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What's new? ver.5


(※ここには2006-7-05から10-20までの更新情報がおいてあります)

Last Update 10.20

「あの頃わたしが読んでいた本」アップしました。本にまつわる記憶のなかで、もっとも古いものを掘り起こしてみたんです。

わたしはつい記憶力の減退をネタにしてしまうのですが、同時に、わたしにとって「思い出す」というのは、おそらく重要なことなのではないのだろうか、と、このごろ、しきりにそんなことを思うようになりました。

どこで読んだのか、ほんとうにそんな一節があったのか、曖昧なままのごくあやふやな記憶なのですが、作曲家のドビュッシーは「人の記憶が音楽を作るのだ」と言った、と何かに書いてあったような気がするんです。

わたしたちは耳で音楽を聴いているわけではない。単なる聴覚器官である耳が、音を集めてきて、脳でそれを聞くわけです。そのとき、おそらくひとつの曲を聞きながらも、同時にさまざまな記憶と重ねあわせて聞いているのだろうと思います。
同じように、わたしたちは読むときも、さまざまな記憶を重ねあわせながらおそらく読んでいるのだろう。そうして逆にその記憶は、固定したものではなく、思い返すそのときどきの光を当てられながら、そのときどきのわたしが当てはめる言葉によって、よみがえっていくのだろうと。

かつての楽しかった時のことが、どうしていまでも思い返すたびに胸を暖めてくれるのか。
それはそのときの記憶を思い返すことによって、そのときをもういちど生き直しているからなのでしょう。そうして、単に懐かしく思い返すだけではなく、そのときどきの光を当てることで、別の角度から眺め、絶えず新しい発見があるのだと思います。

試行錯誤しながらもたもたと書いているわたしの記憶が、読んでくださるほかの方の記憶をどこまで喚起するものであるかどうか、はなはだ心許ないのですけれど。
言葉は、所詮、言葉でしかないけれど。
それでも、わたしの記した言葉のひとつが、読んでくださるかたの胸の内に刻まれた、図書館の記憶、古い本を開いたときの独特のにおい、薄暗い書庫の奧の微かにかびくさい空気、そうした身体に刻まれた記憶の扉を開けるものであれば、ほんとうにうれしいと思います。

ただ、ほんとうにほかの人が読んでおもしろいんだろうか、読んでもらう価値があるんだろうか、という疑問は、どうしたってあります。もしよかったら、おもしろくない、とか、そんなのでもいいから、また教えてください。

さて、日が暮れるのがすっかり早くなりました。まだ日中なんかは結構暑かったりもするのですが、日の入りの早さを思うと、秋の深まりを感じます。
最近は「読書の秋」なんてことは言わないのかな。まぁ読む人は、年中読むし、読まない人は年中読まない、そんなもんですが、静かな夜、ひっそりと本を読む喜びは、何物にも代え難いものがあります。

さて、今日はこのあと何を読みましょうか。なんだか最近はこむずかしげなタイトルがついたものばかり読んでるような気がするんですが。

街路樹のハナミズキの葉が日々赤く染まっていきます。
どうかみなさまも気持ちのいい秋の日をお過ごしでいらっしゃいますよう。
それじゃ、また。

Oct.20,2006



Last Update 10.18

鶏的思考的日常のページをリニューアルしました。

あのページはどうしようか長いこと迷っていたんです。あまりにも雑然としていたから。
とりあえず見出しをつけて、どこに何があるか、そこに飛んでいけるようにしました。埋め草以上のものがあるかどうかは不明なのですが。

その昔、国語の先生が、エッセイでどうしようもないのは人生論と自慢話だ、と言っていたのをよく覚えています。
その生き方が良かったか悪かったかなんてことは、死んでみて、初めてわかることだ。自慢話にしたって、それがほんとうに自慢できることなのかどうなのか、いまの自分になんでわかる? そんなことを平気で書けるような××や○○なんて読むもんじゃない。
ほんとうにそうだなあ、と思って、いまでも文章を書くときのわたしの目安のひとつになっています。

ところがこの人生論と自慢話、うっかりすると、そこへおっこっちゃう。
そのものズバリはさすがにやりませんが、一種のバリエーションはやっちゃうわけです。
たとえば、ほかの人がやったことなしたことを批判する脈絡で。あるいは、こうするのが正しい、みたいな脈絡で。

わたしに見えるのは、わたしがいまいる位置から見える景色だけなのだ、と。これから先どうなるかがわからないだけでなく、過去のことだって、いまの自分の位置から振り返って眺めているのだ。まして他人のことなど、わかるわけがない。
少なくともそのことを忘れない限り、人生論と自慢話からは免れるのではないか。

いかんせん、三歩あるけば何でも忘れる鶏的思考ですから、この決意さえすぐにどこかに行っちゃいそうなんですが。
よし、忘れないように紙に書いて冷蔵庫に張っておこう。

それにしても、こうやって振り返ってみると、ずいぶん書いたものです。塵も積もれば山となる、とはよく言ったもの。読んだあと、忘れてもらってかまいません。読んでくださった方が、くすっと笑って、ちょっとだけいい気分になってもらえたら、これほどうれしいことはありません。

それにしても、このあいだ十月に入ったと思ったら、もう中旬を過ぎました。
カレンダーの残りも少なくなっちゃいましたね。ほんと、一年が早い早い。

どうかみなさまの日々が充実したものでありますよう。
風邪が流行ってるみたいです。お元気でお過ごしください。
それじゃ、また。

Oct.18,2006



Last Update 10.10

遅くなりましたが、イーディス・ウォートンの短編「ローマ熱」アップしました。

人と会って話をするとき、わたしたちは多くの場合、言葉よりも相手の視線の行く先や、ちょっとした仕草、顔色や、微妙な表情の変化といったものに目を向けています。
コミュニケーションというと、言葉を使って成り立たせるもの、というふうに、つい考えてしまいがちなのだけれど、たとえ会話が弾むように話題を準備していようが、展開を予測してそれに備えていようが、話は決して予定通りにはすすまないことは、わたしたちが日常よく経験していることです。

