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What's new? ver.8



(※ここには2007年6月13日から8月31日までの更新記録が置いてあります)


Last Update 8.31

オルダス・ハクスリーの短篇『ジョコンダの微笑』の翻訳をアップしました。翻訳もさることながら、あとがきをうまく書くことができなくて、えらく苦労してしまいました。

主人公のミスター・ハットンが、現代のドン・キホーテだということはわかるのです。彼が女性とのアバンチュールをまったく楽しんでいないから、言葉を換えれば、どの女性も、ほんとうには求めていないからこそ、結果として渡り歩くことになってしまうのは明らかだから。けれど、タイトルにもなったジョコンダ、ジャネット・スペンスをどうとらえたらいいのか、以前読んだときにはよくわかりませんでした。

この作品は、一応ミステリの体裁も取っているので、ここでは結末を明かさないでおきますが、わたしたちがふだん「愛」と呼び、「恋愛感情」と呼んでいるそれが、実際にはどういうものであるかが、この作品にはずいぶんシニカルに(わんわん)書かれているように思います。

たとえば、自分のものになった瞬間、あれほど求めていた相手が色あせてしまうのはどうしてか。愛している相手が、別の相手を愛していると知ったとき、なぜ自尊心が傷つき、相手を憎んでしまうのか。ほんとうなら、自分の愛している相手が、たとえ別の相手とではあっても幸福であるとわかれば、それを自らの幸せと感じることができるはずなのに。
この短篇を読むとポップ・ミュージックにあきれるほど繰り返し歌われている「愛」というものが、実際にはまったくの幻想であるように思えてきます。わたしたちが「愛」と呼んでいるものが、その実、どういうものなのかを理解するには、きわめて参考になるものなのかもしれません。

けれども、わたしには、何か混同があるような気がしてならないのです。つまり、愛するという気持ち、これは惚れる、でも、引きつけられる、でも、愛おしいと思う、でも、大切に感じる、でも、どういう言葉を当てはめてもいいんですが、そういう心情は、おそらくはハットンにも、ジャネットにも、ドリスにも、おそらくエミリーにも、あらゆる登場人物(そうしてあらゆる人)に訪れる心情だと思う。そうして、それは得ようとする目標でも何でもなく、つぎの行動を呼び起こすスタート地点でしかないのだろうと思うのです。

わたしたちは、この心情がきわめてあやふやで移ろいやすいものだということをよく知っている。だから「愛」という言葉に繋ぎとめようとする。すると、その時点で逆にその言葉がわたしたちを拘束し始めたり、あるいは獲得目標になっていったりするのではないか。

映画でも、繰りかえし描かれるハッピー・エンドは、恋愛がうまくいき、めでたしめでたしで終わります。つまり、ここでは愛の成就は問題の解決なのです。けれども、ほんとうにそうなのだろうか。言葉でしかない「愛」は、しょせん、言葉でしかないのではないか。

問題は、というか、ひとりひとりに問われているのは、自分が誰かに引かれた、という思いを、自分はそれからどうしていくのかということではないのでしょうか。その気持ちを入り口として、自分はどこへ行こうとするのか。そののち、なんども繰りかえし立たされる岐路に立って、何を選んでいくのか、その気持ちを育てながら、どうやって自分の人生を余すところなく生きていくということなのではないか。

それを「愛する」という動詞と「愛」という名詞を混同してしまうことで、わたしたちは相手とのあいだに生まれていく引き合う気持ちを、一種の固定したもの、増えたり、なくなったり、奪ったり、取りもどしたりできるような「もの」にしてしまっているんじゃないのだろうか。わたしたちはそのせいで、不必要に苦しんでいるのではないかという気がしてしまうのです。

何か、ずいぶん大げさなことを言ってしまったかもしれません。
そんなこととは関係なしに、くっきりとしたストーリーを持つ、おもしろい短篇ですので、楽しんでいただけたら、と思います。あとがき、少しわかりにくいんですが。「欲望の三角形」について書こうと思ったら、どうしてもこんなふうに竹馬で歩いてるみたいになっちゃう。きっとまだよくわかってないんでしょう。

あとがきにも引用しましたが、これを推敲しながら、同時に三島由紀夫の『愛の渇き』を読んだんです。なんというか、すごく通じるものを感じたので、的確かどうかはよくわからないのですが、並べてみました。けれど、ハクスリーはやはり神の存在を虚焦点の彼方ではあれ、置いているのに対し、三島の場合、神の存在がないことを前提としているように思います。そういうところが西洋古典の土壌に育ったハクスリーと、日本の三島のちがいなのかなあ。

ともかく、質・量ともになかなか苦労した作品ではありますが、もっと知られて良い短篇をここで紹介できること、うれしく思っています。訳が原作を損なっていなければいいのですが。

八月も終わりになって、急に天候が不順になってきました。炙られるような暑さは収まったけれど、なんだか蒸し暑い日が続きます。どうか体調など崩されませんよう。

ブルーベリーの苗を買ってきたんです。すでに一株あるんですが、何株か一緒に植えると実のつき具合がよくなるんだそうです。ゆくゆくはジャムがつくれるほどの収穫をめざし、もう少し涼しくなったら植え替えようと考えています。

ということで、それじゃまた。
お元気でお過ごしください。

Aug. 31 2007





Last Update 8.28

「文豪に聞いてみよう」第二弾として「芥川龍之介と不安」をアップしました。ブログではこの前に二葉亭のことも書いているのですが、どうもまだ焦点が絞りきれていなかったようで、うまく書き直すことができません。そこでこちらを先にアップすることにしました。

芥川龍之介といえば、「蜘蛛の糸」や「トロッコ」「魔術」「アグニの神」などで、子供のころから、それもかなり小さい時期から親しんだ作家です。そのころ同じように読んだ作家、たとえば新美南吉や鈴木三重吉、坪田譲治などはその時期を過ぎると読み返すこともなくなっていったのに、芥川龍之介だけはほとんど例外的に読み続けていきました。

教科書にもよく載っていました。「杜子春」「地獄変」「羅生門」「芋粥」などなど。小学校、中学校、高校と、それぞれの成長段階に応じてテキストになる。これだけ取ってみても、彼の作品がいかに多様な質をもったものであったかがよくわかるように思います。国民的作家というと、夏目漱石になるのだろうけれど、日本人が一番よく読んでいる作家は、芥川龍之介なのかもしれません。

