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What's new? ver.3※ここには2005-12-03から、2006-3-15までの更新情報とひとことを載せています。 Last Update 3.15 「「読むこと」を考える」、「ものを食べる話」、補筆しました。 「ものを…」のほうは、一章書き足して、最後の部分に『バベットの晩餐会』を入れてみました。食べることについて書きながら、食べる「もの」のほうに意識が向いてなかったことに気がついたので(ご指摘ありがとうございました、というか、ご指摘と理解しました(笑))。 「「読むこと」…」のほうも、ブログでいただいたご質問とコメントをもとに、書き加えています。二章と、あと最後のところを補筆しています。 どちらもはっきり言っちゃうと、たいして代わり映えしませんから(笑)、どうかお暇なときにお読みください。 すいません。同じもの、何度も何度も読ませちゃって。 バンドの練習というと、わたしが小さい頃のことを思い出します。 ♪ソ、シ♭、ドー、ソ、シ♭、レ♭ドー、ソ、シ♭、ドー、シ♭ソー(って、これでわかる人はエライ!)って、毎日そこばっかりやってるわけです。それを二回繰り返して、ドラムがドタドタ…というところで、いつも終わっちゃう。 カッコイイ曲だなぁ。そのつづきはどうなっていくんだろう、と、頭の中で来る日も来る日も想像してたんですが、そのお兄ちゃんたちはどうやってもそこで終わってしまう。 中学に入って、「レコード鑑賞会」でDeep Purpleの特集がありました。"Smoke on The Warter" を聞いて「!」。十年ぶりくらいの疑問が氷解したわけですが、期待したほど、「めくるめく展開」があったわけじゃなく、ちょっとガッカリしました。なんだ、ふつうじゃん、って(笑)。以来、Deep Purpleがそこまで好きになれなかったのは、それが原因かもしれません。 わたしが書くものは、とりあえずイントロだけ、ではなく、なんとか最後まで行くことを目指していますので、どうか暖かい眼で見守ってやってください。菓子折は行きませんが(笑)。 ところでなんなんでしょうね、ここ数日の寒さは。 いまブログで連載している「いっしょにゴハン」も間もなく更新できるはずですので、どうかまた遊びにいらしてください。あー、ボン・ジョビだ、あれもなんとかしなきゃ。 ということで、それじゃまた。 March.15, 2006 Last Update 3.09 「ものを食べる話」をアップしました。食べるってどういうことなんだろう、だれかと一緒に食べると楽しいのは、どうしてなんだろう。 ちょっと前に「ソイレント・グリーン」という昔の映画のDVDを見ました。物語の舞台は2022年。地球上の人口が爆発的に増加してしまったために、ひとびとは、ちょうどカロリーメイトのようなものを配給され、それを口にすることで生きながらえている。 そのカロリーメイトもどきの正体を暴いていくのが映画のメインストーリーなのですが、メインストーリーよりもはるかに強烈なのが、政府が老人たちを集めて安楽死させる場面です。横たわる老人たち。そうして天井の巨大スクリーンは、すでに失われてしまった地球の情景、老人たちが幼い日々を過ごした、記憶の底にある情景です。そうして、そこに流れるのはベートーヴェンの交響曲第六番「田園」。老人たちは涙を流しながら、安らかに、眠るように死んでいく。 なんともいえず、恐ろしい場面でした。けれども、その一方で、こんなことも思ったのです。わたしたちが自分のものとして所有できるのは、結局は記憶だけではないんだろうか。政府によって、生死さえコントロールされているところで、死んでいく老人たちが、たったひとつ所有しているのは、過去の記憶です。もしかしたら、それさえも、統制された、埋め込まれたものなのかもしれない。けれども、スクリーンを見、「田園」を聞いているそのときの記憶を、最後に抱きながら、老人たちは死んでいくわけで、このとき、たしかに記憶は彼らのものであるはずです。 わたしたちは、さまざまなものを記憶にとどめます。記憶はいつのまにかどこかへいってしまうから、どこかへいかないよう、おりにふれて思い返し、頭の中でその場面を再現し、もういちど、記憶し直そうとします。そうすることによって、その「楽しかった過去のひととき」をもういちど生き直すし、身体としての脳に刻み込もうとする。こうした身体の中に組み込んでいくということが、結局のところ、所有ということではないのか。 おっと、またどこにも行き着かないことをもたもたと考えてるみたい。 どうもこのところ、この記憶の網の目がいちだんと広くなったみたいで、ふっと意識が離れると、何でもかんでも忘れてしまいます。毎朝、わたしは駅の自転車置き場に自転車を預けていくのですが、いったいどこへ置いたのか、これがわからない。毎日のことだから、昨日置いた場所、一昨日置いた場所、今朝置いた場所、なにもかもがごっちゃになってしまっているのです。毎朝、家を出るときは、自分が置いた場所をしっかり覚えておこう、と思っているのですが、たいてい、自転車置き場につく頃には、それさえも忘れ、毎日夕方になると、自転車置き場をむなしくうろうろしてしまう……。もう末期的症状といえるのかもしれません。 ところで、この間、スーパーでアイスクリームを買ってきたのです。ハーゲンダッツに「チーズケーキ味」が期間限定で発売されたので、これは食べなくちゃ、といさんで買ってきたのですが、家に戻った瞬間、電話が鳴り、電話で話しながら冷蔵庫に買ってきたものを入れていたせいでしょう(と思いたい)、ついうっかり、野菜室にリンゴと一緒にいれてしまっていた。気がついたのは翌日でした。すっかり溶けてしまって、横を押すとぶよぶよします。