ここではGeorge Orwellのエッセイ " Why I Write "を訳しています。
このエッセイは1946年、オーウェル四十三歳のときのものです。
この前年、強烈なソヴィエト批判のために、出版が困難を極めた『動物農場』が、イギリスとアメリカで出版されるやいなや大評判となり、一躍オーウェルの文名は高まります。
一方、世界は第二次世界大戦の終結ののち、アメリカ・イギリス対ソヴィエト、東欧諸国の対立が先鋭化していき、オーウェルは『動物農場』後の世界を舞台とした物語の構想を練り始めます。そうして、いよいよ『一九八四年』の執筆を開始したちょうどその時期に書かれたエッセイがこの作品です。
オーウェルというと、前に訳した「象を撃つ」や、先にも挙げたふたつの長編が非常に有名で、政治的な作家と思われがちですが、このエッセイにはそうではない彼の一面が語られています。ここからオーウェルに関心を抱かれた方は、ぜひ『ビルマの日々』(大石健太郎訳 彩流社)を読んでみてください。
原文はhttp://www.orwell.ru/library/essays/wiw/english/e_wiwで読むことができます。
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なぜわたしは書くのか
by ジョージ・オーウェル
わたしの場合、ごく幼いうちに、おそらく五歳か六歳のころには、自分が大人になったら作家になることがわかっていた。十七歳から二十四歳にかけては、どうにかしてこの予感に逆らおうとしたものだが、そうしながらも、いまはただ自分が持って生まれた性質に背こうとしているだけで、遅かれ早かれ自分は本を書くことになる、という思いが揺らぐことはなかった。
わたしは三人きょうだいの真ん中ではあったが、上とも下とも五つずつ歳が離れており、しかも八歳になるまで、父親の顔を見ることもまれだった。そのせいもあって、わたしには孤独癖のようなものが身についてしまい、長ずるにつれ、かたくなさまでもが加わったため、学校時代を通じて人気者となったためしがなかった。
孤独な子供がよくやるように、お話をこしらえては想像上の人物と会話していたのだが、つまるところ、わたしの文学的野心の萌芽は、孤立感と人から軽んじられてきた経験が、ないまぜになったものだったのだろう。自分にとって言葉をあやつるのはたやすいことであり、不快な現実からも目を背けないでいられる度胸が備わっていることも知っていた。だからこそ、日常生活でうまくいかなくても、そこから一歩退いて、自分だけの世界を作り上げればいいと思っていたのである。
そうはいうものの、ちゃんとした――というか、自分ではちゃんとしたものだと思っていた――書き物は、子供時代から少年期を通じても、全部合わせて五〜六ページにも満たなかったにちがいない。初めて詩を書いたのは四歳か五歳のときで、母がわたしが語るのを書きとめてくれたのである。覚えているのはただ、虎についての詩だったことと、その虎には「イスみたいな歯」が生えている、という一節があったことだけだ――なかなかいいフレーズではあるが、おそらくブレイクの「虎よ、虎」の着想をそっくりいただいたにちがいない。
十一歳のとき第一次世界大戦が勃発し、わたしは愛国的な詩を書いて、地元の新聞に掲載された。さらにもう一度、二年後にキッチナー将軍の死をうたった詩も載った。もう少し大きくなってからは、折にふれてジョージ王朝様式で「自然詩」を書こうとしたのだが、こちらはひどいもので、いずれも最後まで書き上げることすらなかった。短編小説を書こうとしたこともあるが、これまたおぞましい出来ばえだった。以上がこの時代にわたしが形にした、未来の傑作のすべてである。
だがこの年代は、ある意味では文学活動に浸っていたといってもよかった。まず、頼まれるままに、さほど楽しむこともなく書き飛ばした文章がある。学校の課題は別にしても、滑稽な即興詩を、いまから考えると信じられないほどの速さで書くことができたし、十四歳のときには、アリストファネスをまねて、詩劇を一週間ほどで書き上げたこともあった。校内誌――印刷されたものも、手書きのものもあった――の編集も手伝った。ご想像どおりこうした雑誌の多くは、貧相で面白半分の域を出ないものだったが、いまのわたしなら、仮に最底辺の雑誌に載せる文章であっても、あれほど気楽に書き殴ることはない。
だが、こうしたものと並行して、およそ十五年以上も、わたしはまったく種類のちがう文学的修業を重ねていた。それは、自分自身についての「物語」を、たえず紡ぎ続けることである。頭の中にだけ存在する日記ともいえよう。だが、おそらくこれは幼年期から思春期にかけて、多くの子供がしていることなのではなかろうか。
