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■what's new
6月27日
サキ
「サキ・コレクション vol.8 ああ、勘違い」

4月1日
メアリー・ゴードン
「手品師の妻」

■その他の更新
4月1日
「作品と作者紹介」
にメアリー・ゴードンの項目を追加しました。
4月2日
「日付のある歌詞カード 〜"Walk On"」加筆しました。

▼ Last Update 06.27

「サキ・コレクション vol.8 〜ああ勘違い」をアップしました。

「開いた窓」から始まったサキの紹介も、今回の3作を加えて、24の作品を紹介したことになります。「勘違い」をテーマに集めた三つの作品でしたが、今回のものはいかがだったでしょうか。

いずれもおもしろい作品だと思うのですが、中でも深い余韻が残るのは、真ん中の「運命の猟犬」ではないでしょうか。ここでの主人公は、とりたてて長所というほどのものもない、かといって悪人ともいえない、ごくふつうの、けれども運に見放され、転落の道をたどりつつある人物です。その人物が別人と勘違いされたところから、物語が始まっていきます。

彼が間違われたトムという男は、いったいどんなことをしでかしたのでしょう。村人たちは、四年を隔てても一向にあせない憎悪の目を、トムの代わりにストーナーに向けます。そうして作者も最後までストーナーの視点を離れることがないので、トムの悪事もわからないままです。ストーナーは自分が何のために死ななければならないのか知らないまま、生け垣に腕をとられ、最期を迎えます。勘違いに乗じて、しばらくの安らかな生活と、ささやかな小金を手に入れたにしては、あまりに大きな対価を支払う羽目になったのです。

ストーナーがあの家に雨宿りに行かなかったらどうなっていたでしょうか。雨のそぼ降る中、海に向かっていたことを考えると、その結末に大きな差はなかったかもしれません。けれども、未来にささやかな希望がともったその瞬間の幕切れは、あっ、と息をのむしかないような、小さく鈍い衝撃ではあるけれど、忘れられない一撃となって、後に残っていきます。

わたしがおもしろいと思うのは、ストーナーが逃げ出すところで、気持ちがめまぐるしく変わっていくところです。サンクチュアリから追い出される、恐怖に近いような気持ち、後に残る人や動物に対する哀惜の気持ち、「トム」を演じる必要がなくなって、本来の自分に返ったときの、晴れ晴れとした気持ち、そうして小金を手にし、未来にかすかな希望を抱く……。時間にすればほんの数分のあいだに、めまぐるしく気持ちが動いていく、というのは、わたしたちの多くが経験するところでもあります。

そのめまぐるしく流れていく意識が、ある瞬間に断ち切られる。つまり、人間の意識というものは、仮に過去のことを思い出していてさえ、つぎの瞬間も、そのまたつぎの瞬間も、生きていることを前提として、未来へ、未来へと流れていくものなのだなあ、と思ったのでした。まるでいま現在を生きている自分の肉体から外へ出ようとするかのように。

もうひとつ思ったのは、やはりゴーリキーとの類似です。以前、「ラプロシュカの魂」を訳したときに、なんだかゴーゴリの「外套」とよく似た話だなあ、と思ったものでした。新調したばかりの外套が追いはぎに遭い、失意のうちに死んで、幽霊となってこの世に戻ってくるアカーキー・アカーキエヴィッチと、踏み倒された小銭が気になって、踏み倒した相手のところに出てくるラプロシュカがそっくりだというだけでなく、作者の、実直で小心で善人であるがゆえに人から軽く扱われる人物に向けられた暖かいまなざしに、共通するものを感じたのです。

それだけではありません。ゴーゴリの戯曲「検察官」には、文無しの青年が、検察官が来ることを戦々恐々としながら待ちかまえていた田舎町の市長や名士に、検察官と勘違いされてしまう、その顛末が描かれていきます。「運命の猟犬」との共通点はそこまでですが、ゴーゴリの主人公、フレスタコーフがさんざん相手をからかうところなど、クローヴィスの原型はここにあるのだろうな、と思います。たぶん、サキはゴーゴリが好きだったのだろうな、ゴーゴリの登場人物を、サキ流に味付けしたのが、これらの登場人物だったのだろうな、と思います。カバー曲の演奏が、逆にそのミュージシャンの資質を明らかにするように、ゴーゴリとサキの資質が、そうしてロシアとイギリスというふたつの国の風土が、その両方の作品を読むことによって浮かび上がってくるように思います。

さて、前回二ヶ月ぶりに更新した、と書いて、また二ヶ月あまり、というか、ほとんど三ヶ月近くが過ぎてしまいました。ちょっと自分でもトホホなんですが、実際、なかなかまとまった時間が取れなくて、サキの推敲にもおっそろしく日数がかかってしまいました。ブログもサイトも、なかなか以前のようなペースで更新するのもむずかしいのですが、少しずつ時間を見つけてやっていきたいと思っています。

以前、ある方から長距離を走るコツをうかがったことがあります。ペースを落としてもいいから、決して走るのをやめないこと。傍目には歩くのとさほど変わらないところに落ちたっていい、それでも走り続けること、というのです。いったん歩き出してしまうと、もう二度とマラソンには戻れない。立ち止まらない、歩かない、自分の中で「走り続ける」という意識を持ち続けること。そうすれば、またペースをあげることもできるから。かならず、そういうときが来るから、と。その言葉を信じて、自分なりに、できる範囲で続けていきます。ですからどうか、気が向いたときでいいですから、今後とも、ときどきのぞいてみてください。

