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What's new? ver.5(※ここには2006-7-05から10-20までの更新情報がおいてあります) Last Update 10.20 「あの頃わたしが読んでいた本」アップしました。本にまつわる記憶のなかで、もっとも古いものを掘り起こしてみたんです。 わたしはつい記憶力の減退をネタにしてしまうのですが、同時に、わたしにとって「思い出す」というのは、おそらく重要なことなのではないのだろうか、と、このごろ、しきりにそんなことを思うようになりました。 どこで読んだのか、ほんとうにそんな一節があったのか、曖昧なままのごくあやふやな記憶なのですが、作曲家のドビュッシーは「人の記憶が音楽を作るのだ」と言った、と何かに書いてあったような気がするんです。 わたしたちは耳で音楽を聴いているわけではない。単なる聴覚器官である耳が、音を集めてきて、脳でそれを聞くわけです。そのとき、おそらくひとつの曲を聞きながらも、同時にさまざまな記憶と重ねあわせて聞いているのだろうと思います。 かつての楽しかった時のことが、どうしていまでも思い返すたびに胸を暖めてくれるのか。 試行錯誤しながらもたもたと書いているわたしの記憶が、読んでくださるほかの方の記憶をどこまで喚起するものであるかどうか、はなはだ心許ないのですけれど。 ただ、ほんとうにほかの人が読んでおもしろいんだろうか、読んでもらう価値があるんだろうか、という疑問は、どうしたってあります。もしよかったら、おもしろくない、とか、そんなのでもいいから、また教えてください。 さて、日が暮れるのがすっかり早くなりました。まだ日中なんかは結構暑かったりもするのですが、日の入りの早さを思うと、秋の深まりを感じます。 さて、今日はこのあと何を読みましょうか。なんだか最近はこむずかしげなタイトルがついたものばかり読んでるような気がするんですが。 街路樹のハナミズキの葉が日々赤く染まっていきます。 Oct.20,2006 Last Update 10.18 鶏的思考的日常のページをリニューアルしました。 あのページはどうしようか長いこと迷っていたんです。あまりにも雑然としていたから。 その昔、国語の先生が、エッセイでどうしようもないのは人生論と自慢話だ、と言っていたのをよく覚えています。 ところがこの人生論と自慢話、うっかりすると、そこへおっこっちゃう。 わたしに見えるのは、わたしがいまいる位置から見える景色だけなのだ、と。これから先どうなるかがわからないだけでなく、過去のことだって、いまの自分の位置から振り返って眺めているのだ。まして他人のことなど、わかるわけがない。 いかんせん、三歩あるけば何でも忘れる鶏的思考ですから、この決意さえすぐにどこかに行っちゃいそうなんですが。 それにしても、こうやって振り返ってみると、ずいぶん書いたものです。塵も積もれば山となる、とはよく言ったもの。読んだあと、忘れてもらってかまいません。読んでくださった方が、くすっと笑って、ちょっとだけいい気分になってもらえたら、これほどうれしいことはありません。 それにしても、このあいだ十月に入ったと思ったら、もう中旬を過ぎました。 どうかみなさまの日々が充実したものでありますよう。 Oct.18,2006 Last Update 10.10 遅くなりましたが、イーディス・ウォートンの短編「ローマ熱」アップしました。 人と会って話をするとき、わたしたちは多くの場合、言葉よりも相手の視線の行く先や、ちょっとした仕草、顔色や、微妙な表情の変化といったものに目を向けています。 会話が弾んで、すごく楽しい時間を過ごした、という印象はあっても、振り返ってみたら、さて何の話をしたんだっけ、ということになり、つらつら思い返しても、記憶に浮かぶのは他愛のない話や無駄口ばかり、にも関わらず、そのときのことを思い返すたびに胸は暖められる。 「ローマ熱」のなかでも、ミセス・スレイドとミセス・アンズレイの会話は、思いもかけない方向へ行き、予想もしなかったものを出現させてしまいます。実は、この共同作業も、大変うまくいったのだと思うのです。その結果、出現させてしまったものが、話し手にとって大変な打撃を与えるものであったとしても。 一方でこんなことも思います。 ただ、この言葉がそれ以上におもしろいと思うのは、文字によるコミュニケーションの場でさえも、言葉にならないものが生まれてしまう、ということです。 