今回、この芥川のいくつかの短篇を「不安」という角度から読んでみました。
先日も何かで日本人の約十パーセントが鬱である、という(あまり意味のない)統計を目にしましたが、「不安」というのは、まるでそれがなければ生きている実感がないとでもいうように、今日ではありふれた感覚なのかもしれません。心療内科の敷居も低くなり、薬を飲んでいる、という話も、日常会話のなかで耳にするようになりました。

わたし自身も子供のころから、ひどくなる時期、比較的軽い時期と波がありながら、ずっと不安とともに来たように思います。ただ、わたしの場合はかなり早い時期から自分でそれをコントロールしなくては、と思い、そういう気振をできるだけ外に出さないように努めてきたのですが、逆にいうと、そういうことができる状態というのは、比較的どうということもないものなのかもしれません。こればかりは他の人のそれと較べることができるものではないので、自分がこうしてきたから、と人に当てはめるのは、非常に危険なことでしょう。

わたしはいつからか「不安がない状態」を正常と考えることはやめてしまいました。たとえば、わたしは年に何回か検査を受けるのですが、やはりその結果が出るまでは不安なものです。とくに前年と何か変わっている箇所があったりすると、検査の結果が出てくるまでの一週間ほどは、考えてもしかたがないこととはいえ、やはり気持ちの一部がふたがれたようになってしまうのはどうしようもありません。

それでも、たとえ今年の結果が異常なしでも、また来年も検査の時期がくれば同じ思いをしなくてはならない。つまり、生きている限りこの不安は続いていくわけです。それを思うと、「不安を取り除く」などというできもしないことの算段をするより、不安を抱えながら、そのうえで、それをどうやってまぎらわしながら、先送りしながら、毎日を充実させていくかが問題なのではないか、といつしかそこに行きついた、というか、言葉にしてみればこれだけのことを、わたしは長い時間をかけて、やっと自分で見つけていったように思います。

芥川が遺書に自殺の原因を「ぼんやりした不安」と書き残したことは、おそらく全集の解説かどこかで知ったのでしょう。「或る阿呆の一生」を読んで、この期に至るまでこんなに言い訳がましいことを書かなくちゃならなかったのだろうか、と考えていた当時のわたしには、どうしてもそれが一種の見栄のように思えてなりませんでした。「ぼんやりした不安」など、きわめて近しい感覚だった当時のわたしにとって、そんなことが自殺の引き金になるとは、とうてい信じられなかったし、信じたくもなかったのです。

以前、ある方の話をうかがったことがあります。わたしは面識も何もない、単にお話として聞いただけの方なのですが、死期の近いことを知ったその方は、自分の死後をたった一人に託し、密葬も何もあらゆる式を執り行わず、一定の期間、近親者含め誰にも通知しないでほしいと頼んだのだそうです。わたしはこの話を聞いて、あらためて人間は時間を空間化する存在だなと思ったのでした。

生きている間はともかく、人は死ぬと一切のプライバシーは剥ぎ取られ、死者をめぐるあらゆることは「情報」として処理されます。やがて自分が死ねば、「死んだ人のことをこんなふうに言うのはなんだけど」といった枕詞をつけて、無責任にさまざまな噂が取りざたされるだろう、それに対して自分はどうすることもできない。そう考えた人が、他人に踏みこまれるのを阻止しようとしたその「範囲」が、余人に通知しないでほしいという「期間」だったのではないかと思ったのです。

自分の不安も、さまざまに移り変わる心境も、「筋のない小説」、作品へと仕立てあげていった書いた芥川は、だからこそ最後に、逆に書くということによって、情報をコントロールしようとしたのかもしれない。人に触れられない、立ち入られない領域を確保するために、逆にそういうかたちで明らかにしたのではなかったか。いまのわたしはなんとなく、そんなふうに思います。

たとえば太宰治の自殺の原因など、わたしはあまり知りたいとも思わないし、考えることもしません。にもかかわらず、やはり芥川のことがどうしても気になってしまうのは、わたし自身が、未だどこかで、大きな不安にすっぽりと呑みこまれてしまうことを怖れているのかもしれません。

それでも、わたしにはまだ楽しいことはいくらでも見つかります。ドリーム・シアターの新しいアルバムは(どうも曲に出来不出来があるような気がしてならないのですが)、わたしを夢中にさせてくれるし、これから先、いつか会いたい人もいる。だから、開いている窓の前は、さっさと歩き過ぎて行くことにしましょう。

八月も終わりだというのに、相変わらず暑い日が続きますが。
どうかみなさまもお元気でいらっしゃいますよう。
明日か、明後日くらいには、なんとか翻訳もアップさせる予定です。
それじゃ、また。

Aug. 28 2007





Last Update 8.21

もうずいぶん前にブログに書いた記事(なんと五月の連休のころ!)をやっとひとつにまとめることができました。どう書いたらいいのか、長いこと方向性がつかめなかったのですが、「読む空気、生まれる空気」として、後半はそっくり書き直しています。

いつの間にか「空気を読む」という言葉は、ずいぶん頻繁に耳にするようになっていました。「空気が読めないやつ」という悪口であったり、「空気を読んでればいいってもんじゃない」という、その言葉に対する批判だったり。ただ、それがどういうことか、はっきりと書いてあるものは、わたし自身は目にしたことがありませんでした。

いいか悪いか言うのなら、その前にそれがどういうことなのかきちんと明らかにしなくてはならない。だからわたしはここでは「空気を読む」というのは、「その場の見えないルールを知り、それに従ってゲームをすること」と読み替えてみました。空気を読むにせよ、無視するにせよ、まずはそこにあるルールである、と考えたのです。というのも、「空気を読め」という命令形で使われることがあるように、この言葉にはある種の拘束力があるように思えたからです。

この読み替えが、はたしてどこまで有効なのか、わたしにもよくわかりません。もうひとつ、「空気を読め」という言葉が、集団の中から誰かをスケープゴートにするために使われるケースもあるような気がする。集団が空気を読んだ結果として、誰かがスケープゴートとされるような場合が。この点についてはわたしもよくわからないので、またおいおいに考えていきたいと思っています。

さて、先日《レミーのおいしいレストラン》という映画を見に行きました。ディズニーのCGアニメなんですが、なんとネズミが主人公。ネズミといってもミッキーマウスじゃありません。まさに "rat"、ドブネズミなんです。いくら主人公でも、彼らが集団で動くと、見ていてゾワゾワします。そんなネズミの主人公レミーが、人間社会のレストランのコックを目指す、という話。夢は叶うもの、というメッセージに加えて、その種族や生まれや育ちで人(?)を判断してはいけない、という、とってもディズニーらしい(笑)メッセージがこめられていたのはまあ、なるほど、なんですが、おもしろかったのは、もうひとりの主人公リングイニという人間の男の子です。

