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What's new? ver.7(※ここには2007.3.4 〜 6.9 までの更新記録が収めてあります) Last Update 6.09キャサリン・マンスフィールドの短編「ディル・ピクルス」をアップしました。 やはりマンスフィールドというと、「ガーデン・パーティ」ははずせない。それでもあまりにあれは定番過ぎて……というところから、少し外したものを選んでみました。皮肉ななかにも、おもしろがっている作者の視線が感じられて、マンスフィールドのなかでも好きな作品のひとつです。 実際、再会というのは、映画でも小説でも、飽きるほど取り上げられるテーマです。というのも、再会には、過去があり、現在があり、変化がある。始め−なか−終わりという物語のすべての要素が、「出会い」という一事に凝集されているのですから。 ただ、20世紀初頭のこの作品がおもしろいのは、たったこれだけの分量なのに、確定を逃れてしまっているところです。彼は、ほんとうに彼女が感じたように、彼女のことをからかっていたのか。あるいは、彼が口に出して言っているように、彼女のことを愛していたのか。どうとでも読むことができる部分が少なくありません。 感情というのは、重層的なものです。彼女が相手の社会性のなさを疎ましく思いながらもそれでも引かれていった過去があったように、彼が、絨毯になりたい、と言いながら、相手がしゃべっているのを繰りかえし遮ったりしたように、「ほんとうに愛している」という言葉のなかにも、それはそれはさまざまな色合いの、さまざまな感情の要素が混在しているのでしょう。 六年の歳月を隔てて変わっていったヴェラが、さまざまに経験を積み変わっていった彼に会う。揺れ動くさまざまなヴェラの心情を、わたしたちがそのときどきの光に当てながら読んでいく。ヴェラの心情も、ヴェラを通して見る「彼」の心情も、まるで万華鏡を覗くときのように形を変えていきます。 もうひとつは、やはり、時代という要素もあるのでしょう。 この作品をいまの日本に置き換えてみたら、ひどく薄っぺらなものにならざるをえないように思います。社会主義の機運みなぎるロシアは、単なるエキゾティックな外国(まあ今日ではロシアなどエキゾティックでさえありませんが)でしかないし、ふたりの階級の差は、収入の差になってしまう。 やはりこの作品でも、階級が重要な伏線になっています。彼女がそれまで暮らしてきた生活の秩序と、彼のそれはちがっている。このふたりが一緒になるためには、それぞれが、相手の秩序に入っていくために、自分自身を変えていかなければなりません。それまでの生活から、相手が所属すると思われる生活に入っていけるように、見方も、考え方も、振る舞いも、変えていかなければ絶対にうまくいかない。 結局、六年前に彼女はそうやって自分を作り上げることを断固、拒否するわけですが、それでもそのことに対する「揺らぎ」が生じています。いまのドラマにはこの「揺らぎ」はありません。揺らがないところでのかけひきは、単なるかけひきにすぎず、それだけに、薄っぺらくなってしまう。おもしろくないのは当然でしょう。 自分が何を思っているか、それは思う対象がなければわかることではありません。というか、思う対象があって初めて、わたしたちの意識は動き始めるのです。制約にしても同じことです。制約があるからこそ、問題が焦点化し、わたしたちの意識がその問題に向けてかたちづくられる。だから階級という制約がなくなったとしても、それは別に自由を意味しない。 ほんらい、異なる人間が生活を共にしていくというのは、この自分を作りかえていくというプロセスが不可欠だと思うのです。その作りかえを前提としないいまのドラマは、「妻がいる」というステイタスにあこがれる男性と、「認められたい」「評価されたい」「安定したい」という願望をすべて結婚という一事に流しこむ女性のかけひきにしかなっていないのではないか。もしそれが、わたしたちの実際のありようの反映だとしたら。なんだかうそ寒いものを感じます。 最後の方で彼が「つまり、ぼくたちは単に、ひどいエゴイストだったってことさ。自分自身に夢中で、自分の殻にこもって、心のなかに他人が入り込む余地なんてほんの少しもありはしないんだ。わかるだろ?」と言うのですが、彼の心がまさにその通りであれば、それに気がつくこともできません。そのことに気がついた彼は、もはやそこにはいない。