わたしはよく、「声」という言い方をするのですが、ある文章を読んでいたら、はっきりと「声」が聞こえてくることがあります。それは、おそらくその「なにものか」を、わたしは「声」というかたちで意識化しているのだろうと思うのです。 言葉でやりとりできる人間の感情は、決して多くはありません。 読むということは、決して簡単なことではありません。それでも、読むこともコミュニケーションの一種ならば、書き手とのあいだに、やはりなにものかを生成させることはできるはずです。 さて、気がつけば十月も上旬が終わろうとしています。 気持ちのいい季節です。どうかみなさまも秋の日を楽しんでいらっしゃいますよう。 Oct.10, 2006 Last Update 9.26 「「賭け」する人々」をアップしました。 これはロアルド・ダールの「南から来た男」を訳しているときに、なんでこの男は指をほしがったのだろう、と思ったことからきています。本文中にも引用しましたが、都築道夫は「賭博に打ちこむ人間たちの心の恐ろしさ」と書いているのだけれど、そのどこが恐ろしいのだろうか、と。 恐ろしい、といえば、わたしには思い出すことがあります。十年ほど前、ある理由からコリン・ウィルソンの『犯罪百科』や『現代殺人の解剖―暗殺者(アサシン)の世界』『 殺人ケースブック』などの本を、まとめて読む機会があったのです。 人間が人間を殺した実際の話を、これでもかこれでもかと読みながら、わたしはむしろその現れた行為よりも、殺す側と殺される側という関係が生成してしまう「場」のようなものが非常に恐ろしいと思いました。 「恐ろしい人間」というものが独立して存在しているわけではない。そうではなくて、ある場、ある関係性に置かれた人間が、恐ろしくもおぞましくもなっていくのだと。 「賭博」というのは、そんなふうな場なのだろうか。そういえば、ドストエフスキーも身を持ち崩す青年のことを書いていたっけ。そこらへんから、カイヨワをおもなたよりに、さまざまな本を集めてみました。 ただわたし自身に、「賭け事」の経験が皆無に近いので(親しい人と五百円賭けることはありますが)、本で読んだ以上の「賭けの感覚」を理解することもなく、その点では興奮したり、度を失ったり、というのは最後までリアルにはわからないものでした。やっぱり経験がまったくないものを書くのはむずかしいな、と思いました。それでも、それを理解するために、わざわざパチンコ屋に行ってみようとは思わなかったけれど(笑)。 やはり賭けるのであれば、顔の見える相手と、○○はどうなる? といって、五百円(笑)か、もしくはお昼ゴハンを賭けるくらいがいいです。もちろん、真剣な遊びとして。それでも、五百円しか賭けないわたしは、五百円分の興奮しか味わえないのかも。 この「場」ということ、「関係」ということ、また別の機会にも考えてみたいと思っています。 それにしても、お彼岸を過ぎてすっかり日の出が遅くなってしまいました。寝苦しい時期が終わったのは助かるけれど、目が覚めるとあたりが真っ暗、まず電気をつける、というのはあまりうれしくないものです。それでも、建てこんだ家並みと空の境がさっとオレンジ色になっていく。そんな朝焼けを毎朝見ていると、ああ、今日も一日が始まるのだな、と思います。 今日一日、起こること。それに対してわたしがとっていく行動のひとつひとつがやはり賭けなのだと。局面、局面でそのたびごとに勝つことはできなくても、一種のゲームのように、巧妙に、そして公平に向き合っていきたいものだ、と思います。その結果、負けたら負けたで、肩をすくめて受け入れる。勝ったとしても、また同じこと。そんなふうにできたら、と。だって、日が続くように、その勝負は続いていくのだから。 気持ちのいい時期ですが、季節の変わり目でもあります。 Sep.26,2006 Last Update 9.20 「この話、したっけ 〜伴走者として」アップしました。 これはもともとサイトの更新までのつなぎの記事のつもりで書いたものです。 わたしたちは、話を聞くとき、いつもなんらかの期待を持って聞いています。 自分が望むようには相手が振る舞ってくれなかったから、というだけで、勝手に失望したり、相手の意図を疑ったり。 そうした自分の愚かさを考えると、悲しくなってしまうのだけれど。 そうして、こんなふうにも思うのです。