たぶん十代後半か二十代初めの彼は、レミーの能力を最初に認め、レミーの言うがままに行動するようになる。そうした面で、実に偏見のない、優しい男の子といえる。ところが反面、まったく覇気がなく、これまでまともに働いたこともなく、手足ばかりがひょろひょろとして、実に情けない子でもあるのです。周囲に流され、とくに目標も持たず、多くを望まず、それなりに楽しく生きて行ければ、と思うような。何か、こんな男の子、そこらへんに掃いて捨てるくらいいるんじゃない? と言いたくなってしまうような。これは世界的な傾向なんだろうか、と思いました。これでポケットに携帯でも入れて、何かあるとポチポチやっていたとしたら、まんま、日本のそこらへんのお兄ちゃんです。

もうひとつ、リングイニが働くことになるレストランには、肉料理担当の若い女性シェフ、コレットがいる。彼女は男勝り、というか、実に気合いが入った女の子で、男社会のなかで、自分がどれほどの思いで生き残ってきたか、と、ぐにゃぐにゃのリングイニにすごんでみせる。面倒見もいい、優しい側面もあるのですが、向上心といい、気合いといい、覚悟といい、リングイニにちっとも備わっていないものを全部持っている。これまた、当節の頑張っている女の子の典型で、世界的な傾向なのかもしれません。

やはり、人は時代によっても作られていくのでしょう。そう思うと、リングイニたちやコレットたちのコミュニケーションのありかたも、従来のそれとはずいぶんちがったものになるはずだ。それでも、どこまでいっても、コミュニケーションの目的が「わかりあう」ことにあるのは揺るがないようにも思います。

屹立した「自我」としてある「私」が、同じく屹立した「他我」である「あなた」と言葉を尽くして理解を深めていくのではなく、さまざまな関係や局面によって移り変わるぐにゃぐにゃであやふやな「わたし」が向かい合う「あなた」の身体をなぞりながら、身体全体として理解していく。そう考えると、一見、従来とはちがう主人公のように見えるリングイニも、結局はそれほどちがってはいないのかもしれません。

やっぱりわたしは言葉でのコミュニケーションは、どこまでいっても対面には及ばないと思います。それでも、言葉をやりとりすることで、相手の言葉を自分のうちに育てるということは、言葉にしかできないことだとも思う。わたしの言葉を届けるために、届けるに足るものとしていくために、これからもまたせっせと言葉を紡いでいこうと思っています。

それにしてもなんという暑さでしょう。暑さの原因について、あれこれ取りざたされている記事を見るたびに、因果関係の究明のむなしさを感じます。なんで暑いかなんてどうだっていい。暑いのは暑いんだ、みたいに。

どうかお元気でお過ごしでありますよう。
早く涼しくなってほしいものです。

それじゃ、また。

Aug. 21 2007





Last Update 8.05

新しいコーナーを作りました。名づけて「文豪に聞いてみよう」、記念すべき第一号は、「中島敦と身体のふしぎ」です。

もともとはブログにつなぎで書いたログでした。「「真似」る話」で使った中島敦の『名人伝』、そこでは直接使わなかったのだけれど、この作品に出てくる二種類の修行について、一度、とりあげてみたかったんです。
ところがどういうわけか書いているうちにどんどん楽しくなってきて、中島敦をもとに、つづけて三日、関係があるような、ないような話を書きました。わたしとしては、結構、気に入ったもので、それをあれやこれやが寄せ集めてある「鶏的思考」に収めるよりも、独立させた方がいいように思え、その受け皿も新しく作ることにしました。
「読みながら考え、考えながら読む」とどうちがっているのか、とか、そこらへんの区分はかなり曖昧なんですが、こちらではとりあえず引用した作品が「青空文庫」で読めるようなものにしようと思っています。
ひとりの作家について、ゆるやかなテーマで、作品の評価などとは関係なく、ちょっとした部分をとらえて見てみたい。そんなコーナーにしていけたら、と思っています。

ブログに書いていたころは、特に統一した問題意識があったわけではなく、南伸坊の『仙人の壺』を引用してみたりしていたのですが、こちらにまとめるときは、「身体」というテーマを設定して、それに沿って書き直してみました。内容はともかく、ここで引用したのを機に、中島敦、おもしろそうだな、読んでみようかな、と思ってくださったら、それにまさる喜びはありません。

おそらくほとんどの人がそうだと思うんですが、わたしも中島敦といえば、教科書に載った『山月記』でした。そこからあの薄い新潮文庫を買ってきて、『名人伝』や『弟子』や『李陵』を読んだものです。

そのときは『山月記』がおもしろかったほどには『名人伝』や『弟子』はおもしろいとは思わなかったような気がします。それでも、そのときにはうまく言葉に当てはまらなかった何ものかがあった。わたしのなかには当時はまだストックされていなかった言葉が、歳月を経て、自分のなかに蓄えられ、やっと結びつくことができたのだろうと思います。

文学というのは、一般に、言葉による表現活動の一種、と考えられるかと思います。それでも、文学の言葉は表現なんだろうか。作家の思想や思いや感情を物語に託した表現なんだろうか、という疑問がわたしにはあるのです。

自分が何かを書こうとするときのことを考えます。誰かに伝えたいことがある、というより、むしろ、ぎりぎりで伝えられなかったこと、言葉になったこととどうしても言葉にならなかったことの境、わかったこととよくわからないことの境、浮かびあがってくるのはそういう境界です。その境界をなぞるように、それをつなげていく言葉を探し、そうして、境界は先へ伸びていき、問いは、つぎの問いへとつながっていくように思う。自分の乏しい経験から作家の創作活動を類推するのは滑稽なことなのかもしれませんが、それでもわたしは文学というのもやはりそういうものだと思うのです。

「作家の書きたかったこと」として、何ものかがあるのではない。そういうものがあるのなら、それを探せば良いのだし、正解もかならずあるのでしょう。それでも、文学がそもそもそうした空白を抱えているものならば、「作家の書きたかったこと」という何ものかが、小包のようにどこかにあるわけではない。読んでも、読んでも、なお埋まらない空白を見つけていくこと。それを自分のうちにストックされた言葉で埋めていくこと。それが本を読むということのコミュニケーションのありようなのだと思うのです。

どれだけ近しい人でも、わかりあうことはむずかしい。言いたいことを言い合えばわかりあえるわけではない。おたがいの意味は食いちがい、言葉は届かず、お互いが相手の言葉を誤解し合う。それでも、たがいにわかりあえないことを通さなければ、何かが通じた、いま確かに、自分の言葉が相手に通じたことが感じられ、相手の言葉を通して、相手が自分のうちにふれたと感じられる奇蹟のような一瞬を経験することもできないはずです。

