what's new ? ver.15
■what's new
11月09日
フィリップ・K・ディック
「お父さんのようなもの」
11月29日
「狐のようで獅子のようで犬のよう」
12月15日
トルーマン・カポーティ
「クリスマスの思い出」
12月29日
「感情的?or 理性的?? ――女はほんとうに感情的か」
01月15日
ジョージ・オーウェル「なぜわたしは書くのか」
02月18日
グレアム・グリーン「パーティの終わりに」
03月16日
「サキ・コレクションvol.7」
04月8日
J.D.サリンジャー「ロイス・タゲットの長いデビュー」

■その他の更新

▼ Last Update 4.09

「ロイス・タゲットの長いデビュー」の翻訳をアップしました。

2月の始めにサリンジャーの訃報を聞いて、何よりも驚いたのが、91歳という年齢でした。考えてみれば同じ年に生まれたアイリス・マードックも、さらにかのナット・キング・コールも物故して久しいのですから、サリンジャーが91歳であってもなんの不思議もないのですが、なんとなくわたしの頭の中では、サリンジャーは60代くらいから歳を取ることもないままだったのです。

わたし自身は、一度もサリンジャーの良い読者であったことがありません。例の『ライ麦畑…』の「良い者――悪者(ホールデン言うところの“フォニー”)」が見事なまでに分かれている世界観は、十代のわたしの目にも、なんだか落ち着きの悪いものでしたし(わたしは自分がまちがいなくフォニーの側にいると感じました)、グラス家の物語はちっともピンと来なかった。サリンジャーはずっと人気のある作家でしたから、ピンと来ない自分は感受性に問題があるのだろうか、と思ったものです。『ナイン・ストーリーズ』で「エズミ」を読んだときは、やっと好きになれるのを見つけて、ほっとしたぐらいでした。

何か訳そうと思って探していたところ、この「ロイス・タゲット」を見つけました。今回読んだのが初めてだったのですが、まず、「禅」も「公案」も出てこないのにホッとしました(笑)。1942年発表ということですから、従軍前、戦闘経験のない時代のサリンジャーなのでしょう。ここに描かれる「喪失」は、ノルマンディー上陸作戦を始め、ドイツ軍との過酷な戦闘に加わった、のちのサリンジャー(あるいはシーモアやX見習い軍曹)が経験した「喪失」とはちがいます。けれどもそのぶん、時を超えて、社会に出ようとする誰もが経験する感覚に近いように思います。

わたしはこの作品を、「自分に対する違和感を何とかして解消しようとしたロイスが、やがて世間と折り合うことで自分とも折り合いをつけ、社会の一員になっていく物語」として読みましたが、みなさんはいかがだったでしょうか。

原題の "Long Debut" をどう訳そうか、ずいぶん悩みました。そもそもデビューというのは、ある場所に入っていくことですから、どうしたって長くかかるものではありません。どうにも相性の悪い「long」と「debut」をどうつなげていくか。もちろんその矛盾が原題のおもしろさでもあるのですが、そのまま「長いデビュー」とすると、おさまりの悪さだけが目につく。「長くかかったロイス・タゲットのデビュー」というのも考えたのですが、あまりこねずにそのまま行くことにしました。読んでくださった方が、最後で「『長いデビュー』というのはこういうことだったのか」と納得していただければそれでいいかなあ、と思っています。

さて、サリンジャーというと、どうしてももうひとりの人物の名前を思い出してしまいます。ジョイス・メイナード、彼女が十代の終わりに書いた『19歳にとって人生とは』という本は、中学生から高校生にかけてのわたしのお手本でした。1959年、1960年、と年代記ふうにエッセイをまとめていく手法、自分の身の回りの些細な出来事(テレビガイドやライフという雑誌、あるいはバービー人形やファッション)を鏡にして、社会を映し出していく手法。文字通りこの本を教科書にして、わたしはいくつもの文章を書いていました。そのころはまだ何も知らなかったのですが、この本は、コーニッシュでサリンジャーの指導を受けながら書いたものだったようです(『ライ麦畑の迷路を抜けて』)。

メイナードは、18歳のときに発表したエッセイが、筆者の愛らしさも相まって、大評判になりました。イェールに進学した彼女のもとに、ファンレターの詰まった郵便袋がいくつも届くようになり、そのなかにジェローム・デイヴィッド・サリンジャーという署名のある手紙も含まれていたのです。ふたりの文通が始まり、やがて53歳のサリンジャーと18歳のメイナードは共に暮らすようになる。その関係は長くは続かないのですが、サリンジャーはともかく、メイナードにとっては生涯を揺るがすような大事件だったのでしょう(この話はいくつかの文章で書いていますので、興味がおありの方は、トップページの検索窓に「メイナード」と入力してみてください)。

その後のメイナードは、結婚と出産、育児とさらに離婚、執筆活動への復帰とさまざまな経験を重ねていきますが、サリンジャーとの破局の痛手からは、完全には立ち直れていないのかもしれません。というのも、’99年、メイナードは自分がもらったサリンジャーからの手紙を、オークションに出しているからです。表向きは、子供の進学の費用、ということでしたが、作品が映画にもなり(邦題は『誘惑』、映画タイトルは『誘う女』としてニコール・キッドマンが主演しました)、本の出版もコンスタントに続いている彼女が、生活に困っているとは考えにくいからです。手紙という極めて私的なものをオークションに出すという、どう考えても非常識な行為は、彼女の心の傷がまだ癒えていないことの証のように思えるのです。だからこそ、の捨て鉢な行為なのではないか、とニュースを見て、胸が痛むような気持になったものでした。

残念ながら『19歳にとって人生とは』よりあとのメイナードの作品からは、十代のわたしが夢中になった才気も、みずみずしさももはや感じることはできません。ひとつの大きな才能というのは、より小さな才能を吸収していくということなのだろうか。それとも、まっすぐに成長し続けていくというのは、これほどにもむずかしい、ということなのだろうか。ばくぜんとそんなことも思います。

ともかく、これもサリンジャー、という作品です。楽しんでいたけたら、これほどうれしいことはありません。

このところあれこれ忙しく過ごしていたら、眼精疲労から来る頭痛と頸椎の痛みにうめくことになりました。結局カイロプラクティックを紹介してもらい、そこに通いながら、パソコンに向かう時間も制限されてしまいました。まあパソコンに向かわない時間、本を読んでるんですが(笑)。