いったん解凍したものを再び凍らせてはいけない、という知識はありましたが、アイスクリームをムダにすることは、どうしてもできなかったんです。 ふたたび冷凍庫に入れて、固くなったところを見計らって食べてみました。美味でした(笑)。クリーミーではなくなって、シャーベットみたいにシャリシャリしてましたが。アイスクリームを救出できたという満足感が勝りました。 さて、「ものを食べる話」、これを読まれた方が、また誰かといっしょにゴハンが食べたいな、と思っていただけたら、これほどうれしいことはありません。 だんだん春めいて来ましたね。どうかお元気で。 March.09, 2006 Last Update 3.02 「雪の中のハンター」をアップしました。 ただ、この話は怖いばかりではない。 たとえば、『スタンド・バイ・ミー』を始め、少年ものの映画では、確実に太った少年が出てくる。ちょっと鈍くさい、そうした男の子は、グループの足を引っ張るわけです。 これまでわたしは、いつも主人公の視点から見ていたために、その子を「お荷物」としてしか見てきませんでした。けれども、同じように太った子が見れば、それはおそらくはずいぶんちがうはずでしょう。 最初、わたしたちはタブの目に案内されてこの物語に入っていくために、この視点のずらしが簡単にできる。おそらくこれを読んだあとは、同じように太った子が出てきても、前のようには見ることはできなくなると思います。 もうひとつ、印象的なシーンがあります。 ロクサーヌがほんとうにフランクのいうようにすばらしい少女なのか。 それでも、わたしたちはときどき、こんな思いをすることがあります。 だれもがそれぞれの世界を持っていて、ほんとうなら、わたしたちは自分ではないだれかに会えば、確実に、自分以外の世界とふれあうわけです。けれども、多くのとき、そんなことは思いもしない。知らない世界(知らない、ということは、知りたい、ということでもあります)のはずなのに、たいして興味をもたず、ろくに考えもせず、知っていると思ってしまう。 「扉を開いてくれた」と思える人に会えるというのは、ほんとうにすばらしいことなのだと思います。ロクサーヌがどんな子なのかはわからないけれど、フランクにとって彼女はそういう存在だった。やはりそう思える人に会ったというのは、たとえそれがどのようなできごとをつぎに生み出すことになったとしても、フランクにとってはすばらしい出会いだったのだと思います。 だって、それ以外に、わたしたちが自分以外の世界を知る方法があるでしょうか。 それにしても三月になったというのに寒い日が続きます。 ところでお相撲さん、たとえジャージをはいて自転車に乗っていても、あの髷で、職業が一発でわかります。いまのわたしたち、ほとんどの人が見ただけで職業なんてわからないなかで、ああ、お相撲さんだ、って道行く人から見られるわけで、そういうのは誇らしいのかな、ちょっと大変なのかな、なんて、いろいろ考えてしまいます。 寒い日が続きます(あ、また書いちゃった)。どうかお風邪などお召しにならないよう。お健やかにお過ごしください。それじゃ、また。 March.02, 2006 Last Update 2.22 「「読むこと」を考える」アップしました。 わたし自身は見たことはないのですが、“インディペンデンス・デイ”という映画の話を聞いたことがあります。 UFOに乗って、地球を侵略にやってきた地球外生命体をやっつけるために、主人公たちが、月の裏側に隠してある侵略者たちの宇宙船を奪取、それを操縦して敵の主力艦を撃墜する、というのがクライマックスなのだとか。 笑えるのは、アメリカの空軍パイロットが、宇宙人の乗ってきた宇宙船をそのまま操縦できる、というところで、どうやらマイクロソフトは単にグローバルスタンダードであるばかりでなく、宇宙的標準(ユニバーサル・スタンダード)でもあるらしいのです。 マイクロソフトはともかく、地球外生命体が宇宙から地球を侵略にやってくる、という発想そのものが、おっそろしく「ローカル」な発想であるわけです。 地球外生命体が、わたしたちが想像するような「宇宙人」の外見をしている、という思いこみ。 わたしたちはこうした「思いこみ」を笑うけれど、わたし自身、同じようなことをやっている。たとえば、朝起き抜けに「エサくれ、エサくれ」の大合唱をしているキンギョたち、わたしの姿を見てそうやっている、と、わたしは思っているわけですが、キンギョが「わたし」を見て「エサをくれ」と言っている、というのも、わたしの思いこみ(というか、キンギョの一種の擬人化)でしかありません。 自分の思考には、「人間」という、あるいは「日本人」という、「女」という、ほかにもありとあらゆる属性からくるところの、無数の「くせ」がついてしまっています。そうして、思考は、その轍に従って、無意識のうちに、いつも同じ隘路をたどってしまっている。 そうして、それを「あたりまえ」だと思い、標準だと思い、何ら疑ってみようとしない。 ウラジミール・ナボコフに『ロリータ』という小説があります。『ロリータ』の語り手は、有罪判決を受けた殺人者で、幼児暴行犯を自称する、ハンバート・ハンバートという名の中年の二流詩人です。 これだけ言うと、おそらく、わたしたちのほとんどが、気持ちが悪い、と思い、そんな本など読みたくない、と思うでしょう。けれども、おそらく読み終わると、ハンバート・ハンバートが好きにならずにはいられなくなっているはずです。 本を読む、ということは、「あたりまえ」のことなど、世の中にはひとつもないのだ、ということを実感することでもあります。けれども、せっかく手に取ったのに、それを十分に楽しめないとしたら。ハンバート・ハンバートが好きになる前に、道徳的嫌悪感や、さまざまな理由で、うまく読むことができなくなってしまったら。 