荷物をやりとりするように、より新しい情報を伝達し合っているだけ、情報の正確な受け渡しが完了すればそれで用済みの読み物が、山のように生産されている。本来、決してそういう読まれ方をされてはいけない作品までもがそうやって消費されていく。おもしろかった、良かった、感動した、それだけで、どこがどう良かったのか、自分以外にそれを説明できる人はいないのに、そうすることができない、しようとも思わない。それだと、いつまでたってもその人の言葉は貧しいままじゃないのでしょうか。

もしかしたら、それじゃダメだ、と考えるわたしは、とんでもなく傲慢なのかもしれません。でも、わたし自身は、まちがいなく本を読んで育ってきたし、言葉にならないもの、どうしても言葉にできないものを、なおも言葉に当てはめようとしながら、ここまで来た。それが良かったのか悪かったのかわたしにはわからないけれど、だけど、世の中はそのおかげでずいぶんおもしろいところ、興味深いところ、退屈とは無縁のところとなっています。

そうして、自分じゃない人の言葉を聞けるということは、世界が二倍にも、三倍にも広がっていくことでもある。わたしはその言葉を、わかり損ねているのかもしれないし、誤解しているのかもしれないし、勝手に意味をつけ加えているのかもしれません。それでも、たとえそうであっても、わたしの世界はそういうことでしか広がらない。

だから、お話、続けていきましょう。
世界のマジョリティではないかもしれないけれど、そんなことはどうでもいい。片隅で、ひっそりと、それでも、ねばり強く。

さて、気がつけば4月に Porcupine Tree、5月にRush、6月に Dream Theater と立て続けにアルバムが出てました。そういうのと関係のないちょっと前のアルバムをずーっと聴いていたので、まだ一枚も聴いてません。今度またタワレコに寄って、ゆっくり試聴してみようと思います。こんなことを考えてるときほど、楽しいことはありませんね。

例年に較べればずいぶんまし、と言われている今年の夏ですが、晴れた日の日中は、耐えがたいほどの暑さです。どうかみなさま、体調など崩されませんよう。夏の日々をお元気でお過ごしください。

それじゃ、また。


Aug. 05 2007





Last Update 7.29

ロバート・バー原作のミステリ短篇「健忘症連盟」アップしました。20世紀初頭の、シャーロック・ホームズとほぼ同時期の短篇ですが、この作品が持つ「奇妙な味」(江戸川乱歩)は、十分、現代にも通じるように思います。

すごくおもしろいわけではない。思わず膝を打つ、というのとも、ちょっとちがう。なかなかおもしろいアイデアだとは思うけれど、現実に考えると、どうにも無理がある。もちろん、これを読んで世界がちがったふうに見えてくる、とか、人間に対する洞察が深まる、ということもない。いろんな「名作」「傑作」の要素を当てはめては、ちがう、を繰りかえし、それでもやっぱり「何か」が残っている。確かに「奇妙な味」と言うしかないようなものがここにはあるように思います。

ここでも何回かふれていますが、登場人物の分類のしかたとして有名な、E.M.フォースターの「扁平人物」と「円球人物」というのがあります。「扁平人物」というのは、
・出てきてすぐにわかり
・性格を一言で説明でき
・作品のなかでも変化しない
人物です。

フォースターが「扁平人物が、まじめであったり悲劇的であると、どうも退屈な人物になりがちです」(『小説の諸相』)と言うように、扁平人物は、主人公を浮きあがらせるための脇役か、あるいはエンタテインメント系の作品で活躍します。たとえば、長さの限られる短篇ミステリなどでは、ごく少数の作品の、ごく限られた登場人物を除けば、ほぼ全員が扁平人物といっていい。

この「健忘症連盟」でも、もちろん登場人物はみな、真っ平らな人物たちです。ヴァルモンは頭の切れる気取り屋のフランス人、ヘイルは愚直なイギリス人警官、ポジャーズは「潜入」という技能を持った技術者。そうしてマクファーソンは頭の切れる悪党です。

ところがこの悪党、作者の思惑を超えて、勝手に動き出した節がある。対決を迫られた場面では、一瞬、逃げ出そうとする。ここらへんまでは、作者の思い通りになっているのですが、のらりくらり、ヴァルモンの追求をかわすうち、次第に自律性を帯びてくる。最後に、あっけにとられるような行動に出たあと、"self-depreciatory smile" を見せる。ここまで来ると、もう勝手に動き出したとしか言えません。設定以上の人間的な深みを垣間見せるんです。

この "self-depreciatory"、なんと訳そうか考えました。"depreciate" という動詞は謙遜から始まって、卑下、とか、軽視とか、そんなところまで含むニュアンスです。先行訳を見てみると、「小ばかにした」(「放心家組合」宇野利泰訳 江戸川乱歩編『世界短篇傑作集1』創元推理文庫)はもう論外ですが("self-" はどこへいったんだ?)、「弁解するような笑み」(峯岸久訳 エラリー・クイーン篇『黄金の十二』ハヤカワ・ミステリ)というのも、少しちがうんじゃないか。いろいろ迷って「自分を卑下するような微笑」としてみました。うーん、解釈しすぎちゃってるかもしれない。ただ、この単語がわたしは「勝手に動き出したマクファーソン」のキー・ワードだと思うんですが。

彼が勝手に動き出したことによって、作品としてはどうにも収まりの悪いものになってしまった。けれども、反面、このキャラクターの独特のふくらみが、作品の魅力になっているのだとわたしは思います。

以前「小説のなかの「他者」と現実の「他者」」でもふれましたが、現実に生きている人にくらべて、小説の登場人物はわかりやすいものです。わたしたちは小説に出てくる扁平人物のように、決して現実に生きる人を理解することはできない。にもかかわらず、わたしたちは無意識的に、多くの人々を「扁平人物」としてぺたんこにして、レッテルを貼って分類して「理解した」「わかった」と思ってしまいます。たとえばここに出てくる「スペンサー・ヘイル」的な人物なら、だれでもひとりやふたり、思い浮かぶのではないでしょうか。

わたしたちは、頭では「安易なレッテル張りは危険だ」「人を類型化して決めつけるのはよくない」とわかっている。だとしたら、こんな「類型」のもとになるような、扁平人物の登場する小説など読まないほうがいいんでしょうか?