そこにいてくれる人の存在は、何よりもわたしを強くしてくれるものだけれど、そこにいてくれる人にとっては、わたしの存在が「そこにいる」ことにもなりうるのだと。 そのことに気がつくまでずいぶん時間がかかったけれど。 さて、日中、日盛りの戸外は、まだまだ暑いけれど、朝夕はすっかり涼しくなりました。外からは虫の声も聞こえます。 Sep.20,2006 Last Update 9.06 ロアルド・ダールの短編「南から来た男」をアップしました。 この短編もそうなのですが、ダールの短編には「賭け」を扱ったものがよくあります。わたしはいわゆる賭け事というのはほどんどやった経験がないのだけれど、おそらくはものすごい緊張感と、うまくいったときの高揚感が得られるのかと思います。 人が、つい、賭けをしてしまう心理の背景には、お金とか、見返りとかいうよりも、未来を知りたい、そうして、未来を支配したい、という欲望があるのではないか、と思います。 もうひとつ、賭けをする人は「つき」を口にします。 一方で、わたしは「賭け」を怖れる気持ちがあります。 それでも小さいころ、つぎの青信号で渡ることができたら、ピアノ教室で丸がもらえる、なんて賭けを、自分相手にしていたことを覚えています。 明日、どうなるかわからない。 たぶん、結果がすぐ明らかになるから、ギャンブルは楽しいのかな、と思います。 しかも、賭けるのはダールの「小指」みたいに、とりあえずはほんの一部だし。 そうした大きな「実害」はない部分を、自分の代わりに差し出して、そこから未来を読みとろうとするのでしょう。 ギャンブルではない、日常の「賭け」は、そんなふうに、すぐにはっきりと結果が出てくるものばかりではありません。「勝ち」とも「負け」とも言えるものではない。 そのたびごとに「勝ち」「負け」はあるにしても、それは生きていく限り続くものですから、いま「勝った」ところで、それがどうなっていくか、どういう意味を持っていくかだれにもわからない。 そうした意味で、わたしたちは、自分を「賭け」の対象としながら、日々を生きているのかもしれません。 さて、今年の残暑は長いんでしょうか。 季節の変わり目です。 Sep.06,2006 Last Update 8.24 「夏休みが長かったころ」をアップしました。ブログ連載時には「夏の思い出」としていたのですが、内容を若干改めるのと一緒に、タイトルも変更しました。 わたしたちは「時間」をどうしても「流れ」として理解しますよね。川の水が上流から下流に流れていくように、時間は、過去から未来へ流れていくように、どこかで感じている。 だけど、「時」ってほんとうに「流れ」なんでしょうか。 よく「タイムマシン」っていうのがSFには出てきますよね。川をさかのぼっていくように、時をさかのぼっていく。けれども、ほんとうにそんなことができるんだろうか。「過去のある時点」というのは、そんなふうにどこかに保存されているのだろうか。あるいは、未来というのは、どこかよくわからないところに、やはりすでに起こっていて保存されて、いまのわたしがそこへ行くのを待っているのだろうか。 おそらくは過去というのは、いまのわたしの記憶の中にしかないのだろうと。 だから、こんなふうに、ときどき取りだして、いまの光に当てて眺めてみたくなるのだと思うのです。そのことを書いたものがおもしろいかどうかはともかく。 ところで、冒頭で引いたのはビーチボーイズの"Wouldn't It Be Nice"(邦題“素敵じゃないか”)ですが、やっぱり夏になると、なんとなくこの曲が収録されている〈ペットサウンズ〉を聴きたくなります。いきなりハープシコードのキラキラした音を聴くと、ああ、夏! って思っちゃう。 ビーチボーイズをわたしが知ったのは、ボブ・グリーンのコラムや本を通してでした。 それでも、いま改めてこれを聞くと、ああだこうだと小難しいことを言わなくても、なんというか、素直に、ああ、いいアルバムだな、と思います。特に“素敵じゃないか”という、始まってから間もない恋愛の、みずみずしい喜びを歌ったこの歌を聴いていると、アルバムの最後では心変わりを悲しむことを知っているだけに、単にイノセンスやリリシズムばかりではない、いろんなことを感じてしまう。 それでも、この曲を聞いていると、遠い夏の日を思い出します。 あのころには、もうどうやったって戻れない。戻ろうにも、どこにもそんなものは存在しない。わたしの記憶の中にしか。 