ハンバート・ハンバートが好きになる、ささやかなお手伝いになれたらな、と思います。 読むことは、倫理の問題でもある、という考え方があります。言語が間違った使われ方をした結果の最たるものが、ホロコーストだった、文学を考えること、そうして「正しい読み」をするという「倫理としての読書」をしていくことは、こういう最悪の事態を回避するものである、という考え方です(ヒリス・ミラー『読むことの倫理』)。 まだミラーは読んでいる途中で、わたしも十分に理解したとはいえないのですが、もしそうであるのなら、ほんとうにすばらしいことだと思います。 こんなふうに少しずつ考えながら、あっちへいき、こっちへいきしながら、また書いていきます。 細かい文章もだいぶたまっているので、ぼちぼち更新作業も進めていく予定です。 Feb.22, 2006 Last Update 2.10 ブログで「「読むこと」を考える」のサンプルとして訳した「八人の見えない日本の紳士たち」をまずは翻訳の方にアップしました。本文の方も追ってアップしていきますので、そのときはまたよろしくお願いします。 ところで先日来訪者が7000人を超えました! ゆ ふ さ ん お め で と う ご ざ い ま す ! 報告してくださって、どうもありがとうございました。 試験の頃はずいぶんアクセスがありましたから、7000行くまでは早かったナー、という印象があります。この間、Yahoo!にも登録された(カテゴリの「芸術と人文」>人文>文学>外国文学>アメリカのところです)ので、そのことも影響しているのかもしれません。ごくごく地味にやっているのですが、初めのころにくらべれば、定期的に来訪してくださっているかたもずいぶん増えたのではないかと思います。 わたし自身は日常生活でも、Web上でも、あまり熱心にコミュニケーションをするほうではありません。積極的にメールをやりとりしたり、ブログでもあちこちにコメントを書き込んだり、トラックバックを送ったり、っていうのは、面倒くさい、というか、苦手で、つい億劫になりがちです。このサイトも掲示板もないし、何か、自分の考えたことを一方的に発表する場、みたいになっているのかもしれません。 でも、わたしは書くときに、いつも読んでくださるかたの存在を感じながら、書いていきます。 「自分を表現する」という言い方がありますが、わたしはこれはよくわからない。 だから、どうかお話、また聞かせてください。 いろんな意味で中途半端、わたし自身があっちへぶれ、こっちへぶれしている情況なので、サイト全体の内容も、行方を定めぬものとなっているのですが、それでも「読んでおもしろいもの」「少しでも読むに足るもの」が書けるよう、これからもがんばっていきますので、どうかまた、遊びにいらっしゃってください。 それにしても、ああ、もう、いったいいつまで寒い日が続くんでしょう。まったくイヤになってしまいます。 寒いけれど、どうか良い日々をお過ごし下さい。それじゃ、また。 Feb.10, 2006 Last Update 2.04 ブログで思いついたように書いていた歌詞の翻訳やCDを聞いた感想をまとめた「陰陽師的音楽堂」を新しく作りました。ただもう書きたくて書いたような文章で、あまりに個人的趣味に偏っているのかもしれませんが、興味のある方はどうかのぞいてみてください。 どこかに書いていると思うんですが、十年ほど、音楽をほとんど聞かない時期がありました。聞かないことさえも意識にのぼらないような時期でした。もしかしたらそうやって、わたしも音楽を「卒業」していたのかもしれません。 たまに思い出して聞きたくなった曲を聞くだけの、穏やかなつきあいかた。 それが、ある方にお会いして、何人かのミュージシャンを紹介していただいて。それがきっかけとなって、わたしは失いかけていたものを取り戻したのだと思います。 なんというか、ひどく偏ったことを書いているのだと思うんです。だけど、わたしは「解釈」じゃなくて、自分に聞こえたことを書こうとしています。音楽を流すのではなくて、そのなかにできるだけ深く入っていって。そうしてわたしが聞いた「音」を、あるいはリズムを、「歌」を、なんとか言葉につなぎとめようと思っています。 そうして、こうした文章は、わたしはこんなふうに聞きました、っていう、わたしの返事でもあります。音と音が響き合うように、音に呼び起こされたわたしの言葉は、響いていくのでしょうか。読んでくださった方の胸に、音を呼び起こすのでしょうか。 わたしが聞く音は、おそらくほかのひとの聞く音とはちがうものだろうし、それはしかたがないことだと思います。でも、どこか少しでも同じように聞こえるところがあったら、やっぱりすごくうれしい。だから、そんなときは教えてください。 たぶん、わたしが文学に求めるものと、音楽に求めるものは基本的に全然ちがっているんです。音楽だったら、理論も、構造も、表現も、意味も関係なく、結局は、いくつかのコードと、リズムと、ベースラインと、ギターと、できれば印象的なピアノソロと、あとは心に残るメロディの断片と、あんまりひどくない歌詞(笑)さえあればいいんです。それだけあれば、十分。 またこんなふうに音楽がわたしの生活のなかに戻ってきて、ほんとうに良かったと思います。聞くのがうれしくてたまらない音楽について、これからも書きたくてたまらなくなったとき、書いていくんだと思います。そんな、きわめて私的なものだけれど、良かったら、おつきあいください。そうして、あなたが好きな音楽についても、どうか教えてください。 忙しかった日々も、とりあえず一段落。また明日からブログで「読むこと」を書いていきます。 どうか、お暇なとき、また遊びに来てください。 Feb.04, 2006 Last Update 1.31 昨日までブログに連載していた「ヴァレンタインの虐殺」をアップしました。