横光利一と生のようなレトリック
自分という一個の人間は、あるいは、そういうものかもしれないのである。
自分というものは一つもなく、人の心ばかりを持ち溜めて歩いている一個の袋かもしれない。
――横光利一『夜の靴』
1.たとえたとえても
とりあえずこの文章を見てほしい。
真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。
短編小説の冒頭なのだが、おそらくいまのわたしたちの多くはこの文章を読んでも特にこれといった感想を持たないだろう。せいぜいが、特急のことを「特別急行列車」と記述しているのがくどいかな、と思う程度で、「石のように黙殺された」という比喩も、「ソーダ水のなかを貨物船が通」ったり(荒井由実「海を見ていた午後」)、「満員電車」で隣り合う相手がついたため息に「ほんの短い停電のように 淋しさが伝染する」(中島みゆき「時刻表」)ことを知っているわたしたちから見ると、ごくありきたりの印象を受けるに留まる。
だがこの小説が発表された1924年(大正13年)当時の人は、この冒頭にぎょっとしたのである。なにしろこの一文をもって「新感覚派」という呼称が広く人々のあいだに行き渡ったのだから。
もちろんこの横光利一の短篇が「頭ならびに腹」という奇抜なタイトルを持っていたこともあるだろう。けれども、何よりも「ここに登場した特別急行列車とスピード感は、震災後の時代をみごとに象徴していて新しい」(井上謙「評伝横光利一」『新潮日本文学アルバム』)と感じられたのである。
いったいこの表現のどこに当時の人々は「新しい感覚」を感じたのだろう。そうしてまた、いまのわたしたちはこの表現に新しさを感じないのだろう。これを手がかりに、レトリックということを少し考えてみたい。
「特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。」
まずここでは特急を擬人化していることは明らかである。
「沿線の小駅は石のように黙殺された。」
「石のように」という直喩は、石ではないもの、「石のように黙りこくる」というように、ふだんは石ではない、しゃべったり動いたりするものを「石」になぞらえる表現であることから、「石のように」と言うことで、「小駅」も擬人化していることがわかる。
横光はさらに「石のように押し黙る」をひっくりかえして、「石のように黙らされた」→「石のように黙殺された」という表現を生み出している。「黙殺された」というのなら、「黙殺した」のは誰か。それは「特別急行列車」だ。「特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた」から引き続き、ここでも特急は人間のままだ。
つまり、「特急が駅を通過した」という、たったこれだけのことを言うために
・特急を擬人化し
・駅を擬人化し
・「通過」を「黙殺」という隠喩で表現し
・「石のように」という直喩を使う
と、いくつものレトリックを駆使しているのである。
にもかかわらず、わたしたちはこの表現を装飾過剰とは思わない。
たとえば「特急はあんなちっちゃい駅なんて無視するよ」という表現は、わたしたちにとってはあまりに日常的で、ここで特急が擬人化されているとも思いもしない。
「パソコンに記憶させる」「この車の走りには少しクセがある」「掃除機がやかましいなあ」「電池の寿命が切れた」……。
ものが身近になればなるほど、擬人化は意識されなくなってくる。いったい誰が「パソコンを立ち上げる」という表現に擬人化を見るだろうか。
ところでアメリカの言語哲学者クワインは、愉快な『哲学事典』のなかで、レトリックをこう定義している。
レトリック(修辞法)とはよくも悪くも言葉による説得の技術である。広告業に携わる者、法廷弁護士、政治家、ディベート・チーム(競技としての討論のチーム)などにとっては全力を集中すべきところである。…(略)…
ディベートをする人の力量は、知的好奇心の強さにあるのでも、他者からの合理的な説得に耳を貸すことにあるのでもない。そうではなく、何が起ころうとも先入観を守りぬくことのできる技術だ。それは一致点を逐一尊重しながら、不一致はすべて無視するという不埒な手管なのである。同様の技術が、その上に法律知識を重ねた法廷弁護士や高級弁護士、あるいは成功した政治家の力量ともなる。
(W.V.クワイン『哲学事典 AからZの定義集』
吉田夏彦・野崎昭弘訳 ちくま学芸文庫)
