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Last Update 12.06

「怒る人々」をアップしました。

実際、怒りの感情は、抑制すべきものの筆頭にあげられるものでしょう。怒りをうまくコントロールできない人は、社会性に欠ける人、子供っぽい人と見なされるし、怒るべき状況で、怒る代わりに冷静に対処できる人は、立派な人と尊敬を集めます。

それでも、一方で、『坊ちゃん』の怒りは、わたしたちの胸をスカッとさせます。「ジュリア」での「わたし」の怒りもそうです。たとえ自分を危険にさらしても、自分が信じて進もうとする道をふさぐ人々に対しては、真っ向から立ち向かっていく彼らの怒りは、見ていて気持ちのいいものです。

けれど、怒っている人のせいで気分がふさいでしまうのも、カタルシスを感じるのも、同じ「怒り」です。それはひとえにその人が何を正しいものとしているかによるもの、そうしてわたしたちがどこで見ているかによるものなのでしょう。

赤ん坊は怒ります。顔をまっ赤にして、大人顔負けの泣き声をあげ、全身に力をみなぎらせて、小さな体すべてで怒りを表現します。楽しそうに笑う赤ん坊は、多くの場合、いったい何で笑っているのかよくわからないのですが、怒っているのはたいていわかります。眠い、おむつが汚れた、おなかがすいた……、自分の不快を全身で訴えるのです。

おそらく、怒りというのはそのくらい、わたしたちの基本的な感情なのでしょう。にもかかわらず、きちんと扱われてこなかったのではないか。これを書いたのは、そういう問題意識からでした。

書いているうちに、それまで気がつかなかったことにひとつ気がつきました。怒る人が依拠する「自分が正当である」という意識の少なからずが、「お金を払っているのは自分だ」という論理でした。「お金を払っているのに〜〜してくれない」「お金を払っているのだから〜〜してくれて当然だ」、あるいは、直接にその人が払っているわけではなくても、「お金をこれだけもらっているくせに」という見方をする。
お金を払っているというだけで、何を要求しても正当になってしまうのか。
それで対価を得ていれば、どんな要求でも飲まなければならないのか。
お金はそこまで万能なものなのでしょうか。

 人間の社会や文化の根底は、双務的等価交換ではなく、片務的な「絶対」と「無償」の交換を基盤に成立している。納税額の多寡にかかわらず市民が選挙権や被選挙権をもつこと、また困窮者に対して、社会が生活を支援する社会保障や社会福祉はその例である。それが登場した根拠は、社会的共同に生きようという人間の決意も無論だが、人間を人間として再生産している自然や文化が「絶対」と「無償」の原理の下にあるからだと考えられる。

たとえば、太陽、空気、水、大地等々自然は「無償」である。水道代や地代は支払っていても、それは、水を管理し、土地を私有する者に対しての費用であって、決して水や土地それ自体に対して対価を支払っているのではない。……自然に対して、人間は一円たりとも対価を支払うことなく、また自然も人間に対して請求書を送りつけてきたことはない。自然は等価交換の法則外にあって、けなげにも無償の恩寵を人間に対して一方的に送りつづけてくれているのである。

 文化についても同じことである。我々は言葉についても文体についても文字についても一円たりとも使用料を支払ってはいない。……このように文化もまた「絶対」と「無償」の論理で我々に片務的に多大の恩恵を与えている。恩恵どころかその上に辛うじて人間としての存在が保障されている。「使用量も払わずに使うな」と過去の人々から言葉の使用を差し止められたら、たちまち人間は生きられなくなる。つまり、「絶対」「無償」の自然と文化の恩恵下にある人間は、根底において、「絶対」と「無償」を原理に生きるべき義務を負っている。否、義務という用語は双務的であるから、自然や文化に倣って「絶対」と「無償」に生きる本性を有しているという方が正確だろう。……「絶対」と「無償」に生きることこそが人間にとって本質的な喜びであるにもかかわらず、生活のために「相対」と「有償」の等価交換の原理を信奉して生きざるをえない要領が過大であるために、現代人には、絶えず「絶対」と「無償」部分への満たされない思いが蓄積しているのではないだろうか。

(石川九楊『「書く」ということ』文春新書)

石川九楊の主張は非常によくわかるのですが、その主張とは逆に、等価交換の原理というのは、ますますわたしたちの生活を浸食しているのではないか。「金を払ってやっているのだから〜〜してくれるのはあたりまえだ」「高い給料をもらってるんだから〜〜すべきだ」……わたしたちの多くは駅員相手にそういうことを言ったりはしませんが、そういう発想をしてしまうことがないとはいえない。日常生活においても「自分はこれだけしてあげたんだから」と思ったり、「わたしばっかり損をしている」と不満になったり。あるいはまた、「自分がしてほしくないことを人にもしない」と考えたりすることも、この延長上にある発想なのではないか。

怒ることを抑制すべきではない、と思います。けれども、自分がいったい何について怒っているのか、その怒りの根拠を自分はどこに置いているのか、そのことはつねに問い続けていったほうがいい。

自分は100%正しいわけではない。だから怒ることができる。100%正しかったら、怒る必要もないのです。ただ指摘して、改めさせればよいだけです。怒るのは、自分が自分の立場を離れては考えられないからです。確実に、何割かは誤っているからです。だからこそ、怒ったらいい。だけど、誤っている部分があることを絶対に忘れちゃいけないんだと思います。

この等価交換の問題は、また別の形で、執念深く、ねばり強く考えていきたいと思っています。

12月に入って、ずいぶん寒くなってきました。朝夕、冷えてくると、日中の日差しの暖かさがことのほかうれしいものになってきます。寒いなか、冬の日差しを浴びながらする立ち話は、冬ならではの楽しみかもしれません。

今年はインフルエンザの流行が早いんだそうです。三年連続、予防接種をしたにもかかわらずインフルエンザに罹ったわたしは、今年はどうしようか悩ましいところです。予防接種を受けていると、軽い、と聞くのですが、今年はずいぶんつらかったからなあ。

どうかみなさま、お風邪などお召しになりませんよう。
お元気でお過ごしください。

Decmber.06 2007





Last Update 11.29

「嫌っても、嫌われても」をアップしました。ブログの方では「怒る人々」としていくつかの本をあげていったのですが、それを書き直しているうちに、怒る前の段階、それも突発的な怒りではなく、わたしたちの内に積もり、増殖していく人を嫌う、というか、とくに人に嫌われるということについて、考えてみたかったんです。そこで、かなり以前に書いたログに大幅に加筆して、ひとつの文章にまとめました。

ふつう、怒りとか、人を嫌う気持ちというのは、ネガティヴな感情であるとされています。近所の学校には「みんなともだち」という標語がべたべた張られ、横を通るたびに、なんともいえない気持ちになります。「みんな」を友だちとしなければならない、そこでは人を嫌うことも、嫌われることも許されない。そのプレッシャーを思うと、胸が塞がれるような気がするし、同時にまた今村仁司の「全員一致の現象は第三項排除の瞬間に現れる」(『排除の構造』)という文章を思い出したりもする。この「みんなともだち」という標語そのものが、スケープゴーティングを生んでいるのではないか、というような気さえします。

わたしたちは、実にささやかな理由で、人を好きになったり嫌いになったりします。好きが嫌いに、あるいは嫌いが好きに、さまざまな出来事や、あるいはわたしたち自身の変化によって、船に乗ったときのように評価はぐらぐらと揺れ動く。「好き」というのも一時的な気分なら「嫌い」というのも一時的な気分にすぎないはずなんです。こうした好き/嫌いであれば、ほとんど問題にもならないでしょう。