あたりまえですが、「虐殺」の記録を載せたわけではありません。 実は、ちがうネタを準備していたのですが、書いているうちにもうひとつ問題意識が焦点化せず、このままだとピンぼけになるのがわかっていたので、先送りにしたんです。そこで急遽、差し替えたのがこれ。翻訳をやる時間もない、となると、お定まりの思い出話です。 こんなものがおもしろいのか、はなはだ疑問なんですが、わたしが書いた文章が呼び水となって、そういえば自分があげたとき、もらったとき、こんなことがあったなぁ、なんて思い出していただけたら、これほどうれしいことはありません。そうして、どうかわたしにもその話を教えてください。 記憶というのは、自分がやったこと、なしたことの記憶であるばかりでなく、自分の眼に映った他者の記憶でもあります。 他者の記憶、というのは、不思議なものです。 ほかの人の記憶の中にも、「わたし」は刻まれているのでしょうか。 記憶は、もちろん過去の自分の経験がもとになったものだけれど、同時にそれは〈いま・ここ〉の「わたし」が編集し、改めてつくり出し、語っているものです。そういう意味で、「老いの繰り言」ではない、と思うんですが……。うーん、昔のことは思い出せても、このところ確実に新しいことの記憶は危うくなってるし。同じことを繰り返すようになったら、どうか教えてください。あれ、晩ゴハン、何食べたっけ? 記憶ネタはクリスマス―正月―ヴァレンタインと三つ続いたので、しばらくやめておくことにしましょう。つぎのネタ、もうちょっと煮詰まらないんだけど、なんとか始めていけるかな。もうちょっとかな。 最後に載せた"My Funny Valentine" は、有名なスタンダード・ナンバーです。いろんな人が歌ってるけれど、わたしはやっぱりチェット・ベイカーが好き。この人は囁くように、吐息まじりに歌うんですが、高音部になって、全然声を張らないのに、それでいてちっとも声が痩せないんです。とってもいい雰囲気に包まれているような気がする。これも最近CDで聴き直したんだけど、やっぱり記憶にある声とちょっとちがうんだなぁ。そんなに良い状態で聴いていたわけではないのですが。なんだか、やっぱり昔の方が良く思える、というのは、歳を取った証拠だろうか。困ったなー。 さて、昨日・今日とこちらでは雨で、非常階段から見る遠くの山も雨に煙って見えません。 また、遊びにいらしてください。それじゃ、また。 Jan.31, 2006 Last Update 1.25 「女か虎か」をアップしました。この作品は、19世紀末のアメリカの短編ですが、おとぎ話を模した体裁をとっています。そのため、訳文も、一種のコスチュームプレイ、太宰治の『走れメロス』あたりを参考にしながら書いてみたのですが、どうでしょうか。雰囲気、でてるかしら。 普段の自分の文体ではない、着ぐるみを着て出てくるような感じはおもしろくはあるけれど、反面、気が抜けないものです。バランスの悪いところ、文法上の誤りなどありましたら、どうかご指摘ください。お願いします。 ところで先日、しばらく読めずにいた方の文章を拝見する機会がありました。ずいぶん久しぶりだったのだけれど、やはり以前と同じ「声」が聞こえてきて、懐かしさで胸がいっぱいになってしまいました。 文章というのは、情報を伝えるための道具である側面ももちろんあるのだけれど、それだけではない何かがあると思うのです。それをわたしは「声」というふうに理解しているのだけれど、そうして、自分自身、十分にわかっているわけではないのだけれど、文章を読むとき、ほんとうは、まず聞こえてくるのがその「声」じゃないんだろうか、って思うんです。ところが、それを飛び越えて、意味が直接伝わってくるような文章が多い。意味を伝えるための道具になってしまっているのです。 ピカソは、芸術とは何かをさがしまわることではなくて、何かに出会うことだと言った、と、何かに書いてあったような記憶があるのですが、それがなんであったか、この間からどうやっても思い出せません。もしかしたら、ちがってるかもしれません。だけど、いかにもピカソだったら言いそうだ、と思いませんか? わたしも、この「声」のことを考えるとき、ほんとうにそうだと思います。文章の声、わたしが一番最初にこの声が聞こえてきたのは、二葉亭四迷の『平凡』を読んでいたときだったのだけれど、この「声」に出会ったとき、やはり「文章」ということを、真剣に考え始めたのだと思うのです。さがしまわったわけじゃなく、思いもかけないとき、ひょいっと出会った。 わたしの文章は、声を持っているのでしょうか。そうでありたい、と思います。作りあげていきたい、少しずつ、成熟させていきたい、と思います。 ということで、決意表明をしたところで、今回はこれまで。 それじゃ、また。お元気でお過ごし下さい。 Jan.25, 2006 Last Update 1.16 ブログに連載していた「英会話教室的日常番外編 〜アズマさん西へ行く」をアップしました。 ちょっとこのところ忙しい日が続いていて、ネタを仕込む時間も、翻訳をするゆとりもなかったところで、何か書けないかな、とひねりだしたのがこれです。なんでこんなもの書き始めちゃったんだろう、と思いながら、なんだかんだ苦労しながら一週間、書き続けてみました。核になる体験はあるし、モデルになっている人もいますが、基本的にはフィクションとしてお読みくだされば幸いです。 書いているときはよくわからなかったのだけれど、なんというか、どちらでもない、ふたつの間で揺れ動いているみたいな感じを書きたかったんだと思うんです。これ自身は非常に未熟なものではあるのだけれど、なんとなく、どんなふうなものが書きたかったか、が見えてきたことだけは収穫でした。