になったわけでも、運命が急転直下するわけでも、「つき」を使い果たしてしまうわけでもない。
「賭け」が終わって、日常生活に戻るとき、思わぬ「余録」を手にしただけのこと。そこからまた日常生活が始まっていくのだ。

ところが、賞金を獲得することが目的になってしまう人々が出てくる。もはやその人は、運命をじっと待っていることなどできない。「遊び」はもはや、特別な空間ではなくなり、日常生活と何ら変わらない。労働をして賃金を得る代わりに、労働をせずに「賞金」を得ようとするものになってしまうのだ。こういう状態をカイヨワは「日常生活の汚染」と呼び、「遊びの堕落」であるという。

 昨今とくに目立つ、熱心に運命の恵みを求める現象についていえば、それはおそらく現代の生存競争が要求する不断の緊張の代償であろう。自分自身の能力に見切りをつけた者は、運命を当てにするようになる。過度にきびしい競争は、意気地なしを失望させ、外部の力に身をゆだねたい気にならせる。天が彼にさずける幸運を認識し、これを利用することによって、自分の素質や、懸命の努力や、忍耐強い勤勉ではとても得られそうもない報酬を獲得しようとする。…略…

いずれの場合にも、遊びの激しさが病的逸脱の原因でないことは注目すべきことである。それはつねに日常生活の汚染から生じたものである。遊びを支配する本能が、絶対的な規約を前提としてもたずに、時間と場所のきびしい限界の外にひろがるところに、こうした逸脱がおこるのである。真剣に遊ぶこと、ありったけの力を出し尽くすこと、全財産、生命まで賭けること、いずれも遊ぶ者の自由である。しかし、あらかじめ定められた限界で立ち止まり、もとの普通の――解放的でもあり隔離的でもある遊びの規則がもはや適用しない――状態に立ち戻れねばならない。

(『遊びと人間』)

人々が賭け事に興奮し、夢中になるのは、もちろん勝ちたい、賭けに勝って利益を得たい、という欲望があるからだ。
それでも利潤追求を目的とする株式投機や先物取引などは、いくら「賭け」の要素があるにせよ、それはあくまでも「仕事」であって、「遊び」とは異なる。
「遊び」は日常と切り離されたもの。特別な空間なのだ。勝っても負けても、そこからまた日常生活に戻っていかなければならない。

「賭け事」を、遊びではなく日々の生業とするのが「ばくち打ち」だ。彼らの「賭け事」は一般人のそれとはまったく異なるものである。阿佐田哲也のペンネームで『麻雀放浪記』を書いた色川武大は、その「阿佐田哲也」を主人公(=奴)とした『小説 阿佐田哲也』のなかで、「ばくち打ち」のことをこう説明している。

 ばくちでは、弱者は強者に勝つことは、万に一つもありえない。
 否、という方があろう。弱い者が強い者にかつこともある、それがばくちだ、と貴方もいわれるかもしれない。
 貴方は、遊び半分のギャンブルしかご存じないのである。昨日、自分が勝ったか負けたかをはっきり覚えていないような、そんな遊びを奴はばくちとはいっていない。

 ばくち打ちはばくちしか仕事がないのである。したがってばくちは総力戦なのである。(…略…)ばくちの決着は総トータルなのであり、打ち切りを宣しなければ決着にはならない。途中の負けは負けではない。(…略…)あるクラス以上の勝負は、奇妙なことに、おおむね全勝同士の対戦なのである。

 全勝ではあるが、けっしていつも圧勝をしていたわけではない。何故負けなかったか。それは気持に動揺をおこさず、途中の沈みをものともせず、辛抱に辛抱を重ねて、決着に至ったからである。そのことをこのクラスは皆が知っている。

 一夜や二夜で退くわけはない。三か月や半年で決着はつかない。何年もかかる場合もある。一度かみあったら、毎日毎夜、血の一滴までふりしぼって戦うのである。(…略…)

 ばくち打ちは、すぐに使える現金だけを大切にする。預金もしない。投資もしない。ばくちで勝つ以上に大きな投資はない。吝嗇である。何かに使ったために一瞬早く弾丸がつきる時のことを思うと、何にも使えない。ただひたすら、札束を造り、押入れという押入れを埋めておく。(…略…)

 そうして、決着がついたときは、ゼロ対幾つ、という形になる。一点差のゲームなどありえない。偶然の勝ちもない。一瞬一瞬の局面では運の要素は無視できないが、決着が運ということはありえない。強さの質はいろいろあるが、とにかく、強者が勝つ。勝った者が強者である。

(色川武大『小説 阿佐田哲也』角川文庫)