会話が弾んで、すごく楽しい時間を過ごした、という印象はあっても、振り返ってみたら、さて何の話をしたんだっけ、ということになり、つらつら思い返しても、記憶に浮かぶのは他愛のない話や無駄口ばかり、にも関わらず、そのときのことを思い返すたびに胸は暖められる。
そんな経験はだれもにあるものだと思います。
会話というのは、「言葉」が行き来するというより、お互いの声や話しぶり、仕草、顔色といったさまざまな「情報」をもとに、その場にいる人が共同で、なにものかを生成させていっているのでしょう。そうしてその共同作業がうまくいったとき、わたしたちの胸に「達成感」のような、暖かい記憶が刻まれるのだと思います。

「ローマ熱」のなかでも、ミセス・スレイドとミセス・アンズレイの会話は、思いもかけない方向へ行き、予想もしなかったものを出現させてしまいます。実は、この共同作業も、大変うまくいったのだと思うのです。その結果、出現させてしまったものが、話し手にとって大変な打撃を与えるものであったとしても。

一方でこんなことも思います。
「空気を読め」という言葉があります。文字通り、場の空気、言葉以外のものを感じ取れ、ということなのでしょう。
本来なら文字だけのコミュニケーションとしてあるはずの掲示板やブログの書き込みでさえも、このようなことが言われる、というか、書き込まれる。
これは、やはり字面が行き来するなかで、何か、流動的な、言葉には表れない「なにものか」が生まれているのだろう、と思うのです。察知できる人は、新たに生まれつつある「なにものか」を受け、それを自分の内に織り込みながら、自分もその「空気」に参入していく。察知できない人は、あくまでも文字情報だけをたよりに、「自分」というものを変えることなく、その場にそのまま、投げ出していく。
おそらくそれは、読解のスキルだけの問題ではないのでしょう。

ただ、この言葉がそれ以上におもしろいと思うのは、文字によるコミュニケーションの場でさえも、言葉にならないものが生まれてしまう、ということです。

わたしはよく、「声」という言い方をするのですが、ある文章を読んでいたら、はっきりと「声」が聞こえてくることがあります。それは、おそらくその「なにものか」を、わたしは「声」というかたちで意識化しているのだろうと思うのです。

言葉でやりとりできる人間の感情は、決して多くはありません。
それでも、言葉に託すしかない場合が、どうしてもある。文学作品の作者は、それをするわけです。
緻密な構成と言葉によって、言葉にはならない感情を言葉にする。
そうして、一番肝心な部分を「言葉」では書かない。その部分を読み手がさぐりあて、その部分を「言葉」にするのは、読者ひとりひとりに委ねているのだろうと思うのです。

読むということは、決して簡単なことではありません。それでも、読むこともコミュニケーションの一種ならば、書き手とのあいだに、やはりなにものかを生成させることはできるはずです。
そんなふうに読んでいけたらな、と思います。

さて、気がつけば十月も上旬が終わろうとしています。
キンモクセイの香りがあちこちから漂ってくる季節です。キンモクセイというのは、どうも花も木もパッとしないんですが、なんであんなにいい匂いなんでしょう。 小学生ぐらいの時、この時期になるとイヌになりたい、とよく考えていたのを思い出します。イヌの嗅覚でこの匂いを嗅ぐことができたら、どれだけすばらしいか(笑)。

気持ちのいい季節です。どうかみなさまも秋の日を楽しんでいらっしゃいますよう。
お元気でお過ごしください。
それじゃ、また。

Oct.10, 2006



Last Update 9.26

「「賭け」する人々」をアップしました。

これはロアルド・ダールの「南から来た男」を訳しているときに、なんでこの男は指をほしがったのだろう、と思ったことからきています。本文中にも引用しましたが、都築道夫は「賭博に打ちこむ人間たちの心の恐ろしさ」と書いているのだけれど、そのどこが恐ろしいのだろうか、と。

恐ろしい、といえば、わたしには思い出すことがあります。十年ほど前、ある理由からコリン・ウィルソンの『犯罪百科』や『現代殺人の解剖―暗殺者(アサシン)の世界』『 殺人ケースブック』などの本を、まとめて読む機会があったのです。

人間が人間を殺した実際の話を、これでもかこれでもかと読みながら、わたしはむしろその現れた行為よりも、殺す側と殺される側という関係が生成してしまう「場」のようなものが非常に恐ろしいと思いました。

「恐ろしい人間」というものが独立して存在しているわけではない。そうではなくて、ある場、ある関係性に置かれた人間が、恐ろしくもおぞましくもなっていくのだと。

「賭博」というのは、そんなふうな場なのだろうか。そういえば、ドストエフスキーも身を持ち崩す青年のことを書いていたっけ。そこらへんから、カイヨワをおもなたよりに、さまざまな本を集めてみました。

ただわたし自身に、「賭け事」の経験が皆無に近いので(親しい人と五百円賭けることはありますが)、本で読んだ以上の「賭けの感覚」を理解することもなく、その点では興奮したり、度を失ったり、というのは最後までリアルにはわからないものでした。やっぱり経験がまったくないものを書くのはむずかしいな、と思いました。それでも、それを理解するために、わざわざパチンコ屋に行ってみようとは思わなかったけれど(笑)。

やはり賭けるのであれば、顔の見える相手と、○○はどうなる? といって、五百円(笑)か、もしくはお昼ゴハンを賭けるくらいがいいです。もちろん、真剣な遊びとして。それでも、五百円しか賭けないわたしは、五百円分の興奮しか味わえないのかも。

この「場」ということ、「関係」ということ、また別の機会にも考えてみたいと思っています。

それにしても、お彼岸を過ぎてすっかり日の出が遅くなってしまいました。寝苦しい時期が終わったのは助かるけれど、目が覚めるとあたりが真っ暗、まず電気をつける、というのはあまりうれしくないものです。それでも、建てこんだ家並みと空の境がさっとオレンジ色になっていく。そんな朝焼けを毎朝見ていると、ああ、今日も一日が始まるのだな、と思います。

今日一日、起こること。それに対してわたしがとっていく行動のひとつひとつがやはり賭けなのだと。局面、局面でそのたびごとに勝つことはできなくても、一種のゲームのように、巧妙に、そして公平に向き合っていきたいものだ、と思います。その結果、負けたら負けたで、肩をすくめて受け入れる。勝ったとしても、また同じこと。そんなふうにできたら、と。だって、日が続くように、その勝負は続いていくのだから。