わたしはそうではないと思うんです。いや、こんな扁平人物が山ほど登場するミステリをそれこそ山ほど読んできた自己弁護かもしれませんが。

よく「単純な人」「複雑な人」という言い方がありますが、人間はみなそれぞれに、おそろしく複雑なのだと思います。ただ、「単純な人」というのは、自分の感情や思考をこと細かに当てはめようとしないのだろう、大ざっぱな言葉にえいやっと当てはめて、それで十分、と満足する人なのだろう。一方、「複雑な人」というのは、さまざまな言葉を当てはめては、これともちがう、あれともちがう、と、決して満足できない人なのだろうと思うのです。

人の性格とは、その人の持つ言葉である、といったら、たいていの人は、そんなことない、と思うかもしれません。でも、こういう文章はどうでしょうか。

 ちょうどからだのなかのどこかに名状しがたい(医師に質問されたとしてもなかなか適切な説明のむずかしい)痛みやいらだちを感じているときのように、人は、心の奥底かどこかに、ひそやかな思いをいだいていることがある。それは容易にことばになるものではなかろう。にもかかわらず、ことばにしてみなければ自分でもじゅうぶんに納得できるものではない。そういうとき、ふと、ほとんど幸運な偶然のようにある適切なことばを思いつき、ほっとすることがある。それこそ自分だけのことばだ、と感じることがある。けれどもそのことばは、私がそのときの自分の気もちに合わせてあつらえ、こしらえたものではない。私以前に、無数の他者たちがもちいてきた、かぞえきれない用語法の累積をになったことばなのだ。ことばはすべて既製品である。

 自分のからだにもっとも似合う既製服をさがすように、心が適切なことばをさがすのだ、と言ってもいい。が、事態はたぶん逆なのだろう。私は、自分の内部にくまなくしみわたっている既成の母言語の制度によって、かろうじて自分のひそやかな思いにかたちを与える……と言うほうが事実に近いのであろう。

(佐藤信夫『レトリック認識』講談社学術文庫)

どこかにその人の「性格」という元型のようなものがあるわけではない。自分はこうしたい、自分はこう考える、自分はこう感じた、こうした、「自分は……」という主語のあとにくるさまざまな言葉こそが、その人に「かたち」を与えているのではないか。

自分ではない、ほかの人もまったく同じこと。だれもその人のことを元型に照らし合わせて「正しく」理解することなどできはしない。だとしたら、理解をすることをあきらめてしまうのか。それでは、基本的なコミュニケーションさえ成立しがたくなってしまいます。だって、わたしたちは相手に合わせて話題を選び、話し方を選び、その人に相対している自分さえ選んでいるのですから。

だとしたら、いくつもの類型をストックしておくということは、なかなか有意義なことなんじゃないか、と思うんです。問題は「あの人は××だから」と決めつけることであって、人の言動を、そうした類型を手がかりに、理解していくのだとしたら。

どこまでいっても近似値を目指しながら誤解することしかできないとしても。
「ほとんど幸運な偶然のようにある適切なことば」が自分の気持ちにうまくかたちを与えることができ、それがさらに相手のうちに「ほとんど幸運な偶然のように」「適切なことば」として届く、という、きわめて確率の低い賭けを目指していくのが、わたしたちのコミュニケーションなのかもしれません。

気楽に読めばいいような短篇に、えらくまた大仰なことを書いてしまいました。どうか気楽に、文豪も楽しんだミステリをお楽しみください。

それにしても、雨ばかり続くと思ったら、一夜を境に本格的な夏になっちゃいました。
このあいだ、ひさしぶりに晴れた空を見上げて、Porcupine Tree の "In Absensia" を聴きました。Porcupine Tree って、わたしにとっては夏のバンドなんですよね。ただ、初めて聴いたのが夏だった、っていうだけなのかもしれませんが。西海岸の夏ではない、湿った鉛色の空の、イギリスの夏です。「いつも夏は手からすべり落ちていく」("Train")、そんな夏。なんか、暗いな(笑)。

7月は「鶏的思考」を含めて三回しか更新できなかったんですが、変わり映えのしないサイトをのぞきにきてくださって、ありがとうございます。まあぼちぼちとやってきますので、これからもどうぞよろしく。

しばらく暑い日が続きますが、どうかみなさまお元気で。
朝からセミも鳴いてます。
それじゃ、また。


July. 29 2007





Last Update 7.10

「「真似」る話」をアップしました。

ここでも何度も引用してきたのですが、こういったものが書きたい、というわたしの意識の根っこのところにあるのは、作田啓一氏の『個人主義の運命 ―近代小説と社会学―』(岩波新書)です。こんなふうに文学が読めたらどんなに楽しいだろう、とずっと思ってきました。

本を読むとき、わたしたちはページを繰りながらストーリーを追っていきます。同時に、つねに振り返りながら、それ以前に書かれていることと関連づけを行っていく。ストーリーはつぎつぎに起こっていく出来事を描きながら、わたしたちを先へ、先へと進めます。そうやって運ばれながら、同時にわたしたちはその出来事や行動の原因を、戻ってはつきとめていく。そうやって小説を読みながら、わたしたちはもうひとつの物語を自分の内側に作っていきます。

「もうひとつの物語」は読み手の数だけあるものです。「蒟蒻問答」ではありませんが、ひとつの作品から、まったく異なる物語ができていくケースも少なくありません。
評論というのも、この「もうひとつの物語」でもあります。自分一人では決して気がつかなかったような部分や、まったく異なる角度から光を当てることによって、自分が作り上げた物語よりもはるかに壮大で、奥深く、また細部に至るまで明瞭な物語を見せてくれる。ああ、あれはこういうことだったのか! と目が開かれるような思いがする。そうして、もとの作品だけでなく、それから先、自分が生きていく世界までもが、少しちがったふうに見えてくる。
わたしにとって『個人主義の運命』に描かれた漱石の『こころ』の読解は、そういうものとしてありました。

この本を通じて開かれた「模倣欲望」という水路は、わたしをいろいろなところに連れていきました。それで、ここらへんでいったん自分が読んだことをまとめてみようと思いました。まだ中身としてはノートていどのもの、覚え書きでしかありませんが。「模倣欲望」を「承認欲望」と結びつけていっていいのか(ただ、わたしにはどうしてもこの「自尊心」の問題は「承認欲望」からくる、としか思えないのですが)ということも含めて、まだまだ考えなくちゃいけないことはたくさんあります。だから、この問題は、またこれからも形をかえて扱っていきたいと思っています。