おそらく、自分の思いは自分の外へ出ては意味を持たないものであることを知ったからこそ、かつての自分がそうだったこと、そうして、いまの自分がどれほどもそこから離れてはいないことを理解できるようになったのでしょう(もちろんそれを言う彼には、自分はフロイトを勉強したんだぞ、というひけらかしもあるのですが)。 自分ではない相手は、自分ではどうにもできない、ということ。自分の思いは、自分の外では意味を持たない、と知ること。つまり、自分には制約があるということを痛烈なかたちで思い知らせてくれる経験が恋愛であるとしたら、それはひとの成長にとって大きな意味のあることだと思います。 さて、下でも書いている《パイレーツ・オブ・カリビアン》、二作目も見ました。一作目に較べて、ストーリーの密度が薄くなっているぶん、活劇や特撮など、視覚的な要素で補おうとしている感じでした。登場人物が一作目と同じでちっとも深まってないから、よけいにそういった印象を受けたのかもしれません。 この作品はいわゆるハリウッドの大作に見られる古典的な筋書きで、あきれるくらい《スター・ウォーズ》と一緒なのですが、例によって三者関係、主体であるビル・ターナーと、客体であるエリザベス、そうして媒介者のジャック・スパロウの関係が根本にあります。そうしてこのパターンでのお定まり、主体が模倣したくなるように、媒介者はきわめて自由で、危機に際しては能力を発揮し、客体もひかれていくわけです。 ところが三作目ではこの媒介者に父親が登場するという。主体の父親は、登場しなくてはなりませんが、媒介者の父親が登場してはまずいのではないか(ハン・ソロの父親は登場しませんし、『こころ』のKのお父さんも、作品が始まる前に死んでしまっています)。どうやってストーリーを破綻なくまとめていくのか。キース・リチャーズがその父親を演じる、ということもあるんですが、ひそかにそういうところも楽しみにしています。 気がつくと、いつのまにか六月に入ってずいぶん日が経っていました。このかん、二度も「鶏的思考的日常」を更新したので、なんだかずいぶん頻繁にアクセスしていたのですが、更新記録のほうはひさしぶりです。だから念のために書いておこう。 「ver.12〜竊盗金魚 賭博ねこ 傷害雲雀 凶器準備集合鶏 編」は5月27日に、 そろそろ暑くなってきました。 それじゃ、また。 June 09 2007 Last Update 5.31 「鏡よ、鏡」アップしました。 先日、ふと思い立ってクンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読み返してみたんです。 「鏡」はこのなかでどのような働きをしているのだろう。そう考えるところからいろいろ考えていきました。もう一箇所、作品のなかで鏡が重要な働きをしている場面があるんです。こちらは「軽さ」を象徴するサビナのきわめてエロティックな場面です。その部分はどういうことかやっぱりわからない。わからないから、そこはまたしばらく寝かせておくことにして、もっと鏡について、いろんな角度から考えてみました(これでラカンに依拠している、なんて、恥ずかしくってとてもじゃないけど言えませんが、一応「鏡像段階」とかの解説書は読みました。「砂糖屋の前を走ったような」という表現がありますが、まさにそんな感じ。ほんのり、ラカン風味、っていうと、なんかおいしそうだ)。 今回、青空文庫をデータベースとして使って、「鏡」をキー・ワードに検索してみたんですが、そこでおもしろい傾向がわかりました。「鏡」について多くふれているのが、岡本綺堂、芥川龍之介、太宰治なんですが、綺堂は怪奇小説、芥川はドッペルゲンガー、太宰はナルシシズムの文脈でふれているものが多い。「二つの手紙」にも見られるように、芥川はドッペルゲンガーにひどく関心が深かったようです。確か、芥川自身がそれを体験した、というのも、どこかで見たように思います。作家の個性というものが、こういうキーワードにも現れているのかと思いました。 太宰の主人公には、二枚目で女性にもてる青年がよくでてきます。確かに太宰自身、長身で整った顔立ちをしていたことが写真などでわかりますから、そうした自分の意識を作品に投影させたところはあったでしょう。けれど、それはナルシシズムというのとは少しちがうように思います。むしろ、通俗的な小説、作家と主人公が一体となった、というか、作家が欲望を剥きだしにして、それを紙の上で満たしているかのような小説こそ、ナルシシズムといえるものでしょう。そこでは読者は作家=主人公と一体となるか、読むのをやめてしまうかしかありません。 太宰の登場人物たちは、二枚目で女性にはもてる。もちろんそのことをよく知っている。けれどもそこに充足していない。言葉を換えれば、そこに閉じこめられてはいません。