レトリックを「説得の技術」と考えるならば、この表現にびっくりした当時の人々はいったい「何に説得された」のだろうか。そうして、わたしたちはどうして説得されないのだろうか。
なかなか想像するのもむずかしいかもしれないのだけれど、あなたがこれまでに特急電車というものを見たことがない、電車というのは、都営荒川線とか、京福電車とか、小湊鉄道とか、そんなものだと思っていたと仮定してみてください。で、あるとき、のぞみが停まらない規模の新幹線の駅に、生まれて初めて立った、とする。
突然、目の前をすごい勢いで新幹線が通過する。これはいったい何なんだ! あの空気を引き裂いて通りすぎた巨大な物体は! あのスピードは! ここだって駅なのに。自分だって電車を待っているのに。
このとき、「黙殺される」というのは、駅で待っている人から見れば、レトリックでもなんでもなく、その言葉通りに実感されるのである。
「特急が全速力で通過する」というレトリック抜きの平叙文の語り手は、どこともつかない高い位置から事態を俯瞰している。それに対して駅にいるあなたから見れば、「石のように黙殺される」というのはきわめてリアルで実感のこもった表現である。なんなんだ、あれは、という実感に「沿線の小駅は石のように黙殺された。」というのは、ぴたりと当てはまる。
「特急が全速力で通過する」という表現が、だれの見方ともつかない、だれの実感にも裏打ちされない、いわゆる「客観的な事実」を語るものであるとすれば、「沿線の小駅は石のように黙殺された。」というのは、その「事実」を経験したわたしたちの見方を語るものなのである。
「石のように黙殺された」「沿線の小駅」は、駅のことを言っているだけではなく、そこで待つ人のことも指している(このような比喩を「換喩」という)。
特急電車が人のように擬人化されているのに対し、駅で待つ人は「小駅」という換喩によって、「もの」化されているのだ。
特急は、機械文明の主役として登場する。人間は、「満員」という一語に押しこめられ、さらに「駅」という換喩であらわされ、従来、人間がつくはずだった主人公から転落し、「もの」のように扱われる。それが新しい世界なのだ、と。人々が説得されたのは、自分の内に生まれたわけのわからない「感じ」をぴたりと言い当てる表現であったし、その表現の内にある新しい世界観だったのだ。
機械とあたりまえのように共存して暮らすいまのわたしたちは、ときに言うことをきかないパソコンに腹を立て、ときにいきなり固まってしまうパソコンに脅かされ、なんとかなだめようとする。だが、こうした自分の意識の持ち方に擬人化が入りこんできていることに気がつかない。
わたしたちがこの横光の文章に何の新しさも感じないのは、「石のように押し黙る」などの表現が一般的になって、もはや新鮮さを感じることがなくなった、というだけではなく、「新しい文明社会では機械が人間に換わって主人公となる」という世界観を、古くさいものと受けとめてしまうからなのである。
つまり、横光のレトリックによって、「新しい時代」の到来を理解した人々は、そこから機械と人間の新しい関係のありようを知った。ところが、そのレトリックを置き去りにして、わたしたちの見方はさらに変わっていく。そうなると古いレトリックは用済み、何の目新しさを感じることもない。
レトリックが人を説得できるのは、クワイン先生には申し訳ないけれど、それが技術だからではなく、新しい見方をわたしたちに提示してくれるからである、と言えそうだ。
もう少し、横光の作品を見ながら、この技術ではないレトリックについて考えてみよう。
2.たとえ話の効用
尼ヶ崎彬の『ことばと身体』の冒頭に、こんなエピソードが出てくる。
アインシュタインがあるとき、あるご婦人に、相対性理論とはどんなものか、と説明を求められた。すると、アインシュタインはこう答えたという。
「昔、暑い日に目の見えない友人と田舎道を散歩していた時のことです。私がミルクを飲みたいと言いますと、友人はこうききました。
『〈ミルク〉とは何だい』
『白い液体だよ』
『液体は知ってるが、〈白い〉とは何だい』
『白鳥の羽の色だよ』
『羽は知ってるが、〈白鳥〉とは何だい』
『首の曲がってる鳥だよ』
『首は知ってるが、〈曲がってる〉とは何だい』
私は我慢ができなくなり、彼の腕を掴むと、ぐいと伸ばして『これが〈真直ぐ〉』、次に肘を曲げさせて『これが〈曲がってる〉ということだ』と言ってやると、彼は言いました。『ああ、〈ミルク〉とは何かやっとわかったよ』」
(尼ヶ崎彬『ことばと身体』勁草書房)