気持ちのいい時期ですが、季節の変わり目でもあります。
どうかみなさまもお変わりございませんよう。
それじゃ、また。

Sep.26,2006



Last Update 9.20

「この話、したっけ 〜伴走者として」アップしました。
ついでに「この話、したっけ」のインデックスページも、構成を改めたついでに少し書き換えました。

これはもともとサイトの更新までのつなぎの記事のつもりで書いたものです。
散漫に感じていたいくつかのことを撚りあわせて書いていくうちに、漠然としたことが、次第にはっきり見えてくるように思った。そうして、これはわたしにとって、とても重要なことでした。だからもう少し日を置いて、全体に加筆していきました。

わたしたちは、話を聞くとき、いつもなんらかの期待を持って聞いています。
お笑いの公開番組で、たまに客席が映るのを見ることがあります。たいしておもしろくもない話にも笑い転げている人の姿は、画面のこちらから見ると不思議でしかないのだけれど、その人たちにしてみれば、会場の熱気もさることながら、おそらく「せっかくお笑いを見に来たのだから」と、元を取らなきゃ、という気持ちがそうさせているのかもしれません。
逆に、中学時代のわたしが、せっかく先生がしてくれた話を、「当たり障りのない、ごく一般的なもの」と失望したのも、それは自分が期待したような話ではなかったからなのだろうと思うのです。

自分が望むようには相手が振る舞ってくれなかったから、というだけで、勝手に失望したり、相手の意図を疑ったり。
ずいぶん勝手な話です。
けれど、これまでわたしはずいぶんそんなことを繰り返してきたのだと思います。

そうした自分の愚かさを考えると、悲しくなってしまうのだけれど。
それでも、実際に失敗してみなければ、ほんとうにはわからないこともあるのだと、やはりわたしは思います。

そうして、こんなふうにも思うのです。そこにいてくれる人の存在は、何よりもわたしを強くしてくれるものだけれど、そこにいてくれる人にとっては、わたしの存在が「そこにいる」ことにもなりうるのだと。
自分の生を生きながら、だれかの伴走者でもあるような。
そんなふうなあり方ができたらな、と思います。

そのことに気がつくまでずいぶん時間がかかったけれど。
時間をかけてたどりついたことには、時間をかけただけの意味があるはずだから。

さて、日中、日盛りの戸外は、まだまだ暑いけれど、朝夕はすっかり涼しくなりました。外からは虫の声も聞こえます。
どうか気持ちのいい秋の日をお過ごしください。
ええ、「「賭け」する人々」も間もなく更新しますとも(笑)。
ということで、それじゃまた。
どうかお元気でいらっしゃいますよう。

Sep.20,2006



Last Update 9.06

ロアルド・ダールの短編「南から来た男」をアップしました。

この短編もそうなのですが、ダールの短編には「賭け」を扱ったものがよくあります。わたしはいわゆる賭け事というのはほどんどやった経験がないのだけれど、おそらくはものすごい緊張感と、うまくいったときの高揚感が得られるのかと思います。

人が、つい、賭けをしてしまう心理の背景には、お金とか、見返りとかいうよりも、未来を知りたい、そうして、未来を支配したい、という欲望があるのではないか、と思います。

もうひとつ、賭けをする人は「つき」を口にします。
「ついている」「ついていない」、これはどういうことかというと、やはり自分が神と呼ぼうと、運命と呼ぼうと、なんであれ人間を超えた大きな存在から、特別に目を掛けられているか、いないか、ということでしょう。
自分が目をかけられた存在であると知りたい。そのことを確かめたい。賭けをする人は、どこかでそう思っているのではないでしょうか。

一方で、わたしは「賭け」を怖れる気持ちがあります。
なんというか、自分のなかに一種の破壊衝動があることを知っているので、あまり怖いところに自分から近づきたくない、という気持ちがある。。
賭け、というか、ギャンブルには、一種の麻薬のようなものがあるように思う。
そういうことを自分が実際に経験して、平気でいられるかどうかよくわからない。ある程度距離を持って楽しめるかどうか、あまり自信がありません。だから、依存性、習慣性のある麻薬が、ハクスリーなんかを読むと「すばらしい瞬間」を垣間見せてくれる、というふうに書いてあったりはするのですが、とりあえず、こうしたものを読むだけにしておこうと思っています。

それでも小さいころ、つぎの青信号で渡ることができたら、ピアノ教室で丸がもらえる、なんて賭けを、自分相手にしていたことを覚えています。
そういうことを、いったいだれに教わったのでしょうか。まったく覚えていないのだけれど、気がつくとやっていた。
考えてみたら、少し不思議な気がします。

明日、どうなるかわからない。
つぎに何が起こるかわからない。
相手の気持ちがわからない。
そういうとき、わたしたちは過去をふりかえって、“前のときはこうしたから、こうなった、だからつぎは”、とか、“去年はこうだったから、今年も”、とか、“あの人はあのとき、こんなふうに言ったから”、というふうに考えます。
そうやって、さまざまに「因果関係」の物語を作って、それを未来に当てはめようとする。
それが完璧に当てはまるかどうか、わからない。
それでも一歩、ふみださなくてはならない。
そんなとき、わたしたちは、やはり、「賭け」をしているのだと思います。

たぶん、結果がすぐ明らかになるから、ギャンブルは楽しいのかな、と思います。 しかも、賭けるのはダールの「小指」みたいに、とりあえずはほんの一部だし。 そうした大きな「実害」はない部分を、自分の代わりに差し出して、そこから未来を読みとろうとするのでしょう。

ギャンブルではない、日常の「賭け」は、そんなふうに、すぐにはっきりと結果が出てくるものばかりではありません。「勝ち」とも「負け」とも言えるものではない。 そのたびごとに「勝ち」「負け」はあるにしても、それは生きていく限り続くものですから、いま「勝った」ところで、それがどうなっていくか、どういう意味を持っていくかだれにもわからない。

そうした意味で、わたしたちは、自分を「賭け」の対象としながら、日々を生きているのかもしれません。

さて、今年の残暑は長いんでしょうか。
だれか、わたしと賭けませんか?