だからこそ、普遍性を保っているのだと思います。 ナルシシズムというのは、やっかいなものです。だれもがそれを抱えていて、できるだけ隠そうとしているけれど、やはりそれとは無縁ではいられない。 それでも、相手は自分とは異なる人間です。異なる身体をもち、異なる顔をし、異なる声をしている。たとえスタート地点は自己愛であっても、自分への愛を外へと向け変えることは可能なのではないかと思います。自分が認められたい、救済されたい、という一心だった『人間失格』の主人公、大庭葉蔵でさえ、他者への愛が開かれた瞬間がありました。彼はその瞬間をやり過ごしてしまうのですが。 やはりここで「身体を通して自分を見ようと思った」というテレザのように、身体とは重要だと思います。身体、そうして顔ほど、他者がまぎれもなく他者であることを主張するものはないでしょうから。 それでも、本を読んでいれば、その向こうに結ぶ書き手の像は見えてきます。耳を澄ませば、文章から声が聞こえてきます。それはたとえ自分が作り出したものであっても、自分の像とはちがいます。その像と時間をかけてつきあい、対話しながら少しずつ修正を続けていけば、そのイメージはやがて豊かなものになり、わたしの側を変えていくことでしょう。 実際に日常的に顔を合わせている人でも、身近な人であっても、どこまでいっても自分ではない人はわからないものです。宝探しをするように、どこかに埋まっている「ほんとうのその人」を探してあちこち穴を掘るのではなく、その人の話を聞き、行動をともにして、少しずつ知っていく、どこまでいっても知り尽くすことはできないけれど、それでも、というか、それだからこそ、知っていく。それとおなじように、活字の向こうにいる人のことも、そうやって知っていくことができるのではないか、と思います。 わたし以外の人が読んで、おもしろい文章なのか、意味があるのか、相も変わらずよくわからないのですが、わたし自身はいろいろおもしろかったです。ほんとは、鏡の前でおもいっきりナルシシズムに浸っている登場人物が出てくる作品などがあったら良かったんだけど、うまく見つけることができなかったのが残念なんですが。 さて、今日は満月です。いまさっき、ヴェランダから微かにクリーム色がかった月を見ました。 さて、明日から六月。ブログのほうではまた新しいことを始めるつもりです。 ということで、それじゃまた。 May 31 2007 Last Update 5.20 以前ブログで「歳を取った話」をつなぎとして書きました。なんとも不十分なログで、大幅に加筆修正、というか、もはや原型をとどめなくなるまで手を入れて、「時間とわたしたち」として独立させることにしました。 物語を流れる時間ということについては、以前からずっと書こうと思っていたのですが、どう書いたらいいかよくわからなかったんです。ここでは物語のなかを流れる時間ではなく、物語をひとつの定点として、その外を流れていく時間とわたしたち、という観点で書いてみました(そんなええもんか、という気持ちが少々)。そこから「時間」というのは、わたしたちがものごとを認識する一種のやり方なんじゃないか、みたいなことまで。 つい先日、もう会わなくなって二年近くがたつ人の声を聞く機会がありました。内容よりも何よりも、その声を耳にした瞬間、ああ、この人はいまここまで来たんだ、と思ったんです。どういうことか自分でもよくわからないのだけれど、ふっとそんなふうに感じた。わたしがそのあいだに少しずつ変わっていったように、その人も少しずつ変わったのだ、と。そうして「そこまで」行ったのだ、と。よくわからないけれど、何か、とてもそれがうれしかったんです。 ブログのつなぎもなんとかしなきゃ、と思いながら、書き直しているところでした。鶏頭のひとつとして、書いているうちに、少しずつ膨らんでいった。一応、頭の隅には大学時代読んだカントの『純粋理性批判』に出てくる「時間と空間は感性による直観の形式」であるとか、なくはないんですが、それを展開させた、にしてはあまりにお粗末なので、それは言わないでおきます(笑)。ただ、時間というのは、わたしたちは空間化してしか認識できない、ああ、何でこういう話をすると、こんな言い方になっちゃうんだろう、つまり、川の流れのような比喩としてしかとらえることができないわけです。なのに、時計などの視覚的なものの影響で、均一に流れていくものとしてとらえてしまっているのではないか、それだと、時間のある種の性格というものを見逃すことになるのではないか、とずっと思っていたんです。 いっぽうで、時間をこんなふうにとらえることもできます。