人間の生活は大きく分けて、働き、遊び、休むことで成り立っている。ところがその「遊び」が、ほかの領域まで浸食してしまう、カイヨワの言葉を借りると「あらかじめ定められた限界で立ち止まり、もとの普通の状態に立ち戻」ることができなくなってしまうと、もはや「遊び」も「遊び」ではなくなり、特殊な「労働の一形態」となってしまうのだ。それを極限まで押し進めたのが、阿佐田哲也、色川武大が描く世界だ。
わたしたちにはうかがい知ることのできない、異世界。
そんな世界がたとえほんとうにあるのか、あったとしてもそれはほんとうに小説に描かれたようなものなのか、わたしたちにはそれさえもわからない。ならばSFやファンタジーを読むように、阿佐田=色川の描く「ばくち打ち」の世界を楽しめばいい。

さて、もういちど「遊びとしての賭け事」の世界に戻ることにしよう。遊びには遊びならではの規則がある。こんどはそういう面を見てみよう。


3.ルールに従う


楽しく遊ぶためには、一定のルールが不可欠だ。「賭け事」にしても、運が誰でも平等に開かれているからこそ、賭ける意味がある。
人が相手の「賭け」も、公平に争われなければならない。それがために、勝負の行方を判定する審判の存在が必要になってくる。

ロアルド・ダールの短編集『あなたに似た人』のなかに、『味』という短編がある。
『南から来た男』と同様、この短編も「賭け」を題材にしている。
まず、賭けをするのは、食事会を主催する株式仲買人の男と、そこに招かれた美食家。ワインの産地と熟成年を当てるのである。
そうして、そのふたりを公平に見る第三者が語り手であるところは『南から来た男』と一緒だ。

このふたり、以前から食事会のたびごとにワインを一箱、賭けていた。
株式仲買人マイク・スコウフィールドは、文化人としての教養を身につけたいと願っている。ワインの知識は、文化人としてのパスポート、そうして食事会は自分が苦労して得た「教養」を披露する場なのである。
ワインを美食家に当てさせて、自分の出したワインが、すばらしいもの、識別されるに足るほどのものだと証明したい。そうやって、自分の教養を認めてもらいたい。
いっぽう、美食家リチャード・プラットの側は、自分の知識と蘊蓄を披露する場を求めている。
どんなワインでも、口に含むだけで、生産地も生産年も当てられるほどの舌と知識と経験を持っていることを認めさせたい。
こうしてふたりの欲望は見事にかみ合い、株式仲買人はいつもよろこんで負け、ワイン一箱を美食家に進呈していた。

ところがある日、株式仲買人スコウフィールドが、ちょっとやそっとでは当てられそうもない、すばらしいワインを手に入れる。
それを美食家との賭けに使ったのである。

美食家プラットは、いつもとちがう賭け物を要求する。
ワイン一箱ではなく、スコウフィールドの娘を。そうして、自分の側からは、別荘二軒を賭け物として差し出す。

ここからふたりの心理戦が始まる。

「きみには絶対わからないよ、百年たってもね」とマイク。
「クラレットだね?」リチャード・プラットが、わざとらしくひかえ目にたずねた。
「もちろんさ」
「それじゃ、まあ、比較的ちいさな葡萄園のやつだろうな」
「そうね、リチャード、だけど、そうじゃないかもしれない」
「上作の年かね、それとも最上作の年?」
「ああ、それは保証するよ」
「そうだとなると、たいして難しくはないな」とリチャード・プラットは、いかにも退屈そうに、ものうげにつぶやいた。

(ロアルド・ダール「味」『あなたに似た人』所収 田村隆一訳 ハヤカワ文庫)

人と人の賭けの場合は、あくまでもその本質は競争にある。
ワインをめぐるマイク・スコウフィールドとリチャード・プラットのやりとりも、『吾輩は猫である』で碁盤をはさんだ迷亭と独仙のやりとりも、一種の心理的駆け引きであることには変わりはない。

「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ這入ってくる法はない」
「禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが、本因坊の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
「しかし死ぬばかりだぜ」
「臣死をだも辞せず、いわんやてい肩をやと、一つ、こう行くかな」
「そうおいでになったと、よろしい。薫風南より来って、殿閣微涼を生ず。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」

相手が何を考えているかを読む。そうして、相手の裏をかくために、自分の真意を悟られないような言葉を口にする。
運の要素が極めて低い囲碁や将棋はともかく、同じく人と賭ける麻雀やポーカーには、少なからぬ運の要素がある。それでも、賭けに臨む人々がそれ以上に頼りにするのは、自分の能力である。
富や自分にとってきわめて大切なものを賭けている場合、この対戦はいっそう真剣に争われる。『味』の対戦者のふたりには、迷亭と独仙の気楽さはない。