ところがある人に関しては、何らかの出来事や経験と結びつき、好き/嫌いという感情が固定し、そこから育っていく。育っていく向きは反対なんですが、状況や関係が変わらない限り、そうした感情は、どうやらわたしたちのなかで、徐々にふくれあがっていくように思えます。

自分がだれかを嫌いだ、という感覚は、確かに、好きだ、というポジティヴな感覚とちがって、わたしたち自身を損ないかねないところがある。だからこそ、よけいにうまく扱ってやる必要があるように思います。別にうまく嫌いになったからといって、何かいいことが起こるわけではない。けれども、自分も相手も損ねてしまうような嫌い方はしないですむのではないか。そのとき、まずなによりも考えておかなければならないのは、自分がだれかを嫌うのと同じように、だれかもまた自分のことを嫌うことを受け入れるということです。

わたしたちは、他人が自分のことをどう見ているのか、決して知ることはできない。しかも、自分が「こう見られたい」というイメージに向けてどれだけ努力したとしても、おそらく他人は、決してそうは見てくれない。

ミラン・クンデラの『不滅』という小説には、ある日、突然ラジオ出演をうち切られてしまうポールの話が出てきます。

彼のイメージにどういうことが起ったのか? なにかが起ったのだが、彼にはそのなにかが分からなかったし、さきざきも決して分からないだろう。なぜならば、これはまあそういうものなのであるし、法則というものは誰にでも適用されるのだから。なぜ、そしてどんな点でわれわれは他のひとびとを怒らせるのか、どんな点でわれわれはひとに好感をもたれるのか、どんな点でわれわれが彼らに滑稽に見えるのか、われわれは決して知ることはない。われわれ自身のイメージはわれわれ自身にとって最大の神秘である。

(ミラン・クンデラ『不滅』』菅野昭正訳 集英社)

この「イメージ」というのは、ほんとうにやっかいなものです。せめてこれをコントロールしようとして、昔から人は仮面をかぶり、化粧をし、あるいは顔に入れ墨をしてきたのかもしれません。

なんにせよ、嫌われる、ということは、きつい体験です。できれば回避したい。けれども、自分がだれかを嫌うのであれば、嫌われることも受け入れなければならないでしょう。むしろ、だれかを嫌うということは、嫌われることを引き受けることができる人だからこそ、やってもいいことなのではないか、というふうにわたしは思います。

他者の訪れによって、わたしたちは腹を立てたり、嫌ったり、憎んだり、あるいは、笑ったり、好きになったり、喜んだりしていきます。そういうことによってしか、わたしは「このわたし」と出会うことはできないのだと思います。そうであるならば、そのなかのある種の感情を「良くないものだから」という理由で、押し殺し、見えなくしてもいいとはわたしは思いません(そうしてたとえ自分からは見えなくしたところで、絶対にちがうかたちで戻ってくるに決まっています)。たとえそれが一般に「良くない」とされる感情であっても、というか、そうであるからこそ、よけいにうまく扱っていきたい。そのために、まず「嫌われる」ことはごく当たり前のことなのだ、と受け入れること。これがまあ、この文章の趣旨であるわけです。そうして、わたしたちはほかのあらゆる経験と同じように、そこから何かを学んでいけたらなあ、と思っています。

このなかで、わたしのこれまであまり開かしてこなかった暴力的な側面(笑)も披露しています。だれが良い−悪い、ではない観点から読んでいただければうれしく思います。少なくとも、わたしはこれまでこの出来事を非常に重く受け止めてきましたし、折に触れ考えながら、いまある自分の一部分を作ってきたのだと思います。いやあ、ゴハンを作るのもわたしなら、中学のときクラスメイトを殴り倒したのもわたし、ってこってす(笑)。

かの有名な「太陽の塔」、あの塔は、裏側にも顔があるというのはご存じですか?
高速道路から見える表の顔、太陽に顔を向けた赤く縁取られたは顔は雄々しいものですが、裏から見る顔は、青く、何となく陰気な顔に見えます。wikipediaを見ると過去をあらわす、と書いてあるんですが、過去ってそんな、無表情で貧血っぽいものなんだろうか、あの時代にとって、未来はそれだけポジティヴで肯定的なものだったんだろうか、って思ってしまいます。まあ、裏の顔は裏で、捨てがたいものはあるのですが。

さて、このほとんど続編のような「怒る人々」、それも近いうちにアップしたいと思っています。ほかにも書き直さなきゃいけない文章もいっぱいたまってるし、季節ものの翻訳もある。まあぼちぼちとやっていきます。

いま街路樹の紅葉がきれいです。イチョウやケヤキ、サクラ、それぞれに葉が色づき、歩道を埋めていきます。夕映えを背景に色づく葉を見上げるだけで、気持ちがさっと晴れていく。気分というものは、実にうつろいやすいものだ。それでも、うつろうものだから、きちんと扱ってやらなきゃいけないんだと思います。かといって、それを全面に押し出すっていうのも、またなんだか、なんですが。そこらへんのかねあいというのは、どこまでいってもむずかしいものですね。

なんだかほんとうに寒くなりました。寒いぶん、夜の月はさえざえと白く美しいものです。
どうか深まりゆく晩秋の日々を楽しんでいらっしゃいますよう。
お元気でお過ごしください。
ということで、それじゃ、また。

November.29 2007





Last Update 11.13

「晩ご飯、何食べた?」をアップしました。以前にも「食べる」ということについては、「いっしょにゴハン」、あるいは「ものを食べる話」としていろいろ書いてきたのですが、今回はもう少し広く、「食べる」ということから派生するさまざまなことがら、町の食堂や、食事を介しての人とのつきあい、食欲や、後始末まで、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら書いています。いまのわたしの頭のなかにある有象無象を、その日の晩ご飯に合わせて展開していった話なので、あまり「これを通して何が言いたかったのか」(笑)みたいなことは考えず、気軽におしゃべりにおつきあいください。ここから、読んでくださる方のさまざまな記憶や問題意識に結びついていくものがあれば、それに優る喜びはありません。

ブログの普及とともに「料理ブログ」というのがひとつのジャンルとして定着したようで、そこではさまざまな方が自分の作った料理を、写真付きで披露していらっしゃいます。料理をおいしそうに撮るのはむずかしいのですが(わたしも携帯を変えたのを機に、何枚か撮ってみましたが、ちっともおいしそうに見えないのでガッカリしました)、カメラアングルといい、食器といい、なかにはプロ顔負けのところもあって、おお、と感心してしまいます。

そういうブログをいくつか見るうち、わたしは上野千鶴子のこんな文章を思い出していました。

 インテリアで、女性は自分の暮らし方――ライフスタイルを自己表現している。ファッションももちろん自己表現の一つの手段である。ファッションの場合なら、私たちは「見られる」ことを意識して「私らしさ」を演出する。ファッションは、自分からは見えず、他人からは見られるものだ。ところが、インテリアは逆に、他人からは見られず、自分にだけ見える自己表現のメディアである。私だけの自己表現――ダンディズムはここに極まるだろう。だが、室内にいて、室内を内側から見ている私たちの「目」とは何だろう。それは、どこかインテリア雑誌のカメラアイに似ていないか。「私の目」は、実は匿名の他者の視線と同じものになっていないか。……

 現代人が「見られる」ことに耐えかねて、ついにのぞき屋にまでなり下がった、というのは現代文学にくりかえしあらわれるテーマだが、現代人はのぞき屋であるのと同じくらい、のぞかれたがり屋にもなっている。サルトルは「見られる不安」を言ったが、私たちは「見られる安心」の中で生きている。見られていないとかえって不安なのだ。「私って何?」――その答えは他の人々が教えてくれる。……