まだほんの小さなころは、自分がたとえばロビン・フッドになったように空想し、主人公の自分が胸躍る冒険に乗り出す場面を思い描いたものだった。だが、ほどなく、わたしの「物語」はナルシシストじみたお粗末な時期を脱し、自分の行動や見たものの、忠実な描写を心がけるようになる。しばらくのあいだ、こんな文章がわたしの頭を駆け回るのだ。
「彼はドアを押してその部屋に入った。モスリンのカーテンの向こうから差す一筋の黄色い陽光が、テーブルを斜めに横切っている。テーブルのインク壺のとなりには、半分口を開けたマッチ箱がある。右手をポケットにつっこんだまま、彼は窓辺に歩いた。眼下の通りでは、枯れ葉を追う三毛猫が走っている」などという具合に……。
この習慣は、二十五歳ごろまで、要するに作家として立つまでずっと続いた。的確な言葉を探さなければならなかったし、実際、うまく見つけることもできたのだが、反面、自分の意思に逆らっているような、外部の強制によって記述させられているような気もした。この「物語」には、それぞれの年齢でわたしがあこがれていた、さまざまな作家の文体の影響を受けていたにちがいないが、記憶にあるかぎりでは、描写の綿密さの質は保っていたはずである。
十六歳になったとき、わたしは突然、ただの言葉に過ぎないものが与える喜び、たとえば響きであるとか、言葉のかもしだす多様なイメージなどといったものに目ざめた。たとえば『失楽園』のこんな一節。
かくて彼は困難と闘い、辛酸をなめ
進みつづけた 極に達した困難と辛酸の中を
いまとなっては、さほどすばらしいとは思えないような箇所に、背筋がしびれるほどの興奮を覚えたのである。「彼」のつづりが‘he’でなく‘hee’となっていることまでが感動を増した。
描写の大切さについては、すでに十分認識していた。わたしが書こうとしていた本、つまり、当時のわたしが“こういう本が書きたい”と思っていた本がどんなものかはあきらかだった。自然主義的な大長編小説、悲劇的な結末をもち、細密な描写にあふれ、巧みな比喩を駆使し、響きを存分に生かした語句をふんだんにちりばめた、絢爛たる文体の作品である。そうして実際に、わたしの初めて完成した長編小説『ビルマの日々』――実際に筆を執ったのは三十歳になってからだが、腹案を抱いていたのははるかまえにさかのぼる――は、そうした傾向に沿ったものだ。
わたしがこうした自分の生い立ちをこまごまと語るのは、ひとりの作家がどのような執筆の動機を持っているか判断しようとしても、幼少期がどのようなものだったかを知らないままではむずかしいと思うからである。
作家の問題意識は、生きた時代によって決まる――すくなくとも、混乱し、至るところで革命が勃発するいまの時代にあっては、そのことがいえる――が、実際に書き始める前の段階で、感情的な枠組みというものは、ある程度までできあがっているのだ。そうしてその枠組みからは、人は決して完全には逃れることができないのである。
少なくとも自分が選んだ仕事である以上、自分の性格を律し、未熟な段階をくぐり抜け、性格的な面での偏りを改めるための努力が必要なことはいうまでもない。だが、もしかれが、幼少期に受けた影響と完全に縁を切ってしまえば、書こうとする動機そのものが死に絶えてしまう。
生活のため、ということを別にすれば、書くことには――少なくとも散文を書こうとする場合――四つの大きな動機があるように思う。個々の作家によって、その割合には差があるだろうし、同じ作家であっても年代や生活環境に応じて変わっていくだろうが、ともかく以下の四つはかならずあるはずだ。
まず第一に、単なるエゴイズムである。頭がいいと思われたい、有名になりたい、死後もなお名前を残したい、子供のころ自分をこづきまわした連中を、大人になってから見返してやりたい……といった気持である。こんなことが動機、しかも強力な動機であるはずがないというふりをしても、そんなものはインチキだ。作家も科学者や芸術家、政治家や弁護士、軍人、成功した実業家といった、言うなれば社会の上層を形成する人びと同様に、この性質を有しているのだ。
ほとんどの人びとは、ここまで激しい自己中心性を見せることはない。三十歳を過ぎるころには、ひとかどになろうという野心さえ棄て――実際には多くの場合、ひとりの人間であるという意識さえ棄てたも同然となって――もっぱら他人のために生きるようになるか、きつい労働に息も絶えだえになるかだ。