「たとえ」というのは、わたしたちにも馴染み深いものだ。とくに、相手が知らないことを説明するときには、「Aさんみたいな体型」であるとか、「ピンク・フロイドをもう少し軽くて明るめにしたような音」であるとかとのように、大活躍する。相手がそれを知らないときは、身長や体重などの数値よりも「〜みたい」となぞらえた方がはるかにわかりやすいし、音や印象、雰囲気といった数値化しにくいものも伝えやすい。
それだけではない。「たとえ話」というのは、お説教のときに大活躍する。
わたしがいまでもよく覚えているたとえ話というと、お小言の「お説教」ではなく、聖書の話だった。幼稚園や小学校で聞いた放蕩息子の話や善きサマリヤ人の話、からし種やパン種の話、一匹の迷い子の羊の話を、ほかの昔話と同じように聞きながら、そのどれもに教訓がこめられていることを理解するようになっていった。
先にあげたエピソードでアインシュタインがたとえ話を使って示したのは、「どう説明してもわからないことがある」ということである。そうして、その婦人にもそのことは伝わったのだ。
アインシュタインの話を聞いた婦人は、いったいどうしてそのたとえ話で、あなたに相対性理論は理解できませんよ、とアインシュタインが言っていることがわかったのだろう。
あるいは、どうしてわたしたちは宗教の時間にシスターが話してくれた「九十九匹の羊を野原に置きっぱなしにして、いなくなった一匹を探しに行った羊飼いの話」は、「現実にはいそうにもない、すっとぼけた羊飼いの話」ではなく「イエズス様の愛」の話だと理解したのだろう。
『ことばと身体』では先の引用に続いて、このように書かれている。
何事かを「わからせたい」時に定義や論証よりも譬えを用いるのは私たちの常套手段であり、それで「わかった気になり」、それで事をすませてしまうのは私たちの常ではないだろうか。「だから正確な理解を得るためには、法廷文書のような正確な語り方が必要なのだ」と言うかもしれない。だが法廷用の文章が〈わかり難い文〉の代表の如く扱われていることも、また一般の事実である。ここで私たちは「正確にわかる」事と「わかった気になる」事を区別しなければならない。法廷の議論を「正確にわかる」ことは「推論を辿れる」ということであり、「わかった気になる」ことは「直観的に把握する」ことである。把握されるものは概念の論理関係ではなく、関係の型であり、図式である。そして私たちがふだんある事柄が「わかる」という時に考えているものは、どちらかと言えば「わかった気になる」方ではあるまいか。言い換えれば「気」で分かることであり、別の日本語を借りれば「腑に落ちる」「腹に入る」などと言われるものである。その上、時によっては推論を辿って理解する方は「頭でわかる」とも言われ、「腹」でわかる方に較べるといささか浅薄なものとみなされたりする。
これをさらに荒っぽくまとめてしまえば、どうやらわたしたちは「知らないものA」を、「知っているものBのようなもの」と理解したとき、「わかった」と思うらしい。つまり、たとえ話はわたしたちに直接には関係のない話を通して「知らないものA」は「知っているものB」のようなものですよ、と、わたしたちに見つけさせる、という働きがあるようだ。
さて、こうしたたとえ話を別の言い方をすれば「アレゴリー」ということになるだろう。
アレゴリーで有名な文学作品といえば、ジョージ・オーウェルの『動物農場』が有名だろう。人間を追い出して、動物たちの理想の共同体となるはずだった農場は、すぐに豚による支配が始まる。さらに、ナポレオンという豚が独裁者となって、対立者スノーボールを追い出し、最後にはほかの動物たちを閉めだしたところで、ナポレオンは人間と談合を始めるが、外の動物からはもはや人間と豚の区別がつかなくなっていた、というこの物語は、文字どおりの動物たちの話と読んだだけでは、ほとんど「わかった」ことにはならない。
この話はレーニン没後、ソ連がスターリン独裁に転じていくこと、さらに、自由を求めて圧政者を打ち倒しても、そこにあるのは自由平等の社会ではなく、全体主義国家である、ということを理解しなければならない物語なのである。
さらに、ナポレオンという豚になぞらえられているのがスターリン、スノーボールになぞらえられているのがトロツキー、のんだくれの農場主ジョーンズになぞらえられているのがロシア皇帝ニコライ2世であることを理解することで、スターリン主義というものを、どんな学術書よりもはっきりと、より強烈なかたちで表現しているのだ。