お読みくださって、一部でもクスッと笑えるところがあれば、これほどうれしいことはありません。 ただ、元になる出来事の記憶をたどりながら(なんと1994年の出来事です!)、改めて「実際にあった出来事」と「フィクション」の境界の曖昧さを感じることもありました。アズマさんはわたし自身の分身でもあるのですが、わたしではない部分もあります。あるいは、ここで「わたし」という一人称で書いている「わたし」が、現実の私と必ずしも一致しているわけではない。「物語」がいったいどこから始まっていくのか。その混沌としたところを、これからもっと見ていきたい、深く深くおりていってみたい、そんなことも思います。おっと、またえらく大風呂敷を広げてしまっていますね。 それにしても、忙しいです。"automatically"という単語があります。何気なく、とか、無意識のうちに、自動的に、みたいな意味の副詞ですが、もちろん“機械的に”みたいな意味もある。わたしはこの単語を見ると、機械が動いているところをつい想像してしまうんです。自分が何をやっているかもはっきりと意識することがなく、機械になったみたいに、目の前に置かれるものをつぎつぎに処理していく。いま、ちょっとそんな状態になりかけています。 こんなふうになるといつも思い出すのがこの言葉。
機械になったみたいな自分の感覚を取り戻さなきゃ、って思います。 さて、明日は待望のお休みです。雑用がたまりにたまってるんだけど、そんなものには目をつぶり(笑)、映画でも観に行ってこようか、って思います。せっかくスーツを着た殺し屋の映画をやっていることだし。 ということで、それではまた。 Jan.16, 2006 Last Update 1.06 昨日までブログに連載していた「いくつもの正月」(「正月の思い出」改題)アップしました。 いつも文章を書くときは、着陸地点のおおまかな目安をつけておいて、そこに降りられるよう四苦八苦して、なんとか降りたらそこからもういちど戻って全体を書き直すのですが、今回は最初から落ちをつけるつもりがなかったので、そのぶん、楽だったといえるかもしれません。そのかわり、他の人にとっては、おもしろくもなんともないものなのかもしれません。だったらごめんなさい。 ただ、書いていきながら、ずいぶんさまざまなことが徐々にはっきりと見えてくる、という経験をしました。 せんに、こんな話をうかがったことがあります。いまでもはっきりと覚えているのだけれど、ひとをかたち作るもの、というのは、結局のところ、子供のころの些細な、身体的な経験の断片の集積ではないのか、というお話でした。たとえば夕立のあとに立ちのぼる土の香り、といったものが、言葉による類型化を拒みつつ、そのひとの内にありつづけ、混沌としたままのありようで、そのひとを規定しているのではないか。 そのときは、なるほど、と思いつつも、なんとなく肝心のところをわかりそこねているような気がしたのです。それが、この文章を書きながら、自分のなかへどんどん降りていって、自分が過ごしたいくつもの正月を、文字通り、目の前に思い浮かべ、音を聞き、匂いを嗅ぎ、空気を感じるうち、まぎれもなくそうしたものがどこにも行かずに自分の内にあることを知ったわけです。そうした経験というのは、いまの自分自身と分かちがたく結びついているはずの、読んだ本や積み重ねていった知識、考えてきたことや経験などよりも、さらに深いところ、自分の根幹にある。というか、むしろ自分はこうしたものによってできあがっているのだ、と改めて感じたわけです。 それを文章にしようとして、そのとき、その場限り、あとにも先にもただ一度限りの色や音や匂いや空気を、言葉に押し込め、定着させようとして、これはちがう、と思い、そんなものではなかった、と思い、だれでもないこの自分がその類型化を拒んでいる。 それでも、言葉であらわす色や音や匂いや空気は、それそのものにはなりようがないけれど、、それでも言葉にすることで、類型化、同時にそれはつまり一種の普遍相を獲得しうるということでもあるわけです。 おっと、えらく大げさなことを書いてしまいました。実際、自分が書いたのは、ごく個人的な記憶のスケッチ以上のものではないのだけれど、それでもそれが呼び水となって、読んでくださったかたが、ああ、そういえば自分の家では……と思い出してくださったら、これほどうれしいことはありません。 よかったら、またお話、聞かせてください。 Jan.06, 2006 Last Update 1.02
あけましておめでとうございます。 年明け最初の更新情報は、ほんとは更新ではありません。ただ「リリアン・ヘルマン ――ともに生きる」に一部手を入れ、修正を加えた、というだけのことです。 自分のなかで規範を持つ。これはいい。 『眠れない時代』は確かに問題の多い本だと思います。事実関係の整合性が要求される部分と、自分の回想が不用意に混ざり合っているというばかりではなく。 過去のある時期と結びついた物って、物は物でしかないのに、ときに、ひどく悲しいものになりますよね。 だけど、わたしはこの感傷が、自己憐憫をも含む、甘い痛みだということも知っています。ときに甘い物を食べるのはいいけれど、甘い物だけ食べてたら、虫歯になっちゃうし、胃だって悪くします。 ヘルマンについて書いた文章みたいに、考えが足りない部分、視野狭窄に陥ってる部分、勉強が足りない部分、あとではっと気がついて、そんなことを書くことに意味があるのか、何かにつながっていくのか、と思うこともあるけれど、それでもわたしは書くことによって成長してきたのだし、これからもそうしていくしかないんだと思います。 ということで、本年もよろしくお願いします。もしおかしなことを書いていたら、そこ、変だよ、って教えてくださればうれしいなぁって思います。 インフルエンザがそろそろ流行始めているようです。