運を試す賭けに勝つということは、自分がついている、運命が自分に味方してくれている、ということだ。
それに対して、「人との賭け」に勝つということは、自分の読み、判断、技能が相手を上回っている、ということを意味する。手に入れた賭け物は、自分の能力に対する「報い」なのだ。
ところが小説に描かれる「人との賭け」では、たいがい、どちらかがルール違反を犯す。インチキをした側は、別の意味での「報い」を受けるのだ。
もちろんダールの『味』も、その例外ではない。その勝利が無効になるだけでなく、ペテン師という汚名(そうして『味』の場合は、おそらくもうひとつの汚名も)を背負ってこれから先、生きていかなくてはならなくなる。

あるいは、こんな報いを受けることもある。
チェーホフの短編『かけ』は、十五年間の幽閉生活を耐えられるかどうかをめぐって、老いた銀行家と年若い法学者が「賭け」をする話である。

客の中に、ひとりの法学者がいた。二十五、六歳の青年だった。彼は、意見を求められると、こう言った。
「そりゃ死刑も、終身禁固も、非道徳的である点には変りはありませんけど、かりに死刑か終身禁固か、どちらか一方を選べと言われたら、僕はもちろん後者を選ぶでしょうね。全然生きていられないのよりは、何とか生きている方が、まだましですもの。」

 活溌な論議がもちあがった。当時はまだ若く、今よりも神経質だった銀行家は、ふいに冷静を失い、こぶしでテーブルを叩くなり、青年法学者に向かって叫んだ。 「そりゃ、まちがってますよ! 僕は二百万ルーブルかけてもいいが、あなたなんか、五年も独房に坐っていられるもんですか。」

「もし本気でおっしゃっているんでしたら、」法学者はこたえた。「かけましょうか、僕は五年といわず、十五年だって、こもり通してみせますよ」

「十五年ですって? おもしろい!」銀行家は叫んだ。「みなさん、僕は二百万ルーブルかけましょう!」

「承知しました! あなたは金をかけ、僕は自分の自由をかけましょう!」

(アントン・チェーホフ「かけ」『チェーホフ全集4』所収 原卓也訳 ちくま文庫)

自ら進んで入った幽閉生活ではあったが、法学者は大変な苦しみを味わう。それでも十五年という歳月を、誰とも接触せず、言葉も交わさず、ひとりで耐え抜く。
いっぽう銀行家は往年の莫大な財産をもはや有してはいない。明日の十二時、賭けの終了を目前にして、賭け金二百万ルーブルを払えば、破産はまちがいないところまできている。

銀行家は、自分を救うために、法学者を殺そうと思い、幽閉されている場所に入っていく。
そこには、見る影もなく老いてしまった法学者の寝姿と、書き置き。

明日正午に、わたしは人々と交際する権利と、自由とを得るわけです。しかし、この部屋をあとにして太陽を仰ぎみるに先立って、あなたに数言しておかねばならぬと思います。わたしを見そなわす神の前で、清らかな良心にてらして、はっきり申しますが、今のわたしは、自由も、生活も、健康も、そのほか、あなたの差し入れてくださった多くの書物の中で地上の幸福とよばれているすべてのものも、軽蔑しています。…略…

あなたがたが生きるための拠りどころとしているものに対する、わたしの軽蔑を実地に示すために、わたしは、かつては楽園のようにあこがれ、今や心からさげすんでいる二百万ルーブルの金を拒否する者です。この金に対する権利を放棄するため、わたしは約束の期限の五時間前にここを立ち去ります。それにより、わたしはこの取り決めを破棄するのです……」

 これを読み終えると、銀行家は紙片をテーブルにおき、この不可解な男の頭に接吻して、泣きだし、離れを出た。彼はいまだかつて、株で手ひどい損をしたあとでさえ、自分自身に対して今ほど強い軽蔑を感じたことはなかった。家に入るなり、彼は床についたが、興奮と涙のためにいつまでも寝付つれなかった……。

(『かけ』)

勝つために、規則の裏をかこうとする人間は、それが明らかになった段階で、賭け事の場から追放される。そうしてその汚名は日常生活に戻ってもついてまわる。
たとえペテンが見破られなくても、自分が「ペテン師」であることは、ほかでもない自分がよく知っているのだ。これは賭けに負けるより過酷な「報い」かもしれない。

菊池寛の短編に『入れ札』という短編小説がある(戯曲も)。これは「遊び」ではないし、金品を介在させた「賭け事」でもない。けれども、自分の地位を賭けた、ぎりぎりの競争である。ルールの裏をかいて、相手に勝とうとしたがために、主人公はどのような「報い」を受けるのか。

代官を殺して逃亡中の国定忠治と子分たちは、少人数に分かれて逃げ落ちることになる。
苦難をともにした子分たちを、忠治は選ぶことができない。 そこで、入れ札(投票)によって、忠治と行動するにふさわしい子分を三人選ぶことになる。