 わたしと同じようなだれかに見られている、あなたに似たわたし。匿名の他者の視線が内面化されると、私たちはどんな時も「私らしさ」を演じはじめるようになる。見て見て、これが私よ、と観客を求めずにはいられなくなる。

(上野千鶴子「「見せる私」から「見られる私」へ――インテリアの社会学」
『〈私〉探しゲーム 欲望私民社会論』筑摩書房)

この文章をわたしは初出時、朝日新聞の夕刊で読んでいるのですが、本の奥付によるとそれは1982年です。そのころはまだ、わたしの知る範囲には、そんなにしゃれたインテリアに囲まれて生活している人はおらず、どこか遠い世界の話として読みつつも、「見て見て、これが私よ、と観客を求めずにはいられなくなる」という部分がひどく心に残ったのを覚えています。

やがてそれが『〈私〉探しゲーム』として単行本になるころと前後して、この文章では「インテリア小物」と呼ばれているものが「雑貨」と呼ばれるようになりました。商店街の一角に、そうした小物を集めた小洒落た雑貨屋ができはじめ、まだ「雑貨屋」というのがどういうものかよくわからなかったわたしは、そんな店で、こういうのがほしかったんだ、と小ぶりのブリキのじょうろを買ったのでした。ところがそのブリキのじょうろ、溶接の部分がガタガタで、そこから水漏れがして、一向に用を足さない。店に交換を求めにいこうとして、ああ、これは実用ではなくインテリアだったんだ、と気がついたのも、その時期のことです。

そうして、これがちくま学芸文庫として文庫化された1992年には、インテリア雑誌さながらの部屋というのは、それほどめずらしいものではなくなっていました。わたし自身が実際にそんな家に招かれ、トールペイントやドライフラワーや布製のお人形があちこちぶらさがっている部屋の、ギンガムチェックのカバーにおおわれた小さなソファに、おっかなびっくり腰をおろしたものでした。「生活臭」を全力で消し去ったかのような家の、いったいどこで生活が営まれるのだろうと不思議に思ったのがそのころでした。

そうしてさらに十年あまりがすぎて、いまでは多くの人がブログという形で、これまでになかった規模で「自分の暮らし方」を公開するようになっています。もちろんそれは、何もかもさらけだすのではない。多くは匿名で、ここまでなら、と限定し、編集を加えたものです。けれども、上野の言う「私たちは「見られる安心」の中で生きている」というのは、まさに今日のわたしたちのありようを予言しているとも言えるでしょう。

ところがそういう公開された「自分の暮らし方」の一方で、岩村暢子『変わる家族変わる食卓』(勁草書房)のような本があります。
この本には、1998年から2002年までのあいだに六回にわたって行われた、延べ111世帯の一日三度の食事が記録されています。ここに描かれる「子どものいるごく一般的な家庭の食卓」がどれだけ怖ろしいか。その昔、アメリカの小説に、晩ご飯をマクドナルドですませる一家が出てきて、さすがアメリカだな、と思った記憶があるのですが、日本でも同じなのだ、ということを、わたしはこの本を読むまで気がつきませんでした。そう言われてみると、仕事帰りに一休みしようと寄った夕方六時のミスタードーナツにお母さんと子供連れがいて、お母さんはドーナツを子供に食べさせている。こんな時間にドーナツなんか食べたら、晩ご飯、食べられなくなるのにな、と思って見ていたのですが、あれが晩ご飯だったのかもしれません。

「生活」というものを、もういちど考えなくちゃいけないんじゃないか。「ライフスタイル」としての「生活」じゃありません。寝て食べて、排泄して汚して、洗い片づけつくろい捨てる生活です。ボーヴォワールが「社会には直接に有用ではない」「未来にむかって開かれていないし、何一つ生産しない」と呼んだそうした仕事を、男とか女とかとは関係なく、もういちど自分の手に取りもどしていかなくちゃならない。

ふだん抽象的なことばかり考えているせいでしょうか、わたしはこういう仕事の持つ「確かさ」が好きです。反面、わたしがやってることなんて、どこまでいってもままごと遊びの延長のような気がしてならないのですが、それでも「見せる生活」でもなく、放棄するのでもないとしたら、「遊びにする」というのはひとつの方法かな、とも思います(あと、禅宗のお坊さんみたいに「修行」と位置づける、というのもいい方法だと思うんですが、なかなかそこだけ真似るというわけにもいきません)。ともかく、この生活ということについては、また別の角度からも考えてみたいと思っています。

さて、このあいだ当サイトも三周年を迎えました。けろっと忘れていたのですが、33333人目のお客様である arareさんが教えてくださいました。どうもありがとうございます。

arareさんのキリ番ゲットを祝福して、この方々にお越しを願いました。

七福神
arareさん、これで開運まちがいなしっ!!

わたくしからのささやかな御礼、ご笑納ください。

「わたしはここにいます」と始めたこのサイトも、三年のあいだにとりあえずコンテンツだけは増えました。そのどれもが、さまざまなことを書きながら、考えながら、読みながら、わたしが歩いた足跡です。そこからきれいな花が咲くかどうかは知りませんが(元ネタがわかる人は、かなり歳の人です(笑))、なにかひとつでも、あーこの本が読みたくなった、とか、誰かのことを思いだした、とか、あのときああだったなー、とかと、心にひっかかるものがあればうれしいです(なんか上のほうで似たようなことを書いたな)。

読みにきてくださって、どうもありがとう。
そして、これからもよろしく。
また、お話、しましょう。

さて、昨日から急に冷えこんできました。今日は結露はなかったけれど、昨日の朝はこの秋初の結露でした。どうかみなさま、風邪などお召しになりませんよう。もしすでに引いてらっしゃる方は、どうかご無理をなさらぬよう。季節の変わり目って、ほんと、身体がびっくりしちゃいますものね。

どうか深まる秋を楽しんでいらっしゃいますよう。
ということで、それじゃ、また。

November.13 2007





Last Update 11.05

リング・ラードナーの短篇「金婚旅行」の翻訳をアップしました。

日常では、いわゆる「おしゃべり」なほうではない、話すことがなければ黙っていたいわたしですが、どういうわけか、電車やバス、病院の待合室などでは、よく高齢者の方から話しかけられます。相づちも積極的に打つようなこともしないのに、どういうわけか話は延々と続いていき、バスや電車ならどちらかが降りるときまで、病院の待合室なら、どちらかが呼ばれるまで、相手の話を聞いています。

ほとんど初対面の人ばかり。つぎ、また会うかどうかもわからない。そういう相手だからこそ、話しやすいということもあるのでしょう。昔のこと、その人がこれまでどうしてきたかということ、自分がやってきた仕事のこと、子供や孫の話、わたしとは関係のない、知っている人もいない話ではあっても、そういう話はたいてい、どこかしらおもしろいところがあるものです。以前、あるおじいさんから溶接と鋳掛けの話を聞いたときは、その先を聞けなかったことを残念に思うほど、興味深いものでした。

わたしがつまらないと思うのは、あの人がどうした、あの人がどう言った、ということばかりでできあがっているような、情報をあっちへやったり、こっちへやったりするだけの話です。話している人がそれについてどう考えているのかがまったくない(実は、その情報の取捨選択の段階で、あきらかに話し手の見方・感じ方は一定の規準があるのですが、多くの場合、話している人はそのことに気がついていないように思えます)、まるで電話交換手のように情報を取り次いでいるだけの話を聞いていると、ただただうっとうしい気分になって、密かに席を立つ算段をしたくなる。そんな話にくらべれば、その人の痕跡がある話は、それがたとえ知らない人であっても、おもしろいものだと思います。