だが、ほんのひとにぎり、天分を与えられ、なおかつ頑固で、自分の命が尽きるまで、自分だけの人生を生きようと決意した人びとがいて、作家というのもこの種族の一員なのである。純文学者はおそらく金銭への関心は大衆作家には劣っても、虚栄心と自己中心性では、はるかに優っているにちがいない。
第二に、美に対する情熱である。外部に広がる世界の美しさや、反対に、的確な言葉の適切な配置が織りなす美に対する感受性。音と音のぶつかり合い、上質の散文の緊密な構成、すばらしい物語の持つリズムに出会ったときの至福の気持。自分が味わった貴重でかけがえのない体験を、ほかの人と分かち合いたいという激しい情熱。
美的な動機という面ではきわめて薄弱な作家も大勢いる一方で、専門家の手になるパンフレットや教科書の中にも、実用からではなく、心に訴える言葉やフレーズが、忘れられなくなることもある。また、活版の植字やページの余白サイズに、目を楽しませるということも。鉄道の乗り換え案内以上のものならどんな本にも、かならず美的関心のいくばくかは払われている。
第三に、歴史的衝動がある。ものごとをあるがままに見て、真実を見つけ、記録に留めて、後世に伝えたいという情熱である。
第四に、政治的目的――この「政治的」という語は、可能な限り広い意味で使いたい。世界をある方向へ変革したい、ほかの人びとが追い求めている「理想の社会」のイメージを変えていきたい、という情熱。重ねて言うが、政治的なバイアスのかかっていない見方などありえない。芸術は政治に関わるべきではないという主張自身が、ひとつの政治的態度にほかならないのだ。
このようなさまざまな衝動は、たがいにぶつかり合わずにはいられないし、人により、時代により、不可避的に移り変わっていくのもまた確かである。生来――性格というものを、大人と呼べる年代になる前に獲得した資質であるとするなら――、わたしは四番目の動機より、前の三つの動機の方が上回る人間である。平和な時代なら、きらびやかな文章を書くか、もっぱら描写に頼る作品を書き、政治的信念に目ざめることもなかったにちがいない。ところが実際は、否応なく政治問題のパンフレットを書くような類の人間になってしまったのである。
まず、五年間というもの、自分にはまったく不向きの職業(ビルマのインド帝国警察)に就き、そののち貧困と挫折を強いられた。そのために、生来の権威に対する嫌悪感はいよいよ強まり、労働階級の存在に、初めて完全に目ざめたのである。しかもビルマで働いたことによって、帝国主義の本質についても、部分的には理解できるようになっていた。だが、こうした経験だけでは、鮮明な政治的姿勢を固めるには十分ではなかったろう。そこにヒトラーが現れ、スペイン戦争を始め、さらに数多くの出来事が起こったのである。1935年が終わろうとするころになっても、まだわたしは、はっきりとした決断には至ってなかった。そのころ、自分の味わっていたジレンマを表明した短い詩を書いている。
二百年前に生まれていたら
ぼくは幸せな教区牧師になっていただろう
永遠の生命についての説教をし
クルミの木が伸びていくのを愛でていただろう
だが、なんということだ、このまがまがしい時代のせいで、
ぼくは喜ばしき天国を逃がしてしまった
牧師ならきれいに剃るはずのくちひげを
ぼくは生やしている
だが、しばらくは時代も悪くなかった
ぼくたちは他愛もないことに笑い転げ
悩みさえもかき抱いて揺すってやれば
木々のふところに抱かれてやすらかに眠った
何も知らないぼくたちは自分の喜びにかまけていたが
いまやそんなものはいつわりになってしまった
あのころはリンゴの枝に留まったヒワにも
ぼくの敵は震え上がったものだったのに
だが娘たちの体も、あんずも
木陰の流れにいる鯉も、
馬も、明けの空に飛ぶ鴨も
いまはすべてが夢だ
二度と夢見ることは許されない
ぼくたちは喜びをたたきつぶし、包み隠す
馬はクロム鋼の馬となり
チビのふとっちょがそれにまたがる
ぼくは身をよじることもない芋虫
ハーレムのない宦官
司祭と人民委員にはさまれ
ユージン・アラムのように歩いていく
(※ユージン・アラム18世紀イギリスの文献学者だが、殺人の容疑をかけられ逃亡し、十四年後捕まり、裁判の後、処刑された)
そうしてラジオが鳴るるなかで
人民委員がぼくの未来を予言する
だが司祭は車のオースティン・セブンを約束してくれた
だって賭け屋のダギーはかならず払ってくれるのだから
大理石の城に住んでいる夢を見た
目が覚めてそれがほんとうだと気がついた
こんな時代に生まれてくるはずじゃなかった
スミスはどうかな? ジョーンズは? そして君は?