ということで、このところ更新のペースも落ちているのですが、まあぼちぼちとやっていこうと思います。よろしくおつきあいのほど。

それにしても、なかなか春らしい陽気が続きません。桜も満開となったというのに。地球は温暖化してるんじゃなかったんでしたっけ。ともかく、いままさに花の盛りという時期です。ただ咲いているだけで、わたしたちの目も、心もひきつけられる。花というのは不思議なものですね。

どうかみなさまも、桜の季節を楽しんでいらっしゃいますよう。
お元気でお過ごしください。

ということで、それじゃまた。

April.09 2010



▼ Last Update 3.17

「サキ・コレクションvol.7 ―隣の不思議」の翻訳をアップしました。

ブログの方に「トバモリー」のリクエストをいただいたことで、今回はサキのなかでも「身近な不思議」を集めてみました。

サキの短篇は「不思議」なことがよく起こります。その「不思議」はインチキやニセモノを暴くために、トリックを用いて起こされる上辺だけの「不思議」と、人知の及ばない、自然に根ざした「不思議」に大別されます。今回の「不思議」は、いずれも人知の及ばないもの。

なかでも「モウズル・バートンの平和」は「呪い」というのは何だろうと思わせる短篇です。おばあさんがふたり、互いを呪い合っていて、その呪いは、お湯が沸騰させなくしたりアヒルを溺れさせたりして、現実に効力を発揮しています。ただ、ここで興味深いのは、人間が何かを念じると、それが物理的な力を及ぼすのだろうか、という「不思議」よりも、いったいおばあさんがどうして相手をそこまで憎むのか、いったいどのような原因があり、これまでの経緯があったのだろうか、という「不思議」です。

サキは都会対農村、という対立軸を持ってきます。あわただしく無機質な都会に対して、農村は、穏やかで平和な世界、時間と空間が溶け出したような世界として最初は描かれます。ところが一歩中へ入ってみると、憎み合うふたりの人間のせいで、さまざまな不条理が起こっている世界でした。確かに時間と空間は、都会のようにかっきりと区切られてはいない。けれど、それは呪いによって歪められているからではないか。あるいは逆に、時間と空間が緩い世界だからこそ、呪いのようなものが生じる隙間があるのかもしれません。

わたしたちはいま、時間に追われた生活をしています。いまも、ああ、もう夜の十時半を回った……と焦りながら書いているのですが、時間なんか気にせずに、ゆっくりと本が読めたら、音楽が聴けたら、と思わずにはいられません。けれど、この「時間に追われる」ということは、同時にわたしたちの生活だけでなく、感情にも区切りをつけてくれているのではないでしょうか。

「七番目のひよこ」では、みんなに好評を博した話も、時間の経過とともに、飽きられていく様子が描かれていきますが、確かにどれだけおもしろい話でも、三度も聞くと、いいかげんイヤになってくるものです。頭を抱えるような失敗も、知らなくて恥ずかしい思いをしたことも、失恋も、別れも、時の経過とともに、枝葉が落ちておおざっぱになり、思い返すことのできる物語に変わっていきます。けれど、もし時間がそんなふうに流れていかなかったとしたら。三日前の出来事も、三年前の出来事も、三十年前の出来事も、さっき起こったことと同じように、わたしたちの頭の中で反復されていたとしたら、それはひどく恐ろしい、出口のない牢獄に閉じこめられているようなものだと思うのです。

時に厄介な時間。恨みたくなるようなものでもある時間ですが、わたしたちのものの見方考え方を成り立たせているものが、時間の感覚であることは間違いないように思います。

ところで「トバモリー」、しゃべるネコ、というのは「不思議」というより荒唐無稽に近いものですが、実際、飼っているネコが人間の言葉をしゃべったらどうなるんだろう、というのは、たいがいの人が一度は考えたことがあるのではないでしょうか。ウィトゲンシュタインは『哲学探究』のなかで、「もしライオンがしゃべったとしても、わたしたちには何を言っているかわからないだろう」と言ってるんですが、きっとウィトゲンシュタインも考えたことがあったから、こんな喩えが出てきたんじゃないだろうか、と思ってしまいます。

きっとネコがしゃべったとしても、トバモリーみたいに人間関係に興味は決して抱かないにちがいない。それどころか、人間には想像もつかない世界のとらえかたをしているにちがいない。だからこそ、何を言っているかわからない、その話を聞いてみたいものだ、と思います。

はてさて、サイト開設当初より少しずつ訳し続けたサキの短篇も、ついに二十篇を超えました。なぜこんなに続いているかというと、著作権が切れていること、原作の全てが電子化されていて、オンライン上で読めること、さらにはひとつあたりが短いことや、切り詰めた英語の文体が明晰で、訳しやすいことなどがおもな理由ですが、なにより読んでみておもしろいから、というのが根本にあります。

サキの短篇は、意外な結末に向かって進んでいくストーリーがすべてです。登場人物は、いく通りかにすべて収まり、インチキやニセモノは、声高な正義によってではなく、皮肉な叡知によって厳しく断罪される、というプロットも、ほぼすべての短篇に共通して見られます。それでも、巧みなストーリー・テラーの手によって、「それからどうなるんだろう」という興味でわたしたちを引っ張っていき、最後にちょっとびっくりさせて、ははあ、こう来たか、とニヤリとさせる。

こういう短篇を読むと、フォースターのこんな言葉を改めて思い出してしまいます。

物語が、すべての小説に共通するいちばん重大な要素です。そしてわたしは、そうでなければいいのにと思います。もっと別なものが――たとえば美しい旋律や、真理の認識などが――小説のいちばん重大な要素ならいいのにと思います。物語などというこんな下等な、原始時代に戻ったようなものでなければいいのにと思います。
( E.M.フォースター『小説の諸相』)

確かにサキに(あるいはダールに)「美しい旋律」や「真理の認識」を求めるのはお門違いでしょう。それでも、わたしたちの遺伝子のなかにかすかに残っている、遠い遠い日の記憶、暗い夜、洞穴のなかでたきびを囲んで「それからどうなるんだろう」と耳を傾けていたころの好奇心が、結局わたしたちを小説に向かわせているのだろうと思います。そんなふうに考えていくと、サキのような短篇は、やはり誰が読んでもおもしろいのだろうし、それは物語にとって、最上の賛辞なのだろうと思います。