ただ、話してくれる多くの人は、なんとなく聞き手に不自由している印象を受けます。やはり仕事も引退し、つきあう人も限られてくると、話を聞いてくれる人も減るのかもしれない。どうしても同じような話になれば、うっとうしがられることもあるでしょう。身近な人であれば、おもしろい、だけではすまないような話にもなってくるのかもしれない。病院の待合室などでは、おばあさんがふたり、自分の話したいことをそれぞれに、まったく無関係にし続けているのを見たこともありますが、それくらい、聞き手に飢えているのかもしれません。

ラードナーのこの短篇のおじいさんは、金婚旅行に出かけてから、いったい何度その話をしてきたのか。旅行は一月ですが、話しているのがいったい何月か、それを示す手がかりはありません。文中に出てくる「若い」婦人が四十八歳だったりするように、「この前の一月」が、半年前、十ヶ月前かも。細かい記憶を誇っているかのような詳細な数字も、この話をなんども繰りかえしたことをうかがわせます。それだけの聞き手を持つことができた、というのは、ある意味で幸せなおじいさんと言えるのかもしれません。

わたしは中学一年のとき、「悟りが開きたい」と真剣に考えたことがあります。学校で壁にもたれて話をしていたら、その壁にだれかがくっつけていたガムが、自分のスカートについてしまった。それを、ちょっといいな、と思っていた上級生に「お尻にガムがついてるよ」と教えられて、死ぬほど恥ずかしかったんです。こんなくだらないことで死ぬほど恥ずかしくなる自分がいやで、にもかかわらず、恥ずかしいという気持ちはどうしようもなく、「悟りが開きたい」と(笑)思ったわけです。いま考えてみれば、あまりのバカバカしさに笑ってしまいますが、かといって当時に較べて自分が安定したかというと、ちっともそんなことはない。相も変わらず些細なことで動揺し、見栄を張り、耐えがたいほどの恥ずかしさを覚え、憂鬱になったり、落ちこんだりします。

この「金婚旅行」を読んでいると、どうやら七十歳を超えても、「悟りを開いた」状態にはなれそうにはないらしい。そんな歳になっても、やっぱり負けると悔しくなって、勝った相手をへこまそうと、言ってはならないことをつい、言ってしまうのかもしれません。

もしかしたら、人間って賢くはならないのかもしれません。経験を積むことで、一定の予測は立てられるようになるかもしれない。経験の少ない状態では思いもつかない選択肢を、考えつけるようになるかもしれない。情況を整理することは巧みになるかもしれない。でも、もしかしたら、そこまでなのかもしれません。同じように失敗はいくつになってもついてまわるし、恥ずかしい思いもするのかも。

でも、だからこそ、いくつになっても、やった! と思えるのだろうし、よし! と思えるのだろうし、すごい! とも思えるのだろう。そうやって歳を重ねていくのは、悪いことではないように思います。

ラードナーは40代で亡くなっていますから、ここに出てくる「老い」は、どうしても外から見た「老い」でしかないのだと思います。でも、それをいうなら、ラードナーの作品は、すべてが外から見たものだ。そのぶん、深みがないとか、文句を言っていえないこともないかもしれない。けれど、外から見ている、という位置をしっかりわきまえながら、それでもできるだけよく見ようとしている視線をやはり感じます。それがラードナーという作家なんでしょう。

この「金婚旅行」や「散髪」のように、さまざまな人の語りをもとにした短篇を、ラードナーはいくつも書きました。アウグスト・ザンダーが20世紀の人びとの「時代の顔」を撮ろうとしたように、ラードナーもまた、第一次大戦から第二次大戦のあいだに生きたアメリカ人たちの「顔」を、ペンによって浮かびあがらせようとした。そういう脈絡で読むと、あの「散髪」も、ミステリのアンソロジーに収められたのとは別の脈絡で読むことができますね。

さて、いまは Rush の新しいアルバム " Snakes and Arrows" を毎日のように聴いてるんですが、これがまたなんともいえない、バランスのいい、みずみずしい音のアルバムなんです。ここには、この人たちが初めて音楽と会ったときの歓びが、はっきりと感じられる。40年近くバンドをやってきて、なおかつこんな音を出し続けられるなんて、と思う反面、だからこそ、続けていけるのだろうと思いもします。そこから歓びを汲みだしつづけることができるから、音楽にせよ、なんにせよやっていけるのだろうと。そうして、それは決して簡単なことではないのだろう。

最近、つくづく思うのは、続けていかなくちゃ、ってことです。以前は、ただ漫然と続けるだけでは……みたいなことを思っていましたが、続けていこうと思えば、材料だって燃料だって必要です。そのためには、勉強だって続けなければならないし、核になるものを作り続けていかなくちゃならない。そこに「漫然」の入りこむ余地はありません。なんか、ああ、まだまだだ、ってつくづく思っています。

今日は冷たい雨が夕方から降り出しました。この雨でまたぐっと秋も深まるのでしょうか。まだ六時前というのに、アスファルトのみずたまりに反射する車のヘッドライトがきらきらと明るく、雨粒が光の輪に模様を作っていました。街路樹のハナミズキの葉っぱも紅葉しています。

どうか、気持ちのいい秋の日々を過ごしていらっしゃいますよう。
ということで、それじゃまた。



November.05 2007





Last Update 10.20

アーウィン・ショーの短篇「夏服の娘たち」の翻訳をアップしました。

これを訳そうと思ったのは、季節感からでした。
長編小説が扱うタイムスパンは、多くの場合、長いものです。まれに一日ということもありますが、多くの場合は最低でも一年、多くは十数年、あるいは何世代にも及ぶこともあります。従って、長編小説はあまり季節とは関係がありません。もちろん『細雪』のように、移り変わる季節そのものが一種の主人公のような小説もあるのですが。

ところが短篇の多くが扱うのは、比較的短い時間です。したがって、それがいつなのか、季節はいつで、時間は何時頃で、ということは、作品のなかではきわめて重要な役割を果たします。たとえば「ミリアム」では、さまざまに姿を変えながら作品を通して作中に現れ続ける雪は、主要な登場人物ともいえるし、「A&P」は夏の木曜日(平日)の午前中でなくては、作品そのものが成立しないでしょう。あるいは「ローマ熱」では、真昼からゆっくりと暮れていく太陽が、登場人物に大きな影響を及ぼしています。

もちろん、季節とは無関係の短篇もたくさんあるのですが、その季節を外すと、なんだかピンぼけになってしまうようなものもある。そういう「季節もの」はわたしの頭の中に、まるで歳時記のように、いくつかありました。そうして、この「夏服の娘たち」は小春日和(英語でいう“インディアン・サマー”のほうがぴったりくるかもしれません)の小説でした。

よく晴れて、どんなに陽差しは強くても、この季節だけ、日の光には金色が混ざっているように思います。だからこそ、「夏服」を身に纏った若い女性の姿は盛夏よりも美しい。これはなんというか、理屈を超えて納得するものがあるように思います。

ところが訳してみて、以前はこれをまったく読めてなかったことに愕然としてしまいました。記憶にあったこの小説は、もはや若いとはいえないカップルが、男性は若さをまぶしいもののようにとらえ、女性はそれに嫉妬しながら、最後に男性は妻のなかにかつての若さを見出す、といったものだと思っていたんです。十代半ばだったわたしにとっては、三十代に入ったばかりであっても「若いとはいえない」年代と思えたのかもしれませんが、それにしても、ナントモハヤ、という読み間違いです。

もし、今度初めてこの短篇をご覧になる方は、ここから先は読まないで、短篇の方を先にお読みになってください。というのも、まだ読んだことのない人に筋道を作ってしまいたくないからなんです。