どうかみなさま、お元気でいらっしゃいますよう。 Jan.02, 2006 Last Update 12.30 「リリアン・ヘルマン ――ともに生きる」アップしました。 ヘルマンのことを「現代のジャンヌダルク」と称している記述も見たことがあるのですが、そんなふうに祭りあげるのは好みではありません。わたしのなかには相当激しい偶像破壊者の血が流れている(笑)、ということもあるのですが、それ以上に、人を祭りあげる、というのは、祭りあげることによって、きちんと評価するということをやめてしまうことでもあると思うんです。それは結局、自分を不問にする、ということを含んでいるんじゃないのか。評価というのは、つねにそれを評価している自分をも評価する、ということを含むことだと思うから。 なんだかまだもたもたと書いてますね。とりあえず、こんな話は少し置いておきましょう。 今日、仕事から帰って、ほとんどやっつけのように大掃除をしました、というか、したことにした、というか。もう収納の許容量をはるかに超える本だけは、どうしようもなくて、とりあえず山をいくつか分けて、こちらの山に分け入れば、A関係の本、こちらの山にはB関係、ということにはしましたが。あとはカーテンを洗って、窓を拭いて、換気扇を洗って、それから、それから……。 一年使ったカレンダーを外しました。 あのとき、もしこう言っていたら。 いま現在起きていることに対して、わたしたちはそれがどういうことなのか、理解することはできません。ただ目の前で起こるのを見て、聞いて、考えて、何らかのアクションを起こして、あとは記憶にとどめることしかできません。ああしたら良かった。こう言っていたら良かった。そういうことは、そのときには絶対にわからない。 終わってしまってそれがわかったところでどうなるのか、とも思います。終わってしまったことではないか。もはやわかったところで、手のだしようがない。悲しく、悔しい思いをするだけではないのか。 それでも、たとえいまの自分にはもはやどうしようもできなくても、わたしは忘れてしまうのではなく、振り返り、何度だって振り返り、それはどういうことだったのか、自分はどうすべきだったのか、考え続ける方を選びます。 おそらくそれは「過去に留まる」ということとはちがうと思うから。 さてさて、今年もいよいよ終わりです。
ここで出てくる「だれかの奥さん」はスコット・フィッツジェラルドの奥さんのゼルダです。統合失調症と診断された彼女が、〈混濁した思い出にまとまりをつけようとする絶望的な試み〉(当時の彼女の医師の話による)として書いた唯一の小説『ワルツはわたしと』のなかに[S]he refused to be bored chiefly because she wasn’t boring.という一節があるようです(なにしろ混乱したこの作品を、わたしはいまだに通しで読んだことがありません)。彼女は退屈な存在ではなかったために、なににも増して、退屈であることを拒んだ、というところでしょうか。 ゼルダというと、その作品以上に有名なのがナンシー・ミルフォード『ゼルダ ―愛と狂気の生涯』(大橋吉之輔訳 新潮社)で、この本はデイヴィッド・ドルトンの『ジャニス ―ブルースに死す』(田川律、 板倉まり訳 晶文社)の冒頭「ジャニスは本を読んでいる。彼女自身の大空に舞い上がり、ナンシー・ミルフォードの『ゼルダ』の世界に隠れている」という、ものすごく印象的な場面で登場します。どうもこれ以来、わたしの頭のなかは、ジャニス・ジョプリンとゼルダが抜きがたく一緒になってしまっている。 ゼルダも、ジョプリンも、いわゆる「幸せ」な一生とは言えなかったのかもしれない。それでも、少なくとも退屈、なんてものとは縁がなかった。それだけは確かです。 今年一年、ほんとうにありがとうございました。 それじゃ、よいお年を! 来年、またお会いしましょう! Dec.30, 2005 Last Update 12.22 「ペンティメント 〜亀」をアップしました。 小学生のとき、理科の実験で糸電話を作ったことがあります。紙コップに穴を開けて糸をつけ、教室の端と端に分かれて。顔は遠くに見えながら、直に聞こえないようにささやく声が、紙コップのなかから聞こえてくる。声が糸を伝ってやってくる、ということが不思議でもあり、耳元で聞こえるクラスメートの声がなんだかくすぐったくもあり、双方でクスクス笑ってばかりいたような思い出があります。 わたしは文章を書くとき、おもに自宅のノートパソコンを使っています。自分のための覚え書き、仕事の文章、それ以外にも、サイトやブログに載せるための文章を書くのも、同じパソコンです。サイトやブログの文章は、この端末の向こうで読んでくださってるかたに、糸電話みたいに、心のなかで話しかけながら書いていきます。日本語として通じてますか? 変なふうに読んでませんか? ひとりよがりなこと、書いてませんか? 近視眼的な考えに陥ってませんか? 端末は糸電話ではないから、もちろん相手の姿も見えないし、声も返ってくることはありません。 それでも、自分が考え、考え、考えたのち、いまの自分に書けるのはここまで、と書いた文章の、ここを読んでほしいと思ったまさにその場所を読んでもらったときの、身体が震えるような喜びを、わたしははっきりと覚えています。そうして、読み手でもあるわたしが、書き手でもある相手の「ここを読んでほしい」という場所を読みとった、と思ったときのよろこびも。もしかしたら、それさえもわたしのひとりよがりの思いこみでしかなかったのかもしれないけれど、少なくとも、そのときわたしはまぎれもなくそう思ったわけです。 そうした経験のひとつひとつは、数は少ないけれど、くっきりと鮮烈なイメージとして、わたしのなかで根をはり、息づいている。そのイメージは、ときにわたしを叱咤し、あるいは勇気づけてくれます。