季節の変わり目です。
どうかみなさま、体調など崩されませんよう。
それじゃ、また。

Sep.06,2006



Last Update 8.24

「夏休みが長かったころ」をアップしました。ブログ連載時には「夏の思い出」としていたのですが、内容を若干改めるのと一緒に、タイトルも変更しました。

わたしたちは「時間」をどうしても「流れ」として理解しますよね。川の水が上流から下流に流れていくように、時間は、過去から未来へ流れていくように、どこかで感じている。

だけど、「時」ってほんとうに「流れ」なんでしょうか。

よく「タイムマシン」っていうのがSFには出てきますよね。川をさかのぼっていくように、時をさかのぼっていく。けれども、ほんとうにそんなことができるんだろうか。「過去のある時点」というのは、そんなふうにどこかに保存されているのだろうか。あるいは、未来というのは、どこかよくわからないところに、やはりすでに起こっていて保存されて、いまのわたしがそこへ行くのを待っているのだろうか。
どこか、そんなものではないような気がします。

おそらくは過去というのは、いまのわたしの記憶の中にしかないのだろうと。 だから、こんなふうに、ときどき取りだして、いまの光に当てて眺めてみたくなるのだと思うのです。そのことを書いたものがおもしろいかどうかはともかく。

ところで、冒頭で引いたのはビーチボーイズの"Wouldn't It Be Nice"(邦題“素敵じゃないか”)ですが、やっぱり夏になると、なんとなくこの曲が収録されている〈ペットサウンズ〉を聴きたくなります。いきなりハープシコードのキラキラした音を聴くと、ああ、夏! って思っちゃう。

ビーチボーイズをわたしが知ったのは、ボブ・グリーンのコラムや本を通してでした。
ボブ・グリーンはいろんなところで繰りかえしビーチボーイズのことを書いているのだけれど、そのなかに、「ビーチボーイズ? あのサーフィンの音楽をやってる人?」と聞かれて、こんなふうに答える記述があるんです。
彼らはサーフィンなんかしたこともなかった、ブライアン・ウィルソンは小さい頃、父親に虐待されて、片耳が聞こえず、水に近寄ることさえしなかった。
こんな文章を読めば、どうしても、あの明るいメロディやコーラスの裏に、過剰な陰影を聞き取ってしまいます。しかも〈ペットサウンズ〉というアルバムは、そういうことをしたくなるような、なんでそこにあるのかうまく説明できない過剰な音に満ちているアルバムでもある。
そんなことを考えながら聞くのに〈ペットサウンズ〉はぴったりで、ほかのどのアルバムよりこれを繰り返して聞いた記憶があります。

それでも、いま改めてこれを聞くと、ああだこうだと小難しいことを言わなくても、なんというか、素直に、ああ、いいアルバムだな、と思います。特に“素敵じゃないか”という、始まってから間もない恋愛の、みずみずしい喜びを歌ったこの歌を聴いていると、アルバムの最後では心変わりを悲しむことを知っているだけに、単にイノセンスやリリシズムばかりではない、いろんなことを感じてしまう。
“歳を取るってステキなことじゃないか”、なんて、もはや言える年齢ではなくなってしまった。
おまけに、始まったばかりの恋がどれほど楽しくても、そんな時はあっという間に終わってしまう、ということも、もんだいはそれをどういうふうに持ちこたえさせていくのか、ということで、それは決して楽しいばかりではないことも知ってしまった。
だからよけいにこの曲から「陰影」を聞き取っても良いのだけれど。

それでも、この曲を聞いていると、遠い夏の日を思い出します。
夏休みが長かったころ。時間なんて、いくらでもあったころのことを。

あのころには、もうどうやったって戻れない。戻ろうにも、どこにもそんなものは存在しない。わたしの記憶の中にしか。
だから、曲をもう一回かけるみたいに、そうして、同じ曲が、そのときどきに応じて、まったくちがって聞こえるように、そのころのことをわたしは書くのだろうと思います。

わたしのささやかな記憶が、これを読んでくださった方の記憶と、どこかでつながっていくことができたら、これほどうれしいことはありません。

八月ももうすぐ終わりです。
日差しが少しずつ長く、空の青さも濃くなってきました。
それでもまだまだ暑い日は続きます。
どうかみなさま、お元気でお過ごしください。

それじゃ、また。

Aug.24,2006



Last Update 8.20

「ものを贈る話」アップしました。

文学作品に描かれたさまざまな「贈り物」を通して、この身近な贈ったり、贈られたりの奧に、どんな心の働きが隠されているのか、考えてみたかったんです。

小学校の一年か二年のころ、学校でシュバイツアーのスライドを見ました。そのなかにこんな場面がありました。
子供のシュバイツアーが友だちととっくみあいの喧嘩をして、勝ったんです。ところがその友だちが、「ぼくだって君みたいに毎日肉の入ったスープを飲んでいれば、勝てた」と負け惜しみを言う。それ以来、シュバイツアーは肉のスープを飲まなくなった。
医学を学んだり、アフリカへ行ったりする部分は当然あったのだと思います。そんなところは全然覚えていない。その部分だけ、異様にはっきりと覚えています。
シュバイツアー少年が感じた「負い目」の感情は、当時のわたしにとって、とてもよく理解できる感情だったからです。

それでも、その「負い目」の感情を、どういうふうに考えたらいいのか長いことわからないでいました。
あるとき、今村仁司の『交易する人間』(講談社選書メチエ)を読んでいたら、こういう部分があった。

 現代人は何か大きいものから自己の存在(生きていること)を負っているという感情をほとんど自覚しないようになっているが、その感じが実在しなくなったというわけではない。それは人間であるかぎりつねにかかえているのだが、現代ではそれが他の感情や感覚によって覆われているにすぎない。(p.119)

ここから古代インドの思想が紹介されていくわけですが、「負い目とは、自分の生命を何か大きいものから受け取ると感じることであるから、人は何かから自分の存在と生命を「与えられた」と言うことができる」と続いていきます。
なるほど、そういうことなんだ、そんなふうに考えることができるんだ、と思いました。
わたしがどこまでそこに書かれていることを読みとったかどうかは、はなはだ心許ないのですが、長いこと自分のうちにあった宿題に、とりあえず、答えを出すことができたかな、とは思います。

一方で、「前世」だとか「生まれ変わり」だとかいう物言いがあります。わたしはほんとうにこうした「オカルト」じみた物言いがキライなんだけど、おそらくこういうのも、わたしたちがばくぜんと感じている「負い目」の感情からきているのではないか。
あるいは、表面的には全然関係なさそうなんですが、ひところしきりに言われた「自分探し」も、同じことの別のあらわれじゃないのかと思うんです。