九郎助は年長で、年齢的には第一の子分でなければならない。けれども過去の失策のために、地位がさがってしまっている。

 入れ札と云う声を聴いたとき、九郎助は悪いことになったなあと思った。今まで、表面だけはともかくも保って来た自分の位置が、露骨に崩されるのだと思うと、彼は厭な気がした。十一人居る乾児の中で自分に入れてくれそうな人間を考えて見た。が、それは弥助の他には思い当たらなかった。

(菊池寛『入れ札』『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』所収 新潮文庫)

そこで、九郎助は自分に入れる。
ところが、九郎助には、自分が入れた一票しか入らなかった。九郎助は選に漏れたのである。

仲間から離れてひとり落ちる九郎助のあとを、弥助がついてくる。

「俺あ、今日の入れ札には、最初(はな)から厭だった。親分も親分だ! 餓鬼の時から一緒に育ったお前を連れて行くと云わねえ法はねえ。浅や喜蔵は、いくら腕節や、才覚があっても、云わば、お前に比べればホンの小僧っ子だ。たとい、入れ札にするにしたところが、野郎達が、お前を入れねえと云うことはありゃしねえ。十一人の中(うち)でお前の名をかいたのは、この弥助一人だと思うと、俺ああいつ等の心根が、全くわからねえや」

…(略)…

 柄を握りしめている九郎助の手が、だんだん緩んで来た。考えて見ると、弥助の嘘を咎めるのには、自分の恥ずかしさを打ちあけねばならない。
 その上、自分に大嘘を吐いている弥助でさえ、自分があんな卑しい事をしたのだとは、夢にも思っていなければこそ、こんな白々しい嘘を吐くのだと思うと、九郎助は自分で自分が情けなくなって来た。口先だけの嘘を平気で云う弥助でさえ考え付かないほど、自分は卑しいのだと思うと、頭の上に輝いている晩春のお天道様が、一時に暗くなるような味気なさを味わった。

勝つか負けるかわからない。だから人は賭けるのだ。
負けたときは、潔く負けを認めること。潔く富を、賭け物を、あるいは地位を失うことを認めること。たとえ内心では穏やかではなくても、少なくとも表面だけでも平静なふうを装って、負けを受け入れる。それもまた賭ける人間のルールなのである。
それが守れない人間は、賭け事などしないほうがいい。
え? 賭けはやりたいけれど、負けるのはどうしてもいやだ? 勝てるときだけ、賭けをする、というわけにはいかないものだろうか、だって?


4.運は座して待つもの


もし、魔法が使えたらどうだろう。だいそれたことをしたいというのではない。ちょっとカードをいじって、望む手札に変えるだけでいい。
芥川龍之介の『魔術』は、そんな話だ。

主人公はインド人の魔術の大家から「欲を捨てること」と引き替えに、魔術を教わる。
そうして覚えた魔術を乞われるまま、友人の前で披露する。石炭を金貨に変えて見せたのだ。元の石炭に戻そうとすると、友人たちは抵抗し、「骨牌(ルビは「かるた」であるが、実際にはトランプ)」で勝負することになった。主人公が勝てば元通り、石炭に、友人が勝てば、その金貨は友人たちのものになる。

 ですから私も仕方がなく、しばらくの間は友人たちを相手に、嫌々骨牌をしていました。が、どういうものか、その夜に限って、ふだんは格別骨牌上手でもない私が、嘘のようにどんどん勝つのです。するとまた妙なもので、始は気のりもしなかったのが、だんだん面白くなり始めて、ものの十分とたたない内に、いつか私は一切を忘れて、熱心に骨牌を引き始めました。

(芥川龍之介『魔術』

勝てば楽しくなる。捨てたはずの欲が、自分の内に興ってくる。

 私はこの刹那に欲が出ました。テエブルの上に積んである、山のような金貨ばかりか、折角私が勝った金さえ、今度運悪く負けたが最後、皆相手の友人に取られてしまわなければなりません。のみならずこの勝負に勝ちさえすれば、私は向うの全財産を一度に手へ入れることが出来るのです。こんな時に使わなければどこに魔術などを教わった、苦心の甲斐があるのでしょう。そう思うと私は矢も楯もたまらなくなって、そっと魔術を使いながら、決闘でもするような勢いで、
「よろしい。まず君から引き給え。」
「九」
「王様」

どうやら人間に「魔術」が使えないのは(あるいは、仮にいたとしても? 極端に少ないのは)、どうやっても欲を捨てられないためであるらしい。

それでも一度だけなら。三枚だけ、絶対に勝てる手札を知っている人がいたら。
プーシキンの『スペードの女王』には、そんな人物が登場する。

堅実な近衛兵ゲルマンは、一同がトランプに興じていても、加わることはない。
ある日、賭けに興じる同僚のうちのひとり、トムスキイが、八十歳になる自分の祖母、伯爵夫人の話を始める。祖母は若い頃、錬金術師でもあったサン・ジェルマンに絶対に勝つトランプの手を教えてもらったのだ。そうして、破産しかかった自らを救い、巨万の富を得たのだけれど、以降トランプに手を出そうともしない、と。