スペイン戦争や1936年から37年にかけて起こったさまざまな事件は、わたしの秤は大きく一方に傾き、以降は自分の立つ位置も定まった。1936年以降にわたしが書いた本格的な作品は、どの一行を取っても、直接間接に全体主義を批判し、自分が理解するところの民主社会主義を支持している。わたしたち自身が生きているこの時代に、このような問題について書かずにすませられると考える方がどうかしている。誰もがなんらかのかたちでこのことにふれている。問題は、どちらの側につくか、どのように取り組んでいくかに過ぎない。そうして、みずからの政治的傾向について理解が深まれば深まるだけ、美的にも知的な面でも自分の信念を犠牲にすることなく、政治的に行動する機会は増えていくのだ。
過去十年間にわたってわたしが何よりも目指したのは、政治的な作品を、芸術の域に高めていくことだった。わたしの出発点は、つねにある種の政治的主義主張、不正を嗅ぎつける感覚である。一冊の本を書くために腰を下ろして、わたしは決して「芸術作品を書いてやろう」などと自分に言いきかせたりはしない。わたしが書くのは、暴いてやりたい虚偽があるからであり、社会の注意を喚起したい出来事があるからなのだ。だからこそ、わたしがまず初めに心がけるのは、話を聞いてみたい、という気持を起こさせることなのである。
だが、それが美に関わる仕事でないなら、わたしには一冊の本も、雑誌に掲載する長めの論文さえも、書くことはできないだろう。わたしの作品を丁寧に読んでもらえればわかると思うが、仮にまぎれもないプロパガンダの箇所であっても、プロの政治家の目から見れば、無用な部分がずいぶんあるにちがいない。
だがわたしには、子供のころから育んできた世界観を、振り捨ててしまうことなどできないし、またしようとも思わない。命があるかぎり、散文形式に固執することをやめないだろうし、この世界の表層を愛し、身の回りのことどもや、役に立たない情報のがらくたから、喜びを引き出し続けていくのだろう。自分のそうした側面を押さえつけようとしても、無駄なことだ。この仕事は生来の好悪の情と、この時代がわたしたちの誰もに強いる、本質的には公に属する、非個人的な活動とのあいだに折り合いをつけていくしかないものなのである。
これは簡単なことではない。作品の構成の面でも言葉の面でも問題が起こってくるし、誠実ということの問題も、異なった様相を帯びてくる。こうした難問のなかでも比較的単純な例をあげてみよう。
わたしの本で、スペイン内戦のことを扱った『カタロニア賛歌』という本がある。もちろんこれは、明確に政治的な作品ではあるのだが、ある程度の距離を保ち、形式を尊重しようとした。なかでもわたしが苦心したのは、自分の文学的直観に抵触することなく、あますところなく真実を伝えることだった。
何よりも、ひとつの長い章のなかで、フランコと共謀したとして告発されたトロツキストを擁護するために、新聞を大量に引用したのである。どう見ても、一年か二年すればこんな章は、一般読者には何の関心も引かなくなってしまうだろうから、本全体を損なう恐れは十分にあった。
尊敬するある批評家は、読後わたしに苦言を呈した。「なんであんなものを挿入したのか」と彼は言った。「すばらしい本になるところだったのに、新聞記事になってしまったじゃないか」
確かに彼の言う通りだった。だが、わたしにはこれしか方法がなかったのだ。イギリスではほとんど知られていなかったが、偶然わたしは無実の人が誤って告発されていることを知ったのだ。もしそれに対して怒りを抱かなければ、わたしが本を書くことはなかっただろうから。
この問題は、これからもさまざまなかたちでわたしに持ち上がってくるだろう。言葉に関しては、さらに微妙な問題をはらんでいるので、ここで論じる余裕はありそうにない。ただわたしに言えるのは、これまで以上に華美を排し、正確に書こうと心がけているということだけだ。いずれにせよ、わたしがどんな文章のスタイルを完成させていくにせよ、完成したときは、すでにそれを脱ぎ捨てている時期でもあるのだ。
『動物農場』は自分がやろうとしていることを、すみずみまで理解した最初の作品となった。政治的な目的と芸術的な目的の融合がそれである。それから七年間、長編小説を書いてないが、近い将来、もう一冊書きたいと思っている。失敗することになるだろう。あらゆる本は失敗なのだ。だが、わたしには自分の書きたいものは、はっきりとわかっている。
ここまで書いてきて、このページとその前を読み返してみると、あたかも自分の書こうとする動機は、ことごとく公的な意識によるもの、と受けとられかねないようにも見える。だが、結論部では、そうした印象を与えたままにしておくのはよそう。作家というものは、誰もみな虚栄心があり、利己的であり、怠惰でもある。なによりも、かれらの動機の根底は、謎が潜んでいる。