出会いの設定のために、「時間」という認識のしかたが要請されている、というのはすごくおもしろい見方だと思うし、なんだかワクワクしてきます。あたりまえのことだけれど、わたしたちはひとりで生きているわけではない。けれど、どうかすると、そのあまりにあたりまえのことを忘れてしまいそうになる。人が風景に見え、風景が背景になってしまっている……。 書いているうちに、以前はよくわからなかったふたつの文章も、少し別の角度から見ることができるようになりました。 ところで、最近ジョギングを始めました。近所の遊歩道を二キロちょっと走ってるんです。目にも鮮やかな若葉の下を走っていると、耳の内側でPorcupine Tree の"Lazarus" が響いてきます。これを去年、この季節に聴いたとき、来年もこの曲を聴くだろう、と思ったものです。ケヤキの木を見上げ、葉っぱの間から見える日の光を見ながら、この曲を知らなかったときにおなじように見上げたときのことを思いだし、そうして、来年も、そのつぎの年も、わたしはこうやってこの曲を聴きながら、こうやって空を見るのだ、と思ったものでした。歌の方は、木漏れ日ではなく、月の光を歌ってるんですが(笑)。 いろんなことがある。いろんなことに出会うために、アポイントメントのために、「時間」が要請されている。そう考えると、世界が少し、ちがったふうに見えてきます。だからこそメイコンが言うように、時の流れは冒険なんでしょう。 ともに冒険を続けていく冒険家として。 May 20 2007 Last Update 5.15 「サキ コレクション vol.2」として、「話し上手」「博愛主義者と幸せな猫」「立ち往生した牡牛」の三つをアップしました。以前に訳した「サキ コレクション vol.1」と合わせて「サキ コレクション Index」も作り、vol.1 のあとがきも書き加えました。サキの短編は版権も切れているし、心おきなく訳すことができるので(笑)、これからも徐々に増やしていこうと思っています。 サキのおもしろさ、というのは、もちろん結末の意外性にあるのですが、それは同時に、登場人物のおもしろさでもあるように思います。たとえばO.ヘンリーの短編は、「偶然」とか「皮肉な巡り合わせ」というのが大きな役割を負うのですが、サキの場合はほとんどそんなことは起こらない。登場人物の性格が、すべて結末の原因となっているのです。 ときどき「あの作品は人間が描けている(いない)」という評価を耳にすることがあります。これはどういうことなんでしょうか。 有名なE.M.フォースターの定義に「扁平人物(フラット・キャラクター)」と「円球人物(ラウンド・キャラクター)」というのがあります(これについては「小説のなかの「他者」と現実の「他者」」で少しふれています)。
サキの登場人物たちは、たいてい一種のカリカチュア、一語で言いあらわせるような人物です。だから「作品に人間が描けている」という評価はあまり見受けられません。それでも、その登場人物の性格から必然的に導かれる結末に、あっと驚いたり、やられた、と思ったりする。フォースターのいう「人生の測りがたさ」を感じてしまう。それは登場人物がどれも「扁平のふり」をしているけれど、その扁平には影がある。扁平と影の魔術で立体と思わせる。それがサキの魅力なのだろうと思います。 ところで、わたしたちはどうしてさまざまな小説に出てくるさまざまな登場人物の性格を「わかった」とか「理解できる」とかと思ったりするのでしょう。 おそらく、ほとんどの登場人物の性格は、わたしたち自身の「性格」を形成しているさまざまな要素を分かち持っているのだろうと思うのです。というか、わたしたちが自分の「性格」と思っているものは、さまざまな登場人物を形づくる言葉の寄せ集めなのだろうと思うのです。だから、たとえ自分の幸福に酔いしれて、不幸な他人を探しに行くような人物であろうと、「あなたのため」と言いながら、子供の大切なものを端から取り上げてしまう伯母さんであろうと、部屋のなかに入っていった牛を見て、絵を描き始めてしまう画家だろうと、わたしたちは彼らの気持ちを「わかって」しまう。おそらくそれは自分のなかにも同じ部分があるからではないのでしょうか。 ふだん、そういう側面が直接表面に出てくることはないかもしれない。だから、自分はそんな人間ではない、と思っていられるのかもしれません。それでも、わかる。わかるということは、とりもなおさず、やはりどこかにあるせいではないのか。ある、ということは、ある種の情況ではそれが表面に出てくるのかもしれません。