「いまここにいるわたし」は、確かに存在しているのだけれど、それがいったいどこから来たのか、いったいいつから「自分」と意識されるようになったのか、わたしたちはだれひとりとして知ることはできない。だからこそ、「確かなもの」を求めようとして、前世だのなんだのというチープな物語に飛びつこうとしたり、あるいは、自分が受け入れやすい「物語」を求めて、タマネギの皮を剥いていくようなことをしているんじゃないでしょうか。

だけど、贈り物はもうもらっちゃったんです(笑)。
それが、だれの贈り物なのか、どういった経緯で贈られたのか、そんなことは、とりあえずどうでもよくて、問題は、それを返さなきゃならなくなるときまで、大切に使うことじゃないんだろうか。
そうして、ほんとうに考えなきゃいけないのは、その「大切な使いかた」なんだろうと。
わたしはやっぱりそんなふうに思います。

さて、立秋が過ぎ、お盆が過ぎ、季節はゆっくりと秋に向かっています。
徐々に日は短くなり、セミの声も変わってきました。もうすぐヒグラシが鳴き始めるのでしょうね。

以前、お線香をいただいたことがあります。
お仏壇も何もないわたしの家では、お線香もただの部屋の芳香剤にしかなっていないのですが、一本だけ、青磁の小さな香炉に立てて火をつけると、部屋のなかに次第に沈香の香りが広がっていきます。
しょっちゅう焚くわけではないので、三分の一くらいまだ残っています。ただ、香りがなるべく飛ばないように密封していても、いただいたころに比べると、ずいぶん匂いも飛んでしまっているのが悲しいのだけれど。
それでも夏の夕方、遠くセミの鳴く声を聞きながらお線香を焚いていると、なんとはなしに懐かしい気持ちが胸を満たします。
これもまた忘れられない贈り物です。

さて、夏の疲れが出やすい時期でもあります。
どうかみなさま、お元気でいらっしゃいますよう。
それじゃ、また。

Aug.20,2006



Last Update 8.04

リング・ラードナーの短編「散髪」アップしました。

長いあいだ、どうしようかと迷っていた短編でした。
ただ、最初に床屋の声を決めて訳し始めてみると、この声が勝手にしゃべってくれるので、ずいぶん楽しく訳すことができました。それでも一部、なんともやりきれない気持ちになるようなところはあったのですが。

床屋の声は、井川比佐志です(笑)。いきなり具体的な名前が出てくるんですが。
原文を読んだときから、もうこの声は決まってました。

わたしはあまり邦画は見ないのですが、昔からこの人が好きで、新しくなってからの黒沢映画って、黒沢映画だからというより、井川比佐志が出てくるから見ていたようなものです。最近では『まあだだよ』の百閧フ教え子がとても良かった。

で、この井川比佐志の床屋がしゃべるんです。
わたしはそれを聞き取って書き写す。
ブログの方ではこんなふうに書きました。

「大小にかかわらずほとんどの町じゃ、人が死んでひげを剃ってやらなきゃならなくなると、床屋が呼ばれます。そうして床屋はひげをあたって、五ドル、もらうことになっている。もちろん払ってくれるのは仏さんじゃなくて、頼んだ人間なんですが。あたしは仏さんだろうが気にしやしませんから、三ドルだけ、いただいてます。いや、仏さんってのは生きてるお客よりずっと静かに横になっててくれてますからね。ただ、仏さん相手におしゃべりはできませんから、ちくっと寂しくて、それだけがちょっとね」

ただ、やっぱりアメリカ人は「仏さん」じゃまずいかな、と。
だから、涙を飲んで、「仏さん」はやめました。

わたしはなくなった人を「仏さん」「仏様」と呼ぶ呼び方が、きらいじゃない。わたし自身はそういう言い方をしたことはありませんが。
亡くなった人を「神様」にしちゃうなんて、キリスト教徒だったら考えられないことでしょう。
それでも、ある程度の年齢の人が、亡くなった人にたいして、敬意と畏怖と親しみをこめてそんなふうに呼ぶというのは、決して悪いことじゃないんじゃないか、みたいに、どうしても思ってしまう。歴史的な、あるいは宗教的な知識などまったくないところでそんなふうにただ感じているだけなんですが。

そうして、亡くなった人のひげを剃る、別にいやなことだとも思わず、話しかけても答えてくれないのを寂しいと思う床屋は、亡くなった人のことを「仏さん」と呼ぶのが、一番感じが出るなぁ、なんて、やっぱりわたしは思います。
ええ、アメリカ人だから、それやっちゃまずいんですが。

このなかで、床屋はジュリーを「かわいそうだ」と言います。
ジュリーはこのなかで、お医者さんを好きになってしまう。そこで、鼻も引っかけなかったはずのジム・ケンドールなんかに、付け入る隙を与えてしまうのです

だれかを好きなる、というのは、弱点を抱えるということなのかもしれません。
ドクターの側は、ジュリーのことをどう思っていたのでしょう。そうして、このあとふたりはどうなるのでしょう。あるいは、ジム・ケンドールの奥さんとふたりの子供は。ポールは。

これは単にフィクションだと。本を閉じてしまえば、すべてが消えてしまう虚構なのだとわかっていても、やはりどうしてもそのことを考えてしまいます。ほんの短い短編であっても、後に残るものがある。この「残る感じ」が、訳したわたしだけでなく、みなさんと共有できていたら、これほどうれしいことはありません。

さて、長雨の七月が終わったかと思ったら、急にすさまじく暑い夏の到来です。
どうかみなさま、ご自愛のほど。

お元気で、夏の日々を楽しんでいらっしゃいますよう。

それじゃ、また。

Aug.04,2006



Last Update 7.25

「マクベス殺人事件」アップしました。

このサイトの中でも、「作者の意図は問わない」と繰りかえし書いているわたしですが、その一方で、書き手でもあるわたしには、ここを読んでほしい、この部分を理解してほしい、という、切実な願いもあります。そうしたものが届いたとき、深い喜びを感じる一方で、どうやっても届かない場合には苛立ったりすることもあります。
むしろ届かないのは自分の側の問題でもあるのだ、と、そうしたこと一切を含めての「評価」なのだ、と、そうしたことをも含めて引き受けていくことが「書くこと」なのだ、と、頭では理解していても、壁に虚しく語っているような気がして、モチベーションを維持することもむずかしく思えるときもある。