ここではまず、「模倣」「真似」という言葉が持つ、マイナスのイメージが果たして正しいんだろうか、ということを考えてみました。あからさまに「真似る人」から入って、「真似を隠す人」「真似ていることに気がつこうとしない人」を見、そこから通常は「真似」とは言わない、けれど、やはり模倣にほかならない「学ぶ=真似ぶ」ことに移ります。そうするなか、どうして「真似」が否定的にとらえられているのか、「真似」ることの危険性を考えていきました。
「真似」ということは、だれかと同じものを持つとか、同じことを言うとかではなく、わたしたちの言動の、もっと根本にあるものではないか。「模倣」「真似」の対極にあるとされる「独創性」、そんなものがほんとうにあるのだろうか。
そうして、どうやって「真似」ることによって陥る危険があるとするなら、どうしてそれを回避できるのだろう。
まあそんなことを、あっちへいったりこっちへいったり、いろんな作品を概観しながら、考えていっています。

ところで、本文にはふれていないのですが、芸のひとつに「物真似」というのがあります。動物や鳥の鳴き声を真似たり、さまざまな機械音や日常音を真似たり、でも一番多いのが、人のしゃべりかたやしぐさを真似することです。なかでもおかしいのが、実際にその人がやったことはないけれど、やるとしたらそうするだろうな、と誰にも思わせるようなパターンの物真似です。

わたしたちは見たこともないのに、どうして「いかにも…」と思うのか。どうしてそういう芸が可能なのか。こういうことは、実はわたしたちの人やものの見方、認識のしかたに密接に関連しているのではないでしょうか。
『リプリー』を読みながら一番おもしろいと思ったのは

最初は面白半分にアイブロー・ペンシルを使ってみたこともある――ディッキーの眉はもっと長くて、目尻がいくらか吊りあがっているのだ。鼻をもっと長く、とがった感じにするため、先端にすこしパテをつけてもみた。しかし、ひどく目立ちそうなので、やめにした。変装で肝心なのは、なりすましている人物の雰囲気と性格をうけつぐことであり、その雰囲気と性格に合った表情を身につけることだ、とトムは思った。あとは、なんとか様になるものだ。

トムがそう考えるところでした。かつて役者を目指しただけあって、トムは人間が他人の顔をどう認識しているか、非常によく理解しているように思います。トムが言うとおり、わたしたちは眉や鼻を形として記憶しているのではなく、その人の「雰囲気と性格」を認識している。「いかにも…」という芸が成立するのは、この「雰囲気と性格」を再現したものだからでしょう。

同時にこの物真似は、その人の「解釈」までも含みます。その人の「雰囲気と性格」を再現するとは、さまざまな局面において現れるその人の姿を、寄せ集め、ひとつの解釈によって再構築していくものです。この再構築のプロセスで「解釈」が現れる。この解釈のおかげで、わたしたちの見方が変わることだってあり得ます。
ここまでくると、「物真似」も「創造的な営み」と何ら変わるものではありません。おもしろいのは、芸そのものよりも、その解釈を聞かせてもらえる点、わたしたちの見方がひっくり返る点にあるのかもしれません。だとしたら、これも評論を読む楽しみと同じものなのかも。

わたしもここで「模倣」を重ね、いろんな作品を引っぱってきては並べ替え、苦労しながら別の光を当てようとしています。読んでくださった方が、その向こうに何らかの「物語」が見えてくることを願ってやみません。光の当て方がおかしくて、何も見えない状態になっているかもしれないんですが。

本を読むにしても、音楽を聴くにしても、何が一番楽しいかっていうと、自分の世界が広がっていくことにあると思うんです。すでによく知っているものごとをなぞるのではなく。ときに、知らないものは、どう受け入れていいかわからなくて、混乱をもたらしたり、反発を生んだりもするだろう。それでも、ときに迷ったり、わけがわからなくなったりすることでしか、新しいところへ行けないのだとしたら、怖れずにそういうところへ足を踏み出して行こうと思います。ほら、言うじゃないですか、「天使も踏むを怖るるところ、愚者は飛びこむ」(笑)。
タロットカードの愚者は、たいてい楽しそうだ。だから愚者でいいかな、と思います。

さて、気がつけば七月も初旬を終わってました。なんだかはっきりしないお天気が続くんですが、ま、雨も降らなくちゃいけない。今朝みたいな雨の朝、ベランダに出て、ねずみ色の空を見ながら、ちょっと肌寒いような空気の中でコーヒーを飲む、というのは、なかなか悪くないものです。こんなときに World's end girlfriend を聴くと、何でもない朝が、それだけで不思議な朝に思えてきます。

暑くなったり、涼しかったり、天候不順の折ですが、どうかお元気でお過ごしください。

それじゃ、また。


July. 10 2007





Last Update 6.22

「あのときわたしが聞いた歌」をアップしました。

例によって、とめどもなく思い出を綴ったものでございます。
なんだろうな、こういう文章をほかの人に読んでもらうことにどういう意味があるんだろう。

ときに、自分は××大を出た、センター試験(共通一次試験)では何点取った、あるいはTOEICで何点取った、などとという人がいます。大学を出ていったい何年経ってるんだ、いつまでそんなことを言ってるんだ、と聞き返したくもなるのですが、その人にとってはその××大とか試験の点数とかいったことは、単に固有名や数字を越えて、その人をそっくりまるごと語るもの、だから何年経とうが手放せないものなのでしょう。

そういう話を聞くわたしたちは、多くの場合、滑稽にしか思わない。というのも、その人が「××大」や「何点」という言葉に託した思いは、ほかの人には意味を持たないからです。そうして、その人がそれに気がつかないでいることが、言い換えれば、その人が自分がその言葉にかけた重みがそのまま普遍的に流通するものと思いこんでいるところが、周りの目には滑稽に映るのでしょう。

それでも、一方でわたしたちは同じことをやっています。
ある曲が好き、と言いながら(もちろんこれは曲の代わりに「本」や「ファッション」や「車」や「パソコンの機種」が入ってもまったくかまわないのですが)、同時に、この曲が好きなわたしはこういう人間なんだ、ということも言っている。あるバンドがどんなふうにすごいかを語りながら、同時にそのすごさを見つけた自分、その良さに引かれる自分を語っている。

聞く側にしても同じです。その人が口にするミュージシャンを手がかりに、その人のことを知っていく。自分もその音楽を聞きながら、その人が引かれたのはどこだろう、この音に引かれるその人は、どんな人なんだろう、と考える。