ゲルマンは、伯爵夫人の下で身の回りの世話をしている若い女性、リザヴェータに近づき、屋敷に忍びこむことに成功する。そうして老いた伯爵夫人からその数字を聞き出そうと、ピストルで脅す。
怯えた郎伯爵夫人は、そのまま死んでしまった。

何食わぬ顔をして葬儀に出たあと、家に帰って眠りこんだゲルマンの夢のなかに伯爵夫人の霊が出てくる。

「今夜来たのは私の本意ではありません」と夫人は力のこもった声で言った。「おまえの望みをかなえてやれとの仰せです。『三(トロイカ)』、『七(セミヨルカ)』、『一(トウズ)』――この順で張れば勝ちです。ただひと夜さに一枚だけしか張ってはなりません。また勝った上は死ぬまで、二度とふたたび骨牌を手にしてはなりません。…」 言い終わると夫人は静かに身を返して、扉から姿を消した。

(アレクサンドル・プーシキン『スペードの女王』神西清訳 岩波文庫)

ゲルマンは、全財産をつぎ込んで、賭けをする。
「三」が出る。「七」が出る。そうして最後は……。

「おまえの望みをかなえてやれ」と、伯爵夫人の霊に告げたのは、いったい誰なのだろう? 伯爵夫人に数字を教えたサン・ジェルマン伯だったのだろうか。それとも、運命を左右することができるもの?

昔から、このパターンの話は数多い。グリム童話などでは、実際に悪魔や魔女と賭けをするものもあるが、運命を変えてやる、という「取引」を持ちかけられて、自分の人生を「賭け」ることになる物語がいくつもある。

そのヴァリエーションのひとつが古くはゲーテの『ファウスト』だろうし、あるいは怪奇物語になると、W.W.ジェイコブズの『猿の手』、モダンホラーであればスティーヴン・キングの『ニードフル・シングス』に見ることができる。

遊戯者が偶然を尊重しなくなれば、この(※偶然の遊び)堕落は始まる。すなわち、偶然を、個人を越えた中立の、感情も記憶ももたぬ力、運の配分をつかさどる法則の純粋に機械的な結果とは考えない場合である。

(『遊びと人間』)

多くの物語が教えてくれるのは、「運」はただ、座して待つもの、動かそうとしたり、その行方を知ろうとしてみたりしてはならない、ということだ。
わたしたちにはまったく手出しができないもの。うかがい知ることさえできないもの。
それならば、あろうがなかろうが、結局、わたしたちにとっては同じことではあるまいか。

それでも、わたしたちは「偶然」以上の、「運」のようなものを求めてしまう。そうしてどこかで「運」を左右する「悪魔」のような存在を、ばくぜんと思い描いてしまうのだ。

むしろ、ダールの『南から来た男』のおもしろさは、こうしたわたしたちの思いこみを逆手に取って、ひっくり返しているところにあるのかもしれない。
小指を取り上げようとする男は、禍々しい、悪魔じみた存在だ。しかし同時に、強い意志力を持つ妻の前では、小さくうなだれる一文無しの老人でしかないのだ。
ここで「恐しい」のはいったい誰なのだろう?

ほんとうに「賭博に打ちこむ人間たちの心」が恐ろしいのだろうか?
「賭け事」は「遊び」として、範囲が限定され、ルールがあり、審判がおり、不正は糾弾される。「賭け」ない自由も保障されている。
ところが日常生活は、範囲はなく、ルールは一応あるにはあるが、不正は平気で横行し、審判の目も万全ではない。しかも、わたしたちはそこから身を退くことができない。
それを考えると「賭博に打ちこむ人間たちの心」とは、むしろ日常生活に背を向け、遊びの世界から出てくるのをいやがる、「恐ろしい」というよりは「子供っぽい」人間なのではないか。

ということで、遊びの世界から外に出て、日常生活に戻ってみよう。


5.日常の中の「賭け」


もういちど『クージョ』から。
宝くじを引き当てたチャリティ・キャンパーのひとり息子は、鳶が鷹を産んだような、頭の良い男の子。だが自動車修理工の暴力夫は、そんな息子の資質に気がつきもしない。
チャリティは、なんとかして息子をこんな世界から抜けださせたい、と考えている。妹のホリーは、夫のジムがロー・スクールに進学したことで、ホワイト・カラーの仲間入りをした。息子にはできればホリーの夫のように大学に進学してホワイトカラーの一員になってほしい。そう思って、チャリティは宝くじの賞金で、妹の住むコネティカットに行くのだ。

ゆうべ、ホリーはチャリティに、これはいくら、あれはいくらと、ビュイック・フォー・ドアや、ソニーのカラー・テレビや、廊下の寄せ木細工を自慢した。ホリーの心のなかでは、いまだにそれらの品物に眼に見えない正札がついているかのようだった。