わたしのささやかな記憶が、これを読んでくださった方の記憶と、どこかでつながっていくことができたら、これほどうれしいことはありません。 八月ももうすぐ終わりです。 それじゃ、また。 Aug.24,2006 Last Update 8.20 「ものを贈る話」アップしました。 文学作品に描かれたさまざまな「贈り物」を通して、この身近な贈ったり、贈られたりの奧に、どんな心の働きが隠されているのか、考えてみたかったんです。 小学校の一年か二年のころ、学校でシュバイツアーのスライドを見ました。そのなかにこんな場面がありました。 それでも、その「負い目」の感情を、どういうふうに考えたらいいのか長いことわからないでいました。
ここから古代インドの思想が紹介されていくわけですが、「負い目とは、自分の生命を何か大きいものから受け取ると感じることであるから、人は何かから自分の存在と生命を「与えられた」と言うことができる」と続いていきます。 一方で、「前世」だとか「生まれ変わり」だとかいう物言いがあります。わたしはほんとうにこうした「オカルト」じみた物言いがキライなんだけど、おそらくこういうのも、わたしたちがばくぜんと感じている「負い目」の感情からきているのではないか。 「いまここにいるわたし」は、確かに存在しているのだけれど、それがいったいどこから来たのか、いったいいつから「自分」と意識されるようになったのか、わたしたちはだれひとりとして知ることはできない。だからこそ、「確かなもの」を求めようとして、前世だのなんだのというチープな物語に飛びつこうとしたり、あるいは、自分が受け入れやすい「物語」を求めて、タマネギの皮を剥いていくようなことをしているんじゃないでしょうか。 だけど、贈り物はもうもらっちゃったんです(笑)。 さて、立秋が過ぎ、お盆が過ぎ、季節はゆっくりと秋に向かっています。 以前、お線香をいただいたことがあります。 さて、夏の疲れが出やすい時期でもあります。 Aug.20,2006 Last Update 8.04 リング・ラードナーの短編「散髪」アップしました。 長いあいだ、どうしようかと迷っていた短編でした。 床屋の声は、井川比佐志です(笑)。いきなり具体的な名前が出てくるんですが。 わたしはあまり邦画は見ないのですが、昔からこの人が好きで、新しくなってからの黒沢映画って、黒沢映画だからというより、井川比佐志が出てくるから見ていたようなものです。最近では『まあだだよ』の百閧フ教え子がとても良かった。 で、この井川比佐志の床屋がしゃべるんです。
ただ、やっぱりアメリカ人は「仏さん」じゃまずいかな、と。 わたしはなくなった人を「仏さん」「仏様」と呼ぶ呼び方が、きらいじゃない。わたし自身はそういう言い方をしたことはありませんが。 そうして、亡くなった人のひげを剃る、別にいやなことだとも思わず、話しかけても答えてくれないのを寂しいと思う床屋は、亡くなった人のことを「仏さん」と呼ぶのが、一番感じが出るなぁ、なんて、やっぱりわたしは思います。 このなかで、床屋はジュリーを「かわいそうだ」と言います。 だれかを好きなる、というのは、弱点を抱えるということなのかもしれません。 これは単にフィクションだと。本を閉じてしまえば、すべてが消えてしまう虚構なのだとわかっていても、やはりどうしてもそのことを考えてしまいます。ほんの短い短編であっても、後に残るものがある。この「残る感じ」が、訳したわたしだけでなく、みなさんと共有できていたら、これほどうれしいことはありません。 さて、長雨の七月が終わったかと思ったら、急にすさまじく暑い夏の到来です。 お元気で、夏の日々を楽しんでいらっしゃいますよう。 それじゃ、また。 Aug.04,2006 Last Update 7.25 「マクベス殺人事件」アップしました。 このサイトの中でも、「作者の意図は問わない」と繰りかえし書いているわたしですが、その一方で、書き手でもあるわたしには、ここを読んでほしい、この部分を理解してほしい、という、切実な願いもあります。そうしたものが届いたとき、深い喜びを感じる一方で、どうやっても届かない場合には苛立ったりすることもあります。 同時に、こんなことも考えます。 そうしたことを漠然と考えていたときに、ふと見つけたのが、"The Macbeth Murder Mystery" でした。 わたしは最初、これを読んで笑っちゃったわけですが、反面、こんなふうにも考えたんです。 そんなことをとつおいつ考えながら、『ハムレット』の謎って何なんだろう、と思って、本を読み返していたところ、巻末に福田恆存が演出家として書いた一文「シェイクスピア劇の演出」のなかのこんな一節に行き当たりました。