このところ、暖かくなったと思えば、今日などは妙に寒くて、あわてて上着を取りに戻りました。部屋から見た外の陽射しがあんまりまぶしかったからです。でも、もうすぐ、この陽射しに気温も追いついて、春らしくなってくるのでしょう。

秋に植えたチューリップの球根が、ぼつぼつと芽を出しています。いまから芽を出して春に間に合うのか危ぶまれるのですが、とにもかくにも芽が出たことを喜びましょう。冬を越したオリーブの鉢植えも、新芽をいっぱいつけています。

新しい季節、新しい年度の到来です。またがんばっていかなくちゃ。

ということで、それじゃ、また。
ええ、「責任論」も仕上げます(笑)。

どうかみなさまもお元気でお過ごしください。

March.17 2010



▼ Last Update 2.19

グレアム・グリーンの短篇「パーティの終わりに」の翻訳をアップしました。

グレアム・グリーンを読んだのは、カポーティに紹介されたからです。
というのはあまり正確じゃないな、インタビュー『カポーティとの対話』のなかで、インタビュアーのローレンス・グローベルがおすすめの本をたずねたのに答えて、カポーティはアイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』やリチャード・ヒューズの『ジャマイカの烈風』など多くの本をあげていくのですが、その中に、グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』が含まれていたのです。

すぐに図書館の棚に並んでいた「グレアム・グリーン全集」の中の第六巻を借り出したのは言うまでもありません。ページを開くやいなや、読んで、読んで、そうして最後のパラグラフを読んだときには叫び声を上げそうになりました。以来、グリーンとは長いつきあいが続いています。

大人になってみると、『ブライトン・ロック』よりは『事件の核心』や『権力の栄光』そして『おとなしいアメリカ人』などの作品の方に引かれるですが、一方で、根底にあるカソリシズムは、どこまでわかって読んでいるのだろうと、いつもおぼつかない思いでいます。もしかしたら信仰を持たないわたしには、決して理解できないのかもしれません。

この「パーティの終わりに」という短篇も、結末部をどう読んだらいいのか、わたしにはもうひとつよくわかりません。フランシスが恐怖を感じ続けているというピーターの証言は、死後もなお恐怖が続いていくことなのでしょうか。死後もつづく闇や恐怖とはい、ったいどういうことなのか。たとえば『ブライトン・ロック』の主人公ピンキーとは異なって、邪悪さとは無縁なフランシスもまた、そのような場所へ行くのでしょうか。

もうひとつ、この作品に出てくる「ふたご」という存在は、興味深いものです。わたしはかつてふたごの子供たちと親しくつきあった経験があるのですが、脳に相手の考えているイメージが投影されるという話は聞いたことがありませんでした。けれども、打ち合わせも何もなく、ふたりで完全に声をそろえて「あのね、お母さん、学校から帰ってたらね……」としゃべり出すのを何度も目の当たりにしていて、その完璧なユニゾンにはいつも驚かされたものです。いったいどういうメカニズムが働いているのでしょうね。

こうしたふたごの不思議さとは別に、作品にふたごの視点を導入するということは、わたしたちはフランシスの目から世界を見ることができるだけでなく、ピーターの目を通して、フランシスの恐怖を客観的に見ることができます。フランシスの恐怖が確かにそこにあることを、ピーター信頼できる語り手であるピーターが証言してくれるのです。ふたごというのはいつも使える手ではないでしょうが、おもしろい手法だなと思います。

『二十一の短篇』の中には、同じような少年の恐怖を扱った「地下室」という短篇もあります。また、ほかにも興味深い短篇もあります。機会があればまた訳してみたいと思いますので、そのときはまたよろしくお願いします。

さて、この作品に描かれている「少年の孤独」は、第二次世界大戦以前のヨーロッパの中産階級に特有のものでしょう。イギリスの子供を主人公にした作品では、子供たちは小さいころは乳母に育てられます。この作品では原文の nurse を、乳母、ナニーと訳し分けているのですが、英語には wet nurse と dry nurse という区分があります。wet nurse というのは、出産後間もない女性が、文字通りの乳母として、仕えた家の赤ちゃんに授乳する仕事です。そうして dry nurse はそれより大きな子供を相手にする、授乳しない乳母です。

母親は子供を産むだけで、実際に育てるのは乳母、やがて家庭教師がそれに代わります。けれどもそうした乳母たちは、多くの場合、漱石の『坊っちゃん』の清とはちがって、大変厳しい、そっけない人が多い。『メアリー・ポピンズ』は家庭教師ですが、本を読むとそのきつさには驚いてしまいます(映画のジュリー・アンドリュースとは全然ちがうのです)。自立といえばまちがいなく自立はしていくのでしょうが、なんだか日本のべたべたした家族関係しかしらないわたしなどから見れば、そんな「家」というものはちょっと想像しがたいところがあります。

いまから見れば、ずいぶん厳しい家族関係ではありますが、その時代を生きた作家の多くがそうやって成長していることを思えば、かならずしも悪いものではなかったのでしょうか。何をもって「良い」「悪い」とするか、というのは一概には言えないな、とつくづく思います。

さて、まだまだ寒さは厳しいですが、日射しはずいぶんまぶしくなってきました。あとひと月もすれば、重いコートともお別れできるかもしれません。梅の花もほころび始め、やがて桃も咲くでしょう。春はすぐそこ。残り少ない今年の冬の寒さも、大切に味わっておきたいと思います。

また、つぎのログもぼちぼち書いています。もうすぐアップできると思うので、お楽しみに。

どうかみなさま、お元気でお過ごしください。

ということで、それじゃまた。

Feb.19 2010



▼ Last Update 1.17

ジョージ・オーウェルのエッセイ「なぜわたしは書くのか」の翻訳をアップしました。

知っている人しか知らない話題だと思いますが、1980年代半ば、「ヤングマガジン」という雑誌に連載されていた『風呂上がりの夜空に』というマンガが好きで、よく読んでいました。その最終回は、作品の舞台をいきなり二十年後に早送りして、登場人物の子供たちを登場させ、間接的なかたちで登場人物のその後を描いていたのです。そのなかに、「知らなかったの? ソ連は昨日から資本主義になったのよ」というセリフがあって、作者の小林じんこはずいぶん適当なことを書いているなあ、と思いながら読んだものでした。1987年の時点ですら、「ソ連が資本主義」というのは、想像だにしないことだったのです。

驚くなかれ、数年後にはそれが事実となります。1989年のベルリンの壁崩壊、そうしてそれに続く東欧民主化と、1991年のソ連の崩壊のニュースを聞くたびに、わたしが思い出したのはそのマンガの吹き出しでした。