話す方も、相手が聞いてくれなければつまらない。だから、相手のことを考えます。この人だったら、こんなジャンルの音楽のことを話したら、興味を持ってくれるんじゃないだろうか。それは音楽のことを考えながら、同時に相手のことを考えているともいえる。聞き手はそれがわかるから、たとえ聞いたことのないミュージシャンの話でも、楽しく聞くことができるし、じゃ、自分も聞いてみようか、とも思えるのです。

ここで、こんな人がいたとします。
みんながJ-Popの話をしているところに、たとえばあんなの、ツェップのマネじゃないか、ツェップを聞いてみたらバカバカしくて聞いてられないぞ、と割りこんで、滔々とツェッペリンの話を始めるような人。
それは自分の知識のあからさまな誇示でしかありません。「××大」で相手に自分の優位を示し、相手を支配しようとするのと同じです。だからみんなからきらわれる。気の毒なのはツェップで、その場にいた人は、「レッド・ツェッペリン」など聞きたくもなくなるだろうし、名前を耳にするたびに、そのときのことを思いだしてしまうかもしれません。

わたしたちは、自分のことを語りながら、同時に相手に影響を及ぼそう、言葉は悪いのですが、何らかのかたちで相手を支配しようとしているのだろうと思います。それは、誰もが、いつだって。

わたしはこうやって、自分が聞いた音楽のことを書きながら、自分のことを書いているわけです。これまでにも、ずいぶん自分のことを書いてきました。
それは、わたしのことを多くの人に知ってほしいからなんだろうか。
どうもそうではないように思います、というか、もちろんそういう側面はあるのでしょうが、それだけではないような気がする。もしそれほどまでに知ってほしいのなら、書きながら、こんなことに興味がある人がいるわけがない、おそらくつまらなくて退屈な代物でしかないだろう、と止めたくてどうしようもなくなるわけがないからです。

おそらく、わたしがどうしようもなく書いてしまうのは、自分が書くことで、自分を知りたいからなのだろう、と思います。言葉を探すことによって、自分を探ろうとしているのだろうと。
同時に、いまある自分を開いていきながら、こういうわたしに何かを与えてほしいと願っているのかもしれません。何かを受けとることで、自分が変わっていきたい、という強い願いがあるから、どうしようもなく書いてしまうのかもしれない。だから、すごくセルフィッシュな自分に、なんともいえない恥ずかしさを覚えるわけなんですが。

これが一方的なものじゃなかったらいい、と思います。
この文章が記憶の引き金になって、読んでくださった方の「あのときの曲」と結びついていけば。
あるいはオーシャンサイズってどんなバンドなんだろう、って思っていただければ。
オーシャンサイズ、いいです。
http://www.youtube.com/watch?v=f8CZNX-uuhI
ここで聞ける"New Pin"は、単独で聞いても悪くはないんだけど、アルバムで聞くと、ほんと、もうすごくいいんです。どこらへんがいいかっていうと……って、ほとんどの人にとってはつまらない話かもしれないから、もうやめるけど。

たぶん、音楽でもなんでも、何かを、あるいは誰かを好きになるっていうことは、おそらく滑稽でバカなことなんでしょう。ある程度の年齢になると「いい歳をして」って言われるしね。
仕事や勉強をしているときには絶対に出てこないような自分が顔を出す。ふだんはコントロールしているはずの自分が、制御不能になってしまう。それでも、「あの人がこんな音楽が好きなんだ」と意外に思うとしたら、その人のそれまでとはちがう側面を知ったということだし、その人の影響を受ければ、自分の世界も変わっていく。
だから、この滑稽でバカなことを通してしか、ほんとうは人は変われないのかもしれない、なんてことを思ったりもします。

外は雨が降っています。こんな日にはどこにも行きたくないんだけれど、そういうわけにもいかない。自転車に乗れるかしら。
駅へ行くまでの通り道、はっとするような青さの紫陽花が咲いています。この雨で、きっと色も変わったでしょうね。
うっとうしいお天気が続きますが、どうかお元気でお過ごしください。

どうかまた、お話、聞かせてください。
それじゃ、また。


June. 22 2007





Last Update 6.13

アーネスト・ヘミングウェイの短編「白い象のような山並み」をアップしました。

この短編は何度か読んでいて、よく「知って」いるもののはずでした。短いですが、かなり強烈な印象を残すものですから、タイトルを聞けば「ああ、あれね」と思いだすことができました。ところがブログに「象の話」を書いたとき、NONNONさんから書きこみをいただいて読み直してみると、まったくちがう印象を受けたんです。自分が「知って」いたと思ったのは何だったのだろう、と。

そこからクンデラがこの作品について何か言っていたっけ、と評論『裏切られた遺言』を読み直し、改めてこの短編をいかに自分が読み損ねていたかを知りました。情けないことに、クンデラも前に読んでいたはずだったんだけど、そのときには無数の物語を考え出せるところしか読めてなかったことまでわかった。まさに、わたし自身が何度も書いているように、「知っていることしかわからない」ことをあらためて実感させられたように思いました。

「善悪」の判断を保留して読んでみると、ひどく色彩豊かな風景であることに気づきます。そうしてまたやりとりされる会話の静かさに。音楽を学んだクンデラが、ここから旋律を聴き取ったのも、無理はないように思いました。だから、訳してみたい、と思いました。「堕胎の話」ではなく、「会話が生まれるいま」を切りとったものとして。原文の持つ繰りかえすリズムのような言葉のやりとりを、できるだけ損なわないように。

わたしたちは人と会って話をします。多くの場合、「太郎君と駅で会って、太郎君が新しく始めた仕事の話を聞いた」という要約のかたちで記憶されます。少し太ったようだった、とか、カジュアルな格好をしていた、とか、駅の階段の薄暗さとか、漠然とした印象は日を追うにつれて薄れ、要約だけが記憶の中に「駅で太郎と会った」というラベルをつけてしまいこまれていきます。

ところが会話というのは、たとえそれが何気ないありふれた会話でっても、わたしたちは意識しないまま、相手の言葉や仕草から何かを読みとっています。相手の言葉の断片や表情の推移に、わたしたちの側もたえず反応し、影響され、さまざまな感情が生じ、記憶が呼び覚まされ、おびただしいものが生まれていく。けれどもそういうことの多くは意識の上にのぼらないし、生まれる端から失われていきます。「現在」というものはそういうものだからです。わたしたちは起こってしまってから、ほかの出来事と結びつかなくては、「何が起こったか」を知ることはできません。

この「現在」の再現という観点に関しては、翻訳の最後の部分でクンデラを引用しながら書いているので、そちらを読んでみてください。そうして、興味をお持ちになった方は、ぜひ、引用元であるクンデラの本をご覧ください。