わたしはこの作品を今回訳しながら、否応なく思いだした作品があります。

「ねえ、ひとつだけききたいギモンが出てきたの。きいてもいい? 教えて」
 と言う。
「それはいいけど、ぼくがどう答えてもどうせおまえは満足できないよ。もつれてくるばかりだから、済んだことは忘れてもらいたいな」
 用心をしながら私はこたえる。

「ひとつだけ。それがわかったら、もうきかない」
「ひとつ疑問が解決してもまた次の疑問が出てくるんだがな」
「そう、そんならもうきかない。あなたはどうしてそう何でもかくそうとするのかしら。あたしがきらいだからでしょう。あいつには何でも打ちあけていたくせに。もういいわ、何にもきかないから」
「わかった。わかった。それじゃ、きいてもいいよ」

「あなた写真を何枚とってやったの」
「いきなり、そう言われても、何枚と正確には言えそうもない。でも一応みんなおまえに渡したはずだがな。それをおまえがどう処分したかそれは知らない」
「それじゃないもっとほかのものよ。まだ、あるんでしょ」
「あれで全部だと思うんだけど……」
「もっとあるはずよ。思い出しなさいよ。ゆっくりかかっていいのよ。でも一枚のこらず思い出してね」
「……」
 私は何度目かの厄介な試みの中におちこんでいることに気づく。

(島尾敏雄『死の棘』新潮文庫)

トシオの不貞行為が発覚して、ミホは夫を追求していきます。過去の行動のことごとくを、あますところなく告白させようとする。つまりそうやって、夫の行動を、さらには自分のうかがい知ることのできない他者の「心」を、完全に理解しようとするのです。

自分だけを見てほしい、かつて自分を見たような目で、ほかの女を見ないでほしい、つまりはほかの女に心を移さないでほしい。フランシスが意識しているのは、おそらくここまででしょう。けれども、どうしてそういうことをするのか、と問いつめる彼女が求めているのは、結局はミホと同じ、他者の「心」を一点の曇りもなく理解することではなかったか、と思います。

夫婦だから。
社会生活の中で最小のユニットとして、一人称複数形で語られる存在だから。
おそらく、その一点に依拠して、ミホにしても、フランシスにしても、相手を問いただしていきます。相手を理解しようとして。自分と同じように、相手の内面も把握しようとして。
けれど、相手にそのことを求めていって、結局何が得られるのだろう。おそらくは、聞いていけばいくほど、いっそう理解不能になっていく他者の姿ではないのか。いよいよわからなくなり、ひいては不気味になっていく他者の姿を前に、問いただそうとした側は、なすすべなく立ちつくすほかないのではないか。

『死の棘』は、そうしたミホにとことん向かいあっていくトシオの物語です。けれどもマイケルはそんなことはしない。彼はさっさと離れていきます。
マイケルとフランシスは、いったいどの時点から決定的な一歩を踏み出してしまったのだろう。おそらくは、物語の冒頭、初めてフランシスが口を開いたときから。そう考えると、あらためて対話の恐ろしさというものを感じずにはおれません。

 大切なことは、我々が「事実」と思っていることが、しばしば他者からすれば事実ではなかったりするという点だ。この不安があるからこそ、我々は確認作業を行おうとする。そして、この確認作業こそがコミュニケーションの動機であった。予測をたて、一つの事実に賭け、行動で確かめる。はずれた場合、意味は伝達されずに、コミュニケーションは失敗に終わるかもしれない。しかし、とにかく賭けを行ってみること。明確に、一つの事実に向けて、コミュニケーションを行ってみること。もちろん、正確に自らの意図を伝達することがコミュニケーションの最大の目的なのかもしれないが、本当に正確に伝達が行われているかどうか、よくわからない。そして、わからないからこそ、コミュニケーションという行動に意味があるのだ。

 正確な伝達をめざすコミュニケーションは、逆説めくが、結果的に正確な伝達に失敗するだろう。正確なコミュニケーションではなく、誠実な賭けを行うこと。それがコミュニケーションを進める原動力だ。…「公然」を要求するコミュニケーションは、すべて、勇気をもった賭けを要求するコミュニケーションだ。当たる場合もあればはずれる場合もある。それがコミュニケーションなのだ。

(金沢創『他人の心を知るということ』角川書店)

講談社文庫版『夏服を着た女たち』の裏表紙には、こう書いてあります。

日曜日の朝、柔らかな陽に包まれたニューヨーク五番街を散歩する夫婦。久し振りに二人だけの時間をすごそうと妻はあれこれと計画するが、街を行く若い女性に対する夫の目が気になって……(表題作)。軽妙な夫婦の会話を軸に、男と女の機微を描くしゃれた都会小説のエッセンス十篇を収録

(アーウィン・ショー『夏服を着た女たち』講談社文庫)

軽妙、なのかもしれません。確かに五番街は明るいし、おしゃれな通りなのかもしれない。けれども、どんなに舞台が明るくても、向き合う他者はあくまでも他者で、コミュニケーションをしていこうと思えば、自分が語る何ものかを、相手がどう評価するかわからないまま、ただ相手の前に投げ出していくしかないのです。そうして、その結果、何を引き出すか。いったいどこに出るのか。あらかじめ予想などできない。それでも投げ出していくしかないのがコミュニケーションなのだと。
そういった意味で、表面の明るさや軽さの下には、やはりとてつもなく重いものがあるように思えてなりません。

どうもこのところ、サーバーといい、ショーといい、もうちょっと単純に読んだ方がいいのか、という気もしないではないんです。それでも、どうしてもわたしの問題意識から読んでしまうのは仕方のないことでもあります。自分はこんなふうに読んだよ、というのがあれば、どうかまたお聞かせください。

日中は陽差しも強かったけれど、夏服で歩けるような陽気ではありませんでした。夕方帰ってくるときには風も冷たく、すっかり秋の気配でした。もう十月も下旬です。気がつけば、新しいカレンダーが書店に並ぶ季節になりました。ぼけぼけーっとしてたらあっというまに過ぎていく日々ですが、かたつむりのようにじわじわといろんなことをやっていきたいと思っています。そろそろおでんもおいしい季節になってきましたよね。

雨がふるたび、ページをめくるみたいに季節が変わっていきます。
どうか体調など崩されることがありませんよう。
さわやかな秋の日々をお過ごしください。

ということで、それじゃ、また。



October.20 2007





Last Update 10.13

「横光利一と生のようなレトリック」アップしました。

横光利一の名前を知ったのは、母からだったように思います。母の持っていた本で『春は馬車に乗って』などの一連の「病妻もの」をいくつか読んだような気がするのですが、それでどう思ったかの記憶はまったくありません。記憶にあるのは、中学に入学して、図書館で最初に借りたのが、薄緑で分厚い表紙の旺文社文庫の『旅愁』でした。長いし、登場人物たちがパリだの日本だのとぐちゃぐちゃ話をするばかりでちっとも先へ進まないし、パリと日本の比較自体がひどく古くさいように思え、三分の一もいかないうちにいやになって、先を読むこともありませんでした。

『機械』を読んだのは、それからずっとあと、大人と呼べる年齢になってからです。何か、引っかかった。それがどういう引っかかりかわからないまま、意識の内に留めておきました。そうして、やっとその引っかかりを言葉に繋ぎとめることができたように思います。

加藤周一は『日本文学史序説』のなかで、横光利一のことをこう書いています。ちょっと長いですが、横光の部分をそのまま引用します。

一部の作家たちは、マルクス主義文学運動に対抗して、戦後(※これは第一次世界大戦のこと)ヨーロッパの文学に技法上の刺激をもとめた(いわゆる「新感覚派」)。その中心にいたのが横光利一(一八九八〜一九四七)である。