二十世紀初頭に生まれたオーウェルは、青年期に社会主義に傾倒し、スペイン戦争に従軍します。ところがそこで社会主義政党の密通や裏切りを目の当たりにして、疑問を抱くようになり、やがて周囲に先駆けて、ソ連型社会主義を全体主義として激しく攻撃するようになります。それを作品化した『動物農場』は、1944年の段階では国内での出版が困難なほどでした。

その『動物農場』が熱狂的に受け入れられるようになったのと歩調を合わせるように、全体主義という言葉が指す対象は、ナチズムではなく、スターリニズムに移っていきます。そのころオーウェルは、『動物農場』後の社会、ナチズムとスターリニズムが結びついたような一党独裁の社会を考えます。そこではテレビなどのマス・メディアのツールが政治宣伝と秘密警察の監視に徹底的に利用されているのでした。そんな近未来を『一九八四年』に想定したのです。

幸い、わたしたちの迎えた1984年は、そこまで暗うつな社会ではありませんでした。やがて先にも挙げたように、社会主義政権は雪崩を打って崩壊していきます。全体主義を鋭く告発し、民主社会主義者を自認したオーウェルが、もしベルリンの壁崩壊やソ連崩壊を目の当たりにしたら、何を感じたでしょうか。オーウェルも小林じんこのように(笑)、早い段階でソ連の崩壊を予言していたかもしれません。だとしたら、オーウェルは西側諸国をどのような目で見ていたでしょう。インドシナ戦争からヴェトナム戦争にいたるヨーロッパ諸国やアメリカの対応を。今日のミャンマーの様子を。オーウェルにはもっと生きていてほしかった。もっといろんな話を聞きたかった。そう思います。

今回訳したエッセイのなかで、オーウェルは、自分の本来の資質は政治的なものではない、と言っています。「二百年前に生まれていたら ぼくは幸せな教区牧師になっていただろう」という詩も紹介しています。

実際、わたしたちは自分が生きている社会と無縁ではいられません。そもそも「自分の本来の資質」と思っている部分さえもが、社会によって産み出されたものと言えるでしょう。

いまのわたしたちは、幸か不幸か、「政治には興味がない」と無関心でいられる社会です。貧困や社会の高齢化などの問題があることは理解していても、自分に何ができるか、自分がどうしたらいいのか、どう考えたらいいのかもわからない。何だか社会が大きくなりすぎてしまって、ちっぽけな自分に何もできないような気さえします。けれども、それ自体がすぐれて政治的な態度といえるのでしょう。

簡単に答えは見つからないだろうし、明確な答えはないまま、態度を迫られることになるのかもしれません。それでも、そうした問題に対して、本を読んだり考えたりするなかで、自分の思考と行動に、社会的な根拠を与えていくことはできるはずです。それが、同時に自分がこの社会の中で生きていく根拠ともなっていくのでしょう。

同時に、全体主義という言葉が指す対象が、時代や状況に応じて変わっていくように、文学作品のとらえ方も時代とともに変化しつつ、解釈が変わったり、あらたに価値が見出される部分をも含みながら、受けつがれていくはずです。たとえ社会主義陣営が消滅して冷戦構造がなくなっても、管理と支配の問題は残っていく。いま、街中には「防犯」の名目で、監視カメラがそこらじゅうにあります。これは「ビッグブラザーが見ている」状況と、どうちがうのか。

オーウェルも、現代の光を当てつつ、再読されるべき作家であるように思います。このエッセイや、以前訳した「象を撃つ」が、読んでくださった方とオーウェルの間に橋を架けるものとなることを、祈ってやみません。

さて、以前ブログ「こんなこともあろうかと!」で紹介した「はやぶさ」ですが、ついに地球の引力圏に到達したそうです。1月14日の時点で、地球から約6,000万kmの距離を航行しているとのこと。いよいよです。帰って来いよ、と念を送ろうではありませんか!

まだまだ寒さは厳しいですが、日の出の時間は少しずつ早くなってきました。たとえこれから寒さが本番となろうとも、春が近づいていることを太陽は知らせてくれます。早く暖かくなってほしいもの。それを願いつつ、寒い日を耐え抜きましょう(笑)。

どうかみなさま、体調など崩されませんよう。
お元気でお過ごしください。

ということで、それじゃまた。

Feb.19 2010



▼ Last Update 1.10

ちょっと日が経ってしまいましたが、やはり新年初の更新は、この言葉から。
みなさま、あけましておめでとうございます。
みなさまにとって、2010年が実り多い年でありますよう、心より願います。
そしてまた、本年も当サイトをどうぞよろしくお願いいたします。

さても2010年になりました。
1999年だ、ミレニアムだ、二十一世紀だ、と騒いでいたころから十年ばかりが過ぎたことが不思議に思えるほど、穏やかな年明けでした。

いつも通りに日が暮れて夜になり、時計が十二時をまわっただけなのに、でもそこからは新しい年。冷え冷えとした空気さえも、なんだか新鮮なもののように感じられます。起きて年を越せるほどの歳になってからというもの、ずっとその瞬間が好きでした。小さい頃から感じていた新鮮さと不思議さのないまぜになった気分は、何度それを繰りかえしても、あせることがありません。そういう刻み目を生活の中にきちんとつけてくれるお正月というのは、やはりいいものだと思います。

とはいえ、おめでとう、おめでとう、と会う人ごとに言ってはいても、実際、何がめでたいのか。
夏目漱石に「元日」という短くも皮肉な文章があります。
元日がめでたいといったって、何がめでたいんだ、めでたいこともないのに、めでたい、めでたいと言っているから、正月の新聞に書く記事もなく、いたずらに閑な記事を載せている。

元日の新聞は単に重量に於て各社ともに競争する訳になるんだから、其の出来不出来に対する具眼の審判者は、読者のうちでただ屑屋丈(だけ)だろうと云われたって仕方がない。

なるほど明治時代から、元日の新聞は分厚かったようです。
今年も分厚い新聞のなかから、スポーツだ、芸能だと開きもしない分冊を取り除き、ふだんと同じの厚みにしてから、占いとさほど変わらない年頭記事を読んだのでした。

漱石の「元日」の中にも年内についた餅を、一夜明ければ雑煮として頬張る…とありますが、年内にアップした記事の更新情報というか裏話を、年も明けて10日も過ぎて、やっと書くことになりました。雑煮どころか鏡開きのぜんざいというところでしょうか。