だが、この『動物農場』は、なぞらえられているものを理解し、作者の主張「たとえ理想を求めて新しい国家を築いたとしても、そこは新たな独裁主義にほかならない」ということを理解してしまうと、もはやそれ以上の興味はなくなってしまう。なぞらえられているものを探し、すみずみまでよくできている、と納得したあとは、繰りかえし読む必要がなくなってしまう作品なのである。事実、小説は数多くあるけれど、ここまで寓意のはっきりしたアレゴリーは多くはない。逆に、それ以外の読み方を許さないところが、作品の足かせになってくるのだ。
だが、考えてみれば、わたしたちはつねに小説を読みながら、その向こうにちがうものを読み取ろうとしているのではないか。それが証拠に、わたしたちはいつも、この話はいったいどういうことなんだろう、作者はこれを通して何が言いたかったんだろう、と考えてしまう。つまり、「なぞらえられているもの」を探してしまい、その寓意を求めてしまうのである。それがはっきりしないとき、わたしたちはその小説が「よくわからない」と思ってしまう。
寓話ではない小説、というのは、ただそれだけの物語なのだろうか。言い換えれば、それを読むわたしたちとは何の関係もないものなのだろうか。横光利一の短篇「機械」を読みながら、そのことを考えてみよう。
横光利一の『機械』について、小林秀雄は「好まぬながら、大変危険な分析を行おう」として、このように解いていく。
主人は世人の所謂お人好し、軽部は常識人、屋敷は理論家、この三つの傀儡は、各々極端な典型として作者にあやつられる。だが作者は「私」を決してあやつり切ってはいない、そんな余裕は、恐らくこの作の制作過程にはないのだ。武器として主人は底抜けの善良をもち、軽部は暴力をもち、屋敷は理論をもつ、これらの武器を「私」は観察しつついじめられ、如何なる反抗も示すまいと覚悟した人物だ。無抵抗が唯一の積極的な反抗であると覚悟した人物だ。
(小林秀雄『様々なる意匠』新潮社)
さて、クワインに続いて小林秀雄大先生にもイチャモンをつけたい。それはちょっと、ランボーではないですか?
もちろん、工場主の細君は重要ではないのか、ということもあるのだが、もしかしたら、小林秀雄にとっては、重要ではなかったのかもしれないので、それはさておいて。果たして登場人物を一語でくくることができるのだろうか、と思うのである。
この作品を読んですぐに感じるのは、車酔いにも似た感覚だ。主人公の目に映る世界が、刻々と変化し続け、片時も同じ姿を留めないからなのである。
「中心」ということひとつとってもそうだ。ひょんなことから町工場に入りこんだ主人公は、「初めの間は私は主人が狂人ではないのかとときどき思っ」て、「自然に細君がこの家の中心になって来ているのだ」と理解する。
だが、新参者の主人公が「いやな仕事」を押しつけられることで「いやな仕事、それは全くいやな仕事でしかもそのいやな部分を誰か一人がいつもしていなければ家全体の生活が廻らぬという中心的な部分に私がいるので実は家の中心が細君にはなく私にあるのだがそんなことをいったっていやな仕事をする奴は使い道のない奴だからこそだとばかり思っている人間の集りだから黙っているより仕方がないと思っていた。」というように、中心は主人公に移っていく。
ところがさらに、行く先々でお金を落とし、人に惜しみなく金を分け与える仙人のような主人こそが「中心は矢張り細君にもなく私や軽部にもない自ら主人にあるといわねばならなくなって」くるのだが、その主人が赤色プレートの特許の相談を主人公に持ちかけることによって「家にいても家の中の動きや物品が尽く私の整理を待たねばならぬかのように映り出して来」る。
やがてこの「家の中心」そのものが話の中心からずれ、「赤色プレート製法」に移っていき、細君も主人も後景化して、もっぱら主人公、軽部、屋敷のやりとりが中心となっていく。
いよいよ話が錯綜してくるのは、この三人の関係になってからである。誰が誰を疑っているのか、誰が誰を信用しているのか、誰が誰をねらっているのか、主人公自身にもわかっていないし、しかもこの主人公、はなはだ信用できない語り手なのである。
そういうことを記述するのはこんな文体である。
私はいかに主人がお人好しだからといってそんな重大なことを他人に洩して良いものであろうかどうかと思いながらも、全く私が根から信用されたこのことに対しては感謝をせずにはおれないのだ。いったい人というものは信用されてしまったらもうこちらの負けで、だから主人はいつでも周囲の者に勝ち続けているのであろうと一度は思ってみても、そう主人のように底抜けな馬鹿さにはなかなかなれるものではなく、そこがつまりは主人の豪いという理由になるのであろうと思って私も主人の研究の手助けなら出来るだけのことはさせて貰いたいと心底から礼を述べたのだが、人に心底から礼を述べさせるということを一度でもしてみたいと思うようになったのもそのときからだ。