自分はどこまで誠実に作品に向き合っているのか。 おそらく何度となく読んだ文章のはずですが、初めて、くっきりとした輪郭を持って、わたしの胸の内に落ちていったのです。この一文に出会うために、おそらくわたしはサーバーを訳したのだ、と。わたしはそんなふうに思いました。 ささやかな短編に、えらく大仰なことを書いてしまいました。 ということで、それじゃまた。 July.25,2006 Last Update 7.19 ちょっと遅くなりましたが「泳ぐ人」アップしました。 この作品でわたしが何よりも思ったのは、主人公の「時間の感覚」でした。 もちろん普通に読めば、プールづたいに郡(カウンティを「郡」と訳すことにわたしは昔から抵抗があって、ブログでは部分的に「地域」なんて言葉をはめてたりしますが、辞書にはやっぱり「郡」ってあててあるんですよね)を横断するネディの周囲を、時空が歪んだかのごとく急速に時間が過ぎていくのですが、ネディの時間感覚もやはり歪んでいる。 ネディは歳を感じずに、若いままで生きている、つまり彼にあっては過去も、未来もない。これは何か「ごっこ遊び」をしているみたいです。 「ごっこ遊び」、わたしはこの言葉を、たぶん「買い物ブギ」のなかで何の説明もせずに使ってると思うんですが、これはもともとリリアン・ヘルマンの戯曲『子供の時間』に出てくる言葉です。 このヘルマンの処女作には、子供の嘘がもとでレズビアンの噂をたてられ、社会的に破滅させられそうになった寄宿学校の教師二人が出てきます。その危機のなかで、ひとりが、自分の中の同性愛的傾向に気がついてしまう。大丈夫、あなたはいま混乱しているだけ、明日になれば忘れるわ、というもう一人にたいして、マーサはこんなふうに言うのです。
これは非常におもしろいせりふだと昔からわたしは思っていました。 どういうことかというと、わたしたちは「過去」といい、「現在」といい、「未来」といい、それぞれ別個のものとどこか思っているけれど、実際には全部が織り込まれている。 わたしにはこんな経験があります。 そうして、彼がいなくなって、わたしの手元には大量の写真が残りました。 「ごっこ遊び」が展開される場に流れるのは「ありえない時間」です。そこでは子供がお母さんになり、赤ちゃんになり、お父さんになる。過去も未来もない。 ところで、すでに生きてはいない作家や、もはや会うことができなくなってしまった人であっても、わたしたちはその存在を生き生きと感じることがあります。書かれたものを単に読むだけではなく、その文章を通して書き手の声を聞き、深いところを揺さぶられ、自分のものの見方考え方までも変わってしまうような会い方をする。あるいは、過去に出会ったという記憶を通して、いまでさえ、ともにあるように感じられる。 ある種の人は、現実に会えなくなってしまうと、たちどころに意味を失い、別の種類の人は、たとえ現実には会えなくても、その書いたものを読むことや、記憶、あるいは夢で、別の会い方をし続けられる。 「ごっこ遊び」の時間を生きていたネディが、ほとんど何の記憶をも持っていないのは、当然のことなんです。つまり、わたしたちの過去は「思い返す」ことによって、「いま」に織り込まれている。この「思い返し」をしなければ、過去はそのまま流れ去っていってしまいます。 「ごっこ遊び」の「いま」と、「過去」と「未来」を織り込んだ「いま」。 さて、またもたもたと書いていたら、ずいぶん長くなってしまいました。 梅雨は明けたらしいのに、天候不順が続きます。 それじゃ、また。 July.19,2006 Last Update 7.07 「何かを書いてみたい人のために」、7.の、描写と叙述の部分、ちょっとおかしな部分があったので、訂正して書き直しました。 かなり細かいところなので、関心のある方だけ、ご覧になってください。 前のときは『ギャツビー』からディズィのこんなせりふを「要約」としてあげたのでした。