「感情的?or 理性的?? ――女はほんとうに感情的か」をアップしました。

「女は感情的」という言葉をこれまで一体何度聞かされたことでしょう。
幸い、自分の行為に対してそのような評価を下されたことのなかったわたしは、十代二十代を通じて、その言葉に対して「自分はそんなことはないのに、なんでそんなことを言われなければならないのだろう」という感じ方をしていたのです。クラスメイトを見て「これだから“女は感情的”だなんて言われるんだ」と思ったこともあります。

けれども歳を取るにしたがって、少しずつ自分の姿が見えてくる、というか、等身大の自分が見えてきて、「こうありたい」というフィルターを外して、眺めることができるようになったせいでしょうか、自分がずいぶん感情的にふるまっていることに気がつくようになりました。もう少し正確に言うと、決まり決まった日常作業や、やらなければならない仕事をのぞいた、いわゆる自発的行動の動機を考えてみると、そのほとんどが感情に由来するものなのです。これはおもしろそうだと思って本を選ぶ。聴いてみておもしろいから、あるバンドを聴く。あれをしたい、これをしたい、というのも感情です。何かをやってうまくいったから、もっとやってみよう、と思うのも、感情から来ています。

「女は感情的」という言葉によって連想されるのは、自分の気に入らないことに対して、泣いたりヒステリックにかみついたりしている姿でしょうか。けれどもそれだけが「感情的」な行為ではありません。なぜ感情に由来する行為のうち、そうしたふるまいだけが「感情的」と言われるのか。そしてまた、カッとして人を殴りつけたり、物を投げたり、ドアを叩きつけたり、といった行為は男性もするのに、「女は感情的」と言われるのか。そのことを考えてみたかったのでした。

もうひとつ、わたしは小学生の頃から、ひとつ疑問を抱き続けていました。
当時、近所のおばさんが、よく家に話しに来ていたのです。上がり込むわけではなく、玄関のあがりがまちに腰を下ろし、母を相手に、自分の家庭内のあれやこれやの話をしていました。その人の口癖が「わたしは神経質だから」ということでした。

「お姑さんがこんなことをするんだけど、神経質なわたしには我慢できなくて…」「主人はあんなことを言うんだけど、わたしは神経質なものだから、どうしてもじっと聞いてられなくて…」。

その話を家の中で聞くともなしに聞きながら、ほんとうに神経質な人は、そんなことをよその家に行ってしたりはしないよなあ、と考えていました。やれやれ、やっと帰ってくれた、とため息をつきながらお勝手に立つ母を見ながら、小学生のわたしは、「神経質な人、というのは、人に神経を使わせる人なんだなあ」と思ったものです。

以来、おもしろいことに気がつくようになりました。「わたしは優しいでしょ」と自分から言う人は優しいとは思えないし、「あなたは攻撃的だ」という決めつけは、何にも増して攻撃的です。それと同じで人に向かって「感情的」と言うことは、あまり理性的とは言えない。それはいったいどうしてなのだろう。そのことも合わせて考えています。

「女は感情的」ばかりではなく、多くの方がさまざまな言い方で決めつけられて、頭に来た経験があるかと思います。なぜ「決めつけ」が頭に来るのか、そうして自分自身がその「決めつけ」をやってはいないか、何らかのヒントになれば、これほどうれしいことはありません。

今年もまた、読んだり、日本語に訳したり、考えたりしながら、歩く速さでやっていきたいと思います。

今年もよろしく。

みなさまの一年がすばらしいものでありますように。

 ――2010年の初めに



Jan.10 2010



▼ Last Update 12.16

トルーマン・カポーティの短篇「クリスマスの思い出」」の翻訳をアップしました。

わたしが好きなミステリ作家マーガレット・ミラーが、あるインタビューの中でこんな話をしているのです。

毎年クリスマスになるたびに、彼の「クリスマスの思い出」が朗読されるわよね。わたしはそのたびに「もう二度と聞いたりするもんですか。この前聞いたときは大泣きしたんでしょ。もう二度と聞かないわ」って自分に言い聞かせるんだけれど、結局また聞いてしまって最初のときと同じように大泣きするってわけ。あれは本当に素晴らしい物語だわ。実際に彼自身が語り手を務めているんだけど、それがまた一段と効果を高めているの。あの消え入るようなかぼそい声のせいでね。視聴者はそれで彼が自分自身のことを語ってるのだと、あれは彼の子供時代の物語なんだってことを知るのよ。

(マーガレット・ミラー『心憑かれて』巻末インタビュー
 柿沼瑛子訳

インタビューを受けたとき、ミラーは七十四歳で、ほとんど視力を失っています(それでも口述筆記で執筆を続けていて、あらためてすごい人だと思うのですが)。ここで「聞く」と言っているのは、本を読むことができなくなって、何かを読もうと思ったときは、朗読にたよるしかなくなっているからなのです。ずいぶん不便だろうなあとは思うのですが、反面、朗読された小説を耳で聞くというのは、目で読むのとはずいぶんちがう印象を受けるのかもしれません。

それにしても、こんな話を聞くと、「あの消え入るようなかぼそい声」が聞いてみたくなります。検索してみると、カポーティの朗読のCDもあるようなのですが、http://www.youtube.com/watch?v=2eF8Fke0idYでは、カポーティの作品をほぼ忠実に映画化したものを観ることができ、ナレーションをカポーティ自身が務めています(字幕なし)。朗読とはちがうのですが、それでも「あの消え入るようなかぼそい声」を聞くことができます。

ミラーのように「大泣き」こそしませんが、この作品は何度読んでも、胸がいっぱいになってきます。なんといっても心に残るのは、クリスマスの当日、ふたりが凧あげをする場面でしょう。

"I'll wager at the very end a body realizes the Lord has already shown Himself. That things as they are …… just what they've always seen, was seeing Him. As for me, I could leave the world with today in my eyes."