横光は、叙情的な要素を排し、硬い抽象的な言葉を用いて、時代の風俗を反映する長編小説を書こうとした。また科学技術に興味をもち、しばしば科学者を小説の主人公としたという点でも、小説の革新をめざしていたにちがいない。彼は短いヨーロッパ旅行(一九三六)の後、東西文明を比較する哲学的な――と彼自身の信じた小説を書いて(『旅愁』一九三九〜四〇)多くの読者をひきつけた。大衆小説作家を除けば、三○年代にいちばん広く読まれた小説家は、横光であったかもしれない。

また彼はおそらく翻訳の西洋文学と同時代の(または近代の)日本文学のみによって養われた最初の小説家であったという意味でも、一時代を象徴していた。その意図――非叙情的な文章、長編の構成、科学的な題材、文明論的展望――は独創的であり、意図を実現するための手段は、横光には全く欠けていた。彼は日本語の語感において中野重治や……石川淳にはるかに及ばず、科学的なものの考え方には慣れず、東西文明のいずれについても、その知識は芥川のそれとくらべものにならなかったからである。丸善が芥川を作ったとすれば、翻訳小説の時代が横光とその読者を作った。

(加藤周一『日本文学史序説(下)』ちくま学芸文庫)

とまあ、メチャクチャです(笑)。
ここで書いてあることは、おそらくはその通りだと思うんです。「石のように黙殺した」というレトリックひとつ取っても、確かに横光の語感は、あえて言ってしまえば、平凡だと思う。志の高さが作品として結実していない印象はどうしても受けてしまう。けれども、その感覚の平凡さが、後年の「鍋炭のかなしさ」という隠喩を生んだとも思うのです。

「鍋炭のかなしさ」という隠喩も、洗練された語感の産物とは思いません。けれどもこれはレトリックのためのレトリックではなく(たとえば荒井由実の“ソーダ水のグラスの中をいく貨物船”というレトリックは美しい情景を見せてくれますが、別にどんな世界観も生みません)、この隠喩によって、鶴岡の農村の参右衛門という人物がわたしの「袋」に入ってきた。逆に「平凡」という言葉の、決して悪い意味ではない、むしろ「中庸」とか、あるいは「日常」とかの、肯定的な意味を、わたしはこのレトリックから感じます。

「語感」と一般的に言われるのは、おそらくその人が「ある出来事」に関して「どういう選ぶ言葉を選ぶか」ということだと思います。それを読むわたしたちは、ある人に関しては「洗練された言葉遣いだなあ」と思い、また別の人に関しては「ありきたりだなあ」と感じる。
つまり、「出来事」と「言葉」の結びつきが、わたしたちが従来から感じているそれと同じであるときはなんとも感じず、すこし古い方にずれていれば、「ありきたり」「古い」と感じ、先のほう、未知のほうにずれていながら、わたしたちに納得でき、受け入れることができるもの、「新しい見方」として自分のうちに取りこむことができるものであれば、「ああ、そういうことだったのか」という、発見の歓びが生まれる。取りこむことができなければ、「何を言ってるんだろう」と拒絶する、そういうものなのではないか。
わたしたちの見方を、少しずつ先へ引っぱっていってくれるような言葉を、いくつもの出来事に関して使うことができる人を、おそらくわたしたちは「語感のいい人」「洗練された語感を持つ人」と感じるのだと思います。

そういうふうに考えていくと、たとえ「日本語の語感において中野重治や……石川淳にはるかに及ば」なかったとしても、横光は、農村に暮らし、いわゆる「偉大」なこともせず、多くの人に利益をもたらすようなこともせず、逆に身代を潰し、それでも日々を自分なりに生きていく人をわたしに教えてくれた。たとえそれがすぐれた語感の産物でなかったとしても、やはりわたしにはずっしりとくる隠喩だと思います。

「感覚」という言葉をつかうと、なんだかそれは生まれつきのような印象を受けます。けれども「どういう言葉を選ぶか」は、その人の内部にストックされたボキャブラリの内からにほかならない。そう考えると、その人が何を読み、何を言葉として蓄えてきたかによるのでしょう。「その知識は芥川のそれとくらべものにならなかった」と加藤がいうのを、わたしはどうしても横光は芥川ほど勉強していなかった、と読んでしまいます。同時に、菊池寛も芥川の弔文で書いていましたが、並ぶ者がなかったほどの読書家・勉強家であった芥川と比較するのは、ちょっと気の毒かなあ、とも思います。

その昔、マンガを何冊もからなる単行本で読んでいると、最初と最後のほうでは絵柄がまるで変わっているのに気がついて、ずいぶんおもしろく感じた記憶があります。登場人物の顔の描線そのものがまるで変わっているのを較べて見ながら、それでも一方ではどれだけ変わったとしても、まちがいようのない「その人のタッチ」はあるのでした。

文章は「その人のタッチ」を残しながらも、時代が移り、ものの見方が変わり、その人のストックされた言葉が変わり、その人の見方が変わるにつれて変わっていきます。
それを読むわたしたちの側も、時代の影響を受けながら、同時に自分の経験に応じて、ストックされた言葉に応じて変わっていきます。
ともに変わらない部分を残しながら、変わっていくもの同士の、その瞬間だけのめぐりあい、というものが、いつだって読書という経験にはあるのだろうと思います。

冒頭で引いた「自分というものは一つもなく、人の心ばかりを持ち溜めて歩いている一個の袋かもしれない」というのは、まもなく疎開先から引き上げようとする「私」が、東京に持ち帰りたいものは村の人の心だけだ、と考えるところから続いた文章です。「自分」を「一個の袋」にたとえるのも、これまたありふれた隠喩かもしれない。それでも、やはりそうだなあ、まあ、わたしは「心」ではなく、「言葉」と言っちゃいますが(笑)、そういうものだなあ、と、このレトリックにふれて、しみじみとそう思います。

もしこの『夜の靴』の副題にとられている指月禅師とこの詩について、ごぞんじの方がいらっしゃいましたら、どうか教えてください。もしかしたら、見当違いの解釈をしているかもしれませんので。

もう十月も半ばだから、当たり前といえば当たり前なのですが、このところめっきり涼しくなってきました。空気の中に、キンモクセイの匂いが混じっているような季節です。
小さくてあまり見栄えのしないオレンジの花は目立たなくても、あちこちに植えられているらしく、自転車で走っていると、ふっと匂いにつかまえられる。この匂いが、秋の空気と高い空の記憶をつれてくるみたいです。

どうか気持ちのいい季節をお過ごしでいらっしゃいますよう。
それじゃ、また。

October.13 2007 (Oct.15 加筆)





Last Update 10.05

ジェイムズ・サーバーの童話「たくさんのお月様」をアップしました。
ブログ掲載時の「謁見の間」などの言葉はあらためましたが、全体に子供が読むにはちょっとむずかしいかもしれません。ただ、わたしは昔から「お子さまランチ」のような文体が好きではなかったし、英米の児童文学というのは、子供向けといっても、抽象度の高い、硬い単語もごろごろ出てくる。そういうのをあまり噛み砕かない方が原文を損なわないかなあ、なんて思います。この話に出てくる王女のように、子供というのは結構自分で納得のいく説明を考えだすものですから。

ところで、この作品を読んでわたしが一番気になったのは、道化師はなぜ悲しそうな顔をしたのか、ということでした。どうして道化師の目には涙がいっぱいたまったのだろう、と。