本を書くということは苦しく、疲労困憊する仕事で、いつまで経っても良くならない、ひどく痛む病気を引きずっているようなものだ。悪魔じみたものに取り憑かれでもしないかぎり、こんなことをしようという人間はいない。こいつには抵抗することもできなければ、その正体を知ることもできないのだ。この悪魔はもしかしたら、人の注意を引くために赤ん坊を泣きわめかせる本能と同じものなのかもしれない。そうであっても、その人固有のゆがみを消すための努力を続けないかぎりは、読むにたえるものは書けないというのもまた真実なのである。
良い散文というのは、枠にはまった窓ガラスのようなものだ。自分の動機のうち、どれが一番強いのかはわからない。だが、そのうちのどれを追求する価値があるかは、はっきりしている。自分の仕事を振り返ってみると、政治的な目的を欠いているときは、たいがい血の通っていない本を書くことになる。美文調だの意味を欠く文章だの、派手派手しい形容詞や、たわごとを並べる羽目になってしまうのだ。
The End
作家の意図
仮に目の前に、人とは少しちがう職業に就いている人がいるとする。ミュージシャン、作家、役者、画家、そんな派手な仕事でなくても、先生でも、ちょっと変わった店を開いている人でも、お坊さんでも、お医者さんでも、いずれにせよわたしたちにはなじみのない、外から見る以上の何かがあるのではないかと思えるような職業である。そんなとき、わたしたちは「その仕事に就こうと思った動機」を聞くのではあるまいか。
事実、その質問はインタビューの定番で、雑誌などで目にする著名人のインタビューでは、かならずといっていいほどその質問がなされている。
ところがその答えになると、あまりおもしろいものではない。たいていは「なんとなく」とか、「たまたま」とか「友だちが(親が、兄弟が)やっていたから」とか、「誰かに勧められて」などという具合だ。たとえ将来的にその職業に就きたいと思っていたとしても、必要なのはもっと実践的なアドバイスであって、なぜそれをやろうと思ったか、ではない。そんなことを知っても他人である自分には何の役にも立たない。
だが、それでも聞いてしまうのは、どうしてなのだろう。
たとえば、うまく意味がつかめなかった小説を読んだあとに、「作者は何が言いたかったんだろう」と考えてしまう。
窓ガラスを割った子供がいる。どうやらわざと割ったらしい。お母さんは「どうしてそんなことをするの?」とその動機をたずねる。
理解しがたい犯罪が起こった。犯人がつかまった。そのニュースを伝えるアナウンサーは「動機の解明が待たれます」という。
どうやら、わたしたちはよくわからない行為を目の当たりにしたとき、その意味をなんとか理解するために、「動機」を参照しようとするらしい。つまり、行為というのは、「動機」という設計図にもとづいてなされていると、ばくぜんと感じているのだ。
目の前に作家と呼ばれる人がいたら、おそらくわたしたちは「あなたはどうして作家になろうと思ったのですが」と聞くはずだ。「動機」という設計図をもとに、「意思」というエネルギーで「作家」になった人に、その設計図を見せてもらえませんか、というように。
オーウェルのこの「なぜわたしは書くのか」というエッセイは、その問いに対する答えである。だがはたしてこれは設計図なのだろうか。
『動物農場』や『一九八四年』など、鮮明な政治的主張がありながら、同時に文学としての質が高く、読んでおもしろい作品を残したオーウェルが、戦争とファシズムの二十世紀に生まれさえしなければ、「自然主義的な大長編小説、悲劇的な結末をもち、細密な描写にあふれ、巧みな比喩を駆使し、響きを存分に生かした語句をふんだんにちりばめた、絢爛たる文体の作品」を書くはずだった、と言っていることはわかった。あるいは書くことの動機の第一に、オーウェルの作品からは意外にも思えるのだが、エゴイズムをあげていることもわかった。だが、そうしたことはわかっても、どうもピンと来ない。肝心の点が明らかにされていないように思えるのだ。
オーウェルはこのエッセイを「わたしの場合、ごく幼いうちに、おそらく五歳か六歳のころには、自分が大人になったら作家になることがわかっていた。」という文章で書き起こす。なりたい、と思ったわけではなく、そうなることが「わかっていた」のだと。これではどうして作家を志すことになったのかがわからない。どうやらオーウェルにもそのことはわかっていないらしい。
だとしたら、このエッセイは設計図ではなくて何なのだろう。
わたしがおもしろいと思ったのはこの箇所だ。
「自分の行動や見たものの、忠実な描写を心がけるようにな」ったオーウェルは、さまざまな場面を前にすると、頭の中で描写のトレーニングをおこなうようになった。
Although I had to search, and did search, for the right words, I seemed to be making this descriptive effort almost against my will, under a kind of compulsion from outside.