(賭けてもいい。最後の最後に人は悟るんだ。主は御姿を、これまでもずうっとあたしたちの目の前に現しておられたんだ、ってね、まちがいないよ。ものごとはすべてあるがままの姿をしているんだって……人がずっと目にしてきたものは、どれもみな、主の御姿だったんだよ。今日という日をこの目に収めたまま、あたしはここで死んでもいい)

ここで「友だち」は、スピノザの「神即自然」と同じことを言っています。カポーティはスピノザを、たぶん読んではいなかったんじゃないかな、もし読んでいれば、カポーティのことだから、きっとこんなにダイレクトには出さなかったんじゃないか。知らないまま、同じところにたどりついたんじゃないか。まったく根拠はないのですが、わたしはそんなふうに思っています。

七歳のバディは「幸せだ」と思う。「友だち」もおなじことを感じています。けれども同じ幸福感でも、ふたりのそれはちがう。「友だち」は、その幸福感を、「ものごとはすべてあるがままの姿、神の姿が現れたものだった」というふうに感じるのです。

このちがいは、おそらく「友だち」の側に別れの予感があることと無縁ではないでしょう。バディはまだ知らなくても、「友だち」は「喪失」を知っている。この一瞬がどれほどすばらしいものであっても、やがて失われ、もはや決して戻ってこないことを知っている。それでも、みじめな日々の暮らしも、年に一度のクリスマスによって彩られ、クリスマスの楽しさで、残りの日々のつらさもあがなわれるように、喪失も、つらい歳月も、やがて来るバディとの別れの悲しみも、最後に天国に迎えられることであがなわれると、それまで「友だち」は考えていたはずです。

だから、バディが求めるより、もっと必死の思いで「友だち」はクリスマスを求めていた。すがっていたと言ってもいいかもしれません。けれど、このとき初めて「友だち」は、「ものごとはすべてあるがままの姿」をしていると感じた。みじめな日々とすばらしいクリスマスがあるのではなく、毎日がクリスマスなのだと。喪失があり、不幸があり、歓びや幸せがあるのではなく、なにもかもが「主の御姿」なのだと理解したのでしょう。

そのとき感じた自分は神にふれているのだという深い歓び、幸福感は、絶対的なものだったろうと思います。だから、バディと別れたあと、もちろん「友だち」は寂しかったでしょうが、そのときの理解以前の状態とはまるでちがったはずです。

では、バディはどうだったのでしょうか。このときの思い出を語る、大人になったバディは「友だち」が何かにふれていたことは理解していたでしょう。けれども信仰を持たない彼は、「何かがあるのだろう」というかたちでしか、感じられなかったのではないか。だからこそ、この物語を語ることで、何度もそこに帰っていく方法を選んだのではないでしょうか。

読者であるわたしたちは、深い絆で結ばれたバディと「友だち」が、やがて別れていく予感を抱きながら、ふたりと一緒に、ちょうど日めくりをめくっていくように、クリスマスまでの日を過ごしていきます。そうしてバディがその家を離れ、「友だち」と永遠に別れたとき、その別離にそれぞれが持つ喪失の記憶を重ねます。ミラーは「視聴者はそれで彼が自分自身のことを語ってるのだと、あれは彼の子供時代の物語なんだってことを知るのよ」と言っていますが、わたしはかならずしも「真実」(何をもって真実と呼ぶかどうかはむずかしいところではあるのですが)ばかりではなかったろうと思います。

ただ自分の記憶を重ね合わせてこの物語を読む読者にとって、この物語はカポーティの「真実の物語」でなければならないのかもしれません。わたしたちにとって、自分の「クリスマスの思い出」が真実でなければならないように。

初めて見たもみの木。クリスマスキャロルの響き。サンタクロースを信じていたころ。朝起きたときに枕元にあるプレゼントを見たときの、うれしいだけではない、不思議な気持。

喪失の記憶を持つすべての人に、この短篇の翻訳を贈ります。

ところで、今回、翻訳をするために、ローレンス・グローベルの『カポーティとの対話』と、ジョージ・プリンプトンの『トルーマン・カポーティ』をざっと読み返してみたのですが、『対話』の方に、大韓航空機撃墜事件について、カポーティが言及している箇所があります。確かに1982年から83年にかけておこなわれたインタビューのなかで、大きな話題になった1983年の事件に言及することは、不思議でもなんでもない。それでも、自分がリアルタイムで知っていることが言及されていると、改めて、同時代の人なのだなあと思います。

亡くなったのは五十九歳ですが、「かなり早い時期に自分を発見した」というカポーティが残した作品のほとんどは、比較的若い時期に書かれたものばかりです。『冷血』を書き終えたのち、「これ以上のものが書けない」「人生の飽和点」と感じたカポーティは、どんな思いで世界を眺めていたのか。そうしてその一時期を、わたしも同じ世界を眺めていたことを思うと、何だか不思議な気がします。カポーティの目に、いまの世界はどう映るでしょうか。カポーティは、生まれ変わるとしたら「ノスリという鳥」になりたいと言っています。

ノスリの生活は快適で自由だからだ。ノスリの好きな人間なんていないし、ノスリのすることを気にかける人間もいない。ノスリになったら友人や敵のことを気にする必要もない。ただ外に出て、空を飛び、楽しみ、エサを探すだけでいいんだ。

(ローレンス・グローベル『カポーティとの対話』
河本三郎訳 文藝春秋社)

ノスリの位置から世界はどんなふうに見えるのでしょうか。

* * *

それにしても、寒いです。寒くなると体が動かなくなるのが困ります。動かないから寒くなるのはわかっているのですが、ぶくぶくと着ぶくれ、ちょっと外には出られないような格好になって、家で本を読んだり、パソコンに向かったりしているのです。ああ、これからどんどん寒くなっていく。考えるだけで、気持が暗くなります。

とはいえ、Porcupine Tree も Dream Theater も Oceansize も新しいアルバムを出したし、どれを買うか悩まなきゃいけません。これはうれしい悩みです。たぶん全部買うんだけど(笑)。

週末に向かって、どんどん寒くなるのだそうです。
どうかみなさま、お元気で。暖かくしてお過ごしください。

ということで、それじゃ、また。

Dec. 16 2009



▼ Last Update 12.12

ちょっと日が空いてしまったんですが、「狐のようで獅子のようで犬のよう ――たとえ話の動物たち」をアップしました。

いまからかれこれ二十年近く前のことだと思うのですが、東京ディズニーランドで、ディズニーのキャラクターたちが、さまざまな国の民族衣装を着て、その地域の文化を紹介しながら「世界はひとつ」と歌い踊るショーがありました。

何度かそのショーを見ていたわたしは、あるとき、バンブーダンスがなくなっていることに気がつきました。映画「ジャングルブック」の登場人物のオランウータンたちが、三拍子のメロディに合わせて、広がったり閉じたりする二本の竹の間を軽やかに跳ぶダンスです。なぜ急になくなったのか知り合いに聞いたところ、フィリピン大使館から抗議があったから取りやめになったのだ、とのことでした。