あるいは「わからない」と思うのは、自分のなかにある同じ部分を見たくなくて、「わからない」と思ってしまうのではないのか。 物語の扁平な登場人物たちは、一語で表せる「性格」を持っていますが、現実に生きるわたしたちには、そんな固定的なものはありはしません。せいぜいが「こういうときにはこういうことをしやすい」ていどのクセみたいなものがある、と言えるぐらいでしょう。それでさえ、ふりかえると自分でもよくわからないことをすることは、日常的によくあります。さまざまな情況に反応し、さまざまに感じたり、行動したりする「わたし」のなかには、おそらく、おそろしくたくさんの「キャラクター」たちがいるのだと思います。 「こういう人だから、そんなことになるんだ」とか「そういうことにならないように、その性格のそういうところは治さなきゃいけないよ」とかいう言い方もありますが、わたしにはそんなことを言う人がうさんくさく思えてなりません。サキの意外性がおもしろいのは、そういうステレオタイプの思いこみ、こうだからこうなる、というのをひっくり返しているからでもあるのでしょう。こう言ったらおしまいかもしれませんが、あらかじめ、わかることなどないのだと、やはりそう思ってしまいます。 予防的な発想というのがある。もちろん、外から帰ったら手を洗ってうがいをする、みたいなことは必要だろうし、そうした考え方が有効な局面はたくさんあるでしょう。 さて、五月も半ばになりました。鶏頭も更新しなきゃならないし、音楽堂もやりたいことがある。まぁ、ぼちぼちとやっていきます。あまり変わり映えしないサイトではあるのですが、少しずつ、倦まずたゆまず続けていくので、どうか、細く、長く、おつきあいください。 どうか気持の良い五月の日々を楽しんでいらっしゃいますよう。 May 15 2007 Last Update 5.06 「この話したっけ〜仕事を考える」をアップしました。 もともとは美容師さんから聞いた話を、ブログのほうでつなぎのつもりで書いたんです。そのログを書き直すうちに、もっと膨らませたほうがいいような気がして、そこからいろんなことを考えていきました。 いつのまにか「買い物」ということのわたしたちの生活に占める割合が、とんでもなく大きくなってしまったように思います。 それでも、こういう消費行動が、それを超えて、わたしたちに影響を及ぼしているのではないか。人とつきあうのも、仕事を探すのも、商品のスペックを比較するように「あれか、これか」と見比べ、「これを持つ自分」「これを着るわたし」を思い描くように、「誰かといる自分」「その職場にいるわたし」を思い描く。知らず知らずのうちにわたしたちが本来ならば消費行動とは関係のない場面でも、「買い物」的な発想をしてしまっていることは、少なくとも気がついておいたほうがいいと思います。 わたしたちはほんとうに自分にそれが必要なのか、自分はそれを求めているのか、よく考えることもなく、ただ「ほしい」と思いこまされてしまっているのではないか。そうするうちに、「立ち止まってゆっくり考える」こともなく、つぎへ、つぎへ、と手を伸ばしているのではないか。 わたしは子供のころから、よく不安にとらわれることがありました。もし両親が死んでしまったら自分はどうなるのだろう。それを考えると恐ろしくて恐ろしくて、胸が締めつけられるようになったものです。その不安の根本にあったのは、自分が路頭に迷うのではないか、『小公女』のように行き場を失ってしまうのではないか、という恐怖でした。それに較べれば、自分が死んでしまうことなど(死んでしまえばそれで終わりなのですから)、ちっとも怖いことではなかったんです。 大学に入って初めてジャスコで棚卸しのバイトをして、二日で一万円と少し稼いだときの、なんともいえない、自分が自由になったような感じはいまでも忘れることができません。ああ、これでわたしは生きていけるんだ。そんなふうに思ったんです。こうやって、働けばいいんだ。こうやって、わたしは自分を養っていけるんだ。 わたしは繰りかえし書いているように、不器用だし、体力もあるほうではない。車の免許も持っていないし、ごく限られたことを除けば無能に近いのかもしれません。それでも、わたしはいままでやってきた仕事はどれも楽しかったし、そのなかでいろんなことを知ることができた。まあ一日でクビになった仕事もあるんですが(The Working Song 参照)。 だからわたしにとって仕事は大切なことだとずっと思っていました。 さて、職業という面では「職業に貴賤なし」とよく言われます。というか、いまはその建前さえあまり口にされなくはなってきたけれど、職業差別的な感想を不用意に洩らす公人は、マスコミなどで叩かれます。 