悲しそうな顔をするのは、王様と道化師だけです。そうして、他の登場人物たちは、すべて王女に与えるべきなにものかを持っている。
王様は自分では何もできなくても、人に命じて何かをさせる権力を持っている。侍従長はさまざまなことを手配できる行政手腕を持っている。魔法使いは技術力を、数学者は知識を。ところが道化師だけは何も持っていない。

何も持っていない道化師だからこそ、何の力も、知識もない、と大人たちが思っていた、小さな子供に「どうしたらいいか」を聞くことができました。そこで何も持っていない道化師が工夫することで、王女がほしがっていたものを与えることができたのです。

ところがこの贈り物は、事態を解決することにはならず、また新たな問題を引き起こしてしまう。そうして、他の登場人物は、それぞれの持てる力に応じて、事態の収拾を図ろうとします。ところがここでも道化師は何も持っていない。

人間というのは、ほんとうは誰でも人に何かをしてあげたいのかもしれません。何かをしてあげたいのに、何もできないから、道化師は悲しかったのだろうと思うのです。そうして道化師は、何も持たないまま、王女の下へ行きます。そして、今度は贈るのではなく、王女から贈られる。王女の物語という贈り物を。

人のために何かをしてあげたい、という気持ちの根底にあるのは、やはり人とつながりたい、関係を持ちたいという願いではないでしょうか。小さな子供は、ほしい、という。ほしい、ちょうだい、ということは、そのものがほしい、というより、関係を持ちたい、ということと同義だろうと思うのです。けれども大きくなるに従って、自尊心などといった厄介な感情が生まれてくる。そうなると、子供のように単純に求めるということがむずかしくなってきます。その点、何かをしてあげることは、わたしたちの自尊心も満たされるし、つながりがもてる。わたしたちにとって、具合のいい状況です。

ところがそういう自分にとって具合のいい状況で、ほんとうにつながることができるのでしょうか。侍従長や魔法使いや数学者を見ていると、どうもそうではないように思えます。自分が持っているものの一部を分け与えたところで、それはひどく浅いやりとりにしかなっていない。

おそらく、ここには「贈与」ということの本質に関わることがあるように思うのです。わたし自身、未だよくわかっていないのですが、ほんとうに何かを与えることができる者は、おそらく、何も持っていない者であろうという気がします。何も持っていない者が、何も持っていないことに気がつき、悲しんで、初めて、逆に、自分が何かを与えられていることに気がつくことができるのだろう。そうして、何も持たない者が、それでも何かを与えようとすることは、同時に何ものかを与えられることなのだろう。

求めるというのは、同時に与えることでもある。そうして、わたしたちはそういう形でしか人とつながっていけないのだろう、と思うのです。

もちろん、これはわたしのかなり偏った(笑)読み方であって、こんなふうに小難しいことを考える必要はないのかもしれません。寓話がおもしろいのは、そこからいろんな寓意を取りだすことができるところにあるのだと。だから、お読みくださった方が、それぞれに、これは何を言っているのだろう、と思ってくださったら、と思います。

あの暑かった九月も終わり、やっと少し涼しくなってきました。まだ日中は結構暑いし、日差しも強い。それでも少しずつ、秋の気配が濃くなってきたみたいです。
秋といえば、やはりチョコレート系のアイスクリームでしょうか。ハーゲンダッツのショコラ・クラシックもおいしいんですが、サーティ・ワンのロッキー・ロードも捨てがたい。ちょっと苦めのチョコレートアイスクリームに、マシュマロとアーモンドが入っていて、もうおいしくてたまりません。真のアイスクリーム愛好家としては、こういうごちゃごちゃいろんなものが入っているのは邪道とも思うのですが、やはり、おいしいものはおいしい。小難しい本を読んで、頭が疲れたあとなんかに食べると、ほんとうに、ああ、生きていて良かった、と思います。

ブログに書きっぱなしになっているのも、少しずつ書き直していきます。まあ、ぼちぼちやっていくので、気長におつきあいください。

暑かった夏の疲れが出やすい時期でもあります。どうかお元気でいらっしゃいますよう。

それじゃ、また。

October.05 2007





Last Update 9.20

ロアルド・ダールの短篇「天国へ上る道」アップしました。
翻訳の文章がダールらしい「あっ」と驚く結末と原文のタイトな味わいを損なっていなければいいんですが。

こんな経験をしたことがあります。
小学生のころのわたしは、クラスのなかで自分ひとりだけ大人だ、ぐらいに思っている生意気な子でしたから、その年頃の女の子がよるとさわると、「あの子キライ」だの、逆に「わたしたち親友よね」みたいに言い合っているのを、ちょっと離れたところで見ていたんです。それが、どういうわけか、べたべたと寄ってくる子がいた。いや、その「べたべた」というのは、あくまで当時のわたしの見方であって、もしかしたら彼女の側はひとりぼっちのわたしを、かわいそうに思って、仲間に入れようとしてくれていたのかもしれません。ともかく、当時のわたしはそれを「べたべた」と感じ、休憩時間のたびに近くに来て、トイレにまでついてくるその子を、うっとうしいなあ、と思いつつも、積極的に拒むこともせず、話しかけられるままに話をしたり、途中まで一緒に帰ったりしていました。

ところが彼女と話をしていると、だんだん自分が意地悪になっていくんです。細かいことは覚えていないのですが、ああ、ひどいことを言っているな、彼女に意地悪をしているな、と自分でもわかるんですが、そうして、家に帰ってひとりになるとそれを反省するんですが、彼女を目の前にすると、どうしようもなくそういう態度を取ってしまう。
たぶん、宿題か何かを見せてあげたお礼に、彼女の方が何かをしてくれようとしたのだと思うんですが、それを必要以上にきつい調子で、そんなことしなくていい、みたいに言って泣かしたことがあった。それがもとで先生に事情聴取されたんですが、もしかしたら、かなりひどいことを言ったのかもしれません。

それがきっかけだったかどうかは定かではないのだけれど、彼女の側が、新しい誰かを見つけて、わたしから離れていったんだと思います。わたし自身はもうその子にまとわりつかれることもなくなって、それ以上、自分のなかの加虐的な部分が引き出されずにすんで(というのは、大人のわたしが振り返ってそう思うわけなんですが)、ほんとうにホッとしたことを覚えています。

この経験は、もう少し大きくなって、具体的なあれやこれやが曖昧になったころになって、かえって頻繁に振り返るようになりました。つまり、それは、自分とはなんだろう、と、考えるようになった時期に当たるのだと思うのです。この経験を振り返るたび、もしかしたら自分のなかには何か、ものすごくいやな面があるんじゃないだろうか、と思えてきた。そういうふうに考えてみると、ほかにいくつも自分のいやな部分に思い当たる(笑)。自分というのは、表面はとりつくろっているけれど、内部に一種の怪物を育てているのかもしれない。どうしたらいいのだろう、と、けっこう真剣に悩んだかもしれません。

やがて、自分が相手によって、万華鏡のようにちがう面を見せていることに気がつくようになります。自分で意識してそうしているわけではない。どうしようもなく、相手との関係で引き出されるようにして「わたし」が生まれていく。ある人に対しては、非常に好ましい「わたし」が引き出され、別の人に対しては、これまで知らなかったような「わたし」が引き出され、もちろんそんな自覚もまったく生まれないようなつきあいもあれば、自分の不器用な面だけが引き出されるような関係もある。

つまり、性格のようなものがあらかじめあるわけではない、一緒にいる相手が、わたしのなかから「なにものか」を引き出すんです。そうして、その「なにものか」として、わたしは話し、振る舞う。その「なにものか」は「わたし」でありながら、「わたし」ではない。