ネズミやリスやアヒルやイヌならよくて、オランウータンがその国の人びとに扮することが不快なのか、わたしにはその理由がよくわかりませんでした。けれどもわからなかったおかげで、この出来事は引っかかりとしてわたしの頭の中に残っていったのです。

AがBに「扮する」。
それは単に役柄だけのことです。にもかかわらず、わたしたちの目に憎々しげに映るのは、その役を演じている役者の方です。もちろんわたしたちは役者が単に演じているに過ぎないと知っています。それでもばくぜんと「この人にはそういういやな部分があるから、それがにじみ出ているのだ」という印象を受けてしまうことはないのでしょうか。連続殺人犯などの極端な役柄ではない、上司や男性に媚びたり、本音とたてまえを使い分けたりするような、誰にでもあるような性質が、ドラマのなかで主人公のイノセンスを強調するために「敵役」として描かれるとき、その役者自身が、うまく演じれば演じるほどそういう性質を備えているように受けとられるのではないか。それが、パブリックイメージとして定着してしまうのではないか。

つまり、Bに扮したAの中に、観客の側がBとAとの共通点を勝手に見いだしてしまうのです。「喩え」や「なぞらえ」は、「喩えるもの」と「喩えられるもの」にあらかじめ共通点があったから、というよりは、発話者と受け手が共同作業で作り上げていくのではないでしょうか。受け手がその共同作業を拒めば、共通点は見いだされない。逆に、発話者にその意図がまったくなくても、受け手が勝手に見つけてしまえば、それは共通点があることになってしまう。ディズニーランドに抗議をした関係者は、万が一にもそのような類似性を見つける人が出てくることを危惧したのかもしれません。

さらに、このネズミには名前があります。あのアヒルにも、あのリスの双子にも、あのイヌにも名前がある。だからわたしたちはミッキー・マウスを「ネズミ」とはみなさないし、ミッキーに対して、下水道の中を走り回るドブネズミのイメージを重ねることはありません。けれどもバンブー・ダンスを踊っていたオランウータンたちは、ボスのキング・ルイと一緒にいる、名前のないオランウータンその1,その2……です。名前を持たない、言葉を換えれば擬人化されていないオランウータンには、ミッキーとは比べものにならないほど、実際の動物のイメージがついてまわります。おそらくそこには「サル」になぞらえられたことの不快感もあったにちがいありません。

わたしたちの言語活動のなかで、動物を指す言葉は無色透明ではなく、固有の色合いをもっています。ある人をブタになぞらえることは、誹謗していることにほかならないだろうし、商店街の一角にある古びた店に「ライオン堂」の大きな看板がかかっていれば、時間を超えて、店の創始者の意気ごみを感じることができる。

けれども、ブタにせよ、ライオンにせよ、わたしたちが現実に知っているのは、動物園にいるそれらの生き物に限られます。逆に、現実の動物に「あんなにゴロゴロしてばかりでは、百獣の王らしくないなあ。吠えてみてくれないかなあ」と、わたしたちの持っているイメージを当てはめようとしている。つまり、動物を指す言葉がもつ「固有の色合い」は、現実の動物から来たものではないのです。だとしたら、それはどこから来たのでしょう。

それは、大昔から受けつがれ、それを聞いたり読んだりしてわたしたちが育ってきた、昔話やおとぎばなし、童話にあるのではないか。そんな物語が、実はわたしたちの見方、感じ方を構成しているのではないか。そんなことをここでは考えています。

いまのわたしたちが日常生活で誰かを動物に喩えることは減っているのかもしれません。それでも「動物占い」なんていうものがはやったこともあるし、いわゆる「心理テスト」というのにも、動物は大活躍です。そもそもわたしたちが「あの人はこんな性格」と人を類型化してしまうのも、そうした物語の影響なのではないでしょうか。あの人はあんな性格だから、こんなことをやるのだ、と考えるのも、「レンガで家を造った子豚だけが狼に食べられなかった」というお話を読んで育ったことが影響しているのでは?

もちろんそんな単純なものではないことは当然なのですが、「自分の見方・考え方」だと思っていることは、どこまでほんとうに「自分のもの」と言えるのか。その点は疑ってかかった方が良さそうです。

それにしても、動物が笑い、怒り、妬み、行動する物語はおもしろいものです。わたしたちはどれほど多くの物語を受けついできたのか、さまざまな本を読んでみて、改めてそのことに気がつきました。同時に、昔の人はそんなふうに動物たちと生き生きとした絆を結んできたのだなあ、と、うらやましくも感じたものでした。

以前『いさましいちびのトースター』という本が出てきたとき、家電が動物の代わりを果たしていることに驚きました。もちろん消防車や家や車や機関車が擬人化されている本はこれまでにもたくさんあったんですが、トースターという身近な家電が主人公であることを新鮮に感じたのです。映画『ウォーリー』には、初代i-podを思わせるようなヒロイン(?)も登場しました。やがてはわたしたちも「あの人って洗濯機みたい」「タイプで言うとエアコンね」なんていうたとえを使うようになってくるのでしょうか。「あいつ、Windows 95 みたいなやつだから」というと、何となくその人のようすが浮かんでくるかも。

そういえば、寿司ネタ占い、なんていうのもありました。わたしが知らないだけで、家電占いやパソコンのアプリケーション占いなんていうのもあるのかもしれません。なんにせよ、わたしたちは、人を何かに喩え、なぞらえることによって、その人や行動を理解しようとしてきたのだし、これからもそうしていくのだと思います。

さて、この更新情報のページも、リニューアルしようと思ったら、なんだかすごく時間がかかってしまいました。読みにくい、前の方が良かった、なんてご意見がありましたら、どうかお気軽にこちらまでお寄せください。

気がついてみれば、12月も半ばです。日もすっかり短くなって、朝起きても真夜中のようです。今朝も暗い中、カーテンを開けると、濡れた地面に反射する街灯の明かりが、部屋を照らすただ一つの明かりでした。もうすぐ冬至。太陽はどんどん遠く、地球まで届く光は弱くなっていきます。