なんだか急に暑くなりましたが、どうぞみなさま、お元気でお過ごしください。今年の夏は、去年みたいに猛暑でなければ良いのですが。

ということで、それじゃ、また。

June 27 2011



▼ Last Update 04.02

メアリー・ゴードンの短編「手品師の妻」をアップしました。あと、「陰陽師的音楽堂」の「日付のある歌詞カード 〜"Walk On"」を加筆しました。

前回更新してから、二ヶ月ほど更新をさぼっていたことになります。新しい仕事が始まったり、身近にあわただしいことがあったりで、本業よりほかにゆっくり時間を割くこともできない状態でいたころに、三月十一日の地震があったのです。

わたしがいるところでは、めまいにも似たゆっくりとした揺れが、長く続きました。閉めた窓の内側でカーテンがゆらゆらと揺れている。それを見て、地震と気がついたのです。東北で大きな地震があったらしい。その一報を確かめたあと、わたしは仕事に戻りました。何があったかを知ったのは、夜のニュースでのことでした。

黒い波が、人が乗っているであろうトラックや、家並みを根こそぎ呑み込むのを見ながら、これと同じシーンを映画で見たような、何ともいえない既視感を味わったのです。前に見たときは、水は青かった、あんなに黒々と、まがまがしい波の色ではなかった、と、わたしの意識の中で、あれはちがう、という小さな声がしていました。

そういえば、9.11のときも、航空機が突っこんだビルが崩壊していくのをリアルタイムで見ていたのですが、あのときも同じような既視感を味わっていました。コンピュータ・グラフィックスの進歩とともに、ハリウッドの大作は、ビルを崩壊させ、大規模な火事を起こし、津波を起こし、さらにはニューヨークを壊滅させるようなロボットを登場させてきました。そうやってわたしたちは、たいていのことを「見て」いました。

現実に押し寄せる津波の映像。これと、大作映画のスクリーンで繰り広げられる映像は、自分にとってどうちがうのだろう、ほんとうのところはちがっていないからこそ、既視感を覚えたのではないか。わたしはしばらくそのことを考えていました。

「現実」といいます。けれども、たとえば別の映像で、波打ち際にいた鳥が一斉に飛び立つ情景を見たのですが、その鳥にしてみれば、地震も津波も関係ないわけです。大きな波が来たから、空に舞い上がる。波が地上を浸食していけば、そこから着地しやすい場所を探して空を飛んでいくだけのことで、鳥の「現実」は、おそらくわたしたちの「現実」とはずいぶんちがうもののはずです。そう考えていくと、わたしたちが「現実」と呼ぶのは、自分が受けとるものであり、自分の内面に影響を及ぼすものまでをも含めて、「現在の状況」と判断したもの、ということになるなのでしょう。目の前に繰り広げられる映像が、どれほど迫力に満ちたものでも、結局のところ、自分に影響を及ぼさないものは、「現実」とは認められないのだ、と。

一瞬にして、信じられないくらい大勢の人の命を奪い、家屋や財産や大切なものを奪っていった地震と津波、そうして深刻な危機がいまも続いている原発事故、そんな「現実」がまずある、とわたしたちは思ってしまいます。けれども、一号機はすでに老朽化が指摘されていて、わたし自身、そんな新聞記事を確かに読んだ記憶があるのです。けれども、そのときのわたしにとって、「原発の老朽化」は「現実」ではなかった。

わたしたちはまず現実があって、それを言葉で表していると思っているけれど、多くの言葉を的確に使って、事態に何とか対処しなければならなくなる、そのアクションがあって初めて「現実」というものが立ちあがってくるのではないか。

矢継ぎ早にさまざまな出来事が起こる、というのは、とりもなおさずわたしたちが考え、対処しなければならないと判断していることが起こっている、ということです。現実に向きあう、ということは、対象のひとつひとつに適切な言葉を当てはめ、自分が置かれた状況を明確にしていく、ということなのでしょう。

そうしたことを考えていったとき、わたしは自分の手持ちの言葉の非力さに思い至らずにはおれませんでした。わたしより適切な言葉を使える人はいくらでもいる。事態を明確化し、現実を生みだしていくような言葉を紡ぎ出せる人はいくらでもいる。そう考えたとき、あえてわたしが何ごとかを発する意味がないように思えたのです。

日々の仕事をきちんとする。仕事を終えたら記録を残し、つぎの準備をする。家族に連絡をし、余震や原発や放射線を心配する母の話し相手になり、自分の家の掃除をし、洗濯をし、料理をし、皿を洗い、近所の人に挨拶する。それだけで十分なのではないか。

それでも、やり残したことは気になりました。ざっと訳したままになっている作品は、わたしの非力な日本語を通してさえ、「ひとつの現実」を立ちあがらせている。少なくともその原文に、もう一度向きあってみよう。できるだけの誠意をこめて、英語と日本語をつないでいこう。そんなふうに思って、また一から訳し直していきました。どこまでできているかわからないのですが、最後の場面で、何だか暖かな気持ちになってくだされば、それにまさる喜びはありません。

本を読むのが好きな人の下へ届けばいい。

ネットの海に、ビンに詰めて流します。

April.02 2011




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