 それでもチャリティは妹が好きだった。ホリーは気前がよく、親切で、衝動的で、愛情深く、心優しかった。しかし彼女はその生き方のせいで、自分とチャリティがメイン州の田舎で貧しい少女時代を送ったという冷厳な事実、そのためにチャリティはジョー・キャンパーと結婚せざるをえなかったが、自分のほうはまったくの幸運のおかげで――チャリティが宝くじに当ったのと本質的な違いはなかった――ジムと出会い、貧しい生活と永久におさらばすることができたという事実から、目をそらすことを強いられていた。

(『クージョ』)

遊びとしての「賭け事」の世界では、参加者は全員平等だが、日常生活のなかの人間は、平等でもなんでもない。生まれた国、地域、家柄、財産、家庭環境、持って生まれた資質、こうしたものはその人間の運命を大きく左右する。

学校では、努力すれば、だれでもスキルをあげていけば、輝かしい未来が、そこまでいかなくても、まずまずのポジションが手に入るというけれど、ほんとうにそうなのだろうか。アフリカの紛争地帯に生まれ落ちてしまえば、そこから抜けだすことはおろか、成人するだけで大変な困難を伴う。

だれもが生まれたときに配られた手札でゲームをやっていくしかない。
そこからスキルを身につけ、能力を発揮することで、多少条件を好転させることはできても、完全に脱出することは不可能に近い。

そうやって営々たる努力を続け、あらゆるリスクは排除しながら確保したささやかな地位を守る、という生き方もある。
ロバート・コーミアの『チョコレート・ウォー』の主人公ジェリーは十四歳。この春、母親を亡くし、薬剤師の父親と二人暮らしである。この父親が、まさにそんな生き方をしているのだ。

「ねえ、パパ」
「なんだい、ジェリー」
「きょう、薬局ではほんとにいつもどおりだったの?」

父親はキッチンの戸口で立ちどまり、けげんそうな顔になった。「どういうことだい、ジェリー?」
「つまりさ、ぼくが毎日、きょうはどうだったってきくと、パパは毎日、まあまあって答えるじゃない。すばらしい日とか、不愉快な日とかってないの?」

「薬局っていうのは、あまり変化がないものなんだよ、処方箋を受けとって、その処方箋どおりに薬を調合する――それだけのことさ。前もってよく調べ、ダブル・チェックしながら慎重に調合するんだ。医者の手書きの処方箋に関する噂はほんとうだけど、その話は前にしただろ」
 父親は眉をひそめて記憶をたどり、必死になって息子がよろこびそうな話題を見つけだそうとしていた。
「三年前に強盗未遂事件があったな――麻薬常習者が野蛮人みたいに薬局にとびこんできたんだ」

 ジェリーは、ショックと失望をなんとか顔にだすまいとした。
 それが父親をいちばん興奮させた事件なのだろうか? おもちゃのピストルをふりかざした若者がひきおこした、あわれな強盗未遂が? 人生ってそんなにおもしろくないもので、退屈でありふれたものなんだろうか?

 自分のこれからの人生がそんなものかと思うと耐えられなかった。まあまあの昼と夜が延々とつづいていく。まあまあ――よくも悪くもなく、すばらしくもまずくもなく、興奮もせず、なんてことない人生。

(ロバート・コーミア『チョコレート・ウォー』北澤和彦訳 扶桑社ミステリー)

確かに入試や恋愛、あるいは結婚、就職、そうしたいくつかのイヴェントでは、だれもがある程度は「賭け」、大辞林がいう「(2)運を天に任せて思い切ってやってみること」を強いられる。
だがそうしたイヴェントや、劇的な出来事がなければ、人は賭けることもなく、「まあまあ」の日々を送るしかないのだろうか。

TVでは、さまざまなことに賭けている人々の映像が映し出される。
司会者に煽られて、それまでに得た賞金を賭け、さらなるクイズに挑戦する人。
ワールドカップに出場して世界の強豪と闘う日本選手。
それを見る人々は、賭けている彼らと一体となって、ドキドキしたり、応援したりする。彼らは自分たちの「代わり」なのだ。

自分たちの代わりに賭けている人々を、安全なところから見て楽しみ、「まあまあ」の日を送る。ときにこんなふうに思うかもしれない。

 メイコンは、考えてみると、今まで自分から何かの行動を取ったことはあまりないような気がした。いや、ほんとうのところは一度もなかったのではないだろうか。結婚も、転職も、ミュリエルとのことも、サラのもとへ戻ったことも――みな自分に降りかかってきたことのような気がした。自発的に行動し、何かをなしえたことは今まで一度もなかったような気がした。
 しかし、今からそんなことをするのはもう遅すぎるだろうか?