冬至を過ぎれば、太陽はまた戻ってくる。それまで暗い朝と早い夕暮れ、長い夜を楽しむことにしましょう。

かけ声ばかりでなかなか更新は進まないのですが、今度こそ(笑)。怒濤の更新の連続です(予定)。また遊びに来てください。

どうかみなさまもお元気でお過ごしください。
ということで、それじゃ、また。

Dec. 12 2009



▼ Last Update 11.09

フィリップ・K・ディックの短篇「お父さんのようなもの」の翻訳をアップしました。

以前、文藝春秋社から出ている上下二分冊になった『日本の短編』というアンソロジーを読んだことがあります。鴎外の「堺事件」や志賀直哉の「城之崎にて」、石川淳の「焼跡のイエス」といった、これまでに何度となく読んできた短篇があるだけでなく、宇野千代や佐多稲子、円地文子など、一冊も読んだことのない作家の短篇も所収されていて、このようなアンソロジーでもなければ決して手に取ることのなかったであろう作品を読んで、豊かなひとときを過ごしたのでした。

ひとつ気がついたことは、短篇というのはきわめて作家の手触りをくっきりと伝えるものである、ということでした。うっかりページを重ねてめくってしまう。すると、書いてある文章をちらりと見た瞬間、書いてある内容など理解する前に、ちがう作家のちがう作品であることがわかり、あ、しまった、ページを飛ばしてめくってしまった、と慌てて元に戻るのです。ちょうど、同じ大きさ、同じ間取りの部屋が並んでいたとしても、玄関を開けた瞬間、目の前に広がる光景がまるでちがっている集合住宅の個々の部屋のように、どのページ、どの段落を取ってみても、他の作家とはくっきりとちがう。いやおうなく伝わってくる「その作家らしさ」が、たったひとつの文章にさえも凝集されているように思ったのでした。

たとえばこれが分厚い文学全集で、長編小説がいくつも所収されているものならばどうだろうか。このように、文章をちらっと見ただけで、ちがう作家だとわかるだろうものなのだろうか。短篇と長編というのは、なによりも密度がちがうのかもしれない。そんなことを考えたものでした。

さて、フィリップ・K・ディックのこの短篇を訳そうと思ったのは、ブログである方からチャールズ・ボーモントというSF作家の作品のリクエストをいただいたことがきっかけです。残念ながらオンラインで読めるテキストが見つからず、リクエストにはお応えすることはできなかったのですが、代わりに何かおもしろいSFはないかと探して見つかったのがこの作品でした。リクエストしてくださった方にも楽しんでいただけていたら良いのだけれど。

人間外の何ものかに体を乗っ取られる。SFやホラーではありがちの設定です。けれどもそのめずらしくもない設定が、この作品ではまぎれもなくディックの短篇、どこをどう切りとっても、たとえSFのアンソロジーに所収されて、作者名を隠されていたとしても、ディックの作品であることはあきらかでしょう。

ディックの短篇を読む読者は、いつのまにか行間から見えてくる問題意識に向きあうことを余儀なくされます。自分の体がのっとられてしまった。のっとられた体は、自分なのか、自分ではないのか。自分ではないのだとしたら、体をのっとられたあとの「自分」はどこへ行ってしまうのか。「自分」らしく見えるそれを、周囲の人が「自分」と認めてしまえば、「ほんものの自分」は消滅してしまうのか。ディックの作品に繰りかえし出てくるその問題意識が、ここでも追求されています。この作品では、ほんもののお父さんはいなくなってしまう。完全に「父親もどき」に乗っ取られてしまう。けれど、日焼けでむけた皮膚のようなお父さんの残骸が、異様な生々しさを持ってわたしたちに迫ってくるのはなぜなのでしょう。主人公のチャールズが、このての小説にありがちな男の子で、キングやブラッドベリの男の子たちと大差ないのに対し、この「残骸」の生々しさはいったいどういうことなのでしょう。竹藪のゴミのなかに突っ立っている虫の幼虫たちの描写が、どれほど言葉を費やしても、どこか絵空事めいているのに対し、この不気味さは圧倒的です。

作品の中で「残骸」というポジションしか与えられていない「体の一部」の生々しさは、ディックが決して「乗っ取られたらそれでおしまい」という答えに納得していなかったことをうかがわせます。この「答え」と作品の内容のずれが、つぎの作品を生んだのだろうと思います。つぎの作品でも、「答え」を出す。けれどもやはり作品がその「答え」を裏切り、またずれがでてきてしまう。そんな、とらえようとしてもどうしてもでてきてしまう「ずれ」が、ディックにあれだけの作品群を書かせたのだと、わたしには思えてなりません。

ただ、作品の内容とは別に、この「乗っ取られ」型の物語を読むと、わたしはいつも、もしほかの生き物や異星人が見たら、その人間中心主義の展開に、きっと笑うだろうなあ、と思ってしまいます(まったく意味のない妄想ですが)。昔、ウルトラマンなどのヒーロー物の悪役が、どうしてわざわざ日本を選んで来るのか、宇宙から来るのなら、広いユーラシア大陸の真ん中あたりとか、もっと目立つ場所を選ぶだろうに、と思ったものでした。ギャグに、世界征服を目論むショッカーが、どうして幼稚園バスを襲ったりするのか(笑)というのがありますが、どうしてわざわざそんなことを、とつっこみたくなるマヌケさがあるように思うんです。仮に異星人が地球を乗っ取るとしたら、別に人間である必要はないだろう。アリになって、クジラになったって、イチョウの木になったって、ウィルスになったってかまわないはずだ。いや、「乗っ取る」という発想自体が、ひどく人間的なものであるのは言うまでもありませんが。

虫が人間の体を乗っ取る。こういうことをバカバカしいと思ってしまう人には、この作品もやっぱりバカバカしく映ってしまうのでしょう。バカバカしくても、それはそれとしておもしろい、と読んでくださる方だとうれしいのですが……。

さて、このかん、仕事がえらく忙しくて、あわただしい日を過ごしていました。とりあえずその仕事も今日やっと仕上げることができました。いま、やれやれ、やっと終わったか、という気持と、ほっとした気持の両方を味わっているところです。しばらく大きな予定がないので、サイトの更新にも力を入れようと思っています。

秋も深まってきました。今年ももう二ヶ月を切りました。2009年を振り返って「いい年だった」と言えるよう、ここでもうひとふんばりしたいところです。

街路樹の紅葉が鮮やかです。寒暖の差が激しい日が続きますが、どうかみなさま、お元気でお過ごしください。

ということで、それじゃ、また。

Nov. 07 2009




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