ためしにこの部分を一度整理してみよう。
1.主人はお人好しである
2.主人は重大なことを他人に洩らす
3.そんなことをして良いのだろうか
4.主人は私を信用している
5.私は信用されていることを感謝せずにはいられない
6.人というものは信用されたら負けである
7.だから主人は周囲に勝ち続けている
8.だが私は主人のような底抜けの馬鹿になることができない
9.だから主人はえらい
10.だから私は信用してくれる主人に心底から礼を言った
11.私は心底から礼を言われるような人間になりたいとこのときから思った
と、これだけのことがふたつの文章に盛り込んである。主語は「私」から主人へ、主人から一般論へ、それからまた「私」へとぐるぐると動き、そのたびごとに私の見方も二転三転する。
この、いくつもの命題をふたつの文章に押しこめるレトリックは、漸層法と呼んでよいものだろう。佐藤信夫の『レトリック感覚』を見ると、漸層法の説明のページでは、尾崎行雄の《追次進歩》という訳語による説明をあげている。
追次進歩とは、矢張り前の〔算列(※列挙法)の〕如く算(かぞ)へ立つる事なれども、段を追うて歩を進め、歩を進むるに従ふて益(ますます)勢力を加へて論陳するを云ふ(※原文カタカナ表記を読みやすさを考えてひらがな表記にしてあります)
(尾崎行雄訳『公会演説法』
佐藤信夫『レトリック感覚』講談社学術文庫)
つまり、列挙法が「魚屋、八百屋、鍋釜、桶、ざる、箒木の荒物屋から、らしゃの合羽、鍔広帽子、縫い取りの手巾、ねり玉の頸飾り」(野上弥生子『秀吉と利休』)というように、羅列していくレトリックであるのにたいし、「あんまりやさしくするてえと、当人が図にのぼせちゃう。といって、小言をいやあ、ふくれちゃうし、なぐりゃ泣くし、殺しゃ化けて出る。どうも困るそうですなあ、女というものは……」(落語「お直し」志ん生 引用は『レトリック感覚』から)というように、クライマックスに向かって階段を一段一段上っていくのが漸層法なのである。
ところがこの横光の場合は、作品全体が漸層法ともいえるのだが、どこにもいきつかない。前の命題を受けてつぎの命題が生まれ、またそこからつぎが……となっていくのだが、どこかに着くだろうと螺旋階段をぐるぐる上っていって、どこにもいかない。いかないまま、その階段は終わって、そこから別の螺旋階段がまた続いていくのである。
「私」の見方は、他の登場人物の行動の原因になる。そこで生まれた行動は、「私」に新しい見方を提示する。それが「私」の行動の原因になり、さらにつぎの行動を引き起こす。
わたしたちはこの作品を読み、筋を追いながら、何とか「私」がだれか、理解しようとする。どんな人間なのか、何がしたいのか、主人が好きなのか、軽蔑しているのか、尊敬しているのか。スパイなのか、軽部を出し抜こうとしているのか、軽部を軽蔑しているのか、怖れているのか。「そうではないか」と思ったとたん、つぎの文章で裏切られる。
だから、小林の言うように「主人は世人の所謂お人好し、軽部は常識人、屋敷は理論家」と仮の目安をつけてみたところで、あまり意味がないのではないかと思うのである。
わたしたちは小林のように、主人公はいったい何をあらわしているのだろう(何の隠喩となっているのだろう)とか、ここに出てくる町工場は、人間社会の縮図だろう、とか、この歯車のような関係は、わたしたちの心理と他者との関係だろう、とかと、物語の寓意を読み取ろうとする。読み取った、と思ったのもつかのま、ほんとうにそうなのだろうか、と疑問が生じる。この「赤色プレート製法」というのは? クロム液は何を意味している? 意味は決して確定しない。
『動物農場』がスターリン政権下のソ連の寓話としか読めず、ここではスターリンはナポレオンという豚として描かれ、より強烈なイメージとなり、わたしたちはこの作品を読むことで、はっきりとスターリンの愚かしさをわかったように思う。
『機械』は何らかの寓話であるような気がする。だが、その向こうにある現実がわからない。同時に、この物語のなかの世界もわからない。二重にわからなくなってくるのである。
だが、これこそがわたしたちの世界のありようではないのか。