(的確な言葉を探さなければならなかったし、実際、うまく見つけることもできたのだが、反面、自分の意思に逆らっているような、外部の強制によって記述させられているような気がした。)
テーブルの上を斜めに走る日差しを表現しようとして言葉を探す。その言葉は、自分の中にあるものではなく、自分のものでもない、一般的な辞書にも載っている言葉だ。それを選ぶのは、自分であるともいえるし、同時に自分の目に映る日差しによって、自分が選ばされているともいえる。そうして読み手はその描写を読んで、あたかも目の前にテーブルと日差しが出現したように感じる。
これは、何かを書くということの原点なのではないか。
書くという行為は、「何ものか」を表現するために、それに当てはまる的確な言葉を探すことだ。その「何ものか」は、テーブルに斜めに差す日の光でもいいし、自分がかつて飼っていた犬でもいい、愛とか絆とかいう抽象的なものでもいい。
同時に、言葉によってそれを描きだしたとたん、それまでそこになかった「何ものか」が出現させる行為でもある。読み手は、いまさっきまで目の前にはなかった日の光や、見たこともない犬や、愛を思い描くことができる。
こう考えていくと、なんだか不思議な気がする。
「何ものか」は、あらかじめあったのか。それとも書くことによって出現したのか。
もし書くことによって出現したのだとしたら、「あらかじめ」あった、と思ったのは、実は錯覚で、別の人が出現させた「何ものか」だったのではないか。まるで、二枚合わせの鏡をのぞき込むように、「あらかじめ」を出現させた小さな人が、無限に続いていく。
オーウェル自身も「この「物語」には、それぞれの年齢でわたしがあこがれていた、さまざまな作家の文体の影響を受けていたにちがいない」と言っているけれど、描写のトレーニングを始めたのも、いや、それどころか「描写」というものがあることも、さらには「テーブルに日が斜めに差すのを見る」ということも、すでに先行する誰かがそれを表現していたからだ。
そう考えていくと、作家というのは、「何ものか」を世界に新しく出現させる職業ではあるが、同時にその「何ものか」というのは、すでに過去別の作家によって世界に出現させられているものでもある、といえる。おそらく洞穴で火を囲んで話を聞かせていたことから、「何もの」かを語るということは、そういうことだったのだろう。言葉を換えれば、起源をたどることはできない。
おなじことは「動機」にも言える。「何か」をやりたいと考えて、あることを始める。けれどもその「何か」は実際のところ、やってみなければわからない。実は、「動機」などという「設計図」がその人の内側にあるのではなく、それをやっている人をまねることから始まっていったのではないか。すでにやっている人は、その前にやっている人を見て、その人はさらに前の人のを見て……。ある分野での「パイオニア」と呼ばれる人も、実際にはそれまであったもののいくつかを組み合わせたり、一部を変えたりしたのに過ぎない。つまり、「動機」の話がどうもよくわからないのは、実はそんなものは存在しないからではないのか。
なぜ作家になりたいと思ったか、という疑問に答えるためには、作家とはどんなものか知っていなければならない。だが、作家とはどんなものかは、作家になってみなければわからない。その点をオーウェルは、最初から「わかっていた」という形でクリアする。うまいやりかただ。何かをやり遂げる人というのは、みんなそうやってこの問題をクリアしていくのかもしれない。そうでなければ、どんなものかわからないから、何をしていいのかわからない、と、同じ場所をぐるぐるまわり続けるだけになってしまうのかもしれない。
このエッセイは、動機というものが設計図などではないことを教えてくれる。「なぜわたしは書くのか」というエッセイが明らかにしているのは、オーウェルの動機などではなく、彼がそのとき何を考えていたかということなのだ。
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