あらゆる仕事はその仕事を通して対価を得るものですし、同時に対価を得る以上、責任を伴うものにちがいない。あらゆる仕事の根底に等しくあるのはそのことです。「職業に貴賤なし」というのは、実際にはそういうことではないのか。そうして、網野善彦や、宮本常一の本などを読んでいると、身分の固定されていたはずの明治以前の社会の方が、職業とその人のありかたというものが、深く結びつき、それぞれの職場にそれぞれの「誇り」のようなものがあったように思えてならないのです。 やっぱり、生きる歓びというのは、学ぶ歓びであり、働く歓びである、とわたしは思います。だから、「働く」ということに関しても、もっといろんな面から考えていきたいと思っています。文学にはどういうふうに描かれているんだろう。そういうこともまたいずれ。 さて、いわゆるゴールデン・ウィークも今日で終わり。 木々の緑は日々濃くなっていき、遠くの山並みの緑も鮮やかさを増しています。 初出May 06 2007 加筆 May 07 Last Update 4.26 ロアルド・ダール「番犬に注意」の翻訳をアップしました。 ダールというと、短編の名手、あっと驚くようなあざやかな幕切れ、といった印象が強いのですが、その処女短編集に所収されているこの作品は、ずいぶん趣がちがっています。むしろ、ダールの作品と思わない方がよい、戦争に材をとった短編のひとつ、として読んだ方がよいのかもしれません。 戦争文学というと、さまざまな作品を思いだします。 そういう作品が見あたらない一方で、国内でも戦争をめぐる議論というのは、あちこちでなされ、活溌といっていいのかもしれません。ところがどういうわけか何をめぐる話でも、行きつく先は「戦争か、平和か」とか、憲法をどうするのか、とか、「○○」を認めるのか認めないのか、といった、善悪の対比、一種のステレオタイプに流れていってしまうような気がするのです。 それ以前の問題として、「戦争」というものをどうとらえたらいいのか、わたしはいまだによくわかりません。 「平和」というのは何なのか。 ダールのこの短編は、もちろんそんな問題意識に答えるようなものではありません。それでも、ここには戦時ならではの恐怖が描かれている。この作品はダールの直接的な体験を元にしたものではありませんが、ダール自身、その危機とはつねに隣り合わせでいたでしょうし、実際に撃墜もされている。あきらかに、ここにはリアルな恐怖があるはずなんです。 ひとは、自分の体験しないことを、どこまで理解できるのでしょう。 つい先日、武田泰淳の『異形の者』という短編を読みました。 こんなふうに、本を読むことによって、わたしたちはむしろ自分がかたちにできないでいるさまざまな経験や記憶と出会っていくのではないか、と思うのです。知らない世界を知り、現実には決して見ることのできないような出来事に立ち会うことだけでなく。文字を追いながら、同時に自分のなかへおりていって、それとつながるもの、呼応するものをさがしていくことによって。だからこそ、物語が書かれなければならない。 有名な言葉としてテオドール・アドルノの「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」というのがありますが、実際はそうではなく、いくつもの詩が書かれ、そうして、詩が書かれ、読まれることによってこそ世界は「野蛮」を乗り越えることは無理でも、せめてそのなかで押しつぶされないようにしてきたのではなかったか、と思います。
さて、ずいぶん日が長くなりました。薄暮というより、西の空はうっすらと茜色に染まっているものの、頭の上はまだ青い。そんななかを自転車で帰ってきました。この一週間ほどで、すっかり繁った青葉の木のあいだに、真っ白い半分だけの月が見えました。 月が満ち、やがてまた欠けていくように、そうしてふたたび満ちるように、時は流れ、片時も留まることはありません。その時間なかで、記憶の種をそっと育てていきたいと思います。 初夏に向かう気持の良い日々をお過ごしでいらっしゃいますよう。 April.25 2007 Last Update 4.15 「芸術家たち」をアップしました。 わたしは昔から画家や写真家や作家を主人公とする本が好きでした。自伝や評伝も好きでしたが、架空の芸術家たちのフィクションや、実在の人物にモデルを借りているものの、作品を生みだすときの不安や苦悩や高ぶりを、作者が自分と重ねあわせながら書いているものにも同じくらい、ときにはそれ以上に感銘を受けてきましたし、同時に、勇気づけられてきもしました。 