自分の行動の理由も、ほんとうは自分でさえ特定しがたい。振り返って、自分の意識に切れ目を入れようとしても、それがいったいどこから始まったかわからない。その行動にどういう意味があるか、振り返って行動と意味を「いま」に結びつけようとする端から、様々なことが起こり、あるいは自分の気持ちも揺れ動き、ほどけていく。
従来から「心理小説」と評価されてきたこの作品を、伊藤整は弁証法であると定義した。
横光が「機械」で使った描写法に対して、私は弁証法的な書き方という名をつけても不当ではない、と考えている。ひとつの存在、それに対立して現れる別の存在、その二つの間に生まれる力の関係のバランス、さらに別な存在や事件が加わることで、バランスの実体が変わっていく。すなわち人格を中心とする永続的実在の否定である。そしてこの点において「機械」という現象は心理主義的であるよりも弁証法的であり、または心理主義であることにおいて弁証法的である。人間関係の実在は道徳と人格を押しつぶすというこの考え方は、極めてニヒリスティックである。この作品における認識は、まさに当代の日本の社会の人間の実体に肉薄したものであった。そしてなんらかの新しい道徳を設定しない限りこの認識の不安は耐えがたいものなのである。
(伊藤整『作家論』筑摩書房)
この弁証法的という指摘は、見方を決してひとつに確定させない、という意味で、なかなか魅力的なのだけれど、やっぱりわたしはここでもイチャモンをつけてしまうのである。
弁証法という言葉には、より高次なものへと向かう、という意味が生まれてきてしまうように思う。「人間関係の実在は道徳と人格を押しつぶす」と伊藤は言うのだけれど、この「機械」が登場する前の時代にあっては、人々は道徳的に、人格も押しつぶされないで、生き生きとしていたのだろうか。あるいは、「なんらかの新しい道徳」が設定されれば、わたしたちのこの歯車のように入れ替わり、移り変わる役割も、人格も、行動の意味も、定まってくるのだろうか。
そうではないと思うのである。どんな状況であろうと、わたしたちは、歯車、互いが互いの歯とかみ合って、永遠にまわりつづける歯車としてしか、他者と関係を持てないのではあるまいか。わたしの言葉が相手を動かし、相手の行動はさらにほかの状況を動かし、それがまたわたしに影響を及ぼす。決して停まることなく、いったい何が原因なのかもわからず、そこから何が生まれるかもわからず。この機械の歯車こそがわたしたちのありようではないのか。
いまのわたしたちから見るならば。
これすらも、確定しがたいのだが。
結局、あらゆる文学というのは、意味を決して特定できない、さまざまに考えられる寓意を内包する寓話なのだ。そうして、「機械」という短編小説は、いや、あらゆる作品は、そのことを教えてくれているのではあるまいか。
それが証拠に、わたしたちは作品を読んで、「これまで知らなかったものA」は「これまで知っていたものB」だったのだ、と見つけたとき、「ああ、この話がわかった」と思う。そうして、さらにそこから自分の生活に重ね合わせる。ああ、あれはこういうことだったのだ。いままで気がつかなかったけれど、あのとき、自分はこう考えていたのだ、と思う。
眼にしているのは、単なる文字の羅列なのに。その向こうに、人間の生のありようを見たように思う。
3.生(ヴィ)のようなレトリック
昔、『草枕』の「青磁のなかから今生まれた様な青い羊羹」は、「黒い小豆の羊羹か抹茶羊羹のどちらか」と聞く人がいて、「青い羊羹」と言っているから青いのだ(ただしこのときの「青」は、日本語古来の「青」、いまでいう緑に相当する色である)、「青磁のなかから今生まれた様な」というのは羊羹を修飾する比喩だ、と指摘したら、この表現は比喩なんてそんなちっぽけなものではない、と別の人から言われたことがある。
「子供より親が大事、と思いたい」(「桜桃」)とか
「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」(「葉」)とか、
印象的な表現をいくつも残し、レトリックの名手でもあった太宰治は
「比喩というものは、こうこうこうだから似ているじゃねえか、そっくりじゃねえか、笑わせやがる、そうして大笑い。それだけのものなのである。」(「豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説」)と言っている。