同時に、こんなことも考えます。
さまざまな文章を読むときは、できるだけ書かれたことを正確に理解することに努めるだけでなく、行間を読み、空白を埋め、表面に書かれたことを超え、むしろ書かれていないことを読み込もうとしてきました。
けれどもそれが恣意的な「読み」でない、自分だけにしか通じず、自分だけにしか意味を持たない「読み」ではない、という保証はどこにもない。
自分はこの意味で、実はコミュニケーションに失敗していて、単にそれに気がついていないだけなのかもしれない。

そうしたことを漠然と考えていたときに、ふと見つけたのが、"The Macbeth Murder Mystery" でした。
ブログに穴を開ける日が続くわけにもいかないし、これだと簡単に訳せそうだし。
まぁそんな経緯で訳し始めたのでした。

わたしは最初、これを読んで笑っちゃったわけですが、反面、こんなふうにも考えたんです。
たとえ、自分が恣意的な読み方をしていても、このサーバーのアメリカ人女性のように「おもしろい解釈」をしていれば、それはそれでいいのかもしれない。古典的悲劇を殺人事件として読んでしまうような滑稽な誤りを犯していて、そのことにいまの時点でのわたしが気がついていなかったとしても、わたしがそこに満足して留まるものでない限りは、とりあえずは大丈夫なんじゃないだろうか、すごろくじゃないんだから、早く「あがり」に到達すればいい、ってものでもない、いかに迷うか、であり、その「迷い」を他者と共有できるかどうか、なのだ、と。

そんなことをとつおいつ考えながら、『ハムレット』の謎って何なんだろう、と思って、本を読み返していたところ、巻末に福田恆存が演出家として書いた一文「シェイクスピア劇の演出」のなかのこんな一節に行き当たりました。

つまり、古典は古典であるだけに、その現代的解釈の余地が、現代の作品にくらべて、はるかに多く残っているということです。いいかえれば、私たちから離れているだけに、それを私たちに近づけることができる。しかも、困ったことに、それだけで、私たちはなにごとかをなしおえた満足感をおぼえるのです。一種の権力欲です。それを自己表現のあかしと錯覚するのです。が、じつは、それは、表現するにたる自己をもたぬものが、他人のうえに残した自分の爪痕を見て、ようやく自己の存在のあかしを見て喜んでいるにすぎず、真の自己表現とはいえません。

(シェイクスピア『ハムレット』福田恆存訳 巻末解説より)

自分はどこまで誠実に作品に向き合っているのか。
自分の恣意的な解釈は、作品のうえに残った爪痕ではないのか。
こう問い返しながら、新しい空白を見つけ、そこを埋めることによって、そうして、それを相手に向けて書くことによって、「表現するにたる自己」を作り上げていく営々たる努力というものを続けていく中で、やっとその表現は「自己表現」に近づいていくのだろうと思います。

おそらく何度となく読んだ文章のはずですが、初めて、くっきりとした輪郭を持って、わたしの胸の内に落ちていったのです。この一文に出会うために、おそらくわたしはサーバーを訳したのだ、と。わたしはそんなふうに思いました。

ささやかな短編に、えらく大仰なことを書いてしまいました。
ちょっとまえに風邪引いて、それ自体はたいしたことはなかったのですが、あっという間に体重が一割減ってしまったので、どうも全体に不調です。
鈍い色合いの文章だとしたら、おそらくそのせいだと思います。なかなか元気は出てこないのですが、まぁぼちぼちとやっていきましょう。

ということで、それじゃまた。
はっきりしない、蒸し暑い日が続きます。どうかお元気でいらっしゃいますよう。

July.25,2006



Last Update 7.19

ちょっと遅くなりましたが「泳ぐ人」アップしました。
ただ、いまちょっと体調が良くないので、全体に詰めが甘い感じです。もう一段階推敲した方がいいんだけど、それをやってるといつになったらアップできるかわからないので、とりあえず今回これで出してみます。折りを見てちょこちょこいじっていこうと思っています。誤訳、文章のねじれ、誤変換などありましたらどうかお知らせください。

この作品でわたしが何よりも思ったのは、主人公の「時間の感覚」でした。

もちろん普通に読めば、プールづたいに郡(カウンティを「郡」と訳すことにわたしは昔から抵抗があって、ブログでは部分的に「地域」なんて言葉をはめてたりしますが、辞書にはやっぱり「郡」ってあててあるんですよね)を横断するネディの周囲を、時空が歪んだかのごとく急速に時間が過ぎていくのですが、ネディの時間感覚もやはり歪んでいる。
彼は、ほとんど記憶を持っていないんです。

ネディは歳を感じずに、若いままで生きている、つまり彼にあっては過去も、未来もない。これは何か「ごっこ遊び」をしているみたいです。

「ごっこ遊び」、わたしはこの言葉を、たぶん「買い物ブギ」のなかで何の説明もせずに使ってると思うんですが、これはもともとリリアン・ヘルマンの戯曲『子供の時間』に出てくる言葉です。

このヘルマンの処女作には、子供の嘘がもとでレズビアンの噂をたてられ、社会的に破滅させられそうになった寄宿学校の教師二人が出てきます。その危機のなかで、ひとりが、自分の中の同性愛的傾向に気がついてしまう。大丈夫、あなたはいま混乱しているだけ、明日になれば忘れるわ、というもう一人にたいして、マーサはこんなふうに言うのです。

明日? いいことキャレン、わたしたちにはもう、明日なんてものはありはしない。わたしたちはね、ほら、子供たちがごっこ遊びでよくやるでしょう、あんなふうにでっちあげなくちゃならないのよ。明日のない世界で話す言葉を。

(リリアン・ヘルマン『子供の時間』小池美佐子訳 進水社)

これは非常におもしろいせりふだと昔からわたしは思っていました。
つまり、先生ごっこでも、お人形さんごっこでも、お店屋さんごっこでもいいんですが、子供がする「ごっこ遊び」というのは、現実から切り離された、過去でも、未来でも、いまでもない「ありえない時間」です。