暗闇のなかで迷うような気がして、痛切に、声が聞きたい、どうしたらいいか教えてほしい、と思うこともあるけれど、でも、たぶん、そのイメージがある限り、わたしは大丈夫、がんばっていける、と思います。 ヘルマンについては、もう少し書いてみたいことがあるので、しばらくおつきあいください。 それでは、また。 Dec.22, 2005 Last Update 12.13 「'TWAS DA NITE ――クリスマスの思い出」をアップしました。ブログのほうで三回にわたって書いたクリスマスネタに、加筆修正しています。このタイトルは、もちろん"It Was the Night"の意で、正確には……なんて書き始めると長いんですが、まぁTake 6のクリスマスアルバム"He is Christmas"に収められている曲からタイトルを借りてきたわけです。 先日、このサイトを見てくださっている方から、メールをいただきました。 大変うれしかったのですが、反面、そうまでしてくださって読んでもらうに足るものを自分が書いているのだろうか、と、どうしても思ってしまったんです。 わたしが「百円の真実」と読んでいる、ある種の言葉があります。 「環境保護」「差別をなくそう」 「人に迷惑をかけない」 「お年寄りを大切に」…… もちろんそれ自身、間違いじゃありません。 問題は、そこなんです。標語だのなんだのあっちこっちにこんな言葉があふれているけれど、そうして平気で口にもされているけれど、それ自体、ちっとも次のアクションに繋がっていってない。そのくせ、書いておけばいい、口にしていればいい、どうだ、間違ってないだろう、といった言葉に成り下がってしまっている。 「他人の痛みを知る」という言葉があります。 わからないから他人の痛みなのであって、この身に感じられるものならば、それは自分の痛みです。考えてみればずいぶん矛盾した言葉で、わたしはそんなのはずっと嘘だ、と思って、こんな欺瞞的な言葉は、キライだ、と思っていました。 それが、あるとき、眼科のお医者さんからこんなお話をうかがったんです。 その方が受け持った患者さんは、目の手術のあと、別の病気を併発して、視力がどんどん落ちていったのだそうです。 そのお医者さんは、そのときにはまだ点字をご存じではなかったんだそうです。 それでも本を買って、勉強して、勤務が終わった8時ころから、消灯時間の夜9時までの間と、日曜は朝から晩まで、患者さんにつきっきりで、点字を教えられたのだそうです。「外来の控え室で、コーヒーを一緒に飲みながら、すっかり無口になった彼女の心の震えが、痛いほど伝わってきました」 おそらく、人の痛みはどこまでいっても人の痛みでしかありません。 このお医者さんのお話は、そういうことをわたしに教えてくださるものでした。 この下でも書いた「孤独」ということを、ここでもういちど考えます。 それでも、人間が孤独である、ということも、あるいは、他者をほんとうに理解することはできない、ということも、やはり「百円の真実」ではないのだろうか、と。 結局はそれを踏まえて、そこからどう考えていくかが問題になっていくのでしょう。 E.M.フォースターは、『ハワーズ・エンド』の冒頭、エピグラフとして"Only Connect"と書きました。「ただ、結びつくことさえできれば」というあたりでしょうか。 他者は理解できない。自分と他者の間には、越えることのできない壁がある。 なんというか、まだまだいろんな意味で未熟です。英語もできないし、本だって読んでない。考えて行かなくちゃいけないことは、いっぱいあります。 さまざまな方に見ていただいているのだな、と改めて思います。 それにしても、寒いです。妙に長いでこぼこのマフラーを姉からもらったので、明日からこれをぐるぐる巻きにしていこう、と思っています。姉の家の犬と、ペアルックなんだそうです。 ということで、それじゃまた。 Dec.13,2005 Last Update 12.09 ♪ カーソン・マッカラーズの短編『木・岩・雲』をアップしました。 ♪マッカラーズは、決して結びつくことのできない人間の孤独を描いた作家と言われます。というか、アメリカ文学そのものが、そういった孤独や疎外といったものを一貫して扱ってきたわけです。ただ、マッカラーズの作品の多くは、この孤独を強調すればするほど、逆に、結びつくことができれば、理解し合うことさえできれば、そうしたものは解消されるはずなのに、という、一種の「甘さ」があるようにわたしには思えてしまう。 大橋健三郎は『アメリカ文学論集 ――人間と世界』(南雲堂)のなかで、スティーヴン・クレーンの詩を引用しつつ、このように言います。
多くのアメリカ文学は、「孤独」や「疎外」をさまざまな観点からとらえ、説明しようとし、原因や処方箋を考えてきました。大橋は「それにたいする救済を何かの形で現実的に提出し、実践することは可能であろうし、可能であるべきである」といいます。 ただ、そうなのかな、と思うわけです。むしろ人間というものは「孤独」以外のありようがあるんだろうか、と。なにしろ「他者」にほんとうに心があるのかどうかだって、わたしたちにはわかりようがない。まして「他者」が何を、どういうふうに感じているか、なんてことはわかりっこないんです。そう考えていくなら、むしろ「孤独」なのがあたりまえで、「わかりあった」「結びついた」と思えるのは、幻想以外のなにものでもない。 けれども、わたしたちは普段、日常生活をおくっているときは、そこまで孤独感を覚えたりはしません。孤独を味わうのは、大橋が言うように「わが手を引く」人の存在があるとき、つまり、理解やつながりを求めていくときなのでしょう。理解やつながりを求めて、逆に深い、絶望的な孤独を味わってしまう。それがわたしたちのありようではないんだろうか。