ただ、さすが太宰、この文章は比喩と象徴を対比させ、返す刀で「武士的な文豪」(これは誰だろう? やっぱり志賀直哉なんだろうか?)と亀井勝一郎をなで切りにし、豊島與志雄に甘えてみせる、なかなかレトリカルな文章なのである。
そうはいっても、比喩、あるいはレトリックは、文章の飾り、あるいは説得の技術、という見方のほうが、未だに支配的なのかもしれない。
佐藤信夫の『レトリック感覚』には、こんな指摘がある。
レトリックをたんなる装飾的包装としか見ない安直な言語観が支配的であった時代に、ほとんど孤軍奮闘に近いありさまで、一貫してレトリックの再検討をとなえていた心理学者波多野完治は、昭和八年にあるレトリック論のなかで次のように主張していた。
「ある言ひまはしを考へるとは、ある考へ方を考へる事である。ある比喩を見出すとは、従来見出されなかつた二つの事情の間に感情上の一致を見出すことであり、これによつて社会的な考へ方に一つの新しい見方を導入することを意味する。修飾は単なる技巧ではない。(……)いくつもある言ひまはしのうちの一つを採る、といふのは、いくつもある考へ方のうちの一つを採るといふ事を意味する。文章修飾の創造は新しい考へ方の創造である」(「国語文章論」前篇の三)
これは、わが国のレトリック観の流れのなかで、きわめてまれな、正確な意見であった。
(佐藤信夫『レトリック感覚』)
「我々の生(ヴイ)のやうな花火の事を。」(芥川龍之介「舞踏会」)という直喩は、確かに鹿鳴館のバルコニーから眺める花火にふさわしく、ずいぶんしゃれた言いまわしである。だが、それだけではないのだ。
「生(ヴイ)のやうな花火」という表現にふれたわたしたちは、「我々の生」を「花火」になぞらえることによって、「我々の生」のはかなさを、それゆえの美しさを手にする。「生のやうな花火」を読み、暗い夜空にぱっと広がる花火の情景がどこかに浮かび、そのイメージにわたしたちの生と、そうしてそののちの虚空の暗闇、死に思いいたるのである。ひとつのレトリックを知ることは、ひとつのものの見方、言葉を換えれば世界観を知ることなのである。。
「頭ならびに腹」で「沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」という並はずれたレトリックを披露することで新しい機械文明を当時の人々に垣間見せた横光は、やがて『機械』というまわりつづける歯車を思わせる文体で、人間がそれぞれに関係し合うさまを浮かびあがらせた。やがて彼は、晩年の前年、昭和21年に、その最後のまとまった作品となる「夜の靴」という作品を発表する。
この作品は、戦争末期の昭和二十年六月、先に夫人の郷里である山形県鶴岡市に疎開していた家族を追って、自身も鶴岡に移った横光が、そこで終戦を迎えた八月十五日から四ヶ月後の十二月十五日、そこを引き上げるまでの四ヶ月間の日記という体裁をとっている。
冒頭、敗戦の知らせが、「駈けて来る足駄の音が庭石に躓いて一度よろけた。」という足音の主によって運ばれてくる。
私はどうと倒れたように片手を畳につき、庭の斜面を見ていた。なだれ下った夏菊の懸崖が焔の色で燃えている。その背後の山が無言のどよめきを上げ、今にも崩れかかって来そうな西日の底で、幾つもの火の丸が狂めき返っている。
ここには空襲で燃えさかる炎の色が夏菊に重ね合わされ、さらに日の丸が重ね合わされ、崩れ落ちそうな自分がさらに重ねあわせられている。燃える焔の色は空襲で焼かれる家々の様子でもある。
だが、たとえ敗戦という経験を日本がしたとしても、そこからも人の生活は続いていく。東北の小さな村で横光の日々も、ささやかな出来事を重ねながら、淡々と続く。季節は夏から秋へ、そうして冬へ。ノミに悩まされたり、乏しい食生活を余儀なくされたり、村随一の金持ちでありながら、村人からは距離を置かれている久左衛門が毎日のように話しにくるのを迷惑に思ったり、来なくなれば寂しく感じたり。電燈もない夜はひたすら暗い。
村人ではない「私」は、誰とも距離を保ったまま、短期滞在者として、観察者に徹する。だが、ともに過ごす日々は、その観察者にもこんなことを思わせるのだ。
足をばたつかせて清江にいう参右衛門も、ここの炉端で一人児として生れ、旅をして、またもとの生れた炉端で前後不覚に謡っている。暴れようと投げようと、人の知ったことではない。どう藻掻こうと鍋炭のかなしさは取れぬのだ。外では雪が降っている。