(アン・タイラー『アクシデンタル・ツーリスト』田口俊樹訳 早川書房)

『チョコレート・ウォー』での薬剤師の父親同様、メイコンも一切の「賭け」を排除して生きている。あらゆることを前もって予想して、災厄を避ける選択をしてきた。言葉を換えれば、「運命」を予測しつつ、賭けをしなくてすむ選択を積み重ねてきた、とも言えるのだ。
にもかかわらず、メイコンのひとり息子イーサンは、まったくの偶然から命を失ってしまう。
人は「運命」を知ることも、操ることもできないのだ。たとえ賭けをどれだけ避けようとしても。日々続いていく賭けは、そこからおりることができない。どれだけリスクを避けようとしても、完全に逃れることはできない。

そうして生まれて初めて、意識的に賭けをしたメイコンは、気がつく。

メイコンは窓の外を眺めながら、自分の心の中をのぞいた。心が逸っていた。ほんとうの冒険とは時の流れだ、と彼は思った。それ以上の冒険はない。

わたしたちは未来を知ることはできない。
こうしたからこうなった、と、過去のできごとから因果関係をとりだして、それをまだ起きてはいないことがらに当てはめて、予測することはできる。けれども、それがほんとうにその通りになるかどうかはわからない。
その意味で、あらゆる行動は、行動をしないことまでも含めて、一種の賭けにほかならないのだ。

日常的な多くの行動、ささやかな選択は、賭けなどとは無縁のものに思える。
日々、わたしたちがさまざまな人と交わす会話のほとんども、薬剤師の父親のように「まあまあ」のもの、事務的な必要最低限のコミュニケーションで、決まり切った、ときに聞き手をうんざりさせるようなものなのかもしれない。

けれどもそれさえも、「賭け」なのではあるまいか。
とくに意識することもなく、なんとなく始まり、なんとなく終わる会話であっても、「わたし」と「あなた」のあいだには、その場かぎりのなにかが生まれている。それはのちのち記憶されるようなものではないかもしれない。それでも、なんとなく楽しかった、つまらなかった、厭な感じだった、そういう印象は、わたしたちのなかに刻まれていく。
そうしてこの「その場かぎりのなにか」は、片方がどうかしようと思ってもどうなるものでもないし、前に楽しかったから、もういちどそんな場を持とう、と思っても、またふたたび生まれるかどうかはわからない。
どうなるかわからないけれど、とりあえずやってみて、うまくいくときもあれば、いかないときもある。そういう意味で、やはり「賭け」なのである。

さらには、自分の言葉がこの関係をこわすかもしれない、そんな危険をはらみつつ選ばれた言葉。
あるいは、自分の内をさぐって、どうしても理解して欲しい、と願った言葉。
それが、失敗をすり抜けて、思い通りに相手に伝わった。理解して欲しい、と願ったように、相手は理解してくれた。
通じ合えた、という喜び。
相手とその話題をめぐって、ひとつになった、という喜び。
これは、高額の宝くじに当たったのに匹敵する、もしかしたらそれ以上のうれしさである。

わたしたちは気がつかないうちに、遊びの世界で繰り広げられる「賭け事」以上の、そこから逃げることができない、という意味で、はるかにシビアな賭けを、日々、繰りかえしているともいえる。そこに審判はいないし、はっきりとした決着がつくわけでもないために、そのことに気がついていないだけなのだ。

さて、シビアな現実の賭けの世界に生きるわたしたちは、遊びとしての「賭け事」にどう向かい合っていけばよいのか考えてみよう。


6.「賭ける」ことに賭けてみる


ドストエフスキーの中編小説に『賭博者』という作品がある。一時期、賭博にのめりこんだ自らの経験をもとに、ドストエフスキーは、賭け事に夢中になり、徐々に損なわれていく青年の姿を描いた。

ドイツの観光地に滞在する将軍の子供たちの家庭教師をしているロシア人の青年は、恋人にそそのかされて、賭博場に足を踏み入れることになる。

わたしがルーレットにそれほど多くのものを期待していることが、いかに滑稽であろうと、勝負に何かを期待するなぞ愚かでばかげているという、だれもに認められている旧弊な意見のほうが、いっそう滑稽なような気がする。それになぜ勝負事のほうが、どんなものにせよ他の金儲けの方法、たとえば、まあ、商売などより劣っているのだろう。勝つのは百人に一人、というのは本当だ。しかし、そんなことがわたしの知ったことだろうか。

ドストエフスキー『賭博者』原卓也訳 新潮文庫)

自分の運命を知ろうとしてルーレットに向かう主人公は、恋人のために賭け、元金を八倍にしてそれを渡す。こうして徐々に、ルーレットにのめりこんでいく。

 わたしは勝った――そして、また全額賭けた。前の分も、今の儲けも。
「三十一!(トラント・エ・タン)」ディーラーが叫んだ。また、勝ちだ! つまり、全部で八十フリードリヒ・ドルである! わたしは八十フリードリヒ・ドルを全額、真ん中の十二の数字に賭けた――円盤がまわりはじめ、二十四が出た。わたしの前に、五十フリードリヒ・ドルずつの包みが三つと、金貨が十枚、積み上げられた。前の分と合わせて、わたしの手もとに、総額二百フリードリヒ・ドルできていた。