コミュニケーションというのは、そういうものではないのか、と思うのです。相手が自分からなにものかを引き出し、自分が相手からなにものかを引き出し、その引き出されたもの同士が向かいあう。そうして、その「なにものか」は、出会うごとにリセットされるわけではなく、どうやらそれはかなり早い段階である程度固定されてしまうものらしい。確かに、そうでなかったら、毎回毎回、わたしたちは自己紹介から始めていかなくてはなりません。

おそらくこのフォスター夫妻も、お互いの存在が相手を苦しめ、同時に自分も苦しむような(おそらくフォスター氏も、喜んで夫人をなぶってはいなかったように思います)関係が固着されたまま、お互いどうしようもなかったのだろう。だから、この関係の外に出ることができたとき、フォスター夫人の別の面が引き出されたのだろうと思います。
どうしようもなく苦しめあうしかないような関係なら、そこから離れるしかないのかもしれない。けれども逆に、それまでそんなことは考えてもいなかったのに、ああ、わたしはこうなりたかったんだ、と思えるような「なにものか」を引き出してくれる相手もいる。そういう関係は、何があっても大切にしなくちゃならないのだと思います。

「性格」という固定されたものがあるわけではない。あるいは、わたしが「自分」と呼んでいるそれは、固定されたものではない。

自己の身体が世界のなかにある在り方は、ちょうど心臓が生体のなかにある在り方と同様である。すなわち、身体は目に見える光景をたえまなく生かしつづけており、それを生気づけ、それに内部から栄養をあたえ、それと一体になってひとつの系を形づくっている。

(M.メルロー=ポンティ『知覚の現象学2』(竹内芳郎他訳 みすず書房)

ほんと、そうだなあ、そのとおりだなあ、って思います。
世界がわたしを生気づけ、わたしが世界を生気づけている、なんて、考えるだけでわくわくしてくるじゃありませんか。

何かえらく大げさなことを書いてしまったかもしれません。初めて読まれた方が、「おおっ」と思ってくだされば、もう十分でございます。これに関しては既訳はいくつか気にくわない箇所があったので(作家としての開高健は、好きなんですけどね)。

朝夕はいくぶんましにはなりましたが、日中は暑い日が続きます。
それでも、日没はずいぶん早くなり、日の出は遅くなりました。今朝は東の空にはっきりとあかるい明けの明星を見ることができました。
季節は毎日変わっていってるんですね。

サイトもまたぼちぼち整えていきますので、また遊びにいらしてください。
どうかお元気でいらっしゃいますよう。

それじゃ、また。

September.20 2007





Last Update 9.11

「文豪に聞いてみよう」第三弾として「二葉亭四迷と新しいことば」をアップしました。

二葉亭四迷はわたしにとって大変重要な作家で、重要な作家ということはわかるんですが、どこがどう重要なのかわからない。おそらく好きな人というのが、どれだけ考えてもどこがどう好きなのかわからないように、重要な人もそういうものなのかもしれません。以前にも一度、書こうとして書ききれずに頓挫したことがあったんですが、今回もブログに書いたときからここに来るまでに、それはそれは苦労しました。

前半は英語学習について、かなりの分量を割いてふれています。かならずしもこの文脈でこういうことを書くことが適切だとも思えないのですが、わたしが「言葉」という問題にぶつかったのは、まず「英語」を通してだったので、いまのところ、こういうかたちでしか書くことができませんでした。効果的な英語学習法について書きたかったわけではなく、あくまでも「言葉」とわたしたちの思考の問題として書いているので、どうかそういうものとしてお読みください。現行の英語教授法について、何らかの提言ができるほど、わたし自身、英語が使えるわけではなく、考えがあるわけでもありません。

ときどき、日本語はむずかしい、ということを耳にすることがあります。ある言語がほかの言語にくらべてむずかしい、と判断するためには、あらゆる言葉を等距離で理解し、それを判断することができる超越的マルチリンガリストがいなくてはなりませんが、現実的にはそんな存在がいるはずがない。

わたし自身は「日本語はむずかしい。もう敬語表現なんかクソ食らえ」という意見も、「日本語は簡単だよ。とくに発音にイレギュラーな要素がないから、むずかしくない」という意見も聞いたことがあります。むずかしいと感じるかどうかは、その人がその言葉のどこを指していっているのか、とか、その人の学習の進捗度合いとか、その人がどこで、誰に教わったか、とか、あるいはその人自身の見方、感じ方の一般的な傾向など、実に多くの要素があるでしょう。

ただ、この「日本語はむずかしい」論が日本人によって語られるとき、しばしば「日本語特殊論」ひいては「日本人特殊論」に結びついていってしまうような気がするのです。
たとえばこんなふうに。

私たち日本人は、絶えず自分の本当の気持ち、意のあるところをだれが適当な他人に分かってもらうことを求めているらしい。他の人に賛成してもらいたい、同意してほしい、共感を味わいたいという願望は、私たちの他人との関係の中で手を替え品を替えて各種の行動に現れてくる。何もかもぶちまけてしまいたい、すっかりしゃべって胸がせいせいするというような態度、日本の犯罪者自白率が高いという事実、外交の舞台でしばしば問題になる日本人の機密や秘密を保持することを難しさ、それらはすべて、重大な問題を一人心にしまって、それの重みにじっと耐えていくという固く閉ざさえた自我のしくみが、私たち日本人には極めて弱いためなのではないかと思われる。 

(鈴木孝夫『ことばと文化』岩波新書)

わたし自身、文章のなかで繰りかえし、言葉が人を作る、と書いていますし、それは自分自身の実感としてもあります。ただ、それをこんなふうに言われると、ちょっとまてよ、と思う。ここに出てくる「日本人」っていったい誰のこと?

変な言い方ですが、「自分の本当の気持ち、意のあるところをだれが適当な他人に分かってもらうことを求めてい」ないような「民族」なり「国民」なりがどこかにいるんでしょうか。認めてもらいたいからこそ、飛行機でビルに突っこんだり、確証もないのにイラクに戦争をしかけたりしているのではないか。「日本の犯罪者自白率が高いという事実」がもし事実なら、それは日本の司法制度や刑法、そしてその運営のされかたに、まず根拠を求めるべきではないのか、と思うのです。

本文中に、繰りかえし書いているのですが、わたしたちはすでに存在している言葉や概念を使うことによってしか、思考することはできません。だとすれば、すでに存在している言葉や概念によって描き出された「わたし」は、決して「ほんとうの自分」などではない。同じように、どこかにほんとうの「日本人像」があるわけではない。

わたしたちにできることは、言葉を使って、何かをすることだけなのです。言葉によって、何かを定義づけたりするのも、あくまでも「正しいなにものかの像」を見つけるためではなく、ありきたりの言葉を組み合わせて、いままである考え方を少しだけずらすためなのではないでしょうか。

上にあげたような文章を目にするたびに、わたしは一緒にこんな言葉を思いだします。

「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」
「なるほどこりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
「東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

わたしたちが明治時代の人から教えてもらうことは、まだまだたくさんありそうです。

書き上げるまでにものすごく苦労したわりには、たいしたことは言っていないような気もする。それでもわたしの書いた「言葉たち」があなたとわたしを結ぶものであればいい。そうして、あなたと、またほかの誰かを結ぶ助けに少しでもなれば、これほどうれしいことはありません。

気がつけば、九月も初旬を終わっていました。セミの声はいつのまにかしなくなり、日が落ちると虫の声が聞こえる季節になっています。日中はまだまだ暑いですが、日が落ちると吹く風は秋のものになっています。

どうかお元気でいらっしゃいますよう。
それじゃ、また。

September.11 2007








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