どういうことかというと、わたしたちは「過去」といい、「現在」といい、「未来」といい、それぞれ別個のものとどこか思っているけれど、実際には全部が織り込まれている。

わたしにはこんな経験があります。
その昔、留学生と仲良くなったんです。ところが知り合ったときは、すでに相手は帰国まで二ヶ月ぐらいしかなかった。だからせっせと会って、一緒にいろんなところに行って、いっぱい写真を撮りました。もう最初からカウントダウンが始まってるみたいでした。つまり、その時点でのいま、というのは、彼の帰国という未来から、常に逆算されていたわけです。

そうして、彼がいなくなって、わたしの手元には大量の写真が残りました。
ところが、もうちっとも見る気になれないんです。思い出すから、ということではなく、意味をなくしてしまっている。つまり、現実に彼の存在があるからこそ、その写真も意味を持つわけで、存在がなくなってしまった「現在」では、ことばを換えれば、その関係にまったく「未来」がなくなってしまえば、それは「現在」の意識にも、「過去」の記憶にも影響を与える、ということなんです。
わたしはそのとき、「いま」というのは、決して「いま現在」のことだけではないのだな、と思ったのでした。

「ごっこ遊び」が展開される場に流れるのは「ありえない時間」です。そこでは子供がお母さんになり、赤ちゃんになり、お父さんになる。過去も未来もない。
ネディも一種、この「ごっこ遊び」の時間を生きていたのではないか。
そうして、現実の時間に触れることで、急速に老いていったのではないか、なんとなく、わたしはそんなふうにも思うのです。

ところで、すでに生きてはいない作家や、もはや会うことができなくなってしまった人であっても、わたしたちはその存在を生き生きと感じることがあります。書かれたものを単に読むだけではなく、その文章を通して書き手の声を聞き、深いところを揺さぶられ、自分のものの見方考え方までも変わってしまうような会い方をする。あるいは、過去に出会ったという記憶を通して、いまでさえ、ともにあるように感じられる。

ある種の人は、現実に会えなくなってしまうと、たちどころに意味を失い、別の種類の人は、たとえ現実には会えなくても、その書いたものを読むことや、記憶、あるいは夢で、別の会い方をし続けられる。
その差はどこから来るのか。
それはおそらく「思い返す」ということにあるのだとわたしは思うのです。
わたしたちは、忘れたくない人と会ったときのことは、何度も何度もその場面を繰りかえし、頭の中に思い描く。話された言葉を、思い返す。相手の声を耳の中に響かせてみる。
自分の内側に記憶をもとに、相手の姿や声をもう一度出現させている。

「ごっこ遊び」の時間を生きていたネディが、ほとんど何の記憶をも持っていないのは、当然のことなんです。つまり、わたしたちの過去は「思い返す」ことによって、「いま」に織り込まれている。この「思い返し」をしなければ、過去はそのまま流れ去っていってしまいます。
そうして、この「思い返す」という行為を通じて、相手の言葉や姿を自分の中で再生させることで、相手とともに「在る」ことができるのだし、それは同時に未来をさえも織り込んでいるのだと思います。
たとえ会えなくなった相手とのあいだにも、そうやってわたしたちは「未来」を想定することができる。
このとき、思い描いている相手の身体、自分とともに「在る」身体というのは、決して幻想とばかりは言えないのではないか。

「ごっこ遊び」の「いま」と、「過去」と「未来」を織り込んだ「いま」。
「泳ぐ人」ネディは、この二種類の「いま」の流れのぶつかり合いの中で、溺れてしまったのかもしれません。

さて、またもたもたと書いていたら、ずいぶん長くなってしまいました。
昨夜はほとんど寝てないので、実は自分でも何を書いているのか判然としなくなってきています。

梅雨は明けたらしいのに、天候不順が続きます。
どうかみなさま、お元気でお過ごしください。

それじゃ、また。

July.19,2006



Last Update 7.07

「何かを書いてみたい人のために」、7.の、描写と叙述の部分、ちょっとおかしな部分があったので、訂正して書き直しました。

かなり細かいところなので、関心のある方だけ、ご覧になってください。

前のときは『ギャツビー』からディズィのこんなせりふを「要約」としてあげたのでした。

「それを聞いたらあたしの最近の気持ちがわかってもらえると思うんだ――あたしが世の中ってものをどう思ってるか。あのね、あの娘が生れて一時間もたたないころよ、トムはどこにいるやらわかりゃしなかった。あたし、麻酔がさめたとき、とてもすてばちな気持ちでさ、さっそく看護婦さんに、男の子か女の子かってきいたんだ。そして、女の子だって言われて、顔をそむけて泣いちゃった。『いいわ、女の子で良かった』って。あたしはそう言った『ばかな子だったらいいな。女の子はばかなのが一番いいんだ、きれいなばかな子が』って」

(フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』野崎孝訳 新潮文庫)

ただ、直接的な引用は、一般に「描写」に分類されます。つまり、「最も純粋な描写形態は登場人物の発話をそのまま伝える書き方で、そうすれば(出来事が言葉から成り立っているわけだから)言葉がそのまま出来事を映し出す鏡となる」(ディヴィッド・ロッジ『小説の技法』)からです。
もちろん、このディズィのことばは、変更前の段階で書いたように、彼女の結婚生活の要約でもありますし、その意味で、「語り」だ、「これは「描写」だ、と分類することに、それほど意味があるわけではありません。
あくまでもわたしがこの部分で書きたかったのは、うっかりすれば叙述だけになってしまう文章を、もっと具体的に、もっと個別的にしていくために、「描写」の要素を織りこんでいくほうがいい、ということだったので、その趣旨にそって、訂正して書き直しました。

さて、せっかくですから、こちらを見に来てくださった人のために、何か書いておこう。

ええと、最初に言っておきます。これはどこか特定のサイトにケンカ売ってるわけじゃありません。わたしは岩波文庫のなかの一冊とか、天声人語とか、このサイトでもいくつかケンカを売ってますけれど、それはそういう一種の「権威」となってるものが、明らかな誤訳と思われるものを載せていたり、おいおい、っていう文章を載せていたりすることに対する、わたしからの批判ですし、何を書こうが「蟷螂の斧」という側面もあるために、わざと挑発的に書いている側面もあります。個人で運営していらっしゃるサイトにたいして、そういうことをするつもりは毛頭ありません。
その上で。