 わたしは熱病にうかされたように、その金の山をそっくり赤に賭け、突然われに返った! そして、その晩を通じて、全勝負を通じてたった一度だけ、恐怖が寒さとなって背筋を走りぬけ、手足にふるえがきた。わたしは、今負けることがわたしにとって何を意味するかを、恐怖とともに感じ、一瞬にして意識した! この賭けにわたしの全生命がかかっていた!

こうして主人公は巨額の金を手に入れるが、やがてそれもパリで蕩尽してしまう。
ふたたび金を手に入れようとヨーロッパ各地の賭博場をまわるが、もはや幸運は訪れない。やがて債務のために刑務所にまで入る羽目になる。
それでも主人公は賭博場から離れられない。
かつての友人は、再会した主人公にこう尋ねる。

「……どうなんです、あなたは博打をやめるつもりはないんですか?」
「ああ、あんなもの! すぐにでもやめますよ、ただ……」
「ただ、これから負けを取り返したい、というんでしょう? てっきりそうだと思ってましたよ。しまいまで言わなくとも結構です。わかっているんですから。うっかり言ったってことは、つまり、本音を吐いたってことですよ。どうなんです、あなたは博打以外には何もやってないんですか?」
「ええ、何も……」 …(略)…

「あなたは感受性を失くしちまいましたね」彼が指摘した。「あなたは人生や、自分自身の利害や社会的利害、市民として人間としての義務や、友人たちなどを(あなたにもやはり友人はいたんですよ)放棄したばかりでなく、勝負の儲け以外のいかなる目的をも放棄しただけでなく、自分の思い出さえ放棄してしまったんです。わたしは、人生の燃えるような強烈な瞬間のあなたをおぼえていますよ。でも、あのころの最良の印象なぞすっかり忘れてしまったと、わたしは確信しています。あなたの夢や、今のあなたの最も切実な欲求は、偶数、奇数、赤、黒、真ん中の十二、などといったものより先には進まないんだ、わたしはそう確信しています!」

賭け事は、予想して金を賭け、結果がでるまでのあいだ、「全生命がかかっていた」と感じるほどの怖ろしいほどの緊張感をもたらす。そうして勝ったときの眩暈がするほどの陶酔。
だからこそ、そこまで人は夢中になるのだ。
事実、『賭博者』の主人公のように、賭け事で身を持ち崩す人も、相当数いるのだろう。

けれども先にも見てきたように、「賭け事」そのものが、ほんとうは恐ろしいものではない。むしろ、限定され、規則があり、審判がおり、賭け金さえ払えば「行動の責任」を問われることもない、という意味で、実は日常生活のほうがはるかに厳しいものなのである。

自分の欲望を抑えて、勤勉に働くこと。そうして、その労働で得た生産物や賃金は、自分の欲望のままに消費することなく貯蓄すること。

こういう考え方を「正しいもの」とするならば、「賭け事」というより、遊ぶこと自体が「正しくない」こと、となってしまう。
だが、わたしたちは仕事をする一方で、「遊びをせんとや生れけむ」という存在ではなかったのだろうか。

なるほど賭博者は運に自らを委ねるが、それでも、結局どこまで委ねるかは自分できめるのだ。 …(略)…
 どういう人を立派な遊戯者と言うのか。それは、次のことの分かっている人だ。不測の事態を、好んで求めたとは言わずとも、進んで受け入れてきたのだから、不運に文句をいったり、不幸を嘆いたりする権利は自分にはない、ということの分かっている人である。立派な遊戯者とは、一言でいえば心の平静を保って遊びの領域と生活の領域とを取り違えない人のことである。たとえ負けても、自分にとって遊びは遊びだ、という態度のとれる人のことだ。

(『遊びと人間』)

カイヨワの言う「立派な遊戯者」であることは、決して簡単ではない。それでも、互いに平等ではなく、曖昧で、不正が横行し、審判もおらず、なおかつ退くこともできず、失敗すれば厳しく責任を問われる日常生活の「賭け」のなかで、立派な「賭け」する人であるよりは、「立派な遊戯者」となるほうがまだしもたやすいことなのかもしれない。
少なくとも、「立派な遊戯者」であろうとしない人間には、日々の賭けを「立派に」やりとげることなどはできないだろう。

賭ける。
大昔から人間が続けてきた営みのひとつだ。
そこで何を賭け、何を得ることができるかは、あなたしだい。
ひとつ、何か賭けてみませんか。



初出 Sep. 08-14 改訂 Sep. 26, 2006

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