それとは別に『人間失格』について、一度、何か書いてみたい、とも思っていました。奥野健夫を始め、太宰治の文芸評論は何冊か読んでいました。伊藤整の『文学入門』なども読みました。ただそういうものより、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」からこの作品を読み解いた作田啓一氏の『個人主義の運命』の方が、わたしには一番しっくりきたんです。ああ、これはおもしろい。こんなふうに読めるんだ。 『人間失格』を初めて読んだのは、十四歳のときです。十四歳のわたしは「これは“本当の自分は別のところにいる”という物語だな」と思いました。 さらに、「本当の自分を知ってほしい」という気持ちは、ばくぜんと、あらゆる人に向けて発せられた気持ちではないのではないか、と思ったのです。 「本当の自分」というのがどこかにいるわけではない。 けれども、他者というのは自分の思い通りにはならないものですから、決して自分の「このように見られたい」という願い通りには見てくれません。逆にその通りに見てくれたら、その段階でその「他者」の役割は終わってしまいます。つねにこの「見られたい」と「承認」がずれ続けるから、その関係は続いていくのではないか。 そんなことを考えていたとき、岩田靖夫の『よく生きる』という本を読みました。そのなかにこんな一節がありました。
『人間失格』について、この角度からなら書けるかな、と思いました。それだけで独立できるほど、しっかりしたものにはなりそうもなかったので、「芸術家」という文脈に置いてみたんです。 まあそんなところから、ああでもない、こうでもないと考えていきました。 このかん、ずっと体調が良くなくて、なかなか書き直すことができなかったんですが、なんとかとりあえず最後まで書くことができて、ちょっとホッとしています。 まだ肋骨は痛いのです。特に、横になるとつらい。深呼吸するのもつらい。もちろん、咳は「イタタッ」と言わずにはできません(笑)。こればかりは治るのを待つしかないのですが、早く心おきなく深呼吸がしたいです。ただ、こういういずれ治ることがわかっている痛みなんていうのは、言ってみれば楽なものなのですが。 先にあげた岩田さんの本の中に、「本当に、人生は苦しいものです」と書いた箇所がありました。
たぶんそうなのだろう、と思います。 だから、わたしも苦しんでいこうと、苦しめるような人間に、自分を成長させていこうと思っています。それにはまだまだ勉強が足りない(笑)。 さて、溜まりに溜まった雑文もどうにかしなきゃいけないし、これも、もう少し煮詰めたいし。だから、がんばっていきましょう。 苦手な冬ももう終わってしまったことだし、桜が散って、街路樹はハナミズキが咲き始めています。新しい年度も始まりました。 一緒に歩いていきましょう。 April. 15 2007 Last Update 3.24 ウィラ・キャザーの短編「ポールの場合」をアップしました。 あとがきにも少し書いたのですが、会話が一箇所しかない、全体が要約の文章でできた作品なので、単純に訳してしまうと味も素っ気もない、それこそ梗概を読んでいるようになってしまいます。 わたしは昔からこの作品は、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の先行作品だとずっと思っていました。高校を放り出されるところも、ニューヨークを彷徨するところも、そうして、コールフィールドという姓が、ディヴィッド・カパフィールドから来ることを示すように、ホールデンという名前は、ポールを示している、と。 ともに、「インチキ」を憎み、「ほんもの」であろうとする少年が、それゆえに周囲と適応できず、一方は精神病院に入り、もう一方は鉄道自殺を遂げる。『ライ麦畑…』は語り口でずいぶんちがう印象を与えていますが、実際にはどちらもずいぶん悲劇的な内容と言えるでしょう。 ただ、語り口のほかにも、『ライ麦畑…』が細かな風俗描写の分量もはるかに多く、それゆえに、逆の意味で古さを感じずにはいられないのに対し、「ポールの場合」ではその量がきわめて限られているために、逆に時代の制約から自由で、かえって「馬車」などとあるほうが不自然に思えてしまうほどです。結局は青少年期というのは、周囲との不適応の問題は、時代を超えてあるのかもしれません。 ただ、このなかでわたしがどうしても気になるのは、ポールが果たしてどこまで音楽を愛していたのだろうか、ということです。 音楽にしても、演劇にしても、絵画にしても、一種の伝播力を持つものではないんだろうか。言い換えれば、だれの内側にも何ものかを作り出したい、生みだしたい、という気持ちがあるのではないか。 小さな子は教えられなくても、音楽を聴くと歌い出しますし、歩けない赤ん坊だって、体を揺すります。聴くことや見ることは、単にまねをするというよりも、自分も何かを作り出したい、という気持ちをかき立てるものではないのだろうか。 大人になっていくうちに、何かを作り出す領域はどんどん狭められ、その代わりに、すでにあるものを操作することのウェイトが増えていきます。 ところが、ポールは、自分はただ鑑賞者であればいい、という。