いわゆる「書評」を載せているサイトというのは、星の数ほどあります。そうして、その多くが、たとえばわたしたちが誰かと一緒に、きれいな星を見て、「きれいだね」と言い、相手が「そうだね」と応える、そんなふうなことをやっているんじゃないかという印象を受けるわけです。
要約する。さわりだけ載せる。おもしろかった。あるいは、つまらなかった。だけど、そこで終わってたら、表現とはいえないんじゃないか、と思うんです。

星を見て、自分がきれいだと思うことの意味は、自分にしか明らかにすることはできない。それをはっきりさせることを通して、そうして、同じように明らかにしていった相手の意味とつきあわせることによってしか、コミュニケーションというものは深まっていかないんじゃないか。

もちろん、本の中には、読んで、ああおもしろかった、で、十分なものもあるのでしょう。
でも、一度だけではとても自分の中に意味づけることのできないものもある。
意味づけることができないから、そのヒントを探して、さらにほかの本を読む。そういうなかで、ほかの人がこういう読み方をした、というのは、道しるべになっていきます。

わたしにはこんな経験があります。
夏目漱石の『こころ』を初めて読んだのは、中一の夏休み、ブラスバンド部の合宿のときでした。相部屋の上級生が持ってきていた新潮文庫を借りて、夕食後から消灯時間まで、同室の子がトランプに興じているのに背を向けて、夢中になって読んだことを覚えています。ヘンな言い方ですが、すごくおもしろくて、一種の推理小説のように息を詰めて読みふけった。
ただ、読み終わってなんともいえない「わからなさ」が残った。その晩、鎌倉の海水浴場の夢を見たことまで覚えています(笑)。

そののち、文学史の枠組みで読み返し、『こころ』が「近代的自我におけるエゴイズム」の問題を扱った、ということも知った。江藤淳を始め、さまざまな評論も読みました。
それでも、やっぱり、どうしても腑に落ちなかったんです。

ところがあるとき、思いもかけないところから作田啓一の『個人主義の運命 ―近代小説と社会学―』(岩波新書)という本を教えてもらったのです。
この本は、登場人物を社会のなかで生きる個人としてとらえてある論考でした。人間は、他者とどう関わりながら、認められ、評価されようとしているのか。そういうなかで自分が誰かを「愛している」と思っても、それは、自分が認められたい誰かの模倣をしているのではないか。
こんなふうな読み方をしたことがなかったので、何か、目の前が開けていくみたいな感覚を覚えた。もうこの話を始めると、終わらなくなっちゃうからやめますが、ともかく、本というのは、たとえ文学であってもこんなふうに読めるんだ、読んじゃっていいんだ、みたいに思ったわけです。

本というのは、自分の能力の範囲でしか読むことはできません。その意味で、わたしたちの理解はどこまでいっても限界のあるものだし、「わからない」を内側に抱えながら、たえず、別の見方を探し、そうするなかでしか、より深く、より自由に読めるようになっていかないのではないか。
簡単にわからない本を読むことの意味は、そういうことでもあると思います。

自分が読んだ感想を書くのは、やはり誰かに読んでほしいからなのだと思います。上に書いたような「あれ読んだ?」「読んだ。おもしろかった」というなぞりあいより、もう少し深いコミュニケーションを求めるのであれば、それは結局は、自分が他者をどう考え、どのように意味づけていくか、ということになっていくのではないか。

なんだかえらく小難しいことを書いてしまいました。
ほんのちょっとの手直しなのに、更新情報だけはいやに長い(笑)。
ええ、これも、「考えながら書く」を実践しているわけです。もうちょっと考えて書いた方がいいような気もしますが(笑)。

良かったら、あなたの「書くこと」についても教えてください。また、お話ししましょう。
それにしても蒸し暑い夜です。曇っているけれど、どうせ雲の上はいつも晴れてる、織り姫と彦星もきっといまごろ一年に一度のランデヴーを楽しんでいることでしょう。
ということで、「泳ぐ人」をアップするときまで。

お元気でお過ごしください。

July.7,2006



Last Update 7.05

「何かを書いてみたい人のために」アップしました。

書くことについては、以前からずっと何か書いてみたいと思っていました。
実は『文章読本』と題された本は、結構読んできたんです。森鴎外や志賀直哉、あるいは天声人語などの名文を書き写せ、5W1Hを忘れるな、わかりやすく、ちょっと気取って、そうしたあれこれを見るたびに、そうなのかな、それでいいのかな、と思ってきました。

そもそもは、「英会話」のテキストでした。「英会話」のテキストというのは山のようにあるけれど、いつもパターン練習です。けれど、実際の会話がそのパターンをたどることは、まずありえないし、さらに自分の感情を、そうした決まり文句に押しこめるのが、ものすごく気持ち悪かった。
わたしがしたいのは、「英会話」じゃなくて、英語で話すことです。そう思って、自分なりに考え、工夫もしてきました(そこらへんの話は、かなり以前に「英語大変記」で書いたように思います)。

世にある「文章指南」の本も、「英会話」のテキストみたいなものじゃないか。テンプレに自分の考えを当てはめるのではなく、もっと書くことそのものに密着した本はないんだろうか。そういうなかでめぐりあったのが梅田卓夫の『文章表現四〇〇字からのレッスン』(ちくま文庫)でした。

この本は例文も豊富だし、きわめて実践的な本なのですが、今回引用したのはわたしの問題意識を反映して、そういうところよりもむしろ、文章を書くというのはどういうことなのか、という部分が中心になりました。ですから興味を引かれた方は、ぜひ、本の方をごらんになってください。

書きながら、いったい自分が書くことについて、いったい何を言うことがあるのだろうか、と何度も思いました。「書くことはいいことですよ」とも思えなかった。
いつだって、苦労しながら、もたもたと考えながら、やっとのことでひねりだしている文章です。果たして、読んでもらう価値があるのだろうか。そんな疑問はいつもあります。 それでも、こうしながらわたしは読み、考えてきたんですよ、ということをお話したくて。 だから、相も変わらず実践的ではない文章です(笑)。

それにしても、七月に入って、ずいぶん梅雨らしくなってきました。 例年、七夕のころは雨が多いように思います。雨が降ったところで雲の上はいつもお天気、織り姫と彦星が会えないわけではない、とも思うのですが、やはり飾りのついた笹の葉は、星空の下でこそ映えるのかもしれません。

今年の七夕、お天気だといいなぁ。
蒸し暑い日が続きますが、どうかみなさまお元気で。
それじゃ、また。

July.5,2006








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