主人公一家は、この参右衛門の家の一室に寄宿している。かつては村の中でも分限者だった参右衛門の家は、当主が呑み潰してしまった。村を離れて一旗揚げようとしたこともある。それもうまくいかないまま、参右衛門は村の底辺で生きることを余儀なくされる。「どう藻掻こうと鍋炭のかなしさは取れぬのだ」は、鍋の底にたまった炭になぞらえられた参右衛門のこれまでの(そうしておそらくはこれからも続く)日々の「かなしさ」であり、同時に、見ている「私」の感じる「かなしさ」でもある。参右衛門が鍋炭になぞらえられているのは、「頭ならびに腹」の冒頭と同じだが、ここには人の目を驚かすようなレトリックはどこにもない。
いよいよこの村を去ることになる前日、「私」は農業改革を押し進めようとする若手の農民の会合に出席するために、村の釈迦堂に出かける。
集りは本堂の北端にある和尚の書院だ。清潔な趣味に禅宗の和尚の人柄が匂い出ていて抹香臭なく、紫檀の棚の光沢が畳の条目と正しく調和している。正面の床間の一端に、学生服の美しい鋭敏な青年の写真が懸けてある。私はそれを振り仰いで伊藤博文に似た貌の和尚に訊ねると、長男で電信員として台湾へ出征中、死亡の疑い濃くなって来ているとの事である。すでに私は大きな悲劇の座敷の中央にいつの間にか坐っていたのだ。
「しかし、台湾なら、まだ……」
と、私が云いかけると、
「いや、途中の船でやられたらしいのです。調べて貰いましたがね、もう駄目なようでした。」
朝からの若やいだ私の気持ちが急にぺたんと折れ崩れて坐った。背面の山のなだれが背に冷え込むのを覚え、襲って来ている若い時代が傷つき仆れた荒涼とした原野の若木に見えて来た。今さらここで何の批評の口を切ろうとするのだろう。私はもう昨日の深夜、雪を掘り起した底かち格調ある歌を聞いてしまっている。あれが時を忘れた深夜の清江の祈りではなかったか。
人々は集まり、悲しみの中にいるはずの和尚も、暢気な笑い声を立てている。人々もそれを知っていながら、それについてはことさらにふれることもなく、語らっている。やがてその集まりが、「私を慰めてやろうという好意ある会合」であることがわかった。
私一人は今夜の客であったから、皆より一人さきに座を立って帰った。太い杉の参道はまったくの無灯で長かった。柄の折れた洋傘を杖に、寸余も見えない石畳を探り探り降りて行く私の靴音だけが頼りだった。谷間の雪が幹の切れ目からときどき白く見えていた。
木人夜穿靴去
石女暁冠帽帰
こつこつ鳴る靴音から指月禅師のそんな詩句が泥んで来る。夜の靴というこの詩の題も、木石になった人間の孤独な音の美しさを漂わせていて私は好きであった。石畳が村道に変ってからも灯はどこにも見えなかった。雪明りで道は幾らか朧(おぼろ)ろになったが、踏み砕ける雪の下から水が足首まで滲み上り、ごぼごぼ鳴った。
この副題にもとられている漢詩は、指月禅師という人のもの。全文も何も知らないのだが「木人(ぼくじん)夜、靴をはいて去る、石女(せきじょ)、暁に帽子をかぶりて帰る」という詩は、横光のこの文章から判断すると、木石になった人間、すなわちもはやこの世のものでなくなった人々が、つかのま、生きている人々を訪れ、そしてまた夜半のうちに、あるいは夜明け前に、もとの場所に戻っていく、ということなのだろうか。
暗いなか、自分の足音を聞きながら歩く。それは別の世界へ帰っていく人々の足音でもある。同時にまた、まもなくその地を離れる自分の、そうして、いずれこの世を離れる自分の足音でもある。
夜の靴音には、暗い中を自分の足音をたよりに歩いてゆく人のイメージが与えられ、そこからさらに、いくつもの生が重ね合わせられる。そうしてそれはわたしたち自身の生にもつながっていく。歩いていく人々の換喩である靴音にひかれて、どこまでもイメージは深くなっていく。
わたしたちは現実を言葉によってとらえ、言葉として内面化していく。言葉がなければ、現実を「それ」として認識することもできない。
言葉として表現された世界を読むことは、世界を知ることでもある。さらに、比喩によって、わたしたちはすでに知っていることと、知らないことを重ねあわせることができるようになる。知っていることと、知らないことの間に橋がかかり、その橋は新しい世界を教えてくれる。
いわゆる名文句として取り上げられるのは、ちょっと特別な表現でもある。横光利一は奇抜な表現を意識的に追求することから始まって、最後はごく穏やかな比喩に落ちついていった。そこには抽象から具体への移行がある。機械文明から関係し合う人間へ、そうして、人々の日々の生活へ。その抽象から具体への移行が、レトリックにも現れている。
明るい昼、轟音とともに駆け抜ける特別急行列車は、夜の靴音を響かせながら歩いていった。