ポールのなかには創作に向かおうとする気持ちに歯止めをかける何かがあったような気がしてなりません。 何をやるにしても、始めるときは、圧倒的に下手くそなところから始めるしかないのです。その部分をショートカットして、どこかに行くことなどできはしない。 どれほど拙いものしか作り出すことができなかったとしても、ひとたび作り手の側に回ってみれば、鑑賞するときも、それだけ深く味わうことができると思うのです。「ただ見ること」に自分を縛っていたポールが、自分を縛ることをやめて、音楽が揺り動かす気持ちのままに、下手くそな歌を声を張り上げて歌っていれば、あるいはチャーリー・エドワーズに頼んで、通行人Aとなって舞台に上がっていれば、ポールの悲劇は起こらなかったのではなかったか、と思います。 拙くても、それがどれほど貧しいものであっても、読むことや聴くこと、見ることで自分のなかに生じた火花は、それを外に出してやること。おそらくそれはつぎにつながっていくのだと思います。 さて、インフルエンザで寝込んだり、「ポール」に悩まされたりしているうちに、気がつけばお彼岸も明けました。いよいよ春ですね。 また、春が来ましたね。もうすぐ桜も咲き始めます。
桜の花は同じでも、たとえ木が同じでも、咲く花は同じではない。それと同じように、去年のわたしと今年のわたしも違っています。 どうかみなさまも良い春の日をお楽しみください。 March. 24 2007 Last Update 3.04 「この話したっけ〜卒業の風景」をアップしました。 以前は記念日とか、節目とか、気にしたことがなかったんです。 卒業式とか入学式とか、そんなものはわたしにとっては煩わしいだけでした。 それが、あるできごとを境に、考え方が変わってしまいました。起こったことそれ事態を眺めてみれば(それこそ「神の視点」から)、もしかしたら、ひどくはかない、ささやかな出来事だったのかもしれない。けれども、わたしはそのことを忘れたくはなかった。それを「いま」につなぎとめておきたい、それができるのは、自分だけしかいないんだ、と思ったんです。そのためには、「思い返す」ことがひどく大切なように思えてきて。 それでも、ひとつの見方しかできないでいたら、やはりそのできごとはわたしをそこに縛りつけるでしょう。同じことを同じように繰りかえし考えるだけなら、わたしはそこからどこにも行けない。 大切な本は、読み返すたび、新しいことに気がつくものです。昔はわからなかった部分が、ハッとこういうことなんだ、と見えてきたり、逆に、わからないとさえ思わなかった点が、不思議に思えたり、なんてイヤな人だ、と思った登場人物の抱えたどうしようもなさが理解できたり。そのときどきのわたしの見方に応じて、ちがったふうに読めてくる。 長田弘の『すべてきみに宛てた手紙』にこんな一節があります。
「繋ぎ猫」というのはとても愉快なメタファーですが、「我身に心を取らるゝ」というのはすごい言葉だと思いました。 それと同じように、できごとの記憶も「繋ぎ猫」のように自分のうちに繋ぎとめていたなら、それこそ時間にできることは「忘れる」でしかありません。 ブログに書いている当座は、少し自分との距離が近すぎるような気がして、読み返すのがイヤでした。それでも、書き直しながら、自分をできるだけ離そうとした。わたしの記憶は、ほかの人の記憶と、つながることができるでしょうか。わたしのなかでしか意味を持たないものでしょうか。それは、読んでくださる方に委ねるしかありません。 三月になれば、さまざまなところで卒業式が行われます。そうした風景を見るたびに、わたしの記憶も猫のようにふらりと戻ってきます。そういうありかたで、過去はわたしとともにあるのでしょう。 さて、そこだけ日当たりが良かったのか、今日、もうほころび始めている桜の木を見かけました。今日は暖かな日でしたね。また新しい季節のはじまりです。 新しい季節もさまざまなことが起こっていく。そうして、いろんなことがあるから、楽しいのだと思います。 良い春の日をお楽しみください。それじゃ、また。 March. 04 2007 |