ところで、この会話には実はルールがあって、わたしたちは無意識のうちにそのルールに則って話をしています。
ひとつは「相手の言っていることには意味がある」ということ。
もうひとつは「終わりにする、という共通の了解に到達するまで、続けなければならない」ということです。

相手が「ばかやろう」と急に言い出したら、まず腹が立ち、どうしてそんなことを言うんだ、と思うのも、「ディル・ピクルス」のヴェラのように、話の途中で急に遮られると苛立ちを抑えられないのも、あるいは相手が聞いていないように思えると続ける気持ちがなくなってしまうのも、すべて双方がこのルールに則っている会話だからこそ、そういう感情が引き起こされるのです。

やりとりされているのは、言葉です。辞書に載っているような、無色透明の言葉。
だから、わたしたちは会話をこんなふうに思っています。ある言葉に、その人独自の意味をこめ、相手に送り出す。わたしたちはその言葉に託された意味を受けとる。だからこそ、相手から発せられるとき、わたしたちは言葉の向こうに相手の意図を読みとろうとする。
そういう会話観から生まれた解釈がこれでしょう。

この二人の会話の調子が異様である。女が沈黙の苦痛に耐えかねて話題をつくり、男がその話題を破壊してゆく。

(瀧川元男『アーネスト・ヘミングウェイ再考』 南雲堂)

そうなんでしょうか。わたしたちは日常的に言葉だけとらえるとかみ合わないけれど、十分に通じあう会話を交わしています。

A「今日、どこに行く?」
B「朝、起きたときから頭が痛いんだ」
これも見ようによっては話者Aが「沈黙の苦痛に耐えかねて話題をつくり」話者Bが「その話題を破壊してゆく」とも受け取れます。

けれどもおそらくはそうではない。なぜそういえるかというと、わたしたちが日常でこういう会話を繰りかえしているからです。
話者Bも何かを伝えようとしている。つまり「頭が痛い」という情報を与えることによって、相手の「どこかへ行く」という意志を、自発的に変えてもらいたい、と願っているのです。「どこにも行けない」「行くつもりはない」と言明する変わりに、相手に自分の情報を与えることによって、とりあえず相手の最初の意志を保留してもらう。そうやって、相手の心のなかを変化させようとしているのです。

「何もかもリコリスの味がするわね。とくにあなたがずっとほしがってたものはどれも」と娘が言う。男はその意図はどこにあるのだろう、と探る。見当がつく。だから「よせよ」と言う。さて、この「よせよ」(原文では'Oh, cut it out.')には、言葉通り「こんな話はやめてほしい」という意図から発せられているのでしょうか。むしろ「よせよ」という言葉によって、男は自分が探り当てたと思っている、彼女の言わんとすることが、正しいものかどうかを確かめているのではないか。
そう考えていくと、この会話はちっとも異様なものではない。現にわたしたちが日々交わしている会話です。

会話というのは、決して意味の伝達だけを意図するものではありません。
相手から発せられる言葉を受けて、こちらの心のなかが変わっていく。その変化を反映した言葉を、こちらから返していく。この返答が相手の意図に合致するかどうか。こちらは相手の様子をうかがい、また、相手から返ってくる言葉を推理する。その推理が正しいか、確かめるためにもういちどこちらから何かを言ってみる。こうしながら、わたしたちの心はたえず変化しながら、共同作業として何ものかを生みだそうとしているのです。もちろんこのふたりも同じことです。

以前、コミュニケーションというのは、お互いがそれを通じて変わっていくものだ、という話を聞いて、ほんとうにそうだと思ったことがあります。
わたしたちは、自分ではない相手の心のなかはわからない。わからないけれど、知りたいと思う。どこまでいっても知ることはできません。けれども、言葉を生みだすことはできる。ありふれた言葉、辞書にある言葉。それでも、そのとき一度限りの、その人が相手だからこそ生まれた言葉。
なのにそういうものが生まれる瞬間に立ち会いながら、気がつかずにいる。だからこそ、こんな作品が必要なのかもしれません。

声の調子、目つき、ここには多くの情報が意図的に隠されています。そこから、わたしたちはさまざまなことを考える。どこまで豊かな「読み」ができるか。この作品には「最初の妻の二度目の妊娠に対するヘミングウェイの反応」が描かれている、という解釈より、ずっとおもしろいものを引き出すことができるはずです。
読んでくださった方が、ここからおもしろい物語を引き出してくださることを願ってやみません。

ところでこの「リコリス」、日本語では「甘草」に当たります。漢方薬なんかに使われていますよね。
この言葉で思いだすのが、昔、子供の頃に駅のなかのモールにあったアイスクリームショップです。おそらくバスキン・ロビンスを模した店だったのだと思うんですが、そこに真っ黒なアイスクリームがあった。それがリコリスでした。まだイカスミのスパゲッティも一般的ではなく、黒い食べ物、というと、海苔を巻いたおにぎりぐらいしかなく、黒いアイスクリームというのは衝撃的で、どんな味がするのだろう、といつも想像を巡らしていました。注文すると、店の人が筒の中から掬ってくれます。売れ筋のフレーバーは表面がでこぼこになっている。ところがそのリコリスだけは、いつも真っ平らなのです。コールタールのような黒光りする表面を見ながら、想像だけはかけめぐるのでした。

さて。アイスクリームといえば! 今年もまたあのブルーベリーがハーゲンダッツに戻ってきました。いやー、この一年、どれだけ待っていたことか(って嘘だけど)。冬によく暖まった部屋で食べるアイスクリームもおいしいけれど、暑いなあ、と思いながら食べるアイスクリームは、これまた最高です。ほんとに、このブルーベリー、おいしいんです。一口含めば、浮き世の憂さを忘れること請け合い。
ところで、アイスクリーム、わたしは昔から金属のスプーンで食べるのがキライで、もちろんプラスティックもいやで、あの木のさじが好きだったんです。紙の袋に入った、あのぺちゃんこのやつです。いまはどこへ行ってもあれはないので、このあいだ百均で竹のさじを買ってきました。これだと洗って再利用もできるし、もう木のさじを求めてさまようこともありません(ってさまよったこともないけど)。今年のブルーベリーアイスクリームはぜひそれで食べようと、いまから楽しみにしています。

いよいよ夏がやってきますが、夏には夏ならではの楽しみがあるし、夏になると聴きたくなる曲もある。今年の夏は、どんな出来事があるでしょうか。

どうか気持ちの良い日々をお過ごしでいらっしゃいますよう。
それじゃ、また。

June. 13 2007








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