わたしはそんなふうに思います。 けれども、大橋はこのようにも言います。「それ(孤独からの救済の探求)と同時に、あるいはそれを究極的に支えるものとして、私たちは柔軟で強靱な人間性への信頼を失ってはならないと私は思い、たとえばユーモアといったことをふたたび想起するのである」 なるほどな、と思います。ユーモアがどういうものだか、あるいは「笑い」がどういうものだか、よくわかっているわけではないのだけれど、少なくともわたしは生きていく上で不可欠の要素だと信じています。大橋の言うように、人間は孤独であるけれど、同時にそれに耐えうる「柔軟で強靱な人間性」を備えている。だからこそ、起こったことや、そのときの自分の心情を、ちょっと高いところから俯瞰して、おもしろおかしく語ることができるのかもしれません。 わたしたちのまわりでは、日々、さまざまなことが起きます。そのほとんどをわたしたちは忘れてしまう。けれども、その一部ではあっても、そのいくばくかを「おもしろい」とすくいあげ、「おもしろい話」として語ることができたら。それは「孤独からの救済」ではないにしても、少なくとも何らかの意味のある行為ではないのでしょうか。まぁ、わたしの話が笑えるかどうかはともかくとして、そんなふうに思っています。 ♪ これもおもしろいかどうかはなはだおぼつかないのですが、「鶏的思考的日常」のページが妙に重いと思ったら、94kbもあったので、ふたつに分けました。「鶏的思考古篇」(とりてきしこういにしえへん、と読んでください)、「どこまでいっても鶏頭篇」です。これもインデックスつけて、個々の記事に飛べるようにしたほうがいいんでしょうが、どぉぉやっても時間なんかありません。ああだこうだ書いたけれど、そういうこととは関係なく、あはは、と笑って読んでいただければ、これほどうれしいことはありません。 ♪ ところで『木・岩・雲』の一節に"the lids closed down with delicate gravity over his pale green eyes"という部分があるんですが(「瞼は重力の作用を微かに受けるのか、青緑の目にかぶさってくる」と訳してみました)、この部分で思い出すのは"Gravity Eyelids"というタイトルのPorcupine Treeの歌です。この歌詞もよくわからない歌詞ですよね。重力を受けてまぶたが被さってくるんだろうか。だけどどこかにこのマッカラーズの短編が響いているような気がするんだけど。 ♪ それにしても寒いです。すっかり暮れてしまったなかを自転車で帰ってくると、南の空にはスパッと切り落としたような半月が、白々と輝いていました。前にこんな半月を見たときのことを思い出しながら、冬の寒さのなかで見る月や星は、ほかの季節より明るさを増すのだなと思いました。こうした明るい月や星が見えるのなら、冬の寒さも我慢してやろうじゃないか、というところです(態度デカイ)。 寒い日が続きます。どうかみなさま、お健やかにお過ごしください。 ♪ おっと忘れてました。「My Book Mark」のページに「ほんの動物」でリンクさせていただいた「なつメロ英語」を加えました。ここで「天国の階段」も聴けます。丁寧な訳詞も読めます。おもしろいサイトなので、ぜひ行ってみてください。だけどここにリストアップされてる曲ってほとんど知ってるんだよね……。 Dec.09,2005 Last Update 12.03 ♪「ほんの動物 ――わたしたちと「隣人」をめぐるささやかな考察」をアップしました。ブログ掲載時のものに相当手を入れ、なんとか読めるモノになったんじゃないかな、と思います(hopefully)。 これを書いていたころ、とにかく時間がなくて、毎日電車の中で、どの本のどの部分を使おうか考えて、本棚の奥の方から本を引っ張り出し、該当箇所を探し、なんとかその部分の引用だけでブログを引っ張っていたようなものです。書き直すことで、単に引用の寄せ集めじゃなくなってたらうれしいのですが。 ♪ 本文中にも引用した、長田弘『ねこに未来はない』(晶文社)のなかに、こんなふうに忘れられない一節があります。本文のほうには話がずれるため、入れることができなかったので、ここにあげておきます。
わたしたちは、生きていくなかで、望むと望まないとにかかわらず、いくつもの出会いと別れを経験します。別れは、いつだって、さびしく、かなしく、そしてくるしいものです。それでもわたしたちは、その部屋から出なければならないときがある。そうして、どれほどそのドアの「固い握り」が冷たくても、勇気をもって回さなければならないのでしょう。 出会いも、そうして、別れも、それ自体では、ただ、ひとに会って、ゆきすぎたことでしかありません。けれども、それは、わたしたちがそのあとも生きて、生きつづけていくなかで、ほかのさまざまなできごとと結びつけ、意味づけることによって、はじめて、さまざまな意味を持ってくるのだと思います。 つぎの季節へ。それは厳しい冬かもしれないけれど、それでも前へ歩いていかなければ、その過去の出会いさえ、意味を失ってしまいます。だから、顔をあげて、背筋をのばして、前を向いていこうと思うのです。 ♪"What's new? ver.2"もすっかり重くなったので(なんと四ヶ月分の更新履歴が63kb! いったい何を書いてるんでしょう)、更新情報も新しいものにしました。新しい季節の始まりです。このver.3、わたしはいったい何を書き込んでいくんでしょうか。 ♪ いよいよ本格的な冬がやってきます。みなさん、お風邪などお召しにならぬよう。新型インフルエンザも流行らなければいいのですが。うーん、今年、予防接種、どうしようかなぁ。考えどころだなー。 ♪ ということで、それじゃまた♪ お元気でお過ごしください。 Dec.03,2005 |