ただ、直接的な引用は、一般に「描写」に分類されます。つまり、「最も純粋な描写形態は登場人物の発話をそのまま伝える書き方で、そうすれば(出来事が言葉から成り立っているわけだから)言葉がそのまま出来事を映し出す鏡となる」(ディヴィッド・ロッジ『小説の技法』)からです。 さて、せっかくですから、こちらを見に来てくださった人のために、何か書いておこう。 ええと、最初に言っておきます。これはどこか特定のサイトにケンカ売ってるわけじゃありません。わたしは岩波文庫のなかの一冊とか、天声人語とか、このサイトでもいくつかケンカを売ってますけれど、それはそういう一種の「権威」となってるものが、明らかな誤訳と思われるものを載せていたり、おいおい、っていう文章を載せていたりすることに対する、わたしからの批判ですし、何を書こうが「蟷螂の斧」という側面もあるために、わざと挑発的に書いている側面もあります。個人で運営していらっしゃるサイトにたいして、そういうことをするつもりは毛頭ありません。 いわゆる「書評」を載せているサイトというのは、星の数ほどあります。そうして、その多くが、たとえばわたしたちが誰かと一緒に、きれいな星を見て、「きれいだね」と言い、相手が「そうだね」と応える、そんなふうなことをやっているんじゃないかという印象を受けるわけです。 星を見て、自分がきれいだと思うことの意味は、自分にしか明らかにすることはできない。それをはっきりさせることを通して、そうして、同じように明らかにしていった相手の意味とつきあわせることによってしか、コミュニケーションというものは深まっていかないんじゃないか。 もちろん、本の中には、読んで、ああおもしろかった、で、十分なものもあるのでしょう。 わたしにはこんな経験があります。 そののち、文学史の枠組みで読み返し、『こころ』が「近代的自我におけるエゴイズム」の問題を扱った、ということも知った。江藤淳を始め、さまざまな評論も読みました。 ところがあるとき、思いもかけないところから作田啓一の『個人主義の運命 ―近代小説と社会学―』(岩波新書)という本を教えてもらったのです。 本というのは、自分の能力の範囲でしか読むことはできません。その意味で、わたしたちの理解はどこまでいっても限界のあるものだし、「わからない」を内側に抱えながら、たえず、別の見方を探し、そうするなかでしか、より深く、より自由に読めるようになっていかないのではないか。 自分が読んだ感想を書くのは、やはり誰かに読んでほしいからなのだと思います。上に書いたような「あれ読んだ?」「読んだ。おもしろかった」というなぞりあいより、もう少し深いコミュニケーションを求めるのであれば、それは結局は、自分が他者をどう考え、どのように意味づけていくか、ということになっていくのではないか。 なんだかえらく小難しいことを書いてしまいました。 良かったら、あなたの「書くこと」についても教えてください。また、お話ししましょう。 お元気でお過ごしください。 July.7,2006 Last Update 7.05 「何かを書いてみたい人のために」アップしました。 書くことについては、以前からずっと何か書いてみたいと思っていました。 そもそもは、「英会話」のテキストでした。「英会話」のテキストというのは山のようにあるけれど、いつもパターン練習です。けれど、実際の会話がそのパターンをたどることは、まずありえないし、さらに自分の感情を、そうした決まり文句に押しこめるのが、ものすごく気持ち悪かった。 世にある「文章指南」の本も、「英会話」のテキストみたいなものじゃないか。テンプレに自分の考えを当てはめるのではなく、もっと書くことそのものに密着した本はないんだろうか。そういうなかでめぐりあったのが梅田卓夫の『文章表現四〇〇字からのレッスン』(ちくま文庫)でした。 この本は例文も豊富だし、きわめて実践的な本なのですが、今回引用したのはわたしの問題意識を反映して、そういうところよりもむしろ、文章を書くというのはどういうことなのか、という部分が中心になりました。ですから興味を引かれた方は、ぜひ、本の方をごらんになってください。 書きながら、いったい自分が書くことについて、いったい何を言うことがあるのだろうか、と何度も思いました。「書くことはいいことですよ」とも思えなかった。 それにしても、七月に入って、ずいぶん梅雨らしくなってきました。 例年、七夕のころは雨が多いように思います。雨が降ったところで雲の上はいつもお天気、織り姫と彦星が会えないわけではない、とも思うのですが、やはり飾りのついた笹の葉は、星空の下でこそ映えるのかもしれません。 今年の七夕、お天気だといいなぁ。 July.5,2006 |